と束縛と


- 第17話(3) -


「先日は、相手をしてくれてありがとう。――先生」
 賢吾に似た太く艶のある声が発せられ、呆然と立ち尽くしていた和彦 は我に返る。急に落ち着かなくなり、緊張のあまりこの場から逃げ出したくなったが、手招きされると、もう逆らえない。会釈を して座敷に足を踏み入れた。
 さらに促されるまま、座卓を挟んで守光の正面に座る。和彦は唇を動かしはするものの、守光 の顔を見ると、頭の中が真っ白になってしまい、何も言葉が出ない。正体を知ってしまうと、どう話しかけていいのかすら、わか らないのだ。
 相手は、総和会という大きな組織の会長で、賢吾の父親で、千尋の祖父だ。そして和彦は、その二人の〈オン ナ〉だ。医者として、長嶺組と総和会にも協力しており、和彦の立場は複雑だ。
「総和会会長と対面しているから、そう緊張 しているのかね?」
 笑いを含んだ声で問われ、戸惑いながらも和彦は小さく頷く。
「そう、です……」
「テレビや 新聞を通して、さんざん総和会の悪評を聞いていたら、当然かもしれないな。事実でもあるし、あんたには物騒な患者の治療もさ せている。だが、ヤクザの世界云々は、今はいい。わしは長嶺の男で、あんたは、長嶺の男の扱いに慣れている。そう考えると、 少しは気が楽になるだろ?」
 総和会会長という肩書きの威圧感が、考え方一つで変わるわけではない。ただ、守光の物言い の柔らかさは、和彦にとって救いだ。ぎこちなく微笑むと、守光は襖の向こうに一声かける。
 すぐに料理が運ばれてきて、 座卓の上に並ぶ。その間、手持ち無沙汰となった和彦は、所在なく座敷内を見回していたが、仲居が襖を開いた瞬間、影のように 廊下に立つスーツ姿の男たちの姿を目にした。自分は今、総和会会長とともにいるのだと、改めて思い知らされる光景だ。
「あんたが来る前に、賢吾と電話で話したが、機嫌が悪かった。先生との約束をわしに奪われたと、恨み言を言われたよ」
「……組長が、ですか?」
「組長、か……。いつもそう呼んでいるわけじゃないだろう。今晩はあくまで、長嶺の身内として、 あんたと話しているんだ。そういう堅苦しい呼び方は抜きにしないかね」
 和彦が戸惑いながら口ごもると、守光は笑いなが ら猪口を手にして差し出してくる。意図を察した和彦は、恐縮しながらおずおずと猪口を受け取り、酒を注いでもらう。味わう余 裕などもちろんなく、ぎこちない動作で返杯するのが精一杯だ。
 今度は和彦が注いだ酒を、守光が飲み干す。その様子を、 不思議な感覚で見つめていた。
 ノーネクタイ姿で、座椅子にあぐらをかいて座っている守光の姿は、やはりどう見ても物騒 なヤクザには見えない。ところどころ所作に鋭さが出るものの、それでも立派な企業の経営者や重役で十分通る物腰だ。
 こ の人は本当に総和会の会長なのだろうかと、今になって基本的な疑問すら抱いてしまう。
 和彦の視線に気づいたのか、ふい に顔を上げた守光がニヤリと笑いかけてくる。
「夢でも見ているような顔だ」
「あっ、いえ……。まだこの状況が、信じ られなくて」
「今の生活だと、ヤクザなんて珍しくもないだろう」
「でも、あなたはただのヤクザじゃ――」
「ヤク ザはヤクザ。どれだけ大層な看板を背負おうが、それは変わらんよ。堅気からすれば、疫病神一匹、といったところだ。あんたは、 その疫病神の中で特に性質の悪いのに気に入られたというわけだ」
 返事のしようがなくて、和彦は小さく苦笑を洩らす。
 料理に箸をつけながら会話を交わすが、まだ緊張している和彦を気遣ってか、守光のほうからあれこれと話しかけてくれる。そ れに答えるうちに、ようやくまともに会話が続くといった感じだ。
 少しずつ、守光と一緒にいる空気に慣れていく。〈長嶺 の男〉という一括りは本来はどうかとも思うのだが、こうして話していると、賢吾や千尋が持つ雰囲気と共通する部分があり、そ れが和彦には馴染むのだ。自覚がないまま、これまでの生活で慣らされてきたのかもしれない。
 打ち解けてきたからこそわ かったことなのだが、長嶺の男は、妙なところまで似ていた。
「――賢吾と千尋は、あんたを〈オンナ〉として満足させてい るかね」
 吸い物に口をつけていた和彦は危うく咳き込みそうになり、慌てて口元を手で覆う。息を詰めたせいもあるが、そ れ以上の激しい羞恥で、瞬く間に顔が熱くなってくる。
「なっ、何、言って……」
 うろたえる和彦を、守光は興味深そ うに見つめてくる。明け透けなことを平然と言えるところが、本当に賢吾と千尋にそっくりだ。
「最初にあんたのことを教え てくれたのは、千尋だ。バイト先の客に、気になる医者がいると言って。その医者を調べさせたのは、賢吾だ。――ヤクザの好奇 心を掻き立てるものを、いろいろと持ってるな、あんたは」
「……それは、ぼくの実家のことを指しているのですか?」
「わしは、難しい話に興味はないよ」
 機嫌よさそうに話す守光の表情から、狡猾さは感じられない。しかし、本当に狡猾で、 頭が切れる人間は、完璧に自分の本性を隠せるものだ。和彦の父親が、まさにそうだ。
