促されるまま和彦が先に後部座席に乗り込み、千尋が続く。旅行準備はすでに出来ているらしく、助手席にはバッグが置いてあった。
車が走り出してすぐ、千尋に手を握られる。横目で睨みはした和彦だが、機嫌よさそうな千尋の顔を見ると、叱るのも野暮な気がした。
「あー、先生ともっと一緒にいたい」
芝居がかった口調で千尋がぼやき、和彦は淡々と応じる。
「そう言ってもらえて光栄だ」
「俺、本気で言ってるんだけど。……あっ、旅行に一緒に行くってどう?」
「勘弁してくれ……。だいたいお前、レストランで物騒な話してただろ。そんな中に、ぼくも加われというのか。目立つのはご免だぞ」
やむをえず賢吾に従ってはいるが、他人からヤクザの仲間と思われるのは嫌だった。和彦はヤクザではないし、勇気さえあれば表の世界に戻れる。好きで裏の世界に留まっている連中とは違うのだ。
もっとも、肝心のその勇気が持てない限り、これは単なる言い訳でしかないと、和彦にはわかっていた。自分は違うと、自分自身に言い聞かせているうちに、どんどんヤクザの世界の深みにハマっている。
「――どうかした?」
千尋がひょいっと顔を覗き込んでくる。
「今、すごく暗い顔してた」
そう言われた瞬間、和彦は反射的にバックミラーに視線を向ける。三田村がこちらを見ているのではないかと思ったが、まっすぐ前を見据えている。
「……どうもしない」
和彦が首を横に振ると、千尋は握った手を持ち上げ、指に唇を押し当てた。
「先生のそんな顔見ると、すごく責任を感じる。そもそも俺とつき合ってたから、オヤジに目をつけられたんだし。先生、普段の様子が前と変わらないから忘れそうになるけど、こっちの世界に無理やり引きずり込まれたんだよね。しかもオヤジと俺が、先生の両足に鎖をつけた」
いや、と千尋が小さく洩らす。そして自分の左腕に触れた。
「蛇かな。蛇が、先生の体に巻きついて、がんじ搦めにしちゃった」
千尋は、和彦が父親の背中の刺青を見たことを知っているのだろうかと思った。それとも、体の関係を持っている以上、見ていて当然と考えているのか。
「――……少し前までは、こうなったのはお前がきっかけではあったけど、お前のせいじゃないと思うようにしていた。だけど今は、違う」
「そうだね。俺は、先生をオンナにしたからね。罵倒しても、詰ってもいいよ。だけどそれでも俺は、嫌がる先生を組み伏せてでも抱くよ」
子供が強がっているわけでもなく、強い光を放つ目で千尋は淡々と話した。その言葉には、そこはかとなく凄みが漂っている。
「俺の家が普通だったら、全力で先生を口説いて、一緒にいてもらっただろうけど、現実はこうだ。しかも、先生はオヤジにあっさり奪われるし。そうなったら、俺が取れる手段なんて限られてる。先生は嫌で嫌で仕方ないだろうけど、俺はこのやり方を貫くよ。――先生をオヤジに独占させたくないから」
「千尋、お前……」
和彦は取られていた手を抜き取り、千尋の頬を撫でてやる。途端に、明るく笑いかけてきた。
「こいつもいろいろ考えてるなー、とかって、今思った? 胸がときめいたりとか」
「……シリアスを決めるつもりなら、もう少し堪えろ。胸がときめく暇もなかった」
「先生は、まじめな俺のほうがいい?」
千尋の手が首の後ろにかかり、額と額を押し当ててくる。三田村が運転していることなど、まるでお構いなしだ。
「まじめとかふざけているとかじゃなく、出会った頃のお前がいい。ぼくはもう、お前の本当の顔がどれなのか、わからなくなってきた」
「いつも先生に、悩みがなさそうだと言われてたときが、素の俺だよ」
「そうなのか?」
そうだよ、と洩らして、千尋に唇に軽くキスされた。和彦は慌てて頭を引くと、また運転席を気にする。いまさらキスしたところを見られるぐらい、なんでもないのだが――。
