と束縛と


- 第18話(4) -


 重い瞼をなんとか持ち上げると、床の間の掛け軸が目に入った。
 布団の中で大きく体を震わせた和彦は、朝の陽射しが差し込んでくる中で、じっと掛け軸の若武者を見つめる。意識が朦朧としながらも、若武者の美しい顔をずっと見ていた気がして、夢と現実の区別がまだ曖昧だ。
 それでも、夜中、自分の身に何が起こったのかは記憶にある。はしたない夢を見てしまったと、ほんのわずかな間、羞恥に苛まれたりもしたのだが、内奥に残る疼痛や全身のけだるさは、否が応でも現実を和彦に突きつけてくる。
 急に居たたまれない気分になって体を起こすと、下肢に明らかな違和感が残っている。行為の後どうやって後始末をされ、浴衣を直されたのかを思い出し、あっという間に全身が熱くなってくる。
 何げなく枕元に視線を向けると、見覚えのない男性物らしきスカーフがあった。
 深みのある紫色のスカーフに触れた和彦は、滑らかな手触りにゾクリと身を震わせる。寒いわけではなく、体の奥から疼きが湧き起こったからだ。間違いなく、行為の間ずっと顔にかけられていたものだった。
 和彦は口元を手で覆いながら、夜の間の出来事をゆっくりと思い返す。自然に視線は、再び掛け軸へと向いていた。
 どうすればいいのだろうか――。
 そう自問しながらも、反面、考えたくないという思いもあった。貪欲なほど何もかもを自分の中で呑み込み、感情と理屈の折り合いをつけてきた和彦だが、さすがに〈これ〉は、処理が追いつかない。誰かに手助けしてもらわないと。
 ひとまず、体に残る生々しい感触をどうにかしたかった。和彦はふらつきながら立ち上がると、自分の服を抱えて客間を出る。廊下に人気がないことを確かめて、足音を殺しながらバスルームに向かった。
 シャワーを浴びながら、下肢に残る潤滑剤と、内奥に残された精をできる限り指で掻き出す。惨めさよりも、とにかく羞恥を刺激される作業だ。
 体中にてのひらと指先が這わされ、内奥深くすら丹念に探られたが、和彦に覆い被さってきた相手は、唇と舌で触れてくることはなかった。そのため肌には、愛撫の痕跡が一切残っていない。唯一、淫らな行為があったことを示すのは、内奥に残る疼痛だけだ。これさえ、今日中に曖昧な感覚を残すだけになるだろう。
 そして記憶だけが、きっと和彦を苛むのだ。
 ワイシャツとスラックスを身につけてバスルームを出ると、タオルを手に客間に戻ろうとしたが、話し声が聞こえて足を止める。低く響く声の主を即座に守光だと判断して、心臓の鼓動が速くなっていた。
 気づかなかったふりをして、黙って客間に戻ろうともしたが、どうせすぐに顔を合わせることになるのだ。そう思い直した和彦は、廊下を引き返す。
 話し声がするダイニングを覗いた途端、目の前の光景に仰け反りそうになった。
 てっきり、守光と千尋がいるのだと思ったが、それは間違いであり、正解でもあった。二人の他に、なぜか賢吾までいたのだ。
 スーツ姿の賢吾が、着物姿の守光に話しかけており、起きたばかりなのか、スウェットの上下を着た千尋がそんな二人の傍らに立っている。長嶺の男が三人揃ったところを見たのは、初めてだった。
 それぞれが強烈な個性を持ち、人を惹きつける魅力を持っているだけに、並び立つ姿は、壮観とも言える。この男たちがどれだけ性質が悪くて怖い存在かわかっているつもりの和彦だが、それでもやはり、目が離せない。
 寝癖のついた髪を乱雑に掻き上げていた千尋が、ふいにこちらを見る。和彦に気づき、まだ寝ぼけていた顔がパッと輝いた。すると、賢吾と守光までもが、揃ってこちらを見る。
 すっかり長嶺の男たちに圧倒されていた和彦は、咄嗟に声が出ない。一人でうろたえていると、まず守光が声をかけてきた。
「――よく寝られたかな、先生」
 低い声に背を撫で上げられたような錯覚を覚え、胸の奥が妖しくざわつく。和彦は懸命に平静を取り繕い、頷いた。
「おはようございます……。はい、ゆっくり休めました」
 次に声をかけてきたのは賢吾だった。
「そのわりには、疲れた顔をしてるな、先生」
「そんなことっ……」
「遅くまでつき合わされたんだろ。迷惑なら、はっきり言っておかないと、どこまでも図々しくなるぞ、このじいさんは」
