と束縛と


- 第21話(3) -


 ベッドに転がって本を読んでいた和彦は、何げなく窓を見る。いつからなのか、雨が降っていた。
 珍しくのんびりとした日曜日を過ごしている和彦としては、こんな天気の中、絶対に外出はしたくなかった。それでなくても今日はひどく気温が低い。雨はさぞかし冷たいだろうと、想像するだけで身震いしたくなる。
 今日はひたすら部屋に閉じこもり、夕方まで本を読み、夜はワインを飲みつつDVDをダラダラと観る予定なのだ。
 秘密を抱えた自分は、沈滞しかかっている――。
 和彦は、なんとなく人に会いたくない心境を、そう分析している。今の環境で、秘密を抱えるのはそれだけでストレスになり、プレッシャーもかかる。なんといっても、和彦を取り巻くのは食えない男たちばかりなのだ。
 顔を合わせて、いつもとは違うと指摘されるのが、怖いのかもしれない。
 今日はこのまま、自分を放っておいてほしいという和彦の願いは、見事に一蹴された。
 本を読んでいたはずが、降りが強くなった雨に意識を奪われていると、閉めたドアの向こうで人の気配を感じる。
 和彦が体を起こしたのと、ドアが開いたのは、同じタイミングだった。
 スーツの上からコートを羽織った賢吾が姿を見せ、ベッドの上の和彦を見るなり、口元に笑みを刻む。
「寛いでるな、先生」
「日曜日だからな。……あんたは、出かけていたのか?」
 上体を起こしただけの姿で話すのもだらしないので、和彦はベッドの上に座る。それを待っていたように賢吾が側にやってきた。濡れている様子はないが、賢吾からはいつものコロンだけではなく、雨の匂いもした。
「仕事だ。土日は、先生とゆっくりしたいから、あまり動きたくねーんだがな」
「……あんたには悪いが、たった今まで、ぼくはゆっくりできていた」
「そのおかげで俺は、こうして先生を捕まえることができたわけか。――誰かと出かけようと思わなかったのか?」
 コートを脱ぎながらさらりと賢吾に言われ、和彦は警戒する。和彦が複数の男と関係を持つことを容認している賢吾だが、決して寛大というわけではない。他愛ない言葉の端から、和彦を試すような響きを感じ取ることがある。このとき和彦は、蛇がチロリと舌を出す姿をどうしても連想してしまう。
「今日は、どこにも出かける気はない。のんびりしたいんだ」
「だったら俺も、ここでのんびりと過ごすことにしよう」
 そう言って賢吾が腰を屈め、髪を撫でてくる。和彦はじっとされるがままになりながら、大蛇が潜んだ男の目をじっと見つめる。
 息も止まりそうな圧迫感を胸の辺りに感じ、和彦はぎこちなく視線を逸らしてベッドを下りる。賢吾が脱いだコートを抱えてリビングへと向かった。
「先生、昼メシは食ったのか?」
 コートハンガーにコートをかけていると、背後から賢吾に軽く抱き締められる。
「宅配ピザを頼んだ。寒いから、外に出るのが億劫だったんだ」
「だったら晩メシは、俺と一緒にいいものを食いに出るぞ」
「……ということは、確実に夕方まではここにいるということか」
「なんだ、俺がいると困るか?」
 また反応を試すようなことを言われ、和彦は振り返って賢吾にきつい眼差しを向ける。
「さっきから、なんなんだ。言いたいことがあるなら、はっきり言ってくれ」
「――鷹津との、夜景を見ながらのデートは楽しかったか?」
 この瞬間、和彦はわずかに動揺していた。鷹津と会ったことは、賢吾にメールで報告してある。ただし余計なことは一切省き、あくまで簡潔に。もちろん夜景を見たなどとは、言っていない。つまり、細かな状況を賢吾に報告した人物がいるということだ。
