と束縛と


- 第15話(1) -


 十二月も中旬を過ぎると、本当に慌しいなと思いながら、和彦はふっと息を吐き出す。それでも、差し出された伝票にサインを して、大きな花束を受け取ったときには、意識しないまま笑みがこぼれた。
 華やかなイベントとは無縁の人生を歩んできた だけに、豪華な花束が次々に届くと、贈り手の思惑はともかく、やはり嬉しいものだ。
 配達人を見送ってドアを閉めた和彦 は、花の間に差し込まれたカードを取り上げる。そこには、ただK・Nというイニシャルだけが記されていた。開業日には大きな 花輪を贈ってやると言っていた男だけに、今日は花束で勘弁してくれたらしい。
 カードはジャケットのポケットに滑り込ま せて、和彦は待合室に戻る。
 今日の待合室は、いつもとは様子が一変していた。まるで、小規模なパーティー会場だ。堅苦 しいスーツ姿の男性たちや、華やかな服装の女性たちが、思い思いに過ごしている。待合室だけではない。今日はクリニックのほ とんどを開放しており、自由に見学できるようにしている。
 レントゲンの設置工事が完了したのを機に、クリニックの完成 パーティーも兼ねて内覧会を催したのだが、もちろん、和彦から提案したわけではない。
 関係各所への届けも問題なく終え、 あとは年が明けての開業を待つばかりだと、和彦は少し余裕を持って構えていた。だが、和彦の知らないところで、長嶺組は粛然 と準備を進めていたのだ。
 和彦はさりげなく待合室を通り抜けると、仮眠室に向かう。ここだけは鍵をかけており、和彦以 外の人間は出入りできないようにしてある。
 見られて困る秘密が――あるわけではなく、ただ、倉庫代わりにあれこれと荷 物を押し込んでいるので、招待客たちの目に晒すのははばかられるのだ。
 デスクの上にはすでに花束の山ができており、新 たな花束が加わることで、さらに華やかさが増す。仮眠室内には花の香りが満ちていた。
 少しここで休憩したいところだ が、〈主役〉が身を隠すわけにもいかない。和彦はすぐに部屋を出ると、また鍵をかけてから、今度は給湯室を覗く。
 こち らでは、飲み物が準備されているところだった。ホテルのケータリングサービスを頼んだのだが、サービススタッフの手際もよく、 料理も飲み物も一括して管理してもらっているため、和彦としては気がかりが減ってありがたい。
 サービススタッフと言葉 を交わしてから、診察室と手術室を覗き、見学している招待客と、彼らに設備の説明をしている業者の人間の様子を見守る。
 内覧会の間、先生は優雅に座っていればいいと言われているが、そういうわけにもいかない。
 代表者は別の人間の名にな ってはいても、実質的にクリニックを切り盛りすることになるのは、和彦なのだ。訪れる招待客への挨拶や、運営方針の説明は、 和彦でなければできない。
 とにかく、目が回るほど忙しい。一応、研修も兼ねて、先日雇い入れたばかりのスタッフも呼ん ではいるのだが、案内や受付の仕事を任せるのがせいぜいだ。結局和彦が、個別に招待客の応対をしている。
 それでも、大 半の招待客がブッフェ形式となっている料理を取り分け、飲食しつつ談笑を始める頃には、ようやく和彦も一息つける状況となる。
 それを待っていたように、声をかけられた。
「――佐伯先生」
 聞き覚えのある声に、和彦はパッと振り返る。い つからそこにいたのか、窓際に置いたイスに由香が座っていた。
 ロングブーツにミニスカート、丈の短いジャケットという 服装は、防寒よりもオシャレを優先するという、若い女の子らしい気概がうかがえる。実際、若くて可愛い顔立ちがさらに溌剌と して見えるのだ。
