と束縛と


- 第20話(3) -


 三田村が言うところの『世俗的なイベント』を、和彦は無視できなくなっていた。誕生日を祝ってくれた男たちに対して、ささやかなお返しをしようと考えたとき、これ以上ない口実として利用できるからだ。
 仕事を終え、いつもより早めにクリニックを閉めた和彦は、組員に頼んでデパートへと寄ってもらう。
 そこで、自分の考えがチョコレートよりも甘いことを痛感させられた。
 バレンタインデー前日のデパートのチョコレート売り場は、目を瞠る混雑ぶりだ。
 こんなときだからこそ、豊富な種類が揃ったチョコレートをじっくり見て回ろうと思っていたが、ショーケースに近づくのも苦労しそうだ。とにかく女性客でごった返しており、心なしか殺気立っているようにも感じる。
 すでに他のフロアで買い物を済ませた和彦だが、さすがにこのフロアでの自分の場違いぶりを肌で感じ、怯んでしまう。辺りに漂う甘い香りが、その感覚に拍車をかける。
 当然といえば当然だろう。バレンタインデーのために買い物をするのは、やはり女性だ。もしくは、勇気あるチョコレート好きの男性か。実際、女性客に交じって、ちらほらと男性客の姿もある。
 同性の恋人のために――と勘繰るほど悪趣味ではない和彦は、自分もチョコレート好きなのだと思い込むことで、大勢の女性客の中を進んでいく。
 誰に対する言い訳なのか、自分も食べるから、と心の中で繰り返しつつ、少し値の張るチョコレートをいくつも買い込む。長嶺の本宅に置いておけば、組員の誰かが摘まんでくれるだろう。もちろん、買い込んだチョコレートの中には、〈本命〉に渡すものもある。
 いくつかの袋を手に、和彦はやっと売り場から抜け出す。
 自意識過剰だと思いつつも、途中までは他の客の視線が気になっていたが、買い物好きの気質は、こういうとき便利だ。チョコレート選びに夢中になってしまうと、他人どころではなくなった。どうせ一年に一回のことだと、開き直るのも容易だ。
 肩の荷が下りた気分で歩いていた和彦だが、すぐに歩調を緩め、手にした袋を見下ろす。チョコレートを買って気分が浮ついている一方で、自分のズルさがチクチクと胸に突き刺さる。いつもなら無関心を通すイベントにあえて乗ってみたのは、里見の件を男たちに隠している罪悪感ゆえ、というのが最大の理由だ。
 ただこれは、和彦の胸に仕舞っておけばいいことだ。それだけで、誰も嫌な思いをしなくて済む。
 マフラーを直してデパートを出た途端、冷たい風に顔全体を撫でられる。暖房と熱気で火照っていたため、身を切るような冷気が心地いいと思ったが、それも一瞬だ。次の瞬間には寒さに震え上がり、和彦は急ぎ足で組員が待機している車へと戻る。
 車が走り出すと、ほっと一息をついてマフラーを外す。これでやっと安心して明日を迎えられると、のん気なことを考えていた和彦に、ハンドルを握る組員が遠慮がちに声をかけてきた。
「――……先生、お伝えすることがあるのですが……」
 こういう切り出し方をされるとき、だいたい用件は決まっている。〈誰か〉が、和彦の予定を勝手に決めてしまったときだ。
「本宅に寄れと言うなら、ちょうどよかった――」
「いえ、長嶺会長からです。今、行きつけのクラブにいらっしゃるそうで、先生の都合がつくようなら一緒に飲まないかと。そう、伝言を言付かりました」
 数瞬、和彦は言葉をなくしていた。これまでも守光からの誘いは唐突だったため、こうして誘われること自体に衝撃はない。ただ、先日守光の自宅で一泊したことで、和彦の中で守光の存在は大きく変化した。
 どんな顔をして会えばいいのかと、まずそう思った。動揺と困惑と恐怖、それにわずかな羞恥が胸の奥で入り乱れ、それでも和彦はわかりきった答えを口にする。
「……わかった。このまま向かってくれ」
 それ以外の答えはなかった。守光から誘われたということは、和彦に選択肢は用意されていない。
