と束縛と


- 第2話(4) -


 シャワーの湯を浴びながら和彦は真剣に、賢吾に助けを求めるべきかもしれないと考えていた。
「どういう育て方をしたら、あんなに底抜けの甘ったれになるんだ……」
 強い水音に紛れ込ませるように呟くと、背後からぴったりと〈何か〉がくっついてきた。
「何か言った、先生?」
 そう問いかけてきながら、千尋が両腕でしっかりと和彦を抱き締めてくる。片時も和彦と離れたがらない千尋は、シャワーを浴びるときも当然のように一緒だ。
 和彦は濡れた髪を掻き上げてから、タトゥーの彫られた千尋の左腕に手をかける。
「きちんと体は洗ったのか?」
「洗った」
「頭は?」
「もちろん」
 子供と保護者の会話だなと思いながら和彦は、つい苦笑を洩らす。もう二日、部屋に閉じこもって体を貪り合い、甘えてくる千尋をまといつかせる生活を送っていると、必然的にこういう会話を交わす空気になるようだ。
 あまり知りたくない新発見だと思っていると、千尋に体の向きを変えさせられる。正面から改めて抱き締められ、濡れた体は違和感なくぴったりと重なる。背を撫でてやっていると、成人した青年というより、甘えてくる愛玩動物のように感じられる。
 性的興奮を覚えないのはきっと、限界まで千尋に体を求められ、それに応えさせられたせいだ。
 若くて精力的な千尋は、猛々しい獣そのものだ。本能のままに和彦を組み敷き、熱い欲望を何度も打ち込んでくる。一方の和彦は、そんな千尋に振り回されて体力的に限界が近づいている。そもそも、受け入れる側のほうが負担は大きいのだ。
 じゃれついてのしかかられて、その流れで――というパターンがほとんどで、決して乱暴というわけでもないので、和彦は千尋を叱るタイミングを逸し続けていた。
 千尋の家の事情を何も知らずにつき合っている頃は、二人の逢瀬は長くてもほんの数時間のもので、半日も一緒に過ごすことはまずなかった。それが、千尋の父親公認となったうえで、二日も怠惰に二人きりの時間を過ごせるようになったというのは、皮肉としかいいようがない。
「先生……」
 千尋に壁に押し付けられ、腰がすり寄せられる。シャワーを浴びていただけだというのに、すでに千尋のものは熱くなっていた。
 唇を吸われてから、和彦は軽く千尋を睨みつける。
「朝しただろう」
「もう昼過ぎだよ」
「……お前はよくても、ぼくは無理だ」
 途端に千尋が悲しげな顔をしたので、和彦は頬をつねり上げてやった。
「お前の手だ。ぼくが、お前のその顔に弱いと知ってるんだろ」
「へえ、弱いの?」
 頬をつねられたまま千尋が目を輝かせたので、和彦はこれ以上話すのをやめる。シャワーの湯を止めると、千尋の手を取ってバスルームを出る。適当に体を拭いて裸のまま部屋に行くと、いつもとは逆に、和彦が千尋をラグの上に押し倒し、のしかかる。
「――……先生?」
「黙ってろ。ぼくは怒った。いつもいつも、お前は元気があり余り過ぎる」
 驚いた顔のまま硬直している千尋を見下ろし、いい気味だと思いながら和彦は顔を伏せた。
 千尋の、まだ水滴を残している胸元をゆっくりと舐め上げる。きれいな筋肉のついた体を優しくてのひらで撫でながら、滑らかな肌に丹念に舌を這わせ、ときおり吸い上げては、小さな赤い跡を残す。
 シャワーを浴びてそれでなくても上気していた千尋の肌は、興奮のためか、さらに熱く赤みを帯びていく。
「気持ちいいか?」
 みぞおちを辿って喉元まで舐め上げてから、千尋の唇に軽いキスを落とす。
「う、ん……。ゾクゾクして、たまんない気持ちに――」
 千尋が両手を動かそうとしたので、すかさず釘を刺した。
「お前は勝手なことをするな。ぼくの好きにさせないと、やめるぞ」
 和彦は、千尋の尽きることのない欲情を表しているものをてのひらに包み込む。柔らかく上下に扱きながら、千尋に言い諭した。
「今日はもうぼくに手を出さないと約束するなら、もっと気持ちいいことをしてやる」
 和彦がなんの行為を指しているのか十分にわかったらしく、千尋は大きく頷く。いい子だ、と囁いて、和彦はもう一度千尋の唇にキスを落とした。
