和彦は、外出できなくなっていた。
かつて和彦は、自分が今いる世界が怖かった。普通の医者として生活していた表の世
界から切り離されて放り込まれた、ヤクザに囲まれた世界だ。賢吾も怖いし、その他の、自分を取り巻く男たちも得体が知れず怖かった。
それが今では、怖かったはずの世界から引きずり出され、自分を大事にしてくれる男たちから引き離されることを、怖いと思っ
ている。恐れている。
和彦をこんなことを考えるまで追い詰めたのは、兄の――佐伯英俊(ひでとし)の姿を見てしまった
からだ。
自らの意思で遠ざけ、忌み嫌っている世界が、今の世界を脅かそうとしている。
何もする気が起きず、ベッ
ドに横になって、吐き気がしそうなほどの憂鬱な気分と厭世感に苛まれる。寝返りを打った和彦は、震えを帯びた息を吐き出した。
いろんなことを考えすぎて、頭の芯が熱をもって疼いているようだ。
実はもう二日、まともに眠っていない。眠りたくても
眠れない、というのが正確なところだ。そしてその間、誰とも会っておらず、電話にも出ていない。
体調を崩したという言
葉だけを三田村に伝えて、ひたすら外出を控えていた。
精神的に不安定になった和彦の扱いを、長嶺組の男たちは心得てい
る。今はまだ、何も聞かずに見守ってくれているが、近いうちになんらかの行動を起こすはずだ。和彦が衰弱することを、あの男
たちは許さない。
夢は見たくないが、そろそろ安定剤を飲むべきだろう。和彦は、隣の部屋から物音が聞こえなくなったの
を確認してから、緩慢に体を起こす。
ダイニングに行くと、テーブルの上には昼食が用意されていた。和彦が寝室にこもっ
ていようが、決まった時間に組員がやってきて、食事の準備だけでなく、掃除までやってくれるのだ。
ただ、和彦の今の状
態は、眠れないだけでなく、食事も喉を通らなくなっている。
イスに腰掛けようとしたが、自分が寝室から出てきた目的を
思い出した和彦は、冷蔵庫を開ける。中には、オレンジジュースがしっかりと補充されていた。
たったそれだけのことだが、
今の生活で自分は大切にされているのだと、肌で感じる。たとえ、長嶺組の専属医という利用価値のためだとしても、周囲の男た
ちは優しい。
佐伯家の人間たちより――。
和彦はふっと息を吐き出して冷蔵庫を閉めると、安定剤ではなく、携帯電
話を取り上げる。ある人物に電話をかけた。
この二日間、ただ憂鬱な気分に苛まれながら、眠れない時間を過ごしていたわ
けではない。頭の片隅では、あることをずっと考え続けていた。
ちょうど昼休みをとっていたところらしく、相手はすぐに
電話に出た。
「今、いいか? ――澤村」
返事より先に聞こえてきたのは、深いため息だった。
『もっと早くにか
かってくるかと思った』
澤村のその言葉で、やはり、と和彦は思った。一瞬、頭に血が上ったが、英俊の顔が脳裏を過った
途端、冷静になれた。
「……いつから、ぼくの家族と繋がってたんだ……」
『ひどい言い方だな。いや、俺に対する物言
いというんじゃなくて、お前の家族なんだから――』
「澤村、頼む。端的に答えてくれ。ぼくはまだ、動揺しているんだ。お
前に対して怒鳴るマネはしたくない」
和彦が懸命に感情を押し殺しているのを感じ取ったのか、澤村はもう一度ため息をつ
いてから話し始めた。
『先々月の末だったかな、突然クリニックに、お前のお兄さんから電話がかかってきたんだ。……お前
がトラブってクリニックを辞めたことは知っていた。それに、お前と仲がよかったのが俺だとも。だから連絡してきたと言ってい
た。多分、先に事務局でいろいろ聞いたんだろ』
「それで、兄はなんと言っていた」