「三田村が気になる? この間、俺たちのすごいところを見られたばかりじゃん」
「見られた、じゃなく、お前が見せつけたんだ」
そうだっけ? というのが千尋の答えだった。呆れながら和彦が睨みつけると、悪びれた様子もなくにんまりと千尋は笑い、再び和彦は首の後ろに手がかかって引き寄せられた。
「――俺としては、先生って実は、見られるほうが燃えるタイプなんじゃないかと思ってるんだけど」
そう言って千尋に唇を啄ばまれる。千尋の目を間近に見つめながら、和彦はしみじみと感じたことがあった。
「お前と、あの組長はよく似てる。自信家で、いろいろと性質が悪い」
和彦がこう言うと、途端に千尋は顔をしかめる。
「超ショック。俺、バカって言われるより、オヤジに似てるって言われるほうが、嫌だ」
「だったら、これでおあいこだ。今さっき、ぼくを変態みたいに言っただろ」
千尋は少し考える表情を見せたあと、楽しそうに目を輝かせ、実にロクでもないことを提案してきた。
「試してみようよ。先生が、見られても平気かどうか」
「それはそれで問題ある――」
言いかけた言葉はキスで奪われる。千尋に強く唇を吸われ、わがままな舌に歯列をなぞられてから、ヌルリと口腔に押し入られる。咄嗟に千尋の肩を押し退けようとしていた和彦だが、それ以上の力で背を引き寄せられ、後頭部を押さえられる。
「んっ……」
賢吾と違い余裕のないキスだが、情熱には溢れている。口腔をまさぐられて舌先を触れ合わせると、それだけで千尋の腕に力がこもる。興奮しているのは千尋のほうだと思うのだが、この直情さは、賢吾を知った今では、より貴重なもののように感じられる。
千尋に促されるまま舌を絡め合っているうちに、車内に微かに濡れた音が響く。急に羞恥を覚えてうろたえた和彦が唇を離すと、千尋が低く囁いた。
「ほら、先生やっぱり、興奮してる」
なんとも答えようがなくて和彦は、千尋の頬を軽くつねり上げる。
「……お前、他に相手を見つけろよ。家のことを知らせずに済む遊びの相手ぐらい、不自由しないだろ」
「純粋に遊ぶだけの仲間ならいるけどさ、こういうことをするのは、先生だけ。俺って意外に硬派なんだよ」
硬派な人間は、父親と〈オンナ〉を共有して楽しんだりはしないだろう。そう指摘したかったのだが、最近の和彦は、たとえ千尋相手でも、思ったことをそのまま口にできなくなっていた。自分の発言が、どんな形で返ってくるかわかったものではないからだ。
千尋が意味ありげな流し目を寄越してくる。
「先生、さっさと自分に飽きてくれと思ってるだろ。そうしたら、ぽいっと自分を捨ててくれるだろうって」
咄嗟に和彦が見たのは、三田村だった。共同所有を宣言されたあと三田村に投げかけた質問を、賢吾や千尋に報告されたと思ったのだ。しかし、そうではなかった。
「さっき先生が見せた暗い顔で、誰でもそれぐらい察しがつくよ。円満に組から遠ざかるには、俺やオヤジから、顔も見たくないって放り出されるぐらいしかないからね」
「……レストランでお前が話してくれたことを聞いたら、円満にフェードアウトするなんて無理な気がしてきた」
「まあね。先生は、利用価値がありすぎるんだよ。だからこそ、長嶺組の身内であり続けることが、結局先生のためなんだ。何かあれば、組の人間が必死で先生を守ってくれる。オヤジや俺のオンナだからというんじゃなくて、先生がもうすでに、身内を助けてくれたからだ」
身内と言われてすぐにはわからなかったが、千尋が自分の腹を指さしたので、それでピンときた。腹を撃たれた組員の手術を、和彦が手がけたことを言っているのだ。
「ああ……。助けたというか、助けさせられたという感じだけどな」
「だけど、撃たれた組員は、もう動き回れるようになった。先生が助けたからだ」
