受け取った箱の中身がわかったとき、和彦は思わず苦笑を洩らしていた。
「お前も、ドーナツの差し入れか」
和彦の
言葉に、千尋は軽く唇を尖らせる。
「だって先生、ドーナツならペロッと平らげるって、うちの連中が――」
「仮にぼく
がドーナツ好きだとしても、三食ともドーナツを食べても追いつかない量を差し入れされたら、苦笑の一つぐらい洩らしたくなる」
「……一緒に食おうと思って持ってきたんだけど、他のものがいいなら、買ってくる」
捨てられた子犬のような眼差し
を向けられた時点で、和彦に勝ち目があるはずもない。片手で千尋の髪をくしゃくしゃと撫で回した。
「気合いを入れて食べ
ろよ。……部屋に戻ったら、今朝差し入れしてもらった分もあるんだ」
クリニックの待合室に千尋を残し、和彦は給湯室に
向かう。コーヒーメーカーに残っているコーヒーの量が心もとなかったので、インスタントで済ませることにした。
湯を沸
かす一方で、ミルクや千尋専用のマグカップを準備した和彦は、壁にもたれかかって腕組みをする。知らず知らずのうちに、唇に
笑みを湛えていた。
こうしてクリニックにいて、ひょっこりと顔を出した千尋とのん気な会話を交わすと、自分の日常が戻
ってきたのだと実感できる。それがひどく、安心できる。
和彦は、秦に安定剤を飲まされて、ほぼ丸一日眠り続けていた。
ときおり目は覚めていたが、常に誰かが傍らにいて、安心させるように手を握り、頭を撫でてくれていた気がする。夢は絶えず見
続けていたが、それが悪夢だったのかどうかすら、よく覚えていなかった。仮に見ていたとしても、精神的にダメージを受けるほ
どのものではなかったのだろう。
目が覚め、用意された食事を胃に詰め込み、風呂にしっかりと浸かって、日常の当たり前
の雑事をこなす。
現金なものだが、そうすることで和彦は、いつもの自分を取り戻せた。英俊と会った現実を受け止められ
たのだ。
まだどこか、地に足がついていないような感覚もあるが、これ以上、差し入れのドーナツを増やしたくないため、
何事もないふりをしている。実際、体調そのものは悪くはない。日々を過ごしていけば、気持ちもきちんと切り替えられるはずだ。
このまま何事もなければ――。
心の中での呟きが、不吉な予言めいていることに気づき、和彦はブルリと身震いする。
トレーを持って待合室に戻ると、無邪気な子供のような顔で千尋に問われた。
「ところで先生、そんなにドーナツ好き
だったっけ?」
和彦はぐっと眉をひそめると、千尋の隣に腰掛け、コーヒーが入ったマグカップを置いてやる。和彦はブラ
ックで、千尋は砂糖なしのミルクたっぷりだ。
ちょうどいい皿がなかったので、客用のコーヒーソーサを持ってきたが、千
尋はさっそくドーナツをのせている。朝も食べたばかりなのだが、せっかくの差し入れなので和彦も、チョコレートがコーティン
グされたドーナツを箱から取り出した。
「……気持ちを溜め込んでいるときは、甘いものがいいらしい。一昨日、秦が買って
くれたものを、一緒に食べたんだ。別にドーナツでなくてもよかったんだが、秦の口からお前のオヤジに伝わったら、どういうわ
けか、ぼくはドーナツ好きということになったみたいだな」
秦の話題を出した途端、千尋は顔をしかめる。その理由を、不
本意そうに本人が語った。
「先生が精神的に参っているときは、俺が側についていたかった。それか、せめて、うちの組の人
間とかさ……。なんでオヤジは、先生を秦に任せたわけ? あいつ、胡散臭いだろ。オヤジとこそこそ何かしているしさ」
和彦はドーナツを一口かじってから、若々しい感情を露にする千尋の横顔に視線を向ける。他の食えない男たちとは違い、千尋だ
けは感情をストレートに見せてくれる。とことんまで精神的に参ったあとは、このストレートさが眩しくて、愛しい。
「――た