 急に警戒心を露にした和彦に向けて、 守光はさらに言葉を続ける。
「あるのは、長嶺の〈悪ガキ〉二人を骨抜きにしている先生への興味だ」
「悪ガキ……」
「わしにしてみれば、でかくなったつもりの賢吾はまだ悪ガキのままで、千尋はさらにやんちゃな悪ガキだ」
 大蛇を背負っ た怖い男も、実の父親の口から語られると、なんだか可愛らしく感じられる。寸前まで警戒していたことも忘れて、和彦は声を洩 らして笑ってしまう。守光も楽しそうに目を細めた。
「どうやら、二人の話が気に入ったみたいだな」
「若い千尋はとも かく、組長――賢吾さんにその表現が、不思議なぐらいしっくりくると思って」
 守光に言われたこともあり、賢吾の名を口 にしてみたが、逃げ出したいほど恥ずかしい。そもそも賢吾を名で呼ぶのは、体を重ねている間の儀式のようなものだ。
 賢 吾との行為の光景が脳裏に蘇り、和彦は密かにうろたえる。伏せていた視線を何げなく上げると、守光がじっとこちらを見つめて いた。
「……あの、何か……?」
「いや、千尋と賢吾を名前で呼んでいるなら、わしのことも呼んでもらえるかと思って な」
「とんでもないっ」
 和彦が首を横に振ると、楽しそうに声を上げて守光は笑ったが、すぐに、ドキリとするほど鋭 い眼差しを向けてきた。
「――あんたを〈オンナ〉にしないと、無理かね?」
 咄嗟に反応できない和彦を見て、守光は また声を上げて笑う。
「冗談だ。そう、心底困ったような顔をしないでくれ。あんたをイジメたと言って、あとで賢吾と千尋 に叱られる」
 自分に対する守光の態度があまりに大らかなので、和彦はずっと気になっていたことを尋ねる踏ん切りがつい た。
「千尋から、ぼくのことを聞かされたとき、不愉快になりませんでしたか?」
「不愉快とは……」
「長嶺組の大 事な跡継ぎが、年上の男にたぶらかされていると感じなかったのかと思って。それに、長嶺の本宅に出入りしている今の状況 も――」
「社会の常識や道徳は、この世界ではあまり重んじられん。賢吾や千尋だけじゃなく、長嶺組が総意としてあんたを 受け入れたのなら、それがすべてだ。……総和会会長の立場では、長嶺組の〈身内〉の処遇についてあれこれ命令はできんよ。長 嶺の男としても、する気はないがね」
 ふいに守光が、握手を求めるように右手を伸ばしてきた。何事かと思った和彦は、守 光の顔と手を交互に見てから、おそるおそる自分も右手を差し出す。守光とてのひらを合わせると、思いがけず強い力でぐっと握 り締められた。すでに酒が入っているせいか、今晩の守光の手は温かい。
 どういう意図から手を握られたのかわからないが、 振り払えないことだけははっきりしている。手を握られた瞬間、自分の命運すら握られたような感覚が、和彦に襲いかかっていた。 守光が持つ見えない力を体感しているようだ。
「――あんたは、力に敏感だな。自分が抗えない力をすぐに嗅ぎ取って、決し て逆らわない。卑屈になるわけでもなく、巧く身を委ねる」
「ぼくは……痛い思いをするのが、何より嫌いなんです。ヤクザ を相手に逆らうなんて、身を刻んでくれと言っているような、ものです……」
「誰があんたを、そういう食えない人間にした のか、気になるね」
 話しながら守光の指が、てのひらに這わされる。くすぐったさに首をすくめた和彦は、反射的に手を引 こうとしたが、守光に手首を掴まれていた。力強さは、賢吾と変わらない。
「あっ……」
 再びてのひらに指が這 わされ、和彦は自分が今感じているのはくすぐったさなどではなく、ゾクゾクするような疼きなのだと知る。
 瞬きもせず見 つめた先で、守光は穏やかな紳士の顔の下から、総和会会長という物騒な肩書きに似つかわしい表情を見せた。賢吾に似た口元が 薄い笑みを湛え、千尋に似た目が、強い光ではなく、深い闇を湛える。長嶺の男は、千尋も賢吾もそれぞれの怖さを持っているが、 守光の持つ怖さは――老獪さだ。
 手を刺激されただけで身じろぎもできなくなった和彦に、守光はひどく優しい声で囁いて きた。
「長嶺組は、居心地がいいかね?」
「……大事に、してもらっていると思います」
「複雑な気持ちが表れてい る答えだ。ヤクザに囲われていて、居心地がいいとは答えられない。だが、今の生活が嫌ではない。だから、大事にしてもらって いる、か」
「すみません」
 思わず謝罪したことで、守光の指摘の正しさを認める。そんな和彦を咎めるでもなく、むし ろ反応を愛でるように守光は目を細めた。一方で、相変わらず和彦の手に触れ、指を一本ずつ撫でてくる。
「あんたを大事にしたい と考えているのは、何も長嶺組だけじゃない」
 返事の代わりに和彦は目を見開く。ズバリと切り込むように、守光が低い声 で告げた。
「総和会で、あんたの身を預からせてもらえないだろうか――と考えている」
 恫喝されたわけではない。だ がこの瞬間、和彦は得体の知れない不安と恐怖を感じていた。巧妙に仕掛けられた罠にかかってしまった小動物の心境とは、こう いうものなのかもしれない。足りないのは、絶望的な痛みだけだ。
