和彦は、ここ最近忙しさもあってサボりがちだったジムに行き、体を動かしていた。忙しいとはいっても、基本的に座り仕事が多いし、移動は車だ。気を抜くとすぐに運動不足になる。数年ぶりに熱を出して寝込んだことで、普段からの体作りの大切さを思い知った。
ランニングマシーンでたっぷり走ってから、軽めのメニューをこなし、ウェイトコーナーに向かう。置いてあるベンチに横になり、腹筋のトレーニングをしてみたが、やはり少し筋力が落ちているようだ。
クリニックを開業してから、ようやく生活のリズムが掴めてきたところなので、ジム通いの回数を元に戻そうかと和彦は考えている。組からの仕事が入らなければ、比較的夜は時間が取れるのだ。ただし、賢吾に勝手に予定を押さえられなければ、という前提で。
「――あまり、病み上がりという感じじゃないですね、先生」
ベンチの傍らに立ったジム仲間に声をかけられ、和彦は首の後ろで組んでいた両手を離す。
久しぶりに体を思いきり動かして汗だくになっている和彦とは違い、中嶋は首筋や額にうっすらと汗をかいている程度だ。日常的に体を動かしている人間とは、こういうところで差が出るらしい。
「サボっていたツケだな。体が重くて仕方ない」
中嶋に片手を差し出され、その手を掴んで和彦は体を起こす。館内の時計を見上げると、二時間近く、無心に体を動かしていたようだ。
「そろそろシャワーを浴びに行きませんか?」
中嶋の言葉に頷き、和彦は立ち上がる。クリニックを閉めてから、この後、中嶋と一緒に夕食をとるのだ。
今晩ジムに行くと、和彦が中嶋の携帯電話にメールを送り、中嶋の都合がつけばこうして合流する。お互い忙しいうえに、いつ仕事で拘束されるかわからない境遇なので、不確実な約束を交わすより合理的で、気楽なのだ。
今日はもう、ジムで中嶋と顔を合わせた時点で、護衛の組員には帰ってもらっている。時間を気にせず、中嶋と食事を楽しむためだ。
慌しくシャワーを浴びて髪を乾かすと、ジムのロビーに下りる。すでに中嶋は待っており、携帯電話で誰かと話している。和彦の姿を見るなり電話を切り、一緒に車に向かう。
「そういえば先生、うちの会長とバレンタインの日に飲まれたそうですね」
車を発進させてすぐ、あざといほどに自然な調子で中嶋が切り出す。すっかり気を抜いていた和彦は思わず顔を強張らせる。後部座席に乗っているため、直接中嶋の表情を見ることはできないが、バックミラーに映る目元は微かに笑っているようだ。
いくら親しくなり、プライベートをある程度把握する仲になっても、中嶋はヤクザだ。しかも、野心家で頭が切れる。気になることがあれば、和彦から情報を引き出そうとするのは当然だ。
「……わざと、間違っただろ。会ったのはバレンタインデーじゃなくて、その前日だ」
「先生がどんな反応をするか知りたかったんです。曖昧な返事をするか、誤魔化して答えないか――。日にちの訂正をされるとは思いませんでした」
ここで車内に沈黙が訪れる。どうやら中嶋は、和彦の言葉を待っているらしい。
唇を引き結び、シートに深く体を預ける。クラブで守光と同席したあと、自分の身に何が起こったのか思い返すと、体の内から震えが起こる。巨大すぎる凶暴な力に対する怯えと、目隠しをされての淫らな行為に対する疼き。それらが複雑に入り乱れ、和彦からいくらかの冷静さを奪うのだ。
「――……南郷さんが同席していた」
「あの人は会長の側に控えていることが多いので、同じ隊の人間にも、自分の行動を知らせることはあまりないんです。つまり、南郷さんの動きを追えば、会長の動きが追える。そしてその逆も言えるわけです」
「確かに、ぼくが会長と会うときは、あの人が側に控えていることが多いな……」
「先生、さらりと言ってますが、それだけ会長とお会いしているというのは、すごいことですよ」