 強張った息を吐き出すと、ぎこちなくシートに体を預ける。総和会会長の自宅に招かれて一泊しておきながら、今になって和彦は、自分が総和会に深く取り込まれつつあることを実感していた。
 一度の接触はささやかなものかもしれないが、それを重ねることによって和彦の存在が、長嶺組の身内ではなく、総和会の人間として認識されていく可能性もある。長嶺組と総和会は近い組織だが、同じ組織ではない。この二つの組織が反目し合うこともありうる。そう賢吾も言っていた。
 一介の医者でしかない和彦にできることは限られており、逆らえる力は皆無に等しい。ただ、巧く身を委ねるだけだ。
 男たちの機嫌を損ねることなく。そして媚びることなく――。
 そんなことを漫然と考えているうちに、車はある雑居ビルの前に停まる。夜に差しかかろうとしている時間帯の繁華街はにぎわっており、人通りも多い。そんな中、行き交う人たちとは明らかに異質な空気を放つスーツ姿の男が、素早く車に歩み寄ってきた。それが総和会の出迎えの人間だとわかり、和彦はシートベルトを外す。
 降りる準備をしながら、ここで今日は別れることになる運転手の組員に、さきほどデパートで買い込んだものをマンションの部屋に運ぶよう頼んでおく。
 車を降りると、一礼した男に周囲から庇うようにしてビルの中へと案内される。やけに入り組んだビル内を歩き、狭い通路の奥まった場所に、年齢もばらばらの数人の男が立っていた。特別服装が崩れているというわけでもないのに、一目で筋者とわかる。持っている空気が、とにかく鋭い。
 賢吾と出かけたときに、さんざんこういった光景を目にしているが、やはり総和会会長ともなると、警護の厳重さが違う。
 会釈した男たちの向こうに重々しい扉があり、総和会会長がいることを物語っていた。
 扉が開けられ、促されるまま中に足を踏み入れた和彦は、妙齢の着物姿の女性に出迎えられた。わけがわからないままコートを預け、席へと案内される。
 当然だが、クラブは貸切となっていた。テーブルのいくつかは埋まっているが、それはすべて総和会の人間だろう。落ち着いた雰囲気の中、会話を楽しんでいる様子はあるが、やはり何かが違う。
 緊張するあまり、息苦しさすら覚えた和彦が喉元に手をやったとき、ある男と目が合った。南郷だ。
 テーブルの一角に二人の男たちと陣取り、何事か話し込んでいる様子だったが、和彦を見るなりのっそりと立ち上がり、頭を下げた。無視するわけにはいかず、テーブルの側を通るとき和彦も会釈をする。
 そしてやっと、和彦を招いた本人と対面が叶う。
「――よく来てくれた、先生」
 ソファに腰掛けたノーネクタイで寛いだ姿の守光が、笑いかけてくる。和彦もぎこちないながらも笑みを浮かべて挨拶をする。すると、守光と同じテーブルについていた男が立ち上がり、和彦に着席を促した。恭しい手つきで示されたのは、守光の隣の席だ。
 何も考えられず、求められるままに行動する。この状況で和彦ができることは、それしかなかった。
「わしの誘いはいつも突然だと思っているだろう?」
 守光に話しかけられて、我に返る。不躾なほど守光の顔を見つめてから、和彦は率直に答えてしまった。
「……よく、似ていると思います。賢吾さんと、千尋と……」
「長嶺の男に振り回され慣れた、という口ぶりだ」
 そういうわけでは、と小さな声で言い訳をしている間に、テーブルにオードブルが運ばれてくる。わざわざ和彦のために頼んでくれたようだ。
「夕飯はまだだろう。寿司ももうすぐ運ばれてくるから、飲む前に腹に入れておくといい」
 和彦が返事をする前に、皿を手にした守光があれこれと取り分けてくれる。総和会会長にこんなことをさせてしまい、何より周囲の視線が気になる。しかし男たちは、意識したように誰もこちらを見ていなかった。和彦を萎縮させないようにと、配慮しているようだ。守光と同じテーブルについていた男も、いつの間にか隣のテーブルに移っていた。
「緊張しなくていい。あんたは、わしが招いた客だ。好きなように飲み食いして、寛いでくれ」
