と束縛と


- 第17話(4) -


 パジャマ姿の和彦を見て、リビングのソファに腰掛けた賢吾は、楽しそうに口元を緩めた。
「ずいぶんゆっくりのご起床だ な、先生」
 乱れた髪を掻き上げて、和彦はじろりと賢吾を睨みつける。寝起きは悪いほうではないが、さすがに今朝は文句 を言いたい。人が寝ているというのに、わざわざ寝室のドアを開けた賢吾が、嫌がらせのようにリビングのテレビを大音量で観始 めたのだ。
 和彦は、賢吾の手からリモコンを奪い取ると、テレビの音量を落とす。
「あんたは、ぼくの生活パターン が変わったことを理解すべきだ。今週から、一応クリニック経営者として、毎朝出勤してるんだ。そして今日は、初めての休診日 だ。……朝の八時にベッドの中にいて、なんで皮肉を言われないといけないんだ……」
「つまり平日の明るいうちは、俺はな かなか先生に会えない。そうなると、ゆっくり会うのは限られた休みの日となるわけだ。その辺りの事情を、先生は理解すべきだ な」
 普段でも滅多に勝てないというのに、寝起きの状態で賢吾に口で勝てるわけがない。和彦は早々に負けを認めた。
「……それで朝から、長嶺組の組長がなんの用だ」
「なんだ、賢吾さん、と呼んでくれないのか?」
 ニヤニヤと笑う賢 吾の顔を見て、和彦は一気に目が覚めた。意味ありげな物言いから、あることを推測できたからだ。
「もしかして――……」
「もしかして、なんだ?」
「会長から聞いたのか」
 何をだ、と白々しく返されて、和彦の顔は熱くなってくる。
「なんでもないっ」
 逃げるように洗面所に駆け込み、顔を洗う。タオルを取ろうと手を伸ばしかけたが、待っていたような タイミングのよさで手渡された。顔を上げて鏡を見ると、いつの間にか背後に賢吾が立っている。
 軽くため息をついた和彦 は、自分から水を向けた。
「今日は、ぼくをどこに連れて行ってくれるんだ」
「ドライブにつき合わないか。うちの組が 出資した物件があるんだが、竣工式前に案内してもらうことになってな」
「……それは、ぼくが一緒じゃないとダメなのか?」
「仕事はついでだ。先生と出かけて、外で美味いものを食って、本宅でのんびりしたいだけだ。ああ、本宅では先生に、クリ ニック関係の書類にちょっと目を通してもらうぞ。――どうだ、これで先生も出かける理由ができただろ」
 ここまで言われ て、嫌だと返事ができるはずもない。和彦が頷くと、賢吾は満足そうな表情となる。
「服装はなんでもいいから、早く支度を 整えろ。朝メシも外で済ませるぞ」
「呆れた……。朝も食べずに、ここに来たのか」
 洗面所を出ていこうとした賢吾が、 肩越しにちらりと和彦を見る。
「俺は、大勢でにぎやかにメシを食うのが好きだが、先生と静かにメシを食うのも好きなんだ」
 賢吾のその言葉に、咄嗟に反応できなかった和彦だが、洗面所のドアが閉まった途端、動揺する。
「ヤクザの組長が、 何言ってるんだっ……」
 そう毒づいたものの、なんだか気持ちが落ち着かなくて、仕方なく和彦は冷たい水で顔を洗い直す ことにした。


 傍らに置いたコートを、和彦は無意識のうちに撫でていた。柔らかく滑らかな感触はしっとりと肌に馴染む。今日初めて、外で 着て歩いてみたのだが、思っていた以上に着心地がいい。
「――ようやく、そのコートを着ている姿を披露してくれたな」
 ふいに、隣から声をかけられる。ピクリと肩を震わせた和彦が視線を向けると、ゆったりとシートに体を預けた賢吾が、薄い笑 みを浮かべていた。和彦がさきほどから、しきりにコートを撫でている様子を眺めていたのだろう。
 どういう顔をすればい いのかと困惑する和彦に対して、賢吾はさらりと言った。
「思った通り、似合っている」
 護衛の組員たちも当然同行し ているが、名目上は〈賢吾とのドライブ〉に、和彦はスーツの上から特別なコートを羽織ってきた。クリスマスプレゼントとして 賢吾から贈られた、ミンクの毛皮のコートだ。
 スーツと組み合わせると、漆黒のコートは意外なほど品よく映えて、心配し たほど悪目立ちはしない。今日は車での移動が主のため、人目をさほど気にせず着ていられると考えたのだが、その判断は正しか ったようだ。
 毛皮のコートを羽織った和彦より、泰然とした賢吾のほうがよほど強烈な存在感を放っているので、人目を気 にするだけ無駄なのかもしれない。
