と束縛と


- 第19話(2) -


 きょろきょろと売り場を見回していた千尋に、突然手首を掴まれた和彦は、何事かと思って目を丸くした。
 日曜日だけあって、広い売り場を持つスポーツ用品店の店内は、さまざまな年齢層の客たちで混雑している。だからといって、手を掴んでいないと迷子になるというほどではない。
「おい、千尋――」
 ふざけているのかと思い、きつい声を発しかけた和彦だが、手首を掴んだままズンズンと先を歩く千尋を見ていると、なんとなく、元気のいい犬を散歩させているような錯覚を覚え、結局、抗議の声を上げるタイミングを失ってしまった。
 ジョギング用のスニーカーを見たいという千尋につき合い、さまざまなメーカーのスニーカーを一緒に見ている最中だったので、気になる商品を見つけたのだろうと、そう和彦は考えた。
 だが、千尋が足を止めたコーナーは、少々意外だった。
「……テニスシューズ?」
 天井から吊るされたパネルを読み、和彦は首を傾げる。思わず、陳列されたテニスシューズと千尋を交互に見てしまった。
「なんで、テニスシューズなんだ……」
「先生、テニスはやらないの?」
「高校生のとき、少しやったぐらいだな。お前は?」
「実は、中学のテニス部で部長経験あり」
 へえ、と声を洩らした和彦は、千尋と並んで陳列棚を眺める。ここで会話が一旦途切れたが、どうしてテニスなのか、その理由がさっぱりわからない。
「で、テニスがどうしたんだ」
「じいちゃんの家のテニスコートでさ、今度テニスやろうよ。道具一式揃えて」
「……はあ?」
 突拍子もない千尋の言葉に、和彦は露骨に身構える。そんな和彦の反応を見て、千尋は意味ありげな流し目を寄越してきた。その目つきが、食えない父親にそっくりだ。
「せっかく先生も出入りできるようになったんだしさ、楽しもうよ。ジムで体力作りはできても、テニスはできないだろ?」
「そういう問題じゃなくて、なんで、総和会の本部――」
 千尋に詰め寄ろうとしたが、すぐ側を客が通りかかったのに気づき、和彦は口を閉じる。そして、何事もなかったような顔をしてその場を離れた。
「先生っ」
 あとを追いかけてきた千尋に肩を掴まれて、足を止める。和彦は素っ気ない口調で告げた。
「ここで待ってるから、早く自分の買い物を済ませてこい」
 無邪気にじゃれついているようでいて、千尋は空気を読むことに長けている。和彦が機嫌を損ね気味だと察したらしく、素直に頷いて引き返していった。
 千尋に八つ当たりをしたような決まり悪さを感じ、乱雑に髪を掻き上げる。別に和彦は、千尋のあんな発言で怒ったわけではない。ただ、守光の話題が出るたびに、意識しないまま体を強張らせる自分に苦々しさを覚えるのだ。
 守光の自宅で〈あんなこと〉があり、その後の賢吾とのやり取りも含め、現状に怯みそうになる。総和会に――守光に深入りするのは危険だと、はっきりわかっているからこその、防衛本能というものかもしれない。
 だからこそ和彦は、自分が逆らえない力に対して、巧く身を委ねるしかなかった。欲しいものを与えられ、周囲の男たちから大事にされるこの世界で生きていくとは、そういうことだ。
 自己嫌悪に陥り、苦い顔をして立ち尽くす和彦の元に、買い物を終えた千尋が袋を提げて戻ってくる。
 いつもと変わらず、屈託なく笑いかけてくる千尋を見て、まっさきに謝るつもりだった和彦は口ごもっていた。千尋の態度は、さきほどのやり取りは気にしていないと語っている。その気遣いを感じ取り、ますます和彦は決まり悪い。
「先生、お待たせ。行こうか」
 軽い口調で言って千尋が歩き出す。しかし和彦は、その場から動けない。すぐに気づいた千尋が首を傾げた。
「……先生?」
 黙り込んでいるわけにもいかず、和彦はぼそぼそと応じた。
「テニスは無理だ。ぼくは……下手だったんだ」
 数秒の間を置いて、千尋が短く噴き出す。大声を出して笑ったら、遠慮なく足を踏んでやろうと和彦は思ったが、なんとか耐えたようだ。千尋は口元に笑いの余韻を残しつつも、和彦を促してフロアを移動する。