「中嶋くんか……」
「先生の護衛につく人間には、きちんと行動報告をさせている。それが例え総和会の人間であろうが、先生の側にいるからには、そのルールは守ってもらう。中嶋の報告は詳細なだけじゃなく、なかなか詩的で、俺もその場にいるような感覚を味わえた」
 賢吾がジャケットのボタンを外そうとしたので、和彦も手伝ってやる。
「鷹津があの場所を選んだのは、別に詩的な感覚からじゃない。……会ったのは、誕生日に奢ってもらった礼もしたかったからだ。それと――」
「佐伯家の動向が気になるか?」
 顔を上げた和彦に、賢吾が薄く笑いかけてくる。
「珍しいことに、鷹津から組に連絡が入って、佐伯家の最近の動向について聞かれた。あいつはあいつで、独自のルートで佐伯家を探っている……と、俺は感じた」
「餌が欲しくて、ぼくが頼まなくても勝手に動いているようだ」
「モテる〈オンナ〉は大変だな」
 からかうように言う賢吾から強引にジャケットを脱がせ、これもコートハンガーにかける。賢吾に背を向けた和彦は、懸命に平静さを保つ。里見の調査を鷹津に依頼したと、賢吾に知られるわけにはいかなかった。
 ふいに、賢吾の唇が耳に押し当てられた。
「あまり、誰にでもいい顔をするなよ。お前は、俺に一番いい顔を見せていればいいんだ」
 鼓膜を愛撫するようなバリトンの囁きに、和彦の胸の奥が疼く。
「……わかって、いる……」
「だったら、体で俺に尽くしてもらおう。――日曜日も働いてきた俺の体を、先生、温めてくれるか?」
 恐怖からではなく、純粋な欲望に促されるように、和彦は頷いた。


 バスタブに湯が溜まるのを待ってから、賢吾に半ば強引に服を脱がされ、バスルームに連れ込まれる。この頃には和彦も諦めがつき、日曜日の昼間から、ヤクザの組長との入浴タイムを楽しむことにした。
 体を洗ってから湯に浸かるなり、賢吾に腰を引き寄せられる。咄嗟に賢吾の胸に手をついた和彦は、抗議の声を上げる前に唇を塞がれ、喉の奥から呻き声を洩らす。
 油断ならない賢吾の手は、このときには和彦の両足の間に入り込み、敏感なものを緩く握られ扱かれる。愛撫が本格的なものになる前に手を押し退けようとしたが、すかさず力を込められて動けなくなった。
「せめて、風呂から上がるまで、待てないのかっ……」
 ようやく唇が離されて、和彦は息を弾ませて賢吾を睨みつける。生々しい大蛇の刺青を背負った男は、まったく悪びれずに笑みを浮かべた。
「風呂だから、いいんだろ」
「……何がいいんだ」
「多少無茶をしても、先生にかかる負担が軽くて済む」
 慌てて和彦は立ち上がろうとしたが、賢吾の手がさらに深く差し込まれ、柔らかな膨らみをいきなり手荒く揉みしだかれる。これだけで和彦は上擦った声を洩らし、腰を震わせてしまう。そして、賢吾の肩にすがりついていた。
「あっ、あっ、強く、しないで、くれ――」
 下肢に力が入らなくなり、意識しないまま左右に足を開く。
「先生」
 官能的なバリトンの魅力を最大限に活かして、賢吾が呼ぶ。顔を上げた和彦は、求められるままに唇を啄み合い、すぐに濃厚に吸い合う。
 口腔に入り込んできた賢吾の舌に、じっくりと舐め回される。いやらしい口づけに酔っていると、片手を取られて賢吾の両足の間へと導かれる。意図を察した和彦は、思わず賢吾を睨みつけはしたものの、触れた欲望を拒めなかった。
 賢吾のものは興奮を物語るように、すでに熱く硬くなっている。握り締めて上下に扱き始めると、賢吾もまた、和彦の欲望に手荒い愛撫を施してくる。
 すぐに賢吾の求めは露骨になり、和彦は腰を抱き寄せられる。向かい合う格好で、賢吾の下腹部に跨らされた。
