と束縛と


- 第2話(2) -


 段ボールに本を詰め込んでいた和彦は、インターホンが鳴って手を止める。一瞬ドキリとしたのは、賢吾が迎えにきたからではないかと思ったせいだが、次の瞬間には、それはないと否定する。
 自分の都合で和彦を連れ回す男だが、身の安全を考えてか、朝のうちに絶対に連絡を入れてきて、三田村とともに部屋まで迎えにやってくる。知り合って間もないとはいえ、賢吾が一人になったところはまだ見たことがなく、必ず組の人間を一人は連れていた。あらかじめ決めたスケジュールの中で、賢吾は和彦を振り回しているのだ。
 今朝、賢吾から電話はなかったので、つまり会う予定はないということになる。
 組関係しか人づき合いがなくなってしまった自分に自嘲気味な笑みを洩らしつつ、和彦はインターホンに出る。画面に映った人物を見て、会話もそこそこに慌てて玄関に向かった。
「澤村っ」
 ドアを開けた和彦は、段ボールを抱えた澤村の姿を改めて認めて、声を上げる。クリニックを辞めてから、もう澤村と顔を合わせることはないと思っていたのだ。
 困惑する和彦に対して、澤村はこれまでと変わらない笑みを向けてくる。無駄に爽やかなその表情を見ていると、なんだか嬉しくなった。
「……どうかしたのか」
「クリニックに残っていたお前の荷物を持ってきた。お前は、適当に処分してくれと言っていたけど、専門書はなかなか手に入らないものもあるし、何より高いしな」
 クリニックに写真が送られてきた日のうちに和彦は、辞める旨を電話で事務局に伝え、デスクの片付けなどもすべて任せてしまった。あれから一度もクリニックに顔を出さず――出せるはずもなく、必要な書類などのやり取りを終えたあとは、それで居心地のいい職場との縁は切れたと思っていた。
 だが、今日こそが本当に最後らしい。澤村から段ボールを受け取ってから、和彦はほろ苦い感情を噛み締める。
「わざわざすまない。……住所がわかってるんだから、送ってくれたらよかったのに」
「アホ。俺がお前の顔を見たかったんだよ。ああいう別れ方のままだったから、気になってたんだ。本当はすぐにでも来たかったが、お前なりに落ち着く時間も必要かと思ってな。お前の荷物は俺が個人的に預かってた」
 そこまで言われて、玄関先で追い返すわけにもいかない。和彦は、散らかっているけどと前置きしてから、澤村を部屋に上げた。
「お前、引っ越すのか?」
 ダイニングに通すと、驚いたように澤村に問われる。和彦は受け取った段ボールを、すでに置いてある段ボールの上に置いてから、キッチンに行く。
「……ああ。生活を一新させるついでに、新しい部屋に移ろうかと思って」
「ということは、もう次の部屋は見つけたのか」
「まあな」
 本当は和彦自身は、引っ越しのことまで考えが至っていなかったが、今のマンションよりさらにセキュリティーがしっかりしたマンションに移るよう、賢吾に指示されたのだ。当然、引っ越し先のマンションを借りたのも、賢吾だ。家賃も長嶺組が持つらしく、引っ越せば、本格的に囲われ者生活の始まりだ。
「仕事のほうは?」
「ああ、そっちも心配ない。次の職場のメドもついている」
「本当か? 自惚れるつもりはないが……、俺を心配させまいと思って、ウソなんて、ついてない……よな?」
 ペーパーフィルターにコーヒーの粉を入れていた和彦は、一度手を止めてから、すぐに何事もなかったようにゆっくりと湯を注ぐ。
「心配するな。本当だ。――……澤村先生が、ぼくにそんなに友情を感じてくれていたなんて、意外だな」
「茶化すなよ。俺は、お前とくだらないことを言い合うのが、けっこう気に入ってたんだ。俺と張り合うレベルぐらいにはイイ男だと、認めてたんだぜ」
 なんとも澤村らしい言葉に、久しぶりに和彦は屈託なく笑うことができた。そしてふっと現実に戻る。
 何事もなかったように話してくれる澤村も、和彦が辱めを受けながら感じている写真を見ているのだ。あんな目に遭った和彦がどんな選択をしたのか知ったら、軽薄そうに見えて人のいい元同僚は、どんな顔をするだろうか――。
