と束縛と


- 第19話(1) -


 卓上カレンダーを一枚めくった和彦は、複雑な感情の入り混じったため息をつく。
 時間の流れが早いと、つくづく思う。ついこの間、慌しい年末年始を過ごしたはずなのに、明日から二月なのだ。
 長嶺組の身内となってから、さまざまな出来事には事欠かない毎日だが、一月の波乱ぶりは際立っていた。クリニックの開業はもちろん、人間関係がますます複雑になってきたのが大きい。和彦の自業自得の部分もあるが、〈オンナ〉の立場で抗えないこともある。
 その最たる出来事が、総和会会長である長嶺守光と出会ったことだ。騙まし討ちのような形で顔を合わせ、二人きりで食事をして、自宅に宿泊し、そして――。
 和彦は、白衣を着込んだ体を小さく震わせる。ほんの一か月ほどの間に、これだけのことが自分の身に起こったのかと思うと、いまさらながら怖くなってくる。同時に、自分でも戸惑うような疼きが、胸の内で妖しく息づいてもいるのだ。
 イスの背もたれに体を預け、和彦は右手をかざして眺める。自分の体が、周囲の男たちによって、何か別の生き物に造りかえられているような錯覚を覚える。それとも、恐ろしく貪欲な本質が露わになっているだけなのだろうか。
 いまさらか、と自嘲気味に唇を歪めた和彦は、イスに座り直して、白衣の裾を軽く払う。
 午前中、施術の合間にカウンセリングを行うなど、医者が一人しか常駐していないクリニックとしてはなかなか多忙なスケジュールをこなしたのだが、対照的に午後からは、予約は夕方まで入っていない。
 そんな空気を嗅ぎ取ったわけではないだろうが、さきほどまで由香が訪れていた。先日、二重瞼手術を行い、その術後経過を診るため足を運んでもらったのだ。もっとも由香本人は、診察はついでとばかりに、遊びに来たようなものだろう。
 差し入れとして持ってきたケーキを、すっかり打ち解けたクリニックのスタッフとともに味わい、おしゃべりを楽しんでいた。
 由香を、いい家のお嬢様だと思っているスタッフたちは、彼女の本当の姿を知れば驚くだろうが、昼間のクリニックでは必要のない情報だ。由香にしても、実像とは違う自分を演じることを楽しんでいる節がある。誰も傷つかない、可愛いウソだ。
 その、可愛いウソつきである由香は、和彦には特別な差し入れをくれた。半月ばかり早いバレンタインのチョコレートだ。本番に向けて、どのチョコレートがいいか味見をしている最中で、和彦はお裾分けにあずかったのだ。
「バレンタインか……」
 由香のような女の子が盛り上がる一方で、無表情がトレードマークのヤクザも気にかけているのかと思うと、浮ついた世俗的なイベントも、案外罪作りだ。
 小さく笑みをこぼした和彦は、卓上カレンダーの十四日という日付を指先でなぞる。そして、スッと指先を滑らせて次になぞったのは、十日だった。和彦の誕生日だ。
 三十一歳になろうとしている今でも、自分の誕生日とどう向き合い、どんな感情を抱けばいいのか、和彦はよくわからない。一年のうちで一番、和彦を複雑な気持ちにさせる日かもしれない。
 短く息を吐き出して卓上カレンダーをデスクに置くと、立ち上がった和彦は勢いよく白衣を脱ぐ。かわってコートを羽織り、財布と携帯電話をポケットに突っ込んだ。
 待合室にいるスタッフに声をかけ、少し遅めの昼食をとりに出かける。
 寒い中、あまり歩く気にもなれず、近くのファミリーレストランに向かう。昼の混雑が去ったところなのか、和彦が足を踏み入れた店内は閑散としていた。
 窓際の席についてランチセットを注文すると、頬杖をついた和彦は携帯電話を取り出し、あるメールに目を通す。すでに内容は頭に入っているが、何度も読み返しているうちに、送り主の思惑が透けて見えそうな気がする。
 メールの送り主は澤村だ。数日前、電話で話したあと、さほど間を置かずに送ってきた。
 まず、電話の内容が意外なものだった。佐伯家から、和彦宛ての誕生日プレゼントを預かっており、直接会ってそれを渡したいと言われた。メールは、待ち合わせ場所と日時を知らせてほしいというものだ。
