「――先生、今晩は何が食べたい?」
ショッピングセンターを並んで歩いていると、突然三田村が、大事なことを思い出し
たような顔で問いかけてきた。しかも、真剣な口調で。
休みが取れた三田村とともに必要なものを買いに来たのだが、献立
は人任せなところがある和彦は、面と向かってこう問われると、けっこう悩む。
目を丸くしたあと、なんでもいいと言いか
けて、思いとどまる。実は先日、テレビでたまたま観てから、なんとなく気になっているものがあったのだ。
「なんでもいい
のか?」
和彦が問い返すと、頷いた三田村の目が一際優しくなる。もっとも和彦以外の人間が見れば、いつもの無表情との
違いに気づかないかもしれない。
「……鍋が、いい」
鍋、と小さな声で三田村が反芻し、何か思案するように軽く眉を
ひそめる。
「ちゃんこにすき焼き、しゃぶしゃぶ。この場合、湯豆腐も鍋料理に入れていいのか……。なんにしても、ちょっ
と調べたら、鍋料理を食わせてくれる店はいくらでも――」
「そうじゃない。外で食べたいわけじゃなくて、部屋で食べた
い。……いままで、人と鍋を囲んだことがないんだ。それで、この間テレビを観ていて、ちょっといいなと思って……」
な
んだか言い訳めいたことを言っているなと、和彦は自分自身の行動に、内心で苦笑を洩らす。相手が三田村でなければ、口が裂け
ても言えないわがままだ。そんなこと、と笑われても不思議ではないのだが、三田村が浮かべたのは、どこか嬉しげにも見える淡
い微笑だった。
「先生の貴重な経験を、俺が作った鍋で済ませていいのかな」
「キッチンで包丁を握っているあんたを見
るのは好きだ」
三田村は、困惑気味に視線をさまよわせながら、口元を手で覆う。もしかすると、有能な若頭補佐なりの照
れ隠しなのかもしれない。
「あまり……俺の腕に期待しないでくれ。そう器用になんでも作れるわけじゃないんだ」
「鍋
って、適当に材料を切って、水と一緒に放り込んで煮ればいいんじゃないのか?」
一瞬口ごもった三田村に連れられて、近
くのベンチへと移動する。和彦だけをベンチに座らせると、傍らに立った三田村はこちらに背を向け、携帯電話でどこかにかけ始
める。聞くつもりはないのだが、ぼそぼそと抑えた話し声が聞こえてきた。鍋料理に必要なものを尋ねているようだ。
おそ
らく電話の相手は、長嶺の本宅で台所を任されている組員だろう。和彦もよく、美味しいものを食べさせてもらっている。
数分ほど話してから電話を切った三田村が、決まり悪そうに和彦を振り返る。和彦は、そ知らぬ顔で問いかけた。
「それで、
何から買いに行くんだ?」
鍋料理は、作る人間の性格が如実に表れるなと、椀を手にした和彦は素直に感心していた。
今日買ったばかりの土鍋の中
には、鶏肉や野菜、豆腐などが実にバランスよく配置されており、煮立っている。和彦もアクを取るぐらいのことはしたが、それ
以外はすべて三田村がやってくれた。
材料を入れる順番からタイミング、ダシの味つけまで、三田村が難しい顔で試行錯誤
しているのを見ていると、材料と水を鍋に放り込めばいいと簡単に考えていたことが、和彦としては申し訳ない――というより、
恥ずかしくなってくる。
和彦がなかなか箸をつけられずにいると、テーブルの向かいに座った三田村が、立ちのぼる湯気越
しに首を傾げた。
「食べないのか、先生」
「……食べる。ちょっと感動してた」
「単なる水炊きもどきの鍋でそう言
われると、申し訳なくなるな。先生には、もっと手の込んだものを食わせてやりたいのに」
「若頭補佐は、ぼくに甘すぎる」
わざと顔をしかめて苦言を呈すると、三田村は柔らかな微笑を浮かべた。
「そういう先生は、周囲にわがままを言って
くれないから、俺みたいな奴がいてちょうどいいんだ」
思わず声を洩らして笑った和彦は、さっそく水炊き鍋を味わう。三
田村も自分の椀に取り分け始めたが、その姿を和彦はそっとうかがい見ていた。