和彦が黙り込むと、千尋もそれ以上は話しかけてはこなかった。子供のような傍若無人さを発揮しながらも、肝心なところで気遣いを見せるのだから、性質が悪い。だから和彦は、千尋を嫌いになれないし、避けることもできない。
車が駅に着くと、千尋が三田村の手からバッグを受け取る。和彦は、千尋の頭を撫でてやった。
「気をつけて行けよ」
「うん。――帰ってきたら、今度こそ、先生の部屋でセックスしようよ」
和彦はパシッと千尋の頭を叩いてから、車から追い出した。
「……なんてガキだ……。ったく、どういう子育てしてるんだか」
バックミラー越しに三田村と目が合うと、何も言わないまま車が出る。
「今日はもう、何も予定は入ってないんだよな」
「俺はそう聞いている。立ち寄るところがないなら、このまま先生のマンションに向かうが」
「そうだな……」
千尋と別れたときには、今日はもうまっすぐマンションに戻るつもりだったが、ふと気が変わった。
和彦はシートに深くもたれかかりながら、ぼんやりとした声で三田村に告げた。
「立ち寄るというほどじゃないが、回り道して通ってほしい場所がある」
「――先生の望み通りに」
三田村のその言い方が、自分でも不思議なほど和彦は気に入った。
車通りが少なかったせいもあり、気をつかった三田村が車の速度を落としてくれる。和彦はウィンドーを半分ほど下ろし、少し前まで自分が勤めていたクリニックのビルを見上げる。
自分の意思でここを通ることはないだろうと思っていたが、どんどんヤクザの事情やルールに搦め捕られていくうちに、ふいに、普通の生活を送っていた頃の思い出に浸りたくなった。取り乱さない自分は冷静だと自賛すらしていたが、自覚がないまま、精神的にはかなりの負担を感じていたようだ。
「……信じられるか? ちょっと前まで、ぼくはここのクリニックに勤めていたんだ。三十歳にして、それなりにいい収入を得て、いい同僚もいて、やり甲斐のある手術を任されて美容外科医としてのキャリアを積み上げてた。それが今じゃ――」
言葉にできないもどかしさが込み上げてくるが、表に出すことはできなかった。和彦の反応すべてを、三田村の口から賢吾に告げられることを恐れたのだ。
「ヤクザに……しかも組長に逆らったら、やっぱり重石をつけられて海に沈められるのが定番なのか? それとも、酸で指紋を消されて埋められるのか、手間を惜しまないなら、バラバラかな。なんにしても、まともな死体が残らないような消され方をするんだろうな」
一方的に話してから、万が一を考えた和彦はウィンドーを上げる。勤務時間中だが、クリニックの関係者に見つかる事態は避けたかった。
三田村が静かに車のスピードを上げたので、次に進む道の指示を出す。シートの反対側に移動した和彦がまたウィンドーを下ろすと、ちょうど馴染みだったカフェの前を通るところだった。千尋がバイトをしていた店だ。
天気がいいこともあり、テラスは満席でにぎわっている。ウェイターたちが慌ただしく行き来しており、和彦は簡単に、そこにかつての千尋の姿を重ねることができた。
「……千尋は、ものすごく目立ってたんだ。きれいな顔をしているうえにスタイルもいいし、何より人懐こかった。特にぼくに対して。どこから見てもモテそうなくせに、ぼくがカフェに行くと、テーブルの担当じゃなくても、嬉しそうにやってきてた。そんな千尋とつき合っているときは楽しかった。たまには年下もいい、とのん気に思ってた」
元の場所に戻った和彦は、深いため息をついてシートにもたれかかる。天気のよさとは裏腹に、今日は調子が悪かった。気分の浮沈が激しい。
いや、千尋と一緒にいるときは、何も悟られたくなくて平素を装っていただけで、今の状態のほうが自然なのだ。
ようやく落ち着いた時間を手に入れて、あれこれ考えすぎているのだろうか――。
