引っ越し先の部屋の居心地は、いいとはいえなかった。まだ慣れていないというのもあるが、目につく家具の一つ一つが自分が選んだものではないというのが、最大の原因だろう。
大きな窓につけられたカーテンも、足元で心地いい感触を与えてくれるカーペットも、腰掛けているソファも、文句なしに品はいいが、少なくとも和彦の趣味ではない。まるで高級ホテルのスイートルームにでもいるようだ。
高層マンションの広くてきれいな角部屋を与えてくれたことだけは、唯一評価してもいいのだろうが――。
所有したものには、徹底して自分の好みを押し付けるのがこの男のやり方なのだろうかと、和彦は正面のソファに腰掛けた賢吾に視線を向ける。
露骨に警戒している和彦の反応がおもしろいのか、長嶺組組長という肩書きを持つ男は、悠然と足を組んだ姿勢で寛ぎながら、じっとこちらを見つめていた。
今、四十五歳だそうだが、年齢からくる衰えは、この男からは一切感じられない。仕立てのいいダブルスーツに包まれた体は偉丈夫と表現してもいいだろう。いまだに賢吾の素肌のほとんどを見たことがないが、抱き締められるたびに和彦は、引き締まり、張り詰めた筋肉の存在を感じるのだ。
そのうえ、全身から発している威圧的な空気や、圧倒されるほどの力強さ、男としての色気が、賢吾の存在をより強烈にしている。
強烈すぎて、凶悪。狡猾で残酷な性格も合わせれば、完璧だ。
そんな男に目をつけられ、こんなマンションに住まわされることになった和彦は、自分が置かれた状況を嘆く気力も失われつつあった。
囲われ者らしく、部屋にじっとしていて、主の訪れを待つだけの生活――などは待っておらず、引っ越し前後から急に和彦は忙しくなった。
独立する意思などまったくなかった一介の若い医者が、突如としてクリニックの経営を任されるのだ。開業資金や空きテナント探しといったことは長嶺組に一任するとしても、実際にクリニックで患者を診ることになる和彦は、必要な医療機器や備品などを選定しなくてはならないし、そのことでクリニックの開業専門に手がけているコーディネーターからアドバイスももらわなくてはならない。
真っ当な準備の裏では、医師会や役所に提出する必要書類についても、〈工作〉しなくてはならなかった。賢吾がかつて言っていたが、クリニックの経営者として、別の人間を立てることにした。つまり名義を買うのだ。
長嶺組から紹介された会計士を相手に、すでに税務対策も考えてもらっている。これは和彦個人の問題というより、長嶺組の資金の出入りに関して、外部からの調査を警戒してのものだ。
患者相手にカウンセリングをして、手術をこなしていた生活とはあまりに違う毎日だ。慌ただしく出かけて人と会い、慣れないこの部屋に戻ってきてからは、書類と首っ引きになり、合間に数字と格闘もしなければならない。
とにかく忙しくて、疲れている。どうして自分がこんな状況に置かれたのか、嘆く気力も失われるのは当然のことだ。時間は常に慌ただしく過ぎていく。
「……開業の準備に関しては、毎日組に報告しているはずだ。わざわざこの部屋に来ることはないだろう」
うんざりしながら和彦が言うと、わざと聞こえないふりをしているのか、賢吾はリビングを見回した。この部屋を訪れたのは今日が初めてのため、賢吾は玄関に入ったときから、他の部屋はおろか、トイレやバスルームまでこうやってチェックしていた。
「まだ、殺風景だな。引っ越しの荷物は解いたんだろう?」
「あまりごちゃごちゃと飾るのは好きじゃない。それに、こんな広い部屋にたっぷり置けるほどの家具なんて、もともと持ってなかった」
一人暮らしなのに広い4LDKの部屋を与えられ、和彦はスペースを持て余していた。どの部屋にいても落ち着かないため、自分の荷物をどっさり運び込んだ書斎で大半の時間を過ごしている。
ふん、と思案するように声を洩らした賢吾が、こう言った。
「もっと家具を買ってやる」
「ああ、好きなものを買って、どんどん運び込んでくれ」