中嶋に指摘されて改めて、和彦は自分の立場がいかに変化したか思い知る。少し前まで、総和会会長と聞いたところで、自分にはほとんど関わりのない存在だと考えていた。それが今では――。
知らず知らずのうちに苦い表情となり、こんなことを洩らしていた。
「ほんの一年前までのぼくなら、ヤクザの運転する車に乗って、大きな暴力団組織の会長と会ったことを話すなんて、想像すらしていなかった」
「だったら一年後は、さらにすごいことになっているかもしれませんね」
「……考えたくない」
普段から、この先自分はどうなるのか、あえて考えないようにしているのだ。男たちの思惑に流されながらも、今を無事に過ごすことで精一杯だ。
中嶋が連れて行ってくれたのは、複合ビル内にあるモダンな雰囲気のインド料理屋だった。
「連れてきてから聞くのもなんですが、先生、香辛料が効いた料理は大丈夫ですか? ビルの中にいくらでもレストランはあるので、遠慮なく言ってください」
「匂いを嗅いだだけでお腹が空いた」
和彦の言葉に、中嶋はちらりと笑みを見せる。
「よかった。秦さんに教えてもらって、最近通うようになった店なんです」
テーブルにつくと、さっそく中嶋はカレーのディナーコースを頼む。その間和彦は、コートを脱いで隣のイスに置き、混雑する店内を見回す。複合ビルだけあって、商業施設だけでなく企業のオフィスもたくさん入っているためか、いかにも会社帰りといった様子の人も多い。
表向きは健全なクリニック勤めの和彦はともかく、きちんとスーツを着て、見た目はごく普通のハンサムな青年である中嶋は、こういう場ではよく馴染む。
頬杖をついた和彦がじっと見つめていると、視線に気づいたのか、中嶋が首を傾げた。
「どうかしましたか、先生。そういう悩ましい目で見られると、ドキドキするんですが」
「言うことが、本当に秦に似てきたな――」
ここで和彦は姿勢を正す。さきほど車内で交わした会話もあり、純粋な好奇心からこんなことを尋ねていた。
「君は、バレンタインはどうだったんだ。秦と一緒に過ごしたのか?」
唐突な和彦の質問に、さすがの中嶋も虚をつかれたのか目を丸くする。いくら秦の影響を受けようが、ここで澄ました表情で返せないのが、中嶋らしい。ヤクザに見えない切れ者ヤクザも、プライベートな話題にはガードが甘い。
「チョコレートは渡したのか? それとも渡されたほうなのか?」
「……すごい話題で攻めてきますね、先生」
「ぼく相手に、バレンタインという単語を持ち出したほうが悪い」
車内での会話を思い出したのか、ああ、と声を洩らした中嶋は、予想外の反撃をしてきた。薄い笑みを浮かべつつ、堂々とこう言ったのだ。
「バレンタインデーに、チョコの代わりに秦さんと買いに行ったんですよ。――一緒に寝るためのベッドを」
和彦はさりげなく左右のテーブルに視線を向けてから、抑えた声で応じる。
「順調そうだな」
「もう秦さんの部屋に運び込んだので、いつでも見に来てください。三人で楽しめるぐらい、大きなベッドなので」
意味ありげな眼差しを中嶋から向けられ、意識しないまま和彦の頬は熱くなってくる。
「楽しめるって……」
「先生の誕生日の前に、秦さんの部屋でメシを食ったとき、改めて約束したでしょう。俺と秦さんが寝るときは、先生が保護者として手を握って付き添ってくれると」
食事の前になんて露骨な話をしているのかと、居たたまれない気分になる。中嶋は、うろたえている和彦の反応が楽しいのか、機嫌よさそうに笑っている。
「もしかして、いざとなればそんな約束は冗談で済ませる、と思ってました?」
「……君らにとって大事な瞬間に、何もぼくが付き添わなくてもいいだろ」
そもそも、どうしてこんな成り行きになったのかと、和彦は記憶を辿る。実は、そんなに遠い日の出来事ではない。
正月明けに、和彦と秦の奇妙でセクシャルな関係を知った中嶋に責められ、宥めているうちに〈オンナ〉の悦びを教えることになった。その行為の最中のやり取りで、ヤクザとしての中嶋の性質を知ったのだ。
