と束縛と


- 第19話(4) -


 何かと気忙しい日常生活を送っている和彦だが、それでも、一人になれば寛げる程度には、精神的なゆとりは持っている。
 順応性が高いとか、柔軟な神経をしているとか、表現の仕方はいろいろあるだろう。どれも自分に当てはまっていると、和彦は自覚している。とにかく何が起ころうが、貪欲に受け止めてきたはずなのだ。
 書斎にこもり、何をするでもなくデスクについた和彦は、深々とため息を洩らし、数瞬の逡巡のあと、小物を入れてあるボックスからメッセージカードを取り出す。一昨日、澤村から渡された誕生日プレゼントの財布に入っていたものだ。
 もう何度となく眺めているのだが、それでもこうして手に取り、流麗な字を指先で撫でる。そうしながら実は、この字を書いた人物の記憶を丹念に辿っていた。
 懐かしさや切なさが心の奥から溢れてくるが、同時に、どうしようもない罪悪感めいた苦しさも湧き起こっている。感情の奔流に身を置くことで和彦は、自分がどうしたいのか――どうするべきなのか、必死に考えようとしていた。
 澤村と会うことで厄介な問題を片付けたはずが、新たに別の問題を背負っただけなのだ。しかも今度は、迂闊に人には相談できない。
 このメッセージカードを書いた人物は、和彦にとって特別で、大切な存在だ。だからこそ、きれいな思い出のまま胸の奥に残っている。会いたくないわけではないが、会いたいというわけではない。
 ヤクザのオンナとなっている現状を知られたくなかった。一方で、そう思ってしまう自分を、ひどく許せなくもある。
 今の和彦を、複数の男たちが大事にしてくれており、そんな男たちの気持ちを踏みにじっているように感じるのだ。
 どれだけため息をつこうが、胸を塞ぐ重苦しさは少しも楽にはならない。
 和彦はデスクの引き出しを開け、そこに入っている化粧ケースを眺める。この歳になって誕生日を祝ってもらうものではないと、実は密かに思っていた。
 実家からの、なんらかの意図が見え隠れするプレゼントだけでも持て余しているというのに、総和会会長からもプレゼントを贈られたとなると、扱いに困る。本当は返したいのだが、守光の顔に泥を塗るまねもできず、結局、守光の側近にお礼の言葉を託けた。間に人を入れることで、守光との接触を避け、賢吾に対応を相談する手間も省いたのだ。つまり、和彦の独断だ。
 化粧ケースを開き、ブレスレットをてのひらにのせる。ブレスレットのひんやりとした感触と重みは、守光との関係を暗示しているようで、怖い。
 男たちから何かを贈られるたびに、和彦は確実に束縛され、いままでの自分とは違う何かに変化していくと感じるのだ。愉悦すら覚えながら。
 ブルッと大きく体を震わせた和彦は、慌ててブレスレットを仕舞うと、代わりに、デスクの上にきちんと置いた腕時計を両てのひらで包み込む。
 三田村がクリスマスにプレゼントしてくれた腕時計を、和彦は愛用している。いつでも慈しみ、支えてくれる誠実な男の想いを、常に肌で感じていたいからだ。本当は、贈ってくれた本人が側にいてくれるのが一番なのだが、若頭補佐という肩書きを持つ三田村にそれを求めるのは酷だろう。
 急に気持ちが高ぶり、和彦は唇を引き結ぶ。もう半月以上、三田村に会っていなかった。
 最後に会ったとき、バレンタインと和彦の誕生日が話題となり、ずいぶん会話が弾んだのだ。
 その後、自分の身に起こった出来事を思い返し、たまらず和彦は書斎を出る。ダイニングで子機を取り上げると、すぐに三田村にかける。
 夜八時を過ぎたとはいえ、仕事から解放されていないようだ。三田村の携帯電話は留守電に切り替わり、和彦は失望が声に出ないよう気をつけながら、一応用件を吹き込んでおいた。
