小気味いい衣擦れの音が室内に響く。なんとなく足を崩せる空気ではなく、和彦は畳の上に正座したまま、姿見の前に立つ男の
後ろ姿を見上げていた。
賢吾は長襦袢の上から、慣れた手つきで腰紐を結ぶ。いままで和彦の周囲には、着物を着こなす男
はいなかった。そのせいか、無駄のない所作で着付けていく姿に、つい見入ってしまう。
「――先生、着物を取ってくれねー
か」
ふいに賢吾に声をかけられ、和彦はピクリと肩を揺らす。熱心に見つめる和彦の視線に気づいていたのか、姿見に映る
賢吾はニヤニヤとしている。
急いで立ち上がり、衝立に引っ掛けられている着物を取って賢吾に手渡した。ついでに帯を手
にして、傍らに立つ。
「元日に先生が見かけたのは、総和会の第二遊撃隊の連中だ。中嶋は、そこの所属だろ。知らなかった
のか?」
「さあ……。遊撃隊云々というのは前に教えてもらったが、詳しくは聞いていない」
元日に、本宅の廊下を歩
いていた一団について、ずっと気になっていた。正確には、その一団の中にいた中嶋の態度が、なのだが。
元日早々、中嶋
のことについて尋ねるのはためらわれ、結局、三日になってからやっと、世間話を装って賢吾に問いかけたというわけだ。
中嶋から向けられた冷たい一瞥が、脳裏に焼きついている。あの一瞥を見てまっさきに和彦が考えたのは、広場での秦との行為を
見られたかもしれないということだ。かつて和彦は、中嶋が見ている前で秦にキスをされた。あのときの中嶋は、和彦に敵意を向
けることはなかったが、現在とは状況が違っていた。
もしかすると、広場での行為は関係なく、秦が和彦の〈遊び相手〉だ
ということが知られたのかもしれない。
中嶋に隠し事をしているのは事実で、だからこそ、何が理由なのか見当がつかなか
った。和彦は一人うろたえ、あれこれと思い悩んだ挙げ句に、賢吾に遠回しな質問をするしかないのだ。
和彦の様子に気づ
いているのかいないのか、組織の説明をする賢吾は、どこか楽しそうだ。
「第二遊撃隊ってのは、けっこう血の気の多い、荒
っぽい連中が揃ってる。元は、ある組の直系傘下の小さな組だったんだが、いろいろあって、総和会の遊撃隊として組み込まれた。
それを機に組長が引退して、組長代行だった南郷(なんごう)って男が率ることになった。色黒の、でかい図体をした男がいただ
ろ」
「ああ。いかにも、怖いヤクザといった感じの……」
「俺もそう見えるか?」
鏡越しに賢吾からちらりと一瞥
を向けられ、和彦は軽く睨み返す。
「今、あんたのことなんて言ってないだろ。――心配しなくても、一癖も二癖もあるヤク
ザに見える」
ぼそぼそと応じると、衿を整えながら賢吾が満足げに頷く。片手を差し出してきたので、今度は帯を渡す。
「遊撃隊は、必要に応じてどんな仕事でもやる。最近は、縄張りの管理や、情報収集を担当しているようだが、裏で……な。俺の
オヤジのお気に入りだから、総和会の幹部連中も把握してないことを、いろいろと任されているみたいだ」
「……なんだか、
危ないところみたいだな。中嶋くんだけを見ていると、そういうイメージを抱かなかったんだが」
「手っ取り早く総和会で出
世したかったら、ルートは限られる。中嶋はよく調べてるようだな。総和会会長のお気に入りの男に近づき、ちゃっかり第二遊撃
隊に潜り込んだ。ただし、野獣みたいな連中揃いの中で、ホスト上がりの中嶋の経歴は、澄ました二枚目ぶりもあって、少し浮い
ている」
それは和彦も感じた。元日に出くわした一団の中で、中嶋の存在は目を引いたのだ。
「中嶋が心配か?」
帯を結びながら賢吾に問われ、思わず苦い表情を浮かべた和彦は、首を横に振る。
「そういうんじゃない。彼は一人で行動
しているイメージが強かったから、ああいうふうに、いかにもヤクザらしい集団の中にいるのを見て、少し驚いた。中嶋くんが、
頭の切れるヤクザだと、理解しているつもりだったんだけど――」
「現状、先生の周りにいるのは、ヤクザか、ヤクザみたい
な男ばかりだ。善良な人間はいない。もし仮にいたとしても、そういう奴は、今の先生には指一本触れられない。怖い連中が先生
を守っているからな。つまり、先生に近づくのは、ふてぶてしくて食えない男ばかりだということだ。見た目に関係なくな」
賢吾としては、中嶋に対して生ぬるい感情を抱く必要はないと言いたいのだろう。