いらないと答えたところで賢吾が聞き入れるとも思えないので、和彦はそう答える。ニッと笑った賢吾は、ソファの傍らを指さした。
「ついでに、こいつも常駐させてやろうか? いい番犬だぞ。吠えないし、茶も入れてくれる」
笑えない冗談だと思いながら和彦は、賢吾が指さした先に視線を向ける。ソファの傍らに、置き物のように立っているのは三田村だ。
引っ越してきてから、毎朝この部屋に通ってきて、和彦の運転手兼ボディーガードを務めてくれている。
「……あんたの番犬だろう。ぼくは、運転手をしてくれるだけで十分満足している」
「お前には、うちの子犬の面倒を見てもらってるからな。安いものだ」
その子犬は、実家暮らしは窮屈だと、よく和彦に電話をかけてきては訴えている。本当は会いたいらしいが、子犬扱いの千尋とは違い、和彦は忙しい。ここ何日か、顔を合わせる時間すら作れていない。
千尋はまだ、父親ほど要領がよくないようだ。
「さて――」
ふいに賢吾が声を洩らし、意味深な笑みを浮かべる。これから何が起こるか――求められるか、嫌というほどわかっている和彦は、ピクンと肩を震わせた。
「さっそく俺のオンナとしての務めを果たしてもらおうか、先生。俺もやっと、ここのベッドの使い心地を確かめられる時間が作れたしな」
そう言って賢吾がジャケットを脱ぎ、ネクタイを外してしまう。あとはもう、何も言わない。和彦に対する要求は、それで明白だ。
そっとため息を洩らした和彦は、ちらりと三田村に視線を向ける。相変わらずこの男は、どんな場面であろうが、自分の義務だといわんばかりにしっかりと見つめている。
和彦は思い切って立ち上がり、賢吾の前に歩み寄る。すかさず両腕が伸ばされて腰を捕えられると、引き寄せられた和彦は身を屈め、賢吾の頬を両手で挟み込む。
そっと唇同士を重ねると、賢吾のほうからきつく唇を吸われ、熱い舌が強引に口腔に侵入してくる。いつもの手順で粘膜を舐め回され、口づけだけで感じさせられてから、賢吾に唾液を啜られる。
「……舌を出せよ、先生。よく見えるように」
腰を撫でていた手に尻を揉まれ、さらに両足の間に入り込む。微かに眉をひそめた和彦だが、言われた通り舌を差し出し、まるで三田村に見せ付けるように賢吾と濡れた音を立てながら舌を絡め合う。
もう一度賢吾に唇を吸われてから、伴われて寝室へと向かう。この部屋だけは殺風景さとは無縁で、過不足なく家具が調えられ、小物に至るまですべて賢吾の好みで統一されている。深みのある赤を基調とした空間は和彦には渋すぎるように感じられるが、賢吾のほうは非常に満足そうだ。
ドアを開けたままなのを気にしながらも、ベッドに腰掛けた賢吾が両足を開いて鷹揚に構えたのを見て、和彦はため息をついて、これからの時間に集中することにする。
賢吾の両足の間に身を屈め、カーペットに両膝をつくと、スラックスのベルトを緩めて前を寛げる。何も言わず、引き出した賢吾のものに舌を這わせた。
千尋のささやかな篭城戦につき合わされたあと、引っ越しと開業の準備で忙しくしていても、賢吾とは外で会い続けていた。千尋とは多忙を理由に会わないことが許されても、賢吾に対してはそれは許されない。和彦は、相変わらずベッド以外の場所で賢吾を受け入れていた。ただ、変わったことは一つある。
口づけと、賢吾を受け入れる行為の間に、こうして賢吾の欲望を口腔で愛撫する行為が加わったのだ。
丹念に賢吾のものを舐め上げてから、ゆっくりと口腔に含んでいく。このとき賢吾の指先にあご下をくすぐられてから、優しく髪を撫でられる。そのくせ、頭を押さえつけてくる手つきに容赦はない。
口腔深くに賢吾のものを呑み込んだまま舌だけを動かすと、凶暴な欲望が力を漲らせていくのがよくわかる。和彦は、逞しさを増していく賢吾のものを口腔から出し入れしながら、指の輪で根元から扱き上げてやる。唾液をたっぷり絡めた舌で舐め、先端を吸い上げ――。
ようやく顔を上げるのを許された和彦が見たのは、ワイシャツも脱ぎ捨てた賢吾の姿だった。初めて賢吾の生身の体を見たが、それ以上に衝撃的だったのは、賢吾の両肩にのしかかるように存在しているものだった。