 守光から皿と箸を手渡される。受け取りはしたものの和彦は、自分が空腹なのかどうかすら、すでにわからなくなっていた。ただ、守光以外の視線を気にしなくていいというのは、正直ありがたい。
「いただきます」
 最初は、食べているものの味を認識することすらできなかったが、ときおり守光に話しかけられ、それに受け答えしているうちに、少しずつ場の空気に慣れていく。
 喉の渇きを水割りで潤してから、やっと和彦は大事なことを思い出した。
「――……ぼくの誕生日を気にかけていただいて、ありがとうございました」
 そう礼を述べると、守光は唇を緩める。目鼻立ちは千尋と似通った部分があるが、笑い方はどことなく賢吾を思わせる。口元が賢吾に似ているせいもあるだろうが、守光の笑い方に、賢吾が影響を受けたというべきかもしれない。
「あんたのような人に、何を贈ったらいいのかわからなくてね。それで、我々が世話になっている感謝の証として、バッジを贈らせてもらった。あんな小さなものでも、この世界ではそれなりの効力はある。あんたを脅かす者がいれば、総和会の敵と見なす。そんな意味を込めたお守りだ」
「ぼくには、そこまでしていただく価値なんて……」
「人間の価値を決めるのは本人ではなく、関わりを持つ人間たちだ。あんたにとっては、世間から嫌われ、恐れられている我々ということだ。わしらに価値を認めてもらったところで、嬉しくはないだろうがね」
 和彦は、静かに視線を周囲に向ける。守光を絶対の存在として仕えている総和会の男たちは、鉄の壁だ。総和会という組織と、総和会会長を守るための。そんな男たちが和彦という存在にどれだけの価値を見出しているのか、推し量る術はない。ただ、守光が言うのなら、それが男たちにとっては絶対となるのだろう。
「あなた方が、佐伯家についてどれだけ調べているのか知りませんが、佐伯家にとってぼくは、そう価値がある存在ではありませんでした。佐伯の姓を持つから、存在を認めてもらっているんです。正直、こんなに大勢の人たちに、ここまで大事にしてもらったことはありません」
 ここでボーイがスマートな動作で歩み寄ってきて、空になった和彦のグラスを取り替えてくれる。さきほどからこの繰り返しで、意識しないまま和彦の酒量は増えていた。
「――近いうちに、春の行事の打ち合わせも兼ねて、泊まりでちょっと遠出することになっている。医者であるあんたに同行してもらえるとありがたいんだが」
 グラスに口をつけた和彦に、守光が思いがけない提案をしてくる。唐突な話題に戸惑うと、守光は物腰の柔らかさには似合わない、ゾクリとするほど冷徹な眼差しを向けてきた。いや、本当は眼差しすらも柔らかいのかもしれないが、少なくとも和彦にとっては怖かった。
「泊まった先で、おもしろい話をしてやろう。千尋はもちろん、賢吾すら知らない話だ。わしとあんたの秘密……というには大げさだが、あんたにとっても興味深い話のはずだ」
 守光の眼差しは、怖くある反面、強烈に和彦を惹きつける。太く艶のある声で語られる言葉には、好奇心を刺激される。
「ぼくの、一存では……」
「賢吾が許可すれば、来てくれると?」
 ためらいつつも、和彦は頷く。守光ほどの人間が、子供騙しのようなウソをつくとは思えなかった。
「わかっているとは思いますが、ぼくは内科は専門外です。同行しても、いざというときお役に立てるかは――」
「旅行に連れ出す方便が必要というだけだ。あんたは気楽に、大名旅行を楽しめばいい」
 ただの旅行で済むのだろうか。世間知らずな子供ではない和彦は、すでにもう、そんな疑念を抱きつつあった。同時に、胸の奥で妖しい衝動がうねり、知らず知らずのうちに体がじわりと熱くなる。
 さすがに酔ってきたのかもしれないと思い、水をもらおうと口を開きかけたとき、視界の隅で大きな影が動いた。反射的に顔を上げると、南郷がガラス製の器を持って立っていた。
「これは、先生にどうぞ」