自分が誰かと向き合って、こうして鍋をつ
ついている光景が不思議であり、同時にくすぐったくもある。数日前の賢吾の言葉ではないが、大勢でにぎやかに食事をするのも
好きだが、三田村と二人きりで味わう食事も好きだった。行き交う空気がひたすら温かく、優しいのだ。
和彦の視線に気づ
いたのか、前触れもなく顔を上げた三田村と目が合う。反応に困っていると、三田村がこんな言葉をかけてくれた。
「先生の
希望に、少しは応えられたか?」
背に虎を背負っているくせに、どうしてこの男はこんなにも優しいのだろうか。
ふ
っとそんなことを考えた和彦がテーブルの下で足を動かした途端、三田村と爪先が触れた。
「少しどころか、ぼくの希望以上
だ」
「雑炊用のご飯も用意してあるから、たくさん食べてくれ」
「それは夜食で食べたい」
「――先生の望み通りに」
久しぶりに聞いた三田村のその言葉に、胸が詰まった。長嶺組と関わり、裏の世界に引きずり込まれた頃から、三田村はず
っと和彦の側にいて、和彦の望みを叶えてくれた。そして今は、さらに身近にいてくれる。
鍋を囲んで他愛ない話をしてい
ると、会話の自然な流れで、次はいつ、こうしてゆっくりできるだろうかという話題になる。
「二月半ばぐらいに、二日続け
て休みが取れるとありがたいが……」
和彦の椀に、お手製のポン酢を注ぎ足しながら、ぽつりと三田村が洩らす。
「二
月の半ばって、何かあるのか?」
和彦の問いかけに、軽く目を見開いたあと、三田村は照れたような笑みをこぼした。
「……先生は、見かけによらず世俗的なイベントには淡白だな。そんなイベントを意識しているヤクザというのも、恥ずかしい話
なんだが」
三田村の口ぶりでやっと、二月の半ばにどんなイベントがあるのか思い出す。自分が淡白であることは認めるが、
だからといって和彦は、世間の空気が読めないわけではないのだ。ただ二月は、和彦にとって大事――というわけではないが、意
識するたびに微妙な気持ちになる日がある。
豆腐を箸で掬い上げながら、つい苦々しく唇を歪める。和彦の様子に気づいた
のか、三田村が表情を曇らせた。
「先生……?」
我に返った和彦は、わざと意地の悪い表情で三田村に話しかける。
「まじめな若頭補佐が、どうしてバレンタインを意識するようになったのか、実に興味がある」
「俺は別にまじめじゃ――。
組の若い奴らが話していたのを、たまたま聞いたんだ。そうじゃないなら、俺も思い出さなかった。……いや、違うな。先生と知
り合う前なら、聞いたところで、気にも留めなかったし、俺には無縁だったはずだ」
「ふーん。まあ、そういうことにしてお
こう」
和彦の返事に、三田村は楽しげに顔を綻ばせる。今このタイミングが最適だと思ったわけではないが、知らない顔も
できないので、和彦はさりげなく告げた。
「――……二月は、バレンタインだけじゃなく、ぼくの誕生日もあるんだ」
三田村の表情の変化は、見事なものだった。あっという間に表情が固まったかと思うと、次の瞬間には驚きに目が見開かれ、それ
が次第に困惑、動揺へと変わり、最終的に心底申し訳なさそうな表情に落ち着いた。
普段無表情な男が、これだけの表情を
見せてくれたのだ。告げた甲斐はあったようだ。
しかし、一方の三田村は、箸を置いて頭を下げた。
「すまない、先
生……。先生のことを調査したとき、当然、生年月日も把握していたのに、言われるまで忘れていた」
「気にしないでくれ。
あんたがぼくのことを調べたとき、こんな関係になるなんて思いもしなかっただろ。それにぼくはいまだに、三田村将成という男
がいつ生まれたか知らない。――知らなくても、つき合っていられる」
それに、と和彦は言葉を続ける。
「誕生日なん
て関係なく、いつでもぼくを喜ばせてくれるだろ、あんたは」
目を丸くする三田村の見ている前で、和彦はまだ熱い豆腐を
口に運んだ。
「んっ、あぁっ――」