「じゃあさ、ゴルフは?」
 階段を下りたところで、千尋が前方を指さす。ゴルフ用品が展示されており、こちらもなかなかのにぎわいを見せていた。
 和彦は首を横に振る。
「やったことがない」
「いい機会だから、始めようよ。俺もまだ初心者だから、一緒にレッスン受けてさ」
「興味ない」
「オヤジもゴルフやるよ?」
 和彦はぐっと眉をひそめると、ふらふらとゴルフ用品売り場に向かおうとする千尋の腕を取り、強引に引っ張る。
 ゴルフに偏見はないが、そこにヤクザという単語が加わると、組員たちに見守られてコースを回る光景を想像してしまう。それでなくても、賢吾と出歩くときは警護が厳重なのだ。のんびりとゴルフを楽しむ姿が、和彦には思いつかない。
「……体を動かすだけなら、ジムで十分だ」
「そうは言うけど、そのうち先生も、接待ゴルフに招待されたりするから」
 どこかおもしろがるような口調で千尋が言う。そんな千尋を、和彦はやや呆れた顔で見つめる。
「お前、なんだか楽しそうだな……」
「だって、先生と一緒にコースを回るところを想像したら、けっこういいなと思ってさー。本気で考えてよ。ゴルフ始めるの。それで暖かくなったら、俺とコース回ろう」
 一人で騒いでまとわりつく千尋を相手しつつ、駐車場で待機している車に戻る。今日は最初から、千尋の買い物につき合ったあとは、自宅に戻ってゆっくり過ごすつもりだった。さすがに元気に出歩くには、寒すぎる。
 しっかり暖められた車内に入った和彦は、ブルッと体を震わせる。そんな和彦を見て、隣に座った千尋が笑う。
「寒いなら、抱き締めてあげるけど」
 子供のような笑顔とは裏腹に、邪なことを言った千尋の頬を、遠慮なくつねり上げてやった。
 車が走り出してすぐに、千尋が和彦の手に触れてくる。羨ましいことに、どんなに寒くても千尋の手は温かい。冷たくなっている和彦の手に、じんわりと千尋の体温が沁み込んでいく。
「――先生、もうすぐ誕生日だよね」
 自分の誕生日の話題が出た途端、和彦はつい身構えてしまう。澤村からの電話や、南郷からプレゼントを渡されたこともあり、どうしても愉快な気分にはなれないのだ。
「そうだが……、どうして知ってるんだ?」
「俺がカフェでバイトしてるとき、先生の歳聞いたら、ついでに教えてくれたんだ。俺、人の誕生日なんて興味ないんだけど、先生のだけはしっかり覚えてる」
 こう言ってくれる千尋には申し訳ないが、正直、和彦の記憶は曖昧だ。千尋とは、世間話や他愛ないことまで、とにかくいろんなことを話しはしたが、そういった会話の内容を、覚えておくつもりはなかった。千尋との気楽で刺激的な関係を楽しむうえで、必要ないと思っていたのだ。
 十歳年下の青年に、深入りする気は毛頭なかったはずなのに――。
 無意識に苦い笑みを浮かべた和彦に気づかず、千尋は話し続ける。
「先生への誕生日プレゼントに、俺がゴルフ道具一式を贈るっていうのはどう? けっこう本気で、先生と一緒にゴルフをやりたいんだよ。俺たちって、共通で楽しむ趣味がないからさ、これを機会に……」
 長嶺組の後継者というだけでなく、総和会会長の孫としても大事にされている青年が、共通の趣味を持ちたいと懸命に語りかけてくる姿は、いじらしいという一言に尽きた。
 和彦は、千尋の髪を撫でてやる。
「誕生日に、高価なものをプレゼントしてもらうつもりはない。特に、お前からは。当日に、おめでとうの一言でも電話で言ってもらえたら十分だ」
「でも先生、俺の誕生日のときは、一緒に祝ってくれただろ」
「ぼくは、いつもと変わらず過ごさせてもらったほうがありがたい。それに、当日は仕事だしな」
 千尋は不満そうに唇を尖らせはするものの、自分の意見を押し通そうとはしなかった。代わりに、というわけではないだろうが、甘えるように和彦の肩先に頭を擦りつけてきた。