 そう言って目の前に置かれた器には、たっぷりのカットフルーツが盛られている。和彦が礼を言う前に南郷はさっさと立ち去り、なぜか隣で守光が声を洩らして笑った。
「ああ見えて、気が利く男でな。だからわしも、目をかけている。……南郷は、大物になる。それこそ、総和会の中核となるぐらいにな」
 守光の声にわずかな熱がこもっていることを感じ、和彦はそっと息を呑む。ふいに、鷹津が話してくれたことが蘇った。噂話を集めたようなものだったが、長嶺守光という男の本性を知る手がかり程度にはなるかもしれない。
 物言いたげな和彦の様子に気づいた守光が、ひどく優しい表情で首を傾げた。
「何かがひどく気になる、という顔だな」
「……会長は、南郷さんを可愛がられているんですね。少し前に南郷さん本人から、会長との関係について教えてもらったことがあって……」
「可愛がりすぎて、南郷がわしの隠し子じゃないかという噂まである」
 和彦が目を見開くと、守光は子供をあやすような手つきで、和彦の膝を軽く叩いた。
「まあ、単なる噂だ。長嶺の血統主義を総和会にまで持ち込むなと、〈誰か〉が牽制のために流しているに過ぎん。賢吾を総和会に招き入れるとき、なんらかの火種にしようと考えているんだろう」
「賢吾さんは、将来は総和会に? だとしたら、そのときに長嶺組は、千尋を組長とするんですよね」
「まだまだ何年も先の話――というより、わしの夢だ。もっともその頃には、わしはもうこの世にはおらんかもしれん」
 そう言いながらも、守光の両目には力が漲っていた。夢を現実にするだけの圧倒的な精神力も欲望も、守光の中では炎のように燃え盛っているのだ。
 こんな男だからこそ、総和会という巨大な組織の頂点に立っていられる。和彦はそのことを肌で感じていた。
「どうしてこんな大事なことを、ぼくなんかに話してくれるのですか?」
「知ることで、どんどんこの世界の深みにハマる。そうやって、長嶺の男たちが大事にしている先生を、逃がさないようにしている」
 本気とも冗談とも取れることを言って、守光は声を上げて笑った。さすがにその声に驚いたのか、店内の男たちが一斉にこちらに向き、和彦一人がうろたえてしまう。
 視線を避けるようにグラスを取り上げ、水割りを飲もうとしたところで、膝の上に置かれたままの守光の手に気づいた。その手が意味ありげに動き、膝を撫でて離れる。たったそれだけのことだが、肌に直接触れられたような生々しさを感じ、和彦は体を硬直させる。
「――賢吾も千尋も、あんたをこの世界から逃すまいと、必死だ。そしてわしも、同じ気持ちだ」
 片手を出すよう守光に言われ、おずおずと従う。てのひらにそっとカードキーがのせられた。それが何を意味しているか瞬時に理解した和彦は、顔を強張らせつつも、体が熱くなっていくのを止められなかった。
「あんたをもっと、この世界の奥深くに取り込みたい。わしの家で一泊したあとも、あんたは長嶺の庇護の下から逃げ出さなかった。つまり、こう解釈できる。あんたはどんな形であれ、長嶺の男〈たち〉を受け入れてくれる、と」
「……よく、わかりません……。いろいろと考えることが多くて、ぼくはどうすればいいのか……」
「だが、佐伯和彦という人間はここにいる。わしの隣に、こうして行儀よく座ってな。それはもう、流されているにせよ、一つの選択肢を選んだということだ」
 守光が顔を寄せ、耳元にあることを囁いてくる。和彦は瞬きもせず守光の顔を凝視していた。
 いつも賢吾に対してそうしているせいか、半ば習性のように目の奥にあるものを探る。息づいているのは大蛇ではなく、だが確かに物騒な気配を漂わせた〈何か〉だ。
 怖いが、目を背けられず、触れてみたいとすら思ってしまう。
 和彦は視線を伏せると、浅く頷いた。


 バスローブ姿でベッドの隅に腰掛けた和彦は、閉じたカーテンをぼんやりと眺めていた。カーテンの向こうには、いくら眺めても飽きないほどの夜景が広がっているとわかっているが、今の和彦には必要ないものだ。