 どういう意図からの提案なのか、無意識に唇を舐めてよ うやく問いかけようとしたとき、襖の向こうから聞き覚えのある声がした。
「――オヤジさん」
 誰の声かわかった途端、 和彦は体を強張らせる。そんな和彦の手をぐっと握り締めて、守光が応じた。
「南郷か」
「はい。ちょっとよろしいです か」
 守光が応じると、スッと襖が開き、正座した南郷が姿を見せる。大柄な体を、見るからに高級そうなスーツで包んでい るが、内から滲み出る粗暴さは隠しきれないようだ。そんな男が、守光に対して恭しく頭を下げた。
「例の件について至急相 談したいと、電話が入っています。……お楽しみのところでしたら、あとでかけ直すよう伝えますが」
 わずかに頭を上げた 南郷は、獣のように鋭い視線をこちらに向けてくる。襖を開けた瞬間に、守光が和彦の手を握っている光景を捉えていたのだろう。 誤解されたのではないかと思った和彦は、慌てて手を引く。
 そんな和彦を見て、ちらりと笑みをこぼした守光が立ち上がる。
「かまわん。隣の座敷で電話を取る。それと、わしはかまわんから、先生の分のデザートを運ぶよう、伝えてくれ」
「あ の……、デザートはけっこうです。今日は疲れたので、ぼくはこれで失礼します。ちょうど、お仕事の電話も入られたようですし」
 和彦としては、頭で考えるより先に、勝手に口が動いたような感覚だった。とにかく、独特の空気が支配するこの場から、 早く解放されたかったのだ。突然、守光と向かい合って食事をすることになり、挙げ句、手を握られながら、思いがけない提案ま でされた。頭が混乱しすぎて、頭痛までしてくる。
 思案するように声を洩らした守光が、和彦の傍らに歩み寄ってきたかと 思うと、なんの前触れもなくあごを掬い上げた。
「……確かに、少し顔色が悪い。やはり、賢吾や千尋と一緒に過ごすほう がよかったようだ」
「いえっ、そんなことはありません。お忙しい立場なのに、気にかけていただいて感謝しています」
「次に会うときは、もっと打ち解けてくれ」
 守光の指がさりげなくあごの下をくすぐる。極度の緊張を強いられた和彦が動 けないでいる間に、守光は座敷を出て、廊下にいる南郷に話しかけた。二人の会話が和彦の耳に届く。
「――南郷、先生をマ ンションまで送ってくれ。賢吾には、先生の安全については責任を持つと言い切ったからな。総和会の第二遊撃隊の隊長が送り届 けたなら、あいつも文句は言わんだろ」
「俺の運転でいいんですか?」
「お前の車を襲おうなんてバカ者は、まずおら ん。……体を張って先生を守れ」
 了解、と低い声が答える。和彦がおそるおそる開いた襖のほうを見ると、ちょうど南郷が 座敷を覗き込んだところで、しっかり目が合う。
 挨拶のつもりなのか、獣が牙を向くような怖い笑みを向けられ、和彦は咄 嗟に視線を伏せる。
 できることなら、この場から逃げ出したかった。


「オヤジさんの機嫌がよかった」
 道路が空いているとみるや、車のスピードを上げた南郷が、ふと思い出したように口を開 く。後部座席に座り、じっと体を硬くしていた和彦は、それが自分にかけられた言葉だと察して、仕方なく応じた。
「……ま だ会って二度目なので、よくわかりません」
「はっ、俺相手に敬語なんて使わなくていい。あんただって、こんな学も品もな い男と、本当は口も聞きたくないだろ」
 こんなことを言われて、頷けるはずもない。和彦は聞こえなかったふりをして、物 憂げにウィンドーの向こうに視線を向ける。こちらから話題を振ってみた。
「オヤジさん、と呼ぶんですね。会長のことを」
「あの人には、十代のガキの頃から可愛がってもらっている。組を紹介してくれて、何かと口添えをしてくれた。そのうえ、 組の解散が決まったときには、総和会に招き入れてくれたしな。実の親より、俺の面倒を見てくれた」
「そうなんですか……。 だったら、長嶺組長とも昔からお知り合いなんですか?」
 和彦の質問に対する答えは、不自然な沈黙だった。もともと緊張 感が漂っていた車内の空気が凍りついたような気がして、和彦は息を詰める。
「――……昔から知っていると言えば知ってい るが、決して知り合いじゃない。長嶺組長は、特別だ。長嶺組を継ぐために作られたサラブレッドみたいなもので、俺のようなチ ンピラ上がりは、総和会の肩書きを背負ってようやく、新年のお目通りが叶ったぐらいだ」
 南郷の言葉から暗い情念のよう なものを感じ取り、和彦は小さく身震いする。あからさまにヤクザであることを匂わせる粗暴そうな男は、中身はさらに荒々しい 嵐を秘めているようで、不気味だ。
 会話を続ける気力が完全に萎えてしまい、とうとう和彦は、シートにぐったりと体を預 ける。守光と夕食をともにしただけでも大きな出来事だが、なんといっても今日は、クリニック経営者としての生活が始まった日 でもあるのだ。
 めまぐるしい一日を思い返すだけで、眩暈がしてくる。