「……別に、用はなかったんだ。ただ、声が聞きたくなった。最近、ぼくもバタバタしていて、なかなか電話もできないから……。本当に、それだけなんだ。それじゃあ、もう切るから」
 電話を切った和彦は、もう書斎に戻る気にもなれず、だからといってリビングで寛げる心境でもない。この落ち着かなさはなんだろうかと思いながら、静かなダイニングを見回す、そしてすぐに、納得のいく答えを見つけた。
 たまらなく人恋しいのだ。もちろん誰でもいいから側にいてほしいわけではなく、今顔が見たいのは、たった一人の男だけだ。
 わがままを言えば、無理をしてでも駆けつけてくれるだろうが、優しく誠実な男を困らせるのは、和彦の本意ではない。
 だったらせめて気分転換ぐらいしようと、手早く着替えを済ませる。着込んだダウンジャケットのポケットに小銭だけを入れ、部屋の鍵を手に和彦は部屋を出た。
 一人でタクシーに乗って、ふらりと夜遊びに出かける――はずもなく、目的地は、近所のコンビニだ。誰にも知らせず和彦ができる冒険は、せいぜいこれぐらいだ。それを窮屈だと感じないのは、見事に今の生活に順応しきったということだろう。
 コンビニまで数分ほどの道のりを歩きながら、白い息を吐き出す。二月の夜の空気は切りつけてくるように冷たく、和彦はマフラーと手袋をしてこなかったことをすでに後悔していた。
 熱い缶コーヒーだけを買うと、コンビニ前に置かれたベンチに腰掛ける。すっかり冷たくなった手を温めながら、ぼんやりと目の前の通りを眺める。
 本当はすぐに帰るつもりだったが、たまに通りかかる人や車を眺めているうちに、立ち上がるきっかけを失っていた。部屋に戻ったところで、またメッセージカードを取り出して、思い出に浸ることを思えば、こうして寒さに身を晒しているほうがマシだ。
 だが、さすがに体が冷えきってきた。
 ダウンジャケットを着ていても体温がどんどん奪われていくようで、和彦は強張った息を吐き出す。
 身震いした拍子に、足元に置いた空き缶が倒れて転がった。緩慢な動作で拾おうとした和彦は、アスファルトの地面に伸びた人影に気づいて動きを止めた。
「――車で通りかかって、目を疑った。まさか先生がこんな時間に、一人でコンビニの前にいるなんて、思いもしなかったからな」
 耳に届いたハスキーな声は、明らかに怒っていた。和彦が顔を上げると、無表情がトレードマークのはずの男は、声同様、少し険しい表情をしている。
「三田村……」
 側まで歩み寄ってきた三田村が、転がった缶を拾い上げてゴミ箱に入れる。
「一人で出歩いたりして、何かあったらどうするんだ。先生は、組にとって……、今は総和会にとっても大事な人なんだ。誰に目をつけられても不思議じゃない。連れ去られでもしたら――」
 やや視線を逸らして話す三田村を、和彦はじっと見つめる。その視線に気づいたのか、ふいに三田村は黙り込んだ。
 二人が沈黙する間に、コンビニに数人の客が出入りする。その様子を横目に見ながら和彦は、感覚がなくなりつつある指を擦りつけ合う。すると突然、三田村に腕を掴まれて引き立たされ、駐車場に停めた車に連れて行かれた。
 車に乗り込んだ三田村は、すぐにエンジンをかける。暖房を強くしてから、次に和彦の手をきつく握り締めてきた。
「氷みたいに冷たくなっている。どれぐらい、あそこにいたんだ」
「……多分、一時間ぐらいだ。コーヒーを飲んだらすぐに帰るつもりだったけど、なんとなく、部屋に戻りたくなくて」
「先生からの留守電に気づいて、何度も電話したのに出ないから、心配した。……運転していて、気が気じゃなかった」
