久しぶりにウェイトマシンを使ったため、全身から汗が噴き出してくる。年末年始は慌しく動き回っていたが、車を使っての移
動が主だったため、すっかり体が鈍っていたようだ。
足を投げ出すようにしてイスに腰掛けた和彦は、首筋を伝い落ちる汗
を拭う。体を動かしている間は気持ちいいほど無心になれるのだが、こうして休憩を取ると、すぐに頭の中は、考え事でいっぱい
になる。
思わずぼんやりとしてしまったが、前髪から汗のしずくが落ち、頬に当たる。タオルで乱雑に顔を拭いていると、
突然、声をかけられた。
「――先生、機嫌が悪そうですね」
既視感が和彦を襲い、数瞬の間を置いて、甘い眩暈にも見
舞われた。
既視感の原因はわかっている。ほんの二時間ほど前、秦から同じような言葉をかけられたのだ。
手を止め
た和彦が顔を上げると、目の前に中嶋が立っていた。このとき、いままでにない反応として、甘苦しい感覚が胸に広がる。そこに
羞恥と困惑も加わり、和彦は笑いかけることに失敗した。
「そうか……? 自覚はないんだが」
「なんだかイライラして
いるように見えたんです」
そう応じて、当然のように中嶋が隣に腰掛ける。こちらも十分に体を動かしたところらしく、汗
の匂いがする。いつもなら意識しないのだが、同じ匂いをベッドの上で嗅いだのかと思うと、体がさらに熱くなる。
自分と
中嶋の関係は大きく変わったのだと、嫌でも実感していた。
「……忙しくて、考えることが多すぎるんだ――と、だったらジ
ムで遊んでいていいのか、なんて言うなよ」
「言いませんよ。なんといっても、人目を気にせず、堂々と先生と親しくできる
場所ですから」
事実なのだが、中嶋が言うと意味深だ。それとも、和彦があれこれと考えすぎなのかもしれない。
前
はもっと気楽に話せていたのだが、感覚がすっかり狂ってしまった。
汗で濡れた髪を掻き上げて、和彦は立ち上がる。すか
さず中嶋が問いかけてきた。
「今日はもう終わりですか?」
「ああ。年が明けて初めて来たけど、少し飛ばしすぎたらし
い。……疲れた」
「だったら俺も上がります。もともと今日は、体を動かすのが目的というより、先生に会えるかと思って来
たようなものです」
「――……いろいろあったからな」
「ええ、ありましたから」
悪びれた様子もなく答える中嶋
をまじまじと見つめて、ようやく和彦は笑うことができる。いいか悪いかはともかく、中嶋はいつも通りだ。中身は切れ者のヤク
ザでありながら、それをうかがわせない普通の青年の顔をしている。親しげでありながら、馴れ馴れしくはない、これまで通りの
距離感を保ってくれている。
中嶋とともに更衣室に向かいながら和彦は、いまさら隠しておくことでもないと考え、ジムの
前に秦と会っていたことを告げる。少し身構えてはいたのだが、中嶋はあっさりと頷いた。
「知ってます。秦さんからメール
が来ましたよ。今さっきまで先生に会っていて、怒られていた、と」
怒ってないだろ、と心の中で反論してから、和彦はた
め息交じりに言った。
「……いつの間に、そういう些細なことまで連絡し合う仲になったんだ」
「先生は大事な存在です
から。先生が絡んでいながら、『些細なこと』なんてありませんよ。俺たちにとっては大事なことです」
「だとしたら、秦に、
ぼくとのことを――……」
さきほど秦と会って多少きわどい話はしたものの、実は和彦は、中嶋との間にあった出来事につ
いて、詳しくは言っていない。口にするのが恥ずかしいというより、最低限の〈慎み〉の問題だ。
幸運にも中嶋は、和彦と
多少なりと似通った感覚を持ち合わせているらしい。向けられた横顔に、淡い照れのようなものがうかがえた。
「具体的なこ
とは何も……。でも、察しているんじゃないですか。なんといっても、秦さんですから」
「ああ、あの男ならな」
「我な