「……ゴルフの件は、考えておく。別に、やりたくないわけじゃないんだ。ただ今は、クリニックのことに手一杯で、趣味に使える時間はほとんどない」
「じゃあ、暖かくなった頃は?」
「そうだな。初心者同士、こそこそとコースに出てみるか……」
 パッと頭を上げた千尋は、目を輝かせている。あまりに現金すぎる反応に、清々しさすら覚える。
 千尋の髪を撫でてやろうとして和彦は、ふとあることが気になり、さりげなく問いかけた。
「千尋、ぼくの誕生日のこと……、誰かに話したか?」
「ううん。俺だけで先生を祝いたかったから、誰にも話してない」
「……いい性格してるな、お前……」
 和彦は顔をウィンドーのほうに向け、思考を巡らせる。
 千尋の、ある意味可愛いともいえる企みは、すでに破綻している。和彦はもう、三田村や秦に自分の誕生日について話したし、南郷の動きからして、総和会も把握済みと考えるほうが自然だろう。
 そして、何より無視できない男にも――。
「もしかして今、オヤジのこと考えてる?」
 ふいに耳元で、ゾクリとするような囁きが吹き込まれる。ビクリと肩を震わせた和彦が振り返ると、強い輝きを放つ目が、心の奥まで穿つようにじっと見つめていた。
 和彦は短く息を吐き出すと、手荒く千尋の頬を撫でる。
「違う。……ぼくの誕生日まで、落ち着かない日が続きそうだと思ったんだ」
「へえ、なんか心当たりあるの?」
「心当たりというか――」
 澤村と会う件で秦に協力を求めたことを、賢吾には報告してある。秦と中嶋と連れ立って動いて、賢吾の耳に入らないはずがない。だったら最初から報告しておいたほうが、精神的に楽だと考えたのだ。そもそもあの男に隠し事など、したくはなかった。バレたときが怖すぎる。
 自分が生まれた日を迎えるだけだというのに、神経を遣い、根回しし、煩わしいと思う一方で、気遣われる自分の立場がくすぐったくもある。そういう状況に慣れない和彦の心理は、『落ち着かない』と表現するしかなかった。
 和彦の気持ちにすり寄るように、千尋が甘えた声で尋ねてくる。
「先生、部屋に寄っていい?」
 わずかに体温が上がるのを感じながら和彦は、千尋の頬を優しく撫でてやった。


 グラスに注いだオレンジジュースを飲んでいると、まるで人懐こい犬のように背後から千尋がじゃれついてきた。腰に回された剥き出しの腕に何げなく触れると、まだ濡れている。和彦は、手の甲をパシッと叩いて注意した。
「千尋、しっかり拭かないと、風邪を引くぞ。それと、何か着ろ」
「えー、どうせすぐに脱ぐじゃん」
 明け透けなことを言う千尋を、肩越しに振り返って軽く睨みつける。シャワーを浴びたばかりの千尋は、かろうじて腰にタオルを巻いているが、ほぼ裸だ。滑らかな肌を水滴が伝い落ち、しなやかな筋肉に覆われた体を、さらに魅力的に見せている。
 きれいな千尋の体の中で、左腕だけは様子が違う。かつては生々しく見えたタトゥーが、部分的に色が薄くなり、代わりに赤みの強いケロイドが目立っている。ようやく痛みが取れて包帯を外したそうだが、それも数日のことだ。来週には、またレーザーを当てるらしい。
 和彦は体の向きを変えると、傷に触れないように気をつけながら、タトゥーを指先でなぞる。千尋は小さく笑い声を洩らして、和彦の耳に唇を押し当ててきた。
「先生のほうが、痛そうな顔してる」
「……患者の傷を診るのは、全然平気なんだがな。よく知っている体にできた傷だと、なんだか自分が痛めつけられているように感じる」
「よく知ってる、か……。本当に俺の体のこと、よく知ってる?」
 挑発的なことを言った千尋に片手を取られ、タオルの上から欲望に触れさせられる。和彦も負けじと挑発的に言い返した。
「少なくとも、〈これ〉のことは、お前の体のどこよりも知っているつもりだ」
 指先でまさぐった千尋のものは、すでに硬くなりつつある。
「先生、大胆」
「お前のノリに合わせてやっただけだ。こんな恥ずかしいこと、お前以外の誰に言えるっていうんだっ……」