ヤクザとして生きていくには、オンナのままではいられない。バランスを取るように、男や獣の部分を取り戻さないといけないと、中嶋は言った。そのバランスを取る相手が、和彦なのだ。
「ダメですよ。俺は楽しみに待っているんですから。――先生と遊べるのを」
「あまり執心されると、ぼくが秦に恨まれそうなんだが……」
和彦としては精一杯の際どい冗談のつもりだったが、中嶋はそれ以上に際どい言葉を返してくれた。
「大丈夫。秦さんも、先生と遊べるのを楽しみにしています」
和彦は複雑な心境そのままに、眉をひそめてグラスに口をつける。秦と中嶋の関係に強い興味を持っているし、惹かれてさえいる和彦だが、ここで頷けるほど恥知らずではない。
「――……悪い遊びにぼくを引き込んで、何か企んでいるだろ」
「はっきり言ってしまえば、長嶺組長のオンナである先生と特別な関係を結ぶのは、利点があります。そもそも俺が、長嶺組の本宅に出入りを許されたのも、先生と親しいというのが最大の理由でしょうしね。それにうちの会長と先生も、最近になって急速に親交を持ち始めている。先生の側にいれば、まず損をすることはないでしょう」
ここで料理が運ばれてきて、テーブルいっぱいに並ぶ。ディナーコースだけあって、前菜は数種類あり、カレーも二種類ある。それに、ナンだけでなくサフランライスまで一緒に出てきた。ボリュームはたっぷりだ。
さっそく和彦がスプーンを手にすると、さりげなく中嶋が言った。
「いろいろと理屈を並べてますが、単純に、俺は先生を好きなんです。もちろん、秦さんも先生を好きですよ」
和彦は、ナンを千切っている中嶋をまじまじと見つめてから、ぼそりと応じる。
「ぼくも、君は好きだ」
「光栄ですね、先生にそう言ってもらえて」
ここで二人は、食えない笑みを交わし合う。ヤクザのオンナとヤクザがカレーを前にして、こうして互いの腹を探り合っているとは、誰も思いはしないだろう。普通に過ごしている限り、和彦も中嶋も、表の世界によく馴染む外見をしているのだ。
野菜カレーをまず口にして、その味に和彦は満足する。中嶋からエビカレーを少し分けてもらい、代わりに和彦は、チキンカレーを食べてもらう。
ラム肉のタンドール焼きを味わっていた和彦は、店内に一人で入ってきた男に目を留めた。食事を始めてから数組の客の出入りを見たが、一見して違和感を覚える。なんとなくだが、食事に訪れたようには見えなかったのだ。
和彦の直感は当たったらしく、スタッフに何か言った男はさっと店内を見回してから、まっすぐこちらにやってくる。セーターの上からダウンジャケットを羽織った、ラフな格好をした若者だ。年齢は千尋と同じぐらいに見えるが、持っている空気がおそろしく鋭い。
「――お食事中、すみません」
若者はテーブルの傍らに立つと、一礼して低く抑えた声を発した。それを受けて、ここまで寛いだ様子を見せていた中嶋が表情を一変させる。口元には笑みを湛えながらも、冴えた目で若者を一瞥した。
「上手く進んだのか?」
中嶋の問いかけに若者は頷く。
「明日の朝、中嶋さんに立ち合って確認してほしいんですが」
「わかった。今日はもういい。他の連中はまだ一緒に?」
「車に待たせています」
二人のやり取りを聞きつつも、和彦は素知らぬ顔をして食事を続ける。賢吾とも食事をしていると、よくあることなのだ。立ち入ってはいけない話が多すぎるので、こうして聞こえていないふりをするのが一番無難だし、相手を警戒させないで済む。
中嶋は自分の財布を取り出すと、数枚の万札を若者に渡した。
「だったらこれで、飲み食いさせてやってくれ。ご苦労さん」
ダウンジャケットのポケットに金を仕舞った若者は、中嶋だけでなく、和彦にまで丁寧に頭を下げてすぐに店を出ていった。
「南郷さんが連れてきたんですよ」
和彦が口を開くより先に、中嶋が質問を先回りして説明を始める。