がら、現金だと思うんですよ。先生相手に何もかもぶちまけて、弱みも晒してしまったら、秦さんへの女々しい感情から解放され
て楽になれたというか。――いままでとは、まったく別の生き物に生まれ変わった気持ちです」
それはきっと物騒な生き物
だろうなと、中嶋から寄越された流し目の妖しさに、胸のざわつきを覚えながら和彦は思う。
ぎこちなく視線を逸らして考
えることは、この先、中嶋とはどうやってつき合えばいいのだろうかということだ。とにかく中嶋との関係は複雑で、接し方が難
しい。自分の中でどう位置づけていいのか、こうして言葉を交わしながらも和彦は戸惑っていた。
「――なんだか面倒なこと
になった、と言いたげな顔ですね」
おもしろがるような口調で中嶋に言われ、誤魔化す気にもなれなかった。
「まった
くだ。……だけど、自分が原因でもあるしな」
「そうですか? 俺と秦さんが、先生を巻き込んだと思っているんです
が」
「そんな君らの事情に深入りしたのは、ぼくだ。それに――」
秦と中嶋の関係に興味と興奮を覚え、その衝動に抗
えなかった。
心の中で呟いて、中嶋には曖昧な笑みで返す。
更衣室に入ると、それぞれのロッカーに向かおうと別れ
ようとしたが、和彦は大事なことを思い出し、思わず中嶋を呼び止めた。
「中嶋くんっ」
振り返った中嶋が、驚いたよ
うな表情を一瞬見せたあと、顔を綻ばせる。
「こういう場で、先生にそう呼ばれるのがくすぐったくなってきましたね。でき
れば、圭輔(けいすけ)、と呼び捨てにしてください。そのほうが、親しくなった気がしませんか?」
「……今のところ、ぼ
くが名前を呼んでいる男は、二人だけだ」
中嶋には、それが誰を指しているのかすぐにわかったのだろう。とんでもないこ
とを言ってしまったとばかりに、大仰に首をすくめた。
「出すぎたことを言ってしまいました」
「やめてくれ。それよ
り――」
ちょうど更衣室に人がやってきて、出入り口近くで話すのもはばかられたため、和彦は中嶋に手招きし、壁際へと
移動する。
「長嶺組長から、ぼくのことで脅されたりしなかったか?」
声を潜めて尋ねると、どういう意味なのか中嶋
は、いかにもヤクザらしい食えない笑みを浮かべた。
「――内緒です」
否定しないということは、和彦の知らないとこ
ろで、中嶋と賢吾の間に何かしらのやり取りはあったのかもしれない。ただし、あくまで推測だ。
ヤクザ相手に力ずくで口
を割らせるなど不可能で、子供のように地団駄を踏むわけにもいかない和彦は、引き下がるしかなかった。
恨みがましく中
嶋を睨みつけながら。
夜、いつもより少し早めにベッドに入った和彦は、枕を抱え込むようにしてうつ伏せとなり、分厚いハードカバーの本を読んで
いた。ジムの帰りに書店に立ち寄り、数冊ほど買い込んできたのだ。
小さくあくびを洩らした和彦は、ページを繰る手をふ
と止める。思わず口元を緩めていた。
さきほどから、異変には気づいていた。自分以外の誰かが、同じ屋根の下にいて、動
き回っている。ときおり廊下を走る足音が聞こえてくるのだ。
普通なら、侵入者だと警戒するところだが、生憎、和彦の生
活は普通とは言いがたい。部屋の主である和彦の意思に関係なく、自由に出入りできる人間が何人もいる。そしてその人間たちは、
和彦に害を及ぼすことは絶対しない。
「この落ち着きのなさは――」
和彦は、一人の男の名を呟く。寝室を出て迎えて
やろうかとも思ったが、ようやく温まったベッドの中に、夜の訪問者を招き入れるほうが効率的かもしれないと、多少情緒に欠け
たことを考えて、じっとしておくことにする。
つまり和彦は、ベッドを出て寒さに震えるのが嫌だったのだ。
それか
ら十分ほどして、ようやく寝室のドアが控えめにノックされる。和彦が本にしおりを挟んでヘッドボードに置くのと、ドアが開く
のはほぼ同時だった。
スウェットパンツに上半身裸という格好の千尋が姿を見せ、風呂上がりなのか、肩にタオルをかけて