 和彦は足早に由香に歩み寄った。
「ありがとう。来てくれたんだね」
 医者と患者として知り合 った二人だが、今では互いの特殊な立場もあって通じ合うものがあり、限りなく友人に近い関係だ。
 男の身で、長嶺組組長 の〈オンナ〉である和彦も他人のことは言えないが、由香は、二十歳という若さで、昭政組組長の愛人なのだ。しかも、その立場 を無邪気に楽しんでいる節すらある。
「もちろん。なんといってもわたし、先生のクリニックの顧客第一号になるって決めて たんだから。だから、内覧会に招待してもらえて、嬉しかったんだよ」
 由香に隣のイスを勧められ、和彦はやっと座ること ができる。内覧会が始まってから、ずっと立ちっぱなしだったのだ。
 思わず安堵の吐息を洩らすと、すかさずスタッフが、 グラスに入ったオレンジジュースを持ってきてくれた。
「正直、君を招待したいと言ったら、難波組長が気を悪くするかなと 思ったんだ。それで一応、うちの――長嶺組長に意見を求めたら、かまわないと言われて……」
「大丈夫よ。難波組長、もう 先生のこと警戒してないから。バカ息子の鼻を治してあげたんでしょ?」
 思いがけない由香の発言に、聞いていた和彦のほ うがぎょっとしてしまう。由香は、やけに赤い舌をチロッと覗かせて笑った。
「ナイショね、今言ったこと」
「……ぼく だって命が惜しいからね」
「わたしだって惜しいよ。だってここ、怖い人もけっこう来てるし」
 由香の言葉の意味をす ぐに理解し、和彦は小さく声を洩らす。由香は楽しそうに目を輝かせ、周囲を見回す。
「難波組長と、ときどき一緒に飲んで いる人も、何人か来てるみたい。女の人たちのほうは、なんとなく水商売っぽいよね。奥さんを連れて来てる人もいるのかな」
 内覧会の招待客は、大半が長嶺組の人脈によるもので、和彦はリストを見せられて頷いただけだ。美容外科クリニックを経営す るとなれば、派手な広告は必要なくても、やはり患者を呼び込まなくてはならない。昼間の営業がカムフラージュだからこそ、健 全で良心的なクリニックをアピールする必要があるのだ。
 患者を選ぶなんてことはしたくないが――。和彦は、由香を倣っ て周囲を見回し、軽く息を吐き出す。
 堅気でない患者であったとしても、堅気を装うことは簡単だ。昼間のクリニックに出 入りしても怪しまれない程度の気遣いは、この場にいる人間たちはしてくれるだろう。
 今日の内覧会は、それを和彦が知る ためにも必要だったのかもしれない。意外に、ヤクザと堅気の境界線は曖昧で、不確定だ。
「……クラブをいくつか経営して いる知り合いがいるんだ。彼に頼んで、うちのクリニックの営業活動をしてもらおうかな」
「頼んじゃえ、頼んじゃえ。水商 売の人たちの口コミってバカにできないよ。でも、佐伯先生ががんばらなくても、患者さんには不自由しないんじゃない?」
 和彦が首を傾げると、由香はわずかに目を細めた。年相応の可愛い女の子の顔が、このときだけは年齢不詳の妖しい女の顔とな る。
「難波組長が言ってたの。このクリニックに期待してる人間は多いって。何かと物騒な世界だから、大きな組織がバック についていて、口が堅くて、しっかりした設備を自由に使えるお医者さんは貴重らしいよ。だから、わたしが佐伯先生のお得意さ まになることは、大目に見てやるって言われちゃった。いざというとき、わたしを通じて、佐伯先生に仕事をお願いするつもりな のかも」
 由香の軽い口調で言われると、かえって自分の重い現実を痛感させられる。和彦は口元に微苦笑を刻んでいた。