笑みをこぼした和彦は、ああ、と短く
答えた。その返事に賢吾は満足したようで、手慰みのように和彦の頭を撫でてくる。
なんだかくすぐったくて、同時に、照
れくさい。和彦は大きな手を押し戻そうとしたが、反対に手を握られた。
「――ちょっと着物を着てみないか」
意外な
賢吾の言葉に、和彦は首を傾げる。
「誰が……?」
「先生が」
「……着方がわからない」
「とりあえず羽織って
みたらいい」
和彦は困惑しつつ、賢吾の着物姿を眺める。大柄な賢吾のために仕立てた着物を自分が着た姿を想像してしま
った。すると、和彦の心配を察したのか、短く笑った賢吾が衣装ケースに歩み寄った。
「先生にちょうどよさそうな着物があ
る。この家じゃ、もう誰も袖を通さないものだ」
そう言って賢吾が取り出したのは、明らかに女性ものの着物だった。長襦
袢の鮮やかな桜色を目にして、和彦は頬が熱くなってくる。
「それ、女物じゃないかっ……」
「ただの女物じゃないぞ。
別れた千尋の母親が置いていったものだ。俺が買ってやったものは、なんでも気に食わなかったらしい。情を交わす〈女〉ができ
たらやろうと思っていたんだが、その前に、大事で可愛い〈オンナ〉ができたからな」
怒るべきなのかもしれないが、正直
なところ、反応のしようがない。賢吾の口調があまりに淡々としているからだ。別れた妻の着物を残しているからといって、そこ
に未練という感情が一切感じられない。
「……男のぼくが着たって、かなり滑稽だと思うんだが……」
「戯れ事なんだか
ら、滑稽なほうがいいだろ」
嫌だと言ったところで、賢吾は着せる気満々に見える。仕方なく、渋々着物一式を受け取った
和彦は、ぞんざいな口調で言った。
「服の上から羽織るだけでいいだろ」
「浴衣とは違って、肌にまとわりつく絹の感触
はなかなかのもんだぞ。一度ぐらい体験しておいたらどうだ」
和彦は賢吾を睨みつけると、壁を指さす。言いたいことがわ
かったのか、意外に素直に賢吾は壁のほうを向き、こちらに背を向けた。
「先生の裸なんて、瞼の裏に焼きつくぐらい見てい
るんだがな」
「だったら今ぐらい、見なくてもいいだろ」
「……最近先生は、ますます口が達者になってきた……」
賢吾のぼやきは聞こえないふりをして、戯れ事につき合うことにする。羽織るだけなら、賢吾しか見物人もいないこともあり、
さほど抵抗は覚えない。
和彦は手早く服を脱ぐと、長襦袢に袖を通す。ひんやりとした絹の感触が肌にしっとりまとわりつ
き、思いがけず心地いい。どれぐらい袖を通していないのか、長襦袢には女性的な香りは一切残っておらず、樟脳の匂いが漂うだ
けだ。
足元の腰紐を取り上げようとすると、先に取り上げた賢吾に背後から抱き締められた。
「俺が結んでやる」
そう言った賢吾に促され、姿見の前に立たされそうになったが、和彦は軽く身じろいで拒む。
「恥ずかしい格好を自分で見
たくない」
「恥ずかしい、か……」
何か含んだような賢吾の物言いが気になり、振り返る。思った通り、楽しそうに笑
っていた。
「……いまさら何を恥ずかしがる、と思っている顔だな、それは」
「さあ、どうかな」
耳元で微かな笑
い声を洩らした賢吾が、衿を緩めに合わせて、腰紐を締めてくれる。
「春には、先生も自分で着物の着付けができるようにな
ってもらおうか」
「ぼくが着る必要はないだろ」
「着物姿の先生を外に連れ回すと、俺の気分がよくなる」
長襦袢
の上から腰を撫でられて、和彦はビクリと体を震わせる。そのまま身を固くしていると、賢吾は着物を肩にかけてくれた。
「きちんと帯を締めてやろうか?」
「いい……。なんだか、落ち着かない。襦袢の感触は気持ちいいけど、自分の肌に馴染ま
ないような気がして――」
「すぐに慣れる」
前を向いたまま和彦が唇を引き結ぶと、うなじに唇が押し当てられた。
「近いうちに、先生の着物を仕立てさせよう。落ち着いた色がいいな。先生自身が艶やかだから、これ以上誘われる人間が出たら
困る」
今、姿見に自分の姿を映したら、きっと赤面しているだろう。和彦は、臆面のない賢吾の台詞に激しく羞恥するのだ
が、言った当人は楽しそうに、羽織った着物の上から腿や尻を撫でてくる。
さすがに、両足の間をまさぐられるようになる
と、和彦は身を捩って軽く抵抗してみせる。