いる。
「そんな格好でウロウロしてると、風邪引くぞ」
「引いても、ここには常備薬はたっぷりあるし、なんといっても、
先生がいるじゃん」
「内科は専門外だ」
言葉では素っ気なく応じた和彦だが、布団の端を捲ってやる。千尋はパッと目
を輝かせ、猛然とベッドに乗り上がってきた。布団の中に入り込んできた冷気は、千尋の体温であっという間に温められる。
「……湯たんぽだ」
思わず呟くと、間近に顔を寄せて千尋がにんまりと笑う。
「風呂上がりだから、ホカホカだろ」
「家賃を払っているのはお前の父親だが、一応ぼくの部屋だぞ。それなのに、自分の家のように寛いでるな」
「先生がいるか
ら寛げるんだ。……もうさ、この部屋引き払って、本宅で一緒に暮らそうよ」
自分の居心地のいい場所を探すように、千尋
がごそごそと身じろぎ、和彦に抱きついてくる。そんな千尋を見つめながら思うのは、長嶺組の後継者という看板を背負い、総和
会会長の傍らで仕事をするには、とてつもないタフさが必要なのだろうなということだ。
長嶺の家に生まれたというだけで長
嶺組を継げる千尋の立場に、誰もが納得するわけではないだろう。そういう人間たちを否応なく従わせるだけのものを、千尋は身
につけなければいけない。
二十一歳の千尋は、急速に大人になっていくことを求められ、その反動が、和彦に対する子供の
ような甘ったれぶりだ。そう解釈しておけば、いくらまとわりつかれても、鬱陶しくはない――と思う。
「……あんまり近く
にいると、飽きるぞ」
和彦の言葉に、千尋が強い眼差しを向けてくる。
「先生、俺に飽きそう?」
「そうじゃなく
て……、この場合、お前がぼくに飽きる確率のほうが高いだろ」
「それは、絶対にない」
あまりにきっぱりと言い切ら
れ、和彦は何も言えない。そもそも、言い合うようなことではないのだ。
千尋の頭を撫でながら話題を変える。
「ここ
で風呂に入ったということは、仕事先から直行してきたのか」
「じいちゃんに泊まっていけって言われたけど、先生のところ
でゆっくりしたかったから、逃げ出してきた」
千尋に頭を引き寄せられ、額同士を押し付る。その流れで唇を重ね、戯れる
ように啄み合っていたが、千尋の体にてのひらを這わせた和彦は、あることに気づいた。次の瞬間には起き上がり、勢いよく布団
を捲る。
「お前、これ――」
部屋に入ってきたときは、肩にかけたタオルに隠れて見えなかったが、千尋は左腕の上の
ほうに包帯を巻いていた。そのため、印象的なタトゥーが見えない。
怪我をしたのだろうかと動揺した和彦だが、すぐに、
あることに思い当たった。
「千尋、まさか、タトゥーを……」
照れたようにちらりと笑みを見せて千尋も起き上がり、
包帯に指先を這わせる。
「……前から決めてたんだ。年が明けたら、治療を始めようって。それで、別荘から戻ってすぐに、
病院に行ったんだ」
千尋がそんなことを考えていたなど、もちろん和彦は知らなかった。おそらく、和彦に何も悟らせなか
ったことが、千尋なりの覚悟の表れだったのだろう。
「このタトゥーを入れたのは、オヤジに対する当てつけの意味もあった。
立派な刺青なんて入れなくても、俺は、大勢のヤクザに頭を下げて迎え入れられる存在だって、驕りもあったのかな。自分の生ま
れた環境に胡坐をかいてたんだ。どんなバカ息子でも、オヤジは俺を見捨てられないと踏んでもいたし。まあ、ダメダメな甘った
れ男だった」
「今は違うのか?」
「今は……努力してるよ。長嶺を継ぐのに相応しい男になるために」
それは喜ん
でいいのだろうかと思いながら、片手を伸ばした和彦は、まだ湿っている千尋の髪を掻き上げ、包帯の上から右腕に触れる。
「前に先生、言ってただろ。タトゥー消すのは時間がかかるって。あれ、本当だった。大してでかくないタトゥーなのに、一気に
