と束縛と


- 第20話(4) -


 バレンタイン当日、男としての面目が立つ程度に、和彦は成果を上げていた。
 クリニックのスタッフに、何度かカウンセリングに訪れている患者、そして、エレベーターでときどき一緒になる、クリニックの下の階で働いている女性事務員から、チョコレートをもらったのだ。
 前に勤めていたクリニックでは、まるでシステムが出来上がっているように、朝、医局のデスクにチョコレートが素っ気なく置いてあるのが常だった。そのせいか、手渡しされるというのは非常に新鮮で、純粋に和彦は喜んでいた。三田村が言う世俗的なイベントの楽しみ方を、初めて理解したかもしれない。
 しかし、無邪気に喜んでいる場合ではない。
 この日、最後の患者を見送った和彦はデスクにつき、真剣な顔で考え込む。自分がバレンタインデーを堪能したから、あとは素知らぬ顔をしていい道理はなく、和彦は和彦で、しっかり役目がある。
 昨日デパートで買ったものを、日ごろ〈世話〉になっている人間に渡さなくてはならないのだ。あくまで、誕生日を祝ってくれた礼のためであって、男の身でバレンタインデーに積極的にチョコレートを配り歩くわけではない。たまたま、今日なのだ。
 近しい男たちに説明したところで、ニヤニヤと笑われるのが目に浮かぶような理由を、和彦は必死に心の中で繰り返す。
 やはり、一日ぐらいズラしたほうがいいのではないかと思わなくもないが、それはそれで自意識過剰な気もする。何事もない顔をして、淡々と渡すのが一番無難なのだろう。
 時間通りにクリニックを閉めて、他のスタッフとともに掃除を始める。
 処置室で器具の数を確認してから、掃除機をかけていたところで、ふと和彦は自分の体の異変を感じた。本当は、今朝マンションを出るときから漠然と違和感はあったのだが、さほど気にかけていなかった。
 それが時間とともに無視できなくなり、とうとう――。
 掃除機のスイッチを一度切って、大きく息を吐き出す。少し動くのも息が切れるほど、体がだるかった。暖房が効きすぎているのかやけに顔が熱く、なんとなく気分がすっきりしない。首を撫でた和彦は心当たりを考えて、すぐにピンときた。
 昨晩守光と会い、その後の出来事が鮮明に蘇る。確実に、体温が上がった。
 南郷の運転する車でマンションまで送り届けられ、それからすぐに休んだが、さすがに肉体的なものはもちろん、精神的な疲労もまだ残っているようだ。
 今日が金曜日で助かったと思いながら和彦は、掃除機を引きずりながらなんとか診察室までの掃除を終える。
 月曜日に入っている予約について簡単に打ち合わせをしてから、スタッフを帰らせると、さっそく携帯電話を取り出した。
 ある人物に電話をかけると、こちらが口を開く前に、勢い込むように元気な声が聞こえてきた。
『――先生っ、これからデートしよっ』
 なんと切り出そうかと考えていたのがバカらしくなるほど、千尋は明け透けだ。周囲に誰もいないのだろうかと、余計な心配をしつつ和彦は苦笑を洩らす。
「今日はぼくが誘おうと思っていたのに、先を越されたな」
『えっ、バレンタインだから、何かくれるの?』
 和彦の周囲にいる男たちは、行事ごとに対して非常に几帳面だ。その几帳面さは行事の種類を選ばないと、改めて痛感する。
 バレンタインという単語を口にすることに千尋は抵抗がないようだが、和彦はどうしても、気恥ずかしさが先に立つ。
「いや……、なんというか、誕生日プレゼントの礼をしたいんだ。ちょうど、お前が今言ったイベントで盛り上がっているから、手間が省けるというか、手抜きしたわけじゃないが――」
『先生、チョコレート買ってくれたんだ』
 千尋の声が笑いを含んでいる。ますます顔が熱くなっていくのを感じながら和彦は、渋々認める。
「お返しにちょうどよかったからな。言っておくが、深い意味はないからな。たまたま、チョコレートを売っていたから、いくつか買っただけだ」
『……ムキになって言い訳するあたりが、可愛いよなー、先生』