「オヤジも、じいちゃんのことは言えないけどな」
 すかさず茶々を入れたのは千尋だ。和彦としては、迂闊に相槌も打てない会話で、ぎこちなく苦笑いを浮かべるしかない。このとき、何げなく賢吾と目が合い、頭に浮かんだ疑問を率直にぶつけた。
「……どうして、ここに?」
 賢吾はわずかに目を細めると、当たり前のように言った。
「先生を迎えにきた。朝早くから、長嶺組組長のこの俺が」
「下で、うちの者たちが騒然となっていたぞ。お前がここに足を運ぶなんて、滅多にないからな。来るのは歓迎だが、せめて事前に連絡ぐらいしろ」
「だったら俺も言わせてもらうぞ。――勝手に俺の〈オンナ〉を連れ出すな」
 威嚇するように賢吾が低い声を発する。普通の人間なら、何かしら危険なものを感じて体が強張るだろう。和彦も例外ではなく、ビクリと身をすくめる。だが、さすがというべきか、守光は楽しげに口元を緩めている。千尋のほうは、巻き込まれたくないとばかりに和彦の側に寄ってきた。
「先生は、うちの組で大事にしているんだ。ジジイの茶飲みにつき合わせるぐらいなら大目に見るが、得体の知れない輩がうろついている本部に連れ込むなら、まず俺の許可を取れ」
「息子と孫が大事にしている先生を、わしの自宅に呼んだだけだ」
「それだけじゃねーから、わざわざ俺が出向いたんだ。……俺が来なかったら、素直に先生を帰す気はなかっただろ」
「どうかな」
 遠慮のないやり取りは、父子だからこそだろうが、和彦はどうしても、二人から剣呑としたものを感じ取ってしまう。賢吾が背負う大蛇と、守光が身に宿す物騒な〈何か〉が、まるで威嚇し合っているような――。
「先生、髪濡れたまんまじゃん」
 突然、千尋が緊張感のない声を上げる。ぎょっとした和彦に、千尋はにんまりと笑いかけてくる。
「あっちの部屋行こう。俺がドライヤーかけてあげるから」
「いや、自分で――」
 有無を言わせず広いリビングへと連れていかれ、ソファに座らされる。千尋は一度リビングを出て行ったが、戻ってきたとき、手にはドライヤーがあった。
「……会長と組長は、大丈夫なのか?」
 濡れた髪に温風を当ててもらいながら、和彦は背後に立つ千尋に話しかける。
「平気、平気。あの二人は、だいたいいつもあんな感じだよ。さすが父子というか、食えないところがそっくりで、自分が背負った組織が何より大事。ただし、じいちゃんのほうが……欲張りかな」
「欲張り?」
「長嶺組も大事。だけど、今、自分がトップに立っている総和会も大事。寿命なんてものがなければ、自分がずっと会長でいたいと思ってるだろうね。一方のオヤジは、どちらかというと、総和会とはあまり深く関わりたがっていない。大蛇らしく、身を潜めて慎重に見定めているのかもしれないな。総和会の将来を」
 話している間も、千尋の指はリズミカルに動く。総和会会長宅で、会長の孫に髪を乾かしてもらうというのも贅沢だ。人によっては、命知らずだと言うかもしれないが。
「じいちゃんは、オヤジを総和会の事情に巻き込みたいんだよ。というより、長嶺の血を、総和会という組織に流し込みたい――」
「いいのか。そういう内部事情を、他人のぼくに話して」
「何言ってんの。先生もう、長嶺の身内じゃん」
 一瞬息を詰めた和彦は、そっと背後を振り返る。ドライヤーを止めた千尋は、ソファの背もたれに腕を預けるようにして身を乗り出し、唇も触れ合う距離まで顔を近づけてきた。眠気を完全に払拭した目は、強い輝きを放っている。
 無邪気な子供っぽさを装ってはいるが、千尋も立派に長嶺の男だ。長嶺組や総和会に絡む話をするとき、何かしら滾るものがあるのかもしれない。
「……お前は、今の状況を楽しんでいるみたいだな」
「楽しいよ。長嶺組の跡目という立場で、オヤジとじいちゃんっていう、特別な肩書きを持つ男たちを眺めていられるんだ。多分この数年で、総和会と、総和会を取り巻く環境は変わる――というより、じいちゃんは変えるつもりだ。総和会が変わるということは、ヤクザの世界が変わるということだよ」
 どこまでが本気かわからないことを言って、千尋が首を傾げる。
「先生、なんかワクワクしない?」
「しない。ワクワクどころか、首筋が寒くなる」
