と束縛と


- 第18話(2) -


 仕事のあと、外で食事を終えてから、待ち合わせをしていた〈友人〉に連れられて趣味のいい店に足を運び、美味しいウィスキ ーを味わう。
 ソファに深く腰掛けて足を組み、目の高さまで掲げたグラスを軽く揺らす。鈍く響いた氷の音に、和彦は静か な充足感を味わっていた。
「……理想的な夜遊びの時間だ」
 和彦が洩らした言葉に、隣に腰掛けた中嶋が反応する。二 人掛けのソファを区切る肘掛けにもたれかかるようにして、身を乗り出してきた。
「気に入ってもらえましたか?」
 中 嶋の問いかけに、和彦は頷く。
「君と秦の店選びに、失敗はない。……君が選ぶ店は、客層が少し若いかな。だから、気楽に 楽しめる」
「長嶺組長の信頼厚い俺と一緒なら、護衛もつきませんしね」
 信頼しているかどうかは知らないが、和彦と 中嶋の関係に、大蛇の化身のような男がひどく関心を示しているのは確かだ。
 こうしてなんでもないふりをして飲んでいる が、つい先日、賢吾と繋がって感じている姿を中嶋にしっかり見られており、何かの拍子に、そのときの光景が脳裏に蘇る。
 一応、和彦なりに、中嶋と顔を合わせることにためらいはあったのだが、だからといって避け続けるわけにもいかない。なんと いっても中嶋は、総和会と長嶺の本宅を繋ぐ連絡係となったのだ。顔を合わせる機会は嫌でも訪れる。
 和彦は視線を正面に 向ける。大きなはめ込みガラスに面してテーブルが配された席は、意識せずとも夜景が視界に入る。外は小雨が降っているため、 輝くような夜景というわけにはいかないが、霧をまとったように霞んでいる街もまた、趣がある。
 薄ぼんやりとした夜景に 重なるように、ガラスに反射した和彦と中嶋の姿が映っている。一見して、友人同士と思しき男二人が寛いでいるように見えるだ ろう。和彦も、そのつもりで中嶋とこの時間を楽しんでいる。
「――見惚れています?」
 さらに身を乗り出してきた中 嶋が、顔を寄せて囁いてくる。ただし視線は、ガラスに映る和彦に向けられている。和彦は小さく苦笑を洩らした。
「そんな に自惚れが強いつもりじゃないが」
「ああ、言葉が足りませんでした。こういう場で、人並みの夜遊びを楽しんでいる自分の 姿に、見惚れているのかと言いたかったんです。まだ自分は堅気に見える、と確認しているのかなと思って」
 和彦は、ちら りと視線を隣に向ける。口調は柔らかいくせに、中嶋の言葉は聞きようによっては皮肉にも取れる。
「……気心が知れたら、 言うことに遠慮がなくなってきたな」
 悪びれたふうもなく、中嶋は首をすくめて笑う。
「すみません。仕事中は物言い には気をつかっているんですが、先生相手だと、どうしても甘えてしまうんです」
「まあお互い、あれこれ知っているからな。 物言いが気に食わないなんてつまらないことで、ケンカになるはずもない」
「あれこれ、ね」
 意味深に洩らした中嶋の 唇に、薄い笑みが浮かぶ。そんな表情を目にして、和彦の胸が妖しくざわつく。
 互いの体温も肌の感触も知っているが、そ れだけでなく中嶋は、賢吾に抱かれる和彦の姿を知っている。
 賢吾と中嶋の間で何かしらの密約があり、和彦は事情もよく わからないまま、微かな企みの気配だけは感じ取った。和彦との行為を中嶋に見せたのは、賢吾なりの契約締結のサインだろうと 解釈している。
 中嶋の夜遊びの誘いに乗ったのは、男たちの企みを少しだけ探ってみたかったからだ。もっとも今のところは純 粋に、店の雰囲気とアルコール、中嶋とのきわどい会話を楽しんでいた。
 チーズを口に運んだところで和彦は、ある疑問を 中嶋にぶつけた。
「長嶺組長の本宅に出入りできるようになって、君の総和会での立場は、少しは変わったのか?」