 ヤクザなんかとつき合っているせいで、自分も人が悪くなったと苦々しく思いながら、和彦は千尋の若々しい体を愛撫し始める。
 水滴を舐め取るように丹念に唇と舌を這わせ、タトゥーも舌先でなぞってやる。胸の突起を口腔に含んで吸い上げてやると、千尋が深い吐息を洩らした。てのひらの中では、擦り上げているものがますます力を漲らせている。
 神妙な顔で寝転がっている千尋がおかしくて、顔を伏せたまま和彦はそっと笑い、それから腹筋のラインを舌先でなぞる。
 千尋の息遣いが荒くなってくるまで焦らしてから、逞しくなったものの先端にやっと舌を這わせて舐めてやる。
「うっ……、先生……」
 和彦が初めて施してやる行為だけあって、千尋の反応は素直だった。ラグの上で体をしならせ、足を突っ張らせる。硬く張り詰める腹筋をてのひらで撫でて宥めてやる一方で、口腔に含んだ欲望の興奮は煽る。
 深く呑み込んで粘膜で包むように吸引すると、千尋はひどく頼りない声を上げた。ただ、悦んでいるのは確かで、力強く脈打って欲望を溜め込んでいる。本人の性格通り、実に素直だ。
 舌を絡ませ唇で扱き上げながら、ときおり先端をたっぷり舐め回す。その最中に、千尋がおずおずと和彦に問いかけてきた。
「――……先生、オヤジにも、こんなことした……?」
 和彦は千尋のものを口腔から出すと、根元から先端に向けて舐め上げてやりながら答える。
「いや……。前戯に時間をかけない主義らしいから、こっちも従っている。ぼくだけこんなことさせられるのは腹が立つ」
 千尋が噴き出し、つられて和彦も笑ってから、再び熱い欲望を口腔に含む。時間をかけて愛撫し、千尋の放った精もすべて受け止め、飲み干す。
 ここまでしてやったからではないが、無防備に体を委ねながら声を上げる千尋は、可愛かった。




 ある意味、精力的ともいえるが、淫靡で怠惰な生活は、三日目に入ってあっさり終わりを迎えた。
 明け方、千尋に腰にしがみつかれたまま眠っていた和彦は、奇妙な金属音で目が覚める。半ば反射的に千尋の頭に手をかけ身構えていると、足音を押し殺して誰かが部屋に侵入してくる気配があった。
 いきなり電気をつけられて、まぶしさに目を細める。
「――起きろ、先生。仕事だ」
 室内に響いたのは、魅力的なバリトンだった。不躾な侵入者の正体がわかった和彦は、自分が急速にハードな現実に引き戻されるのを感じながら、顔をしかめる。一方の千尋はまだ夢の中らしく、小さく呻き声を洩らして和彦の胸元に顔をすり寄せてきた。
 ベッドの傍らに立った賢吾が、自分の息子を見下ろして、苦笑めいた表情を浮かべる。その表情を見た和彦は、賢吾も父親なのだと改めて認識させられた。常識の枠外にいるヤクザの組長は、口では親だと言いながら、実は千尋の存在をさほど気にかけていないのではないかと思っていたのだ。
 和彦の視線に気づいたのか、賢吾は唇を歪めるようにして笑って言った。
「俺のオンナだけじゃなく、今度は千尋の〈母親〉にでもなってみるか、先生?」
「……正気を疑うようなことを言うな」
 起きるよう指先で指示され、仕方なく体を起こす。それでようやく気づいたらしく、千尋も目を開けたあと、うんざりしたようにすぐまた目を閉じた。
「悪夢だ。なんか変なものが見えた……」
「お前も起きろ、バカ息子」
 賢吾が布団を剥ぎ取り、上半身裸の千尋の体が露わになる。獣のような動きで千尋が飛び起き、賢吾を睨みつけた。
「なんの用だよっ。言っておくけど、先生はまだ返さないからなっ」
 千尋が賢吾に食ってかかっている間に、和彦は、当然のように賢吾に付き従っている三田村に問いかけた。
「……どうやってここに入ったんだ。鍵もドアチェーンもかけてあったはず――」
「とっくに合鍵は作ってあるし、チェーンは非常事態ということで切った。あとで修理させておく」
 それを聞いた和彦は、寝乱れた髪を掻き上げて息を吐き出す。傍迷惑な父親と息子のケンカ――というより、千尋の一方的な宣戦布告は、防衛ラインをあっさり突破されて終了したのだ。
 巻き込まれた和彦だけが体力を消耗した気もするが、篭城ごっこは案外楽しかった。