だでさえ弱っているぼくに、オロオロするお前の姿を見ろと言うのか? 組長から、ぼくに近づくなと言われていたんだろ。それ
はつまり、お互いのためによくないと考えたからだ。ぼくだって、お前に八つ当たりして、自己嫌悪に陥りたくなかったしな」
「つまり、秦ならよかったってこと?」
和彦が曖昧に笑うと、千尋はまた唇を尖らせた。その唇には、ドーナツの砂糖がつ
いている。まるでガキだなと思いながら和彦は、指先で砂糖を払いのけてやる。
「結果として……よかったのかもな。あの男
のことが、少しだけわかった」
千尋がぐいっとコーヒーを飲んでから、和彦にぴったりと身を寄せてくる。これが本題だと
言わんばかりに、声を潜めて問われた。
「秦と、何かあった?」
「何もないとは言わないが、深い仲にはならない。秦は、
ヤクザに囲まれているぼくにあてがわれた、ちょっと変わった話し相手、といったところだ」
露骨に疑いの眼差しを向けて
きた千尋の頬を、抓り上げてやる。すかさず言い訳された。
「素直に信じられないのは、俺が疑り深いというより、先生がモ
テすぎるせいだからねっ。なんかもう、俺が先に目をつけて口説いたっていうのに、いつの間にか先生に、ワラワラと男が群がっ
て――」
「人を、蟻に集られる角砂糖みたいな言い方するなっ」
和彦がムキになって言い返すと、千尋が安心したよう
に息を吐き出す。ここまで、喜怒哀楽のはっきりした子供のような表情を見せていたのに、一瞬にして、落ち着いた青年の顔とな
る。鮮やかな変化を目の当たりにして、和彦はドキリとしていた。
「千尋……」
「安心した。その怒鳴り声、いつもの先
生だ」
小さく声を洩らした和彦は、照れ臭くなってしまい、どう反応していいかわからなくなる。結局、千尋の髪をくしゃ
くしゃと撫でていた。
千尋はそれ以上、和彦が塞ぎ込んでいたことについて話題にしようとはしなかった。買いすぎたとぼ
やきながら、ドーナツを口に押し込み、コーヒーで流し込んでいく。和彦は、一個食べ終えたところで限界だった。
「差し入
れをくれたお前の気持ちだけはしっかり受け止めておくから、ドーナツはお前の胃がしっかり受け止めろよ」
「……はい」
情けない顔で返事をする千尋がおかしくて、顔を背けて笑っていると、携帯電話が鳴った。すぐに千尋が電話に出る。横で
会話を聞いていたが、どうやらこれからすぐに、組事務所に向かわなければならないようだ。
携帯電話を折り畳んだ千尋が、
申し訳なさそうに立ち上がる。
「ごめんね、先生。もっとゆっくりする予定だったんだけど……」
「かまわない。お前が
こうして顔を出してくれただけで、嬉しいんだ」
千尋を見送るため、玄関まで一緒に向かう。後ろ髪を引かれるように千尋
は何度もちらちらと和彦を見ていたが、ドアを開ける寸前になって、我慢できなくなったように正面に回り込んできた。
「千
尋?」
「――……先生、もう大丈夫?」
突然の問いかけに目を丸くした和彦だが、千尋の真剣な顔を目の当たりにする
と、冗談で返すことなどできなかった。
軽く息を吐き出して、千尋の頬を優しくてのひらで撫でる。
「ああ、落ち着い
た。……意外な人間に、意外な場所で会ったりしたものだから、混乱した。トラウマ、ってやつだな。ヤクザに囲まれて、予想外
に大事にされているから、精神が柔になっていたのかもしれない」
「俺としては、もっと先生を大事にしたいけど。クリニッ
クの開業なんて、本当はしてもらいたくないんだ。もっと言うなら、外に出したくない」
「……そうなったら、本格的にヤク
ザの囲い者らしい生活だな」
「先生のためにも、それはよくないし、組の運営のためにも、先生の力が必要だとわかってるん
だ。長嶺組の後継者として、先生を最大限利用する――ぐらいの大口は叩きたい。だけどさ、今回のことで、やっぱり思うんだ。
先生を外に出したくないって」
誰にも聞かせられない、とことん甘い千尋の言葉だった。こんなことを言わせてしまうぐら