「何 があったのか、という顔で見られていますが、悪くなってはいませんよ。なんといっても俺は、第二遊撃隊の人間ですからね。総 和会の数ある派閥の中でも、ちょっと異色の隊なんですよ。隊そのものが目立っているおかげで、配属されて間もない俺の存在は、 さほど目立たなくて済んでいます」
「……第二遊撃隊が実はどんな仕事を任されているか、教えてもらった。危ないところみ たいだな」
 ヤクザ相手にこの言葉も変だなと思ったが、中嶋は揶揄するでもなく、まじめな顔で頷いた。
「そういえば 先生は一昨日、うちの隊の人間を治療してくれたそうですね。いままで見た中で、一番きれいな縫い目だって、怪我した本人が笑 ってましたよ」
「笑い事じゃないだろ。胸から腹にかけてすっぱり切られて重傷だったのに……」
「刃物を振り回される ような事態は、そう多くありませんよ」
「あってたまるかっ」
 思わず語気を荒くすると、中嶋が驚いたように目を丸く する。和彦はウィスキーを一口飲んでから、ほっと息を吐き出した。ついでに、言い訳がましく説明する。
「別に……、総和 会の仕事を受けたくないわけじゃない。ただ、たまたま君が待機組だったというだけで、いつ怪我をしてもおかしくない環境だか ら、心配になっただけだ」
「こんな世界にいて、甘いですね、先生は。ただ俺は、先生の甘さが大好きですよ。きっとこれは、 俺だけの意見じゃないと思いますけど」
「ぼくの甘さに対して、きちんと見返りをくれる男ばかりだからな。損はしてな い――と思う」
 悪党ぶって言ってはみたが、返ってきたのは、中嶋の楽しげな笑い声だった。
「けっこう、悪辣な世界 に染まってきましたね」
「全然、そう思ってないだろ……」
 ひとしきり笑ったあと、中嶋がふっと我に返ったように真 摯な顔つきとなる。隣のテーブルの客が帰ったところを狙っていたように、実にさりげなく和彦の手に触れてきた。
「――俺 が怪我したら、先生が治療してください」
「その前に、怪我をしないよう気をつけることだな」
「ヤクザに、無茶言いま すね」
 和彦は、重ねられた中嶋の手を軽く握ってやる。
「せっかく、大きな傷跡のないきれいな体をしているんだ。そ んな君の体を縫うところは、あまり考えたくないな」
「でも、いつかは現実になるかもしれない」
「……そうなったら、 せめて箔がつくように、立派な縫い跡を作ってやる」
 従業員がやってきて、隣のテーブルを片付け始めたので、二人は何事 もなかったように手を離す。
 我ながら不埒だなと思うが、中嶋との会話も、ささやかな肌の触れ合いも、適度に気分を高揚 させられて心地いい。妖しい胸のざわつきを覚えながらも、反面、強い肉欲を意識するまでには至らない。
 和彦は深い吐息 を洩らして夜景に視線を向ける。さきほどより雨の降りが強くなってきたようで、ますます景色が霞んで見える。
 ガラスを 伝って流れ落ちる水滴に見入っていると、背後からにぎやかな歓声が上がる。いかにも学生らしいグループが盛り上がっているよ うだが、だからといって不快というほどではない。むしろ、物騒な会話を交わしているという後ろ暗さを感じなくて済み、ありが たいぐらいだ。
 中嶋も同じ感想を持っているのか、ガラスに反射して映るハンサムな顔には機嫌よさそうな笑みが浮かんで いた。その中嶋が、唐突に問いかけてくる。
「――そういえば先生、南郷さんと何かありましたか?」
 完全に虚をつか れた和彦は目を見開く。思わず隣を見ると、いつの間にか中嶋は、したたかで食えない男の顔となっていた。普通の青年の顔をし ているから騙されそうになるが、中嶋の中身は、たっぷりの野心を抱え持つ切れ者のヤクザだ。
 よりによって、南郷の話題 を持ち出してくるとは――。
 心地よい酩酊感に浸りかけていたところを、強引に現実に引き戻された気がして、和彦はつい 顔をしかめる。それがますます、中嶋の好奇心を刺激したらしい。肘掛けにしなだれかかるようにして、和彦に身を寄せてきた。
「何かあったという顔ですね」
「……どうして、そう思うんだ」