消すのは無理だって言われた。だからまあ、気長に消していくよ」
「消したら、どうするんだ?」
和彦が問いかけると、
決然とした顔で千尋は答えた。
「背中に、本物の刺青を入れる」
「……父親みたいに?」
「刺青入れてるのは、オヤ
ジだけじゃないよ。じいちゃんもそうだし、組の中に何人もいる。三田村だって入れてるんだろ。見たことないけどさ」
大
きくため息をついた和彦は、千尋の頭を抱き寄せる。千尋も、甘えるようにしがみついてきた。
「医者としては、刺青を入れ
るリスクを知っているから、やめろと言いたいところなんだがな……」
「ということは、やめろって言わないの?」
「お
前がお手軽な遊び相手なら、いくらでも真剣な顔して、やめろと説得してやる。それでぼくは、道徳的な善人でいられるからな。
でも……、そういう関係じゃないだろ。ぼくは、長嶺千尋のオンナだからな。お前が必死に考えて覚悟を決めたことなら、口出し
はしない」
背に回された千尋の腕に力が込められ、耳元では、安堵したような声で囁かれた。
「――さすが、先生。ヤ
クザのオンナの鑑だ」
「全っ然、嬉しくないっ」
千尋の後ろ髪を引っ張ってやると、はしゃいだような笑い声が上がり、
強く抱き締められる。そのままベッドに倒れ込んだところで、千尋がパッと顔を上げた。
「ねえ、先生も――」
「ぼくは
絶対、刺青は入れないからな」
最後まで言わせず和彦が断言すると、これ以上なく残念そうな表情を浮かべた千尋は、捨て
られた子犬のような眼差しを向けてくる。和彦は容赦なく、頬を抓り上げてやった。
「刺青を入れようなんて物騒な話をして
る奴が、そんな目をするなっ」
ベッドの上で千尋とじゃれ合っていた和彦は、ふと気になって尋ねてみる。
「千尋、刺
青の絵柄は、もう考えてあるのか?」
子供のように笑っていた千尋だが、この瞬間、食えない男の表情となり、和彦に顔
を寄せてこう答えた。
「――内緒」
ジムでの中嶋の返答を思い出し、和彦はそっと眉をひそめる。隠し事をされた報復
というわけではないが、千尋の鼻を摘んで、ささやかな憂さ晴らしをしてやった。
池田クリニックは、静かに地味に開業日を迎えた。
初日ぐらい、エレベーターホールから玄関まで、花輪で飾り立てたら
どうかと言われ、実際、花輪を贈りたがる人間が何人かいたのだが、すべてありがたく断らせてもらった。
クリニック開業
の事情が事情なので、あまり派手なことはしたくない。そう、もっともらしく説明した和彦だが、本当の理由は別にある。千尋から、
ヤクザの特性というものを教えられ、怖くなったからだ。
千尋いわく、見栄を張り、面子を保つのも仕事だというヤクザは、
とにかくめでたい行事で張り切る性分があり、祝いの品も祝い金も、とにかく他人より目立とうとする。そこに、長嶺組長のオン
ナの歓心を得ようという目的が加われば、どれだけ派手なことになるか――。
それを聞いた和彦は本気で震え上がり、目立
つことは困ると、賢吾に頼み込んだのだ。ニヤニヤと笑って和彦の言い分を聞いていた賢吾だが、しっかり他の組に根回しをして
くれ、おかげで花輪を贈られることはなかった。
ただそれでも、なんらかの形で祝いの気持ちを示したいという申し出があ
って、賢吾の面子を立てる意味もあり、そこは和彦は折れた。
その〈結果〉が、待合室に溢れている。
「……ちょっと
した花屋だ……」
羽織った白衣のポケットに手を突っ込み、和彦がぽつりと洩らすと、受付カウンターに入っている女性ス
タッフが苦笑を洩らす。
「すごいですね、この花。花の香りで酔いそうです」
そう言われるのも無理はない。朝から次
々と配達されてきた胡蝶蘭や洋蘭といった鉢物が、待合室を華やかに彩っているのだ。ユリやバラのアレンジメントは、テーブル
や受付カウンターに飾らせてもらったが、自己主張の強い花々は、申し訳ないが、壁際に並べて置いてある。