 賢吾に向かって怒鳴っている千尋の頭を撫でながら、和彦は賢吾に視線を向ける。
「それで、仕事っていうのは?」
「よそから回ってきた仕事だ。一人、診てもらいたい人間がいる」
「……言っておくが、ぼくは美容外科が専門だからな。大事の外科手術なんて任せるなよ」
「それは、総和会の人間に言え。外に迎えが来ている。俺は、このバカ息子を迎えに来るついでに、道案内をしただけだ」
 いきなり総和会という名を出され、和彦は体を強張らせる。長嶺組という組織ですら忌々しいのに、その長嶺組が名を連ねているという組織名を出されて、何も感じるなというほうが無理だ。だいたい長嶺組に対してすら、いまだに警戒と嫌悪という感情を持ち続けているのだ。
 よほど怯えているように見えたのか、賢吾が声をかけてきた。
「心配するな。お前は、うちの組の大事な〈身内〉だ。そのお前の手を借りたいと言ってきたんだ。絶対に手荒なことはさせないし、乱暴な言葉も吐かせない。お前は、淡々と自分の仕事をこなしてこい」
 ここまで言われて嫌とは言えない。もっともらしいことを言っているが、賢吾も少し前には、手荒な手段を使い、恫喝して和彦を従わせたのだ。
「……着替えないと……」
 和彦が呟いてベッドを出ようとすると、すかさず目の前に紙袋が突き出された。三田村を見上げたあと、賢吾に視線を移す。
「パジャマ姿で行きたいなら止めないが、一応着替えを用意してきた。汚れたスーツを着る気にはなれないだろ」
 確かに、玄関での千尋との行為のせいで、和彦が着ていたスーツは汚れてしまった。篭城していたためクリーニングに出すこともできず、丸めたまま放っている。
 三田村の手から袋を受け取ると、傍らでは賢吾が千尋に対し、父親の強権を発動していた。
「お前は、このまま家に帰るぞ。文句を言うなら、ぶん殴っておとなしくさせてから、引きずっていく。そのために人手も用意してきた」
 どうやら賢吾と三田村以外に、部屋の外に組員がいるらしい。千尋に勝ち目はないなと思っていると、何言かのやり取りのあと、千尋は賢吾に屈服させられた。
 和彦が着替えている目の前を、賢吾に小突かれて千尋が歩いていく。思いきりふてくされた顔をしていた千尋だが、和彦と目が合ったときだけは、にんまりと笑いかけてきた。
 先に出ていると言い残して賢吾と千尋が部屋を出ていき、あとには和彦と三田村が残される。いまさら三田村に全裸を見られたところで恥ずかしくもない和彦は、ベッドに腰掛けたままパジャマを脱ぎ捨てる。
「……総和会の仕事には、あんたもついてくるのか?」
 サイズが大きめのコットンパンツを穿きながら問いかけると、三田村は首を横に振る。
「外で待っている車に乗ったら、先生は総和会の客だ。身柄の責任は、向こうが負うことになる」
「言い方を変えるなら、長嶺組は口出しするなということか」
「この先、先生はこういう仕事もこなすことになる。総和会は、十一の組の互助会みたいなものだ。それぞれの組から人を送り込み、手に余ることがあれば総和会が一旦預かって処理される。抗争の仲裁だけじゃなく、物品の仲介、必要な人材すらも紹介し合う。そうやって、組同士の関係を平和的に平等に保つ。――表向きは」
 なんとなく聞いていた和彦だが、三田村の物言いに興味をそそられる。
「実際は、平和的でも平等でもないということか」
「今、総和会の会長の座に就いているのは、長嶺組の前組長だ。つまり、総和会の中で長嶺組の発言力が強くなっている。十一も組が集まっていて、すべての組と相性がいいなんてことはありえない」
「ああ、長嶺組が気に食わない組もあるということか。……だったら、総和会を抜けると言い出す組はないのか?」
 和彦はコットンパンツのベルトを締めてからTシャツを取り上げる。
「総和会は互助会であると同時に、互いに監視し合う枠のようなものだ。一つの跳ね返りがいれば、処断は残りの組で。仮に、跳ね返りに賛同する組がいたとしても、総和会の調和を望む組もいる。十一という数は、なかなか絶妙だ。十という数だったら割り切れてしまうが、十一はそうもいかない」