「だったらついでに、恥ずかしいこともしてほしいな」
 照れたように笑った千尋だが、向けられる眼差しは、否とは言わせない傲慢さに満ちている。
 和彦は唇を吸われ、耳朶を舐られてから、露骨な命令を下された。立ったままの千尋の前に膝をつくと、腰に巻かれたタオルを床に落とす。すでに発情している千尋のものを、片手で扱き始めた。
 和彦の手の中で欲望はあっという間に成長し、熱くしなる。興奮を抑え切れなくなったのか、千尋が和彦の濡れた髪を掻き乱し、とうとう頭を押さえつけてくる。逆らうことなく和彦は、ゆっくりと唇を開いて千尋のものを口腔に含んだ。
「先、生っ――」
 千尋が頼りない声を上げ、この瞬間、和彦の中にゾクリとするような疼きが駆け抜ける。自分にできる限り、この青年を甘やかし、快感を味わわせたくなる。その衝動が、今の和彦の欲望の源となっていた。
 千尋のものを口腔深くまで呑み込み、柔らかく吸引する。熱く湿った粘膜と舌を駆使して、吸い付き、まとわりつく感覚を与えて千尋を高ぶらせていくと、頭にかかった手に力が加わり、喉につくほど深く欲望を押し込まれる。
 和彦は苦しさに小さく声を洩らし、唇の端から唾液を滴らせていた。それに気づいた千尋が、慌てた様子で頭から手を放す。
「ごめん、先生っ……。苦しかったよね」
「……大丈夫だ」
 そう答えて和彦は、すぐに千尋のものに舌を這わせる。いつの間にか、着込んでいたバスローブの前が乱れ、和彦の肩が露になる。千尋は慰撫するように剥き出しの肩に触れ、次いで、首筋を撫で上げてきた。和彦がくすぐったさに首をすくめると、次の瞬間、強い力で肩を掴まれた。
「先生、ベッドに行こう」
 有無を言わさず引き立たされ、寝室へと連れて行かれる。
 ベッドに押し倒され、覆い被さってきた千尋に唇を塞がれそうになったが、すかさず和彦は千尋の口元をてのひらで覆って拒む。不満そうな顔をした千尋に、子供を諭すような口調で言った。
「――さっきの続きはさせてくれないのか? ぼくは、お前を甘やかす気満々なんだが」
 嬉しそうに顔を綻ばせた千尋は、和彦のバスローブを脱がせながら、ある提案をしてくる。さすがの和彦も困惑するが、淫らな好奇心が上回る。千尋の欲望に引きずられたのかもしれない。
「んっ……」
 体を横向きにして、千尋の欲望を再び口腔に含む。同時に千尋が、和彦の欲望を口腔に含んだ。
 頭を互い違いにして、欲望を含み合う行為は、初めてだ。この行為を試してみたいと考えたこともない。身を焼かれるような羞恥が和彦を苛むが、一方で、とてつもなく淫らな行為に耽っているという実感に酔いそうになる。
 しかし、千尋はもっと大胆で、行動的だった。
「うっ、ああっ……、千尋、この格好は、嫌だっ」
 ベッドに仰向けとなった千尋の上に、和彦はうつ伏せで体を重ねる。それだけではなく、千尋の眼前に、秘裂がよく見えるように両足を開いた姿勢で。そして和彦の眼前には、身を起こした千尋の欲望がある。
 さすがにあまりにはしたない格好に、理性が欲望に勝ろうとしたが、おもしろい遊びを発見した子供のように、千尋の好奇心は旺盛だった。
「すげー、いやらしいよ、先生」
 ぐいっと腰を引き寄せられ、和彦のものは熱い感触に包み込まれる。顔を伏せて呻き声を洩らし、腰を震わせていた。
「……バカ、千尋っ……」
 せめてもの抵抗で、絞り出すような声でこう言った和彦だが、千尋の上から逃れることはできなかった。千尋の指が、内奥の入り口をまさぐり始めていたからだ。
「あっ、あっ、あうっ――」
 指に続いて触れたのは、柔らかく濡れた感触だった。熱くなったものは指の輪で緩く扱かれ、腰が震える。千尋は明らかに、いつもとは違う攻めに戸惑う和彦の反応を楽しんでいた。
「もしかして、こういうの初めて?」
「当たり、前だ。誰がこんな、恥知らずなことを、す、る……」
「だったら俺が、先生にいやらしいこと教えてあげてるってことか」