い、千尋に心配をかけたのだと思い、和彦は口中で小さく謝る。面と向かって頭を下げるのは、やはり気恥ずかしいのだ。
千尋は、そんな和彦の気持ちを汲み取ってくれたのか、単に自分の欲求を満たすためか、にんまりと笑って顔を突き出してきた。
唇の端に、またドーナツの砂糖をつけている。
「長嶺組の後継者が、なんて甘ったるい顔してるんだ」
「玄関を一歩出た
ら、ピシッと決めるよ」
本当かと思いながら、和彦はもう一度千尋の頬を撫で、唇の端を舌先でペロリと舐めた。舌先に砂
糖の微かな甘さを感じたとき、千尋の片手が後頭部にかかり、ぐっと力が込められる。
あるだけの情熱をぶつけてくるよう
な、激しい口づけだった。噛み付く勢いで唇を吸われ、ねじ込むように侵入してきた舌に口腔をまさぐられる。
千尋の熱さ
が愛しかった。和彦は、まずは千尋に好きなように自分を貪らせてから、改めて千尋の唇を舐めて、柔らかく吸い上げる。今度は
和彦が千尋の口腔に舌を差し込み、たっぷり舐め回す。我慢できなくなったように、千尋が舌を吸ってきた。
互いを味わう
ような口づけを交わしてから、唇を離す。すかさず千尋にきつく抱き締められた。
「ほら、千尋、早く行け。待ってもらって
るんだろ」
「……近いうちに、先生の部屋に泊まりに行くから、風邪なんて引かないでよ」
「それは、お前のほうだ」
千尋の頬を軽く叩いてから、送り出す。見事なもので、甘ったれの子供のようだった雰囲気はその瞬間には払拭され、背筋を伸
ばし、きびきびと歩く千尋の姿に、思わず和彦は目を細める。
しかし、せっかくの颯爽とした姿も長続きはしない。エレベ
ーターホールに消える寸前、こちらに目配せしてきた千尋が、ニッと笑いかけてくる。まるで、悪ガキのような表情だ。
「――凄みのあるイイ男まで、あと一歩……二歩ってところだな、千尋」
笑いを堪えて和彦は呟くと、待合室に戻る。ここ
で、テーブルの上に置いたままの、ドーナツの箱に気づく。千尋もがんばって食べてはいたが、ドーナツはまだ半分もなくなって
はいない。
買ってきてくれた千尋には申し訳ないが、護衛の組員たちに持って帰ってもらうしかないようだった。
今日もひどく冷え込み、厚手のカーディガンを羽織っている和彦は、ブルリと肩を震わせる。エアコンを利かせた書斎から出る
と、特にそれを思い知らされる。
広い部屋に一人で生活しているため、和彦がいる場所以外は、どうしても空気がひんやり
してしまう。だからといって、常にどの部屋も暖めておこうとは思わない。誰かが来る予定もないのに、なんだか空しい行為のよ
うに思えるのだ。
和彦はキッチンカウンターにもたれかかり、湯が沸くのを待ちながら、薄暗いダイニングを眺める。今夜
に限って、一人きりの静寂が耳に痛くて、気に障る。
まだ、精神的に完全に落ち着いたとは言いがたいらしい。こうしてい
ると、一人の世界に溶け込んで、自分がなくなってしまいそうだ。
いや、そうなりたいと願ってしまうのか――。
子
供の頃の悪い妄想癖がぶり返したようで、もう一度肩を震わせた和彦は、カーディガンの前を掻き合わせる。
気持ちを切り
替えるため、何か楽しいことを考えようと思ったとき、まっさきに蘇ったのは、今日の昼間の、千尋とのやり取りだった。
砂糖味の甘い口づけの余韻に浸っている間に湯が沸き、ペーパーフィルターを取り出そうとする。そのとき突然、インターホンの
音が鳴り響き、飛び上がりそうなほど驚いた。
連絡なしの夜の訪問者ともなると、必然的に人間は限られる。ただし、〈彼
ら〉はインターホンを鳴らす必要もなく、勝手に部屋に上がってくることが可能だ。なんといっても、この部屋の鍵を持っている
のだ。
インターホンに出た和彦は、予想通りの人物が画面に映っているのを見て、眉をひそめる。
「……こんな時間に
なんの用だ」
素っ気なく和彦が応対すると、画面を通して鷹津がニヤリと笑いかけてくる。ただし、その笑みにはいつもよ