「着物が汚れたらどうするんだっ」
「どうせ、処分する時期を待ってたよう
なものだ。かまわんぞ」
「よくないっ。……千尋の母親のものだろ」
「さすが先生、感傷的だな。あいにくヤクザは、一
欠片も持ち合わせちゃいない感情だが。千尋なんて、こんなものがあることすら、とっくに忘れてる」
話しながら賢吾の手
が長襦袢の下に潜り込み、内腿を撫で回される。小さく声を洩らした和彦の足元が乱れ、賢吾に促されるまま、柱に掴まった。
下着を引き下ろされ、敏感なものを握り締められたかと思うと、性急に扱かれる。和彦が体を大きく震わせた拍子に、肩にかけ
た着物が足元に落ちた。
「やめ、ろっ……。こんな格好なのに、何考えてるんだ」
「こんな格好だから、いいんだろ。女
物の襦袢を身につけようが、どう見たって先生は立派な男だ。そこが、たまんねーんだ。色っぽい襦袢の下に、こんなものがある
のが、またいい――」
扱かれていたものを、不意打ちのように根元できつく締め付けられる。和彦が必死に柱にすがりつく
と、荒々しく長襦袢の裾をたくし上げられ、尻が剥き出しとなる。
「……人の性癖のことを言えるかっ。ぼくが知る限り、あ
んたが一番、難がある」
「ほお。だったら先生は、いままで何人の男を知ってるんだ?」
自分が墓穴を掘ったことを知
った和彦は、体を強張らせる。それをいいことに、賢吾が露骨な手つきで尻を揉んでくる。こうなると、もう賢吾の手から逃れる
ことは不可能だ。仕方なく和彦はこう訴えた。
「立ったままは嫌だ……」
「これから俺は、客と会わなきゃならん。手っ
取り早く、ことを済ませたい」
「だったら何も、今じゃなくていいだろっ」
「わかれよ、先生。俺は今、欲しいんだ」
忌々しいほど魅力的なバリトンが囁くのは、とんでもなく不埒な言葉だ。そうされることに、和彦は弱い。耳朶をたっぷり舐ら
れて、小さく喘いでいた。
引き下ろされた下着をとうとう脱がされて、腰を突き出した姿勢を取らされる。唾液で濡れた指
が秘裂をまさぐってきたかと思うと、内奥の入り口を揉み解すように押さえられ、刺激される。
「うっ、うぅ――」
「力
抜いてろよ」
残酷なほど優しい声でそう言って、賢吾の指がぐっと内奥に押し込まれてくる。突き出した尻を震わせて、和
彦は浅い呼吸を繰り返す。
指が出し入れされ、襞と粘膜に唾液がすり込まれていた。
「いい眺めだな、先生。桜色の襦
袢を捲り上げて、赤く染まり始めた先生の尻を犯すってのは……」
付け根まで挿入された指が、内奥で妖しく蠢く。和彦は
呻き声を洩らしながら、引き絞るように賢吾の指を締め付ける。逃げるように指が引き抜かれたが、すぐに、今度は本数を増やし
て再び挿入された。
「あうっ、うっ、うあっ」
内奥をねっとりと撫で回されたあと、賢吾に腰を抱き寄せられ、唇を求
められる。柱にもたれかかるようにして和彦は姿勢を戻し、振り返って賢吾と唇を触れ合わせた。
すでに熱くなって身を起
こしかけたものを、賢吾に愛撫してもらう。濡れた先端を指の腹で擦られ、ビクビクと腰が震える。
「いつもより、涎の量が
多いな」
からかうように賢吾に指摘され、和彦はムキになって下肢から手を払いのけようとしたが、低く笑い声を洩らした
賢吾に反対に手を掴まれてしまった。促されるまま、和彦は自分の欲望に触れ、ぎこちなく慰める。
再び腰を突き出す姿勢
を取らされ、背後から賢吾に貫かれた。
立った姿勢のまま繋がるのは、苦手だった。いつも以上の苦痛に襲われるからだ。
その苦痛を紛らわせるために和彦は、自分のものを愛撫するしかない。賢吾は最初から、和彦の苦痛を和らげる気はないのだ。
「くっ……、ううっ、うっ、くうっ……ん」
「たまには乱暴なのもいいだろ?」
熱い囁きのすぐあとに、腰を突き上げ
られる。堪えきれず甲高い声を上げた和彦だったが、その声はあっという間に、甘い呻きとなる。
賢吾が腰を使い始め、背
後から押し寄せる衝撃に耐えるため、もう和彦は自らの欲望に触れるどころではなくなる。柱にしがみついていないと、足元から
崩れ込んでしまいそうなのだ。
「はあっ、あっ、あっ、あっ」
容赦ない律動の合間に、反り返って震えるものを賢吾に
握り締められる。強く扱かれて上擦った声を洩らすと、突然、賢吾に言われた。
「――先生、俺のわがままを聞いてくれない