『弟がいつの間にか引っ越して、連
絡が取れなくなったから、何か知らないかと。俺は、ずっとお前のことが心配だった。……あの写真は、只事じゃない。明らかに
お前は、ヤバイことに巻き込まれていた。クリニックを辞めてからは、生活がまったく見えてこない。どこに住んでいるのか、ど
こで働いているのか。気軽に外出もできないように感じた。違和感を覚えていたんだ。俺に会うときだけ、お前は俺たちがいる世
界に姿を現しているような、そんな感じだ』
和彦は澤村に対して、見誤っていることがあった。和彦が考えている以上に、
澤村は真剣に和彦の身を案じてくれていたのだ。
たまに連絡を取り、食事をして、他愛ない会話を交わしながらも、今の生
活についてはぐらかす。そうすることで、すべて丸く収まっていると思っていたのは、和彦だけだった。
『警察に相談しよう
と、何度も思ったんだ。だけどそのたびに、お前が本当に望むのかと思って、踏み止まった。そうやって迷っているうちに、お前
のお兄さんから連絡がきて、正直、ほっとした。やっと相談できる人が現れたんだ』
「それで、ぼくと連絡を取ったり、会っ
ていることを話したのか」
『……ああ。お兄さん、喜んでいた。無事なことがわかって安心したと』
「あの人は、そんな
人間じゃない」
自分でも驚くほど、冷ややかな声が出ていた。電話の向こうで澤村が驚いている気配が伝わってくる。
「家族仲がよくないんだ。佐伯の家では、ぼくは異物だ」
『そうは言っても、医大にも行かせてもらって、心配してくれる家
族もいるだろ。お兄さんが言ってたぞ。末っ子を自由にさせすぎたと』
吐き気がするほどドロドロしている佐伯家の内情を、
あえて澤村に言う気にはなれなかった。和彦は、自分が示す拒否感に同意してほしいわけではない。
「――……兄さんは、お
前に何を頼んだ」
『ひとまず、いつも通りにお前と会ってくれと言われた。待ち合わせをして、一緒にメシを食って……、そ
うしてくれればいいと。この間、ホテルで中華料理を食ったとき、あの店にお兄さんの知り合いを待機させたらしい。お前の映像
を撮って、元気な姿を両親にも見せたかったそうだ』
和彦は、澤村と会って食事をしているとき、妙な気配を感じたことを
思い出す。あのとき自分の姿は、しっかりと撮られていたのだ。
『さすがに、お兄さんのことをお前に黙ったまま別れるのも
気が引けて、追いかけたんだ。そうしたら、お前は……長嶺くんと一緒にいて、言いそびれた』
ハンカチを買いに来たとい
う澤村の言い訳は無理があったと、和彦は口元に苦笑を浮かべる。
「クリスマスツリーの画像を送ってきたのは、ぼくを誘き
出すためだろ」
『お兄さんに、もう一度お前と会ってくれと言われたが、それは無理だと断ったんだ。間を置かずに会いたい
と言ったら、お前は絶対警戒するだろ?』
「……ああ」
澤村は、ある部分では和彦をよく知っていたのだ。だから、ク
リスマスツリーの画像とともに、他愛ない内容のメールを送ってきた。
『佐伯がクリスマスツリーを見に来るなら、運がよけ
れば会えるかもしれないと、お兄さんには言っておいた。お前、あの場所を気に入ってただろ?』
「気に入っているけど、兄
さんは、ぼくが姿を見せるまで、毎日あの場所に立っているつもりだったのかな……」
これはほとんど独り言に近いものだ
ったが、澤村は律儀に応じる。聞きたくなかったことを教えてくれた。
『お兄さんが、楽しそうに笑って言っていた。――う
ちの弟は、好きなものや大事なものを目にしたら、我慢できずにすぐに手を出してしまうタイプだって。こういうところは、子供