り、悪辣さと鋭さが足りない。鷹津は首をすくめ、大げさに身震いした。
『寒いんだ。早く中に入れろ』
何様だと追い
返したいところだが、鷹津は和彦の〈番犬〉で、欲しいと言われれば〈餌〉を与えなければならない立場だ。インターホン越しに
あしらうこともできるが、寒い中、こんな時間になんのためにやってきたのか、理由が気になる。
それに、すべての部屋に
明かりをつけ、暖める理由もほしかった。
和彦はエントランスのロックを解除してやり、数分後、部屋の玄関に鷹津を迎え
入れた。
「――雪が降ってるぞ」
開口一番の鷹津の言葉に、和彦は目を丸くする。まさかこの男に限って、天気の話か
ら切り出すとは思っていなかった。
和彦の反応がおもしろかったのか、鷹津は唇を歪めるようにして笑った。
「その様
子だと、知らなかったみたいだな」
「暗くなってからすぐにカーテンを引いたから、気づかなかった」
「けっこうな降り
だ。辺りが白くなる程度には、積もっている」
鷹津を玄関に残し、和彦はさっさとリビングの窓のカーテンを開く。すでに
外は暗いため、白く染まっているという景色をはっきりと見ることはできないが、バルコニーにも雪が積もっていた。
「寒い
はずだ……」
和彦は小さく呟き、ガラスに反射して映る鷹津に視線を向ける。図々しい男らしく、当然のように部屋に上が
り込んできたのだ。
「……それで、なんの用だ。雪が積もっていると、知らせに来たわけじゃないだろ」
「この何日か、
寝込んでいたらしいな。秦が言っていたぞ」
反射的に振り返った和彦は、鷹津を睨みつけながら、口中では秦に対して毒づ
いた。
「秦とずいぶん、仲よくなったみたいだな」
「その言い方はやめろ。仕事上、やむをえず、あいつと連絡を取り合
っているだけだ。今日も、いままで会っていたんだ。そのとき、お前のことを教えられた。――嫌な男だ。思わせぶりなことを言
いながら、肝心なことは何一つ言いやしねーんだ」
「それで秦に煽られて、弱っているぼくを笑いに、のこのことやってきた
というのか」
「そのつもりだったが、元気そうだな。少し痩せたようには見えるが」
「食欲は戻った。それに……安定剤
を飲んででも、眠るようにしているしな」
鷹津から探るような眼差しを向けられ、和彦は逃げるようにキッチンに向かう。
和彦に何があったのか、明らかに鷹津は知りたがっていた。
和彦の身近にいる男たちは、必要があれば情報を共有する。そ
の中で、今回は鷹津がつま弾きにされたらしい。ここでいい気味だと思えないのは、自分自身のことだからだ。
二人分のコ
ーヒーを淹れながら、仕方なく端的に事情を説明する。賢吾なら、先生は甘いなと、薄い笑みを浮かべながら言うだろう。
「――……佐伯英俊といえば、父親譲りの切れ者官僚らしいな」
鷹津が洩らした言葉に、和彦はきつい視線を向ける。
「兄のことまで調べたのか」
「佐伯家のことをざっと調べただけで、それぐらいの情報はすぐに手に入る。ただ、どうしてお
前が実家に寄り付かないのか、その理由は知らない」
「当然だな。佐伯の家は、外面のよさは完璧だ。外部の人間が調べた程
度で、家庭の内情なんてわかるはずがない」
「お前自身が話す気は?」
どこか揶揄するような鷹津の表情が、気に障る。
こういうときに見せる表情ではないと思うのだが、この男の場合、人を不愉快にさせる言動が身についているのかもしれない。
ない、と即答した和彦は、コーヒーを注いだカップを鷹津に押し付け、自分もカップを手に、再び窓際に歩み寄る。
外の闇の中から、降り続く雪だけが白い姿を浮かび上がらせている。雪を一心に目で追う和彦に、傍らに立った鷹津が話しかけて
きた。
「お前が兄貴と会ったというのはわかったが、一つわからないことがある」
「なんだ」
「家族の中で半ば放置