 内奥に指が押し込まれ、声を上げた和彦はヒクリと背をしならせる。意識しないままその指を締め付けてしまうが、その様すら、千尋にすべて観察されているのだと思うと、気が遠くなりそうだ。
「嫌……だ。千尋、これは、嫌だ」
「でも先生、すごく興奮してるよね。甘やかしてもらうつもりだったけど、今は俺が、先生を甘やかしたい気分だ」
 ひくつく内奥の入り口を、千尋の舌先がくすぐるように舐めてくる。たまらず和彦は腰を揺らし、吐息をこぼす。ここで、欲望を漲らせた千尋のものが目に入った。
 和彦は何も考えず、顔を近づけ、舌を這わせる。途端に千尋の下腹部が緊張し、和彦の愛撫に反応した。
 しかし、互いを愛撫し合う時間は、そう長くはなかった。
 興奮を抑えきれなくなったのか、和彦の体はあっさりとベッドの上に投げ出され、千尋がのしかかってくる。熱くなった下肢を擦りつけられ、ゾクゾクするような疼きを自覚した和彦は、思わず顔を背ける。千尋に、ベロリと首筋を舐め上げられた。
「――先生、体中真っ赤になってる。興奮した?」
「恥ずかしかったからだ……」
「可愛いなー」
 からかわれていると感じた和彦は、ますます顔を背けようとしたが、すぐに体を強張らせる。千尋に高々と片足を抱え上げられたからだ。
 ハッとして見上げた先で、千尋はしたたかな男の顔で笑っていた。
「入れるね、先生」
 和彦は咄嗟に唇を噛み、はしたない声を堪える。しかし、声を上げるよりさらにはしたない――正直な反応を晒してしまう。
 若く猛々しい千尋のものに内奥をこじ開けられ、強く刺激された瞬間、体を波打たせるように身悶え、和彦は精を噴き上げていた。
「うっ、うくっ……ん」
 かまわず千尋が腰を突き上げ、収縮を繰り返す内奥に欲望を捻じ込んでくる。和彦は荒い呼吸を繰り返しながら、必死にシーツを握り締め、律動を受け止める。力加減を忘れかけているのか、乱暴に突き上げられるたびに体の位置が動き、ベッドから落ちそうになる。
「千、尋っ……、少し、待ってくれ――」
「ダメ、待てない。先生の中、よすぎっ……」
 和彦がすがるように見つめると、その視線に気づいたのか、千尋がようやく動きを止め、大きく息を吐き出す。抱え上げていた和彦の片足を下ろすと、甘えるようにしがみついてきた。
 体で感じる千尋の重みと体温が心地いい。和彦は両腕を千尋の背に回し、目を閉じる。
「俺、先生に抱き締めてもらうの好き」
 突然の千尋の告白に、目を閉じたまま和彦は笑う。
「ぼくも、お前を抱き締めるのが好きだ。……というより、抱き合えるのがいい。ほっとする」
「うん。先生が体の力を抜いてくれてるって、よくわかる」
「お前も、そうしてくれるからだ。無防備な体を、互いに預け合っている感じだ」
 だからこうして目を閉じていても、安心していられる。こう思った瞬間、和彦の中をある感覚が駆け抜けた。反射的に目を開くと、千尋に顔を覗き込まれていた。
「先生?」
「……なんでもない」
 千尋の頭を抱き寄せて、和彦はもう一度目を閉じる。それが合図のように、千尋がゆっくりと律動を始める。
「あっ、あっ、あぁっ――」
 千尋にきつくしがみつき、しなやかな体の感触だけでなく、内奥を行き来する熱い欲望の感触も堪能する。これ以上なくしっかりと繋がっているのだという感覚が、たまらなく気持ちいい。
 そう実感すればするほど、さきほどの感覚が無視できないほど存在感を増していく。
 身震いしたくなるような強い疼きが、背筋を這い上がっていた。内奥に押し入る欲望を強く締め付け、千尋を呻かせる。
 耳元で繰り返される激しい息遣いを聞きながら、和彦はあの夜のことを――守光の自宅に泊まったときに起こった出来事を思い返す。
 顔を薄い布で覆われ、手首を緩く縛められて、長い時間をかけて〈誰か〉と繋がった感触は鮮烈だった。相手にしがみつけず、ただ、愛撫と欲望を与えられ、受け入れるしかないのだ。その行為に和彦は感じた。
 何から何まで違う千尋との行為で、あの夜のことを思い出す理由は、ただ一つしかなかった。