堪えきれない声を上げて和彦は、シーツを握り締める。背に覆い被さっている三田村は、緩やかな律
動を内奥深くで刻みながら、シーツを握る和彦の手を、大きな手で握り締めてくる。
背に、三田村の重みと熱さを感じなが
ら、和彦は浅ましく腰を揺らす。そうするたびに、内奥で蠢く逞しい欲望の形をはっきりと感じ、官能を刺激されるのだ。
襞と粘膜を擦り上げられて、狂おしい快感を与えられる。だが和彦自身、三田村のものを襞と粘膜で舐め上げて、快感を与えてい
る。背後から聞こえる三田村の激しい息遣いが、この行為が一方的なものではないと物語っていた。
三田村のもう片方の手
が両足の間に差し込まれ、いつになく荒々しい手つきで和彦のものを扱く。先端から滴り出るもので濡れた欲望は、三田村の手の
熱さにすら敏感に感じてしまい、そこに愛撫も加わって、和彦は低い呻き声を洩らしていた。
押し寄せてくる快感に息が詰
まり、意識が飛んでいきそうだ。
「あっ、あっ、三田村っ……」
和彦の呼びかけに応えるように、内奥深くを一度だけ
強く突き上げられる。さきほどから肉の悦びを堪能している場所は、はしたないほど収縮し、三田村のものをきつく締め付けてい
た。
三田村が動きを止める。握っていた和彦の手を放し、汗に濡れた背を優しく撫で始めた。その一方で、不意打ちのよう
に乱暴に内奥を突き上げ、そのたびに和彦は甘い嗚咽を洩らしてしまう。三田村の優しさと激しさに、翻弄されていた。
こ
の部屋に泊まったとき、習慣のように体を重ねているが、与えられる感覚に慣れる気配はまったくない。いつでも和彦は、三田村
の感触を新鮮に感じ、適度に緊張もしていた。まるで、つき合い始めたばかりの恋人同士のように。
三田村が一度繋がりを
解き、促されるまま和彦は仰向けとなる。ようやく三田村と向き合い、抱き合えると思ったが、和彦が両腕を伸ばす前に三田村に
足を抱え上げられ、性急に再び繋がる。
「ああっ」
和彦が喉を反らして声を上げたときには、大きく腰を突き上げられ、
とっくに蕩けた襞と粘膜を強く刺激される。身を捩りたくなるような快感に、下肢どころか、瞬く間に全身を支配されていた。
「――……先生」
顔を覗き込んできた三田村に唇を吸われ、無意識に甘えるような声を洩らす。深く唇が重なると、夢中で
口づけを貪る。和彦は両腕を三田村の背に回そうとしたが、それは許されなかった。
三田村に両手を握られて、ベッドに押
さえつけられる。そのまましっかりとてのひらを重ね、指を絡め合っていた。
「あっ、あっ、あっ……うぅ。んっ、んうっ」
三田村の激しい律動に腰が弾み、声が洩れる。いつもならしっかりと三田村にしがみつくところを、両手をベッドに押さえ
つけられているせいで、もどかしさが奇妙な高揚感へと変わる。その高揚感は、和彦の感度を確実に高めていた。
「三田村
っ……、早く、撫で、たい――」
口づけの合間に和彦が訴えると、三田村が微かな笑みを唇に刻む。次の瞬間、握り合って
いた手が離れ、すぐに和彦は三田村の背に両腕を回してしがみつく。すると、それを待っていたように、三田村にきつく抱き締め
られて体を起こされた。
「うあっ」
三田村の腰を跨いだ姿勢で、繋がったまま向き合う。三田村に腰を掴まれた和彦は
緩やかに揺さぶられ、自らも腰を前後に動かしていた。
舌を絡め合いながら、自分の狂おしい欲望を果たすように、三田村
の背を――虎の刺青を撫で回す。和彦の手の動きに興奮を煽られているのか、三田村の体は燃えそうに熱い。もちろん、和彦の内
奥深くに収まったものも。
「先生……」
ハスキーな声をさらに掠れさせて、三田村が和彦を呼ぶ。和彦は深い吐息を洩
らしてから、三田村と唇を啄み、きつく抱き合う。これ以上なくしっかりと繋がっているというのに、まだ足りない。できること
なら、狂おしい欲望を抱えたまま、三田村と溶け合ってしまいたかった。
「んうっ」
三田村のものを貪欲に呑み込み、