 和彦は実はまだ、プレゼントを受け取ると澤村に返事をしていない。それでもメールを送ってきたのは、和彦に決断を促すためだろう。
 非情に徹するのなら、澤村からの連絡をすべて拒否してしまえばいい。だが和彦は、それができないまま、思いがけない申し出に心を揺らしている。
 佐伯家の人間と関わりを持つ気はないが、数少ない友人が相手となると、話は別だ。何より、和彦と佐伯家との連絡役を押し付けられている澤村が、気の毒でもある。
 澤村から和彦の携帯電話の番号を聞いて、自分たちが連絡しようと考えないのだろうかと、非難めいた気持ちを佐伯家に抱いてはいるが、仮に自分の家族の声を聞いたとしたら、和彦は次の瞬間には電話を切る自信があった。
 結局、澤村に厄介な役回りを押し付けている責任の一端は、和彦にあるということだ。そういう負い目もあって、澤村からの働きかけを無碍にはできない。
 困惑気味に電話で話す和彦を、シャワーを浴び終えた賢吾はニヤニヤと笑いながら観察していた。電話を終えてから、一通り和彦が事情を説明すると、さらにおもしろがる表情で、賢吾はこう問いかけてきた。
『それで、無邪気な子供のように、優しい両親からのプレゼントを受け取りに行くのか?』
 嫌味な言い方をするなと、賢吾に対して怒った和彦だが、それでも、行かないとは答えられなかった。賢吾にしても、行くな、とは命令しなかった。それどころか、和彦の好きにすればいいとさえ言ってくれたのだ。
 何を企んでいるのだろうか――。和彦の脳裏を、ふっとそんな言葉が過る。ただし、その言葉を向ける相手は賢吾ではなく、佐伯家に対してだ。
 根に持っているつもりはないが、和彦は家族から誕生日プレゼントをもらった記憶がない。祝ってくれていたのは、常に他人だった。
 携帯電話の画面に視線を落としたまま、無意識のうちに和彦は眉をひそめる。佐伯家の動向だけでなく、和彦を悩ましい気分にさせる事柄は他にもあるのだ。
 守光の自宅で、顔にかけられた布の感触がふいに蘇り、反射的に頬を撫でる。次の瞬間、テーブルの傍らで人の気配を感じた。ランチが運ばれてきたのだと思い、無防備に顔を上げた和彦は、飛び上がるほど驚いた。
「あっ……」
 見上げるほど大きな体をスーツに包んだ男が、じっと和彦を見下ろしていた。南郷だ。
 目が合った途端、身がすくむ。和彦が南郷に対して感じる怖さは、理屈ではなく、本能的なものだ。南郷から漂う粗暴さや猛々しさは、和彦が絶対受け付けられない種類のものだ。この男の側にいるだけで、痛みを感じてしまう。
 警戒して身構える和彦の反応をどう感じたのか、南郷は唇を歪めるようにして笑った。
「どうして、ここに――」
 ようやく和彦が口を開いたそのとき、タイミング悪く、ランチが運ばれてくる。すると、ごく自然な動作で南郷は、和彦の向かいのイスに座り、コーヒーを注文した。
 戸惑う和彦に向けて、南郷はこう言い放った。
「気にせず食ってくれ。俺も勝手に話す」
「……気にせずって……、何か、ご用ですか? 職場のすぐ近くで、あまり目立つことはしたくないんですが」
 どうしても和彦の口調は刺々しいものとなる。片手の指で足りるほどしか南郷と顔を合わせていないが、好印象を抱ける相手ではないと認識するには十分だ。
 和彦は、客がほとんどいない店内をそっと見回す。一見して筋者だとわかる南郷を、離れた場所に立つ店員が遠慮がちに眺めていた。しばらくこの店には立ち寄れないと、和彦は思った。
 半ば強引に南郷の存在を意識の外に追い払い、割り箸を手にする。すでに食欲はなくなっていたが、いまさら席を立つわけにはいかない。味噌汁を一口啜ってから、ご飯に箸をつけようとしたとき、南郷がスッと化粧ケースを差し出してきた。何事かと思いはしたが、たった今、南郷を相手にしないと決めたばかりだ。和彦はムキになって食事を続ける。
 一方の南郷は、和彦の態度をものともせず、化粧ケースを開けた。中に入っていたのは、シルバーチェーンのブレスレットだ。