の頃から変わってないとも。……いいお兄さんじゃないか。お前のことをよく理解してるみたいで』
寒気がした。子供の頃
から繰り返されてきた仕打ちを思い出し、胸の奥でどす黒い感情が渦巻く。
これ以上、冷静に話せる余裕がなくなり、和彦
は懸命に呼吸を整えて澤村に告げた。
「もう、ぼくの家族には何も教えないでくれ。協力もしなくていい。……ぼくの数少な
い友人を、厄介なことに巻き込みたくない」
『おい、俺は厄介なんて――』
「頼むから、言うとおりにしてくれ」
和彦は慌てて電話を切ると、急に込み上げてきた吐き気が堪えられず、トイレに駆け込んだ。
単なる飾りとは思えないほど、凝った刺繍が施された靴下を手に、和彦はぼんやりとクリスマスツリーを眺める。
「なかな
か立派でしょう?」
柔らかな声をかけてきたのは、この店のオーナーである秦だ。和彦はやや呆れた口調で応じた。
「ああ。なかなか、とつけるのが申し訳ないぐらいだ」
「クリスマスは派手に盛り上がるイベントの一つなんです。一時とは
いえ、せっかく浮世を忘れて楽しんでくださるお客さまのために、店もそれ相応のことをしないと。毎年、多少値段が張っても、
ツリーはいいものを選んで、オーナメントも海外から取り寄せたものを使っているんです」
そう言って秦は、テーブルの上
に置いた箱の中を覗き込み、オーナメントを取り出していく。向けられた横顔はいつになく楽しげで、艶やかな存在感を放つ怪し
い男としての面影はない。
和彦は手を伸ばして、靴下を取り付ける。クリスマスツリーの高さは、二メートルを優に超えて
いる。その高いツリーにライトを巻きつけ、今は靴下やチャームを飾っているところだ。
バランスを無視していいから、と
にかく派手に飾りつけてくれというのが、秦からの要望だった。
身長は決して低くない和彦が飾った靴下の上の位置に、悠
然と秦がリボンを括りつける。
和彦は、箱の中から小さなサンタクロースのぬいぐるみを取り上げる。可愛らしいが、これ
も秦が選んだのだろうかと思ったら、つい顔が綻ぶ。
こうして笑える自分が不思議だった。ほんの二時間ほど前まで、和彦
は自宅のベッドで丸くなり、負の感情に苛まれていたのだ。そこになぜか、秦が迎えにやってきて、優雅に微笑まれながらも有無
をいわせず連れ出された。
力ずくで従わされるのであれば抵抗もできるのだが、秦相手だと勝手が違う。まるで優しい風に
運ばれるように、ふわふわとついて歩いていた。
途中、スーパーなどで買い物を済ませて、連れてこられたのが、先日、中
嶋と三人で飲んだホストクラブだ。一体何をするのかと思っていると、クリスマスツリーの飾りつけを手伝ってくれと秦に言われ
た。
面くらい、最初は首を傾げながらオーナメントを手にしていた和彦だが、作業に熱中してしまうと、意外に楽しい。
グラスボールを取り付けていると、コーヒーの香りが鼻先を掠める。ソファに腰掛けた秦に手招きされ、休憩することにした。コ
ーヒーと一緒に出されたのは、ここに来るときに買ったドーナツだ。
食欲はなかったはずだが、いかにも甘そうなドーナツ
を見て、空腹を自覚する。和彦は砂糖をまぶしたドーナツを取り上げ、一口食べた。
「……甘い」
「胸がいっぱいになる
ほど気持ちを溜め込んでいるときは、甘いものがいいんですよ。店のお客さまの受け売りですけどね」
向かいに座った秦が、
ドーナツ以上に甘い笑みを浮かべる。端麗な美貌を際立たせるその顔を眺めながら和彦は、やっと切り出すことができた。
「ぼくの子守りを、長嶺組から任されたのか?」
「武骨なヤクザだと、下手に扱って先生を壊しかねない――と組長がおっし