ひくつく内奥の入り口を、指先でなぞられる。感じた羞恥は瞬く間に痺れるような法悦となり、和彦は三田村の腕の中で身悶える。
「……すごく、気持ちいい」
三田村の顔を覗き込んでそう囁くと、あごの傷跡を舐め上げる。すると、双丘に三田村の
手がかかり、強い欲望を表すように鷲掴まれていた。
下から突き上げられ、和彦は顔を仰向かせながら奔放に乱れる。それ
でも、三田村の背の虎を撫でることはやめない。
「あっ……ん、あっ、うあっ」
三田村の動きに合わせて、すでに限界
まで高ぶった和彦のものが、三田村の引き締まった腹部で擦り上げられる。さらに強い快感を欲して、和彦は自ら大胆に腰を上下
に動かしていた。
「――三田、村、もうっ……」
和彦が訴えると、心得たように三田村に腰を掴まれ、強く内奥を突き
上げられる。このまま絶頂にたどり着けると思ったが、思いがけない邪魔が入った。
テーブルの上に置いた三田村の携帯電
話が鳴り始める。二人は反射的に間近で顔を見合わせ、一瞬にして事態を理解する。仕事が休みの三田村が、和彦とともに過ごして
いることを組は把握している。それでも携帯電話を鳴らすということは――。
「先生、電話だ」
三田村が動きを止めよ
うとしたが、和彦はしがみついてそれを拒む。
「嫌だ……。やめたくない」
「だが――」
和彦が三田村の背にぐっ
と爪を立てると、数秒の間を置いて、激しい律動が再開された。
携帯電話の着信音に追い立てられるように、和彦は夢中
で腰を揺らし、熱くなって震えるものを三田村の腹部に擦りつける。自分の欲望を果たしたいという思いの一方で、三田村に早く
電話を取らせたいという思いもあった。
「はっ、あうっ」
ようやく和彦は絶頂を迎え、噴き上げた精で三田村の腹部を
汚す。まだ、携帯電話は鳴り続けていた。
「……電話、まだ間に合う……」
息を喘がせながらの和彦の言葉に、三田村
は表情を引き締めたまま答えなかった。その代わり、和彦の体は再びベッドに押し付けられた。
三田村は、今度は自分の欲
望を果たそうとしていた。和彦は携帯電話を気にはかけたが、押し寄せてくる愉悦を手放すことはできなかった。
内奥深く
を抉るように突き上げられ、上体を捩りながら身悶える。
「あっ、あっ、い、ぃ――。三田村、三田村っ」
ふいに内奥
から、逞しい欲望が引き抜かれた。和彦の胸元から腹部にかけて、生暖かな液体が散る。三田村の精だ。
快感の心地よい余
韻に浸りながら和彦は、自分の胸元に指先を這わせて、三田村の欲望の残滓をいとおしむ。そんな和彦の様子を、三田村は食い入
るように見下ろしていた。
いつの間にか、携帯電話の着信音は止んでいた。
「早く、かけ直さないと……」
呼
吸が落ち着くのを待ってから、和彦は声をかける。すぐにベッドを下りるかと思った三田村だが、ティッシュペーパーを何枚か取
ると、和彦の体の汚れを拭おうとする。
「自分でやるっ」
和彦は慌てて三田村の手を止め、ティッシュペーパーを奪い
取った。
「ぼくはいいから、電話してくれ。若頭補佐の仕事を邪魔したなんて噂になったら、ぼくが困る。……確かに、邪魔
したのはぼくだが……」
ぼそぼそと呟くと、しっかり耳に届いたらしく、三田村が短く噴き出す。
スウェットパンツ
を穿いただけの姿で三田村がテーブルに歩み寄り、和彦は向けられた後ろ姿を目で追いつつ、手早く後始末をする。本当はバスル
ームに駆け込むのが一番だが、下肢に力が入らない。それにできることなら、電話のあと、また三田村とベッドの上で睦み合いた
かった。
だが和彦の願いは、三田村の電話の応対を聞く限り、無理なようだ。
体を起こした和彦が髪を掻き上げたと
き、ちょうど電話を終えて振り返った三田村と目が合う。
「……先生、すまない、今の電話は――」
「ぼくに、仕事が入
ったんだろ」
「総和会からだ」
ベッドを下りようとした和彦は動きを止める。眉をひそめつつ、三田村に問いかけてい