「おいっ――」
 さすがに羞恥から和彦は身を捩って逃れようとしたが、すかさず双丘を荒々しく掴まれ、揉まれる。いくら大きめのバスタブとはいえ、男二人が入って暴れられるほど余裕があるわけではない。がっちりと腰に両腕が回された和彦は逃げ場をなくし、仕方なく、賢吾に身を預けた。
 賢吾の肩に掴まりながら、熱くなった欲望同士を擦りつけ合う。あっという間に息が弾んでいた。
「気分が乗ってきたようだな、先生」
「うるさ、い……」
 和彦は顔を伏せようとしたが、賢吾はそれを許さない。容赦なく顔を覗き込んできて、唇を求めてくる。
 唾液を啜り合うような激しい口づけを交わしているうちに、和彦の反応を知り抜いている賢吾は、もっとも和彦が乱れるタイミングを逃さなかった。
「あっ……」
 内奥の入り口を指で軽く擦られ、和彦はビクリと腰を震わせる。
「――尻を犯すぞ、先生」
 愉悦を含んだ声で賢吾が囁き、熱く硬い欲望をいきなり内奥の入り口に押し当ててくる。無意識に和彦の腰は逃げそうになったが、賢吾に捉えられた。
「さあ、自分で動いて奥まで呑み込んでみろ。そのほうが楽だろ」
 賢吾の言葉に、和彦の体はこれ以上なく熱くなる。愛撫も施されていない内奥は、湯で少しは柔らかくなっているとはいえ、まだ頑なだ。そこに、凶暴な塊を呑み込めというのだ。
 間近から賢吾の顔を睨みつけ、無理だと訴えたが、もちろん聞き入れるような男ではない。
「早くしないと、のぼせるぞ」
 楽しげにそう言って、賢吾が背を撫でてくる。和彦は唇を引き結び、傲慢な男の命令に従うしかなかった。
 愛撫の代わりに賢吾と唇を重ね、柔らかく唇と舌を吸い合う。同時に、賢吾のものに片手を添えて、慎重に腰を下ろしていく。
「んっ」
 狭い内奥の入り口を硬く逞しいもので押し広げながら、和彦は鼻にかかった声を洩らす。湯に浸かっているため、体の重さをさほど気にしなくていいが、だからといって苦痛が和らぐわけではない。例え慣れ親しんだものとはいえ、異物だ。
 息を吐き出すたびに腰を下ろし、少しずつ賢吾のものを内奥に呑み込んでいく。ある程度まで侵入が深くなると、賢吾に背を抱き寄せられて腰を揺らされた。
「あっ、あっ――」
 賢吾に腰を掴まれて緩く揺さぶられ、和彦自身、その動きに合わせてさらに腰を落とす。
「相変わらず、いい締まりだ、先生」
 和彦の耳に唇を押し当て、賢吾が囁いてくる。小さく喘いだ和彦は、賢吾の肩に唇を押し当て、舌を這わせる。正確には、大蛇の鱗を舌先でなぞる。その一方で淫らに腰を蠢かし、とうとう賢吾のものをすべて内奥に受け入れた。
 繋がった部分を確かめるように、賢吾が指先を這わせてくる。そのささやかな刺激に反応して、和彦は息を詰めて背をしならせる。すると賢吾が、両腕でしっかりと抱き締めてくれた。
 湯の温かさに包まれながらの穏やかな交歓は、新鮮に感じた。風呂に入りながら賢吾に求められたことは何度もあるが、常に性急で激しい。だが今は、こうして繋がり、抱き合っている感触をゆっくりと堪能している。
「――たまには、こういうのもいいだろ」
 和彦の心の中を読んだように、賢吾が話しかけてくる。和彦はあえてとぼけて見せた。
「こういうのって?」
「カマトトぶるのは、性質の悪いオンナの証だぞ」
 眉をひそめた和彦は、賢吾の顔に軽く湯を引っ掛けてやる。ささやかな悪戯に対する報復は、実に賢吾らしいものだった。
「あうっ」
 内奥深くを抉るように突き上げられ、湯が大きく波立つ。
 和彦は、賢吾の腕の中でビクビクと体を震わせていた。体の奥から肉の愉悦が溢れ出し、全身に行き渡っていくようだ。