 和彦の同意を得られなくて、拗ねたように千尋は唇を尖らせる。物騒なことを言ったあとで、こういう子供っぽい仕草をするのは、和彦の反応をうかがうためだ。
 本気で怖がって見せたら、千尋のほうはどんな反応を見せるのだろうかと思いながら、和彦は正面を向く。
「なんとなく、お前の気質は会長似の気がする」
「オヤジによく言われる。俺とじいちゃんは似てるから、仲がいいんだって」
「ぼくからすると、お前と組長も、十分仲がいい。……羨ましいぐらい、いい父子だ」
「そういう言い方されると、先生と、大物官僚だっていう先生の父親との関係を聞きたくなるんだけど」
 そう言って千尋は、再びドライヤーで和彦の髪を乾かし始める。タオルを弄びながら、和彦はぽつぽつと答えた。
「……ぼくと父親は、似ていると言えば、似ている。あまり褒められない部分が、そっくりかもな」
「褒められない部分って?」
「内緒」
 先日、千尋が入れるつもりの刺青の絵柄について尋ねたとき、千尋が答えた言葉をそっくりそのまま返してやる。本人もそれがわかったのか、短く声を洩らして笑った。
「意外に根に持たれてる?」
「ぼくは執念深いんだ」
 ようやく髪が乾き、ドライヤーを置いた千尋が手櫛で整えてくれる。至れり尽せりだと、口元を緩めた和彦が立ち上がろうとすると、すかさず背後から抱きつかれた。
「おい、千尋――」
「なんか先生、今朝は妙に色っぽいよね。さっき俺たちの前に姿見せたとき、ちょっとドキッとしたもん」
「何言ってるんだ……」
 千尋の嗅覚の鋭さを、和彦はよく知っている。動揺を押し隠して腕の中から抜け出そうとするが、かまわず千尋は間近から顔を覗き込んでくる。
「――長嶺の男って、結局、好みと行動が似てるのかな。気に入った人を逃がさないよう、長嶺の家に取り込んで、縛り付けようとする」
 独りごちるように言いながら、千尋が和彦の首筋に顔を寄せて、ペロリと舐め上げてきた。熱く濡れた感触に和彦は、鳥肌が立ちそうなほど強烈な疼きを感じる。
「千尋、こんなところでふざけるなっ」
「俺は、歓迎だよ。先生が、長嶺の男と深く結びついていくの。そうすることで先生は、俺たちから離れられなくなる。目に見えない形で、長嶺の血が先生の中に流れ込んでいくんだ。……じいちゃんが今、総和会に対してやっているみたいに」
 千尋の物言いは、確信しているようだった。和彦が夜、〈誰〉と深く結びついたのかということを。
 しかし和彦自身は確信を得ることを避け、瞼の裏に焼きついている、掛け軸に描かれた若武者の姿にすがっている。
「……さっきも言ったが、夜はゆっくりと休めた。お前が何を勘繰っているのか知らないが、何もなかった。ただ……、ちょっと艶かしい夢を見ただけだ」
 和彦を抱き締める千尋の腕に、わずかに力が加わる。
「その艶かしい夢って、相手がいた?」
「ああ……」
「誰?」
「客間に行ってこい。掛け軸の中にいるから」
 そう言って和彦が振り返ると、千尋は奇妙な顔をしていた。和彦が何を指しているのか、ピンとこないらしい。それはつまり、夜の客間での出来事について、千尋は自分の目で見ていないし、説明も受けていないということだ。ただ、何かがあったということを感じ取っただけなのだ。
「先生、本当は――」
 和彦は、すかさず千尋の口元を手で覆う。鋭い視線で見据えると、千尋は驚いたように目を丸くしたあと、すべてを理解したように頷いた。
 そこに、守光と賢吾が姿を現す。やけに楽しげな守光とは対照的に、賢吾のほうは心なしか機嫌が悪そうだ。
 二人が何を話していたのか気になるが、尋ねる権利のない和彦は、ただ身構える。守光よりも、賢吾の反応が怖かった。
 その賢吾が、指先で和彦を呼ぶ。
「先生、帰るぞ」
「えっ、ああ……」
 反射的に立ち上がった和彦は、千尋に視線を向ける。大げさなほど残念そうな顔をした千尋は首を横に振り、守光とともに出かける予定なのだと言った。
「朝メシぐらい、ここで食っていったらどうだ。もう準備はできているから、すぐにここに運ばせる」
 守光の言葉に、余計なことを言うなとばかりに賢吾は眉をひそめた。
「……ここのメシは口に合わん」
「ほお、お前は上品な舌をしているからな」
「うるさいぞ、ジジイ」