 なんにしても、賢吾は満足そうだ。さきほど朝食を食べたカフェの駐車場でも、和彦が 歩く姿を目を細めて眺めていたぐらいだ。
「……早く着ないと、冬が終わってしまうと思ったんだ。でも、物がよすぎて、着 ていく場所が限られる。汚したくないし」
「どこにでも着ていけばいい。そのために、落ち着いたデザインのものを選んだん だ。大事に仕舞い込まれるより、使い込んでくれたほうが、贈った人間は喜ぶ」
 話しながら賢吾の手が、毛皮を撫でる和彦 の手の上に重なる。
「先生は自分から、あれが欲しい、これが欲しいと滅多に口にしないからな。周りの男たちが気を利かせ て、いいものを身につけさせないと。なんといってもこれから先、組関係の人間と顔を合わせる機会が多くなる」
「どういう意 味だ」
「――総和会会長が、個人的に先生と会った話は、もうこの界隈で広がり始めている。今のうちに先生に取り入ってお こうと考える奴がいても、不思議じゃない」
「たったそれだけのことが、どうして広がるんだ。というより、誰が広めるんだ」
「さあ。総和会の中もいろいろと利害が入り乱れて、毎日、情報戦だ。それが大事な〈オヤジさん〉のことともなると、誰も 彼も聞き耳を立ててるぞ」
 澄まして答える賢吾の横顔を、和彦はじっと見つめる。和彦と守光が食事したことを知っているの は、何も総和会内部の人間だけではないと思ったのだが、口に出すのはやめておいた。賢吾に会話を導かれているような気がした からだ。
「あまり……ぼくを厄介なことに巻き込まないでくれ。長嶺組という組織だけでも、ぼくにとっては大きいんだ。そ れが総和会ともなると、想像がつかない」
「いろんな種類の凶暴な魚が泳ぐ、でかい水槽だと思えばいい。一応の棲み分けは できているが、気を抜くと――」
 賢吾の腕が肩に回され、引き寄せられる。唇に賢吾の息が触れた。
「食われる。だか らこそ、力を持つ魚の勢力下にいるのが安全だ」
 賢吾の囁きと眼差しの迫力に、和彦は気圧される。賢吾の内に潜む大蛇が、 ゾロリと身じろいだような気配を感じた。
「……そう、なのか……」
 和彦の怯えを感じ取ったのか、賢吾はおどけたよ うに肩をすくめる。
「さあな。俺は総和会の人間じゃなく、長嶺組の人間だ。ただ、オヤジはそのでかい水槽の中で、あれこ れ企んでいるようだがな」
「本当に、長嶺の男は怖い」
「オヤジの怖さも堪能したか?」
 和彦はドキリとして、反 射的に視線を伏せる。守光と食事をしたのは三日前になるが、実はどんな会話を交わしたかまでは、賢吾に報告していない。和彦 から言わなくても、守光の口から伝わるから――というのは、言い訳にしかならないだろう。
 料亭の座敷で守光から言われ たことは、できることならすべて、冗談にしてしまいたかった。賢吾に伝えて、何かしらの現実味を帯びる事態を和彦は恐れてい る。
 それでなくても和彦は、すでにある厄介事に巻き込まれつつある。
 困惑する和彦とは裏腹に、賢吾は楽しそうだ が――。
「そういえば先生は、南郷の怖さも体験したんだったな」
 できることなら、南郷に〈絡まれた〉出来事も報告 したくはなかったが、鷹津の部屋で一晩過ごすに至った経緯を話さないわけにはいかない。賢吾への隠し事は、一つでも少ないほ うがよかった。
「……一応、あんたに報告はしたが、大したことじゃないんだ。ただ南郷さんは、ぼくみたいな存在が物珍し かったんだと思う」
「男を骨抜きにする、性質の悪いオンナの存在が?」
 和彦が睨みつけると、賢吾は低く笑い声を洩 らす。
 すぐに賢吾の腕から逃れようとしたが、肩にかかった手に力が込められる。どうやら和彦を離す気はないらしい。そ れどころか、頭を引き寄せれる。仕方なく和彦は、賢吾の肩に頭をのせる。
「まったく、わがままなじいさんのせいで、クリ ニックの開業を祝う予定がズレた」
「別に……、普通でいい。あんたや千尋と関わってから、何かと祝い事を体験させてもら っているんだ。どうせ祝うなら、開業一周年とか、そういうのにしてくれ」
「――一周年でも五周年でも、もちろん十周年だ ろうが、好きなときに祝ってやる」
 パッと頭を上げた和彦は、うろたえながら賢吾を見つめる。一方の賢吾は、ひどく機嫌 がよさそうだ。