和彦が前髪を掻き上げたそのとき、ここまでずっと黙っていた三田村がやっと口を開いた。
「医者の先生にこんなことを言うのはなんだが……、これから病院に行かないか」
意味がわからず眉をひそめると、三田村は前を見据えたまま続けた。
「ここのところ疲れているようだから、病院で薬を処方してもらったほうがいいんじゃないかと思ったんだ。安定剤とか……」
「安定剤を飲んだところで、現状がどうにかなるわけでもないだろ」
ふっと笑った和彦は、実は三田村が何を言おうとしているのか、ようやく察した。三田村の目には、和彦の状態が不安定に映っているのだ。
「組長の忠実な犬としては、精神状態が不安定な〈オンナ〉は、危なっかしくて組長の側に置けないと言いたいのか」
「解釈は先生の自由だ。ただ、今みたいな暗い顔をしているのが、いいとは思えない」
「ヤクザのオンナなんてさせられて、おっとり笑っていろとでも?」
「――初めて組長と会ったとき、笑っただろ、先生。あの状況で笑った人間に対して、俺は素直に感嘆した。見た目に反してタフだと思った」
三田村なりに、心配してくれているらしい。和彦を一人の人間として気遣っているのか、組長のオンナとしての価値が損なわれることを気にかけているのかまではわからないが、ただ、無茶を言わないという点では、三田村といるのは楽だった。
「ぼくは医者だ。本当にキていると思ったら、自分で病院に行く。友人が心療内科医をしているから、親身になってくれるだろ」
「……ただ眠りたいというなら、そういう薬は簡単に手に入るから言ってくれ」
「変な麻薬でも混ざってそうだから、いらない」
和彦が即答すると、バックミラーに映る三田村の目元がふっと一瞬だけ和らぐ。
「そうだ。それでいつもの先生だ」
和彦は顔をしかめてから、シートにしっかりと座り直す。
三田村の律儀さや誠実さは、ヤクザという人種を見直してしまいそうで、畏怖とは違う怖さがあった。
つけっぱなしのテレビから聞こえてくるニュースを、広すぎるベッドの上でうつ伏せになりながら、ぼんやりと和彦は聞いていた。
午前中に目を通しておきたい書類があるのだが、体が言うことを聞かない。
自分の今の状態はダメだと一度思うと、ますます気分が滅入ってしまう悪循環に入ったのかもしれない。昨日、ゴルフ旅行から戻ったという千尋のメッセージが留守電に残されていたのだが、いまだに和彦は連絡していない。千尋のことなので、会いたいと言い出すのは目に見えている。今の和彦には、とてもではないが生気に溢れた千尋は受け止めかねた。
三田村の忠告に従うわけではないが、ここ数日の憂鬱ぶりは自分でも気になるため、一度きちんと診てもらおうかと、ベッドの上をごろごろと転がりながら考えていた最中だった。インターホンの音が鳴り響き、びくりと体を強張らせる。
今日は出かける予定は入っていないため、当然、誰かが迎えに来るということも聞いていない。無視したかったが、もう一度鳴らされて諦めた。
ベッドから這い出した和彦がテレビモニターを覗くと、薄い笑みを浮かべた賢吾がいた。
「――すぐに出かける準備をしろ、先生。十分だけ待ってやる」
「なんなんだ、いきなり……。今日はぼくは、外に出る気分じゃない」
「出たくないなら、引きずり出すだけだ。お姫様抱っこして連れ出してやろうか?」
抗うのは諦めた。インターホンを切った和彦は、ふらつく足取りで洗面所に行く。
適当に選んだスーツを着込んでなんとかエントランスに降りると、扉の向こうに立っているのは三田村だった。
「……なんなんだ、一体……」
促されて歩きながら、和彦は小さく口中で毒づく。
「詳しいことは組長に聞いてくれ」
素早く周囲に鋭い視線を向けた三田村が、車止めの横に停めた車の後部座席を開ける。賢吾が悠然と腰掛けており、軽く手招きされたので、仕方なく和彦は車に乗り込んだ。
