と束縛と


- 第16話(1) -


 マフラーの端を軽く払ってから、和彦は落ち着きなく周囲を見回す。明らかに、周囲の人間たちから注目を浴びていた。好奇心 と、それを上回る畏怖と嫌悪が込められた視線は、和彦を萎縮させるには十分だ。
 例え、それらの視線が和彦自身に向けら れているわけではなく、和彦がよく知る男たちに向けられているのだとしても、平然とはしていられない。
「――先生、わた しから離れないでください」
 和彦と並んで歩いている組員が、低い声で話しかけてくる。地味な色合いのスーツを着てはい るが、全身から放たれる鋭い空気が明らかに堅気のものではない。普段であればまだ、一般人の中にうまく溶け込めるのかもしれ ないが、元日の午前中、周囲を参拝客に囲まれてしまうと、どうしても浮いてしまう。
 しかし、隣を歩く組員よりさらに目 立つ存在が、和彦の数メートル先にいた。
 組長である賢吾を筆頭に、長嶺組の主な幹部や、彼らを護衛する組員たちの一団 だ。
 周囲を威嚇して歩いているわけでもないのに、男たちの存在は、怖かった。仕立てのいいスーツに身を包み、整然と歩 いてはいても、やはり一般人とは違うのだ。触れてはいけないという本能的な危機感を、見る者に与える。混雑する参道だが、長 嶺組の男たちを避けるために、不自然に人々は道を空けていた。
 衆目の中、この男たちの集団に加わる勇気がない和彦は、 少し距離を置いて歩いているというわけだ。賢吾にしても、無理やり和彦を隣に並ばせないということは、気をつかっているのだ ろう。
 もっとも人出が多いときに、何も初詣に出かけなくても、というのが和彦の率直な気持ちなのだが、しきたりを重ん じる男たちにその理屈は通用しない。
 組長と幹部たちが揃って神社に足を運び、参拝する。組員ではない和彦も、大晦日の 夜に賢吾に告げられた通り、半ば強引に同行させられた。
 和彦は、本宅を出るときに賢吾と交わした会話を思い出し、マフ ラーで隠した口元をへの字に曲げる。
 不思議そうな顔をして賢吾が、毛皮のコートは着てくれないのかと問うてきたのだ。 一応、本宅に持ってきてはいたものの、今のところまったく出番のない毛皮のコートを、和彦なりにもったいないとは思っている のだが、それと、羽織って外を出歩く勇気とは、まったく別物だ。
 悪目立ちしたくないという和彦の説明に、賢吾はニヤニ ヤと笑うだけだった。
 参拝を済ませて、来た道を引き返そうとした和彦は、授与所のほうを見る。せっかくなので破魔矢を 買いたいと思ったのだが、この状況では無理だろう。
 人並みに参拝できただけで、満足しておくべきかもしれない。そんな ことを考えながら、神社同様、混み合う駐車場に戻ると、周囲の視線を気にかけつつ賢吾と同じ車に乗り込む。
「――先生、 欲しいものはないのか?」
 突然の賢吾の言葉に、マフラーを外していた和彦は手を止める。
「えっ……」
「組の人 間とぞろぞろ連れ立って歩いていたら、悠長に露店を覗くこともできなかっただろ。欲しいものがあれば、若い者に買いに行かせ るぞ」
「……別に、ない」
「本当に?」
 和彦の心を見透かすように、賢吾が顔を覗き込んでくる。意地を張るよう な状況でもないので、正直に告げた。
「せっかく初詣に来たから、破魔矢が欲しい……」
「すぐに買ってこさせよう。本 宅や事務所に飾る分もな」
 賢吾の言葉を受けて、すぐに助手席の組員がウィンドーを下ろし、外に立っている組員に小声で 何か囁く。これで、和彦の望みは叶えられる。
「悪いが先生、少し待ってくれ」
「破魔矢ぐらい、ぼくが買いに行って も――」
「人ごみに揉まれてヘロヘロになった先生を、総和会の会長の前に立たせるわけにはいかねーな」
 賢吾が横目 でちらりとこちらを見る。一瞬返事に詰まった和彦は、乱暴にシートに体を預けた。
「……やっぱり、行かないといけないの か」
「いまさら何を言ってる。いい加減、覚悟を決めたらどうだ」