 もう片方の手も握ってもらい、燃えそうに熱い三田村の手の感触に、和彦はほっと吐息を洩らす。この感触が恋しくてたまらなかったのだ。
「用があったわけじゃないんだ。ただ、声が聞きたかっただけだ」
 そう応じると、すかさず三田村に顔を覗き込まれる。ヤクザらしい鋭い眼差しは、和彦が隠そうとしているものを容易に見抜いたようだ。
「――前に、似たようなことがあった。先生が俺に電話してきて、切羽詰った声ですぐに会いたいと言ってくれた」
 ああ、と声を洩らした和彦は、苦笑を洩らす。あのときは、鷹津や秦の存在で心を乱されていたのだ。そして今は――。
 うかがうように三田村を見ると、先回りして言われた。
「俺は、何があっても立ち位置を変えない。先生は、俺みたいな人間を、自分の〈オトコ〉だと言ってくれるんだ。先生がどれだけ立派な男たちに求められて、大事にされても、俺はそんな先生をずっと守って、想い続ける。先生は何も遠慮しなくていい。俺の反応なんて気にしないでくれ」
「組長から、何か聞いているのか?」
「いや……。ただ、先生と総和会の交流が活発になっているという話は、伝わっている。先生の価値を思えば、いろんな人間が先生と接触を持ちたがっても不思議じゃない」
 和彦が長嶺組と関わりを持ったときから、ずっと側にいる三田村だ。和彦と関わりを持つ人間が増えるということは、何を伴ったものなのか簡単に推測できるだろう。察してくれ、の一言すら必要ない。すでにもう三田村は察しているのだ。
 車内が暖められていくに従い、握られた和彦の手もゆっくりと体温を取り戻していく。和彦はそっと三田村の手を握り返した。
「――……組から言われるままに患者を診て、クリニックを経営して、物騒な男たちから大事にされて、ときどき、こうしてあんたと会う。ぼくは、長嶺組の力で守られている世界に順応したし、十分満たされている。だけど、ヤクザの世界はそんなに甘くなかったみたいだ」
「つらいことを強要されたのか?」
 問いかけてきた三田村が、次の瞬間には苦々しい表情となる。
「と、俺が先生に言えた義理じゃないな。ヤクザと関わった先生に、最初につらいことを強要したのは、この俺だ」
「その分、今はあんたに支えてもらっている」
 手を握り合っているだけでは我慢できなくなり、和彦は三田村にしがみつく。三田村はしっかりと抱き締めてくれた。
「……つらいとか嫌とか、そう感じることをやらされているつもりはないんだ。相変わらずこの世界の男たちは、ぼくを大事にしてくれる。それこそ、大事にされたいがために、ぼくはどんなことも受け入れているぐらいだ」
 自嘲ではなく、事実だった。守光の部屋での出来事は、まさにそれだろう。
「そんな自分を自覚しているつもりだったのに、急に我に返って、不安になったんだ。いろいろと、考えることがあって……」
 澤村と会っても平気だったのに、メッセージカードの字を見てからずっと、和彦の気持ちは揺れている。あの字を書いた相手は、和彦に大きな影響を与えた人物であり、今いる世界の男たちのように、和彦を大事にしてくれた。
「ぼくは、このままでいいのか?」
 自問するように呟くと、和彦の背を撫でながら、三田村が思いがけず激しい言葉で応じた。
「――先生が嫌だと言っても、俺は、先生をこの世界から逃す気はない。組長のためでも、千尋さんのためでも、長嶺組や総和会のためですらない。俺は俺のために、先生を捕まえておく。先生が泣き叫ぼうが、衰弱しようが、俺は先生の足を掴んで放さない」
 覚悟しておいてくれと、鼓膜に刻み付けるように囁かれ、和彦は三田村の腕の中で体を震わせる。三田村の言葉に感じてしまったのだ。