 こんなことを想像して胸が痛むのは、和彦が抱えた未練を如実に表しているといえる。平気なふりをしているが、普通の生活に未練がないわけがないのだ。いや、未練だらけだ。本当は、どこかに逃げ出したい。
 だがそれを実行する勇気も行動力も、あいにく和彦は持ち合わせていない。何より、毒のように刺激的で甘い日々がじわじわと、和彦の爪先から侵食してきている。素直には認めがたいが、誰かにすべてを強引に決められる生活は、楽だった。賢吾は和彦を拘束はしておらず、ある程度の自由も与えてくれている。
 こんなふうに骨抜きにされ、飼い殺されていくのだろうかと考えながら、和彦は淹れたコーヒーをカップに注ぎ、テーブルに運ぶ。
「それで、新しい住所はどこなんだ? 仕事が休みの日だったら、引っ越しを手伝うぞ」
「あー、手伝いは大丈夫。人手だけは嫌というほどあるから」
 自嘲気味な和彦の言葉に、不思議そうに澤村が首を傾げたが、すぐに気を取り直したように、辺りを見回した。
「なんか書くもの貸してくれ。お前の新しい住所をメモしておく」
 和彦は軽く目を見開いてから、唇を歪めた。
「――……澤村」
「んっ?」
「お前もあんな写真を見たら、薄々何かは感じているだろう。……ぼくは厄介事に巻き込まれている。下手したら、お前にも迷惑をかけるかもしれない。だからもう、ぼくに関わるな」
「おい――」
 澤村が腰を浮かせて何か言いかけたが、それを制して和彦は首を横に振る。
「あんなおぞましいものを見ても、こうして来てくれたお前には感謝しているし、嬉しい。だからこそ、そんなお前にもし迷惑をかけたとき、ぼくがどう感じるかを考えてくれ」
「……お前、その言い方は卑怯だぞ」
「すまない」
 澤村は苛立ったようにくしゃくしゃと前髪を掻き乱してから、乱暴に息を吐き出した。
「わかったよ。お前が巻き込まれた厄介事のほとぼりが冷めるまで、会うのは控える。だけど、電話はするからな」
 最近、似たようなことを別の人間にも言われたなと思いながら、和彦は笑って頷く。そこで、千尋に伝わるのを恐れて告げていなかった携帯電話の新しい番号を、やっと澤村に教えることができた。
 それから二人は、コーヒーを飲みながら他愛ない話をしていたが、ふと思い出したように澤村が切り出してきた。
「そういえば、お前が気に入っていた犬っころのウェイターくん、あの店を辞めたらしいぞ」
「ちひ――」
 危うく、『千尋』と名を呼んでしまいそうになり、慌てて和彦は言い直す。
「長嶺くんが?」
「ああ。最近見かけないから、てっきり昼から夜の勤務になったのかと思ってたんだ。だけど数日前に店の女の子に聞いたら、急に辞めたらしい。……がっかりする客もいるだろうな。お前も、じゃれつく犬っころの相手をするように長嶺くんを可愛がってたから、教えてやろうと思ったんだ」
 カフェでのバイトを辞めたなど、千尋は一言も言ってなかった。和彦が見る限り、まじめに働いていたので、よほどの理由がなければ辞めるとは思えない。そして和彦は、その〈よほどの理由〉に心当たりがあった。
 和彦は口元に手をやり、眉をひそめる。千尋はもう、和彦と自分の父親の関係を察している。そのことが、千尋になんらかの行動を起こさせるきっかけになったのだとしたら、和彦は無視するわけにはいかなかった。
「どうかしたのか、佐伯」
「……いや、クリニックを辞める前に、もう一度あの店に顔を出せばよかったなと思って。そうしたら、長嶺くんに挨拶ぐらいできたかもしれない」
「そうだなー。こうも突然だと、寂しいよな」
 澤村の口調には、わずかな苦さが込められていた。昼休みによく通っていたカフェから馴染みのウェイターがいなくなっただけでなく、クリニックからは和彦もいなくなったのだ。寂しいというのは、澤村の本音なのかもしれない。
「今のクリニックが居心地悪くなったら、お前の新しい勤務先を紹介してもらおうかな」
「そうだな……。ハンサムで腕のいい医者が足りないようだったら、お前の名前を出しておいてやるよ」
 そう和彦が応じると、満足そうに笑って澤村は頷いた。