 前髪に指を差し込み、顔を仰向かせて一度は 目を閉じた和彦だが、シートに座り直したときに、何げなくバックミラーを見る。そこに映る南郷の目を見た途端、和彦は寒気を 感じた。
 南郷の目が、笑っているように見えたのだ。ただ笑っているだけではなく、暗く冷たいものを感じさせ、見るもの を不安な気持ちにさせる。
 和彦は本能的に伏せた視線を、もう上げることはできなかった。
「――このマンションだっ たな」
 しばらく続いた沈黙を、南郷が破る。ハッとして顔を上げた和彦は、車が自宅マンション前に停まっていることを知 る。
 ふっと肩から力を抜き、頷いた。
「はい。ありがとうございました」
 傍らに置いたマフラーを取り上げて和 彦がドアを開けようとすると、勢いよく南郷が車を降り、和彦より先に後部座席のドアを開けた。獣のように荒々しく素早い行動 に、和彦はただ圧倒され、南郷を見上げる。
 訝しむように和彦を見下ろした南郷は、何を思ったのか、まるで淑女を気遣う ように大きな片手を差し出してきた。南郷にとって、長嶺組長の〈オンナ〉とは性別に関係なく、こういう扱いをするものだとい う思い込みがあるらしい。
「いえ、大丈夫ですっ……」
 和彦はわずかに体を熱くしながら車を降りる。南郷の顔をまと もに見ないまま頭を下げ、急いで立ち去ろうとしたが、すかさず腕を掴まれ、あっと思ったときには車に体を押しつけられた。
 突然のことに声も出せない和彦は、大きく目を見開く。南郷は、手荒な行動とは裏腹に、静かな表情で和彦を見つめていた。
 こんなときに限って、マンション前には人はおろか、車すら通りかからない。
 南郷の大きく分厚い手が眼前に迫ってくる。 絞め殺されるかもしれないと、本気で危機を感じた和彦だが、仮にも総和会に身を置く男がそんなことをするはずもない。
  南郷の手は、和彦の首ではなく、両頬にかかった。
「これが、長嶺組長のオンナ……」
 和彦の顔を覗き込みながら、ぽ つりと南郷が呟く。淡々とした声の響きにゾッとして、和彦は手を押し退けようとしたが、がっちりと頬を挟み込んで動かない。 それどころか南郷は、体を寄せてきた。
「一人の女とは一度しか寝ないと言われている男が、はめ込んでまで手に入れたのが、 堅気の色男だと聞いたときは、何事かと思ったんだが。……そうか。これが、長嶺の怖い男たちと相性のいいオンナ、なんだな」
 南郷は逞しく硬い体だけでなく、顔まで間近に寄せてくる。しかし和彦が気になるのは、頬から首へと移動する手の感触だ った。両目に凶暴さを潜ませている男の行動が、和彦には読めない。
 声が出せず、体は強張る。自分の足で立っているとい う感覚すら危うくなっていると、ようやく走ってくる車のエンジン音が聞こえてきた。だが南郷は動じない。
 和彦は絶望感 に襲われそうになったが、ヘッドライトのまばゆい明かりに照らされ、一瞬目が眩む。その間に車が二人の側で停まり、声をかけ られた。
「――警察だ。こんなところで何をやってる」
 緊迫感に欠けた皮肉っぽい口調にこんなにも安堵感を覚えるの は、もちろん初めてだった。ようやく自分を取り戻せた和彦は、必死に南郷を睨みつける。余裕たっぷりの笑みを唇に浮かべて、 南郷はやっと体を離した。
「部屋まで送っていこうか、先生?」
「けっこう……です。ここで」
「残念だ。長嶺組長 は、自分のオンナをどんな部屋に囲っているのか、興味があったんだが」
 そう言って南郷は車に乗り込もうとしたが、ふと 動きを止める。そして、いつの間にか和彦の傍らに立った男――鷹津に話しかけた。
「お宅、本当に警察か?」
「手帳を 見せてやるし、なんなら、警察署まで来るか? 意外にサービスがいいんだぜ。特に今は、組関係の人間にはな」
 わずかに 目を眇めた南郷の一瞥を受け、鷹津は不快そうに眉をひそめた。互いが、忌むべき存在に出会ったと認識した瞬間に、和彦は立ち 会ってしまったのだ。
 不気味な沈黙を残した南郷の車が走り去り、鷹津と二人きりになる。
 和彦は横目で鷹津を見る と、何事もなかったふりをしてマンションに戻ろうとしたが、案の定、肩を掴まれて引き止められた。
「また、ヤクザをたぶ らかしたのか、佐伯」
 鷹津の言葉に、パッと振り返った和彦は鋭い視線を向ける。
「変なことを言うなっ」
「そう か? さっきのはどう見ても、でかい図体のヤクザが、お前の色香に迷って襲いかかろうとしているように見えたが」
「……目 が腐ってるんじゃないか」
 小声で毒づいた和彦に対して、鷹津が意味ありげにニヤニヤと笑いかけてくる。最初は気づかな いふりをしていた和彦だが、立ち去ることも許されず、仕方なく水を向けた。
「何か、言いたそうだな……。ぼくは早く部屋 に帰って休みたいんだ。用があるならさっさと言ってくれ」
「助けてやった俺に対して、何か忘れてないか?」
 鷹津を 睨みつけると同時に、和彦の頬は熱くなる。この男が何を言おうとしているか、一瞬にして理解してしまったのだ。
「……茶 ぐらい出してやろうかと思ったが、気が変わった。さっさと帰れ」