「珍しく不機嫌そうだな、先生」
おもしろがるような口調で賢吾に言われ、思わず横目で睨みつける。
「あんたたちと知り合って、ぼくが上機嫌だったことなんて一度もないぞ」
「不機嫌でも、減らず口の冴えは相変わらずだ」
短く声を洩らして笑う賢吾を、多少気味悪く感じながら和彦は眺める。不意打ちの来訪を受けて何も感じないほど、頭は鈍くなっていなかった。
「――……それで、今日は何をするんだ」
「こちらが思っているより、事態が早く進んでいるようだからな。手を打っておくことにした」
それでなくても不機嫌な和彦は、賢吾の言い回しに苛立ち、眉をひそめる。
「意味がわからない」
「わからないように言ったんだ」
こちらを見た賢吾が、唇に憎たらしい笑みを浮かべる。
「こっちの事情だ。先生は、ただ俺の言う通りにすればいい」
「……行き先は?」
「うちの組事務所の一つだ。俺は臆病だからな、毎日あちこちの事務所を転々とする。そうすれば、どこかのバカが綿密に襲撃の計画を立てようが、かち合う確率が減る。俺のやり方を嘲笑う奴もいるが、俺は、度胸と慎重さは分けて考えている」
臆病だと言っているのは本人だけで、身を潜めているのが、とてつもなく獰猛で残酷な気性を持つ大蛇だというのを、他の人間はわかっているのではないか。少なくとも和彦は、この男と臆病という言葉が、対極に存在していると思っている。
やや身を引き気味に和彦が見つめると、賢吾が片手を伸ばし、頬に触れてくる。
「調子が悪いそうだな。あの千尋が、迂闊に電話もできないとぼやいていたぞ。一応自分で、有り余りすぎる元気を先生にぶつけたらヤバイと自覚はあるみたいだ」
「その父親にも、同じような配慮は求めたいな」
和彦が非難がましく言うと、楽しげに賢吾が応じる。
「配慮はしてるだろ。俺はいつでも、丁寧に先生を扱っている」
頬を撫でられ、髪を梳かれてから、指先に耳の形をなぞられる。疼きにも似た感覚が背筋を駆け抜けて小さく身震いすると、目を細めた賢吾に肩を抱き寄せられた。
「体調には気をつけろ。医者の不養生というしな」
「飼った早々に壊れられても困る、か」
「そう憎まれ口を叩くな。俺なりに、先生を大事にするための環境を整えているつもりだ。今日、事務所に連れていくのも、そのためだ。何事も形式と儀式は大事だからな。対外的な意味でも」
また、気になる言い回しだ。
急に車を降りて帰りたい心境になったが、肩に回された腕はがっちりと和彦を押さえ込んでおり、身動きもままならない。正直、賢吾に肩を抱かれるのは好きではなかった。自分の所有物だと示されているようで気に障る。こんなことにこだわるのも、ここ数日の気分の浮沈の激しさのせいかもしれない。
車がある駐車場に入ると、エンジンを切るまでの間に、何人かの人間が駆け足で車の周囲に集まってくる。賢吾を出迎えるためのもので、目にするのは初めてではないのだが、やはり緊張する。賢吾と一緒にいると、必然的に和彦も恭しい待遇を受けることになり、気詰まりして仕方ない。
気が重くなるのを感じながら、賢吾に促されるまま車を降りた和彦は、周囲を組員たちに守られながら事務所に向かう。
事務所が入っているきれいな雑居ビルには、ほとんど看板は出ていなかった。ヤクザの事務所が入っているようなビルに、まともなテナントが入るとも思えない。
エレベーターに乗り込んだところで、和彦は隣に立つ賢吾を見る。組員たちに囲まれるたびに思い出すのが、賢吾と初めて会ったときのことだ。拘束され、目隠しをされて辱められたときの光景は、いまだに夢に見る。
もう、あんなことはしないと賢吾は言うが、ヤクザの約束ほど信用ならないものはないと教えてくれたのもまた、賢吾だ。