 クラブを一人で出た和彦は、外で待っていた総和会の男に案内されて、ホテルの一室に入った。そこで何をしろと指示されたわけではないが、手早くシャワーを浴び、ただこうして待っていた。
 賢吾が言うところの、『長嶺の守り神』を。
 こんな状況であろうが――こんな状況だからこそ、和彦にはやはり布一枚分とはいえ、屁理屈は必要だ。決心はまだつかなくても、それで受け入れられるものがある。
 ここで、部屋のドアが開く気配を感じ取り、ビクリと体を震わせる。反射的に背後を振り返りたくなったが、ギリギリのところでその衝動を抑える。今の和彦が見る必要はないのだ。
 相手も、手順をしっかり心得ていた。すぐ傍らまでやってきたかと思うと、次の瞬間には和彦の視界は遮断される。目隠しをされたのだ。頭の後ろできつくない程度に布が結ばれ、これで和彦は相手を見なくて済む。
 腕を取られて促され、ベッドに上がって身を横たえる。すぐに相手が覆い被さってきて、バスローブの紐を解かれた。
 一度体験して、事情も建前もわかっているからこそ、余計に緊張してしまう。心臓の鼓動は大きく速く鳴り、呼吸が浅く速くなる。手足すら自分のものではないような気がして、和彦は試しにわずかに腕を動かしてみた。
「あっ」
 ふいに、バスローブの前を開かれる。ひんやりとした指先に胸元をなぞられ、声を洩らした和彦はゾクリと身震いする。恐怖も嫌悪もあるが、それだけではない。
 バスローブを脱がされて被虐的な気持ちに陥りながら、興奮の高まりを感じていた。
 冷たく硬い感触のてのひらに肌を撫で回されているうちに、和彦の脳裏には、凛々しく美しい若武者の姿が鮮やかに浮かび上がる。生々しい行為によって記憶に刻みつけられたせいか、掛け軸に画かれていた若武者の存在は、和彦の中でしっかりと息づいていた。
 この瞬間、違和感を覚えたが、その正体はすぐにわかった。
 先日、顔を布で覆われての行為のとき、形だけとはいえ和彦は両手首を縛められていた。しかも、明かりはごく抑えられていた。しかし今は両手は自由で、目隠しのわずかな隙間から見る限りでは、部屋も明るいままだ。
 和彦を相手に、もう慎重になる必要はないと言っているようだ。だからといって、雑に扱う気はないらしい。
 最初は体を硬くしたまま、体をまさぐる手の動きに神経を尖らせていたが、そのうち指先が、同じ部分を何度となく擦るように触れてくる。首の付け根に腕の内側、胸元に触れて、腰骨のラインをなぞり、両足を開かされて内腿にも。
 体がじわりと熱くなってきたところで和彦は、相手の意図を知った。
 三日前、和彦は鷹津と体を重ねた。そのとき鷹津から受けた愛撫の痕跡がまだいくつか肌に残っており、それを辿っているのだ。
 急に羞恥と後ろめたさに襲われて身じろごうとしたが、すかさず敏感なものをてのひらに包み込まれて動けなくなる。
 和彦のささやかな抵抗すら封じ込めると、相手の手つきは、冷静に体を検分するものから、官能を刺激するものへと変わる。そして和彦は、逆らえない。
 相手がベッドを下りる気配がした。もちろん、行為がこれだけで終わるはずもなく、和彦の耳に衣擦れの音が届く。すぐにベッドが揺れ、再び相手の手が和彦の体に触れる。
 愉悦を与えられる手順の何もかもが、あの夜と同じように思えた。
 和彦のものは再びてのひらに包み込まれ、緩やかに上下に扱かれる。もう片方の手が腿から腰、胸元へと這わされ、撫で回してくる。相手の手つきはあくまで丁寧で、緊張で強張っている体を解そうとしているのだ。
 和彦はゆっくりと呼吸を繰り返し、てのひらの感触が肌に馴染んでいくのを感じていた。目隠しの下で目を閉じながら、さきほどまで自分が身を置いていた状況を思い返し、目まぐるしく思考を働かせる。
 あの場にいた男たちに、自分はどんな存在として認知されているのだろうか。ふとそれが気になったが、喉元にまでてのひらが這わされて我に返る。一瞬、首を絞められるのではないかと危惧したのだ。