 守光と賢吾のやり取りに、傍らで聞いている和彦のほうが肝が冷える。そもそも和彦は、父子らしい遠慮ないやり取りというものに免疫がないのだ。だからこそ、賢吾と千尋のやり取りにも、ときおりヒヤリとしながらも、物珍しさと羨ましさを感じてしまう。
 賢吾には先に玄関に行ってもらい、和彦は慌しく客間に戻る。姿見の前に立ち、ジャケットとコートを羽織ったところで、つい視線は床の間の掛け軸に向いていた。
 すでにもう、艶かしいとしか思えなくなった若武者の顔を見つめていて、ふと視線を感じる。和彦は姿見に映る自分の姿を見て、ドキリとした。
 いつの間にやってきたのか、背後に守光が立っていた。
 素早く振り返った和彦は、頭を下げる。
「本当にお世話になりましたっ……」
「いつでも遊びに来てくれ――と言ったところで、自分から気軽に足を運べる場所じゃないだろうから、また賢吾に黙って、あんたを連れてくることにしよう」
 頭を上げた和彦に、守光が笑いかけてくる。和彦は逡巡してから、おずおずと応じた。
「できることなら、もう少し早くに連絡をいただけるとありがたいです。そうすればぼくも、予定を空けておくことができますから」
「あんたと一緒の時間を過ごしたがる男は多いだろ。わしが無理を言って、あんたを独占したと知れば、その男たちに恨まれるだろうな」
「……そんな、ことは……」
 守光は、和彦が現在、どれだけの男たちと関係を持っているか把握しているだろう。そのことをどう感じているか、冗談めいた口調から知ることは不可能だった。
「わしみたいな偏屈ジジイは、あんたみたいな若い者から特別扱いされると、それだけで機嫌がよくなる。覚えておくといい」
 和彦がぎこちなく頷くと、守光は前触れもなく片手を伸ばし、頬やあごの下を撫でてきた。
「――昨夜は、触れられなかったからな」
 ぽつりと洩らされた守光の言葉に、和彦の背筋に寒気とも疼きともつかない感覚が駆け抜けた。
 自分の足で歩いているという感覚も怪しいまま、玄関に向かう。すでに靴を履いた賢吾と、寝癖を気にして髪を撫でている千尋が待っていた。
 和彦の顔を見るなり、千尋に言われた。
「先生、どうかした? 顔赤いよ」
 自分の頬を撫でた和彦は、小さく首を横に振る。
「なんでもない……」
 靴を履いて振り返ると、守光が千尋の横に立っていた。なんとなく顔を直視できず、伏し目がちに頭を下げて挨拶する。
 長嶺の男たちが発する独特の空気に呑まれた挙げ句、和彦は酔いそうになる。自覚もないまま変なことを口走るのではないかと不安になったとき、賢吾にぐっと肩を抱かれて玄関から外へと押し出された。
「二人とも気をつけて帰れ」
 守光からそう声をかけられたあと、背後でドアが閉まる音がする。この瞬間、息苦しいほどの重圧と緊張感から解放され、和彦は密かに息を吐き出す。しかし、賢吾にはバレた。
「やれやれ、といった感じだな、先生」
 ハッとして顔を上げると、賢吾の唇には微かな笑みが浮かんでいた。
「……あの状況でリラックスできるほど、ぼくは図太い神経をしていないんだ」
「そうか? すっかり馴染んでいたぞ。先生の順応性の高さには、慣れたつもりの俺でも驚かされる」
 和彦はエレベーターのボタンを乱暴に押す。口を開いたのは、エレベーターに乗り込んでからだった。
「――……ぼくは、自分が逆らえない力に対して、身を委ねるのが巧いんだそうだ」
「オヤジが言いそうなことだ。だが、俺が先生に興味を持ったのも、同じ理由だ。肝が据わっているくせに、無茶な抵抗はしない。だが、卑屈にもならない。先生を押さえつけたつもりが、こちらが搦め捕られたように感じて、それが気持ちいい」
 顔を寄せてきた賢吾がニヤリと笑いかけてくる。ここで和彦はようやく、自分がまだ肩を抱かれたままなのに気づく。こんなところを誰かに見られては困ると、肩にかかった手を外そうとしたが、反対に力を入れられる。
 睨みつける和彦に対して、賢吾は澄ました顔で答えた。
「いいじゃねーか。ここにいる連中は、みんな知ってる。昨日、会長が連れてきた色男は、長嶺組長と跡目のオンナだって。そのうえ会長自身が、そのオンナを気に入っていることもな」
 和彦は思わず目を見開き、あることを賢吾に問いかけようとしたが、その前にエレベーターが一階に到着する。扉が開くと、スーツ姿の四十代後半の男が立っており、賢吾を見るなり深々と頭を下げた。動揺する和彦とは対照的に、賢吾は鷹揚な態度で応じる。
