と束縛と


- 第18話(3) -


〈あの男〉の人脈はバカにできないと、来週のクリニックの予約リストを眺めながら和彦は感心する。しばらくは閑古鳥が鳴くこ とを覚悟していたのだが、なかなかどうして、予約は順調に入っていた。
 開業したばかりの、広告も出していない池田クリ ニックをどこで知ったのか、予約を入れる患者に尋ねると、大半は口を揃えてこう言う。知人の紹介で、と。
 問題は、その 『知人』が誰かということだ。
 知人繋がりなら、クリニックの世話になりたいとまず和彦本人に連絡が入るのだが、それは 組関係者の妻や娘であったり、さらに彼女たちからの紹介だったりするし、意外なところで、由香に勧められたというものもある。
 だが、誰よりも池田クリニックの売上に貢献しているのは、間違いなく秦だ。
 ホストクラブ経営という強みを活かし、 美容相談を受けてみたらと女性客を唆しているらしく、何件もカウンセリング予約が入っている。カウンセリングといってもバカ にはできず、池田クリニックは初回からしっかりと、カウンセリング名目でも料金を受け取っていた。
 ちなみにさきほど、秦 からの紹介で訪れた患者に対して、豊胸に関するカウンセリングを行ったばかりだ。
 美容外科医が和彦一人しかいないため、 大掛かりな手術ができない分、経営戦略は限られる。経営者としては、リスクを最小に抑えて利益を出さなくてはならない。
 このクリニックを和彦に持たせてくれた男は、クリニック経営にあまり夢中になるなよと、笑いながら言っていたが――。
 和彦は前髪に指を差し込みながら、天井を見上げる。すでにこのクリニックに愛着を持っているが、ときおりふと、ヤクザに望 まれるままのママゴトをしているような、妙に空しい気持ちにもなるのだ。その空しさは、目を背けたい現実を和彦に突きつけて くる。
 一方で、地味で手堅い利益を追い求めるクリニック経営者なりに、ささやかな喜びも味わえるのだ。
 短く息を 吐き出した和彦は、姿勢を戻す。労働に対するささやかな慰労として、コーヒーを飲みたくなった。実はさきほどから、スタッフ の誰かが淹れたらしいコーヒーのいい香りが漂っている。
 次の予約の時間までまだ少し余裕があるため、差し入れでもらっ たマカロンをついでに味見してみようと思いながら、腰を浮かせる。そのとき、デスクの引き出しに入れてある携帯電話が鳴った。
 長嶺組の誰かだろうと見当をつけ、スタッフの姿が診察室にないことを確認してから電話に出る。
『――仕事中すまな い。今、話して大丈夫かね?』
 太く艶のある声を聞いた瞬間、賢吾かと思った和彦だが、すぐに口調が違うことに気づく。 本能的に感じるものがあり、ゾクリと身震いしていた。
「は、い」
 緊張と怯えで声が掠れる。すると、低い笑い声が耳 に届いた。
『そう、緊張しないでくれ、先生。いくらわしでも、電話越しに取って食ったりしない』
「そんなことは……」
 普通の人間が言えば単なる冗談だが、電話の向こうにいるのは総和会会長である長嶺守光だ。誰が言うより、重みと、底冷 えするような怖さがある。お茶と食事をともにした程度では、緊張せずに会話を交わすのは不可能だった。
 守光に気づかれ ないよう、慎重に深呼吸した和彦だが、すぐにまた息を詰めることになる。
『あんたを今晩、うちに呼びたいと思っている。 もちろん長嶺の本宅ではなく、総和会会長宅のほうだ。総和会本部という言い方もあるが、まあ、あんたにとってはどちらでもい いだろう』
 和彦は一度はイスに座り直そうとしたが、落ち着かなくて、結局立ち上がる。
「……どうして、ぼくを……?」
『総和会をひどく怖がっているあんたに、どういった組織なのか、少しでも知ってもらいたくてな。何より、わしに慣れても らいたい。すでにもう、長嶺の身内となっているんだ。顔を合わせるたびに怯えられてはかなわん。――この先、長いつき合いに なるんだ』
 最後の言葉にだけ、わずかに力が込められる。診察室をうろうろと歩き回りながら和彦は、どう答えるべきな のか考える。
 総和会は得体が知れないし、守光も掴み所がない。だからこそ怖いし、先日鷹津からされた、総和会に深入 りするなという忠告が耳の奥に残っていた。