花輪を贈れな
い代わりに、豪華な花で埋め合わせを、ということなのだろう。ありがたいが、この花たちをあとでどうしようかと考えると、今
から頭が痛い。いくつかはスタッフに持ち帰ってもらうとして、残りすべてを和彦が世話するわけにもいかない。
開業初日
だというのに、こんなことで悩むのはのん気だと言えるが、今のところ和彦は暇だった。まだ、患者が一人も訪れないのだ。
美容外科クリニックに急患が駆け込んでくるはずもなく、また、完全予約制を取っているうえに、積極的な広告を出していない
となれば、こんなものだろう。かつて勤めていた大手クリニックでの忙しさを知っていると落ち着かないが、どっしりと構えてい
る立場に慣れるしかない。
待合室でうろうろしていても仕方ないため、診察室に戻ろうとしたとき、軽やかな音楽が響き渡
った。出入り口のドアが開閉されるたびに鳴るよう設定したのだ。
待合室にひょっこりと姿を見せたのは、由香だった。今
日はいつもと雰囲気が違い、落ち着いた印象のワンピース姿で、一見すると、品行方正な女子大生に見える。和彦と目が合うと、
小さなバッグを持つ手をぶんぶんと振った。
「先生、開業おめでとうっ」
笑みをこぼした和彦は、由香に歩み寄る。
「ありがとう。まさか本当に、君がこのクリニックの患者第一号になってくれるとは思っていなかったよ」
「だって、ずっと
待ってたんだよ。先生に診てもらおうと思って」
そう言って由香が、自分の目を指さす。二重瞼にすることをまだ諦めてい
ない由香から、和彦はこれまで何度も相談を受けている。由香の身元引受人ともいえる難波も、簡単な手術ということで、渋々、
〈愛人〉のわがままを許したようだ。
「あっ、それと、これは差し入れ。スタッフの人たちと食べてね」
差し出された
紙袋を反射的に受け取った和彦は、中を覗き込む。どうやらお菓子の詰め合わせが入っているようだ。
「悪いね、患者さんと
して来てくれたのに、気をつかってもらって」
「大したことじゃないよ。先生にはこれから、わたしの美容分野での主治医と
して、お世話になるんだから」
「……それは責任重大だ」
ひとまず由香を受付に案内して、問診表を書き込んでもらう。
その間に和彦は診察室に向かい、患者を迎え入れる心の準備をする。
ようやく、〈自分の〉クリニックでの仕事が始まるの
だ。
脱いだ白衣を傍らに置いた和彦は、ソファの背もたれに思いきり体を預ける。
すでにスタッフたちは帰ったあとで、クリ
ニックには和彦以外の人の姿はない。だからこそ遠慮なく、待合室で気が抜ける。
開業初日は、数人の患者のカウン
セリングに終始した。美容外科の仕事の進め方としては、こんなものだ。じっくりと患者の悩みや要望を聞き、どういう施術が最
適なのかを考える。実際に手術や処置に踏み切る人もいれば、思い留まる人もいるため、クリニックとしての採算が見込めるようにな
るまでは、まだ先だろう。
それまで和彦は、不慣れなクリニック経営者の立場を、試行錯誤しながら堪能するというわけだ。
ただ、そうはいいながらも、気持ちに多少の余裕はある。強力な後ろ盾のおかげだ。
クリニックの掃除はスタッフた
ちが行ってくれたため、カルテをまとめ終えた和彦に残された仕事は、実はさほど残っていない。
和彦はゆっくりと窓のほ
うに視線を向ける。夕方とはいえ、外はすでに薄暗い。座ったばかりだが、なんとなく気が急いてしまい、和彦は緩慢な動作で立
ち上がる。
実は今晩、開業祝いという名目で、長嶺の本宅で夕食をとることになっていた。
帰り支度を整えた和彦は、
護衛の組員にこれから降りることを伝えて、クリニックの電気を消す。
いつもの手順通り、ビルから少し離れた場所まで歩
き、あとから追いついた車に乗り込む。すぐに車が走り出すと、忘れないうちに組員に頼んでおく。
「夜、人気がなくなって