 ニヤニヤとしている千尋の顔が容易に想像でき、どうやって反撃してやろうかと思った和彦だが、次の千尋の言葉でどうでもよくなった。
『今日、先生にチョコレートもらったら、次は俺が、ホワイトデーにお返しするね』
 和彦はやや呆れて応じる。
「バカ。そんなことしてたら、キリがないだろ」
『いいの。俺、先生に貢ぐの好きだし』
「人聞きが悪い言い方するな……」
 楽しそうな笑い声を上げた千尋に一緒に夕食をとろうと誘われ、和彦は承諾する。最初から、そのつもりだったのだ。
 三十分後に外で落ち合うことにして、電話を切る。和彦はすぐに帰り支度を整え、クリニックをあとにする。
 車に乗り込むと、待ち合わせ場所を告げ、傍らに置いた袋に目を向ける。念のため、昨日デパートで買ったものはすべて持ち歩いていた。今日中にすべて渡せれば上出来だが、残念なことに、和彦と関係の深い男たちは皆忙しい。
 これから会う千尋にしても、決して暇を持て余せる立場ではないのだ。もしかすると、和彦と夕食をともにするために時間を作ったのかもしれない。
 夕食後、長嶺の本宅に少し顔を出そうなどと考えているうちに、車が車道脇に停まる。ちょうど、千尋との待ち合わせ場所であるビルの前で、和彦は車中から外を眺める。
 すでに日が落ちかけた街中は、それでなくても人通りが多い。千尋はどこにいるのかと目を凝らしてみれば、待ち合わせらしい人がたむろしているスペースに、やけに人目を惹くスーツ姿の青年が立っていた。それが千尋だとわかり、和彦はそっと目を細める。
 外見の若さだけなら、それこそやっとスーツが様になってきた新入社員のようでもあるが、物腰やまとっている雰囲気は、明らかに同年代の青年が持ち得ないものだ。覇気と鋭さ、危うい凶暴性のようなものを秘め、それでいて、強烈なほど魅力的だ。
「――先生?」
 運転席の組員に呼ばれ、我に返った和彦は袋を手に慌てて車を降りる。帰りは、千尋が乗ってきた車に同乗するか、タクシーで帰るつもりだ。
 和彦が歩み寄ると、すぐに気づいた千尋がパッと表情を輝かせる。
「それ、チョコ?」
 開口一番の千尋の言葉を受け、和彦は袋の一つを手渡す。このとき、注意も忘れない。
「往来で、大きな声で『チョコ』と言うな。お前はともかく、言われるぼくが恥ずかしい……」
「ベッドの中じゃ大胆なのに、変なところで先生って初心だよね。顔まで赤くして」
 和彦は遠慮なく、千尋のよく磨かれた革靴を踏みつける。何が楽しいのか、それでも千尋は楽しそうに笑っている。すこぶる機嫌がよさそうだ。
 長嶺組の跡継ぎのくせに、チョコレート一つでこうも喜ばれると、和彦としては照れ臭い反面、嬉しい。
「……安上がりだな、お前は」
 ぼそりと和彦が呟くと、さらりと千尋に返された。
「先生だって、誕生日プレゼントの携帯ストラップを喜んでくれたじゃん。あれなんて、多分このチョコより安いよ」
「値段じゃない。ぼくのために考えてくれた、お前の気持ちが嬉しかったんだ」
「俺も同じ」
 目の前に掲げた袋を振られ、和彦はもう何も言えない。
 千尋に促されて歩き出しながら、何げなく頬に触れる。さきほどから顔が熱かったが、まさか赤くなっているとは思わなかった。それに、こうして歩いていて気がついたが、足元が少し覚束ない感覚があった。
 まさか、とある可能性に思い至ったとき、千尋に話しかけられる。
「ところで、先生がまだ持ってる袋の中身が気になるんだけど」
 千尋から露骨な眼差しを向けられた和彦は、片手に持った袋を軽く掲げて見せる。こちらは、千尋に渡した袋よりもかなり大きいし、重い。
「それって、もしかして――」
「一応、お前の父親にはウィスキーを。……よくも悪くも、生活すべてで世話になっているしな。それと、いくつかのチョコレートを本宅に。住み込みの組員たちが食べてくれるだろ」
「あちこちに気を配るのも、オンナの役目?」
 和彦は今度は、千尋の脇腹を拳で軽く殴る。口が悪いというわけではないが、ときおり千尋は毒を含んだ冗談を言うのだ。