「組からの仕事は、組同士で話を通してくれればいい。だけど君個人が相手なら、ぼくは喜んで相談に乗るよ。これでも美容外科 医だから、専門的なアドバイスをしてあげられる」
「愛される愛人でいるために?」
 見た目は砂糖菓子のように甘い由 香だが、言うことはなかなか辛辣だ。和彦が返事に困ると、由香は楽しそうに声を上げて笑った。
 だがすぐに、ふと思い出 したように傍らに置いた紙を取り上げた。受付で渡している、このクリニックのパンフレットだ。
「ところで佐伯先生」
「何?」
「クリニックの名前、ちょっと地味すぎると思う。『池田クリニック』って……。池田って、ここの住所の池田町か ら取ったんでしょう?」
 由香の指摘に、和彦は頷く。クリニックの名については、実はさほど悩まなかった。
 和彦も、 名義貸しに加担しているだけのクリニックの代表者も、表に堂々と名が出ることは望んでおらず、だからこそ無難に地名を使った のだ。
「わかりやすいだろ?」
「えー、もっと派手なのにすればよかったのに。なんか横文字で、カッコイイの」
「漠然としたイメージだな」
 なんだか千尋と話しているみたいだなと思うと、つい由香との会話――というより、おしゃべ りに引き込まれてしまう。
 コロコロとよく笑う由香につられて、和彦も顔を綻ばせて話していたが、ふと、視線を感じる。 何げなく視線を向けた先に、見知った人物が立っていた。
 同様に由香も気づき、その人物に手を振った。
「中嶋さーん、 こっち、こっち」
 由香が気軽に呼びかけると、中嶋は好青年そのものの笑顔を浮かべ、こちらにやってくる。
 この場 にいる男性たちの大半は、年齢も立場も中嶋より上のはずだが、それでも臆した様子はない。平均を上回るハンサムな顔立ちをし た青年が、スーツ姿で颯爽と歩く様は、待合室に新鮮な風を運び込んでくれたようにも感じる。
 和彦は隣のテーブルにグラ スを置くと、立って中嶋を迎えた。
「わざわざ来てくれてありがとう」
 そう言って笑いかけようとした和彦だが、この とき心の中では、チクチクとした痛みを感じていた。棘が、良心に刺さる痛みだ。
 忘れていた――というのは失礼な表現だ ろうが、実は今日まで、自分と中嶋の関係が微妙な状態にあることを、意識していなかった。
 中嶋が一瞬、訝しむような眼 差しを向けてきたので、気を取り直した和彦は笑みを浮かべる。
「まさか、君が来てくれるとは思っていなかった」
「先 生にはお世話になっていますからね。ありがたいことに、先生は、俺には気を許していると思っているみたいなんですよ。うちの 組織は」
「そう思われていることに、君は意見しなかったのか?」
「する必要はないでしょう」
 悪びれたふうもな く、こんなことを言えるのは、中嶋の特性だ。総和会の中で、自分の価値を高めるためなら、この男は和彦を利用する。そのこと を、当の和彦に隠そうともしないから、憎めないのだが。
 和彦は軽く肩をすくめる。
「せいぜいぼくとの友情を、高く 売ってくれ。君が出世したら、ぼくにもいいことがあるかもしれないから」
「ええ、期待して待っていてください」
 二 人の会話を、由香は楽しそうに目を輝かせて聞いている。一見して、物騒な世界とは無縁そうな三人だが、和彦は長嶺組、中嶋は 総和会、由香は昭政組と深く結びついている。事情を知っている気安さで、うっかり妙なことまで口走りそうだと思い、和彦は一 旦この場を離れることにする。
「このイスに座ってくれ。何か欲しいものがあれば、頼んで――」
「大丈夫ですよ、先生。 自分でやりますから。先生は他のお客様のお相手をしてください」