 澤村を見送った和彦は、部屋に戻るとすぐに携帯電話を取り上げ、ある番号にかけた。
『先生っ?』
 すぐにコール音は途切れ、勢い込んだ千尋の声が鼓膜に突き刺さる。
『どうかした? あっ、これから一緒に昼メシ食おうよ。俺、美味い店見つけたんだ』
 パタパタと尻尾を振る音が聞こえてきそうなほど、千尋は上機嫌だった。何も知らない頃なら、可愛い奴だとのん気に思いながら笑えたのだろうが――。
 和彦はため息をついてから切り出した。
「お前、カフェでのバイトを辞めたそうだな」
『……なんで知ってるの――ああ、澤村先生か』
「澤村が教えてくれなかったら、ぼくはずっと知らないままだった。お前は教えてくれなかったしな」
 黙り込んだ千尋だが、やっと気まずそうに話し始める。
『あそこのバイトは、本当はさっさと辞めるつもりだったんだ。だけど、先生と仲良くなりたかったし、仲良くなったあとも、仕事中にちょっとでも会えるメリットがあったから続けてたんだ』
 こうもはっきりと、和彦が目当てでバイトを続けていたと言われると、さすがになんと言えばいいのかわからない。少しだけ動揺した和彦は、バカ、と口中で洩らす。貶しているわけではなく、可愛いと思ってしまった自分の気持ちを誤魔化すためだ。
「それで、新しいバイトは見つかったのか?」
『んー、まだ。ここ何日かは、先生にとってはいろいろあっただろうけど、そんな先生のこと考えてたら、俺も何も手につかなくてさ。……会わないと言われて、かなりショックだったんだぜ、俺。しかも、俺のオヤジの組に世話になるとかさ。予想外すぎるだろ』
「悪かったよ……。だけど今は、お前の話だ。先週会ったとき、どうしてバイトを辞めたことを言わなかった。言ったところで、ぼくはなんの力にもならないと思ったんだとしても、せめて教えてくれてもよかっただろ」
『思ってないよっ』
 ムキになって千尋が声を張り上げる。携帯電話を耳から遠ざけた和彦は顔をしかめてから、声を抑えろと窘める。
『……ごめん。――先生が力にならないなんて、思ってないよ。ただ、言ったら怒られるかと思ったんだ。三田村もいたのにさ、そんなみっともないところ見られたくないよ」
 その三田村に和彦は、さんざん見られたくない場面を見られている。無意識に苦い表情となり、自分には千尋に偉そうなことを言える権利はないのだと痛感していた。
「ぼくのせいで、生活を変えるようなことはするな。お前は、いままで通りに生活していればいい。ぼくのほうも、まあとりあえず、医者として必要とされているみたいだから、すぐにはひどいことにはならないと思うし」
『先生、俺を雇ってよ。なんでもするから。俺が側にいたら、組の連中も先生相手に下手なことできないはずだよ』
 千尋からの思いがけない申し出に、和彦は目を丸くする。次に、笑みをこぼしていた。賢吾が、人任せであれ、どんな子育てをしていたのかは知らないが、とにかく千尋の精神が荒んでも病んでもいないことは確かだった。肉食獣の子供だとしても、子供は子供だ。やはり純粋で可愛いのだ。
「そこは安心しろ。ぼくは、組の人間に丁寧に扱われているから」
『先生が、俺の大事な人だから?』
「そう言ってもらえて光栄だな」
 電話の向こうで千尋が微かな笑い声を洩らし、続いてヒヤリとするようなことを言った。
『――それとも先生が、オヤジの特別な相手になったからかな』
 無邪気で素直で、頭を撫でられるのを待つ犬っころのような言動を取りながら、千尋はふいに、意図したように鋭い牙を覗かせる。和彦が何も知らないときは、そんな一面を隠していたのだろうが、今は違う。効果的に、怖い一面を見せてくる。純粋さから出る怖さだ。
 携帯電話を持つ和彦の手は汗ばみ、心なしか心臓の鼓動も速くなっていた。千尋には、賢吾との関係について話したくなかった。たとえ千尋が察しているとしても。
「千尋、今のぼくは考えることが多すぎて、お前との関係をどうしたらいいのか、よくわからない」
『考えなくていいよ。いままで通りなんだから。俺と先生の関係は変わらない』
「……ぼくは、そう簡単には割り切れない。お前には悪いが、男と寝る以外では、ぼくはいままで普通に生きてきたんだ」