 当然だが、そんな物騒なことはされなかった。
 あごの下をくすぐられ、頬を撫でられて、耳の形をなぞられる。唇には指先が擦りつけられた。考えてみれば、前回は顔全体に布をかけられていたため、このように触れられることはなかったのだ。
 そしてまた、胸元から腰にかけててのひらを這わされる。
「ふっ……」
 腰の辺りに疼くような心地よさが広がり、和彦は小さく声を洩らす。絶えず愛撫を与えられている和彦のものは、すでに身を起こしていた。それを待っていたように相手の手が、今度は和彦の柔らかな膨らみにかかった。
 爪先をベッドに突っ張らせて、和彦はビクビクと腰を震わせる。怖い、と咄嗟に思ったが、足を閉じることはできず、相手の愛撫に身を任せるしかない。
 柔らかく揉みしだかれ、弱みを指先でまさぐられる。時間をかけてじっくりと。気がつけば和彦は、上擦った声を上げて感じていた。
「あっ、あぁっ、あっ――……」
 ベッドの上で背を反らし、頭上の枕を両手で握り締める。快感に、体が素直な反応を示すようになっていた。
 相手の興味は、まだ触れていない部分へと向く。片足を抱え上げられた和彦は、次に何が行われるか、すぐに予測できた。
 その予測通り――。
 秘裂をまさぐられ、潤滑剤らしきものを垂らされた。内奥の入り口を擦られながら、丹念に解されていく。和彦が大きく息を吐き出した瞬間、ヌルリと指が内奥に挿入された。
 じっくりと内奥を指で犯される。まだ硬い肉を突き崩すように解され、襞と粘膜を擦られて淫靡な音を立てる頃には、和彦の肌は汗ばみ、息遣いも妖しさを帯び始めていた。ときおり指が引き抜かれ、たっぷりの潤滑剤とともにすぐにまた挿入されると、腰を揺らして締め付けてしまう。
 相手は決して焦らず、和彦を観察している。どの部分でより感じ、どの力加減を好むか、愛撫だけでどこまで身悶えるか、知ろうとしているのだ。
「あうっ……」
 内奥を強く指で押し上げられ、堪える術もなく和彦は精を噴き上げる。
 この頃になると、和彦の理性は危ういものになっていた。いつもであれば、衝動のままに相手にしがみつき、身を任せてしまえばいいが、今和彦の体を自由にしている相手に、自分から触れることはできなかった。頭ではそうわかってはいても、容赦なく押し寄せる快感の中、しっかりと自分を保つのは難しい。
 無意識のうちに手を伸ばしそうになり、寸前のところで我に返る。そんな和彦の動作に、相手は何か感じたらしい。まるで子供をあやすように、頭や頬を撫でてきた。その手つきに和彦は安堵する。
 自分に触れているのは、感情を持った人間なのだと実感していた。相手の手から、感情が流れ込んでくる気がしたのだ。少なくとも、和彦に対して敵意や害意は持っていない。
 うつ伏せの姿勢を取らされた和彦は、枕を握り締める。蕩けた内奥の入り口に熱くて硬いものが押し当てられ、潤滑剤で潤った肉をゆっくりと割り開かれていた。
「うっ、うああっ」
 ゾクゾクするような強烈な疼きが背筋を駆け抜ける。腰を突き出した姿勢で背をしならせ、和彦は逞しい欲望を内奥に呑み込んでいく。
 相手の手に、発情して熱くなった体をまさぐられていた。それどころか、繋がってひくつく部分を指先でなぞられる。おそらく、しっかり見つめられてもいるだろう。和彦が相手の姿を見られないというのに、相手は和彦の痴態のすべてを目に焼き付けているのだ。
「あっ、あっ、んあっ――」
 頭の芯が溶けていくような肉の愉悦に、声が抑えられない。和彦の恥知らずな声に刺激を受けたように、緩やかに内奥を突き上げられる。それだけで深い感覚が波のように広がっていた。
 背後から貫かれ、しっかりと繋がった姿勢のまま、一度律動は止まる。和彦は大きく荒い呼吸を繰り返しながら、体の中心からじわじわと広がる肉の快感を、より明確なものとして実感していた。
 内奥深くに埋め込まれた熱い欲望を、きつく締め付ける。あさましいとわかってはいるが、どうしようもできない。物欲しげな襞と粘膜が勝手に蠢き、欲望に奉仕する。その奉仕に対する褒美のように、さらに愛撫が与えられた。