ゃってました。少し困ったような顔をして」
「ウソだ」
「だったら、表情のほうはわたしの見間違いかもしれませんね」
悪びれた様子のない秦を軽く睨みつけた和彦だが、またドーナツをかじる。砂糖が舌の上で溶け、優しい甘さが広がっていく。
たったそれだけのことなのに、なんだかほっとして、肩から力が抜けた。
「みなさん、本当に困っていましたよ。先生が突然
塞ぎ込んでしまった理由がわからなくて。特に三田村さんは、責任を感じていました。自分が連れ出したせいで、先生が何かよく
ないものに出会ったんだと言って」
三田村は、英俊の姿を見ていない。もし一目でも見ていれば、和彦の血縁者だとわかっ
たはずだ。それほど和彦と英俊はよく似ている。
「……強面のヤクザ相手より、ヘラヘラしているわたしのほうが、少しは話
しやすいだろうということで、今日はこうして先生を外に連れ出しました。あとは、気分転換も兼ねて。少なくともドーナツを食
べてもらえたので、わたしの任務の一つは遂行できたようなものです。長嶺組のみなさんに怒られることもないでしょう」
よくこんなに淀みなく話せるものだと、和彦は純粋に感心する。ついでにドーナツも、あっという間に一つを食べ終えた。
数日ぶりに固形物を胃に流し込んだせいか、体の奥からじわじわと活力のようなものが湧き出してくるようだった。それとも秦と
話したせいかもしれない。自覚のないところで人恋しさが芽生えていたとしても不思議ではなかった。
秦の柔らかく艶やか
な存在感は、疲弊した今の和彦にはちょうどよかった。それに、今食べているドーナツのように甘い。
コーヒーを飲みなが
ら、何から話すべきだろうかと考えた和彦は、まず秦にこう問いかけた。
「――〈秦静馬〉に、親兄弟はいるのか?」
驚いたように秦は目を丸くしたあと、口元に微苦笑を刻んだ。
「そういえば先生は、鷹津さんと仲がいいんですよね。刑事の
くせに、口が軽い人だ」
「仲はよくないぞ。……つき合いはあるが」
秦はソファに深くもたれて足を組み、天井を見上
げた。
「わたしは一人っ子です。それはもう、大事に育てられましたよ。中国で生まれたのに、将来を思う裕福な両親によっ
て、香港国籍を取らせてもらうほどに」
「中国……」
「いわゆる上流階級というやつです。ですが、父親が権力闘争に敗
れ、家族はバラバラに。このあたりの話は、血生臭い話なので割愛させてもらいます。結果として、わたしは親族がいる日本に移
り住み、日本人になった。母親はヨーロッパに渡って再婚したそうです。一方の父親は、香港で復権を目指しています。……権力
への執念に関しては、化け物ですよ、わたしの父親は」
最後の言葉を呟くとき、秦の口調は冷ややかで、嘲笑のようなもの
が入り混じっていた。その秦の反応に、和彦は同調していた。
「……化け物というなら、ぼくの父親も同じだ。それに、兄も。
さすがに血生臭くはないが、それでもいつも、生臭い話をしていた」
「だから先生は、官僚にならなかったんですか?」
和彦は唇を歪めて首を横に振る。
「ぼくは、父親と兄と同じ道を目指すことは、許されなかった。……佐伯家の中で、ぼく
は異物だ。取り除きたいが取り除けない、厄介な腫瘍のようなものだ」
体に溜まっている毒を吐き出しているような気分だ
った。苦しくてたまらないが、抱え込んだままでは、きっと息もできなくなる。
「大学に入って一人暮らしを始めてから、実
家とはなるべく関わりを持たないようにしてきた。ずっと。このまま、親の葬式まで顔を合わせなくてもいいと思っていたぐらい
だ。はっきり言って、佐伯家の人間は嫌いだ。社会で通用する人間として育ててくれたことは感謝しているが、その代償として、