「すまなかったな。朝早くから騒がせて」
「いえ、いつでもお越しください。こちらこそ、きちんとしたお出迎えもできず、申し訳ありませんでした」
「気にするな。頭を下げるなら、むしろこっちだ。やんちゃ坊主の世話を押し付けているんだからな。何かあったら、遠慮なく躾けてやってくれ」
「千尋さんは、しっかりされてますよ。さすが、会長のお孫さんと言うべきか、長嶺組長のご子息と言うべきか――」
 顔を上げた男が、上目遣いに賢吾を見る。慇懃ともいえる物腰ながら目つきは鋭く、有能なビジネスマンのような外見と相まって、捉えどころのない存在感を醸し出していた。
「誰の血縁だろうが、千尋はまだまだガキだ。特に、この先生が子供扱いして、甘やかすからな」
 賢吾と男から同時に視線を向けられ、和彦としては居心地が悪くて仕方ない。もう一度、賢吾の腕から逃れようとしたが、無駄な足掻きでしかなかった。
「佐伯先生も、ぜひまた、遊びにいらしてください。会長が大変喜ばれていましたから」
「……ええ。お招きいただけるなら、いつでも……」
 緊張して、硬い口調で応じた和彦を、賢吾がからかう。
「そんな安請け合いすると、何日も経たないうちにまた連れ込まれるぞ、先生」
 横目で賢吾を睨みつけて、和彦は男に会釈した。
 見送りのためわざわざ降りてきたのか、総和会の男たち数人が車止めの側に立ち、賢吾と和彦が車に乗り込むまで、壁となってくれる。総和会としては、長嶺組長である賢吾の身に小さな災難でも近づけてはいけないと、気を張っているようだ。
「これが、総和会会長と長嶺組組長が会うということだ。話した内容なんて関係ない。会ったという事実が、重いんだ。……俺が、ここに近づきたがらないのも納得できるだろ?」
 車が走り出してすぐに、和彦の手を握った賢吾が、皮肉っぽい口調で言った。完全に気が抜けた和彦は、シートに深く身を預ける。
「だったら、会長が長嶺の本宅を訪ねてくることは?」
「帰ってくる、という表現のほうが正しいんだろうな。あの家を建てたのはオヤジだ。俺は、長嶺組を継いだと同時に、あの家も継いだ。……まあ、総和会会長の肩書きがある間は、オヤジは本宅の敷居は跨がないだろう。決め事というわけじゃないが、ケジメというやつだ」
「……ぼくはヤクザじゃないが、なんとなく、わかる気がする。背負っているものに対して、責任があるということだろ」
「そうだ。総和会と長嶺組の位置は近いが、まったく違う組織だ。何か事が起これば、この二つの組織が反目し合うこともありうる――」
 賢吾の言葉に例えようもなく不吉なものを感じ、思わず和彦は身震いする。そんな和彦を、賢吾はやけに楽しげな表情で見つめていた。
「怖いか、先生?」
 肩を抱き寄せられ、素直に賢吾に身を預ける。
「怖い……。あまり、物騒なことは言わないでくれ」
「心配するな。俺は、臆病で慎重な蛇だ。総和会とは上手くつき合っていくつもりだし、オヤジが会長であるという旨みを最大限利用するつもりだ。俺が蛇でいる限り、組は安泰だ」
 よかった、と意識しないまま洩らした自分に、和彦は驚く。口元に手をやり、一人でうろたえていると、わざわざ賢吾が顔を覗き込んできた。
「どうやら、俺が思っている以上に、先生は長嶺組の将来を考えてくれているようだな」
「……別に、そんなつもりは……。ただ、身内同士の揉め事は見たくないだけだ」
「先生が言うと、ヤクザ同士の腹の探り合いも、微笑ましく感じられる」
 バカにされているのだろうかと思い、そっと眉をひそめると、ふいに賢吾が表情を消した。大蛇を潜ませた目が、心の底まで抉ってくるように見つめてきた。
「揉め事は見たくないと言っている本人が、揉め事の火種になる可能性について、じっくりと話し合いたい。――これから先生の部屋に寄ってもかまわないか?」
 賢吾がなんのことを言っているか、すぐに察した和彦は、恐怖に総毛立ちながらも拒否できなかった。
 顔を強張らせながら頷くと、賢吾は手荒な手つきで後ろ髪を撫でてきた。


 和彦の身に何が起こったか、話をするより、体を調べたほうが早い――というのが、賢吾の考えのようだった。部屋に帰るなり、和彦はベッドに連れ込まれ、身につけていたものをすべてを剥ぎ取られた。