 だが、総和会からの仕事を引き受けている限り、それ は無理だろう。もっと上手い立ち回り方があるのかもしれないが、少なくとも和彦には考えつかない。それに、守光を怖いと感じ てはいるが、嫌悪感を抱いているわけではない。ただ、存在感と肩書きに圧倒されるのだ。
 ためらう和彦に苛立った様子も なく、それどころか余裕すら感じさせる口ぶりで守光は続ける。
『本当ならもっと早くに、わしらにとって大事な先生を招待 したかったんだが、賢吾のほうが慎重でな。その点では、千尋は単純だ。大事な先生を一刻も早くわしに紹介して、一層囲い込み たいと思っていたようだ。……子供の執着心というのは、分別のつく大人より性質が悪くて頑迷だと、あれを見ているとよく思う。 ただ、それがあったからこそ、長嶺の男たちは、先生と知り合えたとも言えるんだが』
 守光の言葉に下手な相槌は打てない が、千尋と知り合ったことですべてが始まったのは事実だ。和彦はつい苦い笑みを洩らす。
『時間は要したが、年が明けてか ら状況が変わった。すでにもう二回、わしとあんたは顔を合わせて、会話も交わしている。わしとしては、息子と孫の大事な人に 対して、十分敬意は払ったつもりだ』
「それは、ええ……。過分なほど気をつかっていただいたと思っています」
『そう、 畏まらなくていい。――あんたは、何もかもが、千尋の母親とは対照的だな。一番の違いが性別というのは、皮肉な話だが……』
 守光は、和彦の気持ちを巧みに刺激する。聞き流せない話題を、さりげなく耳元に吹き込んできたのだ。
『先生一人を 野獣の檻に放り込むのは可哀想だと言って、千尋も今晩、うちに来ることになっている。にぎやかな坊主がいれば、あんたもさほ ど緊張しなくて済むんじゃないかね』
 ここまで言われて断れるはずもない。守光の言うとおり、千尋も同席するということ で、いくらか気持ちも楽になっていた。
 あまり言い訳めいたことを口にして、守光の機嫌を損ねたくないという思いもあり、 和彦はこう答える。
「クリニックを閉めたあと、うかがいます」
『それはよかった。手土産なんてことは考えず、身一つ で来てくれたらいい』
 電話を切ったあと、自分の肩がひどく強張っていることに和彦は気づく。肩をゆっくりと揉みながら 無意識に口を突いて出たのは、困惑による唸り声だった。
 年が明けてから、総和会――というより守光からの急接近ぶりは、 さすがに何かの前触れを感じさせる。
 例えば、波乱のようなものを。


 総和会のオフィスについて、かつて中嶋から、簡単ではあるが説明を受けたことがあった。
 カムフラージュのために総和 会と名乗っているオフィスと、表向きは違う看板をかけて、ビジネス街のビルの中で何食わぬ顔をして業務を行っているオフィス があると。もちろん和彦は、そういった場所に足を運んだことはない。医者として、総和会の息がかかった場所に出向き治療を行 ってはきたが、そこから総和会という組織の内を知ることはできなかった。
 だが、今晩は違う。
 和彦はシートの上で 慎重に身じろいで、ウィンドーから外の様子をうかがう。さきほどから車は住宅街を走っており、夕方とはいえすでに辺りは薄暗 く、街灯が点り始めている。帰宅途中の高校生らしき姿も見え、ここがごく普通の場所なのだと教えてくれる。
 そんな場所 に溶け込むように、総和会会長宅はあった。
 車がスピードを落とし、四階建てのマンションの前で停まる。立派な作りのア プローチにはスーツ姿の男が立っており、車に歩み寄ると、実に滑らかな動作で後部座席のドアを開けた。
「いらっしゃいま せ、佐伯先生」
 仰々しい出迎えに臆しながらも和彦は車から降りる。そして、改めてマンションを見上げた。豪奢と表現で きる外観だった。
 二階から、まるで舞台のように迫り出しているのは、広いテラスなのだろうかと考えている背後で、ド アが閉まる音がする。振り返ると、和彦が乗ってきた車が走り去るところだった。
 促されるままエントランスホールに足を 踏み入れると、心細さに加え、奇妙な違和感と圧迫感に襲われる。
 足元は絨毯敷きとなっており、壁も天井も木目調のタイ ルで覆われ、暖かなオレンジ色の照明を反射している。全体として柔らかな印象を受けるが、よく見ると、エントランスの数か所 に監視カメラが取り付けられている。住人や来客に応対するためのものか、カウンターが設置されてはいるものの、人がいないど ころか、何も置いていないのも、なんだか不思議だ。