「あんたは、自分の父親のことだから、そう簡単に言 えるんだ。ぼくにとっては、とんでもない人物という認識しかないんだからな」
「俺相手に、これだけポンポンとものが言え るんだ。先生に怖いものなんてないだろ」
 まさか、と答えて、和彦はウィンドーのほうへと視線を向ける。
「――……あ んたと千尋しか知らないが、長嶺の男は怖い……」
「だが、先生を大事にしてる」
 ぐいっと肩を抱き寄せられ、和彦は 賢吾の胸にもたれかかる格好となる。こんな場所で不埒なことをするなという意味を込め、軽く睨みつけてはみたのだが、大蛇の 化身のような男は動じない。
「長嶺の男は、情が強(こわ)いと言ってもらいたいな」
「身をもって感じているところだ」
「まだまだ、長嶺の男の本気は、こんなものじゃない」
 楽しげに言い切った賢吾にあごを持ち上げられ、唇を吸われる。
 和彦の体には、その長嶺父子に求められ、貪り合った行為の余韻が、疲労感として残っている。なんといっても、昨夜の出 来事だ。しかも千尋が眠ったあとは、夜更けまで賢吾と睦み合っていたのだ。今朝は体がだるくてたまらず、入浴するのも一苦労 だった。
 体に残る感触すべてが、長嶺父子の情の強(こわ)さを物語っている。自分の存在が、今はその父子に所有されて いるのだとも。
 体の奥がズキリと疼き、和彦は小さく身震いする。口腔に賢吾の舌が入り込み、感じやすい粘膜を舐められ る心地よさに目を閉じようとしたとき、車内に携帯電話の着信音が鳴り響いた。助手席に座る組員のもので、低い声でぼそぼそと 話し始める。
 さすがに興が醒めたのか、賢吾が口づけをやめる。肩にかかった手の力がふっと緩み、急に気恥ずかしさに襲 われた和彦は、唇を手の甲で拭いながらドアのほうに逃れる。
 迂闊にウィンドーを下ろすなと言われているため、スモーク フィルム越しに外を眺める。その背後で、組員から携帯電話を受け取った賢吾が話している。聞く気はないが、どうしても会話が 和彦の耳に入った。
「――新年早々、お盛んだな。まあ、俺も人のことは言えねーんだが」
 どんな会話を交わしている のだと、つい気になって和彦が振り返ると、賢吾と目が合う。ニヤリと笑いかけられた。
「それで、俺に直接頼みたいことっ てのはなんだ」
 賢吾が話し込んでいる間に、助手席に座っている組員から甘酒を飲みませんかと尋ねられ、和彦は頷く。さ ほど待つことなく、紙コップに入った甘酒が外から届き、さっそく和彦は口をつけようとしたが、横から伸びた手に阻まれた。
 何事かと隣を見ると、賢吾が電話を切るところだった。
「先生、予定は変更だ」
「……新年早々、ぼくに何をさせる気 だ」
「先生の本業」
 一瞬にして状況を理解した和彦は、スッと背筋を伸ばして目を細める。賢吾は口元に笑みを湛えな がら、和彦の手から紙コップを取り上げ、美味そうに甘酒を啜った。


 元日から、なんとも気が重くなるような仕事だった。
 和彦の本来の仕事は美容外科医で、患者のコンプレックスを取り除 き、幸せになる手助けをするのが仕事だ。普段は、こういった理想や理念を意識することはなく、患者の望みに近づけるよう努め るだけだ。
 しかし長嶺組の専属医となってから、和彦はいくつかの不本意な手術を手がけていた。
 初詣をした神社の 駐車場で賢吾と別れ、組員が運転する車で向かったのは、『池田クリニック』だ。さすがに元日だけあってビル全体に人気はなく、 こんな日に慌しく動いているのは、後ろ暗いところがあるヤクザと、そのヤクザに手を貸す美容外科医ぐらいかもしれない。
 そんな皮肉っぽいことを考えた和彦が引き合わされたのは、中年の男だった。凡庸な顔立ちながら、一目で筋者とわかる険しさ が顔に張り付いている。
 その男が何者なのか和彦は尋ねもしないし、同行している組員たちも話そうとはしない。組絡みの 仕事は、これが普通なのだ。
 和彦への依頼は、男の顔を変えてほしいというものだった。それがどういう意味なのか、考え るまでもない。
 顔の骨を削れるほどの時間も人員もないとなると、取るべき手段は限られる。顔に異物を入れて、形を変え るしかないのだ。