「はっ、あぁっ……」
 腰から背にかけて撫で回され、胸元にも触れられる。敏感に凝った胸の突起を摘み上げられると、意識しないまま和彦は腰を揺らす。すかさず、内奥深くで息を潜めていた欲望が動き、強い疼きが背筋を這い上がっていた。
「はあっ――、あっ、うくっ……ん」
 内奥に受け入れたものと、一つに溶け合ったような感覚を覚えていた。ただ、違和感はあった。
 他の男たちと体を重ねながら感じる、荒い息遣いも、貪るような口づけも、濃厚な汗の匂いもない。体を繋いではいるが、体を重ねているわけではないのだ。これは、対等なセックスではない。
 相手の存在を体に刻みつけられ、相手好みの快感で調教されているようだ。
 胸元を撫でていた手が、みぞおちから腹部を撫でて、両足の間に差し込まれる。和彦は喉を鳴らすと、枕の端を両手で掴んだ。再び反り返り、熱くなって震えるものを優しい手つきで扱かれ、身悶えるほどの快感が腰に広がる。
 ここでふいに、繋がりを解かれた。肩を掴まれた和彦は促されるまま、素直に仰向けとなり、両足を抱え上げられる。淫らに喘ぐ内奥を、すぐにまたこじ開けられ、欲望を呑み込まされた。
「あぁっ――」
 下腹部に、生温かな液体が散るのを感じる。そして、強烈な絶頂感も。相手が見ている前で、二度目の精を放ったのだ。
 羞恥と恍惚、消えることのない肉の悦びへの飢えに、和彦は息を喘がせながら身を震わせる。もう許してほしいと、哀願もしたかもしれない。意識が惑乱して、どうすればいいのかわからなくなっていた。
 唯一はっきりしているのは、蠢き続ける内奥に、熱く逞しい欲望はまだしっかりと埋め込まれているということだ。
 ゆっくりと小刻みに内奥を擦り上げられたかと思うと、不意打ちのように欲望が引き抜かれる。激しくひくつく内奥の入り口に指先が這わされ、そんなささやかな刺激にすら、和彦は啜り泣きのような声を洩らして反応してしまう。
 相手は、和彦の好む愛撫だけでなく、あらゆる反応を知りたがっているようだった。羞恥に身を強張らせる様も、淫らに煩悶し、奔放に乱れる様どころか、己のあさましさに打ちのめされる姿すらも――。
「うっ、くうっ……ん」
 一息に、内奥深くまで欲望が押し入り、抉るように突き上げられる。頭の先から爪先まで、肉の愉悦が満ちていた。
「あっ、あぁっ――」
 喉を反らして悦びの声を上げた和彦は、理屈ではなく、本能でこう認めていた。
 自分は、今受け入れている相手の〈オンナ〉なのだと。
 まるで魔が差すように、目隠しを取りたくなった。枕を握り締めていた手を離しかけたが、しっかりと埋め込まれた欲望が蠢き、目も眩むような快感に和彦は悦びの声を溢れさせた。
 熱い精を内奥深くに注ぎ込まれる瞬間まで。


 和彦はベッドにしどけなく横たわっていた。目隠しをしたままのため、いまだ何も見ることはできず、ただ、耳を澄ませる。
 室内を人が歩く気配がしていたが、今はベッドの傍らで何かしている物音がする。おそらく、衣類を身につけているのだ。
 気にはなるが、相手が部屋を出ていくまで、行儀よく待っているしかない――。
 そう思っていた和彦だが、ふいにベッドが揺れて驚く。何事かと体を硬くしていると、汗で湿った髪を指で梳かれた。
 そこに誰がいるのかわかっているが、それでも目隠しを取って顔を見たかった。掛け軸に画かれた若武者の姿は、情欲が鎮まると同時に瞼の裏から消えている。今は、ある人物の顔がはっきりと頭に描かれていた。
 和彦はのろのろと目隠しに手をかける。あと一押しあれば目隠しをずらせたが、その前に手を掴まれ、あっさりとベッドに押さえつけられた。
 和彦に姿を見られたくないというより、和彦の中でまだ覚悟が決まっていないことを見抜いているのだろう。相手の老獪さと狡猾さを思えば、そうであっても不思議ではない。