状態にあって、滅多に連絡も取らないお前を、手の込んだ方法で捜していた理由だ。友人経由で、お前に用件を伝えたら済む話だ
ろ」
「それは――」
部屋に閉じこもっている間、和彦もそのことを考えていた。
おそらくきっかけは、賢吾の代
理で出席した披露宴での出来事だ。父親の同僚の言葉から、あの時点で佐伯家は、和彦がマンションを退去し、連絡が取れないと
いう状況までは把握していたようだ。
和彦が自らの意思で所在を告げず、行方をくらましていると知れば、佐伯家ならどう
するか――。
コーヒーを一口啜った和彦は、ガラス越しに鷹津を見据える。
「……ぼくの知っている〈家族〉は、ぼく
が行方不明になったところで、必死に捜すような人たちじゃない」
「お優しい家族だな」
せせら笑うように鷹津が皮肉
を口にしたが、腹は立たなかった。実のところ、和彦ももっと手酷い皮肉を口にしたいところなのだ。
ぐっと唇を噛み締め、
思いきって窓を開ける。サンダルを引っ掛けてバルコニーに出ると、鷹津は靴下のまま追いかけてきた。
「あー、くそっ、冷
てーな」
忌々しげに呟く鷹津を横目で一瞥して、和彦はバルコニーの端まで行く。角部屋だけあって、ここからの眺望は特
別だ。何より、吹き付けてくる風が強い。
雪が頬に当たり、凍えるほど寒い。睫毛にも雪が触れて目を細めたところで、鷹
津が隣に立つ。壁になって、風と雪を一身に受けてくれるつもりらしい。訝しむ和彦に、鷹津はこう言った。
「〈番犬〉とし
ては、ご主人に風邪を引かせるわけにはいかないからな。……おい、寒いから中に入ろうぜ」
「部屋の中だと、盗聴器が気に
なるんだ」
一瞬、無表情となった鷹津だが、次の瞬間には、蛇蝎の片割れであるサソリらしい、毒を含んだ鋭い笑みを唇に
刻んだ。
「仕掛けられてるのか?」
「さあ。もう外したとは言っていたが、どこまで信用していいかわからない。だった
ら、まだ仕掛けられていると考えたほうが楽だ」
話している間に唇が冷たくなり、和彦はカップに口をつける。鷹津もコー
ヒーを飲んでから、自然な口調で切り出した。
「――俺に、何か言いたいことがあるんだろ。寒いんだから、早く言え」
和彦はじっとカップの中を覗き込む。逡巡はあったが、吹っ切るのは早かった。
「佐伯家……ぼくの実家の動向を探ってほ
しい」
「それを言いたかったんなら、わざわざバルコニーに出る必要はなかったな」
「どういう意味だ」
「俺の考え
では、とっくに長嶺は、お前の実家の動向を探っているはずだ。こっちは、刑事なんて肩書きを持っている代わりに、昼間は立派
な公務員としてのお勤めに励んでいるんだ。自由に動ける時間は限られている。しかし長嶺は、手駒が豊富だ。大物官僚の息子を
自分のオンナにするぐらいだ。なんの手も打たないと思うか?」
無意識に口元に手をやった和彦は、鷹津の指摘の正しさを
心の中で認めていた。
「自分の兄貴に会って不安になっているお前が、実家の件で俺に頼みごとをすることも、予想している
だろ。――お前は、自分が蛇みたいな男のオンナだってことをよく自覚するべきだな。蛇の執念深さは、凄まじいぞ」
この
とき和彦の脳裏を過ったのは、賢吾の代理で結婚披露宴に出席したとき、父親の同僚と出会ったのは、本当に偶然だったのだろう
かということだった。
佐伯家が和彦になんの関心を持っていないのであれば、父親の同僚とは、あの場で他愛なく挨拶を交
わして、穏便に別れられたはずだ。しかし現実は、そうならなかった。
佐伯家は、和彦を捜している。しかも、父親に近し
い存在とはいえ、他人までもがそのことを把握しているのだ。父親が話したにしても、外聞にこだわる人間がそこまでする理由が
気にかかる。
そしてもう一つ気にかかるのは、賢吾の思惑だ。どうしてもこう考えてしまう。
賢吾は、佐伯家の
反応を知るために、和彦そのものを餌に使ったのではないか、と。
緩やかに動いていた思考が、ここで一気に苛烈さを増し、