 いつだったか千尋に言ったことがあるが、美容外科医としての和彦は、骨を削る技術に自信を持っている 反面、安易に異物を入れる手術があまり好きではなかった。これが自分のプライドだと思っていた時点で、驕っていたのだろう。
 今の立場は、そういうプライドを徹底的に砕いてしまい、相手の要望に短時間で応える技術や要領が、否応なく身について きていた。
 あとで取り出すことを前提に、あごや鼻に異物を入れて、大まかに顔の印象を変える。さすがに瞼にはメスを入 れたが、これはあえて、二重の目を重く見せるための処置だ。点滴を含めて三時間ほどの処置だが、男の顔の印象は大きく変わる。
 男は最後まで口を開かなかったが、その代わりに、付き添いの組員から大げさなほどの労いと賞賛の言葉をもらった。だか らといって嬉しいわけではないが、長嶺組の専属医として評価されないよりはよほどいい。
 手術室を片付けた和彦がクリニ ックをあとにしたのは、昼をやや過ぎた頃だった。手術そのものは迅速に行えたということだ。
 本宅へと戻る車の中で和彦 は、シートに体を預けながら、慎重に手首を動かす。年明け早々の仕事に、手首だけでなく、指が強張っていた。
 着替えて 少し休みたいと思っていたが、本宅の前を通りかかったとき、それは無理だとすぐに諦めた。大晦日ほどではないが、本宅の前に は高級車がずらりと並び、いかつい男たちが辺りを睥睨するように視線を向け、警戒している。
 午後から夜にかけて、長嶺 組から盃を受けている組が、新年の挨拶のため本宅を訪れるのだという。当然、組長である賢吾は、そのすべてに応対しなければ ならない。
 昔は三が日が明けてから、新年の挨拶を受けていたそうだが、〈働き者〉揃いの総和会のおかげで、慌しい正月 につき合う習慣になったのだという。
 混乱を避けるため、長嶺組の身内扱いである和彦は裏口に車を回してもらい、そこか ら家の中に入る。
 その足で客間に向かおうとしたが、待ちかねていた組員に呼び止められ、応接間へと案内される。着物姿 の賢吾がソファに腰掛けていた。
「ご苦労だったな、先生。楽しい正月だっていうのに」
「……表の光景を見たあとで、 あんたのその言葉を聞くと、笑えない冗談としか思えない」
「俺は、人望があるんだぜ。誰も彼も、正月に俺に会いたがる。 正月に俺への挨拶を許されるってことは、長嶺組が今年一年、しっかり面倒見てくれる証なんだそうだ」
 手招きされた和彦 が賢吾の側に歩み寄ると、組員たちの視線を気にかけた様子もなく、腰を抱き寄せられた。
「そう言われるということは、あ んたは面倒見のいい組長なんだな」
「なんだ。お年玉代わりに褒めてくれるのか?」
 上目遣いに見上げてきた賢吾の意 味ありげな表情を見て、和彦の顔は熱くなる。大晦日の夜、〈お年玉〉だと言われて賢吾に何を求められたのか、思い出したのだ。
 和彦の動揺する姿を見られて満足したらしく、賢吾は腰から手を離した。
「ちょっと遅くなったが、昼メシを食ってく るといい。大広間は、挨拶に来た連中が集まって飲み食いしている。顔出して、挨拶してくるか?」
 本気とも冗談とも取れ る賢吾の言葉に、和彦は遠慮なく首を横に振る。
「疲れてるんだ。……新年早々、こんな不景気な顔を人前に晒したくない」
「不景気どころか、疲れているときの先生は、なかなかのもんだぞ。その気がない男でも妙な気分にさせる、性質の悪い色気 があるんだ」
「ぼくなら、そんな性質の悪いものに、正月からあたりたくない」
「……うまい切り返しだ」
「鍛えら れてるからな」
 賢吾なりに、和彦との会話は気分転換だったのだろう。楽しげに喉を鳴らして笑ったあと、軽くあごをしゃ くった。
「うちの連中は、ダイニングで交代で昼メシを食ってる。もうほとんど食い終わっただろうが、先生が楽しみにして いたおせちが残ってるはずだ。食ってくればいい。夜から、俺や幹部たちと一緒にまた出かけてもらうが、それまではゆっくりと 過ごせ」