「五分五分に分かれたとき、残り一つの組が数の主導権を握ることになる。ヤクザとしては、他の組にそんな美味しい役目はやれないから、下手に内輪揉めは起こさない、か」
 Tシャツを着込んだ和彦に対して、三田村は無表情に頷き、あまり嬉しくない言葉をくれた。
「先生、ヤクザのものの考え方を理解しているな」
「……それは、貶(けな)し言葉だぞ」
 三田村は唇の端をわずかに動かした。本人としては笑ったつもりなのかもしれない。
「なんにしても、組織として秩序と緊張感を持っているから、総和会は大きくなれたともいえる。持ち込まれた仕事をこなしておいて、損にはならない」
「長嶺組にとってか? それとも、ぼく自身にもメリットはあるのか?」
 三田村は答えなかった。和彦としても特に聞きたかったわけではないので、追及しないでおく。今はそれより、三田村が総和会についてきちんと説明してくれたことに満足していた。
 深入りしたくないから知らないでおくというのは、和彦が足を踏み込んでしまった世界では何より危険な行為だと、そろそろ認めなくてはいけない。
「――あの父子は、とんでもないことにぼくを巻き込んでくれたな、まったく」
 そう洩らして立ち上がった和彦だが、前触れもなく足から力が抜け、ベッドにまた座り込んでしまう。それを見た三田村が目を見開き、慌てた様子で側にやってきた。
「先生っ」
「大丈夫だ。ずっと千尋の相手をして寝転がっていたから、足の感覚が少しおかしくなっているだけだ。歩いているうちに、元に戻るだろ」
 和彦がもう一度立ち上がろうとすると、すかさず三田村が手を差し出してくる。和彦は手ではなく、三田村の腕を掴んでから慎重に立ち上がる。自然な動作で三田村の手が支えるように腰にかかった。
 初めて、こんなに間近で三田村という男を見たかもしれない。薄い手袋越しとはいえ、和彦の中の感触を知っている男だというのに、不思議な距離を取り続けていたことになる。
 こちらを気遣ってか、三田村がすぐに動こうとしないのをいいことに、和彦は間近からじっくりと観察する。和彦の視線とほぼ同じ高さにある三田村のあごの傷跡は明らかに、刃物のような刃が薄く鋭いものでつけられたもので、それだけでなく、腰にかかった左手の甲にも肉が抉れたような傷跡があった。
 和彦は片手で三田村のあごに触れ、指先を傷跡に這わせる。三田村は動じた様子もなく、じっと和彦を見つめてくる。
「――……千尋が言っていた。あんたは、組長の忠実な犬だって」
「俺も聞いた。その通りだ」
「ぼくを見守る仕事を与えられたあんたは、ぼくに関して見聞きしたことは、全部組長に報告するのか?」
「全部じゃない。俺が大事だと思ったことだけを伝える」
 なるほど、と呟いてから、和彦は体を離す。それでも三田村の腕は掴んでおく。
「……今から言うことは、ぼくの独り言だからな」
 三田村は返事をしなかったが、かまわず和彦は〈独り言〉を洩らした。
「千尋がこの部屋じゃなく、別の場所に一緒に逃げようと言ったら、ぼくは喜んでついていった。それから、可愛い犬っころのような千尋を騙して、今度は自分一人で逃げていた」
「あんたにその度胸はない。それができるなら、とっくに一人で逃げ出しているはずだ」
 素っ気なく応じられ、和彦は横目で三田村を睨みつける。
「他人の独り言を、バッサリ切り捨てるな」
「だったら先生も、俺を試すようなことはするな。俺は、先生よりずっと長く組に飼われていて、飼い主に逆らうことはしない。それは別に、暴力や恐怖で抑えつけられているからじゃない。俺にとって居心地のいい大事な場所を守るためだ。組長は、その場所の大黒柱だ。だから俺は、組長の犬でいる。それを恥じてもない」
 嫌な男だ、と心の中で吐き出してから、和彦は最後にもう一つ三田村に問いかけた。
「今交わした会話も、組長に報告するのか?」
「俺が大事だと思えば」
 それは答えになってないと思ったが、納得したふりをして、掴んでいた三田村の腕から手を離した。




 熟睡しているところを叩き起こされて不機嫌だった和彦だが、千尋の顔を見て、怒鳴る気も失せた。
「――……傷、手当てしてやろうか?」
 二つ並んだベッドに分かれて座ったところで、思わずそう問いかけてしまうほど、千尋の顔半分は派手になっている。