「総和会は、十一の組から成り立っているでかい組織ですが、実質的に動かしているのは、それぞれの組から推薦されて幹部になった人間と、さらにその幹部が引っ張ってきた人間です。ただし、どの組も平等に、自分の組の人間を総和会に送り込めるわけじゃありません。組の力というのが、如実に出るんです。今、総和会の中で一番組織力を持っているのは――」
「……長嶺組、か」
「より正確に言うなら、長嶺守光という勢力です。会長の力が強ければ強いほど、会長側についている人間の発言力も勢力も増す。自分の子飼いを増やせるということです」
「なら、さっきの若い子が?」
「ええ。南郷さんが昵懇にしている小さな組から連れてきた見習いです。あいつだけじゃない。遊撃隊が使える若い連中を揃えて、鍛えている最中なんですよ。俺は、あいつの他に数人を預かって、面倒を見ています」
「堂に入ってたな、さっきのやり取りは」
率直な和彦の感想に、中嶋は照れたような表情を見せた。こういう顔も、自分の前だから見せてくれるのかと思ったら貴重だ。だがそれも一瞬で、中嶋は軽く周囲を見回してから、声を潜めた。
「遊撃隊に入ってから感じたんですが、なんとなく、南郷さんは総和会の中での足場を固めているような気がするんですよね」
サフランライスの次に、ナンを味わっていた和彦は首を傾げる。
「隊を任されているぐらいなら、足場なんてとっくに固めているんじゃないのか」
「第二遊撃隊は、長嶺会長が南郷さんに居場所を与えるために作った隊だと言われています。長嶺会長が引退をしたら、あとはどうなるかわからないんですよ。だからこそ、ある程度の組織力を今のうちに養っているような――と、あくまで俺の想像ですけどね」
「総和会内での出世を望む君が、南郷さんの第二遊撃隊に入ったぐらいだ。それなりの目算はあってのことだと、ぼくなんかは思うんだが……」
ニヤリと笑った中嶋は、エビにかぶりついた。なんだか楽しそうだなと思いつつ、和彦はグラスの水を一気に飲み干す。カレーの香辛料より、総和会の内情の話のほうがよほど刺激的だ。ただしその刺激は、非常に厄介なものだ。
守光と顔を合わせてから、和彦と総和会の関係は一気に近くなった。それは、知りたくない事情を知る機会が増えたということで、下手をすれば足元を掬われかねない。
それでなくても和彦は、〈長嶺の守り神〉と関係を持っている。目隠しの布一枚分の建前だが、総和会会長のオンナになったわけではないと、強弁できる。ギリギリのところで、複雑な総和会の事情に巻き込まれずに済んでいるのだ。
それとも中嶋は、すでに和彦が、守光と特殊な関係にあると考えているのだろうか――。
和彦は無意識のうちに、探るような眼差しを中嶋に向ける。すると、なんの前触れもなく中嶋が顔を上げた。ドキリとした和彦は、不自然に視線を逸らすこともできずうろたえる。じろじろと見ていたことを気づかれたのだろうかと思ったが、そうではなかった。
「――先生、携帯鳴ってませんか?」
中嶋にそう言われて初めて、携帯電話の微かな震動音に気づく。傍らに置いたコートのポケットから取り出して表示を確認すると、鷹津の携帯電話からだった。軽く眉をひそめた和彦は、一瞬逡巡してから電源を切る。食事の最中に、鷹津と話をするためだけに席を立つのは抵抗があった。
和彦の行動に、中嶋は目を丸くする。
「いいんですか? 遠慮なく出てもらっても――」
「食事が終わってからかけ直す」
中嶋と一緒であることは、護衛の人間を通して長嶺組に把握されている。仮に急ぎの仕事が入ったとしても、中嶋経由で連絡が入るはずだ。
食事を続けながら和彦は、鷹津の電話の用件を想像する。考えられることは、一つしかなかった。和彦が調査を依頼していた件だ。
鷹津などいくらでも待たせればいいと頭の半分では思うが、残りの半分で、調査の結果が気になるし、蛇蝎の片割れである男の機嫌を損ねる厄介さも無視できない。