頭の芯が不快に疼く。
「大丈夫か」
ふいに鷹津に声をかけられ、和彦は我に返る。無防備に見つめ返すと、鷹津は相変
わらずの嫌な笑みを浮かべ、顔を覗き込んできた。和彦も、ドロドロとした感情の澱が透けて見える目を覗き込む。
ふと、
こんな問いかけをぶつけていた。
「……今夜ここに来たのは、ぼくを心配してくれたからか」
意表をつかれたように目
を見開いた鷹津だが、すぐに皮肉っぽい表情となり、和彦の頬にてのひらを擦りつけるように触れてきた。
「いや。餌をもら
いに来ただけだ」
鷹津の顔が近づいてきて、強く唇を吸われる。この瞬間、嫌悪感が体を駆け抜けるが、それは強烈な肉の
疼きにも似ていると、初めて和彦は気づいた。
密かにうろたえる和彦にかまわず、鷹津は何度となく唇を吸い上げ、熱い舌
で歯列をまさぐってくる。粗野で強引な求めに、和彦は呆気なく屈した。
鷹津の舌を柔らかく吸い返し、唇に軽く噛み付い
たところで、余裕のない鷹津はすぐに和彦を貪ってくる。和彦を感じさせようとは思っていない、自分の欲望をぶつけてくるだけ
の口づけだ。
昼間味わった、千尋との甘い口づけとはまったく違う。それでも和彦は、ゾクゾクするような心地よさを感じ
ていた。
気を抜くと、手に持ったカップを落としてしまいそうだ。必死に一欠片の理性を保ちながら、差し出した舌を鷹津
と絡め合う。一方で鷹津は、片手で痛いほど和彦の尻を揉んでくる。
餌をもっとくれと、この男は言いたいのだ。
和
彦は口づけの合間に、しっかりと言い含める。
「――……餌は、キスだけだ。仕事をしていない番犬に、これ以上、何もやら
ないからな」
「まあ、仕方ないな」
不遜に応じた鷹津が口腔に舌を押し込んできて、和彦は拒むどころか、きつく吸い
上げてやる。
雪に吹きつけられながらの鷹津との口づけは、激しく、長かった。
デパートで買ったフルーツの詰め合わせを差し出した和彦に対して、柔らかく艶やかな雰囲気をまとった秦は、優しい笑みを向
けてきた。
先日、この男の前でさんざん痴態を晒した身としては、女性客を魅了するであろうその笑みを直視できず、やや
視線を逸らしてしまう。
「……世話になっておきながら、ぼくから礼を言わないのも、落ち着かないから……、よかったら食
べてくれ」
今日の午前中、和彦は一つの大きな仕事を片付けた。クリニックに雇い入れるスタッフの面接だ。賢吾からは、
落ち着くまで延期していいと言われてはいたのだが、和彦一人の事情で、他人を振り回すのは本意ではない。それに、精神的にも
う大丈夫だと確認するためにも、なるべく人に会いたかった。
午後からこうして秦と会っているのも、そのためだ。
朝のうちに、今日会いたいと連絡を取ったところ、夕方までなら時間が取れると言われたため、すっかり馴染みとなったホストク
ラブにこうして出向いてきた。
店にはすでに数人の従業員が出勤しており、ホールの掃除をしていた。そんな彼らの、まる
で女性客に対するような甘い挨拶を受けて、和彦はVIPルームに通されたのだが、居心地が悪いことこのうえなかった。
「先生をお世話したどころか、わたしとしては、かなりいい思いをさせてもらったと思っています。むしろこちらが、お礼をしな
いと」
秦の言葉の意味が、嫌になるほどわかっている和彦は、顔を熱くしながら睨みつける。すると秦は、ふっと目元を和
らげた。
「先生は、わたしがあのとき言った秘密を、誰にも話していないんですね」
秘密、と口中で反芻した和彦は、
唇に指を当てながら、慎重に秦に問いかけた。
「――どの秘密のことを言っている?」
「わたしの一風変わった出生と、
捻くれた欲情について。わたしが元は日本人じゃないということは、長嶺組の組長と数人の幹部の方は知っていますが、あとは鷹
津さんぐらいです。それと、先生。……ただ、わたしにとって大事な秘密は、欲情のほうです。この秘密だけは、先生が所有して
ください」