「こいつをあまり甘やかすなよ、先生。俺がなんのために、心を鬼にして拳を振り上げたと思ってるんだ」
 千尋の隣に腰掛けた賢吾が、ニヤリと笑いかけてくる。和彦は呆れて顔をしかめる。
「……あのあと、朝っぱらから千尋を殴ったのか?」
「こいつに説教していたら、あまりに聞き分けが悪いからな」
「ヤクザが説教……。性質の悪い冗談だ」
 さらに呆れた和彦は、ちらりと視線を部屋の隅に向ける。無表情の三田村の姿が、当然のようにあった。
 今朝早くの会話を思い出したが、あえて頭から追い払う。
 総和会からの依頼ということで、早朝に連れ出された和彦が向かったのは、ビジネス街のビルの一室に入った歯科クリニックだった。ただし、看板が出てはいたがすでに廃業しており、機材だけがそのまま残されていた。それと、血の匂い。
 和彦の他にかなり年配の医者も呼ばれており、大怪我を負った患者の手術を二人で行ったのだ。処置を必要とする箇所の多さと、年配の医者の震える手元の怪しさから、急遽、和彦が呼ばれたという話だ。
 患者は、一つ一つの怪我は致命的なものではなかったのだが、体のあちこちに負った刺し傷はひどいものだった。自分でつけた傷だと知らされゾッとはしたものの、和彦は自分から総和会の人間に質問をぶつけたりはしなかった。患者が薬物依存の果ての錯乱状態にあるとわかり、得るべき情報はそれで十分だと判断したのだ。長嶺組だけでなく、総和会の事情にまで首を突っ込む気はない。
 とにかく数時間に及ぶ手術を無事に終え、あとの処置を年配の医者に任せてから、宿泊しているホテルのツインルームに戻ってきた。
 神経の高ぶりを認識しつつも、ベッドに潜り込んで、ようやく一人での睡眠を手に入れたと思ったら――。
「……それで、なんの用だ。ぼくは豪華な夕食をご馳走になるより、このまま眠らせてもらったほうがありがたいんだが」
 和彦は、突如として押しかけてきた父子を睨みつける。ベッドに並んで腰掛けた賢吾と千尋は、視線を交わし合ってから、なんの前触れもなく千尋だけが深々と頭を下げた。
「先生、ごめんっ」
 意味がわからなくて賢吾を見ると、あまり品のよくない笑みを浮かべながら教えてくれた。
「お前を拉致して軟禁して、好き放題やったことを謝ってるんだ」
「……つい最近、ぼくは別の人間に、同じ目に遭わされたぞ。しかも、職も、普通の生活も奪われた。ああ、住んでいたマンションも、強引に移らされることになったな。他にいろいろと迷惑を被っているが、謝ってもらってない」
「だが、刺激的な生活を手に入れたろ。ヤクザの組長のオンナっていう立場も」
 ヌケヌケと賢吾に言われ、思わずカッとした和彦はベッドから腰を浮かせかけたが、イジメられた子供のような顔をしてこちらを見る千尋に免じて我慢してやる。
 そうだ。和彦は確かに千尋に甘い。
 自覚があるからこそ決まり悪くなり、和彦はベッドに腰掛け直すと、腕組みして尊大に言い放った。
「二度としないというなら、許してやる」
 現金なもので、この瞬間にはもう、千尋は目を輝かせる。息子の態度とは対照的に、父親のほうはニヤニヤしながら物言いたげな様子で和彦を見ていた。一瞬臆しそうになった和彦だが、ささやかな強気を貫く。
「……あんたは他人事みたいな顔をしているが、父親なら、しっかり息子を躾けろ」
「躾けているだろ。厳しく」
 そう言って賢吾が手を伸ばし、腫れて紫色になった千尋の頬を指先で弾く。千尋が声を上げた。
「いってーな、クソオヤジっ」
 そう怒鳴った千尋が、助けを求めるように和彦の隣にやってきて、腕にしがみついてきた。賢吾がどんな説教をしたのか知らないが、千尋はあまり反省していないようだ。それを見た賢吾が、目を細める。一見和やかな表情にも見えるが、和彦にしてみれば、獲物の品定めをしている物騒な表情に見えて仕方ない。
 賢吾に対して遠慮なくものを言っているようで、和彦は常に、賢吾との距離を計っていた。超えてはならない一線を超えると、容赦なく絞め殺されるぐらいの危機感は持っているつもりだ。
 ヤクザと接するとは、そういうことなのだ。