 中嶋の言葉を受け、他の客の元へと行こうとした和彦は、 さりげなく肩越しに振り返る。すでに中嶋は、由香と楽しげに何か話していた。
 違和感のないカップルに見えるが、一方は ヤクザの組長の年若い愛人で、もう一人は切れ者のヤクザという事実は、ひどく味わい深い。
 自分も人のことは言えないが、 と和彦が口元に苦い笑みを浮かべたとき、ふと中嶋がこちらを見た。後ろめたさの裏返しだが、中嶋の目に敵意が潜んでいないか 探ってしまう。
 中嶋の目にあるのは、切れ者のヤクザらしくない揺れる気持ちと、熱っぽさだった。


 無事に内覧会を終えた安堵感に、和彦はソファに腰掛けたまま、ぐったりとする。ようやく一人となり、緊張は完全に解けてし まった。
 最後の招待客を見送ったあと、スタッフたちに手伝ってもらってクリニックを片付け、来客用に用意したテーブル やイスも、業者によって運び出された。
 ただ、内覧会のために移動させた家具をまだ元の位置に戻していないので、待合室 はどこか雑然としている。
 そろそろ帰ろうと思うのだが、疲れきった体はなかなか動かない。
 もう少しこうしていよ うかと思っていたところに、待合室に入ってくる足音がした。顔を上げると、コンビニの袋を手にした中嶋が立っていた。さすが に驚いた和彦は、姿勢を戻す。
「……帰ったんじゃないのか」
 しっかりとクリニックを見学し、どんな施術ができるの かといった質問までぶつけてきた中嶋は、内覧会の招待客としては申し分がなかった。和彦は、ぜひ患者を紹介してくれと冗談交 じりに言って、土産を渡して中嶋を見送ったのだが――。
 中嶋はニヤリと笑みを見せてから、待合室を見回す。
「片付 けを手伝うつもりだったんですけど、少し来るのが遅かったみたいですね」
「その気があるなら、明日来てくれ。清掃業者を 入れたあと、待合室を元の状態に戻したいんだ。だけど、組の人間を使うわけにはいかないし……」
「あれっ、俺も組の人間 ですけど?」
 わざとらしく問いかけられ、和彦はつい笑みをこぼす。ソファに座り直してスペースを空けると、声をかける までもなく、中嶋は隣に腰掛けた。
「君は、見た目だけなら好青年だからな。イイ男が出入りするクリニックとして、評判を 上げる手伝いをしてくれ」
「――見た目だけですか?」
 冗談のようでいて、意外に鋭い問いかけに、和彦は返事に詰ま る。そんな和彦を見て、中嶋は唇の端を動かした。皮肉っぽくも、自嘲気味にも見える微妙な表情だ。
 中嶋が差し出してき たお茶のペットボトルを受け取る。ありがたいことに、温かい。すでにクリニック内の暖房は切ってしまったため、体が冷えてい たのだ。
 さらに勧められるまま和彦は肉まんも受け取り、一口食べる。
「美味しい……」
「内覧会の間は忙しくて、 ほとんど食べられなかったかと思って。まあ、俺も食べたかっただけなんですが」
 そう言って中嶋も肉まんにかぶりつく。
 食べている間は、沈黙を意識しなくていい。一人でいたところに中嶋が突然現れ、内心では身構えていた和彦だが、肉ま んを食べていると、いくらか肩から力も抜けてくる。
 ペットボトルに口をつけながら、吸い寄せられるように中嶋の横顔に 視線を向ける。
 和彦が中嶋に抱く感情は、これまでになく複雑だ。いままでも、この青年に対してどう接すればいいのか戸 惑っている部分はあったが、友情めいた感情もあった。だが今は、そこに生々しい――艶かしい感情も入り混じる。
 兄の英 俊と出会ったことで精神的に参ってしまい、ようやく立ち直ったところに、今日の内覧会も含めて、クリニック開業の準備に追わ れていた。和彦に、〈他人の恋路〉について考え込む余裕はなかった。