「――あんたへの誕生日プレゼントだ」
 慌てて椀と箸を置いた和彦は、南郷を真正面から見つめる。
「えっ……?」
「あんたもうすぐ、誕生日だろ」
「誰から、そのことを聞いたんですか」
 問いかけてすぐに、南郷に和彦のことを話すのは、守光しかいないと確信する。次に和彦が考えたのは、このプレゼントには、誕生日祝い以外の意味が込められているのではないかということだった。
「……もしかして、これは……、会長から、ですか?」
「あんたに似合いそうだ」
 和彦は咄嗟に化粧ケースを押し返そうとしたが、簡単に南郷に押し戻される。
「俺が持って帰れると思うか? いらないなら、俺の見ている前でゴミ箱に捨ててくれ」
「そんなことっ……。正直、こういうことをされると困ります」
「俺は困らない。諦めて、身につけるんだな」
 南郷が、まるで威圧してくるようにテーブルに身を乗り出してくる。他人からは、さぞかし和彦が脅されているように見えるだろう。実際、似たような状況だ。
「ぼくは、患者の肌に触れる仕事をしています。それだけじゃなく、危険な手術道具や、機械を扱いもします。だから気が散らないよう、アクセサリーはつけないんです」
「だが、受け取ることはできるだろ。それに一日中、患者に触れて、メスを握っているわけじゃないはずだ。プレゼントを突き返すには、もう一捻り欲しい言い訳だ」
 そういうつもりはないと、口中で控えめに抗議した和彦だが、南郷の冷たく冴えた眼差しの前では、はっきりと声を上げるのはためらわれる。それに、守光から贈られたものなら、受け取る以外に選択肢はなかった。
「――……わかりました」
 和彦の返事を受け、南郷は一旦は化粧ケースを閉めようとしたが、思い直したように言った。
「せめて今、俺の前でつけて見せてくれないか、先生」
「どうしてですか?」
 率直に問いかけると、南郷は答えないまま、ただ口元に笑みを浮かべた。何かを企んでいるような、あまり性質のよくない笑みだ。
「プレゼントをもらったら、愛想の一つでもほしいもんだな」
 素っ気なく化粧ケースを投げて寄越され、和彦は反射的に両手で受け止める。つい、南郷にきつい眼差しを向けていた。
「だったら、総和会第二遊撃隊隊長の権限で、ぼくに笑えと命令したらどうです」
 このときの和彦は、本当に機嫌が悪かった。顔見知りの人間に見られるかもしれない場所で、いかにも筋者だとわかる大男と相対しているのだ。ひっそりとしたクリニック経営を望む和彦には、あまりに危険が大きい。
「……どうやら、長嶺組長の〈オンナ〉を怒らせたようだ」
 わざと和彦の神経を逆撫でるように、聞こえよがしに呟いた南郷がふらりと立ち上がる。和彦は意地でも、もう南郷に視線を向けなかった。何事もなかったように食事を再開する。
 しかし実際は、心臓の鼓動が速くなり、背筋を冷たいものが駆け抜けていた。凶暴さを秘めた南郷を相手に虚勢を張るのは、限界がある。
 幸運にも、冷や汗が流れ落ちる前に南郷は黙って立ち去った。その場に、物騒な空気の余韻だけを残して。
 慎重に辺りを見回してから和彦は、手元に視線を落とす。自覚がないまま、箸を持つ手が小刻みに震えていた。このみっともない様子を南郷に見られたのだと思うと、惨めさに苛まれずにはいられなかった。


 南郷からプレゼントを押し付けられたことがあまりに衝撃的で、和彦はもう一つの厄介事を処理するための算段を、危うく後回しにしかけていた。
 車が走り出すのを待ってからブリーフケースを膝の上に乗せると、今日の収穫を確認する。ブリーフケースの中には、仕事関係の資料と、チョコレートの包みと化粧ケースが入っていた。チョコレートのほうは素直に自宅に持って帰れるのだが、化粧ケースに収まっているブレスレットについては、なかなか心中は複雑だ。
 和彦はそっと化粧ケースを取り出して、開ける。冷たい輝きを放つブレスレットを眺めていて、クリスマスのことを思い出していた。あのとき和彦は、関係を持つ男たちからそれぞれプレゼントをもらったが、それはどれも身につけるもので、密かに、拘束具としての役割を果たすのだろうかと考えたのだ。