「南郷さんが、俺に聞いてきたんですよ。先生は、 どんな人間なのかって」
 和彦は、一昨日の夜の出来事を嫌でも思い出す。総和会からの仕事だということで、三田村との逢 瀬の途中にもかかわらず慌しく部屋を出て、迎えの車に乗り込んだまではよかったが、なぜか南郷も同乗していたのだ。
 露 骨に性的なことを言われはしたが、それも最初だけで、南郷はすぐに黙り込んでしまった。和彦が極端に、警戒と拒絶の態度を示 したせいかもしれないが、今にして、自分は値踏みされていたのではないかと思う。佐伯和彦としてではなく、〈長嶺組長のオン ナ〉として。
 中嶋が、和彦をじっと見据えて答えを待っている。仕方なく口を開こうとしたとき、背後で突然、怒声が響い た。
「うるせーんだよっ、さっきから。酒の飲み方も知らないガキが、こんなところに来るなっ」
 さらに、グラスが割 れるような音に続いて、女性の小さな悲鳴が上がる。驚いた和彦がピクンと肩を震わせる間に、中嶋はソファから腰を浮かせて振 り返っていた。向けられた横顔は鋭い殺気を放っている。〈普通の青年〉という表現をためらう迫力があった。
 和彦が一瞬 息を呑むと、中嶋はふっと表情を和らげる。
「酔っ払いが、他の客に絡んでいるみたいです。先生、危ないから動かないでく ださい」
「あ、あ……」
 頷いた直後に、数人の緊迫した声が上がる。振り返ると、さきほどまで楽しそうに飲んでいた グループの一人に、いかにも泥酔したスーツ姿の男が詰め寄っていた。今にも掴みかかりそうで、周囲の人間が止めようとするが、 それがかえって男を煽ったようだ。とうとう揉み合いとなり、騒ぎが大きくなる。
「……まったく、いい歳したおっさんが、 みっともない……」
 苦い口調で洩らした中嶋が立ち上がり、揉み合いの中心へとスッと近づく。何をするのかと和彦が見守 っている中、中嶋は有無を言わせない手つきで、スーツ姿の男のジャケットを掴み上げた。
 咄嗟に、中嶋が男を殴るのでは ないかと危惧して、和彦も立ち上がる。何かあれば自分が間に入ろうと思ったのだが、事態はあっさりと収拾した。
 中嶋が 笑いながら、男の耳元で何かを囁く。それから二、三言会話を交わしていたが、その間に、怒気でぎらついていた男の目つきが変 わり、明らかに怯えの色が浮かぶ。紅潮していたはずの顔から、血の気まで失せていた。対照的に、中嶋は笑ったままだ。
  酔っ払いのあしらい方は水商売で鍛えたものかもしれないが、男の顔つきの変化からして、耳元で囁く言葉は、おそらくとてつも なく物騒なものだろう。表面上は穏やかに、しかし実際は容赦なく物事を進めるのは、ヤクザのやり口だ。
 中嶋が親しげに 男の肩を叩き、こちらに戻ってくる。
「先生、出ましょうか」
 何事もなかったようにコートを取り上げ、中嶋が声をか けてくる。和彦は困惑しつつ、男のほうを見た。さきほどまで威勢がよかった酔っ払いは、急におどおどしたように周囲を見回し、 ぎこちない動きで自分のテーブルに戻っている。
 あっという間に騒動は収まったが、店内の客たちの視線は、今度はこちら に――正確には中嶋に向けられていた。物腰の穏やかな普通の青年が、声を荒らげることなくどうやって酔っ払いをおとなしくさ せたのか、興味津々といった様子だ。
 確かにこんな空気の中、気楽に飲み続けるのは不可能だろう。即座にそう判断した和 彦は、自分もコートとマフラーを取り上げ、中嶋とともにレジへと向かう。二人で飲むときは、基本的にワリカンなのだ。
「――先生もしかして、乱闘になったら、飛び込むつもりだったんですか? 立ち上がってましたよね」
 支払いをしながら 中嶋が楽しげに顔を綻ばせる。和彦はムッと唇をへの字に曲げたあと、ぶっきらぼうな口調で応じた。
「まさか。危なくなっ たら、君を引きずって逃げるつもりだった」
「ショックだなー。俺、そんなに弱そうに見えますか?」