 わかった、と応じて和彦は応接間を出ていこうとしたが、大事なことを思い出して足を止める。
「予定が狂っ たと言ってたが、総和会の会長への挨拶は――……」
 こう切り出したとき、自分の声にわずかな期待が込められていること を、和彦はよく自覚していた。賢吾は大仰に片方の眉を動かす。
「俺たちは済ませたが、先生だけ、また日を改めるしかない だろうな。いつになるかはわかんねーが。何しろ、気まぐれなジジイだ。残念だったな、先生。〈楽しみ〉にしていたのに」
「まったくだ」
 賢吾の当て擦りを、まじめな顔で和彦は躱した。
 総和会会長との顔合わせがキャンセルとなり、ダイ ニングへと向かう和彦の足取りは、どうしても軽やかなものとなる。何より、ようやくおせち料理が食べられると、楽しみにして いた。朝食では雑煮が振る舞われたが、それもまた美味しかったのだ。
 正月らしく、ようやく浮かれ気分に浸った和彦だが、 それも、ダイニングに向かうまでの間だった。
 何げなくダイニングを覗き、意外な人物の姿があることに目を丸くする。相 手もすぐに和彦に気づき、優雅に微笑みかけてきた。
「――お先にいただいています、先生」
 そう言って秦が、手にし た小皿を軽く掲げて見せてくる。その小皿の上には、和彦が味見した伊達巻がのっていた。
 給仕をしている組員に呼ばれ、 和彦は渋々、秦の隣の席につく。
「……ここがヤクザの組長の家だってことを、一瞬忘れそうになった。元ホストのイイ男が 寛いで、おせち料理をつついているんだからな」
「組長への挨拶を済ませたら、すぐにお暇するつもりだったんですが、せっ かくだからおせちを食べていけと言っていただけたので、遠慮なく。それに、食べている間に、先生も戻られるんじゃないかと思 ったんです」
「なんだ。ぼくにお年玉でもくれるのか」
 和彦の返しに、秦だけでなく、吸い物を出してくれた組員まで 噴き出した。
 ようやくおせち料理を味わいながら、秦と他愛ない話をする。一見、優雅な新年を送っているように見える秦 だが、明日から仕事始めだそうだ。
「経営者も大変だな」
 そう相槌をうった和彦に対して秦は、艶やかすぎるからこそ 胡散臭く感じる眼差しを向けてくる。
「先生だって、クリニック経営者でしょう」
「どこがだ。表向きの経営者は別の人 間になっているし、実質的にも、すべてを決めるのは長嶺組だ。ぼくは、言われるままに患者を診るだけだ」
「でも、先生が いないと、あのクリニックは動きませんよ」
 思わず箸をとめた和彦は、秦の指摘の正しさを認める。長嶺組の意向が強く反 映してはいても、自分のクリニックだという意識は、確かに和彦の中にあるのだ。
「……自分の力で手に入れたものなら、胸 を張れるんだがな」
「まあ、わたしも、実業家という肩書きを手に入れた経緯は、人に誇れるものじゃないんですが」
  首を傾げた和彦に、秦はそっと声を潜めて教えてくれた。
「父の〈隠し財産〉を使ったんです」
「表にできない金という やつか?」
「そう、わかりやすいものならよかったんですけどね。――長嶺組長が非常に興味を持たれているものです」
 艶やかな存在感を放つ秦は、見た目の華やかさとは裏腹に、謎が多くて胡散臭い。帰化して国籍が変わったという告白もあって か、和彦には想像もつかない業を背負ってもいるようにも思える。
 それに、中嶋に対する倒錯した執着や、捻くれた欲情を 知ってしまうと、端麗な容貌のこの男から、獣の素顔が透けて見えそうで、不気味だ。だからこそ、ヤクザとの親和性が高いとい えるのかもしれない。
 もしかすると、ヤクザの〈オンナ〉とも――。
 和彦は箸を置くと、両耳を塞ぐ仕草をする。
「物騒な話なら、聞きたくない。君の過去は、ヤクザとは種類の違う、危ない匂いがプンプンするんだ。聞いたら、嫌でも関わる ことになる」
「今のような環境にいて、その姿勢を貫こうとするのは、すごいですね」
「……そういうことで褒められて も、嬉しくない」
「でも、先生自身が危ない連中を引き寄せている事実がある以上、その姿勢はかえって魅力的とも言えます」