「それ――……」
思わず和彦が声を洩らすと、ニヤリと笑った賢吾に腕を掴まれて引き上げられ、ベッドの上に押し倒される。
「俺がきれいな体をしているとは、お前も思ってなかっただろう。これは、俺の特別だからな。外で気安く見せるものじゃない。ベッドの上で、特別な〈オンナ〉にだけ見せるものだ」
賢吾の言い方が気に障ったが、今はそれすら些細なことだ。乱暴にTシャツを脱がされ、ジーンズと下着を一緒に引き下ろされながら、それでも和彦は、賢吾の体から目が離せなかった。
――刺青だ。
この男は本当にヤクザなのだと、いまさらながら痛感させられた。禍々しいほど鮮やかな紺と朱の色で複雑な模様が描かれ、それが肩から腕にかけて覆っている。広い背には一体、どんな絵があるのかと考え、和彦はつい指先を、賢吾の肩に這わせていた。少しざらつき、ひんやりとはしているが、確かに人肌だ。
繊細な肌にわざわざ墨を入れるという行為に、おぞましさや、生理的嫌悪感を覚えるものの、同時に倒錯した興奮も覚える。
賢吾はようやく肌のすべてを晒したが、腰どころか、腿にかけて刺青が彫られていた。
薄い笑みを浮かべた賢吾にのしかかられ、和彦は甘い眩暈に襲われながら両腕を、賢吾の背に回した。
「ああっ」
腰を抱えられて、背後から深々と突き上げられると、和彦は声を抑えきれない。シーツを握り締めながら、内奥深くでふてぶてしく息づく肉の凶器を懸命に締め付けていた。
ベッドの上での賢吾の攻めは長かった。和彦はすでに二度、賢吾に貫かれながら絶頂を迎えているというのに、賢吾自身はまだ一度も達していない。欲望を高めたまま、ときには自制しながら、ひたすら和彦を快感でいたぶってくる。
「うっ、うっ、いっ――、あっ……ん」
乱暴に突き上げられて腰が弾む。そのたびに内奥を逞しいもので抉られ、掻き回され、粘膜を擦り上げられる湿った音が室内に響く。
「いつも、手っ取り早く済ませていたからな。その詫びを込めて、たっぷり可愛がってやる」
自分のものを根元までしっかりと内奥に収めてから、一度動きを止めた賢吾がやっと口を開く。和彦のほうはとっくに息も絶え絶えの状態で、いつもの憎まれ口を叩く余裕もない。そんな和彦をなおも駆り立てるように、賢吾の片手が両足の間に差し込まれ、身を起こしかけている和彦のものではなく、柔らかな膨らみに触れてきた。
「うっ、あ……」
「また締まったな。――ここを弄られただけで、涎を垂らしてよがり狂うように仕込んでやる。俺好みに仕込んだ体で、俺の息子を悦ばせるなんて、考えただけで興奮するだろ?」
巧みに蠢く指に揉みしだかれ、内奥に賢吾のものを呑み込んだまま、和彦は腰をくねらせる。快感に喘ぎながらも、懸命にこう答えた。
「……逆になるかも、しれない……。ぼく好みに、千尋を仕込むかも……」
「それはそれで楽しい。お前を、息子と共有する醍醐味だな」
きつい愛撫を繊細な部分に与えられ、悲鳴を上げた和彦は、強すぎる刺激に少しの間、意識が飛んでしまう。
気がついたときには仰向けにされ、賢吾が顔を覗き込んでいた。珍しく苦笑を浮かべている。
「大丈夫か?」
問われるまま頷くと、すぐに口づけを与えられる。そして両足を抱え上げられ、熱く高ぶったままの賢吾のものを内奥に挿入し直された。
「あっ、うああっ――……」
「今にもイきそうな声だな。中も、俺のものに食いついてきている」
上体を起こした賢吾に、繋がっている部分も、反り返って歓喜のしずくを滴らせているものも、すべて見られる。うろたえるほどの羞恥を覚えるくせに、即物的な交わりのときにはあった屈辱感は、少なくとも今はなかった。
緩やかな律動を繰り返され、和彦は身を捩りながら感じる。そんな和彦を見下ろしながら、賢吾の片手が胸元に這わされ、さんざん弄られ、吸われたせいで敏感になっている胸の突起をてのひらで転がされる。その手がさらに上に移動し、頬を撫でられた。