 千尋の動きに余裕がなくなり、内奥深くを抉るように突き上げられる。ある感覚を予期して、内奥の襞も粘膜も、淫らな肉もすでに歓喜していた。
「んあっ、はっ……、千尋、千尋っ……」
「……先、生」
 疾駆していた獣が動きを止める。数瞬遅れて、和彦の内奥深くに熱い精が注ぎ込まれ、千尋の欲望が脈打ち、震える。それらを感じながら和彦は、恍惚とする。自覚もないまま、また絶頂に達していたのかもしれない。
 長嶺の男の血を分け与えられているようだと感じるのは、理屈ではなく、感覚的なものだ。そして同じ感覚を、守光の自宅に泊まったときに感じた。
 和彦だけでなく、千尋もまた、感じるものがあったのだろう。呼吸を落ち着かせてから、こう問いかけてきた。
「――先生、感じ方、変わった? なんかすごく、気持ちよさそうだった。それに俺も……怖くなるぐらい、気持ちよかった」
 千尋の表現は正確だった。和彦の体は、長嶺の男を好んでいる。受け入れるたびに感覚はより研ぎ澄まされ、大きな悦びを生み出す。最初は千尋に、次に賢吾、そして――。
 口を開く力も残っていない和彦は、甘えるように千尋に頬ずりし、目を閉じた。


 眠り込んでいる千尋をベッドに残し、簡単にシャワーを浴びた和彦は書斎に入る。さすがにまだ眠るには早い時間で、ちょっとした仕事を片付けておこうと思ったのだ。
 コーヒーの入ったカップを傍らに置き、クリニックに届いた郵便物を確認する。宛て名は、表向きの経営者になっているが、セミナーの案内の返信から、学会誌の取り寄せまで、すべて和彦が管理していた。クリニックを任せると言われた頃は、他人の名を自分が使うことに抵抗があったが、今ではすっかり慣れてしまった。
 表の世界から姿を消すのと引き換えに、和彦はさまざまな経験を積み、技術を得ている。医者として人並みの向上心はあったつもりだが、今の環境は、望んだ以上のものを否応なく手に入れていた。
 ただしそれは、美容外科というより、かつて目指していた救急外科の領域のものが多い。
 淡々と手を動かしながら、つい考え込んでいると、前触れもなく声をかけられた。
「――先生」
 いつの間にか、ドアの隙間から千尋が顔を覗かせていた。和彦が顔を綻ばせると、ほっとしたように千尋が大きくドアを開ける。
「入っていい?」
 和彦が頷くと、しっかりスウェットの上下を着込んだ千尋が書斎に入ってきた。
「何してんの?」
「クリニック関係の書類を片付けていた。組に提出したり、会計士さんに直接渡したり、ぼくのほうで管理したり……いろいろだ。暇なときにしておかないと、すぐに溜まる」
「手伝おうか?」
「大丈夫。もうほとんど済んだから」
 答えながら和彦は、肩にかけた上着を直す。すると千尋が背後から抱きついてきたので、クシャクシャと頭を撫でてやる。
「寝てていいんだぞ」
「先生と一緒にいるほうがいい」
「……はいはい」
 書斎にいても千尋は退屈だろうと思ったが、和彦の予想とは違い、体を離した千尋はきょろきょろと室内を見回している。書斎に入ることは滅多にないので、珍しいようだ。
「ちょっと気になったんだけど――」
「なんだ」
「写真とか飾らないんだね、先生って。あと、絵とかも。小物も置いてない。書斎以外の部屋は、オヤジの趣味丸出しだからどうでもいいけど、この書斎だけは、先生が好きなようにしてるだろ? でも、いかにも先生らしい、ってものがない」
 千尋の感覚は本当にバカにできないと、率直に和彦は思う。
 千尋が言うとおり、和彦は自分の好みや生活が一目でわかるようなものを、身の周りには置かない。物心ついたときから苦手で、そう思い込み続けているうちに、とうとう興味がなくなった。
「恥ずかしいから、置かないんだ。ときどきこっそりと、自分一人で楽しんだり、眺められたらそれでいい」
「俺は、知りたいな。先生の好きなものはなんでも」
 千尋が本棚に歩み寄り、並んだ本の背表紙を眺め始める。何か興味を引く本でもあるのだろうかと思った和彦だが、どうも様子が違う。