 それに、中に入って気づいたが、手入れされた外の植木が巧みな衝立 となって、エントランスホールの様子を外からうかがわせないようになっている。
 まだ探せば、いろいろと発見がありそう だ。和彦はそんなことを思いながら、注意深く辺りを見回す。
 ふいに、エレベーターホールに通じる自動ドアが開き、千尋 が姿を見せた。和彦を見るなりパッと表情を輝かせ、その顔を見て和彦は小さく安堵の吐息を洩らす。
「先生、待ってたよっ」
 駆け寄ってきた千尋にいきなり腕を取られて引っ張られる。
「千尋っ――」
「なんか新鮮だなー。先生を、じいち ゃんの家で出迎えるなんて」
 千尋の言葉に、和彦は軽く目を見開く。ちょうどエレベーターの前で立ち止まったところで、 やっと疑問をぶつけることができた。
「……つまりこのマンション全部が、会長の家、なのか……?」
「ここ、実はマン ションじゃないんだよね」
 千尋に恭しく手で示され、エレベーターに乗り込む。
「元は、ある企業が税金対策で造った 社員の研修施設。景気がいいときに造ったらしいんだけど、そのあとは業績悪化というやつで、ここを手放すことになったんだ。 で、売却の話を持ち込まれたのが、じいちゃんってわけ」
「それで、買ったのか?」
「じいちゃんの家だと思うと立派す ぎるけど、総和会本部だと考えるとぴったりだろ。実際、じいちゃんが住んでるのは四階で、それ以外の階は、総和会の人間が常 に行き来している。――総和会のオフィスは別にあるけど、ここは長嶺守光の息がかかった人間だけが、出入りを許される」
 ちらりとこちらを見た千尋の目は、強い光を放っている。したたかで好戦的な眼差しは、まるで獣のようだ。ただし、恐ろしく 血統がいい、という前置きがつく。
 総和会会長の権力を具現化したようなこの場所で、千尋は普段とは違う面を見せている ようだ。地べたを這いずり回ったり、修羅場をくぐったという血生臭さがないせいか、無邪気なほど傲慢な存在感を放っている。 それが魅力になりうるのは、やはり長嶺の血のせいかもしれない。
「――先生」
 いつの間にかエレベーターは四階に到 着し、千尋が開いた扉を押さえている。我に返った和彦は慌ててエレベーターを降りた。
 正面は、ソファやテーブルが置か れたラウンジとなっており、左右に廊下が伸びている。千尋を見ると、左側を指さした。
「こっちがじいちゃんの住居。ちな みに右は、来客用の宿泊室が並んでる。元は研修施設だけあって、ホテルみたいな部屋が他の階にもあるんだ。あまり大規模な改 装工事はしなかったから、大浴場も食堂もそのまま残ってる。あと、地下にはジムもプールもあるよ。裏には、テニスコートもあ るし」
「……基地みたいだ」
 和彦が率直な感想を洩らすと、千尋はニヤリと笑った。
「そうだよ。ここは、総和会 という組織の中にある、じいちゃんの基地だ。そしてその基地に、先生は招待された」
 廊下の突き当たりにあるドアを千尋 が開けると、そこが玄関だった。
「先生、どうぞ」
「あっ、ああ。……お邪魔します」
 靴を脱ぎ、千尋のあとにつ いて廊下を歩く。見る限り、守光の住居は広くはあるが、華美さのない落ち着いた空間だった。元は研修施設だったというこの建 物の中で、ここは手を入れ、普通の住宅らしくしたのかもしれない。
「こんな広い場所に、会長は一人で?」
「長嶺の男 に、〈女〉はついていけないのかもね。俺のお袋もそうだけどさ、ばあちゃんも、若いときはぶっ飛んでたじいちゃんから逃げ出 した――という話をオヤジから聞かされた。本当はじいちゃんが捨てたのかもしれないけど。なんにしてもじいちゃんも、オヤジ と似たタイプだよ。一人とは長続きしないし、大事な場所に簡単に他人を招き入れない。だけど一度気に入ると……、大変だ」
 千尋が意味ありげな眼差しを向けてきたので、和彦は露骨に視線を逸らす。そこまで聞いてないだろと、心の中でささやかに言 い返しながら。
「ヤクザの大物っていう怖い面も持ってるし、食えない性格のうえに、ちょっと意地の悪いクセのあるジジイ だけど、俺が尊敬している人でもあるんだ。だから先生、家族みたいにつき合ってよ。なんなら、老人介護とでも思ってさ」
 遠慮なく好き勝手を言う千尋の背後で、スッと襖が開く。姿を見せたのは、寛いだ服装の守光だった。目を見開く和彦の前で、 守光が千尋の頭を軽く叩いた。