「俺のものを咥え込んでいる部分は、最高のオンナだな。グイグイ締めてくるくせに、中の襞は、甘やかすように絡み付いてくる」
 賢吾にそう指摘されて、和彦は内奥でふてぶてしく息づく欲望を意識して締め付ける。内から圧倒してくる逞しいものを、自分が甘やかしているという認識はないが、感じさせたいとは思う。求められると、和彦は弱い。
 ゆっくりと腰を前後に揺らしながら、賢吾の耳元であることを囁く。バスタブに深くもたれかかっていた賢吾はわずかに身を起こし、和彦はすぐに両腕を広い背に回した。向き合った姿勢では確認することはできないが、おそらく湯の中で揺らめいているであろう大蛇の刺青を、両てのひらで撫でる。
 気のせいかもしれないが、内奥に収まっている賢吾のものがドクンと脈打ったように感じ、和彦は吐息を洩らす。
 大蛇の刺青に触れることで、和彦の中の淫らな衝動が加速する。円を描くように腰を動かし、襞と粘膜を強く擦り上げられる感触を味わいたくて、内奥からゆっくりと賢吾のものを引き抜き、すぐにまた腰を下ろす。
「あっ、うぅっ――……」
 背筋を駆け上がる快感に、和彦は身を震わせて酔う。そんな和彦を、賢吾は目を細めて見つめていた。まるで、快感を求める奔放さを愛でるように。
 さきほどから触れられないまま硬く凝っていた胸の突起を、やっと賢吾が口腔に含んでくれる。痛いほど吸い上げられ、歯を立てられて、和彦はビクビクと体を震わせる。思わず背に爪を立てると、顔を上げた賢吾が、ニヤリと笑いかけてきた。
「気持ちいいか?」
「……知っていて聞くのは、意地が悪い」
「少しぐらい意地悪な男のほうが、先生は好きだろ」
「勝手なことを言うな」
「勝手か?」
 賢吾の手が双丘を鷲掴み、内奥を力強く突き上げてくる。
「あうっ、うっ、うくっ……ん」
 律動の激しさに翻弄されていた和彦だが、そのうち自ら腰を大きく動かし始める。両手では、賢吾の背の刺青をまさぐりながら。そんな和彦の背を抱き寄せて、賢吾が物騒なことを囁いてきた。
「先生、小さなものでいいから、刺青を入れてみないか?」
「嫌、だ……。刺青は、嫌だ」
 拒絶の言葉を洩らした和彦の唇を、賢吾が優しく吸ってくる。内奥を愛されながらの口づけに、危うく和彦は酔ってしまいそうになるが、思わせぶりに背を撫でられて我に返る。間近で見る賢吾の目には、情欲の火だけではなく、身をしならせる大蛇の姿も潜んでいる。冗談めかしているようで、本気で言っているのかもしれない。
 感じた怯えを胸の奥に隠して、和彦は淫らに腰を使い、賢吾の猛る欲望に奉仕する。
「――千尋がタトゥーを消したら、うちの組の人間が世話になっている彫り師のところに行かせる。とにかく腕がいい。俺の大蛇は、その彫り師のオヤジに彫ってもらったんだ。腕は、オヤジ譲りだ」
 話しながら賢吾は、和彦の腕の内側や、脇の下に触れてくる。
「隠し彫りを知っているか? 普段の生活をしていたらまったく人目に触れない部分に、刺青を彫ることを言うんだ。目にできるのは、特別な関係を持つ相手だけだ。先生なら……何人の男が見ることになるだろうな」
 和彦はやっと確信する。刺青のことを語るとき、賢吾の欲望がひときわ力強く脈打ち、大きくなることを。
「……見えようが、見えまいが、ぼくは刺青は入れない」
「頑固だな、先生」
「当然のことを主張しているだけだ」
 賢吾はニヤリと笑い、和彦の髪を撫でてくる。頭を引き寄せられて肩に額を押し当てると、賢吾の手は背に滑り落ちた。この瞬間、和彦はヒヤリとするものを感じた。
「先生が本気で嫌がることはしないつもりだが、それも場合による。――先生が浮気したら、背中に刺青を入れるというのはどうだ?」