「……長嶺組の人間には、大事にしてもらっているからな。ただ、それだけだ」
 ちらりとこちらを見た千尋は、傍目にわかるほど嬉しそうだ。
「どうした、千尋」
「先生はすっかり、うちの身内だと思ってさ。そうするつもりで最初に強引な手を使ったんだけど、先生がうちの人間を気にかけてくれるの――やっぱり嬉しいよ」
 長嶺組の庇護の下での生活を受け入れ、慣れたとはいえ、元の世界での生活に未練がないわけではない。ときおり漠然とした不安に駆られ、それを必死に誤魔化すことはある。一方で、今の生活から抜け出そうと、必死に足掻くだけの理由がない気がするのだ。
 このとき、唐突に里見のことを思い出した。里見なら、和彦の現状を知れば、なんとかしようと奔走するかもしれない。
 その事態を、果たして自分は期待しているのだろうか――。
 和彦は、隣を歩く千尋に視線を向ける。里見と接触を持ったことを知れば、長嶺の男たちがどんな反応を示すか想像した瞬間、強烈な悪寒が和彦を襲う。
 小さく呻き声を洩らして立ち止まると、和彦の異変に気づいた千尋が険しい表情となった。
「先生っ?」
「なんでもない。ただ、悪寒がしただけだ……」
 無理やり笑みをつくって歩き出そうとしたが、千尋に腕を掴まれ引き止められる。人目があるというのに間近に顔を寄せられ、和彦のほうが動揺してしまう。
「千尋、本当に何もないんだ」
「……先生、まだ顔が赤いよ。それに、目の焦点がおかしい」
 そこまで言われてやっと和彦は、自分の体調の悪さが疲労ではなく、病気からくるものだと知った。足元が覚束ないのは、熱が高いせいだ。
 自分の額に手をやったが、体温はよくわからない。額だけでなく、てのひらまで熱くなっていた。急に体に力が入らなくなり、その場に座り込みそうになったが、寸前のところで千尋に支えられる。
「先生、本宅に帰ろう」
 顔を上げるのもつらくて、和彦はうつむいたまま頷いた。


 喉が痛くて小さく咳き込むと、それだけで頭を揺さぶられるような眩暈に襲われる。一度意識してしまうと、体がどんどん熱に侵食されていくようで、横になっていてもだるい。
 和彦は客間の天井を見上げ、ゆっくりと瞬きを繰り返す。体はつらいが、精神的には奇妙なほど安らいでいた。
 耳を澄ますと、廊下を歩く足音が聞こえてくる。それに、話し声も。人の気配を感じるおかげで、心細さとは無縁でいられる。それが安らぎに繋がるのだ。
 長嶺の本宅に連れて来られた和彦は、そのまま客間に通された。事前に千尋が連絡を入れておいたため、部屋は暖められ、布団も敷かれていた。浴衣に着替えて和彦が横になる頃には、加湿器まで運び込まれたぐらいだ。
 和彦にはもう、自分の症状が何からくるものかわかっている。疲労が溜まってきたところに風邪を引き、自分でも驚くような高熱が出たのだ。風邪を予期させる症状にいくつか心当たりがあるが、寝込んでしまった今となっては、遅いとしかいいようがない。
 千尋には悪いことをしたと思う。時間を作ってもらったのに、結局何も楽しめないまま、本宅に戻ってきたのだ。和彦に付き添っていると言っていたが、自分に代わって組員が諭してくれ、なんとか客間を出ていってもらった。
 苦労して寝返りをうった和彦は、タオルに包まれた氷枕に頬を押し当てる。全身が燃えそうに熱いくせに、ゾクゾクと寒気がする。
 苦しさに小さく喘いでいると、障子が開く音がした。振り返る体力もなく、ぐったりしていたが、相手のほうから正面に回り込んできた。
「――熱を出して弱った先生も色っぽいな」
 いかにも賢吾らしい発言に、和彦は眉をひそめる。
「それが、病人にかける言葉か」
「掠れた声も実にいい」
 畳の上にあぐらをかいて座った賢吾が顔を覗き込んできた。汗で湿った髪を掻き上げられ、頬を撫でられて、和彦はじっと賢吾を見つめる。漠然と思ったことを口にしていた。
「……なんだか、楽しそうだな」