「今の生活にすっかり馴染んだな、先生。クリスマスツリーを飾っているときにもポロリと洩らしていたが、 ヤクザに囲まれての生活が、当たり前になってるだろ?」
 ささやかな意地を張るように賢吾を睨みつけた和彦だが、すぐに 諦める。
「……それがあんたの、望みなんだろ」
「先生は、長嶺組にとっても、長嶺の男たちにとっても、大事な存在だ からな。去られるわけにはいかない。だからといって、狭い檻に押し込めたままってのは、俺の趣味に合わない。しなやかな獣っ てのは、思いきり手足を伸ばしている姿が自然で、きれいなんだ」
 賢吾の手が頬にかかり、少し手荒に撫でられる。そして、 まるで試すような口調で問いかけてきた。
「先生が今いる場所は、居心地がいいか?」
 守光も同じようなことを尋ねて きたなと思い、和彦は探るような視線を賢吾に向ける。父子が示し合わせて、あえてこんな質問をしているのではないかと思った が、大蛇を潜ませた賢吾の目を見ていると、そんなことはどうでもよくなった。
「ああ……。いままで生活してきたどの場所 より、居心地がいい」
 和彦の返事を聞くなり、賢吾は運転席の組員に短く指示を出す。あらかじめ打ち合わせをしていたのか、具 体的な言葉はなかったが、それでも組員には十分通じたらしい。
「先生、約束の時間まで少し余裕があるから、寄り道をして いくぞ」
「それはかまわないが、どこに……?」
 賢吾は、口元に薄い笑みを浮かべただけで、答えてくれなかった。
 もっとも和彦は、三十分ほど車が走り続けたところで、自ら答えを出していた。
 なんといっても、和彦の実家がすでに前 方に見えている。
「――一度、佐伯家というものを自分の目で見てみたかったんだ」
 和彦の手を再びきつく握り締めな がら、そんなことを賢吾が言った。
 車は、佐伯家から少し離れた道路脇に停まる。和彦は顔を強張らせたまま、白い壁が一 際目立つ、瀟洒で立派な邸宅をじっと見つめる。そんな和彦の顔を、賢吾は冷静な目で見つめていた。
「あまり、懐かしいと いう顔をしないんだな」
 賢吾の言葉に、思わず苦笑を洩らす。
「こんなところに連れてきて、ぼくが佐伯家に帰りたが っているのか、確認したかったのか?」
「あの家は先生の実家だ。帰りたいと思っても、咎められないだろ」
「……その 口ぶりだと、ぼくが実家に顔を出したいといえば、許可してくれるみたいだ」
「かまわんぞ。先生がゆっくりしている間、俺 は自分の仕事を済ませてくる」
 余裕たっぷりに答える賢吾に鋭い視線を向けて、和彦は首を横に振る。
「まだ、会いた くない……。ぼくは、自分の家族が苦手なんだ」
「そうだろうな。自分の兄貴と出くわしただけで、あれだけ憔悴してたん だ。――只事じゃない」
 どんな家庭だったのかと聞かれるかと思ったが、賢吾は一人で話し始めた。
「先生の父親は定 年を控えて、民間企業の天下り先が決まったそうだ。大物官僚のうえに、なかなか特殊なポストにいたんだ。特定の業界へ絶大な 影響力を持っている人物として、有名らしいな。そして、そんな父親譲りの切れ者ぶりを発揮しているのが、先生の兄だ。ただし 活躍の場は、省庁から政界に移りそうだ。鷹津が持ってきた出馬の話は、本当のようだ。佐伯家と、ある政党の人間が頻繁に接触 を持っている。表に出て対応しているのは、先生の母親だ」
 佐伯家は相変わらず、自分がいなくても順調に動き続けている ようだ。そう思った和彦は、淡い笑みを唇に湛える。自分だけが除け者にされているという感情はなく、むしろ安堵のようなもの を覚える。
「――……はっきりした。ぼくは、家族と会う気はない。少なくとも今は、会う必要を感じない。あんたに隠れて、 佐伯家と連絡を取って助けを求めたりしないから、安心してくれ」
「先生にその気があったら、とっくにそうしているだろ。 その点は、俺は心配なんてしていない。ただ、先生と佐伯家の関わりについて、興味があっただけだ」
「興味も何も……、ぼ くが、佐伯家の規格から外れているという話だ。向こうも、同じことを思っているはずだ」
 和彦が実家の建物を見つめてい ると、ふいに賢吾に髪を撫でられた。
「先生は、物腰が柔らかくて優しげな人間に見えるが、ある部分じゃ、ヤクザよりよっ ぽど冷徹かもな。一番厄介な肉親への情を、自分の中ですっぱり切り分けている気がする」