 和彦は顔を強張らせる。唐突に何を言い出すのかと思ったが、少なからず和彦には身に覚えがあった。賢吾に隠して、里見と密会したことだ。ただ会話を交わしただけだというのは、言い訳にならないだろう。なんといっても和彦は、里見の存在をいまだに賢吾に報告していない。
 もしかして鷹津が何か洩らしたのだろうかとも思ったが、どうやらそうでもないらしい。
「いっそのこと浮気をしてくれたら、堂々とこの背中に刺青を彫れるのにな……」
「ぼくに、浮気を推奨しているのか?」
「なんだ、先生。男には不自由させていないつもりだが、まだ男が欲しいのか」
 あまりな言われように、和彦は顔を上げて賢吾を睨みつける。すかさず唇を吸われ、そのまま舌を絡め合った。
「俺が認めた男と寝るのはかまわねーが、まず俺をたっぷり満足させろ。それが、オンナの役割だ。その代わり、俺がオンナを満足させてやる。そうだろ?」
 賢吾の熱い吐息が唇にかかる。執着という熱に内から溶かされそうになりながら、和彦も熱い吐息を洩らして応えた。
「――……ああ」




 クリニックを閉めた和彦は、慌しく迎えの車に乗り込む。今日もジムに行こうかと思っていたが、帰る間際になって突然組から連絡が入り、ある場所に向かってほしいと言われたのだ。
 緊急の患者かとも考えたが、そうではないようだ。移動する車の中で、組員から事情を説明してもらったが、今日は患者の治療をするわけではなく、他の医者が治療するところを見てほしいと言うものだった。
 車が停まったのは、見覚えのあるビルの前だった。夕方のビジネス街ということで、多くの人たちの往来がある中、何食わぬ顔をしてビルに入る。
 前に訪れたことがある廃業した歯科クリニックに足を踏み入れると、堅気には見えない男二人が、所在なさげに待合室のソファに腰掛けていた。和彦についてきた護衛の組員が一声かけ、和彦は奥の処置室へと案内される。
 ちょうど、処置中だった。ただし、怪我の治療をしているわけではないと、一目見てわかった。
「もしかして……」
 和彦がぽつりと洩らすと、隣に立った組員が頷く。
「指紋の偽造手術です。実は前々から、先生にこの手術を手がけてほしいという話はきていました。組長は、焦る必要はないというお考えだったのですが、最近になって総和会から組長へ直接、強い申し入れがあったそうです」
「なるほど。それで今日は、ぼくのための勉強会ということか」
 そんなつもりはなかったが、和彦の口調は苦々しいものとなる。いままで何人もの組員を診てきて、治療もしている。その中には、警察への報告義務が生じるような類の怪我や症状もあったが、当然和彦は、報告などしていない。恵まれた生活を送る見返りとして、相応の危険を冒しているのだ。
 今、目の前で繰り広げられている光景も、その危険の一つだ。和彦の知らないところで賢吾は遠ざけようとしていたようだが、今の生活を送っている限り、いつかは負わなくてはならない〈義務〉だ。
 コートを脱いだ和彦は手を消毒してから、手袋をする。用意されている手術用のルーペを装着すると、手術の様子を間近から観察する。
 指紋の形を変えるため、両手の指から皮膚を一部切除し、別の指の皮膚と入れ替えるのだ。手術そのものはさほど難しくはないが、指の腹に無残な傷跡を残したくないなら、やはり美容外科医が持つ技術が一番必要かもしれない。日ごろ、患者の顔や体に傷跡を残さないよう細心の注意を払っており、そうやって身につけた技術は、指紋の偽造でも発揮される。
 総和会が、和彦にこの手術も手がけるよう求めたというのは、そういう理由からだろう。