「口の悪いガキだ」
 大げさに首をすくめた千尋が、負けじと守光に言い返す。
「可 愛い孫の愛情表現ぐらい、笑って受け止めてよ、じいちゃん」
「わしの孫は、甘ったれの悪ガキしかおらんと思ったが――」
 千尋と並ぶ守光を見て改めて、本当に上背があるのだと実感する。若くしなやかな獣のような千尋と比べて、漲るような生 命力とはまったく異質の、気圧されるような静かな迫力が守光には宿っている。それは、千尋の持つ力よりもよほど強力だ。
 祖父・孫ともに顔立ちが整っているのは長嶺の血のおかげなのだろうかと、頭の中で賢吾の顔も思い描きながら、和彦が二人の 顔を交互に見つめていると、ふいに守光と目が合った。
 向けられた眼差しの鋭さに和彦は一瞬息を止めてから、頭を下げる。
「……お招きいただき、ありがとうございます」
「ああ、そんな堅苦しい挨拶は抜きでいい。ここにいる間は、それこそ わしは単なる『ジジイ』だ。緊張なんぞせず、寛いでくれ」
 そう言って守光が襖をさらに開け、部屋へと招き入れてくれる。 畳敷きの部屋の中央には、コタツが置かれていた。天板の上にはすでに夕食の準備が調えられており、美味しそうな音を立ててす き焼きが煮えている。
 ふっとこの瞬間、先日三田村と食べた鍋を思い出し、胸苦しくなった。
 千尋に背を押され、和 彦は部屋に入る。長嶺の男二人に急き立てられるようにコートとジャケットを脱ぐと、素早く千尋に奪い取られてから座椅子に座 らされた。守光に言われるままコタツに足を入れたところでもう、立ち上がることを許されない空気となる。
「千尋、冷蔵庫 からビールを出してきてくれ。それと、お茶もな」
 守光の言葉を受けて、千尋は一旦部屋を出て、ペットボトルのお茶と缶 ビールを抱えて戻ってきた。
「じいちゃん、冷蔵庫のビールだけじゃ足りそうにないから、俺ちょっと、食堂から取ってくる」
 背筋を伸ばし体を強張らせながら和彦は、二人のやり取りを聞く。今の会話の内容だけなら、本当にごく普通の祖父と孫だ。 いや、本人たちにとっては、長嶺組や総和会ということは、意識するまでもない日常であり、普通のことなのだろう。
 この 世界にいる限り、一般的だとか普通だとか、そういったものと比較するのはやめるべきなのかもしれないと、和彦は自省する。
 千尋が慌しくまた部屋を出ていき、玄関のドアが閉まる音がした。その途端、二人きりとなった部屋は静まり返った。
 守 光が何も言わず、和彦の斜め右に座る。こうして近くにいて目も合わせないのは不自然なので、伏せがちだった視線を上げると、 守光はすでに和彦を見ていた。
 総和会という大組織の会長と、こうして一緒にコタツに入るというのも、奇妙な感じだった。 相変わらず緊張もしているのだが、少しだけおかしくなってくる。和彦はちらりと笑みをこぼし、守光も目元を和らげた。
「……普段はコタツは出していないんだが、このほうが、膝を突き合わせてゆっくり話せるかと思ってな。少なくとも、料亭の座 敷よりは、座り心地はいいだろう?」
 冗談っぽく言われ、和彦としては苦笑で返すしかない。
「にぎやかな千尋がいる だけで、ずいぶん違います」
 ここで、空いている斜め左と正面の席に視線を向ける。斜め左の席には食器と座椅子を置いて あるので、千尋が座るのだろう。しかし正面の席には何も置いていない。
 和彦は思いきって尋ねた。
「……賢吾さんは 来ないのですか?」
「賢吾は、あまりここに近寄らない。わしは総和会会長、賢吾は長嶺組組長という立場にいる以上、ただ 立ち話をするだけでも、そこに意味を求める人間はいる。邪推や勘繰りという類のものだ。それが疎ましいのだろう。あいつは、 雑多な集団である総和会に、いろいろと思うところがあるようだ」
「いろいろ、ですか……」
「蛇を背負っているだけあ って、賢吾は用心深い。完璧な統制を好む性質だからこそ、十一の組から集まった人間がたむろする総和会が、自分には合わない と感じているのかもしれない。だが、そろそろ総和会という環境に慣れてもらわんと――」
 話しながら守光が缶ビールを軽 く掲げて見せたので、意図を察した和彦は反射的にグラスを取り、ビールを注いでもらう。そこに、慌しい物音を立てて千尋が戻 ってきた。
「乾杯、まだしてないよね?」