 左手首には、三田村が贈ってくれた腕時計がある。もしブレスレットを身につけるとなれば、右手首を差し出すことになるのだろう。
 意識しないまま和彦が重苦しいため息をこぼすと、ハンドルを握る組員が、バックミラー越しにちらりとこちらを見た。
「先生?」
「……なんでもない。ちょっと疲れただけだ」
 早めに守光に礼の電話をかけておくべきだろうかと思った和彦は、一度は携帯電話を取り出したが、電話とはいえ守光と接触を持つのは、賢吾に確認を取ってからのほうがいいと考え直す。
 まずは、もう一つの件を速やかに処理できるよう、手を打つべきだった。そのために必要な人物に、さっそく電話をかける。
『――もしかして、デートのお誘いですか?』
 挨拶は必要ないとばかりに、開口一番の秦の言葉を受け、和彦はムッと顔をしかめる。また、バックミラー越しに組員と目が合った。
「どうして、そうなる」
『この間、中嶋とデートをしたんでしょう、先生』
「単に、一緒に飲んだだけだ」
『わたしにまで隠さなくてもかまいませんよ』
 秦と中嶋が、どんな顔をして和彦のことを話していたか想像すると、背がムズムズしてくる。
「……まあ、なんとでも言ってくれ。それより君に、至急相談したいことがあるんだ。できることなら、直接会って話したい」
『へえ、先生がわたしに……。それはなんだか大事ですね』
「大事、というほどではないが、実はちょっと困っている」
 秦の返事は早かった。
『先生のためなら、わたしはなんでもしますよ。なんといっても、命の恩人であり、わたしと中嶋の仲を取り持ってくれた人でもありますから』
「仲を取り持ったというより、ダシに使われたんじゃないのか、ぼくは」
 秦から返ってきたのは、意味ありげな笑い声だった。だがそれもわずかな間で、すぐにまじめな声が告げた。
『せっかくですから、夕食を一緒にどうですか。わたしが今いる店の近くに、美味い寿司屋があるんです。ごちそうしますよ』
「これから、すぐ行く……」
 さっそく和彦は行き先の変更を組員に頼み、向かってもらう。
 三十分後に、ある雑居ビルの前に到着すると、黒のロングコートを羽織った秦がすでに待っていた。すでに日が落ち、代わって周囲を照らす繁華街の明かりは、秦を舞台に立つ役者のように引き立てている。本人も、他人からどう見られているかよくわかっているのだろう。
 こちらの存在に気づいた秦が艶やかな笑みを浮かべる。長い足でガードレールを跨いだかと思うと、颯爽とした足取りで車に近づいてきた。
「店は、そこです。歩いて行きましょう」
 ウィンドーを下ろすなり秦に言われ、和彦は多少面食らいながらも、車を降りる準備をする。その間に秦は、護衛兼運転手の組員にも声をかけた。
「この先にコインパーキングがあるので、車を止めたら運転手さんも寿司屋に来てください。席を取ってあるので」
 寒い中、自分を護衛してくれている人間を車に残し、自分たちだけ美味しいものを食べるのは気が引ける。和彦は、ぜひそうしてくれと組員に声をかけて、車を降りた。
 秦が連れて行ってくれた寿司屋は、黒を基調とした落ち着いた内装でまとめられており、雰囲気としてはバーに近い。ただ、長いカウンター席や、魚の並ぶネタケースは、やはり寿司屋のものだ。
 抜け目ない秦は席を予約しておいてくれたらしく、店員に名乗ると、奥まったテーブル席に案内され、少し遅れてやってきた組員は、その隣のテーブルについた。
「――それで、わたしに相談したいことというのは?」
 食べきれるのかと不安になるほど、量がたっぷりのにぎり盛りが運ばれてくると、箸を手にした秦が口火を切る。
 和彦はお茶で口を湿らせてから、ため息交じりに切り出した。
「二月十日は、ぼくの誕生日なんだ」
 さすがに意表をつかれたのか、秦は目を丸くする。しかし次の瞬間には、柔らかな微笑を浮かべた。
「それは、めでたいですね」