ぼくの尊厳はずっと踏みにじられ、傷つけられてきた」
取り憑かれたように、佐伯家への恨み言を話し続けていた和彦だが、
秦の柔らかな眼差しに気づいて我に返る。短く息を吐き出すと、ぽつりと洩らした。
「――……三田村と出かけた先で、兄に
会った。友人に手を回して、ぼくの行方を探らせていたらしい。弟の行方なんて捜す人じゃないのに」
「怖かったんですね」
「ああ。兄が怖いんじゃない。兄によって、今の生活を失うことを、怖いと思った……。ヤクザに引きずり込まれて、押し付
けられた生活なのに、佐伯家での十八年間の生活よりも大事だと……、愛しいと思っている」
口にして改めて、気持ちが揺
さぶられる。今のままでいいのかと自問する声がある一方で、失いたくないと願う声がある。そして、そんな願いを持つ自分に、
苛立ちもするのだ。
英俊の顔を見たときから、さまざまな声が和彦の中で渦巻いている。早く決断を下してしまわないと、
大事なものを取り上げられてしまいそうな切迫感が、和彦を苦しめる。
「先生、そんなにつらそうな顔をしないでください。
わたしは、先生の遊び相手です。息抜きをしてほしくて、ここに連れてきたんですから」
和彦の隣に座り直した秦が、肩に
腕を回してくる。空になったカップを置いた和彦は、小さく苦笑を浮かべて言った。
「遊び相手といっても、いろんな意味を
含んでいそうだな」
「組長からは、先生の息抜きに手を貸してやってくれと言われています」
「だから、ぼくの口を開か
せるために、〈秦静馬〉以前の秘密を教えてくれたのか」
秦は口元に笑みを湛えながら、スッと目を細めた。和彦はこのと
き秦に対して、ある匂いを嗅ぎ取った。筋者らしい血や硝煙といったわかりやすい匂いではない。
もっといかがわしい〈何
か〉だ――。
肩を引き寄せられた和彦は秦に唇を啄ばまれながら、まとわりつくように甘く、官能的な匂いに包まれる。麻
薬めいたそれは和彦から、抵抗の意思を根こそぎ奪っていた。
「先生に話したのは、ささやかな秘密です。わたしの本当の秘
密は、もっと物騒で罪深いですよ」
どんな秘密かと問いかける前に、秦に囁かれた。
「――さあ、先生、わたしと遊び
ましょう」
苦い毒を吐き出したあとに、すかさず甘い毒を注ぎ込まれる。何も考えられないまま眩暈に襲われた和彦は、た
まらず目を閉じた。
長嶺組の指示により引っ越したという秦の部屋は、人と車の往来が多い通りにある雑居ビルの最上階だった。襲われたことのあ
る男としては、常に人目がある場所のほうが安全だと判断したのだろう。
和彦は、広さだけは十分ある部屋を眺める。部屋
の片隅には段ボールが積み上げられ、部屋の中央に、大きなテーブルが鎮座している。そのテーブルで仕事をしているのか、パソ
コンやプリンタ、FAXといったものが揃っており、ファイルや書類が散乱している。
華やかな水商売で成功している青年
実業家の住居としては、色気も彩りも欠けているが、案外、外見から受ける印象とは裏腹に、秦の内面を如実に表しているのかも
しれない。
ベッドに横になったまま和彦は、ぼんやりと部屋の様子を観察する。
「――……先生」
秦に呼ばれて
正面を見ると、優しく唇を吸われた。
秦の愛撫を受けているうちに、和彦の肌はしっとりと汗ばみ、背にシーツが張り付く。
一方の秦は、服を着たままだ。さきほどから抱き締められるたびに、カシミヤセーターの柔らかく滑らかな感触に肌をくすぐられ
る。
「ぼくに手を出すなと、組長に言われているんじゃないのか」
秦の手に、恥知らずにも身を起こしたものを包み込