「デザートとチャイを持ってきてもらいますか?」
気を利かせた中嶋に提案され、苦笑しつつ和彦は頷いた。
インド料理屋と同じフロアには、飲食店だけでなくさまざまなショップが入っている。少し見てきてもいいですかと言って、誘われるように中嶋が入っていたのは、インテリア雑貨屋だった。
一体何が、ヤクザの青年の目を惹いたのかと思って、つい和彦は店の外から見守る。中嶋が手に取ったのはバスローブだった。秦の部屋に置くのだろうかと、つい生々しい想像をしてしまう。
だがすぐに、中嶋があえて和彦から離れた理由に思い至り、慌てて携帯電話を取り出す。さっそく鷹津に連絡を取った。
『――男とお楽しみの最中だったか』
開口一番の言葉が、いかにも鷹津らしい。和彦は腹を立てる気にもなれず、素っ気なく応じた。
「そうだと言ったらどうなんだ」
『人に仕事をさせておいて、いい気なもんだな』
「……餌は食べさせただろ」
『そうだったか』
電話の向こうで鷹津が下卑た笑い声を洩らす。和彦が嫌がると思い、わざとやっているのだ。
「さっさと本題に入れ。話す気がないなら切るぞ」
『里見という男について調べた』
この瞬間、和彦の心臓の言葉は大きく跳ねる。ギリギリのところで表情に出すことはなかったが、それでも少し動揺していた。
「何が、わかった……?」
『なんだ、冷てーな。電話で済ませろっていうのか。面と向かって、俺の労をねぎらうぐらいしても、バチは当たらないだろ』
ここで和彦が嫌だと言ったところで、鷹津は引かないだろう。なんといっても、情報を持っているのは鷹津だ。そして和彦は、その情報が知りたい。
「……明日も仕事があるから、遅くまでつき合う気はないからな」
和彦の考えすぎかもしれないが、なんとなく鷹津がニヤリと笑った気配を感じた。
鷹津が告げた場所を声に出して反芻してから、電話を切る。不機嫌に唇を曲げた和彦が視線を上げると、店内から中嶋がこちらを見ていた。そして、何も買わずに店を出る。
「バスローブは買わないのか?」
傍らに立った中嶋にそう声をかけると、澄ました顔で頷かれる。
「ああいうのは、秦さんに任せたほうがいいですね。秦さんと俺の分はあるので、あとは、先生の分を揃えるだけなんです」
どうしてこう、反応を試すようなことばかり言う人間が、自分の周囲には多いのか。思わず心の中でぼやいた和彦は、口ではまったく別の用件を切り出した。
「護衛の人間を帰してしまったから、君にちょっと連れて行ってもらいたいところがあるんた。……多分、すぐに済む」
「先生の気の済むまで、いくらでもつき合いますよ」
よかった、と洩らした和彦は、中嶋と肩を並べて歩き出す。駐車場に向かいながら、当然のことを中嶋が尋ねてきた。
「それで、どこに?」
和彦は、鷹津に言われた通りの場所を告げる。なぜか中嶋は、意味ありげな眼差しを寄越してきた。
「なんだ……」
「先生、知ってます? そこ、夜景がきれいだということで、ちょっとしたデートスポットなんですよ」
和彦の脳裏で、鷹津が皮肉っぽい笑みを浮かべている。
「……嫌がらせだな。あの男なら、絶対そういう陰湿なことをやる」
「あの男?」
「鷹津――、前に、ぼくとお茶を飲んでいた刑事だ。君にも紹介して、確か携帯で隠し撮りをしていただろ」
悪びれた様子もなく、ああ、と声を洩らして中嶋は頷いた。
「それで、本当にデートなんですか?」
「笑えない冗談だな……。あの男にはいろいろと調べてもらっているんだ。組関係じゃなく、何かと厄介なぼくの実家のことを」
ウソではないが、事実でもない。総和会だけではなく、賢吾とも繋がっている中嶋を相手に、何もかも打ち明けるわけにはいかなかった。面倒を避けるなら、一人で鷹津と会うのが一番なのだろうが、和彦をマンションに送り届けることなく中嶋が一人で帰るはずもなく、だからといって、マンションに帰宅してから鷹津を呼び出すのも時間がかかる。