「……どうだろう。あの家にいる と、自分がひどく冷めた人間に思えることはあったけど、一人暮らしを始めて外の世界を知ると、よくわからなくなった。ただは っきりしているのは、兄に会って動揺したのは情のせいじゃないということだ」
 情を感じたのはむしろ、家族に対してでは なく、長嶺組や長嶺の男たちに対してだ。英俊と会ったときの凍りつくような感覚を思い出し、和彦はそっと眉をひそめる。好き とか嫌いとか、そういう感覚で自分の家族は捉えられない。ただ、関わりたくないだけだ。
 こう思うこと自体、やはり冷め たいのかもしれないと、なんの後ろめたさを覚えるでもなく和彦は考える。
「冷めているかもしれないが、先生の本質は、情 が深い。多情さと多淫ぶりで男を骨抜きにしながら、甘やかしてくれる。俺にとって――長嶺の男にとっては、先生が佐伯家の規 格から外れていて、ありがたいがな」
 髪に触れていた賢吾の指先が、スッと頬をなぞる。耳元に顔が寄せられたかと思うと、 官能的なバリトンがこんなことを囁いてきた。
「こんなヤクザから感謝されても、嬉しくないか?」
 首を傾げて返事を 待つ賢吾の顔をまじまじと見つめてから、とうとう和彦は笑ってしまう。実家を見せられ、なんの嫌がらせかと思ったが、そうで はないとわかった。
 賢吾は、和彦の心の内を見たかったのだ。今の生活をどう感じているか、和彦が本当に佐伯家を忌避し ているかどうか。もちろん、それだけではないだろう。受け取り方によっては、これは恫喝にもなりうる。ヤクザの組長に、実家 の場所と状況を把握されているというのは、ある意味で恐怖だ。
 賢吾が声をかけ、車が走り出す。実家前を通り過ぎるとき、 スモークフィルムの貼られたウィンドー越しに眺めてはみたが、和彦の中で懐かしいという感情が込み上げることはなかった。そ れどころか、門扉を開けて家族の誰かが姿を現すのではないかと、少し緊張する。
 すぐに実家は見えなくなり、肩から力を 抜いた和彦はシートに体を預ける。賢吾は何も言わず、再び手を握り締めてくれた。


 賢吾にとって、〈仕事で出かけるついで〉に和彦をドライブに誘うというのは、単なる口実だったのだろう。
 書類に目を 通したところで和彦は視線を上げ、テーブルの向かいに座っている賢吾を見る。スーツから、ラフなセーター姿へと着替えは済ま せてはいるものの、やっていることは、仕事だ。さきほどから膝の上にノートパソコンを置き、熱心に何か読んでいるかと思えば、 ときおり携帯電話で、和彦の知らない案件について誰かと話している。
 その様子から、賢吾が決して暇を持て余しているわ けではないとわかる。それでも午前中いっぱいを使って和彦を外に連れ出してくれた。賢吾なりに、クリニック開業までの労をね ぎらってくれたと考えるほうが自然だ。
 再び書類に視線を落として署名をしていると、なんの前触れもなく賢吾が言葉を発 した。
「――結果としてよかったかもな」
 驚いて顔を上げた和彦が見たのは、賢吾が携帯電話の電源を切っているとこ ろだった。どうやら、もう仕事の電話をする気はないらしい。
「えっ……?」
「クリニック開業祝いの約束を、オヤジに 取られたことだ。おかげでこうして、先生とゆっくりできる」
「ぼくの休みを潰しただろ」
「どうせ先生は、放っておい たら寝室と書斎しか行き来しないだろ。俺が連れ出して、やっと休みらしくなったんだ」
 勝手な言い分だと思ったが、あな がち間違ってもいないので、反論できない。それに、本宅で過ごす時間は嫌いではなかった。
 和彦は鼻先を掠める香りに気 づき、視線をある方向に向ける。応接間の一角には、華やかなスペースができていた。クリニックの開業祝いに贈られた胡蝶蘭た ちだ。寒さも直射日光も避けられる場所が、長嶺の本宅にはたくさんある。その一つが、この応接間というわけだ。
 和彦も 組員から育て方を聞いて、恐る恐る鉢の一つの世話を始めたところだった。
 書類すべてに署名を終えると、賢吾が組員にコ ーヒーを運ばせてくる。書類をまとめてテーブルの隅に置いた和彦は、さっそくコーヒーにミルクを注いだ。
「先生、明日も クリニックは休みなんだから、本宅に泊まっていったらどうだ」