た。
「最近、総和会からの仕事が多くないか?」
「総和会が面倒を見ている医者は、何人かいる。俺が思うに、その医者
に回していた仕事が、先生に回ってきているんじゃないか。……総和会なりの、先生を信頼しているという証かもしれない」
三田村の言葉に、先日、料亭で守光から言われたことを思い出す。和彦の身を、総和会で預からせてもらえないだろうかという
話だ。もしかして自分は、総和会に取り込まれようとしている最中なのだろうかと、つい深く考えてしまう。
「それは、いい
ことなんだろうか……」
和彦はぽつりと洩らしたが、長嶺組の人間である三田村には答えにくい質問だったらしい。何も言
わず、乱れた髪を撫でて直してくれた。
「すでに迎えの車がこちらに向かっていて、もうすぐ着くらしい」
「だったら、
シャワーを浴びる時間もないな。患者がいるのに、待たせるわけにはいかないし」
「すまない……」
差し出された手を
掴んで立ち上がった和彦は、三田村の頬を撫で、そっと唇を重ねる。
「あんたが謝ることじゃないだろ。これがぼくの、今の
仕事だ」
ささいな刺激でまた三田村が欲しくなりそうで、すぐに和彦は体を離し、簡単に汗だけを拭ってから服を身につけ
る。ただ、まだ火照った顔だけはどうにかしたくて、洗面所に駆け込み、冷たい水で洗った。
鏡を覗き込むと、まだ頬は赤
みを帯び、目が潤んでいる。さすがにこんなだらしない顔をして、明るい陽射しの下を歩くことはできないが、幸か不幸か今は夜
だ。
車で移動しているうちに、少しはマシな顔になるだろう。和彦は軽く自分の頬を叩いてから洗面所を出る。トレーナー
を着込んだ三田村が、コートを手に立っていた。
コートに袖を通した和彦は、玄関まで見送ってもらう。
「帰りは明け
方になるかもしれないから、遠慮せず寝ててくれ。明日は仕事があるんだし」
靴を履いて振り返ると、三田村にそう言い含
める。生まじめで律儀な若頭補佐なら、和彦の帰りを起きて待っていると思ったのだ。案の定、三田村はそのつもりだったらしい。
決まり悪そうに微苦笑を浮かべる。
「もしかすると、たまたま目が覚めたときに、先生が帰ってくるかもしれない」
「そ
れでも、ベッドの中にいてくれ。帰ってきてすぐに、暖かいベッドに潜り込みたいから」
「……わかった」
三田村の優
しい眼差しに頷いて返して、玄関のドアを開ける。総和会の人間が部屋の前で待機しているのではないかと身構えていたのだが、
誰もいない。ほっとしつつ振り返った和彦は、三田村に向けて軽く手を上げた。
ドアが閉まると同時に、慌しく一階へと降
りる。すでにマンションの前には、一台の車が停まっており、傍らに、辺りを警戒する男が立っていた。和彦に気づくなり、素早
く駆け寄ってくる。
「先生、車に乗ってください」
急かされた和彦は、反射的に小走りとなる。後部座席のドアが開け
られ、無防備に車に乗り込んだが、次の瞬間、物騒な気配を感じて総毛立った。
ぎこちなく隣に視線を向けると、なぜか南
郷がいた。和彦が目を見開くと、南郷は凄みを帯びた笑みを向けてくる。
驚きのあまり一声も発せないうちに、車は静かに
発進した。
「――怪我をしたのは、俺の隊の人間だ」
唐突に南郷が切り出す。
「総和会はでかい組織だが、だから
こそ、内部での小さないざこざはよくある。そりゃまあ、十一の組から、それぞれの組の意向を受けて出向いている人間がいるん
だ。対立する組同士、表向きは総和会の看板を背負っていても、自分たちの組のために少しでも利益を得ようとする。あんたと仲
のいい中嶋のように、自分がかつていた組のことなんて、すっぱり切り捨てられる人間のほうが珍しい。だからこそ、あいつは遊
撃隊が似合っている」
「どうしてです?」
思わず問いかけると、南郷はニヤリと笑った。
「オヤジさんは第二遊撃
隊を、総和会内の跳ね返りたちの抑えとしても使っている。総和会の和を乱す人間は、身内であろうが容赦しない。そういう懲罰