「こんなふうにぐったりした先生も、なかなかいいものだと思って。――今は図体もでかくて頑丈な千尋だが、小さい頃は腺病質でな。よく熱を出して寝込んでたんだ。そのときだけは、生意気な坊主がおとなしくなって、すがるような目で俺を見ていた。それが、むしょうに可愛かった」
「ぼくは、そんな目はしてないぞ……」
「熱を出すまでもなく、セックスの最中に俺をすがるように見ているからな」
 これ以上ないほど熱が高いというのに、賢吾の言葉で体中の血が沸騰しそうになる。和彦が必死に睨みつけると、口元に笑みを浮かべた賢吾はもう一度頬を撫でてきた。
「こんなに熱を出して、医者の不養生だ、先生」
 高熱のせいで頭の芯がぼんやりしていても、官能的なバリトンの威力はしっかりと伝わる。まるで鼓膜を声で愛撫されたようで、布団の中で和彦は小さく身震いしていた。
「と、言ってはみたが、俺にも責任はあるな。先生を振り回しているんだから。どうにも、先生がクリニック経営で忙しいということが、頭からすっぽり抜けちまうんだ。俺だけじゃなく、千尋も、うちのじいさんもな」
 このときばかりは賢吾を見られず、つい和彦は目を伏せる。昨夜、守光と会ったことを報告はしていないが、当然賢吾は知っているだろう。もちろん、ただ会って談笑したわけではないことも。
「――……何日も前から、体調は怪しかったんだ。というより、この一年ずっと慌しかったから、ようやくクリニックを開いて、仕事にも慣れたところで、力が抜けたのかもしれない。こんなに熱を出したのは、本当に何年かぶりだ」
 誰かのせいではないと、言外に和彦は仄めかす。賢吾は丁寧な手つきで髪を梳いてくれた。
「優しいな、先生は。そうやって甘やかすから、男どもがつけ上がるとも言えるがな」
「その言葉を、しっかりとあんたの胸に刻みつけておいてくれ」
 低く笑い声を洩らして賢吾が立ち上がろうとしたので、苦しい息の下、囁くような声で和彦は言った。
「ダイニングに、チョコレートと一緒に、あんたへの酒を置いてある。……まだ誕生日プレゼントはもらってないけど、何か贈ってくれるらしいから、先にお返しをしておく」
「はっきりと、バレンタインだからだ、と言ったらどうだ」
「……好きに解釈してくれ」
 ため息交じりに洩らした和彦は布団を引き上げ、口元を隠す。立ち上がった賢吾が客間を出ていくとき、こう言い残した。
「用があれば、いつでも内線を鳴らせ。とにかく先生は、熱が下がるまでおとなしく寝てろ」
 振り返った賢吾の表情は、怖いほど真剣だった。自分でも不思議なほど、そのことが和彦には嬉しかった。本気で心配してくれているとわかったからだ。


 夜が更けるにつれ、本宅は息を潜めるように静かになっていく。ただし、完全に人の気配が絶えることはない。
 夜勤として常に誰かが詰め所にいて、外部からの連絡を受けているし、深夜になって帰宅してくる者もいる。そのため寝ている人間を起こす必要がなく、何かあれば詰め所にいる人間を気兼ねなく呼びつけてくれと、お粥を運んできた組員に言われた。
 そのお粥を苦労して少し食べたあとから、和彦の意識は曖昧だ。うつらうつらとしていると、組員に話しかけられ、生返事を繰り返しているうちに着替えさせられ、薬を飲まされた。ときおり汗も拭ってもらった記憶もある。
 わざわざ内線で人を呼ぶまでもなく、まさに痒いところに手が届くような甲斐甲斐しさだ。
 先生にはいつも組員の面倒をみてもらっているから、と言われたような気がするが、もしかすると夢かもしれない。
 熱を出して体はつらいが、人から世話を焼かれる状況は和彦にとっては新鮮で、同時に、心地よかった。
 ヤクザの組長の本宅で、人恋しさを癒されるというのも妙な話だが、とにかく和彦は救われていた。
 実家を出て一人暮らしを始めてから、病気で寝込んだときの自分はどうしていただろうかと、朦朧とした意識で思い出しているうちに、何度目かの浅い眠りに陥る。