あまりコソコソしすぎて、余計な疑念を周囲の男たちに持たせる事態は避けたかった。
心の中で何を考えているかはともかく、中嶋は深く詮索することなく、目的地まで車を走らせてくれる。後部座席で物思いに耽っていた和彦は、あることを思い出し、いつも持ち歩いているアタッシェケースを膝の上に置いて開いた。
人に見られても困らないような書類しか基本的に持ち歩かないのだが、バレンタインデーを過ぎてから、ある包みも一緒に入れている。まさに、今夜のような状況に備えてのことだ。
鷹津が指定した場所に向かうまで、和彦はちょっとしたドライブ気分を味わった。車のライトや照明、ネオンで明るい街を抜け、静かな住宅街へと入り、そこからさらに高台に向かっているのだが、景色が変化に富んでいる。
「暖かい時期だと、この時間でもけっこう車の行き来があるんですが、さすがに今は少し寒いのか、車がまったく通りませんね」
中嶋の口ぶりから、デートスポットとして利用した経験があることはうかがえたが、突っ込むのは野暮だろう。なんといっても、ヤクザになる前はホストをしていた男だ。それでなくても、この外見と、少しクセはあるものの物腰は穏やかなため、女性からの誘いは多かったはずだ。
「……そんな場所に向かうのは、悪徳刑事とヤクザの組長のオンナ。つき合わされる切れ者ヤクザぐらい、か」
「俺はゆっくりと、二人のデートを見物させてもらいますよ」
見物したことを、一体誰に報告するのか――。
和彦は、バックミラーに映る中嶋をちらりと見てから、外を流れる景色に目を向ける。次第に住宅は見えなくなり、ぽつりぽつりと街灯だけが灯る暗い道が続いている。恋人同士でこの道を通るときは、ロマンチックな夜景への期待を十分盛り上げる効果となるのだろう。
ようやく高台に出て、公園の入り口が見える。ただし、門は閉まっていた。思わず中嶋を見ると、和彦の言いたいことを察した中嶋が教えてくれた。
「夜のデートスポットとして人気なのは、駐車場ですよ」
そう言って中嶋が薄暗い駐車場に車を入れる。斜面に沿って造られた駐車場はさほど広くはないが、一目見て、どうしてデートスポットと言われているのかわかった。街の夜景がよく見下ろせるのだ。ここなら、車に乗ったまま夜景が楽しめる。
駐車場には、先客がいた。隅に一台、見覚えのある車が停まっている。中嶋は少し離れたスペースに車を停め、和彦を振り返った。
「向こうの車まで、ついて行きましょうか?」
「大丈夫。あの男の扱いは慣れている」
和彦の返事に、中嶋は口元をわずかに緩める。アタッシェケースから取り出した包みを持って、和彦は車を降りる。それを待っていたように、先に停まっていた車の運転席のドアが開いた。
「――遅いぞ」
車から降りた鷹津がぼそりと洩らす。先日はまともな格好をしていたというのに、今夜はもう黒のセーターにジーンズ、ブルゾンという姿だ。そんな鷹津を頭の先から爪先まで眺めて、和彦は言い返した。
「こんな辺鄙なところを待ち合わせ場所にするからだ。別に、街中の道路脇で会ってもいいだろ」
「情緒のない奴だな。ホテルに呼び出してほしかったのか?」
鷹津にどんな罵倒の言葉を浴びせられるより、今言われた言葉のほうが傷つく。蛇蝎の片割れとも言われるほど嫌な男に、『情緒がない』と言われたのだ。
唇をへの字に曲げた和彦の反応に満足したのか、鷹津は情緒の欠片もない説明をしてくれた。
「二日前に、ここで暴走族同士の乱闘事件があって、一人が半殺しになった。おかげでしばらくは、まともな人間どころか、暴走族も近づかない。セックス抜きで秘密の話をするには、うってつけの場所だ」
「……どの口が、情緒なんて言葉を言ったんだ」
車にもたれかかった鷹津が、和彦の手にある包みに目を留める。すかさず和彦は包みを押し付けた。
「やる」
「なんだ……?」