「絶対……、苦労するからな」
「先生といると、いままで経験したことがないぐらい、俺は楽しい。味わう苦労なんて、それに比べたらささやかなもんだ」
 和彦が顔を上げると、荒々しい感情をぶつけてくるように三田村に唇を塞がれる。同じ激しさで和彦は口づけに応えた。


 互いの体をソープで丁寧に洗いながら、目が合うたびに照れを含んだ視線を交わす。
「……初めてのときみたいだ」
 三田村がシャワーヘッドを手にしたところで、和彦はようやく口を開く。いまさら、初心な小娘のように恥ずかしがっても仕方ないと、開き直りにも似た心境になっていた。
 別に、裸を見られることに抵抗はない。ただこの状況は、ある出来事を鮮やかに思い起こさせる。
「初めて?」
 和彦の目に泡が入らないよう気をつけながら、三田村は繊細な手つきで髪を洗ってくれる。三田村が借りている部屋に泊まるとき、よく一緒にシャワーを浴びているが、狭いバスルームではゆっくりもできないし、戯れるなど論外だ。
 だが、この場所では――。
「あんたと初めて寝たのは、余裕がなくて駆け込んだラブホテルだった。今夜も、まったく同じだ」
「手っ取り早くことを済ませたがっているようで、こういう場所を使うのはどうかと思うんだが……、我慢できなかった」
 率直な三田村の言葉に、シャワーの熱気以外のもので和彦は体を熱くする。三田村の体にてのひらを這わせ、自分から身をすり寄せて、背の虎も撫でてやる。
「場所なんてどこでもいいんだ。あんたを欲しいと思って、こうして感じられるなら。それに、こういう切羽詰った感じは、けっこう好きだ」
「……先生は、性質が悪い」
 水音に紛れ込ませるように三田村が洩らし、背に優しくシャワーの湯をかけてくれる。
 車の中で貪るような口づけを交わし、その余韻が冷めないうちに、一番近くにあるラブホテルに車を走らせた。どんなに切羽詰って余裕がなかろうが、和彦のマンションで体を重ねるという選択肢だけは、二人の中にはなかったのだ。
 部屋に入ると、身につけているものを互いに脱がせ、もつれるようにバスルームに向かい、そして体を洗い合う。
 限界にまで高まった情欲を、すぐにぶつけて消耗してしまうのがもったいなかった。反面、すぐにでも三田村が欲しくてたまらない。
 全身の泡を洗い落としながら、三田村と何度となく唇を触れ合わせ、舌先を擦りつけ合う。同時に和彦は、刺青の虎を撫でることに夢中になっていた。普段は優しい虎だが、撫でれば撫でるほど、甘えてくれるどころか猛ってくるのだ。
「湯に、浸かりたい……」
 和彦が訴えると、すぐに三田村は体を離し、バスタブに湯を溜め始める。こちらに向けられた三田村の背は濡れており、誘われるように背後に歩み寄った和彦は、指先を這わせる。濡れた虎の刺青は生気が漲っているようで、強烈に和彦を惹きつけるのだ。
 湯の温度を確認していた三田村が、肩越しに振り返る。手首を掴まれ、まだわずかしか湯の溜まっていないバスタブに一緒に入り、抱き寄せられる。
「こういうところに来て、いいと思えるのは、浴槽が広いことだな」
 和彦の言葉に、三田村が生まじめな顔で応じる。
「大胆な発言だ」
「――大胆っていうのは、こういうことを言うんだ、三田村」
 和彦は、三田村の両足の間に顔を伏せると、すでに熱くなっている欲望に唇を押し当てた。
「先生っ……」
 三田村が驚いたような声を上げ、遠慮がちに頭に手をかけてきたが、かまわず和彦は行為を続ける。
 片手で三田村のものを扱き上げながら、先端を優しく吸い、舌を這わせる。三田村はいつも、和彦がこの行為に及ぶとき、最初は遠慮がちで、申し訳なさそうな反応すら見せる。和彦は、そんな三田村を唇と舌で変化させていくのが好きだった。