「そうやってとぼけて、俺を焦らす作戦か」
 鷹津に 動揺した姿を見せた時点で、和彦の負けだ。
 唇を引き結ぶと、促されるまま鷹津の車に乗り込んだ。


 鷹津と一緒にいることをメールで賢吾に知らせて、ぼんやりと携帯電話の画面を眺めていた和彦は、ウィンドーを軽く叩かれた 音で顔を上げる。先に車から降りた鷹津が腰を屈め、車内を覗き込んでいた。
 和彦は携帯電話をコートのポケットに突っ込 むと、勢いよく車を降りる。
「ダンナに、しっかり居場所は伝えておいたか?」
「うるさい。ぼくが連絡しておかないと、 あんただって面倒だろ」
「いいところで、ヤクザに踏み込まれるのは迷惑だな」
 そんなことを言いながら鷹津が歩き始 めたが、和彦はすぐには足を踏み出せなかった。やはりまだ、こうして鷹津と二人きりで会うのは抵抗がある。なんといっても鷹 津は、相変わらず嫌な男なのだ。
 和彦がついてきていないことに気づいたのか、鷹津が肩越しに振り返る。口元には、人の 神経を逆撫でるような笑みが刻まれていた。ぐっと奥歯を噛み締めて、和彦は乱暴な足取りで鷹津の隣に並ぶ。
 歩きながら、 暗い駐車場から古いマンションを見上げる。周囲に建ち並ぶマンションに比べて寂しい印象を受けるのは、電気がついている部屋 が少ないせいだろう。この人気のなさを、鷹津は気に入っているのかもしれない。
「車の中で聞くのを忘れていたが――」
 薄ぼんやりとした明かりで照らされるエントランスに入ったところで、ふいに鷹津が切り出す。
「さっきの男のことだ」
「……総和会の人間だと言っただろ。それ以上のことは組長に確認してからじゃないと、何をどこまで話していいのかわからない んだ。あんたと相性が悪そうなあの男の名前も肩書きも、今は言えない」
「ムサいヤクザの名前なんて、積極的に知りたくも ねーな」
「あんた一応、暴力団担当の刑事だろ」
 やる気があるのか、と言葉を続けたところで、鷹津に乱暴に腕を掴ま れて引き寄せられた。間近に迫った顔は、真剣な表情を浮かべていた。
「俺が通りかからなかったら、あの男と寝るつもりだ ったのか?」
 あまりに露骨な問いかけに、和彦は呆気に取られる。すると鷹津は、険のある顔つきとなった。
「どうな んだ」
 詰問され、やっと和彦は言葉を発する。
「そんなことあるわけないだろっ。あんたは一体、ぼくをなんだと思っ てるんだっ」
「ヤクザの男どもを咥え込む、性質の悪いオンナ。ああ、刑事も咥え込んでいるな」
「――帰る」
 そ う言って鷹津に背を向けようとしたが、一歩を踏み出すことすらできなかった。半ば引きずられるように、エレベーターホールへ と連れて行かれる。本気で鷹津が放してくれるとは思っていなかった和彦は、無駄な抵抗をしなかった。
 エレベーターを待 ちながら、さきほどからずっと気になっていたことを聞いてみる。
「仕事帰りのあんたが、どうしてぼくのマンションの前を 通りかかったんだ。……帰り道が、まったく逆じゃないか」
「お前の周りは何が起きても不思議じゃないからな。あのマンシ ョンを、個人的に巡回している。実際今晩は、おもしろい場面に出くわした」
「……あんたが、そんなに働き者だとは思わな かった」
「これでも実は、有能な刑事さんなんだぜ」
「ぼくが知らないと思って、ウソ言ってるだろ、絶対」
 ここ でエレベーターの扉が開き、二人は乗り込む。鷹津がボタンを押し、やけにゆっくりと扉が閉まった次の瞬間、鷹津に肩を引き寄 せられ、あごを掴み上げられた。
 噛みつくような激しさで唇を貪られ、反射的に鷹津の肩を押し退けようとした和彦だが、 強い抵抗には至らない。余裕なく唇を吸われると、この男がどれほど自分を欲しがっているのか、言葉よりも雄弁に教えられるの だ。
 じわりと胸の奥が熱くなり、疼きを発する。和彦がおずおずと舌を差し出して応え始めたとき、エレベーターが目的の 階に着く。扉が開く音で急に我に返り、密かにうろたえる和彦を見て、鷹津は楽しげに目を細めた。
 人気がないのをいいこ とに、肩を抱かれたまま部屋まで行く。
 当然だが、主が不在だった室内は外と同じぐらい冷えきっており、すぐに寛げる状 況ではない。しかし鷹津は頓着した様子もなく、脱いだブルゾンをイスの背もたれに引っ掛けると、有無を言わせず和彦の腕を掴 んだ。
 ベッドを置いた部屋へと連れ込まれ、コートの襟元に鷹津の手がかかる。
「コーヒーぐらい淹れてやろうとか、 そういう気遣いはないのか」
 感じる気恥ずかしさを誤魔化すように和彦が言うと、眼前で鷹津が澄ました顔で応じた。
「だから途中、コンビニに寄ってやろうかと言っただろ。あのとき、欲しいものを買っておけばよかったんだ」
「……あんた とは、気遣いという点で一生わかり合えないだろうな」
「だが、体ではわかり合えてる」
 和彦は鷹津を睨みつけて身を 捩ろうとしたが、あっさり腕の中に捉えられ、また唇を塞がれる。乱暴に脱がされたコートとジャケットが足元に落ち、このとき になって、マフラーを鷹津の車に置いてきたことを思い出した。しかし、今の状況では些細なことだ。