喘ぐ唇を指先で擦られ、ふっと我に返った和彦は賢吾を見上げる。
「な、に……?」
「お前に仕込んでおくことを、もう一つ思い出した」
「……言われたことを全部覚えられるほど、ぼくは器用じゃないぞ」
簡単だ、と答えて賢吾は笑う。
「俺に抱かれているときは、賢吾さん、と呼べ。それこそ恋人を呼ぶように、愛情たっぷりにな」
和彦は最初、性質の悪い男なりの笑えない冗談かと思ったが、そうではないようだ。
指先に唇を割り開かれ、押し込まれる。舌を刺激され、口腔から出し入れされるようになると、和彦も言われたわけではないが賢吾の指を吸い、舌を絡める。賢吾のものをそうして愛撫したように。賢吾の腰の動きが次第に同調し、内奥から逞しいものを出し入れされる。
指ではなく、口づけが欲しいと率直に思った。和彦がおずおずと片手を伸ばすと、口腔から指が引き抜かれ、甘く残酷に囁かれる。
「さあ、どうするんだ? 俺は名前を呼ばれないと、お前の欲しいものはやらないぞ。もうこっちには、お前の欲しいものを咥えさせてやってるんだからな」
そう言って賢吾が腰を揺らし、身を焼くような羞恥に体を熱くしながら和彦は、目の前のヤクザを睨みつける。だが、逆らえなかった。
「――……賢吾、さん……」
「もっと自然に」
張り詰めた欲望でぐっと内奥を抉られ、顔を背けて喘ぎ声をこぼした和彦は、それでもなんとか、賢吾をもう一度睨みつけながら、名を呼んだ。
「賢吾さん」
「甘さが欲しいな」
「……ふざけるなっ」
賢吾にあごを掴まれ、噛み付くような口づけを与えられる。合間に恫喝するように言われた。
「忘れるなよ、先生。俺に抱かれるときは、俺の名前を呼べ」
大きく腰を突き上げられ、和彦の内奥は嬉々として賢吾のものを締め付け、淫らに蠕動する。満足そうに賢吾が息を吐き出し、ゆっくり大きく律動を繰り返す。これ以上の意地を張る気力もなく、和彦は両腕を賢吾の背に回した。
「あっ、あっ、い、い――……」
耳元で賢吾に唆され、素直に乗ってしまう。
「……賢吾さん」
「気持ちいいか、先生?」
「気持ち、いい……」
すぐに賢吾の動きに余裕がなくなり、和彦も奔放に身をしならせて乱れる。この男には何を見られても――、たとえどんな痴態だろうが、そうなっても仕方ないと思えていた。
ここまでの賢吾とのやり取りすべてが、ヤクザなりの調教によるものだろうかと、ちらりと考えてもみるのだが、和彦に答えが出せるはずもない。
息子以上に野性味を漂わせた顔に、汗を滴らせながら笑みを浮かべている賢吾を見ていると、理屈はどうでもよくなってくる。与えられる強烈な快感がすべてだ。
「うっ、ああっ、はっ……、くうぅっ。け、ご……さ、賢吾さん、もうっ――」
和彦の呼びかけに応え、賢吾の大きな手に、反り返って震える和彦自身のものが包み込まれる。
「そうだ、そうやって俺を呼べ。少しずつ、俺のオンナらしく仕込んでやる。俺に飼われることになったお前の義務だ」
一瞬芽生えた反発は、てのひらに包み込まれたものを強く擦り上げられてあえなく消える。
「俺のオンナだと言われることに慣れろ。こうして男のものをつけていても、お前はオンナになったんだ。俺と、千尋のな」
乱暴に腰を突き上げられ、内奥深くに賢吾の熱い精を当然のように注ぎ込まれる。素早く和彦のものも扱かれて、自らの下腹部を精で濡らしていた。
服従を強いられながらの行為は、たまらなく感じて、よかった。
生理的な反応から、涙をこぼしながら息を喘がせる和彦は、肌に這わされる賢吾のてのひらの感触にすら敏感に感じてしまう。
事後の気だるさと、快感の余韻を引きずりながら賢吾と抱き合い、唇を重ね、肌を擦りつけ合う。
「――ベッドは、キングサイズで正解だっただろ?」
薄く笑いながら賢吾に問われ、和彦は刺青の入った肩にそっと唇を押し当ててから答える。
「ここで寝るたびに、悪夢でうなされそうだ……」
「一人寝の夜は、俺を思って悶えてろ」