その賢吾とともに和彦が通されたのは、フロアの奥の応接室だった。すでに先客の姿があり、賢吾の姿を見るなり立ち上がり、深々と頭を下げた。一連の動作はビジネスマン然としており、こんな場所でなければ、ごくごく普通の商談の光景のようだ。
頭を上げた男が、縁なし眼鏡の中央を押し上げ、レンズ越しの眼差しをこちらに向けてくる。動作だけでなく、顔立ちはおろか全体の雰囲気も、やはりビジネスマンのように見えた。言い換えるなら、こんな場所にいるのが非常に不似合いだということだ。
全体に印象の薄い顔立ちをしており、四十歳そこそこのようだ。ヤクザと関わってから、よくも悪くもアクの強い人間ばかりと接してきた和彦にとっては、ある意味、新鮮だ。
これは誰だと思った和彦は、半ば条件反射のように、ドアの側に立っている三田村を見る。他に組員たちがソファの側に立っている中、三田村だけは常にそうであるように部屋の隅にいるのだ。
この状況で三田村一人が口を開けるはずもなく、和彦の無言の問いかけは、視線を逸らされる形で受け流された。
「待たせたな」
賢吾が口を開き、和彦は促されるまま並んでソファに腰掛ける。それを待って男も座り直し、傍らのアタッシェケースに手をかけた。それを見て、クリニックの手続きに関することだろうかと予想する。しかし、そうではなかった。
男は封筒を取り出して賢吾に手渡してから、和彦には、名刺入れから取り出した名刺を差し出してきた。
「――総和会での事務処理全般に当たっている藤倉です。今後、何かと佐伯先生とお会いする機会もあると思いますので、よろしくお願いします」
藤倉と名乗った男がまた深々と頭を下げたので、つられて和彦も頭を下げたが、すぐに意識はもらった名刺へと向く。
何かの植物の葉らしきものに、『総』という字が囲まれている代紋と、総和会という名が確かに記されていた。男の肩書きは正式には、文書室筆頭というらしい。
「『総』の字を囲むのは、十一枚の葉です。ただし、一番上にある葉だけは、形が大きいことにお気づきですか? あとの十枚の葉の大きさは同じ。総和会とは、そういう組織です。そして現在のところ、一番大きな葉を持つのは、こちらの長嶺組です」
慣れた口調での藤倉の説明に相槌を打つことも忘れ、和彦は賢吾を見る。賢吾は封筒から取り出した書類に万年筆で何か書き込んでいた。さらに、傍らに立った組員から別の書類を受け取る。
すぐにその書類は、和彦の前に万年筆とともに置かれた。『加入書』と記された文字を見て、和彦はあることを察した。
「まさか、これ……」
「お前が、本当にうちの身内になるための書類だ。本来は盃も取り交わすところだが、お前はそういうのとは違うからな。ただ、形式は必要だ。正式な身内としてお前を迎えるためにな」
どこか冷然とした声で話しながら、賢吾がさらにもう一枚の書類を置いた。
「こちらは、総和会の加入書。順番を間違えるな。先に、長嶺組の書類に名前を書き込め。うちの組に身を預けたうえで、総和会と結縁ができるんだ。お前の立場を保証するのは、長嶺組組長の俺だ。これで、組と総和会でのお前の存在に、誰も文句はつけられない。お前に何かあるときは、うちにケンカを売るのと同義になる」
賢吾の説明を聞いても、心強いとか、感謝するという気持ちは一切湧かなかった。むしろ、狼狽し、恐怖すら抱いてしまう。
いままでも、引き返せない状況になってしまったと思っていたが、加入書などというものに署名してしまえば、今度こそ、死ぬまでヤクザとつき合っていく義務を負わされる。
「――……ぼくは、こんなものに名前を書く気はない……」
「先生?」
「ヤクザでもない、そんなものになりたくもないぼくが、なんでこんなものを書かないといけないんだ。それこそ、逃げられなくなる。……医者として、できることはしてやる。だけど、こんなものをぼくに突きつけるなっ。わけのわからない組織と、ぼくを関わらせるなっ」