「違う。――相手 を半殺しにするんじゃないかと、そっちを心配したんだ。……よく考えたら、君がそんな素人みたいなマネをするわけがないな」
 心配して損をした、とぼやきながら、和彦も支払いを済ませる。隣に立った中嶋の肩が微かに震えている。和彦の気遣いに 感動している――わけではなく、必死に笑いを堪えているのだ。
 ビルの一階に降りたところで、二人は並んで外を眺める。 不本意な形で楽しい時間を中断してしまい、正直物足りない。別の店に移動しようという流れになりそうなものだが、今夜は天候 に見放されている。
 雨の降りはますます強くなっており、開け放っている扉から吹き込んでくる風は、凍りつきそうなほど 冷たい。
 和彦が丁寧にマフラーを巻く姿を見て、中嶋は苦笑に近い表情を浮かべた。
「このビルの中に、他にいくらで も店がありますから、適当に入って飲みますか?」
「君のお薦めの店が、他にあるのなら」
 中嶋は軽く肩をすくめたあ と、和彦に向かって頭を下げた。
「すみません。俺から誘っておきながら、俺のせいで店を出ることになって」
「気にし ないでくれ。あのまま酔っ払いに喚き続けられてたら、どっちにせよ店を出ることになっていた。それに――君の怖い面も見られ た」
「怖い? にこやかだったでしょう、俺」
 澄ました顔で言うのが、なんとも白々しい。和彦は露骨に聞こえなかっ たふりをして、腕時計を見る。夜遊びを堪能したというには、まだ早い時間だ。
「先生、今夜はお開きにしましょう。タクシ ーを停めてきますから、ここで待っていてください。あっ、知らない奴についていかないでくださいね」
「ぼくは子供 か……。――どうせ送ってくれるんだから、ついでに部屋に寄っていかないか? 店ほどじゃないが、そこそこの酒が揃っている」
 軽く目を見開いた中嶋が、次の瞬間には嬉しそうに目元を和らげる。さきほど、酔っ払い相手に見せた凄みのある笑みとは、 まったく違う表情だ。
 先日、賢吾を挟んで自分と中嶋との間にあった出来事を考えれば、抵抗がないわけではないが、だか らといって、思い出したくもない出来事というわけではないのだ。むしろ――。
 無意識にマフラーの端を弄んでいて、何げ なく視線を上げた和彦は、ドキリとする。中嶋がいつの間にか笑みを消し、じっとこちらを見つめていたからだ。その眼差しに込 められた熱っぽさに気づき、和彦の胸の奥がじわりと熱くなった。


 世の中には意外にマメな男が多いのだろうかと、中嶋が作ってくれた酒のつまみを眺め、和彦は素直に感心していた。
 マ ンションに向かう途中、深夜営業しているスーパーに立ち寄ったのだが、和彦がビールを選んでいる間に、中嶋はさっさと野菜な どをカゴに入れてきた。つまみを作ると言っていたが、こうして出来上がったものを目の前にすると、料理が一切できない自分が 少しばかり恥ずかしくなってくる。
「ホストになる前に、メシ屋で働いていたことがあるんです」
 寛いだ様子でソファ に腰掛けた中嶋が、缶ビールを片手に教えてくれる。へえ、と声を洩らした和彦は、さっそくトマト炒めを口に運ぶ。酸味がほど よくて、手早く作ったものとは思えないほど美味しい。
「見た目によらず、いろいろ経験しているな」
「いろいろ、とい うほどじゃないですよ。少しばかり極端な道は歩んでいるかもしれませんが」
「だったら、ぼくもだな」
 和彦の言葉に、 中嶋はニヤリと笑う。
「先生こそ、まさに極端ですね」
「……君と違うのは、ぼくの場合、自分が選んだわけじゃないと いうことだな」
 中嶋はわずかに目を丸くしたあと、和彦のグラスにワインを注いでくれる。
「医者という職業は、先生 がなりたくてなったんじゃ……?」
「物心がついたときには、医者になれと言われていた。そういうものかと思って、ぼくも 逆らわなかった。佐伯の人間は、意地でもぼくを官僚にしたくなかったらしい。だが、名門である佐伯家の評判を落とすことは許 さない。――ぼくに才能があったら、芸術家でもよかったのかもな。とにかく、家を出て自由になれるなら、なんでもよかった」