 そう、中嶋は、秦に想われているのだ。それどころ か、動物的で直情的な欲情を抱かれている。なのに中嶋は、何も知らない。
 さらに事態を複雑にしているのは、和彦は中嶋 と、キスしているということだ。
 考えれば考えるほど、奇妙な関係だ。秦と中嶋、中嶋と和彦、和彦と秦の関係は。
  物思いに耽る和彦に気づいた中嶋が、やけに色っぽい流し目を寄越してきた。
「ドキドキしますね、先生にそんなふうに見つ められると」
 我に返った和彦は、慌てて正面を向き、肉まんを食べる。
「……言うことが、〈誰か〉に似てきたんじゃ ないか」
「誰か?」
「わかっているんだろ。ときどき感じるんだ。君の物言いは、彼に似ている」
 ああ、と声を洩 らした中嶋は、困ったような顔をする。
「ホスト時代、秦さんの接客の仕方を勉強して、マネしていたんですよ。接客だけじ ゃない。着るものから、香水まで。そのときの癖が染み付いているんでしょうね。砕けた話し方のときはそうでもないんですが、 親しくなりたいと人と話すときはどうしても……、秦さんの影響が出てしまうんでしょう。あの人の柔らかい話し方は、反感を買 いにくいですから」
 中嶋の話に、今度は和彦のほうが困った顔になる。こういうことをはっきりと聞いてしまうのは 抵抗があるが、気になったのだから仕方ない。
「親しくなりたい、って……、本気で言ってるのか? 利用し合いたいと言わ れたほうが、まだ素直に受け止めやすいんだが……」
「先生も、この世界に染まってきましたね。人の言葉の裏を読みたがる なんて」
「相手によるんだ」
 まじめに和彦が応じると、中嶋は楽しそうに声を洩らして笑う。
 中嶋のそんな様子 を見て、やっと和彦は察した。片付けの手伝いをするつもりが、来るのが遅くなったと中嶋は言っていたが、これはウソだ。本当 は、和彦が一人になるタイミングを見計らっていたのだ。
 中嶋がそうする理由は、限られている。少なくとも和彦は、一つしか 思いつかない。
 肉まんを食べ終え、しっかりとお茶も飲んでから、一呼吸置いて切り出した。
「――その後、彼とはど うなんだ」
「秦さんですか?」
「他にないだろ。君がなかなか本題を切り出さないってことは」
「先生はすっかり、 俺の恋愛カウンセラーになりましたね」
 ピクリと肩を震わせた和彦は、もう一口お茶を飲んでから、しっかりと口を湿らせる。 そして、さりげなく指摘した。
「恋愛、か」
「おっと、口が滑りましたね。言葉のアヤなので、あまり突っ込まないでく ださい」
 芝居がかった中嶋の口調すら、なんだか健気に思えてくるから困る。言った本人は、平気な顔をしてお茶を飲んで いるというのに。
 ただ、それが演技かもしれないと思ってしまうのは、もしかするとヤクザの手口にすっかり引き込まれた せいかもしれない。その証拠に和彦は、中嶋を放っておけない。友情に近い感情ももちろんあるが、それ以上に、奇妙な愛情めい たものを感じるのだ。
 普通の青年の顔をして、〈女〉を感じさせるという、厄介な相手にもかかわらず――。
 そんな 中嶋に対して秦は、倒錯した欲情を抱いている。他人からすれば、お似合いの二人ではないかと思うのだが、ヤクザと、ヤクザの 世界に限りなく近い場所にいる男同士、そう簡単ではないようだ。
「……別に、言いたくないなら、それでいいんだ。ぼくだ って、他人の事情にズカズカと踏み込むつもりはないし、本来は、君らでケリをつける問題だろうしな」
「ケリなんて、 つくんでしょうか……。俺は一人で、気色の悪い道化を演じているんじゃないかって気がしてくるんですよ」