 ふと、傍らに人の気配を感じた。組員が様子をうかがいに来てくれたのだと思い、目を開くことすらしないでいると、和彦の頭は慎重に持ち上げられ、氷枕が取り替えられる。ひんやりとした感触に、思わずほっと吐息を洩らす。
「――……ありがとう」
 掠れた声で礼を言うと、今度は額や首の汗をタオルで拭われた。誰だろうと、ようやく目を開けると、体を屈めるようにして千尋が傍らに座り込んでいた。
 明るさを絞った枕元のライトが千尋の顔に濃い陰影をつくり、見知らぬ男に見える。しかし、必死に和彦を見つめてくる眼差しを間違えるはずもない。和彦は唇だけで笑いかけた。
「夜更かししていると、朝つらいぞ」
「……先生、夕方よりつらそう……」
「見た目ほど、気分は悪くない。ただ、熱が高いだけだ」
 途方に暮れた犬っころのような風情で、少しの間布団の傍らでじっとしていた千尋だが、思い出したように尋ねてきた。
「喉、渇いてない?」
「渇いた……。水は、いくら飲んでも足りないぐらいだ。全部汗で出てしまう」
 上体をわずかに起こして和彦は、千尋がグラスに注いでくれた水を一気に飲み干す。すぐにまた横になると、我慢できなくなったのか千尋が身を寄せてきた。
「風邪がうつるし、汗臭いし、ぼくに近づいてもいいことはないぞ」
「うつしていいよ。それに俺、先生の汗の匂いはよく知ってるし」
 この状況で甘い言葉を囁くあたりが、父親とそっくりだなと、和彦は苦笑を浮かべる。
「早く、寝ろ。さすがに今は、お前の頭を撫でてやる元気もないんだ……」
 渋々といった様子で千尋は立ち上がろうとしたが、次の瞬間、いきなり和彦に覆い被さってきたかと思うと、唇を重ねてきた。
 上唇と下唇を交互に吸われ、抵抗する気力も体力もない和彦はされるがままになる。静かに唇を離した千尋が頬ずりしてきた。
「いいよ。今はこれで我慢しておく」
「……あとでどうなっても知らないからな」
 千尋が傍らから動こうとしないため、部屋から追い出すことは諦めて和彦は目を閉じる。
「ぼくが寝ている間に、変なことするなよ……」
 最後にそう声をかけると、返ってきたのは微かな笑い声だった。




 脇から体温計を取り出した和彦は、微妙な表情を浮かべる。
 朝、目が覚めて、いくらか体が楽になっていることに気づき、さっそく熱を測ってみたのだが、さすがに平熱に戻るほど甘くはなかったようだ。それでも、高熱が続くよりはよほどいい。
 そう自分に言い聞かせながら、枕元に用意された新しい浴衣に着替えていると、内線が鳴った。これから朝食を運ぶと言われ、まだ食欲がない和彦は一度は断ったのだが、なんとなく押し切られてしまう。
 慌てて帯を締め、脱いだ浴衣を畳んだところで、障子の向こうに人影が映る。
「――先生」
 呼びかけてきたのは、ハスキーな声だった。目を丸くした和彦が見ている前で障子が開き、トレーを手にした三田村が姿を現す。
 三田村は、和彦の姿を見るなり表情を和らげた。
「三田村、どうして……」
 布団の傍らに座った三田村に問いかけると、答えより先に、肩に羽織りをかけられる。礼を言った和彦は、改めてまじまじと三田村を見つめる。
「ぼくが寝込んでいると、知っていたのか?」
「昨夜のうちに、本宅の人間から連絡をもらっていた。今朝は、寝ている先生の様子を見て黙って帰るつもりだったんだが……、顔を見せていけと、千尋さんが言ってくれた」
「千尋が?」
 深夜にこの部屋にやってきた千尋だが、いつ出ていったのか和彦は知らない。もしかして、朝方までついていてくれたのかもしれないが、本人に尋ねたところで答えてくれるとも思えない。
 和彦がつい笑みをこぼすと、不思議そうに三田村は首を傾げた。
「どうかしたのか?」
「いや……。ぼくの周囲には、過保護な人間が多いと思ったんだ。たかが風邪で、なんだか大事だ」
「たかが、と言うけど、熱が高いんだろ」
 三田村が片手を伸ばしてきたので、和彦も身を乗り出して額に触らせる。無表情がトレードマークのはずの男は、一気に厳しい表情になった。
「……熱いな」
「これでも、昨夜よりは少し下がったんだ」