「でも、先生が医者になったおかげで、こうして俺たちは一緒に飲めるわけです」
 和彦が手にしたグラスに、中嶋は缶 を軽く当ててくる。和彦は、隣に座った中嶋をまじまじと見つめてから、淡く笑む。
「ヤクザのくせに、変な気のつかい方を するんだな。いや……、優しいんだな、と言うべきか」
「素直にそう受け止められる先生こそ、優しいですよ。野心のあるヤ クザがこんなことを言ったら、普通は、何か下心があると勘繰るものです」
「実際そうだとしても、ぼくは気にしない。いつ も、周りの思惑に振り回されているんだから、楽しく飲んでいるときぐらい、疲れることはしたくない」
 きっぱりと言い切 った和彦に、中嶋は生ハムとチーズをたっぷり使ったサラダを取り分けてくれる。このとき中嶋の顔が、甘い、と言っているよう に見えたが、もしかすると和彦の考えすぎかもしれない。
 砕けた雰囲気で、アルコールと中嶋の手料理、そして気楽な会話 を堪能していたが、ときおりふと和彦の脳裏をあることが過る。この部屋に仕掛けられた盗聴器で、今の自分たちの会話も聞かれ ているのだろうかということだ。
 ただ、賢吾も千尋も訪れておらず、のんびりと飲みながら交わされる会話に、わざわざ聞 き耳を立てているとは思えない。それに、いまさら聞かれて困ることも、恥らうことも、和彦にはなかった。
「――店での質 問に、まだ答えてもらってませんでしたね」
 水割りを作った中嶋が、突然切り出す。心地よい酔いの感覚に身を任せるよう に、ソファの背もたれにしなだれかかっていた和彦は、その言葉を受けて姿勢を戻す。
「店での質問って……」
 そう応 じながら自分のグラスに手を伸ばしかけたが、さきほど空にしたばかりなのを思い出す。
「南郷さんと何かあったのかと、俺 は聞きましたよね? その答えです」
「……何か、というほどじゃない。ただ、立て続けに会う機会があっただけだ。会長と 食事をしたときと、一昨日、第二遊撃隊の人間を治療したときに」
「怖い人でしょう?」
 和彦はパッと中嶋を見る。こ の反応は、肯定したも同然だ。決まりが悪くて視線を逸らすと、そんな和彦をからかうでもなく、中嶋は澄ました表情でグラスに 口をつけた。
「実際、どうなんだ……。南郷さんは怖い人なのか? 少し話したけど、どういう人間なのか、よくわからなか った」
 ヤクザ相手にこの問いかけも妙なものだが、和彦は真剣だ。中嶋は何を思い出したのか、視線をさまよわせたあと、 わずかに唇を歪めた。
「見たまま、怖いですよ。生粋のヤクザというやつです。冷たく歪に固まった鉄のよう――という表現 がしっくりくるんです。遊撃隊なんてものを指揮しているぐらいですから、当然、頭は切れる。だからといって慎重というわけで もなく、必要とあれば、ブルドーザーみたいに強引に物事を進める。……不気味で、怖い人です」
「そして、総和会会長のお 気に入り」
「会長の手足となって動く人間は、もちろんいます。ただ、第二遊撃隊の一部の人間しか関わらせないようにして、 南郷さんは会長から秘密の仕事を請け負っているようです。そういう意味で、本当にお気に入り――信頼されているんでしょうね」
 料亭での、守光と南郷の姿を思い返す。守光が普段、組員たちにどんな態度で接しているのかは知らないが、少なくとも、 南郷に寄せる信頼を感じることはできた。南郷にしても、守光には長年世話になっているという口ぶりから、畏怖と尊敬以外に、 親愛の情めいたものが滲み出ているようだった。
 一方で、その守光の息子である賢吾を語るとき、南郷の口調は変化した。
 あれは一体――。和彦は無意識に眉をひそめていたが、突然、眼前にグラスが突きつけられた。驚く和彦に、中嶋が首を傾 げながら言う。
「これ、飲みませんか?」