 結局相手は、一言も発することなく部屋を出て行った。ドアが閉まる音を聞いて数分ほど待ってから、和彦はやっと目隠しを取る。慎重に体を起こし、乱れたベッドの様子を目の当たりにして密かに恥じ入りながら、バスローブを拾い上げて着込む。
 目隠しをしていた間に世界が一変するわけもなく、なのに和彦自身は、自分を取り巻く世界がなんらかの変化を起こしたように感じていた。〈長嶺の守り神〉と体を繋ぐということは、こういう感覚の積み重ねなのかもしれない。
 明日も仕事なので、ここで寝入ってしまうわけにもいかず、バスルームに向かう。激しさとは無縁だが、時間をかけての交わりは、驚くほど和彦の体力を消耗する。しかし、歩けないほどではない。とにかく一刻も早く、休みたかった。
 じっくりと体を温めたいのを我慢して、バスルームで簡単に体を洗うと、手早くスーツを身につける。髪は手櫛で整えただけで、鏡を覗く余裕すらなかった。
 まるで追い立てられるように部屋のドアを開けた瞬間、和彦は声を上げた。目の前に南郷が立っていたからだ。落ち着いた態度からして、どうやら和彦が出てくるのを待っていたようだ。
 南郷は無遠慮に和彦をじろじろと見たあと、指先を軽く動かした。
「俺についてきてくれ、先生。オヤジさんから、あんたをしっかり送り届けるよう言われている」
 ためらいは覚えたが、南郷を無視するわけにもいかない。先を歩く南郷のあとを、仕方なくついていく。
 ホテル前にはすでに車が待機しており、和彦は南郷とともに後部座席に乗り込んだ。
 車が走り出しても、シートに体を預けることなく、頑なに外の景色に視線を向け続ける。とてもではないが、ホテルの部屋での濃厚な行為のあとに、平然と正面を向くことはできなかった。南郷のほうを見るなど、論外だ。
 しかし南郷は、そんな和彦に容赦なく視線を向けてくる。なぜわかるかというと、ウィンドーに南郷の姿が反射して映っているため、どれだけ嫌でも目に入るのだ。
 まるで根競べのように顔を背けていたが、南郷が口元に笑みを湛えているのを見て、たまらず振り返る。
「どうかしたのか?」
 まるで和彦を小馬鹿にするような口調で、南郷が問いかけてくる。つい睨みつけてしまったが、分厚い体にあっさりと跳ね返された。和彦が向ける敵意や反感など、総和会の看板を背負って生きている男には痛くも痒くもないのだろう。
 だからといって、黙ったままなのも悔しい。
「――……先日いただいたプレゼントのことですが……」
 こう切り出すと、南郷は和彦の手元を見た。
「気に入ってくれたか?」
「あえてぼくに、誤解させるような言い方をしたんですね。まるで、会長からのプレゼントのような。だからぼくは、受け取らざるをえなかった」
「人聞きが悪いな。俺は、誤解させる言い方すらしなかっただろ」
 ファミリーレストランでの南郷との会話を思い返し、和彦は歯噛みしたくなる。確かに、南郷の言う通りだ。和彦の問いかけに、南郷は話題を逸らした受け答えをしていた。あのときは身構えるばかりで、会話の齟齬に気をとめる余裕はなかった。
「……正直、あなたからプレゼントをもらう理由はありません」
「俺にはある。オヤジさんのお気に入りになったあんたの歓心を買いたい」
 和彦は吐き出すように答えた。
「心にもないことをっ……」
「長嶺組長のオンナともなると、もっと高価なもののほうがよかったかな。だとしたら、失礼した。次に贈るときは――」
「あなた個人から、何も受け取りたくないんです」
 車内の空気が一瞬にして凍りつき、ハンドルを握る総和会の人間どころか、言い放った本人である和彦ですら息を詰めたが、南郷はひどく楽しそうに笑う。歪で凶悪な笑い方だった。
「――まあ、今はそう言っていればいい」
 南郷が洩らした言葉が気になったが、さきほどの発言で勇気を使い果たした和彦は唇を引き結ぶと、何事もなかったように再び外に視線を向けた。









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