 和彦の警戒した眼差しに気づいているのかいないのか、賢吾がゆっくりと立ち上がる。たったそれだけの動作で、冷たい空気に頬を撫でられた気がして緊張する。しかし賢吾が発したのは、緊張感の欠片もない言葉だった。
「千尋も懐いていることだし、先生、本当に千尋の〈母親〉にでもなってみるか?」
 和彦は露骨に顔をしかめてみせる。
「用が済んだらさっさと帰ってくれ。本当に眠い――」
「うちのバカ息子を躾けるには、美味い餌が必要だ」
 この瞬間、気がついた。千尋は甘えるために和彦の腕にしがみついているのではなく、捕えておくためにそうしているのだと。
 顔を強張らせる和彦の前に、賢吾が立ち、あごを掴み上げられた。
「朝からずっと、千尋と話し合っていたんだ。こいつは、先生を組の身内として大事にしてくれるなら、家に戻っていいと言った。俺としてはもちろん、大事な先生を手放す気はないし、粗末に扱う気もない。……役に立ってくれる医者としても、俺のオンナとしても」
 体を屈めた賢吾に当然のように唇を塞がれ、あごを掴む指に力を込められてやむなく口を開けると、すかさず舌が入り込んできた。いつものようにねっとりと粘膜を舐め回され、唾液を流し込まれる。だが、さすがにこの状況で口づけには応えられなかった。すぐ隣に千尋がいる。
 その千尋が、賢吾を押し退けることもせず、和彦の耳元に顔を寄せてきた気配がした。
「――俺、家に戻る条件を、もう一つ出したんだ」
 ふいにそんなことを囁いてきた千尋に、ちろりと耳を舐められた。
 目を見開いた和彦の眼前で、賢吾の目が笑っていた。少しも優しさを感じさせない、獰猛な獣の笑みだ。
 ゆっくりと唇が離され、今度は千尋のほうを向かされる。千尋は、さきほどまでの甘ったれの犬っころのような空気を完全に払拭して、父親と同じような笑みを浮かべていた。
「千尋……」
「俺が出したもう一つの条件は、先生を、俺の〈オンナ〉にするということだ」
 顔を近づけてきた千尋に、賢吾の唾液で濡れた唇を指先で拭われてから、軽く吸われた。
「オヤジのやり方を踏襲した。俺もヤクザとして、欲しいものはこうやって手に入れることにしたんだ」
 そう言って千尋に再び唇を吸われ、賢吾がしたように口腔に舌が入り込んでくる。
 肉食獣の子供は、やはり肉食獣なのだと、嫌というほど和彦は痛感させられた。同時に、自分の甘さも。
 今度は賢吾の顔が耳元に寄せられる。
「さっき言ったとおり、俺はお前を手放す気はない。だから、俺と千尋の共同所有ということになる」
 千尋に舌を吸われながら、今度は賢吾に耳を舐められ、和彦は身震いする。たまらなくこの父子が怖いのに、体の奥では熱く淫らなものが蠢いていた。
 あごに賢吾の手がかかって千尋の唇から離されると、すかさず賢吾からまた深い口づけを与えられた。
「――しっかりバカ息子を躾けてやってくれ、先生」
 口づけの合間に囁かれた言葉は、しっかりと和彦の胸に刻みつけられた。
 和彦から強引に承諾の返事をもぎ取って、物騒な父子が部屋から出ていこうとしたが、ふと何かを思い出したように賢吾だけが引き返してきた。
 呆然としてベッドに腰掛けた和彦の肩に手をかけ、賢吾が耳元で囁いた。
「次に会うときは、たっぷり俺のものも舐めてもらうぞ」
 間近で目が合うと、笑いかけられた。
 ドアが閉まり、部屋には和彦と三田村だけとなる。なんの用だと睨みつけると、三田村は封筒を差し出してきた。
「先生の新しい部屋の鍵だ」
 受け取る気にもなれず、和彦はベッドに仰向けで倒れ込む。天井を見上げながら三田村に問いかけた。
「三田村さん、あんた、ずっと組長についてるんなら、わかるだろ」
「何を」
「どのぐらいで、あの組長は〈オンナ〉に飽きるのか」
「……俺が知る限り、組長は、一人の〈女〉とは一度しか寝ない。多分、先生の聞きたい答えの参考にはならないだろうな」
 鍵を置いて帰るよう言って、和彦は三田村に背を向けた。
 余計なことを聞かなければよかったと思いながら。









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