 本当に嬉しくない言われようだ。口中で小さく毒づいた和彦は、気を取り直して食事を再開する。隣にどんな男がいようが、 おせち料理は美味しいのだ。
 当の秦は、組員にしっかりコーヒーまで淹れてもらい、こちらも美味そうに啜っている。明ら かに、和彦が食事を終えるのを待っている様子だ。
 最初は気づかないふりをして席を立とうかとも思ったが、和彦と秦はま だ、交わすべき会話を交わしていなかった。
 秦のせいで和彦は、不可解な衝動を胸の内に抱えてしまった。これはきっと、 和彦の特別な男たちといくら会話を交わし、口づけをして、体を重ねたところで消えはしない。和彦自身、扱いかねている、欲情 だ。
 この欲情と、早々に折り合いをつけてしまいたかった。理解するのはもちろん、どうやって〈散らす〉べきなのかとい うことも。
 和彦が食べ終えると、お茶と一緒に出されたのは、グラスに入ったオレンジジュースだった。こんなときでも忘 れないのだなと、密かに苦笑を洩らしてから、一気に飲み干す。
「――先生、よければ、近所を散歩しませんか?」
 絶 妙のタイミングで秦が切り出し、和彦は頷いた。


「正月に、ヤクザの組長の本宅から、その組長のオンナを連れ出すなんて、度胸があるな」
 和彦はコートのポケットに両手 を突っ込んで歩きながら、呆れた口調で言う。隣を歩く秦は、様になる仕草で肩をすくめた。
「なんといってもわたしは、組 長公認の〈遊び相手〉ですから。先生を散歩に連れ出すのに、度胸なんて必要ありません」
「護衛も断った」
「体を張っ て、わたしが先生を守りますよ。それに何かあれば、組員の方たちが駆けつけられる距離ですから、安心してください」
 和 彦は、歩いてきた道を振り返る。秦の言う通り、本宅と、目的地であるという広場までは、わずかな距離だ。散歩と表現するのも はばかられる。
「……別に本気で、自分が誰かに襲われるとは思ってない。本当は、いつも張り付いている護衛の組員も必要 ないと思っているぐらいだ」
「それは仕方ないでしょう。なんといっても先生は、長嶺組にとって大切な人だ。それに今 は――いろいろあるでしょう?」
 和彦は横目で秦をうかがう。口にはしないが、和彦が強い拒絶を示したことを察したらし く、秦はそれ以上、佐伯家のことを匂わせなかった。
「わたしとしても、先生に護衛がついていない状況はありがたいです。 先生には、大事なお願いをしてあることですし」
「大事なお願いって……」
 薄い笑みを浮かべた秦が、自分の口元を指 さす。ああ、と声を洩らした和彦は、顔をしかめる。
「君に避けられ続けて、少し落ち込んでいるようだったぞ、中嶋くん。 ぼくとしては、困惑する彼の姿を想像して、君は楽しんでいるんじゃないかと思っているんだが――」
「残念ながら、本当に 忙しかったんです。しかし中嶋は、先生に対しては素直なんですね。少し妬けますよ」
「……自分の素性を明かしもしないく せに、相手の心の内は知りたいなんて、ずいぶん都合がいいな。それだけで愛想をつかされても、仕方ないぞ」
「手厳しい」
「ぼくだって、彼に隠し事をしていて、心苦しい思いをしているんだ。少しぐらい言わせてくれ」
 苦笑した秦に促され、 広場に入る。初めて立ち寄ったが、住宅街の中にあるこの場所は、広場とはいっても、整備されたグラウンドがあるわけでもなく、 子供がボール遊びをできる程度のスペースと、こじんまりとした遊具がいくつかあるぐらいだ。しかし、景観はいい。花壇や 植木はきれいに手入れされ、ゴミ一つ落ちていない。この辺りの住人たちに大事にされている場所のようだ。
 ただし、元日 の昼下がりに、寒さに震えながら広場で過ごそうという物好きは、和彦と秦の二人しかいない。
 和彦はジャングルジムに歩 み寄り、パイプに手をかける。ここで、マフラーをしてきたものの、手袋を忘れたことに気づいた。両手を擦り合わせて温めよう とすると、すかさず秦に両手を挟み込まれた。