「気色悪いなん て言われたら、ヤクザの組長の〈オンナ〉は立つ瀬がないな」
 和彦がちらりと視線を向けると、中嶋はニヤリと笑った。
「気にしないでください。俺は本来、口が悪いんです。――相変わらず、秦さんからは避けられているように感じて、少し荒んで いるんでしょうかね。仕事はきちんとやっているつもりですが、相手が先生だと、どうしても気が緩む」
「愚痴ぐらいなら、 聞いてやる。君とは浅からぬ仲だし」
 和彦としてはきわどい冗談を言ったつもりだが、わざとなのか、中嶋は真顔で頷いた。
「――少し前まではジム仲間だったのに、今は、キス友達ですね」
 察するものがあり、和彦は反射的に立ち上がろうと したが、遅かった。中嶋に腕を掴まれて引っ張られる。
「おいっ……」
「先生は、俺を慰めるのが得意でしょう」
「いつ、そうなった」
「先日、先生に慰めてもらったときに」
 悪びれた様子もない中嶋を睨みつけた和彦だが、本気で 怒るつもりはない。こういう甘さを、中嶋に――ヤクザに見透かされてしまっているのだから、勝ち目があるはずもなかった。
 空になったペットボトルを傍らに置くと、待っていたように中嶋に抱き寄せられる。和彦はおとなしく中嶋の両腕の中に閉じ込 められながら、どうしよう、と心の中で呟いた。
 中嶋が嫌な男であれば、大声を出すなり、抵抗するのは簡単なのだ。しか し中嶋は、少なくとも和彦の前では、そんな面は見せない。それどころか、ひどく危うい部分を見せ、放っておけない。自戒して いたつもりだが、中嶋と秦の事情に深入りしすぎたのだ。
「……そこまで思い詰めるぐらいなら、自分の気持ちを素直に言っ たらどうだ」
「俺がふざけてキスをしたぐらいで、避けられているのに? 俺が本気だと知ったら、逃げられますよ」
「秦は、逃げたりしない」
 中嶋に捻くれた欲情を抱いている男が、そんなことをするはずがなかった。むしろ、避けられた 中嶋が困惑し、懊悩する姿を楽しんでいると考えるほうが、しっくりくる。あの男は、そういう性癖の持ち主だ。
 追い詰め られた中嶋が理性をかなぐり捨て、動物のようにがむしゃらになる瞬間を待っていたとしても不思議ではない。
 秦の一面を 知ってしまうと、そう勘繰りたくもなる。
「ずいぶん、秦さんのことを知っているようですね」
 ふいにそんなことを言 われ、和彦は我に返る。寸前まで健気なことを言っていた中嶋は、今はしたたかなヤクザの顔をしていた。
 眼差しの鋭さに、 冷たい刃の先を喉元に突きつけられたようだ。
「ぼくはあの男と、友人同士じゃない。だからこそ、君が知らない面を見るこ ともあるんだ」
「――先生は普段、秦さんのことを呼び捨てにしているんですね」
 中嶋の言葉に、ねっとりと頬を撫で られたような気がした。
 やはり中嶋は、秦が絡むときだけ、〈女〉を感じさせる。そして和彦は、気圧されていた。
  当然の権利のように中嶋に唇を塞がれても、何もできなかった。
 痛いほど強く唇を吸われ、舌が口腔にねじ込まれてくる。 これまで交わした中嶋とのキスは二回とも、穏やかで丁寧だった。だが今は、とにかく必死で乱暴だ。
 嫉妬の感情をぶつけ られているのだとわかり、和彦は中嶋の腕の中で軽く身じろぐが、それ以上の力で押さえ込まれる。
 さすがに危機感が芽生 えていた。同時に和彦の内に熱い感覚が湧き起こり、小さく身震いする。認めたくないが、覚えのない感覚ではない。
 中嶋 とのキスに、初めて欲望の疼きを覚えていた。
 秦からの告白を聞き、愛撫と口づけを与えられたとき、和彦は倒錯した感覚 に襲われていた。秦に犯され、悦びに身悶える中嶋の姿を想像して、興奮していたのだ。もしかすると、犯す秦の身になって興奮 していたのかもしれないが、もうわからない。