 さりげなく賢吾に切り出され、コーヒーを混ぜた和彦はち らりと視線を上げる。返事は決まっているとばかりに、賢吾は薄い笑みを浮かべていた。
「……ついこの間、たっぷり世話に なったばかりだと思うんだが……」
「いいじゃねーか。うちの連中も、先生を気に入ってるんだ。メシを食わせたり、花の世 話を教えたりしてな。男所帯のこの家も、先生がいるだけで空気が柔らかくなる」
「男のぼくが加わっても、男所帯に変わり はないだろ」
 ぼそりと指摘すると、賢吾は機嫌よさそうに声を上げて笑う。和彦はそんな賢吾につられるように、笑みをこ ぼしていた。
 こうしてのんびりと過ごしていると、つい数時間前に実家を見たという現実が、どこか夢の出来事のように感 じられる。もっとも、家族と出くわしでもしていたら、こんなふうに落ち着いてはいられなかっただろう。
 ただ、いつまで も佐伯家と音信不通のままではいられない。
 和彦は、思わず賢吾にこう問いかけた。
「ぼくはこの先、実家とどう接し ていけばいいんだろう……」
「先生と佐伯家次第だ。互いに干渉しないという要望が合致すれば、円満に過ごせる。衝突する なら――そうだな、俺の養子になるか? そうすれば先生は、佐伯の人間でなくなる」
 咄嗟に反応できない和彦に対して、 賢吾はニヤリと笑いかけてくる。
「俺は大歓迎だぞ」
 慎重に賢吾の表情をうかがい、とりあえず冗談だと判断した和彦 は、苦笑しつつ応じた。
「千尋と、長嶺組の後継者争いをするつもりはないな」
「ほお、そういう切り返しできたか」
「頼むから、部屋の外でそんなことを冗談でも言わないでくれ。ここの組員たちに睨まれたくない」
 ヤクザの組長からこん なことを言われると、冗談とわかっていながらも心臓に悪い。ただ、憂鬱さに捕らわれそうになった気持ちは、賢吾のその冗談で ふっと軽くなっていた。
 コーヒーを啜った和彦が何げなく視線を上げると、賢吾がこちらを見つめていた。そして、自分が 腰掛けているソファを指さした。こちらに座り直せと言いたいのだ。わずかにうろたえた和彦だが、結局、賢吾の指示に従う。
 案の定、賢吾の隣に座った途端、肩を抱かれて引き寄せられた。
 賢吾の大きな手が、ワイシャツの上から和彦の肩先を撫 でる。最初は背筋を伸ばしていたが、手の動きに促されるように、和彦はゆっくりと賢吾にもたれかかった。
「……仕事、し なくていいのか?」
「急ぎの仕事なら、もう片付けた。今日、先生とデートするためにな」
「何言ってるんだ――」
 内心でうろたえながら視線を上げると、賢吾が返してきたのは、熱を帯びた強い眼差しだった。この瞬間、和彦の胸の奥で妖し い衝動が蠢く。
 甘い危惧を覚え、反射的に体を離そうとしたが、肩にかかった腕にがっちりと押さえ込まれて動けない。
 耳に熱い息がかかり、和彦は小さく身震いする。そのまま賢吾の唇が耳に押し当てられた。
「あっ……」
 濡れた舌先 が耳の形をなぞる一方で、油断ならない手にワイシャツのボタンを外されていく。和彦は微かに声を洩らすと、耳朶に軽く噛みつ かれる。疼きが背筋を駆け抜け、たまらず賢吾の膝に手をかけはしたものの、完全に身を任せるまでにはいかない。
 和彦は 応接間のドアに視線をやる。ドア一枚隔てた向こうでは、組員たちが行き来する気配がするのだ。
「ここは落ち着かないか?」
 おもしろがるような口調で賢吾が言い、きつい眼差しを向けながらも和彦は頷く。
 和彦の羞恥心を煽ることで性的興 奮を覚える傾向がある賢吾だが、珍しくあっさりと手を引いた。もちろん、行為をやめるためではなく、場所を移るために。


 客間に連れ込まれると、布団を敷く間もなく畳の上に押し倒され、和彦は裸に剥かれる。獣が襲いかかるように、覆い被さって きた賢吾は容赦なく、和彦の肌に愛撫を施し始める。
 寒さで鳥肌が立った肌を熱い舌でじっくりと舐め回され、痛いほど強 く吸い上げられて、鮮やかな鬱血の痕を残される。
 期待で凝った胸の突起を口腔に含まれたとき、和彦は深い吐息をこぼし て仰け反っていた。濡れた音を立てて執拗に突起を舐られ、吸われたかと思うと、歯を立てられて引っ張られる。
「うっ……」
「先生、足を開け」
 傲慢に賢吾に命令され、和彦はぎこちなく従う。羞恥はあるが、身を捩りたくなるような興奮のほ うが勝っていた。その証拠に、和彦の下肢に視線を遣った賢吾が、唇の端を持ち上げるようにして笑う。