 ベッドに押し倒され た和彦の上に、荒々しい獣のように鷹津がのしかかってくる。そして、唇を貪られた。
「んんっ……」
 口腔に強引に舌 が押し込まれ、蠢く。抵抗感と吐き気を覚えた和彦は、鷹津の肩を押し退けようとするが、それがかえって鷹津を――サソリを煽 ったらしい。片腕でしっかりと頭を抱え込まれ、文字通り口腔を舌で犯される。
 和彦は呻き声を洩らして抗議していたが、 スラックスからワイシャツを引きずり出され、脇腹を熱い手で撫でられているうちに、抵抗は緩慢になる。とうとう鷹津と舌先を 触れ合わせ、流し込まれる唾液を嚥下していた。
 この瞬間から、二人の間に流れる空気は一変する。和彦は、獣に一方的に 押さえつけられる獲物ではなくなるのだ。
 鷹津と舌を絡め合い、こぼす吐息すら貪る。引き出された舌を軽く噛まれて、鼻 にかかった声を洩らすと、誘い込まれるまま鷹津の口腔に舌を侵入させていた。痛いほどきつく舌を吸われて、背筋に疼きが駆け 抜ける。
「お前は本当に、性質が悪い」
 長い口づけを交わし、ようやく唇を離したところで、鷹津が忌々しげな口調で 言う。和彦は大きく息を吸い込むと、手の甲で唇を拭う。
「蛇蝎の片割れにそんなふうに言われると、けっこう傷つく……」
「ふん、お前がそんなタマか。――嫌がる素振りを見せるくせに、あっという間に、男を受け入れる。それこそ、嫌われ者の 蛇蝎の片割れでも」
「別に……、受け入れたつもりはない」
 ぼそぼそと呟いて和彦が顔を背けると、鷹津は喉を鳴らし て笑う。
「まあ、いい。俺は、ご褒美の餌をもらいたいだけだ。あのでかいヤクザには、ある意味、感謝しないとな」
  話しながら鷹津の手にネクタイを抜き取られ、ワイシャツのボタンを外される。胸元が露になったとき、思わず和彦は身震いして いた。
「……寒い」
 そう洩らすと、世話が焼けるとでも言いたげに、鷹津は露骨に大きなため息をついてベッドを降り、 和彦が見ている前でエアコンを入れた。
「餌をもらう前に、機嫌を損ねられたくないからな」
 当てつけがましく呟いた 鷹津が、黒のハイネックセーターを一気に脱ぎ捨て、ジーンズの前を寛げ始める。すぐに和彦の元に戻ってきて、のしかかってき た。
 重なってきた熱い体に、思わず吐息を洩らす。
「どうせすぐに汗をかくのに、わざわざ部屋を温めなくてもいいと 思わないか?」
 下肢を剥きながらかけられた言葉に、和彦は鷹津を軽く睨みつける。
「頑丈な刑事の体と一緒にするな」
「まあ、違うだろうな。なんと言ってもお前は、ヤクザどもに大事に大事にされている、オンナなんだから」
 和彦が身 につけていたものはすべて、雑な手つきでベッドの下に落とされる。鷹津は、慰撫するように和彦の体を撫で回してくる。鳥肌が 立ちそうな不快な感覚は、部屋が暖まるのに比例するように、ゆっくりと溶けていく。同時に鷹津の手が熱くなっていくのもわか った。
 いきなり胸に顔を埋められ、突起を強く吸い上げられる。和彦は唇を引き結んで声を堪えたが、両足の間に差し込ま れた手に敏感なものを掴まれると、もうダメだった。ビクリと腰を震わせて、爪先を突っ張らせる。
「ふっ……、あっ、あぁ っ――」
 和彦は控えめに声を上げながら、鷹津の肩に手を置く。胸の突起を執拗に吸い上げていた鷹津が顔を上げ、ベロリ と唇を舐められる。それが合図のように互いの唇と舌を吸い合い、一方で、敏感なものを扱く鷹津の手の動きが速くなる。和彦の ものは、他の男にもそうであるように、鷹津の手の中で従順に形を変え、熱くなっていた。
「お前とは違って、こっちは素直 で可愛いな。ちょっと撫でてやったら、もう嬉し泣きしてるぞ」
 揶揄するように声をかけてきた鷹津が、和彦のものの先端 を指の腹で撫でる。指摘された通り、和彦のものはすでに透明なしずくを滲ませていた。
「……気持ちの悪い言い方を、する なっ……」
「ふん。だったら、明け透けに言い直してやろうか?」
 鷹津の唇が耳元に寄せられ、露骨な言葉を注ぎ込ま れる。全身を羞恥と屈辱で熱くしながら、和彦は身を捩ろうとしたが、もちろん鷹津が許すはずもない。唾液で濡らした指が強引 に内奥に挿入され、苦しさに呻きながらも和彦は拒めなかった。
 片足を抱え上げられ、指で解されていく内奥の様子を、し っかりと鷹津に観察される。
 たまらなく恥ずかしいし、辱められているという意識もある。だが、食い入るように自分の秘 部を見つめ、手荒だがしっかりと愛撫を施す鷹津を見上げていると、奇妙な高ぶりが和彦の中で湧き起こる。情、というものかも しれない。
 和彦の眼差しに気づいたのか、鷹津は驚いたように軽く目を見開いたあと、皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「自分が今、男を誘う艶っぽい表情をしてると自覚があるか?」
「……なんであんたを、誘わなきゃいけないんだ」
「俺 が欲しいだろ?」