 言いながら和彦の視線は、三田村が運んできたトレーに向く。お粥とヨーグルトがのっていた。
 こちらから切り出す前に三田村に椀とスプーンを渡され、仕方なく和彦は受け取る。少なくとも食べている間は、三田村は側にいてくれる。
「――……あんたにはハンカチを買っておいた」
 ゆっくりとお粥を口に運びながら和彦が言うと、驚くべき察しのよさで三田村が即答する。
「バレンタインか」
「正確には、誕生日を祝ってくれた礼、だ。でもどうして、バレンタインだと思ったんだ」
「千尋さんと話したのは、何も先生の病状だけじゃない。……印象深いバレンタインデーになったと言っていた」
 自分と関係を持つ男二人が、バレンタインデーについて話していたのかと思うと、和彦としてはなんとも落ち着かない。
「来年からは、バレンタインデーには部屋に引きこもることにしたぞ、ぼくは」
 三田村が返事に困ったような顔をしたとき、今度は座卓の上に置いた携帯電話が鳴った。土曜日にクリニックから呼び出しがかかるはずもなく、つまり電話は、和彦のプライベートに関わりのある相手からということになる。
 和彦が視線を向けると、心得たように三田村は携帯電話を持ってきてくれた。
 液晶には見覚えのない番号が表示されているが、直感めいたものが働き、熱で弛緩しきっている体にピリッと緊張が駆け抜ける。それが傍目にもわかったらしく、三田村の手が肩にかかった。
「どうかしたのか?」
「……いや、電話の相手が――」
 無視するわけにもいかず、和彦は電話に出る。
『――千尋から聞いた。熱を出して寝込んでいるそうだが、大丈夫かね?』
 電話越しだと、より賢吾に似て聞こえる声の主は、守光だ。
「ええ、急に熱が出て……。仕事の疲れも溜まっていたのだと思います。ここのところ忙しかったですから」
 当り障りのない受け答えをしながらも和彦は、実は内心では激しく動揺していた。さすがに今は思考も正常とは言い難く、迂闊な発言をする恐れもある。何より傍らには、三田村がいるのだ。
『原因の一つは、わしだろうな。まだあんたは、わし相手に緊張するから、精神的な負担をかけただろう。――肉体的な負担も』
 和彦の心臓の鼓動はドクドクと大きく脈打ち、また熱が上がったのか、体が燃えそうに熱くなる。支えを欲しがって片手を伸ばすと、すかさず三田村が握り締めてくれた。
「あの……」
『息が苦しそうだ。何も言わんでいい。わしが一方的に話すから』
 守光の指摘通り、和彦の息は上がっていた。
『勝手だと思うだろうが、わしと会うことを負担に感じないでほしい。わしはただ、賢吾と千尋が大事にしているあんたと、打ち解けたいんだ。身内として、な。堅気だった人間の常識では到底理解できないこともあるだろうが、少なくとも、長嶺組と総和会は、敵意も害意もあんたに向ける気はない。この世界が、あんたにとって安らげる場であってほしいと願っている』
 柔らかな声で語る守光だが、総和会会長の肩書きを背負っている男の紡ぐ言葉は、圧倒的な重みを持っている。和彦は迫力に呑まれていた。説得というより、恫喝されているような気さえするが、ただ一つだけ、はっきりと感じ取れるものがあった。
 守光は、和彦が自分と距離を取らないよう、囲い込もうとしている。
 総和会会長がわざわざ電話をかけてくるということは、暗にそういう意味を持っているのだ。いくら熱で緩慢になっている思考でも、これぐらいは理解できる。
 巧妙で強引な、抗い難いほど淫靡な呪縛だと思った。
 ようやく守光からの電話を切ったとき、和彦は初めてあることに気づいた。三田村に手を握り締められていたはずなのに、いつの間にか自分が、三田村の手を強く握り締めていたのだ。
 携帯電話を枕元に置くと、三田村は何も言わず肩を抱き寄せてくれる。和彦は震えを帯びた息を吐き、おとなしく身を任せた。









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