 敏感なものを無遠 慮に握り締められ、一瞬息が詰まった。
「寒い思いをさせて可哀想だと思ったが、こっちはもう、熱くなってるようだな」
 握ったものを手荒く扱かれて、和彦は首を左右に振って反応するが、寸前のところで声を堪える。そんな和彦を、賢吾はおもし ろそうに見下ろしてきた。
「遠慮せず、声を出したらどうだ」
「……うる、さい。ぼくの勝手だろ」
「確かに、先生 の勝手だな。だったら俺も、勝手にさせてもらおう」
 和彦はのろのろと片手を伸ばして、賢吾の頬に触れる。
「いつも は勝手にしてないような、言い方だな」
「してないだろ。なんといっても俺は、紳士だ」
「どの口が――」
 ここで 賢吾に唇を塞がれた。口腔深くまで舌を差し込まれ、唾液を流し込まれる。息苦しさから、和彦は賢吾の下で軽くもがいていたが、 口腔で蠢く舌に刺激されているうちに、体の奥で肉欲の疼きを自覚する。そうなると、もう賢吾に支配されたも同然だ。
 指 を濡らさないまま、内奥の入り口をまさぐられ、柔な粘膜を擦り上げられる。痛みを予期して体を硬くするが、和彦の体を知り尽 くしている賢吾の指は、手荒なくせに傷をつけるようなことはしない。
 内奥の浅い部分に指を含まされ、和彦は腰を揺らす。 じわりと広がる肉の疼きを認識していた。
「物欲しげにひくついてるな……」
 賢吾が洩らした言葉に、意識しないまま 和彦の全身は熱くなる。
 見せつけるように舐めた指を、賢吾が内奥に挿入してくる。和彦は畳の上に爪先を突っ張らせなが ら、なんとか下肢から力を抜く。賢吾の指が、肉を掻き分けるようして内奥に付け根まで収まり、巧みに蠢き始めていた。
  感じやすく脆い襞と粘膜を擦り上げられ、爪の先で掻くように刺激される。たまらず賢吾の指を締め付けながら和彦は、熱を帯び た吐息をこぼした。
 抱え上げた和彦の膝に唇を押し当ててから、ふと思い出したように賢吾が問いかけてくる。
「とこ ろで、佐伯家の人間は、先生の性癖を把握しているのか?」
「……性癖?」
「こうして男と寝ているってことだ」
  和彦は眉をひそめてから、ふいっと顔を背ける。
「わからない。知っていたとしても、面と向かって指摘されたことはな い。――ぼくが誰と寝ようが、少なくとも父は、それを言う資格はない」
「興味をそそられる言い方だな」
 内奥から指 が引き抜かれ、衣擦れの音がする。少しの間を置いてから、熱く凶暴な形が内奥の入り口に押し当てられた。
「あっ……」
 狭い場所をゆっくりと押し広げられ、太いものを呑み込まされていく。和彦は間欠的に声を上げながら上体を捩り、下肢を支配 される苦しさと、うねるように押し寄せてくる熱い感覚に煩悶する。
「男と寝ているという事実を知っていたとしても、先生 のこんな姿は想像もつかないだろうな。肌を上気させて、誘うように腰を揺らして、真っ赤に色づいた粘膜を捲り上げながら、男 のものを懸命に受け入れている――」
 繋がった部分を指で擦られて、和彦は上擦った声を上げる。両足をしっかりと抱えら れて腰を突き上げられると、内奥深くで重い衝撃が生まれる。一瞬あとにじわじわと広がるのは、狂おしい肉の愉悦だ。
「あ っ、あっ、ああっ」
「お高くとまった官僚一家に、今みたいな色っぽい姿を撮った映像を送りつけたら、一発で縁が切れるか もしれないぞ」
 乱暴に数回突き上げられて、賢吾とこれ以上なくしっかりと繋がっていた。ふてぶてしく息づく欲望は力強 く脈打ち、内から和彦の官能を刺激してくる。
「……面倒事を隠すのは、得意なんだ、ぼくの家族は。……それに、刺激した ところで、あんたの得になるとは思えない」
「佐伯家と縁を切らして、憔悴する先生を見なくて済むなら、それだけでも俺に とっては得だと思うが?」
 本気で言っているのかと、じっと賢吾を見上げた和彦は、すぐに笑みをこぼす。
「大蛇の化 身みたいな男が、ずいぶん優しいことを言うんだな」
「先生に骨抜きだからな、俺は」
 賢吾の手が、両足の間で反り返 り、透明なしずくを滴らせている和彦のものにかかる。きつく扱き上げられて、ビクビクと体を震わせていた。同時に、激しく内 奥を収縮させ、賢吾の欲望の逞しさを強く意識する。