 勢い込んで問いかけてきた千尋に、守光が笑みを浮かべる。穏やかさと鋭さ の同居した、不思議な――魅力的ともいえる表情だ。
「落ち着きがない。二十歳を過ぎたら、少しは子供っぽさが抜けると思 っていたんだがな」
「オヤジなんて、四十半ばになっても、いまだにガキみたいなとこあるじゃん。それに比べたら、俺なん てまだ大人だね」
「……誰に似たのか知らんが、減らず口が」
 守光の小言は耳から素通りしているのか、千尋は上機嫌 といった面持ちでコタツに入り、さっそく和彦に向けてグラスを差し出してくる。にんまりと笑いかけられ、つられて和彦も顔を 綻ばせながら、ビールを注いでやった。もちろん、守光のグラスにも。
 千尋と賢吾とともに過ごすことには慣れている和彦 だが、さすがに今晩は勝手が違う。千尋はともかく、今傍らにいるのは、賢吾よりさらに怖い男だ。
 和彦はグラスに口をつ けながら、ちらりと守光を見る。千尋と楽しげに話す様子は穏やかで優しげだが、身の内には、きっと獰猛な何かが潜んでいる。
 長嶺の男二人の〈オンナ〉にされた和彦だからこそ、肌で感じるものがあるのだ。


 妙なことになったと、畳の上に座った和彦は軽く困惑しつつ、浴衣の衿を直す。そして改めて、室内を見回す。
 まるで旅 館の客室のような部屋で、必要なものは過不足なく揃っていた。しかも、和彦が入浴をしている間に、抜かりなく布団も敷かれて しまった。まさに、もてなす気満々といった感じだ。
 それが悪いとは言わないが、素直に好意に甘えるには、少々抵抗があ った。なんといってもこの部屋は――。
 和彦はまだ半乾きの髪を指で軽く梳いてから、ため息をつく。同じ屋根の下に総和 会会長がいるのかと思うと、やはりどうしても寛げない。
 夕食をともにしたあと、コーヒーを飲みつつ世間話をしたまでは よかったのだ。ただ、あまり遅くならないうちにお暇を、と和彦が切り出したとき、即座に守光から提案された。
 ぜひ、泊 まっていってくれと。
 乗り気の千尋と二人がかりで説得されて、嫌と言えるはずもない。遠慮の言葉すら口にできず、和彦 は頷いていた。その結果が、総和会会長宅の客間で一人、所在なく座り込んでいるこの状況だ。
 自分の立場の微妙さもあり、 和彦はいまだに、守光とどう接すればいいのかわからない。かけられる言葉に甘え、打ち解けて見せた途端、何か恐ろしい獣が牙 を剥きそうな本能的な怯えが拭えないのだ。
 この状態で眠れるのだろうかと、もう一度ため息をつこうとした瞬間、視界の 隅に鮮やかな色彩を捉えて、和彦はドキリとする。何かと思えば、床の間に掛けられた掛け軸だ。
 派手な装飾品のない客間 の中、この掛け軸は鮮烈な存在感を放っていた。描かれているのは、鎧を身につけた若武者が、栗毛の馬に跨っている姿だ。武具 や馬具には、赤や朱、金という華やかな色が惜しみなく施されているが、何より鮮やかなのは、若武者そのものだ。
 見惚れ るほど美しい顔立ちをしており、表情は凛々しい。どこかを見据える眼差しは涼しげでありながら憂いを含んでおり、それが妙に 艶かしい。
 描かれたのはそう昔ではないだろう。作風は現代のものに近いと、美術に疎い和彦でも判断できる。
 もっ と近くで見たくて、床の間に這い寄ろうとしたとき、突然背後から声をかけられた。
「――賢吾が生まれたときに、端午の節 句に飾ってやろうと思って買い求めたものだ」
 ビクリと肩を震わせて和彦が振り返ると、いつの間にか襖が開き、守光が立 っていた。慌てて正座をすると、ふっと守光の眼差しが柔らかくなる。
「いい画なんだが、男の子の成長を祝う日に飾るにし ては……色気がありすぎる。若武者の顔立ちが整いすぎているんだろうな。姿は勇ましいはずなのに、眺めていると胸がざわつい てくる。ただ気に入ってはいるんで、季節に関係なく、ときどき箱から出しては掛けているんだ」
「そうなんですか……」
「どことなく、あんたに似ている」
 思いがけない言葉に、和彦は大きく目を見開く。守光は口元に薄い笑みを浮かべながら も、こちらを見る眼差しは心の中すら見通してしまいそうなほど、鋭い。忘れているつもりはなかったが、眼差し一つで、長嶺守 光という男の怖さを思い知らされたようだ。