 何度も大きく息を吐き出す三田村の反応をうかがいながら、逞しさを増していく欲望を丹念に舐め上げ、唇で締め付けるようにして扱き、口腔の粘膜でしっとりと包み込む。
 行為の間も湯は溜まり続け、伏せた顔が浸かるまでそう時間は残っていない。和彦の口淫が熱を帯びようとしたとき、思いがけない三田村の言葉が降ってきた。
「――先生、顔が見たい」
 三田村の掠れた囁きに、和彦は羞恥で全身を熱くしながら、小さく首を横に振る。すると、三田村の手があごにかかった。
「見たいんだ。俺を感じさせてくれている先生の顔が」
 そうせがまれ、三田村の欲望を口腔で愛撫しながら、顔をわずかに上向かせる。三田村が唇に笑みを湛えているのを見て、このまま消えたくすらなったが、狂おしいほどの欲望の前に羞恥心は呆気なく消えてしまう。
 和彦は、三田村を見上げながら、愛撫を続けていた。
 この男には、自分のあさましい部分を見る権利があると思った。和彦にとって、ただ一人の〈オトコ〉だからだ。
 三田村が苦しげな表情を浮かべた次の瞬間、口腔深くまで呑み込んだ欲望が爆ぜ、熱い精を迸らせる。和彦はすべて受け止めて、嚥下していた。
 顔が湯に浸かるギリギリの瞬間まで、まだ硬さを失わない欲望に愛撫を施し、三田村に引き起こされる。和彦の体はバスタブに押し付けられ、背後から三田村に挑まれた。
「三田、村っ……」
「つらいだろうが、我慢してくれ」
 和彦が口腔で育てた欲望が、内奥をこじ開け始める。バスタブの縁に必死にすがりつきながら、それでも和彦は三田村を受け入れる。解されないままの挿入はつらくはあるが、三田村の荒々しさを喜ぶ気持ちのほうが上回っていた。
「あっ、うあっ、ああっ」
 突き上げられるたびに、腰が揺れる。双丘を限界まで割り開かれ、繋がる部分を三田村に見つめられているのがわかった。その三田村の視線を受け、内奥の入り口がひくついていることすら。
「んうっ――」
 深くしっかりと繋がると、三田村の両手が体中に這わされる。和彦は小さく声を洩らして、内奥からじわじわと湧き起こる肉の悦びと、愛撫の心地よさに身を委ねる。
 バスタブに湯が溜まるにつれ、体にかかる負担が軽くなっていた。背後から緩やかに突き上げられるたびに、簡単に腰が揺れ、背をしならせる。前屈みとなった三田村が、背をじっくりと舐めてくれ、たまらず和彦は伸びやかな喘ぎ声を上げる。
「体、温まってきた」
 三田村が耳に唇を押し当て、囁いてくる。ささやかな感触にすら感じた和彦は、首をすくめて応じた。
「……中が、すごく熱いんだ……」
「ああ、俺も感じている。先生の中が熱い」
 バスタブの縁を掴む和彦の手に、三田村の手が重なってくる。もう片方の手が両足の間に差し込まれ、和彦のものは大きな手に包み込まれた。
 和彦は押し寄せてくる快感の波を予期して、震えを帯びた吐息を洩らした。


 三田村の腕に頭をのせ、背に回したてのひらで虎の刺青を撫でるというのは、和彦にとっては至福の時間だ。三田村は、そんな和彦の顔を見つめながら、目を細めている。
「なんだか、嬉しそうだな」
 三田村の表情に気づいて和彦がそう指摘すると、あっさりと頷かれた。
「先生が満足そうな顔をしているから、見ているこっちも嬉しくなる」
 和彦はちらりと笑みをこぼすと、目の前の三田村の唇に、自分の唇を重ねる。ベッドに移動して、たっぷりと時間をかけ、何度となく繋がって極め合ったあとだというのに、もう三田村が欲しくなっていた。ただ、気持ちはそうでも、体が欲望に追いつかない。
「気持ちよかったんだから、そういう顔にもなるだろ」