 それとも、和彦をよりこの世界の深みに引きずり込み、共犯者としての立場を強くするためなのか――。
 ふっとそんなことを考えた和彦は、美容外科医としての義務感から、自分も縫合を手伝うと申し出る。どうせ、近いうちに指紋偽造の手術を手がけることになるなら、今のうちに手を血で染めてしまったほうがいいと思ったのだ。
 和彦には、のちのち臆する自分の姿が見える。そのとき悩み苦しむぐらいなら、今、〈義務〉を果たして、自分の立場を賢吾や総和会に示しておくべきだろう。
 この世界で守られている限り、課された仕事は果たす、という立場を。


 和彦は、ファミリーレストランで一人食事をしていた。護衛の組員は気を利かせて、離れたテーブルについている。
 無意識のうちに箸で豆腐ハンバーグを崩していることに気づき、慌てて口に運ぶ。さきほど、指紋偽造手術を手伝ったせいか、いつもは直視を避けている罪悪感と、久しぶりの対面を果たしていた。
 この程度の罪悪感の疼きは、想定の範囲内だ。仕事をこなしていくうちに、何も感じなくなる。そう頭では理解しているが、やはりいつも通り食事を平らげるのは、少々無理なようだ。
 もう一つ和彦が気になっているのは、和彦が受けるべき仕事を、賢吾が選別していたということだ。総和会から強い申し入れがなければ、賢吾は和彦に、指紋偽造という仕事をさせたくなかったのかもしれない。
「――……いや、あの男がそんなに、生ぬるいわけがないか……」
 和彦なりに、賢吾の計算高さと狡猾さ、そして容赦のなさを美点として評価している。だからこそ、何か深い考えがあったのではないかと考え――期待してしまう。
 ため息をついた和彦は、今夜はこのまま飲みに行きたい心境だった。誰かつき合ってくれないだろうかと思いながら、傍らに置いたコートのポケットをまさぐり、携帯電話を取り出す。
 ここで初めて、秦からの着信があったことに気づいた。どうやら、和彦が指の皮膚を縫合している頃、かかってきたようだ。マナーモードにしておいたうえに、作業に集中していたため、まったく気づかなかった。
 一体なんの用だろうかと思いつつも、止まりがちだった箸の動きは速くなる。
 食事を終えて外に出ると、すぐに秦の携帯電話に折り返し電話をかけてみた。
『もしかして、仕事中でしたか?』
 いつもと変わらない柔らかな声の秦が出る。前を留めていないコートを掻き合わせて、和彦は駐車場に向かう。
「いや、仕事は終わった。ついさっき携帯を見たら着信が残っていたから、電話をしてみたんだ。何か用か?」
『用というほどじゃありません。ただ、わたしの部屋に中嶋もいるのですが、先生を呼んで一緒に飲みたいなと思いまして』
「……君の部屋で?」
『わたしの部屋だと都合が悪いなら、外で飲んでもかまいませんよ』
 気安くそう言った秦だが、絶妙なタイミングで、和彦の好奇心を刺激するような言葉を付け加えた。
『でも先生には、せっかくなので新しいベッドを見てもらいたいですね』
 ピクリと肩を揺らした和彦は、誰かが聞いているはずもないのに、思わず周囲を見回してしまう。
「中嶋くんが自慢していたぞ。バレンタインデーに、チョコレート代わりに買ったと言って」
『自慢はしていませんよ、先生』
 突然聞こえてきたのは、中嶋の声だ。どうやら秦の傍らで、しっかり二人の会話を聞いていたらしい。和彦は顔を綻ばせる。
「それは悪かった」
『どうしますか? わたしと中嶋は、すごく先生に会いたいですけど』
 意味ありげに囁かれて、和彦の頬はわずかに熱くなる。