 和彦を丁寧に扱ってくれるのは、決して守光が穏やかで優しい人物だからでは ない。和彦が、力を見せつけるほどの存在ではなく、容易に押さえ込めると知っているからだ。和彦にしても、反抗や抵抗を示す つもりはなかった。ただ、丁寧に扱われることに身を任せるだけだ。
 本当に和彦の心の内を見通したのか、目を細めた守光 がこう言った。
「あんたは本当に、力に敏感だな。頭のいい証拠だ」
「……そんなこと……」
「賢吾に対して、あん たは巧く身を委ねた。なら、わしに対しては、どこまで巧く身を委ねられるか――」
 意味ありげに言葉を切られ、和彦は急 に不安に襲われる。守光は何事もなかったように、今度は目元まで和らげて笑った。
「四階は自由に行き来していいし、欲し いものがあれば、二階の連絡所に内線をかけたら、誰かがすぐに届けてくれる。あんたは、わしの大事な客だ。何も遠慮しなくて いい」
「ありがとうございます」
 頷いた守光が襖を閉めようとして、ふと動きを止める。何事かと思えば、守光の視線 は掛け軸に向けられていた。つられて和彦も、再び掛け軸を見る。
「――この部屋で寝ると、変わった夢を見られるかもしれ ない。掛け軸の中の若武者が添い寝してくれる夢とかな……」
 賢吾に似た低く艶のある声は、冗談を言っている声音ではな かった。体を内側から撫で回されたような感覚に襲われ、和彦は小さく身震いする。
 ゆっくりと振り返ったとき、すでに襖 は閉められ、守光の姿はなかった。この瞬間、和彦は思った。制止を振り切ってでも、帰宅するべきではなかったのか、と。


 総和会会長宅に泊まっているという緊張感からか、この夜の和彦はなかなか寝付けなかった。
 何度目かの寝返りを打ち、 視線はつい、吸い寄せられるように掛け軸へと向く。守光に妙なことを言われたから、というわけではないが、横になってからも、 どうしても気になってしまうのだ。
 障子を通して、微かな月明かりが入り込んでいるが、それも室内すべてを照らし出すほ どではない。じっと目を凝らして、ぼんやりと浮かび上がる掛け軸をなんとか捉えることができるぐらいだ。
 見つめ続けていると、艶かしい若武者に、目だけでなく、魂まで吸い寄せられそうな感覚に襲われる。どこか妖しさを帯びた感 覚だ。
 やはり千尋にこの部屋で寝てもらえばよかったかなと、少しだけ和彦は後悔する。
 実は横になる前まで千尋は この部屋にいて、いつもと変わらず和彦にじゃれつくどころか、隣に寝るつもりで布団を運び込む気だったのだ。守光の手前、さ すがにそれは勘弁してくれと頼み、なんとか別室に引っ込んでもらった。
 子供でもあるまいし、床の間に掛けられた掛け軸 が気になるから、やはり隣で寝てほしいと、口が裂けても言えるはずがない。気にはなりつつも、和彦は一人でこの部屋で眠るし かなかった。
 掛け軸の若武者が怖いわけではないと、心の中で呟く。むしろ怖いのは――。
 体を横向きにした和彦の 背後で、何かが動く気配がした。まるで影が這い寄るように静かに、大きな獣のような威圧感を放ちながら。
 金縛りにあっ たように体が動かなくなった。本能的に、振り返ってはいけないと理解したのだ。
 気のせいではない証拠に、布団と毛布が ゆっくりと捲られ、浴衣に包まれた体がひんやりとした空気に撫でられる。恐怖と寒さ、そしてそれ以外の〈何か〉によって、一 気に鳥肌が立った。だが、やはり体は動かない。
 ふわりと頬に柔らかく滑らかな感触が触れたと思ったとき、和彦の視界は 遮断された。薄い布が顔にかけられたのだ。そして肩を掴まれて、仰向けにされた。
 混乱して取り乱すべきなのだろうが、 真夜中の侵入者の静かな気配に完全に呑まれてしまい、指一本動かすことができない。そんな和彦を刺激しないよう、侵入者は悠 然と、しかし慎重に覆い被さってきた。
 布越しに、人影が動く様子は微かに見て取れるが、何をしようとしているかまでは わからない。動揺から、浅く速い呼吸を繰り返している間に、両手首を掴まれて頭上で押さえつけられる。紐のようなものが手首 に巻かれていくのを感じながら和彦は、もともと抵抗する気はなかったが、体から力を抜いた。
 長嶺組の組員たちに拉致さ れ、賢吾と引き合わされたときのことを思い出したが、あのときと決定的に違うのは、今、和彦に覆い被さっている相手は、和彦 を力で押さえつけるつもりはないということだ。両手首を紐で拘束されはしたが、結び方が緩いのか、簡単に解けそうだ。