か」
「嫌、だ……」
背後で賢吾が微かに笑い声を洩らす。
「なんだ、どんなわがままか聞きもしないうちに即答か」
「あんたが、そんな言い方をするときは、絶対、ロクなことを言わないっ……。千尋も、同じような言い方をするんだ。父子
揃って、よく似てる」
「そりゃ、興味深い。先生だからこそ、知っていることだな」
「……だから、わがままは、聞かな
い」
腰を掴まれ、ぐうっと内奥深くを突かれる。和彦は、自分の内奥が歓喜し、健気に賢吾のものを締め付けるのを感じた。
「大したことじゃない。先生はもう、一回経験済みだ」
透明なしずくを滴らせる先端を、賢吾の指にヌルヌルと撫でら
れる。和彦はヒクリと背をしならせ、賢吾が望んでいる行為を一瞬にして察した。途端に全身が熱くなる。
「〈あのとき〉の
ことを思い出して、高ぶったか?」
「違うっ。あんなはしたないこと、ここでできるわけないだろ」
「ここだから、興奮
するんだ」
内奥深くで賢吾のものがゆっくりと動き、身震いしたくなるような肉の悦びを感じる。この状態で賢吾の囁きは、
あまりに危険だった。どれだけ屈辱に満ちた命令だろうが、従いたくなる。
「どうしても、ダメか?」
抉るように内奥
を突き上げられ、和彦の唇から喘ぎがこぼれ出る。なんとか浅く頷いた和彦に、賢吾があるものを見せてきた。快感に霞む目を凝
らしてよく見てみると、細長いヘアピンだった。凝った飾りがついてはいるものの、珍しいものではない。
「着物の間に紛れ
込んでいた。普通は髪を留めるために使うものだが、性質の悪いヤクザは、こういう形をしたものを見て、あることに使えると考
えるんだ」
「……な、んだ……」
しっかりと腰を抱え込まれた和彦は、ヘアピンを持つ賢吾の片手が、両足の間に差し
込まれたことを感じ、『性質の悪いヤクザ』が何をしようとしているのか理解した。
恐怖が体を駆け抜けるが、悔しいこと
に、それだけではないのだ。濡れた先端を、くすぐるようにヘアピンが掠める。和彦の呼吸が弾む。
「これぐらい細ければ、
案外すんなりと入るぞ。最初は痛いらしいが、独特の快感があるらしい。――ここを開発してくれた男は、さすがにいなかっただ
ろ。味わってみるか?」
賢吾の口調は冗談めいてはいるが、だからこそ、実行しても不思議ではなかった。
全身を震
わせるようにして喘ぐ和彦に、賢吾が念押しするように問いかけてくる。
「突っ込まれたいか?」
和彦が懸命に首を横
に振ると、賢吾は目の前で、ヘアピンを放り投げてくれた。次の瞬間、両手でしっかりと腰を掴まれ、背後から激しく突き上げら
れる。
「うあっ、あっ、賢吾さんっ……、あっ、い、や――、あううっ」
「さあ、先生のわがままは聞いてやったんだ。
俺のわがままを聞いてくれ」
ヤクザの手口だった。望んでもいないことを押し付けてきて、こちらがうろたえながら拒否す
ると、引いてはくれるのだが、次に恩着せがましく要求を突きつけてくる。この手口に搦め捕られたら、多分逃げられない。
賢吾の逞しいものが内奥を強く擦り上げる。自分の快感だけを追い求めている動きだが、それでも和彦に狂おしい悦びを与えて
くれる。
和彦の腰を抱え込み、賢吾が低く唸る。同時に内奥で、熱い欲望が脈動して、爆ぜた。
「ひっ……、あっ、あ
ぁ……」
精のすべてを注ぎ込むように賢吾にゆっくりと突き上げられ、両足を震わせながら和彦はその動きを受け止める。
しかし賢吾は、和彦をさらに追い上げてきて、反り返って震えるものを長襦袢の布で包み込み、軽く扱いてくる。滑らかな絹の感
触は、鳥肌が立ちそうなほど強烈だった。
気がついたときには和彦も絶頂に達し、長襦袢を精で汚してしまう。和彦は掠れ
た声で必死に訴えた。
「……も、う、立って、られないんだ」
「ああ。よくがんばったな、先生」
内奥から賢吾の
ものが引き抜かれた途端、その場にへたり込む。このときになって和彦は、自分がくしゃくしゃになった着物の上に座っているこ
とに気づいた。とてつもない罪悪感に襲われ、慌てて着物の上から退こうとしたが、すかさず賢吾に抱き締められ、両足の間をま
さぐられる。
「さあ、先生、〈漏らして〉見せてくれ――」
屈辱と羞恥、否定できない被虐的な悦びを生む一言を耳元
に囁かれ、和彦は抗えなかった。嗚咽をこぼしながら賢吾の腕にすがりつき、望まれるまま痴態を晒す。