まれ、和彦は腰を揺らす。優しく上下に扱かれると、快感が背筋を這い上がってくる。
「手を出す、という解釈の仕方ですね」
「……その理屈が、組長に通じればいいが」
「通じますよ。だから組長は、わたしに先生を任せてくれたんです。おそら
く、わたしが一番、先生の心を上手く解すことができると思われたんでしょう」
どうかな、と呟いた和彦は、緩く首を左右
に振る。優しく穏やかな秦の愛撫は、確かに心地いい。しかし、容易に身を任せられない。
自分が抱えている事情の他に、
和彦の脳裏をちらつくのは、中嶋の顔だった。
普通の青年の顔をしていながら実は物騒な筋者で、なのに秦が絡むときだ
け――厄介で健気な〈女〉を感じさせる彼を裏切っているようで、胸が痛むというより、切ない気分になる。
秦ほどの男が、
中嶋が向ける気持ちに気づいていないとも思えない。どういうつもりなのだろうかと、和彦がじっと見上げると、秦が微笑を浮か
べて唇を啄ばんできた。
「何か、言いたそうですね、先生」
「別に……」
「だったら一つ、わたしの頼みを聞いても
らえませんか?」
訝しんで眉をひそめる和彦の耳元で、秦が露骨な言葉を囁いてくる。和彦は目を見開き、羞恥で全身を熱
くした。
「なっ……、何言って――」
和彦は慌てて身を捩ろうとしたが、かまわず秦に両足を抱え上げられ、左右に広
げられる。そして、頭を埋められた。
「あっ、うぅっ」
反り返ったものを濡れた舌でゆっくりと舐めあげられ、背筋に
ゾクゾクとするような快美さが駆け抜ける。和彦は反射的に秦の頭を押しのけようとしたが、括れを舌先でくすぐられ、体から力
が抜ける。
柔らかく先端を吸われ、滲んだ透明なしずくを舐め取られる。同時に、内奥に指が侵入してきた。
「んう
っ……」
「先生は、〈あいつ〉と仲がいいでしょう? 機会があれば、教えてやってください。男の受け入れ方を。――人を
挑発するくせに、あいつは男を怖がっている。頭はいいが、感覚が獣と一緒だ。本能的に、どちらの立場が上か下か、服従を示す
か否か、そういうふうにしか判断できない。男と寝るという欲望が具体的であればあるほど、あいつは苦しむんですよ。自分の理
想と、本能が求めるものの違いに」
秦が何を言っているのか、最初はわけがわからなかった和彦だが、親しみを感じさせる
口調から、ようやく、〈あいつ〉が誰を指しているのか理解する。
「だけど先生に対しては、様子が違う。ヤクザの世界にい
て、先生だけは自分を傷つけられないと確信しているんでしょうね。先生を弱い存在だと見くびっているんじゃなく、安全な存在
だと認識している」
思わず秦の話に聞き入ってしまうが、内奥の入り口に滑らかな感触を擦りつけられ、和彦はビクリと身
を震わせる。ヌルリと内奥に入り込んできたものの感触に、覚えがあった。
「んっ」
突然、内奥で小刻みな
振動が響き渡り、否応なく官能を刺激される。和彦は腰を跳ねさせるように反応するが、体はしっかりと秦に押さえ込まれた。
指でさらに押し込まれたローターの振動が激しさを増し、和彦の息遣いは妖しさを帯びる。やめるよう言えないのは、秦の言葉
に引き込まれるからだ。
「わたしは、あいつの価値観だとか、ヤクザの矜持だとかをぶち壊して、泣かせたい。暴力によって
じゃないですよ。快感で、そうしたいんです。……そんなことを考えると、興奮するんです。でもあいつは、きっとこういう関係
は望まないでしょうね。男を怖がって、その男の中で肩肘を張って生きているからこそ」
秦の告白を、屈折しているとか、
おかしいという一言では片付けられなかった。語られる言葉に込められているのは、秦が、〈中嶋〉に向ける倒錯した執着だ。