和彦の唇に軽くキスをしてから、賢吾が隣のリビングにいる三田村に風呂の湯を溜めるよう命令する。それからようやく体を起こしてベッドに腰掛けたのだが、このときになって和彦はようやく、賢吾の背の刺青を見ることができた。
背骨のラインに沿って太い剣が描かれ、その剣に、鎌首をもたげた大蛇がとぐろを巻くようにして絡みついている。背一面どころか、のたうつ大蛇は肩や腕、腿にまで描かれていたのだ。背を伝い落ちていく汗のせいで、大蛇はひどく生々しく、まるで蠢いているような錯覚すら覚える。
こんなものを背負った男に抱かれてよがり狂っていたのだと、和彦は横になったまま小さく身震いする。千尋が左腕に、蛇の巻きついた鎖のタトゥーを入れているが、あの蛇が可愛く思えた。
「なんで――」
「うん?」
「なんで、蛇なんだ。龍を選びそうなものなのに……」
「俺の刺青にケチをつけたのは、お前が初めてだぞ」
慎重に体を起こした和彦は、そうではないと首を横に振る。
「ただ、意外な感じがしただけだ」
「意外でもなんでもない。蛇のイメージが、俺の性格を表してると思ったからだ。執念深くて陰湿で――、ただ怖い。龍みたいに威厳なんて必要としていない。静かに獲物に忍び寄って、確実に絞め殺せる度胸と冷静さと狡さのほうが、ヤクザとしては使える」
振り返った賢吾がニヤリと笑いかけてきて、片腕で体を引き寄せられた和彦は濃厚な口づけを受ける。
「いいか、先生。俺から逃げようなんて思うなよ」
うなじを撫でながら囁かれ、本能的な恐怖から和彦は顔を強張らせる。そんな和彦の唇に軽くキスしてから、賢吾は裸のまま寝室を出て行った。
和彦がまたベッドに転がると、ペットボトルの水とタオルを手にした三田村が当然のように寝室にやってきた。
リビングで、和彦と賢吾の行為が終わるのを待っていたのだろう。つまり、和彦の恥知らずな嬌声も、賢吾の命令もすべて聞いていたということだ。
三田村は無表情のまま、汗に濡れ、賢吾の愛撫の跡を全身に散らした和彦の体を見下ろしてくる。
「風邪を引く。早く汗を拭いたほうがいい」
枕元にペットボトルが置かれ、タオルを受け取った和彦だが、だるくて腕を動かすのがひどく億劫だ。大きく息を吐き出して腕を投げ出すと、すかさず三田村にタオルを取り上げられ、首筋を拭われる。和彦はそのまま、すべて三田村に任せて目を閉じる。
無感情な三田村の眼差しが、自分の肌の上を滑っていく様を想像するのは、ひどく淫靡だと思いながら。
テーブルに肘をついた千尋は、おもしろくなさそうに唇を尖らせていた。あえてそれに気づかないふりをして、和彦はコーヒーを啜る。
平日の昼間から、ホテルのレストランで優雅な昼食をとれるとは、自分の境遇も変わったものだと内心で皮肉っぽく思いはするのだが、こんなことが当たり前になる日がくるのだろうかと興味深くもある。
生活そのものが大きな変化の過程にあるため、毎日慌ただしく過ごしていても、何もかもが新鮮に感じられるのだ。たとえば、こうして千尋と向き合って、食後のコーヒーを味わっていても。
少し前の和彦と千尋は、十歳という年齢差も気にせず、享楽的な関係を無邪気に楽しんでいた。それが今や、和彦はヤクザの組長に飼われる存在で、組長の息子である千尋にも、共同所有を宣言されてしまった。
今のところ、それで千尋の態度が横暴になるということもなく、相変わらず和彦にじゃれつき、甘えてきているが、なんといってもあの男の息子だ。気は抜けなかった。ただ、こういう緊張感は嫌いではない。
「……オヤジの陰謀の気がする」
ぼそりと千尋が洩らし、カップを置いた和彦は笑いながら続きを促す。
「どんな陰謀だ?」
「俺と先生を引き離そうとしている。せっかく今日、先生が昼からなら暇だと言ってたから、俺、張り切ってたんだよ。そうしたら、今度は俺のほうに予定が入れられてさ。こうやって昼メシ食うのが精一杯だ」
「陰謀って、お前、本気で言ってるか……?」
半分呆れながら和彦が問いかけると、ふてくされた様子で千尋がぷいっと顔を背けた。
「愚痴ぐらい言わせてよ、先生」
「愚痴はいいが、午後からどんな予定を入れられたんだ」