二枚の書類を払い除けて和彦は立ち上がり、動じた様子もない賢吾を睨みつけた。
「喜んで名前を書くと思ったのか? さっさとヤクザと縁を切りたいと思っているのに。――なんでも自分の思い通りになると思うな。つき合ってられるかっ……」
和彦は応接室を出ると、そのまま出口に向かう。途中にいる組員たちが何事かといった様子で和彦を見て、止めていいものかどうか逡巡している。その隙を突いて、和彦は事務所を飛び出した。
エレベーターホールに向かおうとしたが、追いつかれることを危惧し、非常階段を使って一階に降りる。雑居ビルを出た和彦は足早に通りを歩き始めたが、大通りに出る前に、背後から近づいてくる足音に気づいた。
「先生っ」
呼びかけてくる声は三田村のものだった。こういうときでも、和彦の面倒を見るのは三田村になっているらしい。
和彦は頑なに振り返らないどころか、歩調も緩めない。それでもかまわないとばかりに、三田村がものすごい勢いで前に回り込み、両腕を広げた。
「先生、どこに行く気だ」
無表情で問いかけてきた三田村だが、さすがに息がわずかに乱れている。和彦は睨みつけてから、三田村の腕を躱して行こうとする。
「先生っ」
鋭い声を発した三田村に腕を掴まれた。和彦は掴まれていないほうの手を振り上げ、三田村の頬を平手で容赦なく打ち据えた。通りを行き交う人が、何事かといった様子をこちらを見てから、慌てて目を逸らして通りすぎる。
「……ぼくは、ヤクザにはならない」
「あれは、そういう書類じゃない。ただ先生の立場を確かなものにするために――」
「何も知らない人間からしたら、ぼくもあんたたちも、一括りにされる。他人からしたら、事情なんて知ったことじゃない。……ぼくは、被害者だ。あんな猛獣みたいな男に脅されて、協力させられて、オンナ呼ばわりされて。これまでだって男とは寝ていたが、尊厳を踏みにじられるようなことはされなかったし、させなかった。なのに、あの男は……」
和彦はもう一度、三田村の頬を打つ。
「今度はヤクザにしようとしているっ」
肩を上下させ、興奮のあまり涙を滲ませる和彦を、三田村はじっと見つめてくる。そして、ぽつりと言った。
「――あんたは、〈ヤクザに脅されている被害者〉という立場を失うのが嫌なのか?」
淡々とした三田村の言葉は、鋭く和彦の心を抉った。この瞬間、全身の血が逆流するような感覚に襲われたのは、これ以上ないほど図星を指されたからだ。
和彦は必死に三田村の手を振り解こうとするが、腕どころか、肩まで掴んできた三田村の力は、骨がどうにかなりそうなほど強い。
「離せっ」
「先生、大声を出すな。警官が来る」
「だったらどうしたっ。ぼくは訴えるからな。変なものに名前を書かされて、ヤクザの組に引き込まれそうになっていると」
声を抑えない和彦に苛立ったように三田村が舌打ちする。さすがに、和彦の騒ぎぶりが只事ではないと思ったのか、通行人が足を止め始めていた。
素早く周囲を見回した三田村の腕ががっちりと肩に回され、手首を掴まれて引きずられる。
「離せっ。あそこには戻らないからなっ」
「わかってる」
抵抗しようとしたが、掴まれた手首を捻られる。一瞬息が止まるような痛みに、あえなく和彦の抵抗は封じられ、おとなしく三田村についていくことになる。
また事務所に連れて行かれるのかと思ったが、三田村はわき道に入り、黙々と歩く。左右に建ち並ぶのは、飲食店や風俗店や、それらが入った雑居ビルが大半だった。昼過ぎという時間帯もあり、どこの店もまだ閉まっており、人通りもほとんどない。
三田村が細長い造りの古い雑居ビルに入る。このとき和彦はもう一度逃げ出そうとしたが、容赦なく手首を捻られて悲鳴を上げさせられた。