 驚いて目を丸くする和彦にかまわず、秦は鼻歌でも歌い出しそうな表情で、 優しく手をさすり始める。
 武骨さとは無縁のこの手が繊細に動き、どんな快感を生み出すのか、和彦は知っている。それに、 この手を本当に欲している男のことも。
「……君がどれだけすごいホストだったのか、よくわかるな」
「相手が先生だと、 尽くすほうとしても身が入りますよ」
「どうせ尽くしてくれるなら、下心のない相手のほうがいい」
「三田村さんのよう な?」
 和彦がジロリと睨みつけると、秦はおかしそうに声を洩らして笑う。正月ともなると、誰も彼も機嫌がよくなるもの なのだろうかと、和彦は少し不思議だった。
「さっきの話の続きだが……」
「先生は本当に、中嶋のことを心配してくれ ているんですね」
「彼を振り回している元凶が、何言ってる。……知らん顔はできないだろ。それにぼくも、彼とはちょっと 込み入った事情がある」
「その口ぶりだと、わたしのキスをしっかりと、中嶋に教えてくれたということですか」
 どう 答えるべきなのかと、本気で和彦は悩む。それが何より雄弁な返事になっていたらしく、秦はくっくと声を洩らして笑う。
「おい――」
 和彦が声を荒らげようとした瞬間、握られていた手がパッと離される。秦の両腕が体に回され、しっかりと抱 き締められていた。
「……ぼくは、君が抱きたい男の〈教育係〉なんて、やる気はないからな」
 甘く絡みつくような抱 擁が、しっかりと寒さを防いでくれる。秦の腕の中で強気な発言をするのは、なかなか至難の業だ。
 自分の美貌の威力をよ く知っている秦は、容赦なく和彦の顔を覗き込んでくる。
「先生に接することで、嫌でも中嶋は変わらざるを得ない。貪欲で 淫弄な〈オンナ〉の本質に触れて、中嶋はリアルに感じますよ。男と体を重ねるということを。それが決して、綺麗事とは相容れ ない行為だということも。そういう意味で先生は、生きる教本みたいな存在です。いろんなことを中嶋に教えて、刺激してやって ください」
 秦の腕に力が込められ、和彦はわずかに身じろぐ。柔らかく艶やかな存在感を放ってはいても、こうしていれば、 秦がそれだけの男ではないと感じ取ることができる。明け透けな欲望を知っている分、〈雄〉という表現がしっくりくる。
「ぼくは、ヤクザと、ヤクザに近い連中の言うことは信じないようにしている。ウソの中に事実を紛れ込ませているのか、事実の 中にウソを紛れ込ませているのか、それすら読ませない、食えない奴ばかりだからな。だけど、これだけは信じられるんだ」
「なんです?」
「――肉欲。その点は、わかりやすい男ばかりだ。ぼくも含めて。もちろん、君も」
 この瞬間、秦の顔 から柔らかさが消える。少し余裕を失ったほうが、人間味が増して好感が持てると思いながら、和彦は秦の頬にてのひらを押し当 てた。
「本気で、抱きたいと思ってるんだな、中嶋くんを。純粋に、欲望の対象にしている」
 甘くぬるい感情の入る余 地のない、苛烈なほどの欲望だ。その欲望に、複数の男と同時に情を交し合っている和彦は、心惹かれる。
 和彦が向ける眼 差しの変化に気づいたのか、秦が顔を寄せ、目を覗き込んでくる。息もかかる距離に、和彦の鼓動はわずかに速くなっていた。
「あいつを組に紹介したわたしが言うのもなんですが、ヤクザなんて生き物になってくれたせいで、苦労しますよ。矜持だ誇り だと、高尚なものばかり身につけて、それを支えに野心を燃やしている男ですから、中嶋は。力ずくでわたしの〈オンナ〉にし た途端、あいつの何もかもを壊してしまいそうで。だから、あいつ自身が変わるのを待つしかない――。先生に出会うまでは、こ れでもけっこう、気長に待つつもりだったんですよ」
「一応、中嶋くんを大事にしているということか。組長に言わせると、 性癖が歪んでいる男なりに」
「いろんな愛し合い方を知っているだけです。それに、実践もしてみたい。こういう性質の悪い わたしにお似合いなのは、やっぱりヤクザという人種かもしれません」
「……中嶋くんのほうから、逃げ出すかもしれないぞ」