「えっ、ああ、でも君の――」
「飲みすぎました。俺には半分残してくれ ればいいですよ」
 いつの間にか、中嶋との距離が近くなっている。和彦が気づかないうちに、間を詰めてきたらしい。
 部屋で二人きりになるとわかったときから、意識しないわけにはいかなかったが、こうも間近に中嶋の存在を感じると、もう、 強く意識するしかない。
 和彦が水割りを一口、二口と飲んだところで、さりげなく、しかし待ちかねていたようなタイミン グで中嶋が問いかけてきた。
「で、南郷さんをたぶらかしたんですか?」
 和彦は唇をへの字に曲げて、グラスを突き返 す。そんな和彦の反応に、中嶋はニヤリと笑う。
「読めないなー。先生のその反応だと、何があったのか」
「……ぼくは どれだけ、誤解されてるんだ」
「周囲にいる人間のほうが、物事を正しく認識しているなんてことは、往々にしてあるもので すよ。そもそも先生は、自分の存在がどんなものかあまり自覚がないから、性質が悪い。――先生にたぶらかされた一人である俺 が言うんだから、重みがあるでしょう?」
 和彦の手からグラスを受け取り、今度は中嶋が口をつける。
「君は本当に、 遠慮がなくなったな……」
 苦々しく洩らした和彦だが、ふと思い立ち、中嶋の顔を覗き込む。少し焦点の怪しくなった目を 見て、やっとわかった。
「明日、仕事は休みなのか?」
「ええ。おかげで、しっかりと酔えます」
「というより、も う酔ってるだろ」
「動けなくなったら、このソファで休ませてもらいますから、お気遣いなく」
 本当に遠慮がなくなっ たと、呆れるよりも、おかしくなってくる。一介の組員が宿泊したとなれば大事になるが、相手が中嶋であれば、賢吾も口うるさ くは言わないだろう。なんといってもあの男は、和彦と中嶋の特殊な関係を把握している。
 グラスを空けるのは中嶋に任せ、 和彦はテーブルの上を片付け始める。
「俺がやりますよ」
 さすがに中嶋が慌てた様子で腰を浮かせようとしたが、肩に 手をかけ押し留めた。
「座っていろ。大した量じゃないから、すぐに済ませてくる」
 和彦は、トレーに洗い物をのせる。 キッチンに置いておけば、明日には組員が片付けてくれるだろうが、さすがにそこまで無精する気はなかった。
 ひととおり 洗い物を済ませ、キッチンを片付けてから、ミネラルウォーターのペットボトルを手にリビングに戻ると、中嶋はソファの背もた れにぐったりと体を預け、顔を仰向かせていた。
 気分が悪くなったのだろうかと思い、和彦は中嶋に歩み寄って顔を覗き込 んだが、目が合った途端、トロンとした笑みを向けられた。
「……君がここまで酔った姿を初めて見た」
 ペットボトル を手渡しながら和彦が言うと、中嶋は緩く首を横に振る。
「酔ってませんよ。酔っているふりをしているんです」
「そう いう屁理屈を言うところが、いかにも酔っ払いだ」
 中嶋は短く声を上げて笑い、さっそくペットボトルに口をつけ、喉を鳴 らす。何げなくその様子を見守っていた和彦だが、すぐに中嶋のある部分に目が釘付けとなる。さきほどまで隣に座っていたため 気づかなかったが、ネクタイを取り、ワイシャツのボタンを二つ外しているため、中嶋の首の付け根が露になっている。そして、 鮮やかな赤い痕も。
 一瞬にして痕の意味を理解した和彦は、つい動揺してしまう。そんな和彦を見上げて中嶋は不思議そう な顔をしたが、すぐに小さく声を洩らして、首の付け根に指先を這わせた。
「先生と二人きりだから、ついうっかりしてまし た」
「それをつけたのは――」
「秦さんです」
 和彦は大きく息を吐き出すと、中嶋の隣に再び腰掛ける。
「……上手くいっているみたいだな」
「慣らされている最中です。今のところ秦さんは、紳士ですよ」
 臆面もなく言い 切られ、和彦は返事に詰まる。中嶋は、酔いのせいだけとも思えない、妖しい流し目を寄越してきた。