大蛇の化身のよう
な男を喜ばせるために。
ダイニングでお茶を飲みながらも、不機嫌さを隠そうとしていない和彦を見て、千尋は苦笑を洩らした。
「もしかして、オ
ヤジが原因?」
「……本宅にいて、ぼくを怒らせる原因が他にあると思っているのか」
何がおかしかったのか、千尋は
腹を抱えて爆笑する。怒っている和彦とは対照的に、千尋は機嫌がよさそうだ。
「それで先生、昼前に風呂入って、どこか出
かける予定でもあるわけ?」
ようやく笑い収めた千尋に問われ、内心でうろたえながらも和彦は首を横に振る。
「別
に……。ちょっとさっぱりしたかっただけだ」
賢吾が着替えに使っていた和室は、片付けは組員に任せればいいと言われた
が、冗談じゃないと一喝して、羞恥に身を震わせながら和彦が掃除した。汚れた着物と長襦袢については、和彦がバケツに水を汲
みに行った間に、賢吾が処分したようだ。
千尋の母親が残していったものを、あんな形で汚したのは、心が痛む。ときどき、
賢吾の物事に対する淡白さについていけなくなることがあるが、今日の行為は、まさにそれだ。一方で、〈オンナ〉に対する絡み
付くような賢吾の執着に、妖しい衝動も覚えたりするのだから、我ながら度し難いと和彦は思う。
お茶を啜った和彦は、こ
こでやっと、あることに気づいた。
傍らに立つ千尋に手招きして、腰を屈めさせる。昨日は一日中パジャマを着て過ごして
いた千尋だが、今はきちんとスーツを着込み、髪もセットしている。
和彦は、ネクタイを直してやってから尋ねた。
「めかし込んでるが、出かけるのか?」
「俺、じっとしてると、すぐに飽きるんだよ」
「ああ、確かに落ち着きがないも
んな」
まじめな顔で和彦が応じると、千尋は唇を尖らせる。せっかくスーツで決めて、年齢以上に落ち着いて見えるという
のに、表情だけは子供っぽい。
和彦はやっと笑みを浮かべると、ポンポンと千尋の肩を叩く。
「冗談だ。やっと正月休
みが取れるようになったのかと思ったのに、今日はもうそんな格好をしてるから、気になったんだ。……仕事か?」
「先生、
外にメシ食いに行こうよ」
千尋からの誘いに和彦は面食らう。
「……突然だな」
「三が日の最後ぐらいさ、世間の
正月の空気に触れようよ。オヤジと一緒だと、気楽にブラブラすることもできなかっただろ?」
さきほどの賢吾との行為の
せいで、体がだるい。部屋で休みたいところだが、外の空気が恋しいのも確かなのだ。千尋と一緒なら、外での一時を楽しめるこ
とは間違いない。
結局和彦は、千尋の誘いに乗ることにした。
千尋に少し待ってもらい、急いで着替えを済ませる。
ラフな服装でかまわないと言われたが、千尋に合わせてスーツを選んだ。
千尋は玄関で待っており、和彦を見るなり、嬉し
そうに顔を輝かせる。
「嬉しいなー。新年早々、先生とデートできるなんて」
「大げさだな。外で昼食を食べるだけだろ」
「――まあ、ね」
このときの千尋の返事に少しだけ引っかかるものを覚えたが、些細なことだ。
玄関を出た和彦
は寒さに首をすくめながら、千尋に促されるまま待機している車に乗り込んだ。
初詣のため外出したとき、新しい年を迎えたという意識のせいか粛々とした空気を感じたのだが、さすがに三日ともなると、そ
の感覚は薄れる。
普段とは変わらない街の風景を見下ろしながら、和彦の中で入り乱れるのは、今年の自分はどんな生活を
送ることになるのだろうかという、ほんのわずかな期待と、大きな不安だ。
昼間のホテルのレストランはほぼ満席だった。
カジュアルな雰囲気もあってか、店内はうるさくない程度ににぎわっており、息抜きも兼ねて食事に来た和彦としては気楽な気分
で料理を味わっている。千尋がスーツを着ていたため、どんなすごい店に連れて行かれるのかと身構えていたのだ。
きのこ
とドライトマトがたっぷり入ったピラフを食べていた千尋が、ふと思い出したように話しかけてきた。
「先生、今日の予定
は?」
「特にない。夜になったら、組長たちとどこかに出かけないといけないみたいだけど、それまではのんびりさせてもら
う」
「それって、じいちゃんのところに連れて行かれるんじゃ――」
「……冗談でも、そういうことを言うのは勘弁して
くれ」