「靴下。誕生日に、あんたにはディナーを奢ってもらったから、お返しだ。たまたまバレンタインのセールで安かったんだ」
鷹津は、包みと和彦の顔を交互に見て、鼻先で笑った。
「自分のために、靴下が破れるほど足を使えってことか。大したオンナだ」
「まあ、そういうことだ。何かは返しておかないと、目覚めが悪いからな」
律儀なことだと呟いて、鷹津は車の中に包みを放り込んだ。それからスッと、和彦が乗ってきた車のほうを見る。つられて和彦も振り返ると、いつの間にか中嶋が、車を降りてこちらを見ていた。
「あの二枚目は、前に会ったことがあるな……」
「余計なことはするなよ。彼は単なるヤクザじゃなく、総和会の人間だ」
「――あいつとも寝たのか?」
和彦は横目で鷹津を睨みつけると、吐き捨てるように答えた。
「まだ、寝てない」
「正直な奴だ」
「あんた相手に取り繕う必要もないだろ」
和彦は夜景をよく見るため、車の前に回り込む。当然のように鷹津が隣に立ち、それどころか馴れ馴れしく肩を抱いてきた。一瞬腕を払いのけたくなったが、鷹津がいい風除けになっていることに気づき、我慢することにした。
「……寒いんだ。早く本題に入ってくれ」
そう言って和彦は、前方に広がる夜景を眺める。確かにここは、見晴らしがよかった。
「里見という男だが、真っ当な生活を送っている人間らしく、調べるのは楽だった。生活パターンがほぼ決まっているから、それを辿るだけでいい。もちろん、前科はなし。職場での評判もいいし、仕事もできるようだな」
「省庁勤めの頃から、有能な人だった。なんといっても、ぼくの父親が目をかけていたぐらいだ」
「ムカつくほどエリートでイイ男だが、結婚歴はなし。だからといって、女にだらしないという話は、俺が調べた限りじゃなかった。もう少し時間をかけて調べたら、ドロドロしたものも出てくるかもしれないが……知りたいか?」
和彦は意地でも前を見据えたまま、表情を変えずに答える。
「女関係は、それで十分だ。――今のぼくには関係ないし」
和彦の言葉をどう受け止めたのか、鷹津は鼻先で短く笑い、すぐに報告を続ける。
「里見がいる会社は、お前の親兄弟がいる省庁の参画会議に参加している。里見自身も、けっこうな頻度で出向いているようだ。ただし、さすがに俺一人だと、佐伯家に何日も張り付いて、里見が出入りしているか確認するのは無理だ。なんなら、知り合いの調査屋を手配してもいいが」
「いや……、そこまでは。考えてみれば、佐伯家に出入りしているかどうかは、知ったところであまり意味がない。佐伯家の人間といつでも連絡を取り合えて、指示されれば断れない関係なのだと本人が言ったんだから、それで十分だ」
肩にかかる鷹津の腕に力が込められ、和彦は体を引き寄せられる。切りつけてくるように空気が冷たいため、すでに体温を奪われつつある和彦にとって、忌々しいことに鷹津の体温が少しだけ心地よく感じる。
「里見は、いいマンションに一人暮らしだ。ペットもいない。ただ、仕事が忙しいのか、あまり帰っていない。職場近くに、寝泊りするためだけの部屋を借りているんだ。単身者用のマンションだから、誰かと一緒に暮らしているということもないだろう」
十三年経とうが、里見の暮らしぶりはさほど変わっていないようだった。もちろん、鷹津が調べたのはあくまで表面的なものだろうし、和彦と再会するまでの間にさまざまなことがあっただろう。もしかすると、今現在も、こちらが把握していないだけで――。
鷹津が耳元に唇を寄せ、皮肉っぽく囁いてきた。
「――お前の初めての男が、四十を越えても独身を貫いていると知って、どういう気分だ?」
和彦は、鷹津の顔を間近から見つめる。
「別に……。あの人だっていろいろあるんだろう。ぼくにだって、いろいろあるぐらいだ」
「俺が調べた情報は、全部お前に渡してやる。どうするかは、お前の自由だ。それこそ、里見の部屋に行こうがな」
そう言いながら鷹津の指が、和彦の頬やあごをくすぐってくる。