「……千尋、どうかしたのか?」
「先生のアルバムはないかと思って。それか、卒業アルバム」
「そこにはないぞ。卒業アルバムは実家に置いてあるし、ぼく個人のアルバムは本棚には並べてない――」
 ここで和彦は自分の失言に気づくが、もう遅かった。目を輝かせた千尋が側にやってきて、片手を出す。和彦はため息をつき、デスクの一番下の引き出しを開ける。そこに、プライバシーに関わるものはすべて入れてあるのだ。
「ぼくの写真なんて眺めても、おもしろくないだろ」
「まさか。むしろ逆。興奮して手が震えそう」
 バカ、という和彦の呟きすら、千尋の耳には届いていない。嬉しそうな顔をしてアルバムを開き、大げさな声を上げた。
「先生、美少年っ」
「……はいはい、ありがとう」
「あとでオヤジに自慢してやろう。先生のアルバムを見たって」
「それは勘弁してくれ……」
 そんなやり取りを交わしてから和彦は、千尋の反応をあえて見ないよう気をつけながら、素知らぬ顔をしてコーヒーを啜る。
 だが、一通りアルバムを見た千尋に、こう指摘された。
「このアルバム、先生が中学生や高校生の頃の写真ばかりだよね。もっと小さい頃の写真は、別のアルバム?」
「――ぼくのアルバムは、それだけだ。子供の頃の写真はない」
 短い沈黙のあと、千尋はアルバムを開いたままデスクの上に置いた。和彦は久しぶりに、高校の制服を着た自分の写真を見ることになる。入学式の日に撮ったもので、困ったような顔をして高校の門の前に立っていた。
「先生、写真撮られるの苦手だろ。どの写真も、全部同じような顔して写ってる。困ったような、照れたような顔」
「ああ。友達と一緒に写るのも嫌だった。このアルバムの写真は……絶対残しておいたほうがいいと言われて、仕方なく撮ったものだ」
「だから、入学式と卒業式の写真が多いのか。本当に、記念の日に撮ったような写真ばっかり」
 話しながら、千尋が再び背後から抱きついてくる。写真を眺めながら和彦は、当時の記憶が蘇るのを感じ、意識しないまま表情を和らげていた。少なくとも、写真を撮ったときは嬉しかったのだ。
 カメラを構えた人物の、自分のことのように喜んでいる顔を見ているだけで――。
 和彦の様子を、ただ過去を懐かしんでいるだけだと思ったのか、千尋が柔らかな声で言った。
「今でも、先生にカメラを向けたら、こんな顔してくれる? 可愛いよね。初々しいっていうか」
「……まあ、無理だな。この頃のぼくは、もういないんだから」
 こう答えた瞬間、ほろ苦く切ない想いが胸を駆け抜ける。
 ただしこの感情は、今の和彦のものではない。写真に写る和彦が、当時胸に抱えていた想いだ。それこそ、初々しく、何も知らなかった頃の。
 当時の記憶に片足を掴まれそうで、吹っ切るように和彦は、千尋の髪を手荒く撫でる。
「お前は、生まれた頃からの写真がたくさんありそうだな」
「もう、すげーよ。段ボールにどっさり。オヤジが無頓着な分、じいちゃんがすごくてさ」
 容易に想像できる光景だが、微笑ましさに顔を綻ばせるには、少々抵抗がある。なんといっても、普通の家庭の話ではないのだ。
「今度、お前の写真を見せてくれ」
「いいよ。ついでに、俺と先生の写真撮ってもらおうよ。俺、先生の写真を一枚も持ってないし」
 嫌だと言いかけた和彦だが、真剣な顔をした千尋がさらにこう続ける。
「――家族写真だと思ってさ。せっかくだから、いっぱい撮ろう」
 和彦は露骨に顔をしかめながら、それでもぼそりと応じた。
「考えて……おく」
 千尋が満面の笑みを浮かべ、つられて和彦も淡く笑む。
 甘えるように千尋が肩に額を擦りつけてきたので、和彦はできる限り優しく頭を撫でてやる。
 佐伯家の内情を詳しく知らないはずの千尋が慰めてくれているようで、なんだか温かい気持ちになったのだ。









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