そう言って和彦は、クリームパスタをフォークに巻きつける。このときよほどひどい顔をしてしまったのか、千尋が
苦笑する。
「そんなに怖がらなくても大丈夫だよ。肩書きは大層だけどさ、けっこう普通のジジイだから」
「長嶺組の前
組長で、総和会の現会長という肩書きを持っていたら、それはすでに、〈普通〉の範ちゅうを超えている」
しかも、〈普通〉と
口にしているのは、長嶺組の後継者だ。本人は微塵も、おかしいと感じてはいないようだが。
「まあ、どれだけ先生が嫌がろ
うが、いつかは対面しなきゃいけないんだけどね」
「もう、言うな。考えるだけで、胃が痛くなってくる……」
ちょう
どランチを食べ終えたところでよかったと、和彦はフォークを置く。千尋のほうは、寸前まで交わしていた会話など忘れたように、
きょろきょろと辺りを見回し、他の客の様子を楽しげに眺めている。
ランチを頼む前に、食後のコーヒーは一階のティーラ
ウンジで、ということを決めていたため、さっそく二人は席を立ち、精算を済ませて場所を移動した。
ティーラウンジの一
人掛けのソファに腰掛けると、和彦が口を開くより先に、ウェートレスを呼んだ千尋がコーヒーを注文する。ただし、一人分だけ。
和彦が目を丸くすると、千尋は大げさに申し訳なさそうな顔となる。
「ごめん、先生っ。このホテルに部屋を取ってる
人のところに、挨拶に行かないといけないんだ」
「ああ、メインはそっちだったのか」
「うちの連中とこんなとこ来たっ
て、楽しくないからさ、せめて先生と昼メシを食えたらなって思ったんだけど……」
こちらの機嫌をうかがうように上目遣
いで見つめられ、和彦は思わず笑ってしまう。
「そんな顔するな。別に怒ってないし、息抜きに連れてきてくれて感謝してい
るんだ。ぼくならここで、コーヒーを飲みながらのんびり待っているから、気にせず自分の仕事をしてこい」
ほっとしたよ
うな表情を浮かべた千尋だが、次の瞬間には、こんな可愛げのないことを言った。
「……なんか、先生を一人残しておくと、
悪い男に連れ去られそうで心配だなー」
「余計なことを言わずに、さっさと行け」
犬を追い払うように手を振ると、千
尋は何度も振り返りながらティーラウンジを出ていく。ロビーで待機していた三人の組員を連れて姿が見えなくなると、和彦は慎
重に周囲をうかがってから、背もたれに思いきり体を預ける。
まさかとは思ったが、長嶺組の組員の姿はなかった。つまり
千尋が全員引き連れていき、和彦には誰も護衛がついていないということだ。
珍しいこともあるものだと思った和彦だが、
心細さはなかった。ここでじっとしている限り和彦の身は安全だと、組員たちが判断したのだろう。こういうときは、プロの判断
に任せたほうがいい。
もちろん和彦としては、護衛がいない状況でのんびりできるという思惑もあった。
こんな場所
で一人でコーヒーを飲むのは、表の世界にいる頃は当たり前のことだったのだ。
ずいぶん違い世界にやってきたものだと、
改めて実感していると、コーヒーが運ばれてくる。さっそく一口啜ってから、再び周囲に視線を向ける。
まだまだ正月休み
の人も多いだろう。ティーラウンジから正面玄関を見ることができるのだが、ひっきりなしに旅行カバンを持った人たちが出入り
している。楽しげな家族連れやカップルの様子を眺めていると、つい和彦の表情は柔らかくなる。
このとき和彦の背後を、
人が通り過ぎる気配がした。同時に、特徴のある足音が聞こえ、反射的に振り返る。カジュアルな服装ながらも品のよさそうな
物腰の男性が、杖をつき、慎重な足取りで歩いていた。左足が悪いようだ。
あまり見つめても不躾なので、一度はカップに
視線を落とした和彦だが、男性が隣のテーブルについたため、また気になってしまう。
斜め前に座った男性の顔を、はっき
りと見ることができた。きれいな白髪から想像はついたが、六十代半ばから後半のようだ。顔には、思慮深さの表れのようなシワ
が刻まれてはいるものの、肌には張りがある。それに、痩身で上背のある体は、鋼の剣でも内包しているかのような強靭さを感じ
させた。持っている空気がどことなく鋭いせいかもしれない。
紳士、という単語が和彦の脳裏を過り、それが違和感なく、
隣のテーブルにつこうとしている男性に当てはまった。
左足を庇うようにして、少しぎこちない動きでソファに腰掛けた男