 仰向けとなった和彦は、見下ろしてくる賢吾の視線をすべて受け止める。強い眼差しに肌を焼かれそうで、本能的なものから身を捩りたくなるが、必死に堪える。いつでも気をつけているつもりだが、今は特に、賢吾の機嫌を損ねたくなかった。
 大蛇に体を締め上げられているようだと思いながら、和彦はぎこちなく息を吐き出す。
 体の上に馬乗りになった賢吾も、すでにスーツを脱ぎ捨てている。そのため、肩にのしかかるように描かれた大蛇の巨体の一部が見えるのだ。
 恐怖で身がすくんでいるはずなのに、検分するように賢吾の大きな両手にじっくりと肌を撫で回されていると、じんわりと体が熱くなってくる。硬いてのひらの感触に、心地よさすら覚えていた。
 それに、賢吾の動きに合わせて、肩から腕、腿に描かれた大蛇の巨体が蠢き、しなっているようだ。おぞましくも生々しい刺青がひどく艶かしく見え、和彦は視覚で官能を刺激される。
「うっ……」
 すでに硬く凝っている胸の突起を指の腹で捏ねられ、小さく声を洩らす。執拗に突起を指で弄った賢吾がふいに胸元に顔を伏せ、熱い息が肌に触れる。それ以上に熱い舌にベロリと突起を舐め上げられて和彦は、全身を駆け抜けるような快美さを感じた。
 痛いほど強く突起を吸われ、歯を立てられる。同時に、両足の間に片手が差し込まれると、欲望を握り込まれた。いつもであれば、羞恥と戸惑いに苛まれながらも、賢吾の愛撫に容易に体を開く和彦だが、今朝はそういうわけにもいかない。数時間前まで、〈誰か〉を受け入れていた体だ。罪悪感と疲労感が、重くのしかかってくる。
 賢吾のほうも、いつも通りの愛撫を施しながら、冷静な目でじっと和彦を見下ろしていた。
「――最近は、ほとんど見なくなった表情をしているな」
 低い声で賢吾が囁いてくる。軽く唇を啄まれた和彦は、同じく囁くような声で応じた。
「何……?」
「秘密を抱えた先生の表情だ。俺にバレるのが怖くて、必死にそれを押し殺している。そのくせ、どんな〈いいこと〉をしてもらったのか知らねーが、目のやり場に困るような色気を振り撒いてやがる」
 和彦は瞬きも忘れて、賢吾を見上げる。次の瞬間には握り潰されるのではないかと、切迫した危機感に息が止まりそうになるが、賢吾はくすぐるように優しく欲望を擦り上げてくる。和彦は顔を背けて唇を噛んだ。
「たっぷり搾ってもらったようだな。俺が触ってやるとすぐに反応するのに、今朝は反応が鈍い」
 あからさまな賢吾の物言いに、体が熱くなる。
「性質の悪い男を片っ端から血迷わせて、まったく性質の悪いオンナだ……。そのくせ、こんなものをつけている、見た目だけは優しげな色男だからな」
 和彦のものを緩く扱いてから、賢吾の指が秘裂をまさぐってくる。まだ熱をもって疼いている内奥の入り口を軽く擦られて、無意識に腰が揺れる。賢吾は唾液で指を濡らすと、躊躇なく内奥に挿入してきた。
「ううっ」
 丹念な愛撫を与えられた直後のように従順に、和彦の内奥は二本の指を受け入れ、ひくつく。すぐに指が蠢き、内奥の襞と粘膜を擦り始めた。
 和彦は、疼痛と苦しさに小さく呻き声を洩らす。内奥をまさぐられることで、何が起こったかを言葉で説明する必要はない。賢吾の指の動きは、必要な事実を簡単に探り当ててしまう。
「……熱くなって、蕩けそうに柔らかくなっている。奥は……滑っているな。じっくり愛されて、満足したのか? いつもの先生なら、物欲しそうに必死で締め付けてくるのに、今は、いやらしい襞が絡み付いてくるだけだ」
 ここで賢吾が、やっと核心を突く質問をしてきた。
「誰に、愛してもらった?」
 誤魔化すことは許さないと、冷ややかな眼差しが言っていた。大蛇の化身のような男は、和彦を試しているのだ。何もかもわかっていながら。いや、何もかもわかっているからこそ――。
 内奥からゆっくりと指を出し入れされ、鈍くなっていた感覚がゆっくりと研ぎ澄まされていく。和彦は、体の内どころか、心の内すら賢吾に暴かれていく錯覚を覚えながら、深く息を吐き出した。
「……あんたが生まれたときに買ったという掛け軸が、ぼくが泊まった部屋に掛けてあった」
 突然、和彦が語り始めた内容に、さすがの賢吾も面食らったような表情となる。それでも、続きを促された。