「……彼の気持ちに気づいているとは、思っていた。だけど、応える気がないから、気づかないふりをしているのかと、思ってい
た」
内奥にローターを含まされたまま、震える声で和彦が言うと、秦は艶やかな笑みを浮かべた。
「あいつが、どんな
形であろうが応えてくれるというなら、わたしは悦んで、ヤクザのあいつを犯しますよ。だけど、あいつが望んでいるのは、頼り
になるが謎の多い、紳士的な先輩としての秦静馬だ。利用したり、されたりの緊張感の高い関係も望みでしょう。頭のいいあいつ
らしく」
しかし、ここにいる秦の望みは、外見からは想像もつかないほど動物的で、暴力的だ。直情的といえるかもしれな
い。
それでも、自分の望みを中嶋にぶつけないということは――この男なりに、中嶋との関係を壊したくないと思っている
のだろう。
「――……ヤクザも、そのヤクザに関わる男も、おかしい奴ばかりだ……」
吐息交じりに和彦が洩らすと、
秦の指に唇を割り開かれ、小さな錠剤を舌の上にのせられた。驚いた和彦が目を見開くと、安心させるように微笑みかけてきた秦
に、口移しで水を飲まされ、そのまま喉に流し込む。次に与えられたのは、深い口づけだった。
ようやく唇が離されると、
和彦は息を喘がせながら問いかける。
「何を、飲ませた」
「前に先生に飲ませた薬です。先生が服用している安定剤より、
少し効き目が強いですが……それはご存知ですよね?」
どうしてそんなものを飲ませたのかと、秦を睨みつける。体は確か
に眠りたがっているが、悪夢を見たくなくて、和彦は自分に処方された安定剤すら飲んでいなかったのだ。
秦は、和彦のき
つい眼差しを平然と受け止め、愛撫を再開する。胸元に唇を押し当てながら、熱くなって震えているものを再び扱き始めた。もち
ろん内奥では、ローターが小刻みに、激しく振動している。
「嫌な夢を見て憂鬱になるというなら、誰かに側にいてもらえば
いいんですよ、先生」
「……一人でいたいんだ。誰かが側にいると、自分でもわけのわからない感情をぶつけて、相手に嫌な
思いをさせそうだ」
「あれだけ大事にされているのに、意外に、甘えるのが下手なんですね」
「余計な、お世話だ……」
秦が微かに笑い声を洩らし、胸の突起を舌先でくすぐってくる。小さく悦びの声を洩らした和彦は、仰け反って目を閉じる。
秦の愛撫を受けているのは自分なのに、頭の中で描かれるのは、秦の愛撫を受ける中嶋の姿だった。自分の体でありながら、
中嶋の身代わりとして秦の愛撫を受けるのだ。
それは、ひどく倒錯した淫靡な想像で、罪悪感を薄めるための、ある種の逃
避なのかもしれない。
わざと辱めるように大きく両足を開かれ、反り返ったものを濡れた音を立てて舐め上げられる。先端
を執拗に吸われ、唇を擦りつけられ、舌先で弄られると、甲高い声を上げてよがってしまう。
しかし和彦は、どこかでその
声を他人事のように聞いている。これは、中嶋の上げる声だとすら思っていた。
ローターを引き抜かれ、すぐにまた内奥に
呑み込まされる。挿入された指にローターをさらに奥に押し込まれたとき、たまらず内奥を収縮させていた。
快感を与えら
れているうちに、飲まされた安定剤が効いてきたのか、眠気が押し寄せてくる。和彦はなんとか追い払おうと目を擦るが、その手
を優しく秦に止められていた。
「もう、無理ですよ。こうなったら、眠るしかありません」
「……眠りたくないんだ……」
「残念。わたしにはどうしようもありません。それに、先生にも」
和彦は力を振り絞って瞼を持ち上げるが、もう秦を
睨みつけることもできない。すぐにまた目を閉じると、待っていたようにローターを引き抜かれた。