性が、ふとこちらを見る。露骨に視線を逸らすのも失礼で、和彦は軽く会釈をした。これで、テーブルが隣り合った者同士のやり
取りは終わるはずだったのだが――。
重々しい音を立て、男性が傍らに置こうとした杖が床に落ちる。咄嗟に和彦は立ち上
がり、杖を拾って男性に手渡した。
「――ありがとう」
外見からは想像もつかない、太く艶のある声に、一瞬驚いた。
和彦は小さく笑みを浮かべて、もう一度会釈をすると、自分のテーブルに戻る。
ただこの瞬間から、和彦と男性の間に繋が
りのようなものが芽生えていた。見知らぬ他人が集う場所で、ささやかな接触を持ったせいだ。
どうやら同じものを、男性
も和彦に感じてくれたらしい。ごく自然な流れで、二人は会話を交わしていた。
「孫と待ち合わせをしているんだが、どうも
年寄りには、こういう場所は身の置き場がなくていかん……」
「ぼくは、友人を待っているところなんです。いつやってくる
かわからないので、こうしてコーヒーを飲みながら、時間を潰そうと思って」
「そこを、おしゃべりなジジイに捕まったとい
うわけかね」
最初に受けたイメージとは違って、男性はずいぶん砕けた口調で話す。しかも、冗談っぽくニヤリと笑いかけ
てくる表情は、ずいぶん魅力的だ。
整った目鼻立ちが誰かに似ているなと、ふと和彦は思った。まばたきもせず、じっと見
つめていると、和彦の視線に気づいたのか、紅茶を注文した男性がまた笑いかけてくる。
「何か?」
「いえ……。どこか
で、お会いしたことがないかと思って」
咄嗟に出た台詞の陳腐さに、内心で和彦は苦笑を洩らす。だが、目の前の男性に感
じる親近感は否定できない。
「多分、今日会ったのが初めてだと思うが。まあ、わしの記憶力ほどあてにはならんものはない
な」
ここで男性に手招きされ、すぐには意味がわかりかねた和彦だが、テーブルを移らないかと誘われているのだと気づく。
断る理由もなく、また、同じテーブルのほうが話もしやすいため、カップと伝票を手に男性のテーブルに移る。
千尋か護衛
の組員がいれば、無防備すぎると怒るかもしれないが、人目もあるこの場所で、何かあるとも思えない。しかも相手は見るからに、
紳士然としているのだ。和彦としては、こんな相手を警戒する理由がない。
男性は、満足そうに頷いたあと、再び口を開く。
「最近は、興味のあることだけはしっかり覚えているが、仕事に関することは、周りにいる若い連中に覚えてもらうようにし
ている。そのほうが、間違いがない」
男性の口ぶりから、経営者なのだろうと見当をつける。その読みが外れていないこと
を裏付けるように、男性は続けた。
「使える人手が増えたせいで、自分で考えることが少なくなった。わしが一言何か言えば、
周りが考えて、お膳立てまでしてくれる。楽だが、目端が利く連中に囲まれていると、箸の上げ下ろしまで観察されているようで、
ときどき居心地が悪くなる。だから、自分のことを知らない相手と、こうして気楽に話せると、ほっとする」
少しだけ自分
の今の状況に似ているなと思い、和彦はほろ苦い表情を浮かべる。すると男性が、訝しむように眉をひそめた。
「どうかした
かね?」
「あっ、いえ――。ぼくはある仕事をしていて、今月、開業するんです。なんというか……いいスポンサーに巡り合
えて、何から何まで面倒を見てもらえて、まさにぼくの状況こそ、お膳立てをしてもらっているという表現がぴったりくると思っ
て」
「それはすごい。若くて才能のある人間が、そういう幸運を手に入れられるのは、いいことだ」
「そうでしょう
か……」
「スポンサーというからには、何かしらの見返りを期待されているのだろうが、あんたが満たされることで、あんた
を盛り立てる人間も満たされる。そう思うことで、人間も環境も循環する。利害で結びつくことは、何も悪いことばかりじゃない。
結びつくなりに、相手の希望を叶えてやろうと努力はするわけだから。そうしないと、自分の希望は叶えてもらえない。まあ、世
の中、善人ばかりじゃないんだがね」
自分と、自分を取り巻く男たちの状況を分析されたようだった。和彦は、まばたきも
忘れて男性を見つめる。男性は、運ばれてきた紅茶に一杯だけ砂糖を入れて掻き混ぜると、美味しそうに一口啜った。が、すぐに