「それで?」
「本当は、端午の節句に飾りたかったらしい。鎧をつけて馬に乗った若武者の画だけど、とにかくきれいな顔立ちをしていた。色気がありすぎるんだそうだ。見ていると、胸がざわつくと……。ぼくも、同じことを思った」
「ああ、思い出したぞ。オヤジが本宅で暮らしている頃、ときどき出しては、掛けていた。本宅のどこにも見かけないと思っていたが、そうか、オヤジはしっかり持ち出していたのか」
 そう言って賢吾が、和彦の顔をじっと見下ろしてくる。眼差しだけで屈服させられそうで、つい視線を逸らしながら話を続ける。
「――……言われたんだ。その掛け軸を掛けてある客間で寝たら、若武者が添い寝してくれる夢を見るかもしれないと。冗談だと思ったんだ……」
「それで、夢を見たんだな。きれいな顔した若武者が、添い寝どころか、先生に悪さをしたか?」
 皮肉とも、おもしろがっているとも取れる口調で賢吾が言い、顔を寄せてくる。このとき内奥で指が曲げられ、強く中から刺激された。震える吐息をこぼすと、賢吾に柔らかく唇を吸われ、衝動のまま和彦も吸い返す。この口づけをきっかけに、ようやく勇気を振り絞り、告白することができた。
「顔にかけられた布を、取れなかった。相手が誰なのか見ないことで、ぼくは、この世界で生きていける。物騒な男たちに流されて、大事にされることが、ぼくの存在価値だ。……今いる世界の男たちは、少なくとも、ぼくを手荒には扱わない。ぼくは、痛めつけられるのは嫌なんだ」
 和彦は、あえて傲岸な表情で賢吾を見据える。大蛇が鎌首をもたげ、獲物に這い寄ろうとする光景が脳裏をちらつき、本当にこのまま締め上げられることすら覚悟していた。体の内を愛撫されながら縊り殺されるという想像は、どこか甘美ですらある。
 賢吾は和彦を試しているが、同時に和彦も、賢吾を試していた。この男は、どこまで自分を大事にしてくれているのだろうか、と。
「――本当に、性質が悪いオンナだ」
 笑いを含んだ声で賢吾が洩らし、内奥から指を引き抜いた。そして、両足を抱え上げられる。突然の行動に焦った和彦は、咄嗟に賢吾の肩に手をかける。熱く逞しい男の体をはっきりとてのひらに感じ、胸の奥が疼いた。
 自分はこの男のオンナなのだと、和彦は本能で痛感させられる。自分が今いる世界の中心は、大蛇の刺青を背負ったこの男なのだとも。
 和彦の変化に気づいたのか、賢吾は牙を剥くように笑いながら、熱く高ぶった欲望を内奥の入り口に擦りつけてきた。
「あっ……」
 一気に内奥深くまで押し入ってきた賢吾は、自分の感触を刻みつけるように大胆に腰を使う。それでなくても感じやすくなっている部分には、強烈すぎる律動だった。
「うあっ、あっ、んああっ――」
「丹念に可愛がってもらったようだな。こんな奥までトロトロだ」
 果敢に奥深くを突き上げられ、抉られる。和彦は腰を弾ませながら賢吾の激しさを受け止め、じわじわと押し寄せてくる肉の愉悦に喉を鳴らす。
 いつの間にか和彦のものは反り返り、先端からはしたなく透明なしずくを滴らせていた。賢吾が指の腹で先端を撫で、鋭い快感に和彦は息を詰める。柔らかな膨らみすらも揉みしだかれ、たまらず腰を捩ろうとしたが、内奥深くにしっかりと欲望を埋め込まれているため、それすらできない。
 和彦はすがるように賢吾を見上げる。このときの表情が、残酷な大蛇の性質を満足させたのか、賢吾は目元を和らげた。
 唇を吸われ、そのまま余裕なく舌を絡め合う。和彦は夢中になって賢吾の背に両腕を回し、大蛇の刺青を忙しくまさぐる。褒美だといわんばかりに乱暴に腰を突き上げられ、身震いするほどの快感を与えられた。
「んっ……、はあっ、あっ、あううっ……」
 身悶える和彦の髪を、賢吾が荒っぽい手つきで鷲掴む。息もかかるほどの距離で、こう言われた。
「先生に〈いいこと〉をしたのは、長嶺の守り神だとでも思っておけ。多分、凛々しくて美しい若武者の姿をしているぞ。先生は、そんな守り神に気に入られたんだ。俺や千尋のオンナだからというのもあるだろうが、先生自身の情の深さも多淫さも、したたかさすら、たまらなくよかったんだろうな。何より、惚れ惚れするような色男だ」
 貪るような口づけを交わしてから、和彦は喘ぎながら問いかけた。