「あまり、医者の先生の手を痛めるようなことはしたくない。おとなしくしていてくれ」
「いっそのこと、刃物でも出して脅したらどうだ。ヤクザなら得意だろ」
初めて三田村から、ゾッとするような凄みを帯びた眼差しを向けられた。
引っ張り込まれたのは、まだ開店準備をしているカラオケボックス店だった。驚いたように若い従業員が目を見開き、相手が三田村だとわかると、大げさなほど勢いよく頭を下げた。
「お疲れ様ですっ」
「部屋の一つを貸してくれ。話がしたいんだ」
従業員が、手首を掴まれ、肩を押さえられている和彦を見て、すべてを理解したように頷く。
「一番奥の部屋を使ってください。もう掃除が終わってますから」
大股で歩く三田村の迫力に圧されて、促されるまま部屋に足を踏み入れた和彦は、狭いうえに、きれいとは言いがたい部屋を見回す。このときになってようやく三田村の手から解放され、思わず自分の手首に視線を落とす。掴まれていた部分がしっかり跡になっていた。
「……悪かった。力加減がわからなかった」
和彦の手元を覗き込み、三田村が言う。間近で目が合った途端に、外で言われた言葉を思い出し、和彦は三田村を睨みつけた。
「これだけははっきりさせろ。――ぼくは、被害者か加害者か?」
「加害者ではないな」
三田村の言い方にカッとして手を振り上げたが、すかさず手首を掴まれた。
「人を殴り慣れてない先生が俺をいくら殴ったところで、手を痛めるだけだ」
手を振り払った和彦は、感情のない三田村の顔を見るのが嫌で背を向ける。汚れた壁を見据えながら、震える声で言った。
「ぼくは……、ヤクザは嫌いだ」
「普通の人間はそうだろう。だけど、あんたは今、そのヤクザの庇護を受けている」
「望んだわけじゃない。押し付けられたんだっ」
「だが、受け入れた。組長と千尋さんのオンナとして、体を開いている。感じているから、その立場を喜んでいるとは、俺も思ってないがな。ただ、割り切って受け入れることが、先生なりの処世術だと思っていたのは確かだ」
和彦は、三田村を殴れない代わりに、壁を拳で殴りつける。
「……ぼくも、そう思っていた。抜け出す勇気も覚悟も持てないなら、このヌルイ状況にしばらく身を置くのもいいってな。だけどそれはあくまで、普通の人間が、一歩だけ一線を踏み越えた感覚だった。ヤクザの世界に全身まで浸かる気はない」
話しながら和彦は、何回も壁を殴りつける。
「この世界じゃ、そんな理屈は通らない。一度、ヤクザから何かを与えられたら、人生か命を代償に差し出す覚悟が必要だ。たとえ、無理やり与えられたものだとしてもな」
すぐ背後に三田村が立った気配がして、スッと手が伸ばされる。壁を殴りつけていた手をそっと止められた。ここに来るまで、骨を砕きそうなほど強い力で手首を握っていた男とは思えないほど、丁寧な動作だ。
背に三田村の体温を感じ、痛む手を、労わるように大きな手で包まれながら、和彦はこう三田村に問いかけた。
「――……あんたも、何か差し出しているのか、あの組に」
「俺は、人生と命の両方を。もともと大して価値があるものじゃない……、そう思っていた俺に存在理由をくれたのは、先代と、今の組長だ。好きに使ってほしいと思っている。少なくとも今の生活が、俺には一番性に合っているし、楽しい――という表現は違うが、普通の人間なら味わえない刺激がある。性質の悪い刺激だが、嫌いにはなれない」
感情を表に出さない三田村だが、少なくともこうして聞く声にはなんとも言えない深みがあった。高ぶっていた和彦の気持ちは次第に落ち着きを取り戻していく。
誰にも言えない――誰にも言う気のなかった本心を、和彦は吐露していた。
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