カップを置き、和彦をまっすぐ見据えてきた。
冷徹で静かな目だった。激しい感情を表に出さなくても、この眼差しを向け
られるだけで、気圧される。一喝されたように萎縮してしまう。
普通の人間なら何も感じないのかもしれないが、和彦は違
った。数え切れないほど、物騒な男たちの、怖い眼差しに晒されてきたからこそ、恐れを抱く。
息を詰め、体を強張らせる
和彦に対して、男性は温厚な表情を見せた。ただし鋭い眼差しは、微塵も揺るがない。
「こうして偉そうにしているが、元々
わしは、家業を親から受け継いだ。何代も続いている古臭い家業だ。
跡継ぎに望まれるのは、その家業を、自分の次の跡継ぎに無難に継がせることだった。下手を打たなければ、この希望を叶えるの
は簡単だ。――あんたはこのことを、どう思う?」
唐突な問いかけを、和彦は自分の実家に当てはめて考える。親からの希
望をすべて受け継いでいるのは兄の英俊で、和彦には、何もない。いや、一つだけ望まれたことがあった。
腹の中が冷たく
なるような怒りが湧き起こり、同時に、男性の眼差しに対する恐れも消えた。
「……つまらないと思うんです。受け継いだも
のを、ただそのまま、あとに残すだけというのは。その作業のためだけに自分が存在して、単なる道具になったようで……」
ここで和彦は我に返り、慌てて頭を下げる。
「すみません。失礼なことを言ってしまって」
「いや、あんたと同じこと
を、わしも感じた。だから行動した。家業なんぞ潰してもかまわんというつもりで、いろんなことをしたよ。その結果――」
「その結果?」
思わず身を乗り出した和彦の目を食い入るように見つめたあと、男性は笑った。人を食らう笑みだった。
和彦は、こんな笑みを浮かべる男を、もう一人知っている。そしてあと一人、将来浮かべそうな青年のことも。
「近いうち
に、わしの家に遊びに来るといい。あんたと、もっと話をしてみたい」
「えっ……」
男性から右手を差し出され、見えない
力に操られるように和彦はその手を握り返す。ドキリとするほど冷たくて、硬い手だった。
握手を交わしてすぐに男性は立
ち上がる。その動作にぎこちなさはなく、それどころか杖を掴むと、足を引きずることなく大股で歩き出した。
唖然として
見送る和彦は、さらに異様な光景を目にすることになる。男性が歩き始めると同時に、周囲のテーブルに座っていた男性客たちも
一斉に立ち上がったのだ。そこからの動きは見事だった。さりげなく、男性を守るように周囲を囲んでしまい、その姿はあっとい
う間にティーラウンジから見えなくなる。
和彦が目を見開いたまま動けないでいると、すぐに千尋がやってきた。和彦の様
子を見るなり、申し訳なさそうな顔で頭を掻く。その表情で、すべて理解した。
「――……あれは、お前の祖父だな」
「長嶺守光(もりみつ)。今の総和会会長で、俺のじいちゃん」
一気に体の力が抜け、和彦はぐったりとソファにもたれか
かる。今になって、手が小刻みに震えてきた。
「どうして、ここに……」
「仰々しくじいちゃんの家に招待したって、先
生、嫌がるし、緊張するだろ? だからまず最初に、じいちゃんがどんな人間なのか、接して知ってもらうのが先だと思って。あ
っ、これ、長嶺の男たちの総意ね。あの杖は、小道具としては……先生には有効だったのかな。見事に、じいちゃんのナンパに引
っかかってたよね」
完全に、ハメられた。長嶺の男たちの目論見どおり、何も知らない和彦は、自然体で長嶺守光と接触し、
会話を交わした。
自分は何を言っただろうかと思い返そうとするのだが、動揺のため、思考はただ空回りする。一人でうろ
たえる和彦を、正面のソファに腰掛けた千尋が楽しげに眺めている。
なんだか悔しくなった和彦は、千尋に身を乗り出させ
ると、きれいにセットしてある髪をくしゃくしゃに掻き乱すという、子供のような八つ当たりをする。千尋は首をすくめて、楽しげな笑
い声を上げた。
屈託なく笑う青年が、さきほど話した男の孫なのかと思うと、和彦は少しだけ複雑な心境になる。
長
嶺の姓を背負った男とはどういうものなのか、また一つ現実を見せられた気がしたからだ。
Copyright(C) 2010 Tomo Kitagawa All rights reserved.
無断転載・盗用・引用・配布を固くお断りします。