から、クリニックの玄関横に置いてある花を持ち出してくれないか。数が多すぎて、ぼく一人じゃ運べないんだ」
「わかりま
した。それで、花はどちらに運びましょうか」
「一応、本宅に。ぼくもいくつか引き取るけど、花の世話なんて、ほとんどや
ったことがないんだ。枯らせると、贈ってくれた人物と花に申し訳ないが、だからといって全部人任せなのも心苦しいしな」
「組に、庭いじりが得意な奴がいるんで、手入れの仕方を教えてもらうといいですよ。わたしから言っておきますから」
他
愛ないともいえる会話を交わし、このまま車は長嶺の本宅に向かうはずだった。だが車は、いつもなら曲がる道をまっすぐに進む。
その理由を、和彦が問いかける前に組員が告げた。
「――先生、今晩の予定が変更になりました。本宅ではなく、料亭
で祝いの席を設けることになったと、さきほど連絡が入りました。これから、その料亭にお連れします」
「そう、なのか……。
別に、普段通りでよかったのに」
賢吾の気まぐれに振り回されるのはいつものことで、和彦は特に違和感を覚えることもな
く、シートに体を預ける。
移動の間に、外はすっかり暗くなっていた。
開業初日で気が張っていたせいもあり、さほ
ど忙しかったわけでもないのに疲労感が体に溜まっている。そのせいか、車のライトが延々と続いている光景を目で追っていると、
眠気を誘われる。
やはり本宅のほうで過ごしたかったなと、ぼんやりと和彦は思う。すっかり気心が知れた男たちに囲まれ
て過ごすほうが、寛げる。外で美味しいものを食べさせてくれる気持ちは、もちろんありがたいのだが。
取り留めなくそん
なことを考え、必死に眠気と戦っている間にも、車はにぎやかな街中を抜け、静かな通りへと入る。そこからさらに細い路地へと
進む。
どこまで行くのだろうかと思ったが、尋ねるまでもなかった。正面を見つめていた和彦は無意識のうちに背筋を伸ば
す。車のライトが照らす先に、料亭らしき門構えと、その前にスーツ姿の男たち数人が立っていたからだ。明らかに、護衛を務め
る者特有の物腰だった。門の向こうに護るべき人物がいて、男たちは不審者に備えているのだ。
「もしかして……」
和
彦が口を開くと、ハンドルを握る組員が頷く。
「あの店です。別の者が座敷まで先生を案内しますから、従ってください」
「わかった」
料亭の前に車が停まり、すでに待機していた男の一人が素早くドアを開けてくれる。ここで和彦は、男が長嶺
組の組員でないことに気づく。見たことのない顔だ。
一体何事かと思いながらも、和彦を乗せてきた車はあっという間に走
り去ってしまい、尋ねる暇もない。仕方なく、促されるまま門をくぐり、意外にこじんまりとした料亭へと入る。
賢吾とと
もに外食をするとき、護衛はつくものの他の客と同じ空間で、料理やアルコールを味わうだけでなく、雰囲気やざわめきすらも楽
しむことが多いのだが、どうやら今晩は違うらしい。
コートとマフラーを腕にかけ、美しい日本庭園を眺めつつ廊下を歩い
ていた和彦だが、かつて中嶋に〈接待〉を受けたときのことを思い出し、つい苦笑を洩らす。その場には、今も月に一度のペース
で顔を合わせている藤倉もいた。あのときも、今晩のように突然、料亭に連れてこられて困惑したのだ。
表からは想像もで
きなかったが、中に足を踏み入れると、この料亭も十分に立派だとわかる。
まるで、人目を避ける隠れ家のような造り
だ――。
こう感じた瞬間、和彦は全身を駆け抜けるような緊張を覚えた。あることが脳裏を過り、瞬く間に手足が冷たくな
る。
緊張の理由は、考えるまでもなかった。ある座敷に通されて襖が開けられると、目の前に存在していたからだ。
長嶺守光が寛いだ様子で座椅子に座り、柔らかな眼差しを和彦に向けていた。
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