 内奥深くで二本の指が、発情した襞と粘膜をまさぐり、掻く動きを繰り返す。意識しないまま和彦の腰が 揺れ、鷹津の指をきつく締め付ける。
「言葉じゃなく、態度で示してくれたみたいだな」
「そんなこと、ない――」
 ここで鷹津の指が引き抜かれ、じわじわと押し寄せていた快感がふっと消える。抗議の声を上げるわけにもいかない和彦は顔を 背けようとしたが、すかさず唇を塞がれた。
 口腔に差し込まれた鷹津の舌に軽く噛みつきはしたものの、すぐに濡れた音を 立てて吸ってやる。表情には出さないものの、鷹津はこの口づけに興奮していた。和彦は片手を取られ、すでに熱く高ぶった欲望 を握らされる。
 言われなくても、何をすればいいのかはわかる。和彦は鷹津のものに指を絡め、緩やかに扱いてやる。鷹津 が苦しげに眉をひそめ、荒く息を吐き出した。
「サービスがいいな」
「……一応、助けてもらったからな」
「お前、 いつも護衛を張り付かせてるくせに、どうしてあんな、見るからにヤバそうな男と二人きりになった。俺が現れなかったら、今頃 あの男のものを、突っ込まれていたかもしれねーぞ」
 言っていることはもっともだと思うのだが、鷹津の物言いはあまりに 品性に欠ける。
「言っただろ。あれは総和会の男だ。長嶺組としては、信頼の証として護衛を外すんだ。ぼくが知っている総 和会の人間は、基本的に礼儀正しい。あの男は、特別だ……」
 鷹津は何か思案するような表情となる。無精ひげの目立つ彫 りの深い顔立ちは、普段は皮肉っぽくて粗野な印象が強いのだが、表情によっては意外に知的に見える。互いに裸になり、熱い欲 望を晒した姿でなければ、まじまじと見入ってしまったかもしれない。
 胸のざわつきを覚えた和彦がそっと視線を逸らすと、 鷹津が唇を求めてくる。唇と舌を吸い合いながら、てのひらでは鷹津の欲望の脈動を感じていると、ふいに囁かれた。
「――今 日は、俺のを舐めるか?」
 露骨な言葉に、羞恥のあまり動揺してしまう。和彦が何も言えないでいると、どういう意味か、 鷹津は楽しげに声を洩らして笑った。
「性質の悪いオンナのくせに、初心な処女みたいな顔をするな。……興奮して、お前の 口に突っ込みたくなるだろ」
「……下品な男だ」
「そんな男にも餌を与えなきゃいけないんだ、飼い主は大変だな」
 和彦は唇を思いきりへの字に曲げたが、鷹津が覆い被さってくると、両腕をしっかりと背に回した。
 鷹津は当然の権利の ように、内奥への侵入を開始する。
「うっ、あっ、あっ――」
 苦痛と戸惑いと歓喜で、和彦の内奥が妖しく蠢く。その 感触を堪能するように鷹津は腰を突き上げ、襞と粘膜を強く擦り上げる。鷹津の欲望の逞しさと熱さが、これ以上なくはっきりと わかり、それが行き来するたびに、和彦は官能を刺激されていた。
 肉の悦びが生まれるのはあっという間だ。鷹津が刻む律 動に、上体を捩りながら身悶える。
「はあっ……、あっ……ん、んうっ」
 鷹津の片手が、反り返って透明なしずくを垂 らす和彦のものにかかる。きつく扱き上げられると、はしたないとわかっていながらも、腰を揺すって感じてしまう。そんな和彦 の媚態に誘われたように、鷹津が胸元に唇を押し当ててきた。
 顔を上げた鷹津と口づけを貪り合いながら、内奥深くを強く 突き上げられる。鷹津にしがみついたまま、和彦は絶頂に達していた。
 淫らな蠕動を繰り返す内奥の感触を、律動を止めて 鷹津が堪能している。和彦は息を喘がせながら、そんな鷹津の顔を見上げていた。
 快感を貪る男の顔は、獣のような本性を 見せながらも、ほんの一瞬優しく見えることがある。鷹津の場合は――。
 のろのろと片手を伸ばした和彦は、鷹津の頬にて のひらを押し当てる。鷹津は口元に笑みを浮かべると、前触れもなく内奥から欲望を引き抜き、荷物でも扱うように和彦の体をう つ伏せにした。
「ううっ……」
 腰を抱え上げられて、背後から貫かれる。内奥をこじ開けるように、鷹津のふてぶてし い欲望が奥深くまで押し入り、突き上げられる。和彦は声を上げ、背をしならせていた。
「あっ、い、や――。奥、きつ、 い……」
 腰を掴まれて、もう一度突き上げられたところで訴えると、鷹津に腰を抱え込まれ、これ以上なくしっかりと繋が る。内奥の深いところで、鷹津の逞しい欲望を確かに感じた。
「こんなに締まりっぱなしだと、そりゃ、きついだろな。俺に とっては、最高に具合がいいが」
 鷹津の片手が胸元に這わされ、硬く凝った突起を手荒く摘み上げられる。小さく声を洩ら した和彦は意識しないまま、鷹津のものをきつく締め付ける。息を弾ませた鷹津が、なぜか悔しげな口調で言った。
「……本 当に、性質が悪いオンナだっ……」
 次の瞬間、和彦の内奥深くには、熱い精が注ぎ込まれた。


 シャワーを浴びて濡れた肌が、吸い付くようにぴったりと重なる。ベッドに座った和彦は背で、鷹津の逞しい胸の感触と体温を 感じていた。事後、寄り添い、睦み合うような甘い関係ではないのだが、鷹津を意識して体を離すのは、なんだか悔しい。