上品で端麗な美貌を持つ秦は、腹の内に倒錯した欲情を抱えている。その欲情を向けている相手は、中嶋だ。
何を考えているのか読めない男なりの冗談――というには、秦が和彦に施した愛撫は丹念で執拗だった。執念のようなものすら
感じた。
秦のそんな一面を知って、果たして中嶋は喜ぶのか、失望するのか。
和彦は短く息を吐き出すと、乱雑に髪
を掻き上げ、秦を見据える。
「ぼくは一応、中嶋く――……彼の友人のつもりなんだ。利害で結びついているのは否定しない
が、だからといって彼の事情に踏み込むつもりはない。生々しい話は、君と彼とでケリをつけてくれ」
「でも、まったく知ら
ん顔もできないでしょう?」
和彦が持つ甘さを、秦はよく把握していた。ムッと顔をしかめた和彦は、横を向きつつぼそぼ
そと応じる。
「中嶋くんには、君がぼくの〈遊び相手〉だなんてこと、知られたくないんだ。……その秘密を守るためなら……、
協力はする。君のためじゃない。あくまで自分の保身のためだ」
「自分でそういうことを言うあたり、やはり先生は甘い。だ
から、ヤクザになんて付け込まれる。いや、ヤクザだけじゃないですね。悪徳刑事や、元ホストにも付け込まれるんです」
「……甘い、甘いと言っていると、意外なしっぺ返しを食らうかもしれないぞ。案外ぼくは、悪辣な人間なんだ」
和彦が芝
居がかった爽やかな笑顔を見せると、さすがの秦も毒気を抜かれたように目を丸くした。
「それは、怖いですね」
「もっ
と感情を込めて言ってくれ」
和彦の抗議に破顔した秦は、突然立ち上がり、キャビネットの上に置かれた三十センチほどの
箱を手にした。その箱を、和彦に差し出してくる。
「――少し早いですが、先生へのクリスマスプレゼントです。本当は当日
お渡しできれば素敵なんでしょうが、客商売にとってクリスマスはかきいれ時なので、時間が作れそうになくて。それに、先生もい
ろいろとお忙しいでしょう」
ここまで言われて突き返すこともできず、きれいにラッピングされた箱を受け取る。
「何
か、お返しをしないと……」
「気にしないでください。大したものではないので。使ってもらえたら、それで十分です」
プレゼントが一体なんなのか、教える気はないらしい。帰ってからのお楽しみだと思いながら、和彦は立ち上がる。
「忙し
い時間帯に邪魔して悪かった。これでお暇する」
「すみません。こんな慌しい場所にお呼びすることになって。――っと、先
生」
和彦を呼んだ秦が、傍らに歩み寄ってくる。何事かと思っているうちにあごを掬い上げられ、ごく自然な動作で唇を塞
がれた。あまりに驚いて、和彦は声も出せない。
味わうようにじっくりと唇を吸われ、舌先でまさぐられる。さすがに我に
返った和彦だが、突き飛ばすこともできず、箱をしっかりと胸に抱え込む。すると秦に、箱ごと抱き締められた。
ようやく
唇を離した秦に、耳元で低く囁かれる。
「プレゼントのお返しはけっこうなので、このキスを中嶋に教えてやってください」
「あっ……」
思いがけない行為に動揺し、声を洩らした和彦は、一歩後ずさる。秦が本気で言っているのか、それとも
からかっているのかわからなかったが、精一杯の意趣返しはしておく。
「――教えるまでもなく、中嶋くんはキスが上手いぞ。
先輩譲りの、甘いキスだ」
秦が少しうろたえた素振りで何か言おうとしたが、その前に和彦は、さっさとVIPルームを出
る。
開店の準備が始まっているホールを通り抜けながら、中央に飾られたクリスマスツリーに目を向ける。和彦が飾りつけ
を手伝ったときより、さらに派手に飾り立てられていた。
華やかな虚構の一時を味わわせてくれる店のクリスマスツリー
として、実にふさわしい存在感を放っている。
和彦はわずかに目を細めると、店をあとにした。
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