「三十男の誕生日なんて、正直どうでもいいだろ、世間的には。ぼく自身、そう思っているんだ」
「そういう言い方をすると、先生のことが大好きな人たちが悲しみますよ。もちろん、わたしも含めて」
 こちらに向けられる秦の眼差しは、真剣そのものだ。本心からの言葉なのかどうかはともかく、胸に響くものがある。寿司を食べつつ、和彦は話を続ける。
「……そう、問題はぼくの誕生日だ。実は、ぼくの元同僚でもある友人が、数日前に連絡をしてきて、実家からぼく宛ての誕生日プレゼントを預かっていると言ったんだ」
「確か先生は、実家との接触を避けてましたよね」
「だから、あれこれ考えてしまう。実家のほうで、ぼくの行方を捜している様子なんだ。そして、その友人は、どうやら実家に目をつけられたらしくて、ぼくとの繋ぎ役を押しつけられている。友人との連絡を絶ってしまえば、それで済む話なんだが――……」
「表の世界との繋がりを失うのは、名残惜しいですか?」
 優しい口調で核心を突くことを言うのは、中嶋と同じだ。相手が和彦だからこそ、受け流すと思われているのかもしれない。
「ぼくが一方的に連絡を絶っても、友人に迷惑がかかるだけだ。実家が簡単に諦めるとも思えないしな。それに今回は最初から、実家から頼まれたと言っている。前回は、ぼくは騙されて隠し撮りされていたんだ。それに比べたら、まだマシな対応だ」
「わたしに相談事を持ちかけてきたということは、先生はご友人に会いに行く気があって、用心のためボディーガードが欲しい、といったところですか」
「察しがよくて助かる」
「前にも、似たようなことがあったでしょう」
 秦の指摘に軽く首を傾げた和彦だが、すぐに声を洩らす。前に住んでいたマンションの管理人に預かってもらっていた郵便物を引き取りに行くとき、秦に付き添いを頼んだのだ。もちろん、佐伯家の人間を警戒しての対応だ。
「……今はまだ、家族に会いたくないんだ。自分の状況のせいもあるが、なんというか、佐伯家の事情に巻き込まれそうな嫌な予感がする。もし、待ち合わせ場所にいるのが友人ではなく、佐伯家の人間なら――」
 和彦が真っ直ぐ見つめると、心得ているとばかりに秦は頷く。
「わたしが円満に、先生を連れ帰りますよ。先生が今現在、どんな環境で、どんな人間に囲まれて生活しているか、一切うかがわせずに」
「そうだ。いざというとき、ぼくを守ってくれるだけでいいなら、長嶺組の組員に護衛してもらえばいいんだ。だけど、ぼくが長嶺組の身内になっていると知られるわけにはいかない」
 それでなくても、澤村には千尋と、英俊には三田村と一緒にいるところを見られている。その点、秦は表向きは青年実業家という肩書きを持ち、仮に素性を調べられたところで、裏での組やその関係者との繋がりの多さが、かえって長嶺組の存在を隠してくれる。
 この計画で大丈夫だろうかと、頭の中でめまぐるしく自問を繰り返す和彦に、秦は芝居がかったように明るい声をかけてきた。
「そうだ、先生、中嶋も連れて行っていいですか? あいつこそ、見た目は普通の勤め人に見えて都合がいい」
 何を企んでいるのかと、和彦が胡乱な目つきとなると、秦はヌケヌケとこう言った。
「先生の用心棒をしつつ、デート気分を味わおうかと思いまして」
「……正体不明の怪しい男には似合わない、爽やかな言葉だな」
「わたしだって、手探り状態なんですよ、中嶋との関係は。即物的な繋がりを求めている反面、それだけじゃいけないとも思っている。だからこそ、先生のしたたかでしなやかな存在感に、刺激を受けるんです。いい緩衝材であり、接着剤ですよ、先生は」
 中嶋の首の付け根についていた赤い痕を思い出し、なぜか和彦のほうが気恥ずかしい気分になってくる。秦と中嶋の関係に、緩衝材や接着剤という言葉はともかく、和彦は搦め捕られ、惹かれている。純粋に、性的な興味を覚えているといってもいい。こういう経験は初めてで、手探り状態なのは和彦も同じだ。
「せっかくなので、わたしと中嶋で、先生へのプレゼントを用意しますよ」
 秦の申し出に、和彦は苦笑しつつ首を横に振る。