 電話を切った瞬間に、激しい自己嫌悪に陥った。平穏な日常を奪われてから、いままで誰にもぶつけられなかった鬱屈した感情を、千尋にぶつけたと自覚したからだ。十歳も年下の青年に対して、八つ当たりしたのだ。
 千尋と関わったから今の状況があるのだが、だからといって千尋が悪いわけではないのに。
 和彦は携帯電話を折り畳むと、テーブルに突っ伏す。
 自分から電話しておいて勝手だが、やはりもう、千尋とは会わないのはもちろん、電話もしないほうがいいと思った。それがきっとお互いのためだ。




 嫌な光景だと、うんざりしながら和彦は腕組みをする。むしろ、悪夢と呼んでもいいかもしれない。
 千尋との関係を思い、やや落ち込んでいた和彦だが、その一方で千尋の父親は多忙ながらも日々精力的らしい。
 和彦はサングラスの中央を押し上げると、はあっ、とため息をついて視線を他へと向ける。一目でデザインや造りのよさを感じさせ、当然のように値の張る家具――主にベッドが並ぶフロアには、明らかに男女のカップルが多かった。しかも、幸せそうなオーラを全身から発しているような。
 スーツ姿の男二人で訪れている客は、見た限り、和彦たちしかいなかった。しかも、一人はサングラスをかけて不機嫌全開の顔をしており、もう一人は、ちょっと近寄りがたいほどの精悍な顔立ちをして、熱心にキングサイズのベッドを見ている。
「……ありがた迷惑だ」
 和彦がぼそりと呟くと、三田村がこちらを向く。
「何か言ったか?」
「なんで新しい部屋に入れる家具を、あんたに選ばれなきゃいけないんだ」
 声を潜めてはいるものの、どうしても怒りが滲み出る和彦の言葉に、いつものように生まじめに三田村が応じる。
「選んだのは俺じゃない。あらかじめカタログを見て、組長が選んだ」
 サングラスを外した和彦は、皮肉っぽい笑みを浮かべて言い放つ。
「あの組長、ベッドの上でもことに及ぶ気があるのか? 一人暮らしの男の部屋には、普通はキングサイズのベッドなんて必要ない」
「――だとしたら、先生の部屋には必要だと思ったということだろう。組長が」
 三田村に冷静に切り返され、自分で言い出したことだが和彦の頬は知らず知らずのうちに熱くなってくる。
「ベッドの他に、サイドテーブルと、寝室に合うライトも買うように言われている。ソファセットやカーテンとカーペットの類は、もう新居に送るよう手配は済んでいる」
「……ああ、そう」
 引っ越しが間近に迫ると、急に準備が慌ただしくなってきた。和彦は一人でのんびりと部屋の片付けを進めていたのだが、昨日になって突然、女性数人が送り込まれてきて、和彦の見ている前で見事な勢いで荷物をまとめてしまった。おかげで和彦はホテルに移動することになり、挙げ句に、今朝早くに電話があって和彦の予定は勝手に決められ、三田村が迎えにきた。
 引っ越し祝いに家具を買ってやる、という賢吾の言葉を言付かって。
 そして連れてこられたのがこの家具店だが、買ってやるといいながら、当然のように和彦の意見は必要とされていなかった。
「千尋さんから、昨日か今日、連絡はあったか?」
 唐突に三田村に問われ、和彦は眉をひそめる。それが返事となったらしく、一人納得したように三田村が頷く。
「なかったんだな」
「質問の意図するところがわからない。千尋、何かあったのか?」
「いや。ただ、昨日の夜、先生をメシに誘いたいから、明日は先生を連れ回す予定はあるのかと聞かれた」
「仲良くベッドを買いに行くと、正直に言ったんじゃないだろうな……」
「近いことは」
 和彦が目を剥くと、三田村がほんの一瞬だが顔を綻ばせた。この男が笑ったところを見たのは、これが初めてだった。少々笑ったところで強面の印象は変わらないが、ただ、いつも和彦の生々しい姿を見ながら眉一つ動かさないこの男も、決して無感情な生き物ではないのだと強く印象付けられた。
「先生の家具を買いに行くと答えたのは本当だ。だったらそのあと、晩メシに誘おうかと言っていたから、てっきりもう、先生に電話しているのかと思ったんだ」