 あることを強く意識して、予感もしていながら――いや、予感しているからこそ、和彦は断れなかった。
「――今から行く」
 そう答えると、電話の向こうから秦の柔らかな笑い声が聞こえてきた。
 和彦は車に乗り込むと、組員に行き先を告げる。そして、握ったままだった携帯電話で賢吾に連絡を取った。
『手術に立ち合って、どうだった?』
 前置きなしに賢吾に問われ、和彦は軽く唇を舐める。
「人間の指の皮膚で、パズルをすることになるとは思わなかった」
 和彦の表現に、電話の向こうで賢吾が低く笑い声を洩らす。
『メールじゃなく、電話がかかってきたから、てっきり先生は怒っているのかと思った』
「……どうしてぼくが、あんたに怒るんだ」
『犯罪の片棒を担がせたと言って。指紋の偽造ってのは、どうやったって言い訳ができない。普通じゃ、まず需要のない手術だ。顔の整形手術とはわけが違う。先生は、この世界の深みに、またさらにハマり込んだんだ』
「だから、総和会からの求めになかなか応じなかったのか」
 ハンドルを握る組員が、一瞬バックミラー越しに視線を向けてくる。
『うちの連中は、先生に甘いな。そんなことまで話したのか』
「ぼくが、あんたを責めるかもしれないと心配してくれたんだ。頼むから、組員は責めないでくれ」
『先生も、うちの連中に甘い』
 シートに深く体を預けて、和彦は外に目をやる。こちらから促すまでもなく、賢吾は教えてくれた。
『俺は、先生の柔軟性やしたたかさを評価しているし、愛している。だからこそ、仕事の面で甘やかす気はない。なんといっても、長嶺組組長のビジネスパートナーだ。――先生の医者としての腕は、できることなら長嶺組で囲い込みたかった。だからこそ先生を、総和会に一時預けるという形で、いままでの仕事を受けていたんだ』
「今回は違った?」
『リスクの大きな仕事は、総和会が責任を持って管理すると言っている。総和会全体で、先生の安全を守ってやる。だからこそ、危険な仕事も引き受けろ、ということだ。今晩の手術は、完全に総和会主導だ。手順はいままでと変わらなかっただろうが、裏ではいろいろとあった』
 自分の知らないところで、総和会と賢吾の間でそんなやり取りがあったのかと、和彦は静かに息を呑む。
『オヤジ……総和会会長が、えらく先生を気に入ったようだ。あんなジジイまで骨抜きにするなんざ、本当に性質が悪いオンナだ』
 賢吾の口調には、皮肉げな響きと苦々しさが同居していた。なんとなく心配になった和彦は、ついこんな問いかけをしていた。
「……もしかして、ぼくのことで、会長と揉めたのか……?」
 口にして、なんとも自惚れた発言だと思い、和彦は一人恥じ入る。一方の賢吾は、楽しそうに笑っていた。
『安心しろ。先生が原因で、総和会との仲がこじれることはない。俺もオヤジも、長嶺組が大事、先生が可愛い、という点で一致しているからな』
「何言ってるんだ」
 賢吾が事実を語っているのか、和彦には確かめようがない。一つはっきりしているとすれば、これからも和彦は、回ってくる仕事を淡々とこなすということだけだ。総和会が主導権を握ろうが、物騒な男たちに守ってもらう和彦の立場は変わらない。
『先生、メシは食ったのか』
「食べた。これから――夜遊びに行くところだ」
『誰に相手をしてもらうんだ?』
 和彦はぎこちなく息を吸い込み、意識して平坦な声で答えた。
「――……秦と、中嶋くんに……」
『楽しんでこい』
 そう言った賢吾の声にゾクリとするような疼きを感じ、和彦は小さく身震いした。









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