「正直、誕生日を祝われるのは慣れてないから、いつもと同じように接してもらったほうがありがたい。……昔から、おめでとうと言われても、どういう顔をすればいいのかわからないんだ」
 わずかに目を細めた秦は、寿司を口に運んだあと、ぽつりと洩らした。
「いかにも育ちのいい先生にも、いろいろと事情があるんですね」
「ぼく以上にいろいろと事情を背負っている男に言われると、重みがあるな」
 秦は、小さく笑い声を洩らしただけで、何も言わなかった。
 このとき和彦がふと気になったのは、秦が背負っている事情のいくつかを、中嶋に話しているのだろうかということだ。


 寿司屋を出ると、コートの襟を直す秦に向けて和彦は、頭を下げる。
「忙しいだろうが、今日頼んだ件、よろしく頼む」
 澤村と会う日時は、仕事帰りに気安く友人と会うという演出のために、二月四日の夕方を考えている。その日は火曜日だが、それ自体に意味はなく、仕事が休みで時間がある土日に、じっくりと腰を据えて話し合う状況を避けたかったのだ。
「先生から頼み事ごとをされて喜んでいるんですから、頭なんて下げないでください」
 和彦は頭を上げると、そっと微笑みながら今度は礼を言う。
「今晩は、ありがとう。美味しかった」
「先生には、わたしの店選びを信用してもらっているようなので、気合いが入ります」
 一瞬、そんなことを秦に話したことがあっただろうかと考えたが、次の瞬間には、ああ、と声を洩らす。和彦が中嶋に話した内容が、秦に伝わったのだ。
「中嶋が先生の部屋にお邪魔して、もてなしてもらったそうなので、今晩の食事はそのお礼です」
「……もてなしてもらったのは、むしろぼくのほうだと思うが……。しかし、中嶋くんの保護者みたいな口ぶりだ」
 和彦が指摘すると、秦が微苦笑を浮かべる。その表情を見て漠然と、秦と中嶋は、本人たちなりのやり方で歩み寄り、確実に距離を縮めているのだと感じた。
 頼みごとを引き受けてくれ、食事まで奢ってもらったうえに、最後にいいものを見られたかもしれない。抱えた厄介事が片付いたわけではないのだが、二人の仲の進展具合を感じて、和彦の気持ちは少しだけ柔らかくなっていた。
 秦と並んで歩き出す。護衛の組員は先に店を出て、すでに車で待機している。
 寿司を食べつつたっぷり話はしたので、いまさらもう、車までの短い距離を歩きながら話すことはない。
 そもそも今日は少し話しすぎたと、和彦は顔を背けて小さく咳き込む。なんとなく、喉が痛かった。気遣いのできる男が、すかさず声をかけてくる。
「おや、風邪ですか?」
「いや、外の空気が乾燥しているから……」
「気をつけてください。誕生日だけでなく、バレンタインまで控えた大事な体ですから」
 意味深な冗談と受け止めて、和彦が横目でじろりと見たとき、秦はコートのポケットから携帯電話を取り出していた。メールが届いたようだ。
 秦が携帯電話の画面を見つめる。数秒の間を置いて、端麗な横顔を怜悧な表情が彩った。素性の怪しい食えない男の本性が、この表情から垣間見えそうだ。
 すぐに携帯電話を閉じた秦が、何事もなかったように和彦を見て、表情を和らげた。
「仕事のメールです」
「……忙しそうだな」
「長嶺組の後ろ盾のおかげで、儲け話に事欠かなくなりました」
 皮肉とも思えない秦の口ぶりに、和彦は慎重に問いかける。
「長嶺組からのメールなのか……?」
「――先生の旦那さんからです」
 あまりにさらりと言われ、危うく聞き流しそうになった和彦だが、ハッと我に返って秦にきつい眼差しを向ける。悪びれることなく、秦は満足げな様子で携帯電話を振った。
「冗談です」
「命知らずだな……。ぼくはともかく、長嶺組組長のことをそんなふうに言えるなんて」
「わたしは一言も、長嶺組長のことだと言ってませんよ」
 和彦は、秦の脇腹に拳を入れた。ただし、機嫌を損ねられても困るので、あくまで軽く。









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