「じいちゃんのお供。オヤジと違って可愛げありまくりだから、俺けっこう大事にされてるんだよ、じいちゃんに」
普通なら簡単に相槌をうって済みそうな話だが、多少事情がわかっているとそうもいかない。
「じいちゃんって……、もしかして――」
「総和会の会長。俺が実家に戻ったのが耳に入ったらしくて、機嫌よくてさ。久しぶりだからゴルフ旅行につき合えってことになって、部屋に露天風呂ついた旅館にも予約入れたんだって」
「優雅だな」
「どちらかというと、優雅というより物騒だよ。ぞろぞろ護衛引き連れてさ。そういうの連れていかないと、危なくて外を歩けないんだ。……総和会は、そういうところだよ」
子供のように明け透けに話していたかと思うと、千尋は思わせぶりに牙を覗かせる。強い光を持つ目は、和彦を従わせようとする力にも満ちていた。甘えてくるかと思えば、父親に倣ったように服従も求めてくる。
「……長嶺組との関わりですら荷が重いのに、この間、総和会の仕事をさせられたぞ。お前の部屋にいたところを、お前の父親に踏み込まれたときのことだ。覚えているだろ?」
「うん。――先生、あまり総和会に気に入られないようにしてよ」
「どういう意味だ」
「長嶺組から総和会に、先生が召し上げられる可能性があるってこと」
召し上げられるという表現が気に食わないが、今は置いておく。最近の和彦は、組関係で気になることがあれば、詳しく説明を聞く方針にしたのだ。
「今の先生の存在は、言葉は悪いけど、所有権は長嶺組にあるんだ。だから先生を自由に使える」
「ぼくの意思じゃないけどな」
和彦がそう付け加えると、千尋はちらりと苦笑する。
「総和会ってのは、十一の組からそれぞれ人間を集めて運営されてるんだよ。所属する組からの推薦で。で、誰を迎え入れるか、総和会の幹部会で事務的に決められるんだけど、例外もある。総和会の幹部が目をかけていて、箔をつけさせるために連れてきたり、反対に、問題行動が目に余って、警察にマークされている人間とか。組から切り離して、総和会に放り込んでおけば、何かあったとき世間に組の名前が出ることはないってこと」
「……ああ、だからテレビでよく聞くのか、総和会の名前を。十一の組の厄介者を引き受けていたら、そうなって当然か」
「もちろん、迎え入れた経緯によって、扱いは全然違う。使える人間は優遇される。将来、総和会の幹部になるかもしれないしね」
さすがに、長嶺組の組長を父親に、総和会の会長を祖父に持つサラブレッドだけあって、千尋は詳しい。
千尋の話につい聞き入ってしまった和彦だが、自分が本当は何を聞きたかったのか思い出す。
「それで、ぼくが召し上げられる云々というのは……」
「先生、特殊技能の持ち主じゃん」
「特殊技能……。ああ、医師免許のことか」
「普通の病院に勤めていて、裏でこっそりと協力する――させられる医者はいるんだけど、先生みたいに、ずっぷりと組の事情にハマり込む人はなかなかいないんだよ。つまり、貴重。しかも先生、美容外科医だし。利用価値抜群」
こうもはっきり言われると、腹が立ってくる。
「しばらくは、総和会が長嶺組に借りを作る形で、先生に仕事させるかもしれないけど、そのうち――と俺は心配してるんだよ。そんなことになったら、先生と今以上に会えなくなるし」
「……お前の心配はそっちか」
「でも、規約だと、先生はうちの組でも部外者扱いになるのかな」
また、気になる言葉が出た。どういう意味かと問いかけたかった和彦だが、腕時計を見てから、仕方なく話を切り上げる。祖父と旅行に出かけるという千尋は、レストランから直接駅に向かうことになっているのだ。
千尋を促して席を立ち、支払いを済ませてレストランを出る。歩きながら携帯電話で連絡を入れ、ホテルの正面玄関の車寄せ前に立つと、絶妙のタイミングで車がやってきた。運転しているのは、もちろん三田村だ。
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