  抵抗して逃げ出したければ、そうすればいい。相手の行為は、そう言っていた。
 顔を左右に動かせば、布をずらして相手の 顔を見ることも可能だ。どうするかは、和彦に選べというのだ。
 浴衣の帯が解かれ、前を開かれる。躊躇なく下着も引き下 ろされて脱がされた。和彦が動かないでいると、腹部から胸元にかけてひんやりとした指先が何度も這わされる。体つきを確かめ ているというより、自分の存在そのものを探っているような指の動きだと和彦は思った。
 冷たく硬い感触のてのひらに肌を 撫で回されているうちに、両足を広げられ、中心をまさぐられる。
「んうっ」
 怯えている和彦の欲望が、柔らかく握り 込まれる。さすがに大きく体を震わせて、無意識のうちに腰を浮かせていたが、両手を動かすところまではいかない。自分に覆い 被さっている存在に触れるのが怖かった。何より、正体を知るのが怖かった。
 欲望を握った手が緩やかに上下に動き始め、 和彦は息を詰めて、与えられる感触に耐える。不快とか心地いいとか、そんなことを感じる余裕すらない。ただ、相手が望むまま に体に触れさせるだけだ。
 もう片方の手が再び胸元を撫でていたが、和彦のささやかな変化を知ったらしい。指先に胸の突 起を探り当てられ、転がすように刺激される。硬く凝った突起は、今のところ和彦の体の中で一番敏感だ。強く指先で摘み上げら れ、爪の先で弄られたとき、震える吐息をこぼしていた。
 相手は、和彦の体に触れ、反応が返ってくることを楽しんでいる ようだった。和彦の体は、そんな相手に無反応ではいられない。
 時間をかけて緩やかに扱かれ続けている欲望は、相手のて のひらの中で次第に熱を帯び、おずおずと形を変え始めている。腰にじわりと広がっていく痺れるような感覚に、和彦は困惑する。 それが、快感の前触れだとよく知っているからだ。
 ここで、和彦の体をまさぐっていた手がふっと離れ、布越しに見ていた 影が大きく動く。何をしているのかと思って目を凝らしていると、いきなり視界がいくらか明るくなった。どうやら、布団の傍ら に置いてあるライトをつけたようだ。ただ、明るさを最小に絞ってあるせいか、顔にかけられた布の色すら判別できない。
  それでも相手にとっては、和彦の体の反応をつぶさに観察するには困らない明るさなのだろう。
 身を起こした和彦の欲望の 輪郭を指先でなぞったかと思うと、先端を擦り上げられる。このときの滑る感触で、自分がすでに先端を濡らしていることを知り、 和彦は体を熱くする。そんな和彦を煽るように、さらに愛撫を与えられる。弄んでいるとも、可愛がっているともいえる手つきで。
 否応なく和彦の呼吸は乱れ、意思に反して腰が揺れる。すると、相手の興味は別の場所に移ったのか、片足を抱え上げられ た。秘裂をくすぐるように指先が行き来し、内奥の入り口を探り当てられる。
 さすがに飛び起きようとした和彦だが、相手 のほうが上手だった。秘裂に、トロリと何かが垂らされ、滑りを帯びた感触に和彦は身をすくめて動けなくなる。一瞬、唾液かと も思ったが、塗り込めるように秘裂に指を滑らされると、それが潤滑剤だとわかる。
「ふっ……」
 予期した通り、内奥 の入り口をこじ開けるようにして指が入り込んできた。異物感に呻き声を洩らしていると、それに重なるように、内奥の襞と粘膜 に潤滑剤を擦り込んでいく湿った音が重なる。
 ねっとりと内奥を撫で回されてから、指が引き抜かれる。和彦は息を喘がせ ながら、同時に内奥の入り口も喘ぐようにひくつかせる。こんな状況にありながらも和彦の体は、与えられる愛撫に順応し、受け 入れつつあった。
 虐げられ、痛みを与えられれば、悲鳴ぐらい簡単に上げられるのだが、相手からは一切加虐的なものは感 じられない。冷静に的確に和彦の体を探り、官能を引き出していくだけだ。
 慎重に内奥を解されながら、施される潤滑剤の 量が増やされる。比例するように、指が出し入れされるたびに響く湿った音は大きくなり、淫靡さを増していく。同時に、否応な く内奥から快感を引き出されていた。
 付け根まで挿入された指が、内奥深くで淫らに蠢く。繊細な動きに、たまらず和彦は 細い声を上げていた。
「はっ、あっ、あぁっ――」
 襞を掻かれ、粘膜を撫で上げられると、狂おしいほどの肉の愉悦が 全身を巡る。