 小さな声で和彦が言うと、三田村が動揺したように視線をさまよわせた。和彦は声を洩らして笑ったあと、三田村のあごの傷跡を舌先でなぞる。
「――こういう時間が持ててよかった」
 吐息交じりに三田村が洩らし、まだ濡れている和彦の髪を指先で梳いてくれる。
「先生の誕生日前後に二、三日まとめて休みを取りたかったが、無理だった」
「誕生日当日、とは言ってくれないのか?」
「俺には、そんな大事な日に先生を独占できる権利はない」
 こうして触れ合ってはいても、和彦と三田村の関係は恋人同士ではない。和彦がいくら三田村を、自分の〈オトコ〉だと言っても、それが通じるのは二人の間だけだ。組にとって三田村は、若頭補佐であり、組長のオンナの〈犬〉なのだ。
 三田村は、そんな自分の立場をわきまえている。そうであるよう、心身に叩き込んでいるのだろう。
 この男らしいと思いながら和彦は、小さくあくびを洩らす。現金なもので、人恋しさを満たしてしまうと、今度は緩やかな眠気が押し寄せてくる。三田村の側だと、いくらでも無防備になれるのだ。
「朝、仕事に間に合うよう起こすから、安心して休んでくれ」
 三田村の優しい声に頷いたとき、すでに和彦は目を閉じていた。その状態で会話を続ける。
「……気をつかってもらうほど、ぼくの誕生日なんて大したものじゃないんだけどな」
「だったらせめて、ケーキを買っておこうか?」
 三田村のその言葉が冗談か本気か、まったく読めない。和彦は薄く目を開くと、じっと返事を待っている三田村の表情を確認する。どうやら本気で言ったらしい。
「誕生日プレゼントは、もういらない。あんたからはもらった。こうしてぼくに会いに来てくれて、それだけで十分だ。記憶にもしっかり残ったしな」
「誕生日、誕生日と騒ぎ続けたら、本気で先生に嫌われそうだな……」
「ああ、嫌ってやる」
 笑いを含んだ柔らかな声で答えた和彦は、ごそごそと身じろいでから、三田村の胸に顔を寄せる。
 背に獰猛な動物を背負いながらも、誰よりも優しい男の体温を感じながら考えるのは、誕生日までに自分がすべきことだった。
 今いる世界の男たちは、猛々しくて狡猾で、ときには残酷ですらある。必要があれば、何を使ってでも和彦を雁字搦めにして、逃がしはしないだろう。だが、そういった男たちの執着が、和彦には息苦しくある一方で、心地よく、愛しい。
 今手放してしまえば、もう二度と手に入らないものだとわかってもいる。だから――。
 和彦の心の揺れを読み取ったわけではないだろうが、三田村の片腕にしっかりと抱き締められる。和彦は安堵の吐息を洩らし、虎に守られながら眠る贅沢を堪能することにした。




 やや緊張しながら和彦は、手にした携帯電話に視線を落とす。いまさら確認するまでもないのだが、液晶には二月七日の金曜日と表示され、時刻はもうすぐ十二時半になろうとしていた。
 クリニックにはすでに患者の姿はなく、電話番のスタッフ以外は昼休みに入っている。
 和彦はいつものように白衣を脱ぎ、代わってコートを羽織る。財布と携帯電話をポケットに入れると、昼食をとりに行くとスタッフに告げてクリニックを出た。
 一階に降りるまでの間、和彦は大きく響く自分の鼓動を聞いていた。自然な態度を装ってはいるが、内心はこれ以上なく緊張しているのだ。そのため、指先まで冷たくなっている。
 ビルを出て、素早く周囲を見回してから歩き出す。長嶺組の組員にクリニックへの送迎をしてもらっている和彦にとって、日中、組員の目を気にせず自由に出歩ける時間は昼休みしかない。