「――……そういう理屈で、あんたは納得できるのか?」
「逆に、俺が先生に聞きたい。俺と千尋だけでなく、もう一人の長嶺の男を、受け入れられるか? そいつのオンナだと、名乗れるか?」
 和彦が即答できず口ごもると、すべてわかっていると言いたげに、賢吾が頬を撫でてくれる。
「先生が、自分を抱いている相手の顔を見なかったというのは、そういうことだろ。知ることで、受け入れなきゃいけなくなる現実がある。だから先生は、相手の正体を知ろうとしなかった。自分が逆らえない力に対して、巧く身を委ねられる先生に今突きつけられているのは――総和会会長のオンナになると、決断できるかということだ」
 怯えと困惑を込めて、和彦は賢吾を見つめる。賢吾は律動を再開し、最初は身を強張らせていた和彦だが、すぐにまた乱れ始める。
「あの食えないジジイが、単に気に入ったという理由だけで、息子と孫のオンナに手を出すはずがない。ロクでもないことを企んでいるはずだ。だがきっと、長嶺のためだろうな。……先生と相性のいい長嶺の男は、そういう生き物だ」
「……勝手に、ぼくと相性がいいと、決め付けるな」
 喘ぎながらなんとか反論した和彦だが、その長嶺の男を求めて、大蛇の刺青にぐっと爪を立てる。内奥深くで欲望が脈打ち、その熱さに体の内から溶かされそうだ。
 もう、何も考えられなくなるという絶妙のタイミングで、賢吾がそっと耳打ちしてきた。
「先生が、総和会会長のオンナになると決心がつくまで、掛け軸の若武者と同じ姿をした長嶺の守り神に身を預ける、という形を取るか? ただの屁理屈だと思うかもしれんが、薄っぺらい布一枚分ぐらいは、先生を守ってくれる」
 その布一枚が目隠しとなり、先に広がる物騒な現実を遮断してくれるのだと思えば、賢吾の言う『屁理屈』は、確かに和彦を守ってくれるのかもしれない。あくまで、一時の誤魔化しでしかないが。
「ぼくは、総和会会長ではなく、長嶺の守り神のオンナになるということか……」
「この場合、捧げ物、という表現が適切だと思うが」
「だったらもう、生け贄でいい」
 耳朶に触れたのは、賢吾が笑った息遣いだった。ささやかな気配にすら感じてしまい、和彦は微かに声を洩らす。すると、その声に誘われたように賢吾が緩く腰を動かした。
「――生け贄なら、食われる覚悟をしないとな。長嶺の守り神が背中に背負っているのは、大蛇より怖い生き物だぞ。……まあ、先生が自分から、相手を見ようとしない限り、どうでもいいことだろうがな」
 一体どんな生き物だろうかと思いはしたが、今は、大蛇に締め上げられる感触を堪能することにする。
 総和会会長のオンナになれるかと、簡単に口にできるくせに、抱き締めてくる賢吾の腕は熱く、力強い。まるで、和彦に対して強い執着を持っているかのように。
 その力強さに応えるように、和彦は掠れた声で何度も賢吾の名を呼んだ。


 和彦の髪を乱暴に撫でた賢吾が、シャワーを浴びるために部屋を出ていく。うつ伏せの姿勢で、大蛇の刺青がドアの向こうに消えるのを見送った和彦は、ほうっと息を吐き出した。欲望の残り火のせいか、吐いた息が熱を帯びている。
 せっかくの休みだというのに、今日はもう、何もする気が起きない。体は疲れきっているし、何より、頭と気持ちを整理する必要があった。
 幸いにも、というべきか、賢吾は昼から人と会う予定があるそうで、和彦は一人の時間を思う存分堪能できる。
 このまま一眠りしたいところだが、さすがに横になったまま賢吾を送り出すのも気が咎める。そう思った和彦は、モソモソと身じろいで慎重に体を起こした。
 ベッドから下りようとしたとき、足元で携帯電話が鳴った。ジャケットのポケットに入れたままにしておいたのを思い出し、慌ててジャケットごと拾い上げる。
 携帯電話を取り出して、液晶に表示された名を確認した和彦は、激しく動揺する。電話の相手は、意外な人物だった。
 どうしようかと逡巡したものの、無視して電源を切ることもできず、結局電話に出る。
『――番号が変わってなくて安心した』
 和彦の耳に届いたのは、安堵したような澤村の声だった。









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