「そのときは、先生がサポートしてくれますよね?」
 秦にぶつけた言葉が、自分にそのまま返ってきたようだった。
 秦と中嶋の関係は、和彦を惑わせる。自分が、どちらの立場に立って興奮と快感を覚えているのか判断がつかなくなる。
  この曖昧な感覚に身を委ねたら、胸の内に息づく不可解な衝動を散らせるのだろうか。
 ふとこう考えた瞬間、和彦の中を甘 美な感覚が駆け抜ける。誘われたように、秦が和彦の唇を軽く塞いできた。
「――先生、今、感じている顔をしてますね」
 間近で秦がそう囁き、舌先で唇をなぞる。心地よさに、和彦は喉の奥で声を洩らした。
 この口づけも中嶋に教えるべきな のだろうかと思いながら、秦と舌先を触れ合わせ、緩やかに絡める。
 昨夜、布団の中で繋がりながら、賢吾に言われた言葉 が蘇っていた。
 大蛇の化身のような男は、何もかも知っている。和彦にさまざまな男の思惑や欲望が絡みつく様を、楽しん でいるぐらいだ。和彦の中で妖しく息づく感覚も見抜き、より大きく育てようとしていても、不思議ではない。
 秦を〈遊び 相手〉として和彦にあてがい、その一方で、中嶋との特殊な交友関係を認める意図は――。
 淫らな想像のせいか、それとも 寒さのせいか、大きく体を震わせると、秦にきつく抱き締められる。和彦もおずおずと、秦の背に両腕を回した。


 靴を脱いだ和彦は、熱くなっている頬を手荒く撫でてから、唇を手の甲で何度も拭う。頬以上に、たっぷり秦に貪られた唇が燃 えそうに熱かった。
 その秦は、本宅まで和彦を送り届けて、すぐに帰ってしまった。賢吾に睨まれるのが怖いと、冗談っぽ く言っていたが、案外本音なのかもしれない。本当に慌しく裏口から出ていってしまったのだ。
 出迎えてくれた組員に促さ れて廊下を歩きながら和彦は、今度は唇に指を押し当てる。
 秦との口づけは、麻薬めいた中毒性がある。それはきっと、秦 という男の向こうに、中嶋の姿を見てしまうからだ。一方の秦も、和彦の向こうに同じ姿を見ているはずだ。
 倒錯的な欲情 に魅せられる反面、厄介なことに巻き込まれたくはないと、理性が警鐘を鳴らしている。
 中嶋と距離を取るべきなのかもし れないと思った。本来であれば中嶋は、もう和彦と会う必要のない人間だ。
 誘いさえ断ってしまえば、関係など簡単に断て るだろう。漠然とそんなことを考えていた和彦の目に、廊下の向こうから歩いてくる男たちの姿が飛び込んでくる。
 先頭を 歩く男は、偉丈夫という表現がしっくりとくる大柄な男だった。他者を圧倒しそうな逞しい体をダークスーツで包み、三十代後半 に見える顔に、儀礼的な笑みを浮かべている。特別整った顔立ちをしているわけではないが、浅黒い肌と、剣呑とした鋭い目つき が印象的だ。威嚇しているわけでもないのに物騒な雰囲気が漂い、何かの拍子に荒々しい力を振るい始めても不思議ではない危な さがある。そのくせ、仰々しいほど物腰は礼儀正しい。
 こちらに気づくと、軽く会釈をしてくれた。それは男だけではなく、 男が引き連れている数人の若者たちも同様だ。
 統制がよく取れた様子からして、男の舎弟だろうかと思いながら、廊下を曲 がっていく彼らを見送っていた和彦だが、最後の若者の顔を見た瞬間、ドキリとした。中嶋がいたからだ。
 つまりこの一団 は、総和会の男たちというわけだ。
 他の男たち同様、ダークスーツを着込んだ中嶋は、今日はきれいに髪を撫でつけ、引き 締まった表情をしていた。こうして、同じような格好をした男たちの中にいると、やはり中嶋の外見の〈普通っぽさ〉は際立って いる。普通の、ハンサムな青年だ。
 ふと中嶋がこちらを見る。
「えっ」
 和彦は小さく声を洩らし、動揺する。中 嶋から、思いがけず冷たい一瞥を向けられたからだ。
 状況がよく呑みこめなかったが、ただ一つ確かなのは、和彦を見る中 嶋の目に、敵意が込められているということだ。









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