まだ慎みを保ってはい
るものの、喘ぐ内奥の入り口に次に押し当てられたのは、ローターとは比べ物にならないほど逞しいものだった。
「あっ、う
ぅっ――」
「先生、力を抜いてください。ゆっくりと、入れてあげますから」
内奥の入り口をこじ開けられ、秦の言葉
通り、〈それ〉はゆっくりと挿入されてくる。他の男たちがそうするように、発情した襞と粘膜をねっとりと擦り上げながら、否
応なく内奥を押し広げていく。
「悦んでますね、先生。よく、締めつけてますよ。入り口がひくついて、真っ赤に充血し
て……ここは、いやらしい涎を垂らしっぱなしで」
反り返って震えるものを片手で軽く扱かれただけで、和彦は達してしま
う。放った精で下腹部を濡らしながら、内奥深くまで押し入ってくるものを懸命に締め付けていた。
強烈な眠気で意識は朦
朧としているが、それでも和彦の体は、快感に対して貪欲だった。
内奥を犯しているのは、秦が操る〈道具〉だ。決して、
熱い欲望ではない。和彦は何度も自分に言い聞かせるが、快感が深くなるにつれ、自信がなくなってくる。
自分の中に押し
入っているのは、実は秦自身なのではないか――。
そんな不安に駆られると同時に、抗いがたい肉の悦びが体の奥から溢れ
出てくる。
この悦びは、本来なら中嶋が味わうべきものなのだ。
一見、穏やかで優美で紳士的な男に、獣のように犯
されながら、普通の青年の顔をしたヤクザが、どんなふうに悦びの声を上げ、身を捩るのか。想像するだけで和彦は、快感を覚え
る。
内奥を道具で擦り上げられながら、自分がよくわからなくなっていた。
犯す秦の立場で感じているのか、犯され
る中嶋の立場で感じているのか、判断がつかないのだ。それとも、こう思うこと自体、薬の作用によって惑乱しているのかもしれ
ない。
なんにしても、淫らな妄想によって頭が満たされ、他のことは何も考えられなくなる。もちろん、自分の家族のこと
すら。
内奥深くを抉られ、うねるような熱い痺れが背筋を駆け上がってくる。大きく仰け反った和彦は、そのまま意識を手
放していた。
体を揺さぶられて目を開けたとき、自宅の寝室の天井が視界に入った。
さきほどまで夢を見ていたのだが、今もまだ、夢
の中にいるのかもしれない。意識もはっきりしないまま、和彦はそう判断する。
そうでなければ、賢吾に顔を覗き込まれる
状況が理解できない。
「――気分は悪くないか、先生」
囁きかけてくる賢吾の声は、蕩けそうなほど優しい。やはりこ
れは夢なのだと納得した和彦は、それでも律儀に応じる。
「悪くはないが、眠い……」
「なら、好きなだけ寝ろ。起こし
て悪かったな。あんまりピクリともしないから、心配になった。先生の大事な番犬は置いていってやるから、夢の中でもしっかり
守ってもらえ」
この物言いは好きだなと思い、和彦は笑う。もっとも、顔の筋肉は少しも動いていないかもしれない。
「何か、言いたいことはあるか?」
賢吾に問われ、目を閉じた和彦は少し考えてから答えた。
「……兄に会った」
「塞ぎ込んで、メシも食えず、眠れなくなるほど、嫌いなのか?」
「佐伯の家の人間とは、関わりたくない……」
「先生
にとっては、いい家じゃないみたいだな」
布団の中に賢吾の手が入り込む。しっかりと手を握られ、軽く握り返した和彦
は、これだけは言っておいた。
「――……あんたみたいな父親がいて、千尋を羨ましく感じるぐらい、ひどい家だ」
賢
吾は何も言わず、和彦が再び眠りにつくまで、頭を撫でてくれた。
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