「……もし、行くことになったら、あんたもついてきてくれ」
 なぜ、と三田村が視線で問いかけてくる。和彦は端的に答えた。
「いろいろあって気まずい。だけど、突き放したくても、そうできない」
「優しいんだな」
 三田村からの意外な言葉に驚く。言われ慣れない言葉なので、少し照れてもいた。一方の三田村も、余計なことを言いすぎたといった様子で無表情に戻る。
 二人が黙り込むと、すぐ近くでベッドを選んでいるカップルの楽しげな会話が聞こえてきた。
「それじゃあ俺は、支払いと配送の手続きを済ませてくる。この辺りにいてくれ」
 小声で早口に囁いた三田村が、少し離れた場所で二人の様子をただ見守っていた店員に声をかけ、一緒に売り場を離れる。
 一人残された和彦は、周囲を見回してからまたサングラスをかけると、他の家具を見て回ることにする。気に入ったものがあれば、〈自分の金〉で買うつもりだった。
 寝室に置くチェストを、ベッドの色と合わせるべきだろうかと、忌々しく感じながらも思案していると、ふいに傍らから声をかけられた。
「――先生のサングラス姿、初めて見た」
 ハッとした和彦は、素早く隣を見る。ブルゾンを羽織った千尋が立っていた。
「千尋っ……」
「そうやってると、先生本当にカッコイイよね」
 サングラスをずらしてまじまじと千尋を見つめた和彦は、片手を伸ばして軽く千尋の髪を撫でてやる。
「若くてもっとハンサムなお前に言われると、なんだか嫌味に聞こえる」
「素直に受け止めてよ」
 そう言って屈託なく笑った千尋だが、次の瞬間には、凄みを帯びた眼差しを向けてきた。強い輝きを持つ目が、いつになく残酷なものを湛えているように感じ、和彦は警戒する。
「……お前、どうしてここにいる? 三田村さんに聞いたのか」
「オヤジが、気に入ったオンナに家具を買ってやるときは、この店を使うんだよ。それで、先生の家具を買いに行くと聞いて、もしかして、と思った」
 和彦が睨みつけると、悪びれた様子もなく千尋は肩をすくめて笑う。
「睨まないでよ。だって先生、オヤジのオンナじゃないって、断言できる?」
「ぼくは、男だ……」
「知ってるよ。何度先生と寝たと思ってるんだよ」
 こんな場所で明け透けなことを言うなと、ブルゾンの裾を掴んで引っ張る。すると、憎たらしいほどふてぶてしい表情を浮かべていた千尋が、今度は子供のように頼りない顔となる。不安定な千尋の様子に和彦は、怒りを覚えるよりも、心配になってきた。
「……千尋、お前どうかしたのか?」
「どうかしてるよ。先生が、電話であんなこと言うから……」
 千尋との関係をどうしたらいいのかわからないと、数日前に電話で言った和彦だが、実は言われた千尋のほうが、和彦以上に思い悩んでいたのだ。
「千尋――」
 和彦が話しかけようとした瞬間、千尋にいきなり腕を掴まれ引っ張られた。
「行こう、先生」
「待っ……、行くってどこに……」
「俺の部屋。……俺たちここんとこずっと、二人きりで過ごせてないんだよ」
 振り払えないほど、腕を掴んでいる千尋の手の力は強かった。それに、人がいる場所で痴話喧嘩のようなまねはできない。
 和彦は助けを求めるように三田村が向かったカウンターのほうを見るが、背の高い家具に阻まれて見渡すことができない。それに千尋は、カウンター近くのエスカレーターではなく、少し離れた場所にある階段を使おうとしていた。
「千尋、行くなら、三田村さんに何か言っておかないとっ」
「必要ない」
「でも――」
 千尋がふいに耳元に顔を寄せてきて、どこかおもしろがるような口調で言った。
「素直についてきてくれないと、今この場でキスするよ。――佐伯先生」
 千尋はこう言ったら、必ず実行する。短いつき合いながら性格の一端を掴んでいる和彦は、もう何も言えなかった。
 一緒に階段を下りようとしたとき、三田村が呼ぶ声を聞いたが、当然返事はできない。
 足早に家具店を出ると、千尋が待たせていたタクシーに押し込まれた。









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