 溢れ出るほどたっぷりの潤滑剤を内奥に施される頃には、敷布団の上で身悶え続けた和彦は全身を汗で濡らし、 浅く速かった呼吸は、大きく深いものへと変わっていた。いつの間にか、両手首を縛っていた紐も解けている。だが、相手は紐を 結び直そうとはしなかった。必要ないと知っているのだ。
 和彦は、布越しにぼんやりと透ける相手の姿を見つめる。両手が 自由な今、布を取って相手の顔を確認するのは容易だ。しかし、手を持ち上げることはできない。
 どれだけ快感に思考が侵 されようが、それだけはやってはいけないと本能が制止していた。なんといっても和彦は、自分が逆らえない力に対して巧く身を 委ねることで、今いる世界を生きている。相手も、和彦がどんな判断をするか計算の上で、こんなことをしている。
 目的を 持って――。
 両足を抱え上げられ、大きく左右に開かれる。和彦は両手でしっかりと、敷布団の端を握り締めていた。
 たっぷり与えられた潤滑剤と刺激で、はしたないほど綻んだ内奥の入り口に熱い感触が押し当てられる。嫌悪とも恐怖ともつか ない感情に突き動かされ、逃げ出したくなった。
 その瞬間、この家の主に言われたことが脳裏を過る。掛け軸の若武者が添 い寝をしてくれるかもしれない、という言葉だ。今にして、あれが冗談ではなかったのだと知る。
 和彦が布越しに見ている のは、胸をざわつかせるほど美しい若武者の姿だ。
 そう思い込むことを、和彦は求められているのだ。
 言葉の深意が、 この異常な事態を受け入れさせる気遣いのためなのか、従順さを試すためなのか、それは知りようがないが、なんにしても和彦の 体はあさましいほど反応してしまう。
 火がついたように激しい欲情が燃え上がり、煩悶する。そんな和彦の体を敷布団の上 に縫い止めるように、潤滑剤で潤んだ内奥を押し開かれた。
「うっ、ううっ――……」
 感じやすくなっている襞と粘膜 を強く擦り上げられ、あまりの刺激に一瞬和彦の意識が遠のく。我に返ったとき、下腹部が濡れている感触に気づいた。絶頂に達 し、精を噴き上げたのだ。
 荒い呼吸を繰り返しながら和彦は、完全に相手に支配される。内奥深くに欲望を呑み込まされて しっかりと繋がっていた。
 不思議なほど、組み敷かれて犯されているという意識は湧かなかった。恐怖や羞恥といった感情 も薄れ、夢の中で交わっているような現実感のなさだ。そのくせ、体ははっきりと相手の欲望を感じている。
 同時に耳は、 乱れることのない、深く落ち着いた息遣いを聞いていた。ただ、相手は一切言葉を発しなかった。和彦に、必要以上の情報を与え る気はないらしい。
「あっ……ん」
 内奥にしっかりと埋め込まれ、興奮による淫らな蠢動を堪能するように動かなかっ た欲望が、ふいに揺れる。完全に虚をつかれた和彦は、上擦った声を上げて身悶える。
 誤魔化しようがなかった。正体の知 れない相手に貫かれて、和彦の体は快感を貪り始めていた。
 ゆっくりと内奥を突き上げられながら、和彦は布越しに相手を 見つめる。目を凝らせば、相手の顔を捉えられるぐらい距離が近い。和彦はそこに若武者の美しい顔を重ね、決して相手にしがみ つかないよう、必死に頭上の枕を握り締める。
 繋がってはいるものの、触れ合うことのない交わりは、和彦から時間の感覚 を奪っていた。
 激しさとは無縁の律動を、丹念にゆっくりと繰り返されたかと思うと、ふいに動きが止まる。その代わり、 和彦の体に両てのひらが這わされ、じっくりと撫で回されるのだ。よがり狂って甲高い嬌声を上げるほどではないが、律動と愛撫 を交互に与えられるのは、拷問に近い。
 和彦はずっと息を喘がせていた。何時間も甘い責め苦を与えられているような錯覚 を覚え、悦楽に溺れていると思った。少し前に、二度目の絶頂を迎えて精を放ったというのに、もう和彦のものは身を起こし、相 手の手に弄ばれている。
「……も、う……、許して、ください――」
 たまらず掠れた声で訴えると、内奥深くを小刻み に突かれ、腰から背筋へと痺れるような快感が這い上がる。
 背を反らして深い吐息を洩らした和彦は、はっきりと感じてい た。相手の精が、内奥に注ぎ込まれる感触を。
 その瞬間、恍惚とするほどの絶頂感が、和彦の体を駆け抜けた。









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