「先日は、いいものを 見せてもらいました。長嶺組長と先生の絡み合う姿に、すごく興奮したんです。……俺は、あんなふうに秦さんに抱かれたい。で も同じぐらい、先生をあんなふうに抱いてみたいとも思いました。もちろん、先生に抱かれることにも興味がある」
 話しな がら、中嶋がペットボトルを差し出してくる。受け取った和彦も水を飲み、喉を通る冷たい感触を堪能する。あまり意識していな かったが、アルコールのせいか、暑いぐらいの暖房のせいか、顔が火照っていた。
 ペットボトルをテーブルに置いて、頬に 手の甲を押し当てていると、ふいに中嶋が身を乗り出してくる。あくまで自然に、唇を塞がれた。
 軽く目を見開いた和彦だ が、瞬間的に胸の奥で湧き起こった衝動のまま、中嶋との口づけを受け入れ、応える。最初はぎこちなく互いの唇を吸い合ってい たが、欲望の急速な高まりに背を押されるように、積極的になる。
 舌先を触れ合わせたかと思うと、すぐに余裕なく絡ませ、 唾液を交わす。舌を吸い合いながら、中嶋の手が和彦が着ているセーターを捲り上げてきたので、和彦も中嶋のワイシャツを引き 出してボタンを外していた。
 引っ張られるままソファに倒れ込み、和彦は中嶋を真上から見下ろす格好となる。
「――……長嶺組長が、先生と仲良くしてやってくれと言ったのは、こういう意味も含めてですよね?」
 そんなことを言い ながら、中嶋のてのひらが脇腹から背へと這わされる。くすぐったいような、焦れったいような刺激に、和彦は軽く体を震わせて いた。
「さあ……」
「俺は、そういう意図だと理解して、楽しみにしているんですよ。秦さんだけじゃなく、先生からも いろいろ教われると思って」
「教わるも何も、ずいぶん手馴れているじゃないか」
「そうですか?」
 とぼける中嶋 を見下ろして、和彦は苦笑を洩らす。秦のことで思い詰めるあまり、長嶺組長の〈オンナ〉に食ってかかってきたことなど、すっ かり忘れたようだ。
 和彦と額と額を合わせて、中嶋が囁く。
「先生の体に触れるの好きなんです。楽しいし、興奮もす る」
 自分と中嶋は、似たような感覚を共有しているのだと和彦は思った。中嶋と触れ合うのは、他の男たちと情とともに交 わす行為とはまったく異質で、だが、確かな快感を生み出してくれる。
 こうしている瞬間は、男でも雄でもない生き物同士 だからだろうかと、賢吾に言われた言葉を胸の奥で転がしながら、つい和彦は分析してしまう。
「先生」
 ふいに中嶋に 呼ばれ、頭を引き寄せられる。いきなり深い口づけを交わしながら、中嶋にさらにセーターを捲られ、胸元にてのひらが這わされ る。和彦も、中嶋のワイシャツを半ば脱がすようにして、引き締まった筋肉を覆う滑らかな肌に触れる。
「あっ……」
  指先でまさぐり、胸の突起を軽く擦り上げた途端、中嶋が短く声を洩らす。その反応に誘われるように和彦は、中嶋の胸元にゆっ くりと舌を這わせ、柔らかく突起を吸い上げる。
 中嶋は微かに体を震わせたあと、吐息を洩らしたが、和彦にされるがまま になるつもりはないようだった。上半身を慰撫するように両てのひらを這わされ、そのまま二人はソファの上で抱き合い、肌を擦 りつけ合う。
 転げ落ちないよう気をつけながら体の位置を変え、今度は和彦が下となる。肌に触れる中嶋の唇と舌の感触が 心地よくて、小さく喉を鳴らして目を細める。そんな和彦の顔を中嶋が覗き込んできた。
 数回唇を触れ合わせたところで、 今度は中嶋が胸元に顔を伏せ、和彦の突起を舌先で転がし始める。
「くぅっ」
 和彦は声を洩らすと、ソファの背もたれ に片手をかける。その反応が中嶋の何かを刺激したのか、いきなりきつく突起を吸われ、軽く歯を立てられた。胸元に何度も唇が 押し当てられ、首筋にも愛撫が施される。危うく心地よさに酔いそうになったが、寸前のところで和彦は我に返り、中嶋の喉元を じっくりと舐め上げてから、濃厚な口づけを互いに堪能する。