 喘ぐ和彦を、賢吾は真上から見下ろしていた。いつもなら両腕を伸ば して賢吾にしがみつき、背の大蛇を思うさま撫でるところだが、今日はそれは叶わない。賢吾はパンツの前を寛げただけで、セー ターを脱いですらいないのだ。
 どうして、と思ったとき、前触れもなく内奥から賢吾のものが引き抜かれる。手を掴まれて 引っ張り起こされた和彦は、わけもわからないまま畳に両手を突き、腰を突き出した羞恥に満ちた姿勢を取らされる。そして今度 は、背後から貫かれた。
「あっ――……」
 強く内奥を擦り上げられ、その衝撃で畳の上に精を迸らせてしまう。前のめ りに崩れ込みそうになったが、賢吾の腕に引き止められ、乱暴に腰を突き上げられた。
「うっ、あっ、待って……くれ。少し、 待って……」
 和彦は前に逃れようとしたが、両腕で抱き寄せられた挙げ句、胡坐をかいた賢吾の両足の間に、繋がったまま 座らされていた。和彦は背を弓形に反らし、下から突き上げられる苦しさに呻き声を洩らす。しかしその呻き声は次第に、甘さと 妖しさを帯びたものへと変化していた。
 緩やかに腰を揺らしながら賢吾の両手が、和彦の胸の突起と、精を放ちながらもま だ力を失っていない欲望を愛撫してくる。
「わかるか、先生? 先生の尻が、絞り上げるように締まっている。……口ではわ がままは言わないくせに、こっちのほうは、とんでもなくわがままだな。与えても、与えても、いくらでも欲しがる。今まで、誰 かに言われたことはないか?」
 笑いを含んだ声で賢吾に淫らな言葉を囁かれ、和彦としては振り返って睨みつけたいところ だが、些細な動きで快感を逃してしまいそうで、それができない。
「あんた以外に、誰がそんな恥ずかしいことを、言うんだ っ……」
「このほうが、先生も興奮するだろ。――ああ、それと、もっと先生が興奮する演出を用意してある」
 賢吾 が何を言っているのか、快感に霞んだ頭では理解できなかった。意味を問おうと唇を動かしかけたとき、賢吾が〈誰か〉に向かっ て言葉を発した。
「――入っていいぞ」
 和彦は体の正面を、客間の障子のほうに向けていた。つまり、誰かが障子を開 ければ、何もかも見られてしまう。だが、客間に近づく人間はいない。そう思っていたのだが――。
 賢吾の指示を待ってい たように、障子にスッと人影が映る。いつの間にか廊下に控えていたようだが、賢吾との行為に夢中になっていた和彦はもちろん 気づかなかった。
 廊下に人がいたというのも意外だったが、姿を見せた人物は、さらに意外だった。
 丁寧な動作で障 子を開けたのは、中嶋だった。和彦と賢吾の姿に驚いた様子もなく、それどころか和彦に笑いかけてくる。おそらく、廊下にいる 間、行為の声をすべて聞いていたのだろう。
「ど、して……」
 中嶋が障子を閉めたのを機に、ようやく和彦は声を洩ら す。愛撫の手を止めないまま賢吾が答えた。
「俺が呼んだ。いままで、総和会との連絡役は別の人間だったんだが、若い連中 の中で抜きん出て見所があるし、先生と親しいということで、新たに中嶋を指名した。長嶺組長の本宅に出入りできる、総和会で も数少ない男というわけだ」
 いつの間にそういう話が決まったのかと思ったが、これは組の細かな決定事項の一つだ。賢吾 が和彦に知らせる必要はない。ただし賢吾は、和彦の反応を見たいがために、この瞬間まで隠していたのだろう。そういう男だ。
「先生としても、俺の目を盗んで中嶋と会っているという罪悪感を抱かなくて済むだろ。本宅に出入りできるようになったぐ らいだ。長嶺組長のオンナの部屋にも、中嶋は堂々と立ち寄れる」
 賢吾の言葉で和彦は、中嶋と絡み合った日のことを思い 出す。ベッドの上での甘い呻き声を、盗聴器を通して賢吾が聴いていたことは知っている。そのうえで中嶋に、本宅や和彦の部屋 の出入りを認めたのだ。
「……何を企んでるんだ、あんたは……」
 思わず和彦が問いかけると、うなじに唇を押し当て ながら賢吾は言った。
「先生が生活のしやすい環境を整えただけだ。――俺が何を企んでるか、先生は気にしなくていい」
 賢吾が腰を揺らし、内奥の感じやすい部分を擦り上げられる。和彦は咄嗟に声を堪えたが、表情は隠せなかった。正面に立つ中 嶋に、すべて見られてしまう。それどころか、賢吾と繋がり、悦びに身を起こした欲望の存在も。
 中嶋は薄い笑みを唇に湛 え、目には興奮の色を浮かべる。そんな中嶋に、賢吾はこう声をかけた。