  半ば意地のように和彦は、鷹津に引き寄せられるまま、身を預けていた。実際、だるくてたまらないのだ。本当は横になりたいが、 鷹津を背もたれ代わりにするのも案外悪くはない。
 一方の鷹津は、片腕で和彦の体を抱き、ビールを呷りつつ何か考え込ん でいる様子だった。
 エアコンですっかり暖められた室内は、何も身につけていない姿で過ごしていても、寒くはない。ただ、 鷹津と違って一応恥じらいを持っている和彦は、手近にあった毛布を引き寄せ、下肢を覆っていた。
 その姿で和彦がベッド を下りようとすると、すかさず鷹津の腕に力が込められる。
「どこに行くんだ」
 和彦は振り返り、呆れた視線を向ける。
「こんな格好でどこに行けるんだ。……喉が渇いたから、水を飲みに行くだけだ」
「だったら――」
 鷹津がぐいっ とビールを飲んだかと思うと、和彦は頭を引き寄せられる。唇を塞がれ、ビールを流し込まれた。思わず飲んでしまってから、鷹 津を睨みつけた和彦だが、短く息を吐き出してぼそりと言った。
「……足りない」
 鷹津に口移しでビールを飲ませても らっているうちに、緩やかに舌を絡め合う。唇の端からこぼれ落ちたビールが胸元を濡らすと、鷹津がてのひらで拭い、それがそ のまま愛撫となっていた。
「んっ……」
 下肢を覆った毛布の下に鷹津の手が侵入し、内腿を撫でられる。素直には認め がたいが、体が鷹津の感触に馴染み始めていた。敏感なものの形を、思わせぶりに指でなぞられ、てのひらに包み込まれる。
「やっぱり、護衛を待たせておかないほうが、気兼ねなく楽しめていいだろ? お前も時間を気にしなくて済むしな」
 和彦 の肩先に唇を押し当てて、そんなことを鷹津が言う。
「……護衛を待たせるのは、あんたのせいだ。あんたはしつこい」
「つまり俺と楽しむには、一晩必要ってことか」
「目だけじゃなく、耳まで腐ってるのか……」
「俺に、そんな口を聞い ていいのか?」
 ニヤリと笑った鷹津が、和彦のものを緩やかに扱き始める。寸前のところで声を堪えた和彦は、鷹津の腕に 手をかけはしたものの、行為自体は止められない。
 ふざけているように思えた鷹津だが、突然、真剣な口調で切り出した。
「これは、暴力団担当係の刑事としての忠告だ。――総和会に深入りするな」
 驚いた和彦は、間近にある鷹津の顔を凝 視する。口調同様、真剣な表情で鷹津が見つめ返してきた。
「あそこは、十一の組の思惑が入り乱れて、組織も人間も複雑だ。 トップに立つ人間の権限が大きいからこそ、統率は取れているがな。それでも、取り込まれると厄介だぞ」
「……深入りも何 も、ぼくは書類上は、総和会に加入している」
「俺が言っているのは、形式的なことじゃない。いくら長嶺でも、総和会の意 向には逆らえない。総和会が、お前を差し出せと命じれば、あいつは従わざるをえないだろう。そうなると長嶺組は、もうお前を 庇護できない」
 和彦は、ここを訪れる前、守光と食事をともにしたときに言われた言葉を思い返す。総和会で和彦の身を預 かりたいと、守光は言った。どういう意図かは不明で、本気か冗談なのかすらも判断がつかない。ただ、長嶺組の〈身内〉の処遇 について命令はできないとも言ったのだ。
 半ば自分に言い聞かせるように、和彦は説明した。
「今だって、総和会の仕 事はこなしている。それなのに、ぼくを差し出せなんて言うはずがない。だいたいぼくは、単なる医者だ。使い勝手がいいからぼ くを使っているだけで、捜せば他に医者はいる」
「医者という役目だけを求めるなら、確かにそうだ。だが、佐伯和彦という 人間は、特別だ。長嶺父子が執着して、大事に大事にしているからな」
「ヤクザという組織から見たら、そのことにどれだけ の意味がある? 結局、個人的な繋がりだ。総和会とは関わりがないし、ぼくがその総和会に取り込まれる状況が、想像できない」
 説明するのが面倒になったのか、鷹津は大仰に顔をしかめる。
「まあ、そうなんだがな……。俺は長年、総和会という 組織を見てきて、あそこの不気味さと怖さは肌で知っている。お前にとっては、長嶺組長の父親が会長を務める組織、でしかない だろうがな」
「……あんたは何を言いたいんだ。どうして急に、そんなことを言い出した」
 和彦の首筋に顔を寄せ、鷹 津はアルコール臭い息を吐き出した。その顔は、また何か思案しているようだ。鷹津の中で、何かが引っかかっているのだ。
「いや、なんとなくだ。なんとなく、お前に迫るあのでかい男を見て、ふと気になった」
 詳しく尋ねられる雰囲気でもなく、 和彦は鷹津の手から缶ビールを奪い取ると、一気に飲み干す。
 空になった缶を鷹津がベッドの下に転がし、和彦は再びベッ ドの上に押さえつけられた。鷹津としては、本当に一晩かけて楽しむつもりらしい。つき合わされる和彦としては、堪ったもので はないが、嫌とは言えない。
 番犬に餌を与えるのは、飼い主の役目なのだから――。









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