 和彦の中に残っているのは、秦と中嶋の関係に関わることで得る、興奮と快 感の余韻だけだ。
「先生?」
 ふいに唇を離した中嶋に呼ばれた和彦は、自分の中の疼きを自覚して、うろたえる。思わ ず視線を伏せると、そんな和彦に何かを刺激されたように、中嶋がまた唇を寄せてくる。和彦は顔を背けようとしたが、簡単に唇 を塞がれていた。
 熱心に唇を吸われているうちに、和彦の脳裏に秦の言葉が蘇る。伏せていた視線を上げると、中嶋と目が 合い、そのまま視線が逸らせなくなった。
 和彦は、中嶋の首の後ろに手をかけると、秦にされたキスを忠実に再現する。今 度は中嶋がうろたえた素振りを見せたが、それも一瞬だ。次の瞬間には、和彦のキスに応え始めていた。
「んっ……」
  声を洩らしたのはどちらなのか、わからなかった。舌先を擦り合わせたとき、ゾクゾクするような疼きが和彦の背筋を駆け抜けて いったが、同じ感覚を中嶋も味わったのかもしれない。
 互いの唇と舌を吸い合い、口腔をまさぐる。差し出した舌を淫らに 絡め合う頃には、和彦はある事実を受け入れていた。
 中嶋とのキスが――というより濃厚な口づけが、気持ちいい。中嶋を 感じさせていることが、気持ちいい。
 そう感じたのは和彦だけではなかったようだ。ゆっくりと唇を離した中嶋が、興奮を 押し殺したような声で囁いてきた。
「……先生が求められる理由が、わかった気がしますよ。先生を感じさせるのが、すごく 楽しいんです。三度目のキスで初めて、先生に欲情しました」
 中嶋が欲情したのは、秦のキスに対してではないかと思った が、もちろんそんなことを言えるはずもない。和彦と秦が特殊な関係にあることを、中嶋は知らないし、知らせたくもない。
 和彦は努めて冷静なふりをして、こう返した。
「君のキスもなかなかだった」
 声を洩らして笑う中嶋を、和彦はじっ と見つめる。ふと真顔となった中嶋にもう一度唇を吸われ、そのまままた口づけに溺れそうになったが、和彦のジャケットのポケ ットの中で携帯電話が震えて我に返った。駐車場に護衛の組員を待たせたままなのだ。
 電話に出た和彦は、もうすぐクリニ ックを出ることを告げる。その間に中嶋は立ち上がり、ゴミを袋にまとめてしまう。
「俺は先に帰りますね。明日こそ手伝い ますから、連絡ください」
 中嶋に声をかけられ、電話を切った和彦は、多少の気恥ずかしさと気まずさを覚えながら、小さ く頷く。
 丁寧に頭を下げて中嶋は立ち去ろうとしたが、思い出したように立ち止まった。
「あっ、そうだ、先生」
「なんだ……」
「長嶺組経由で、先生にワインを送っておきました。俺からのクリスマスプレゼントです」
「なら、お返 しをしないと――」
 そう言いかけて和彦は、ドキリとする。つい最近、こんな会話を交わしたことを思い出したのだ。
 交わした相手は、秦だ。
 中嶋は食えないヤクザの顔をして、ニヤリと笑った。
「お返しなんてとんでもない。俺 はすでに、先生から〈いいもの〉をもらいましたよ」
 いいクリスマスを、と言い置いて中嶋の姿が見えなくなる。
 和 彦はソファに座り直すと、手の甲で唇を軽く擦ってから呟いた。
「――……動きたくない……」
 それでも気力を振り絞 って立ち上がり、帰り支度を始める。あれこれと考えるのは、部屋で体を休めながらでも遅くない。
 とにかく今日は、本当 に疲れた。









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