 限度はわかっていた。ゾクゾクするような高揚感を楽しめる だけの理性があるうちは、こうして口づけを交わし、肌を擦りつけ合う快感にも安心して身を委ねられるが、その理性が揺れ始め ると、衝動に歯止めがかからなくなる。
 中嶋とはまだ、〈オンナ〉同士でささやかに悦びを共有し合う関係でいたかった。
 絡め合っていた舌をようやく解いてから、中嶋に抱き締められる。和彦も、中嶋の背に両腕を回し、しなやかで強靭な熱い 体の感触を確かめる。ヤクザの男たちと体を重ねてはいるが、同じヤクザでありながら、中嶋の体はまったく違う存在感を持って おり、それがとても不思議に感じられる。
 ふいに身じろいだ中嶋が、耳に唇を押し当て囁いてきた。
「――先生、いい ことを教えてあげましょうか?」
 和彦は、中嶋の髪を撫でて応じる。
「ヤクザがそんな猫撫で声を出すときは、絶対ロ クなことを言わないんだ」
「いいことですよ。……自分の身を守るという意味で」
 意味ありげな物言いに、嫌でも興味 をそそられる。和彦は、間近にある中嶋の顔を見つめた。
「なんだ」
「南郷さん、女を抱き殺しかけたことがあるそうで すよ」
 さすがに和彦が絶句すると、その反応に満足したのか、中嶋の唇に微かな笑みが刻まれる。会話の内容の物騒さと表 情が、見事に一致していない。
「第二遊撃隊には、南郷さんがいた組から連れてきたという組員が何人もいるんです。そうい う人たちは、まあ、南郷さんの強烈なシンパみたいなものです。だからこそ、南郷さんのことをよく知っていて、ウソは言わな い。……昔、堅気の女に惚れたそうです。でも、迫力のあるあの外見に、仕事もヤクザ。普通の女なら、泣いて逃げ出す。当然、 南郷さんが惚れた女も拒絶しましたが、追い掛け回して、半ば恫喝してモノにした」
 和彦は、女に迫る南郷の姿が容易に想 像できた。なんといっても先日、和彦は南郷に首を絞められかけたのだ。情景としては大差ないだろう。
「そこまでして手に 入れた女を、片時も離さず、抱き殺しかけた……。よっぽど欲しかったんでしょうね。力加減もできないほど」
「……確かに、 いいことを聞いた。ただし、ぼくにどう関係あるんだという気もするが……」
「南郷さんが先生に興味を持った時点で、無関 係じゃないでしょう」
「ぼくに興味を持ったというより、あれは――」
〈長嶺賢吾のオンナ〉に興味があるようだった。
 和彦が心の中で呟くと、そんな和彦の心を探るように、中嶋がじっと見下ろしてくる。寸前までの妖しく甘い気配は微塵も なく、食えないヤクザの目をして。
 ソファの上でじゃれ合う時間は終わったと和彦は感じ、中嶋も察するものがあったのか、 あっさりと体を起こす。ついでに和彦も、引っ張り起こしてもらった。
 和彦は素早く格好を整えると、ワイシャツのボタン をはめる中嶋の姿を見ていられず、用もないのにキッチンに逃げ込む。いまさらだという気もするが、なんとなく気恥ずかしくな ったのだ。
 少しして、きちんとジャケットとコートを羽織った中嶋がカウンター越しに声をかけてきた。
「先生、俺は これで帰ります。水はもらって帰りますね」
 ペットボトルを軽く掲げて見せられ、和彦はぎこちなく頷く。
「ああ……。 タクシーを呼ぼうか?」
「少し歩いてから捕まえますよ。その間に、体の熱を冷ましたいので」
 中嶋を見送るために玄 関まで一緒に行く。
 ドアを開けようとした中嶋がふと動きを止め、振り返る。何か忘れたのだろうかと和彦が首を傾げると、 ニヤリと笑って中嶋が言った。
「楽しかったですよ、先生」
 一瞬返事に詰まった和彦だが、視線を逸らしつつ、ぼそぼ そと応じた。
「――……ぼくもだ」









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第18話[01]  titosokubakuto  第18話[03]