「ただ、里見の存在が、長嶺にバレたときの覚悟はしておけよ。あの男は、自分の大事で可愛いオンナが浮気していると思ったら、間男を半殺しにするぐらい、簡単にするぞ」
寒さ以外のものから、和彦は大きく身震いする。大蛇を背に宿した男の冷たい目を、ふいに思い出したのだ。
「……里見さんに対して、やましい気持ちはない。佐伯家の情報を得たいだけだ」
「そんな理由があるのに、長嶺に打ち明けていないのはどうしてだ」
鷹津は真剣な顔で、和彦の目を覗き込んでくる。賢吾に代わって、自分が和彦の言葉の真意を探ろうとしているかのように。
「あの人は、堅気だ。ぼくとは違う。――ヤクザと交わらせたくない」
「ヤクザから、昔の男を守りたいってことか。健気だな」
そうじゃない、と和彦は声に出さずに呟く。決して、そんなきれいな理由だけではないのだ。
里見に迷惑をかけたくないという想いはある。そしてもう一つ、和彦自身の今の生活と、自分を大事にしてくれる男たちがいる世界を壊したくないという想いが。
一人で気ままに生活をしているときは、無視していればそれでよかった佐伯家だが、今は、里見まで利用する姿勢に、たまらなく嫌な予感がするのだ。
「まあ、何かあったとして、ケリをつけるのはお前だ。俺は美味い餌がもらえれば、それでいい」
鷹津のその言葉で、肩に回された腕の感触をいまさらながら意識する。和彦は、鷹津にきつい眼差しを向けた。
「ぼくはもう、あんたに餌を食わせたぞ。前払いを求めたのは、そっちだからな」
「……覚えていたか」
「当たり前だっ」
鷹津の腕を押し退けようとしたが、力が緩むことはない。ニヤニヤと笑っている鷹津に対して、和彦は折れるしかなかった。
「電話でも言ったが、明日も仕事があるんだ。ゆっくりはできない――」
言葉の途中で鷹津にあごを掴み上げられ、強引に唇を塞がれる。最初は応える気のなかった和彦だが、執拗に唇を吸われ、歯列を舌先でまさぐられているうちに、体の奥が熱くなってくる。視線を伏せ、舌先を触れ合わせていた。
まるで、求め合っている恋人同士のように唇と舌を吸い合う。そのうち口づけが深くなり、口腔を鷹津の舌でまさぐられ、舐め回される。当然のように舌を絡め合い、唾液を交わす。
鷹津と交わす口づけは、いつも長くて激しい。獣じみて下品でいやらしく――感じるのだ。
ようやく唇が離され、和彦は息を喘がせる。その反応に鷹津は満足したようだった。
「里見をまだ調べるか?」
ひどく優しい声で問われ、十秒ほど考えてから和彦は首を横に振る。
「もう、いい……。気になることがあれば、改めてまた頼むことにする」
「お前はもっと頻繁に、俺に仕事を頼むべきだな。餌をもらえる回数が足りなくて、腹が減る」
「……刑事に頻繁に頼める仕事なんて、ぼくにあるわけないだろ。」
「なんなら、餌だけくれてもいいんだぜ。例えば、里見の件の口止め名目で、とかな……」
露骨に意味ありげな物言いをされ、和彦は鷹津を睨みつける。別れの言葉もなく、足早に中嶋の元に戻った。
鷹津との口づけを見ていたであろう中嶋は、まず和彦にこう声をかけてきた。
「――お疲れさまです」
和彦は思わず苦笑を洩らす。
用は済んだとばかりに鷹津はさっさと車に乗り込み、走り去っていく。それを見送ってから、和彦も後部座席に乗り込もうとして、動きを止めた。
「……助手席に乗りたいんだが、いいか?」
和彦の頼みに、考える素振りも見せず中嶋は頷く。
「もちろんですよ」
後部座席に乗っている限り、どうしても中嶋との立場の違いを意識させられる。それに、話しているときの表情がよく見えないのが嫌だった。
鷹津と会った目的を、確実に中嶋は探ってくる。それを躱しつつ和彦は、人恋しさを紛らわせるようにたっぷりと話したい心境なのだ。
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