「中嶋、俺の〈オンナ〉と仲良くしてやってくれ。 その代わり、お前を悪いようにはしない。なんといっても、先生が気に入った男だからな」
「俺も――」
 興奮のためか、 緊張のためか、中嶋が発した第一声は掠れていた。
「俺も、先生を気に入って……好きです。それに、秦さんの命の恩人です」
「秦、か……。なるほど、秦のために、お前もよく勉強しておかないとな」
 そう言って賢吾が、和彦のものを柔らかく 握り締めてくる。和彦は小さく喉を鳴らして腰を揺らしていた。中嶋にこんな姿を見られているというのに、欲望は萎えるどころ か、ますます熱く硬くなっていた。
「うっ……」
「中嶋に見られて高ぶってるのか? 先生の中が波打つようにうねって、 俺のものを舐め上げているようだ」
 賢吾の手が柔らかな膨らみへと伸び、中嶋に見せつけるように手荒く揉みしだかれる。 和彦はたまらず甲高い声を上げて、上体を捩ろうとしたが、動きを封じるように内奥深くを突き上げられた。
「あっ、ああっ、 はあっ、はっ……」
 身悶える和彦と、果敢に攻め立ててくる賢吾の姿を、中嶋は食い入るように見つめていた。熱に浮かさ れたような目には、嫌悪の色は微塵もない。賢吾もそれがわかっているのだろう。まるで中嶋を試すように言った。
「抵抗が あるなら、外で待っていてもいいぞ」
 すると中嶋はふらりと足を踏み出し、間近まで歩み寄ってくる。そして、畳に両膝を ついた。
「――……ここで、見ています。すごく、興味があります」
「好きにしろ」
 腰を掴まれて揺り動かされ、 内奥を逞しいもので掻き回される。卑猥な湿った音が室内に響き渡り、そこに和彦の乱れた息遣いが重なる。
 押し寄せてく る快感と、中嶋に正面から見つめられているという激しい羞恥に、和彦は惑乱する。いっそのこと意識を手放してしまいたいが、 皮肉なことに、内奥を突き上げてくる衝撃が意識を繋ぎとめる。
「うっ、あっ、あっ……ん、んあっ」
「ここもどうなっ ているか、興味があるだろ」
 そう言って賢吾に片足を抱え上げられて、繋がっている部分を中嶋に晒してしまう。あまりの 羞恥に息が詰まりそうになるが、和彦の体は気持ちとは裏腹に、見られることに歓喜していた。
「うちの先生は、いいオンナ だろ。もともと素質はあったが、性質の悪い男たちが開発しちまった。その男たちが、先生に骨抜きにされてるんだから、一番性 質が悪いのは――」
 喘ぐ和彦の耳元で、賢吾がそっと囁きを注ぎ込んでくる。和彦はのろのろと振り返り、賢吾と唇を吸い 合う。その最中に賢吾の手に促されて二度目の精を放ち、少し遅れて、賢吾の熱い精を内奥深くで受け止めた。
「はっ……、 んっ、んっ、くぅ……」
 和彦の体から一気に力が抜けると、つられたように中嶋も大きく息を吐き出した。いつの間にか顔 が上気しており、一見してハンサムな青年を艶っぽく彩っている。
「――よかったか?」
 賢吾がそう問いかけた相手は 和彦ではなく、中嶋だった。中嶋は我に返ったように目を見開いたあと、もう一度息を吐き出してから頷いた。
「はい……」
「ダイニングにいる奴に声をかけろ。お前に渡すものを言付けてあるから、受け取って帰れ」
 賢吾の言葉を受け、静か に立ち上がった中嶋が客間を出て行こうとする。その背に、賢吾はさらに言葉をかけた。
「いい選択をしたな、中嶋。俺たち がこれから上手くやっていけるかは、お前次第だ。しっかり、使えるところを見せてくれ」
 中嶋がこのときどんな顔をした のか、もちろん見ることはできない。ただ、中嶋の性格からして、笑みぐらいは浮かべたのかもしれない。障子を閉める際、中嶋 が視線を伏せがちにこちらを向いたとき、見事に表情を隠していたため、あくまで和彦の推測だが。
「先生も、よかったか?」
 障子が閉められると、和彦の首筋に顔を寄せながら賢吾が問いかけてくる。
 言いたいことは山ほどあったが、体に残 る快感の余韻に苛まれ、和彦は口を開くことすらできなかった。
 ただ、賢吾に問い質さなくてもはっきりしていることはあ る。
 大蛇が和彦を餌に、〈獲物〉を捕らえたということだ。









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