的意味合いで、俺たちは駆り出される。でかい組織をまとめ上げるには、どうしたって荒っぽい力が必要だ。俺は、その力を振る
うにはちょうどいい。所属していた組はもうないから、しがらみがないんだ」
南郷の説明通りなら、確かに中嶋には、第二
遊撃隊はお似合いだ。いままでのつき合いから和彦は、中嶋が自分が属していた組に対して、忠誠心も執着心もないことは感じて
いた。あくまで、ヤクザとして出世するための過程の一つなのだろう。
「そういう集団だから、厄介事を片付けたときには、
怪我人も出る場合がある。今回がそうだ」
今話題に出た中嶋のことが心配になったが、すかさず南郷が付け加えた。
「中嶋は、今回は待機組だ」
露骨に安堵して見せるわけにもいかず、そうですか、と淡々と応じた和彦だが、もう一つ気に
なったことがある。警戒しつつ、慎重に南郷をうかがう。
「――……そちらの事情はわかりましたが、どうして、あなたが車
に?」
「大事な部下を診てくれる先生を、俺が迎えに来たところで、不思議じゃないだろ。それにあんたは、オヤジさんのお
気に入りだ」
小さく声を洩らした和彦を、南郷は酷薄そうな笑みを浮かべて見つめていた。その表情を見ていると、先日、
南郷にマンションまで送ってもらったときの出来事を思い出す。あのとき鷹津が現れなければ、自分はどうやって南郷から逃げ出
していたのか、想像するだけで不安な気持ちに駆られる。
南郷が見た目同様、物騒で野蛮な男であることは、疑いようがな
かった。できることなら、もう二人きりになりたくないと願っていたのだが、総和会と関わる限り、その願いは叶えられないのだ
ろう。
和彦は静かにため息をつくと、ハンドルを握る人間に視線を向ける。この状況で運転手は、いないものとして考えら
れる。長嶺組の組員であれば、当然、和彦の求めがあれば助けてくれるだろうが、この車内は総和会のテリトリーであり、南郷は
総和会で肩書きを持つ人間だ。
いかに自分が長嶺組の看板に守られているか、強く実感した瞬間だった。その一方で、心細
さと不安も強く感じる。
和彦はシートに座り直すふりをして、さりげなくドア側に体を寄せようとしたが、南郷に腕を掴ま
れて簡単に阻止される。思わず睨みつけると、南郷がスッと耳元に顔を寄せた。
「――楽しんでいるところを邪魔されて、機
嫌が悪いのか?」
「何言って……」
動揺する和彦に向けて、南郷が下卑た笑みとともに言った。
「あんたが車に乗
ってきた途端、汗と精液の匂いがしたぜ」
下卑た表情に相応しい明け透けな言葉に、全身の血が凍りつきそうになったが、
次の瞬間には一気に全身が熱くなる。もちろん、羞恥のためだ。
自覚があるからこその反応だった。実際和彦は、寸前まで
三田村と体を重ね、激しく求め合っていたのだ。それに、体も洗っていない。
必死に動揺を押し隠す和彦に、南郷は追い討
ちをかけてくる。
耳に生ぬるい息遣いが触れ、言葉を注ぎ込まれた。
「あとは――発情した〈オンナ〉の匂いだ。……腰
にくる、いい匂いだ」
腕を掴む南郷の手を鋭く振り払う。咄嗟に怒鳴りつけそうになったが、南郷が向けてくる冴えた眼差
しに、一瞬にして冷静さを取り戻す。凄んでいるわけでもないのに、和彦の怒気など簡単に呑み込んでしまいそうな禍々しさが、
南郷にはあった。
物騒な獣を刺激してはいけないと、本能的に悟った和彦は息を詰め、慎重にドアのほうに体を寄せる。つ
いでに、ウィンドーを下ろして冷たい風を車内に入れる。南郷が独りごちるように洩らした。
「……もったいない。せっかく
の匂いが消える」
和彦は頑なにウィンドーの外に視線を向け、目的地に到着するまで、南郷を一瞥すらしなかった。目が合
った途端、抱えた怯えを南郷に見抜かれると確信していたからだ。
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