 ビルから少し歩いて、大通りへと出る。この辺りに来ると飲食店が多く並んでおり、和彦は店を捜すふりをして、さりげなく背後をうかがう。思ったとおり、護衛の組員はついてきていなかった。
 信頼されていると喜んでいいのだろうかと、苦々しく唇を歪める。
 一年近く組長のオンナとして、組に協力する医者として、従順に過ごしてきて積み上げてきた信頼を、こんな形で利用することになるとは、和彦自身、思ってもいなかった。
 賢吾の恐ろしさを知っているからこそ隠し事はしたくないが、今から和彦が取る行動は、決して賢吾を――関係を持っている男たちを裏切るためのものではない。
 そう自分に言い聞かせながら、和彦はもう一度、今度は慎重に背後を観察してからタクシーを停める。
 行き先を告げてタクシーが発進すると、プツリと緊張の糸が切れた。奇妙な解放感すら味わいながら、微かな震えを帯びた息を吐き出す。
 和彦はコートのポケットをまさぐり、財布に触れる。これは前から使っているもので、誕生日プレゼントとして佐伯家から贈られた財布は、相変わらず書斎のデスクの中だ。ただ、今日はメッセージカードだけは外に持ち出し、財布のカードポケットに納まっている。
 二人きりで会いたいと書かれているメッセージカード一枚で、無謀にも護衛をつけず、それどころか行き先すら誰にも告げないまま出向くことの危険性を、和彦はよく理解している。それでも行動を起こしたのは――。
 タクシーは、見覚えのあるホテルの前で停まる。昨年、澤村とランチを食べたのが、このホテル内にある中華料理店だった。メッセージカードに書かれた待ち合わせ場所は、同じホテルのガーデンラウンジだ。
 和彦がどこで生活し、仕事をしているのか不明なうえ、都合を尋ねることもできないため、無難にこのホテルを選択したのだろう。その配慮のおかげで、こうして仕事の合間に足を運べた。
 正面玄関からロビーに足を踏み入れると、和彦は周囲を見回し、露骨に警戒する。トラウマになっているのか、兄の英俊が姿を現しそうで怖かったのだ。もちろん、そんなことはありえないだろう。メッセージカードを書いた人物は、和彦を騙すようなまねはしない。そう信じているのだ。
 大きな池と日本庭園を眺められるガーデンラウンジは、眺めのよさや、昼時ということもあってか、けっこうなにぎわいを見せていた。
 案内のスタッフに待ち合わせであることを告げて、ホールを見回す。そして、窓際のテーブルにつく、それらしい人物の姿を見出した。仕立てのいい明るいグレーのスーツを見事に着こなした体は、しっかりと引き締まっており、貫禄すら感じる。だが、全身から漂う雰囲気は柔らかい。
 変わっているようで、変わっていない。その人物の存在を認めた瞬間から、和彦の心臓は壊れたように鼓動が速くなる。
 ゆっくりとした足取りでテーブルに近づく。すると、こちらから声をかけるより先に気配に気づいたらしく、熱心に庭を眺めていたその人物がスッと和彦を見た。
 目が合っただけで、胸に甘苦しさが広がる。さまざまなことを考えて危惧し、警戒していたが、すべて吹き飛んでしまった。
 柔らかな髪をきれいに撫でつけた髪型は、相変わらずだ。もう四二歳になるはずなのに、育ちのいい青年のような屈託ない笑顔も変わらない。
「――久しぶりだね、和彦くん」
 この呼び方も、声の穏やかさやイントネーションすら同じだ。
 大きく息を吐き出した和彦は、込み上げてくる感情をぐっと胸の奥に押し込み、ぎこちなく笑い返す。
「本当に……、久しぶりだ、里見(さとみ)さん」
 和彦が応じると、里見は嬉しそうに目を細めた。









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