と束縛と


- 第22話(1) -


 かぶっていた帽子を取った和彦は、髪を掻き上げる。気候のよさのせいだけではなく、春が近づいてきている証拠か、思いがけず気温が高い。歩いているうちにすっかり汗ばんでしまった。
 石畳の通りを歩く人たちに目を向ければ、地元住民と観光客の違いが服装に出ているようだ。観光客は持て余し気味にコートやジャケットを腕にかけているが、地元の人たちはすでに春らしい軽装だ。
 春が近づいているどころか、ここはもう春が訪れているのだ。
 和彦は改めて、ここが旅先なのだと実感する。柔らかな風も、空気の匂いも、見渡せる風景も、何もかもが今暮らしている地域とは違う。
 これが一人旅なら、どれだけ肩の力を抜いて楽しめただろうか――。
 和彦は深刻なため息をつくと、帽子をかぶり直して歩き出す。有名な寺が近くにあるという場所柄か、通りに並ぶ土産物屋も落ち着いた雰囲気を醸し出しており、店先に出ている商品も、渋いものが多い。
 特に何か買うつもりはなかった和彦だが、藍染め商品を扱う店が目につき、ついふらふらと中に入る。サングラスを外してざっと店内を見て回る。
 ブックカバーが気に入り、数種類の柄を選んでから、次に扇子に目移りする。いままで扇子など使ったことはないのだが、賢吾がせっかく春に合わせて着物を一揃いあつらえてくれたこともあり、何か一つぐらい、着物に合いそうな小物を自分で揃えてみようかと思ったのだ。
 和彦が扇子の一本を手に取ろうとしたとき、隣にスッと誰かが立つ気配がした。
「――それは、自分で使うのかね?」
 いきなり話しかけられ、飛び上がりそうなほど驚く。隣を見ると、守光が身を乗り出すようにして扇子を眺めていた。さきほどまで、和彦よりずいぶん先を歩いていたはずだが、わざわざ引き返してきたようだ。
 店の入り口のほうに目をやると、スーツ姿の男たちがこちらをうかがいつつ、外で待っていた。
「あっ、すみません。勝手に動き回って……」
「かまわんよ。なんといってもわしは、あんたを〈観光旅行〉に連れてきたんだ。こういうところで買い物をしないと、旅行の醍醐味がないだろう」
 守光から悪戯っぽく笑みを向けられ、和彦はぎこちなく応じる。
 守光だけでなく、その守光に同行している総和会の男たちも、儀礼的ではあるにせよ和彦には丁寧に接し、何かと気遣ってくれる。まさに、大名旅行だ。
「とは言え、観光できる時間はあまり取れない。会合の間、あんただけでも自由に出歩かせてやりたいが、賢吾と千尋から預かっている以上、何かあったら申し訳ない」
「……ぼくみたいな人間が一人でふらふらしていたところで、何かあるとも思えませんが……」
「その理屈は、賢吾相手でも通じんだろう。だから、クリニックの送り迎えを組員にさせている」
 和彦が苦い顔となると、守光は低く笑い声を洩らした。差し出された扇子を受け取って広げる。いくら買い物好きの和彦でも、この状況で守光を差し置いて店内をうろうろもできず、並んで扇子を選ぶことになる。
「まさか、あんたが今回の旅行についてきてくれるとは思わなかったよ」
 守光の言葉に、和彦の罪悪感が疼く。自分でも、誰に対して抱いているのか判断できない感情だ。
 守光から、旅行の出発日を知らせる連絡を受けたとき、和彦の気持ちは大きく揺れている最中だった。里見の職場近くで偶然、なぜか英俊と一緒に歩いているところを見かけたせいだ。かつての上司と部下である二人が、里見が転職後も親交があっても不思議ではない。里見自身、佐伯家といまだ繋がっていることを認めていた。
 頭では、そんな事情を理解しているのだ。だが、二人が一緒にいる場面を見た和彦を支配したのは、嫉妬だ。事情も理屈も関係ない、率直な感情だ。
 動揺していた和彦は、守光からの旅行の誘いに応じた。上手く断る理由が思いつかなかったというのは、単なる言い訳にしかならない。賢吾に相談して改めて返事を、と言うことはできたはずなのに、和彦はあえて一人で決めた。
 旅行に同行する件は守光から賢吾に告げられたようだが、和彦はその賢吾から何も言われなかった。正確には、和彦が本宅に顔を出さなかった。顔を合わせるのを避けたのだ。
「――何か、悩み事でもあるのかね?」
 かけられた言葉に、和彦はハッとして隣を見る。返事をしなくとも、肯定したようなものだ。守光は相変わらず団扇を選んでいる。
「連れてきておいて、いまさらこんなことを言うのもあれだが、今回の誘いを遠慮なく断ってもらってもよかったんだ。無理強いは、わしの本意じゃない」
 そう思っていながら、総和会会長自ら、和彦に旅行の日程を知らせてきたのだとしたら、やはり心理的圧力を狙っていたのだろうか――。
 和彦はつい穿った見方をしてしまい、一瞬あとには、そんな自分を恥じた。仮にそうだとしても、圧力云々は関係なく、和彦は自分の意思で選択した。
「……こんな言い方をしたら失礼かもしれませんが、気分転換をしてみたかったんです。普段生活している場所から、離れてみたかったというか……」
「あんたの場合は、複雑な人間関係から距離を置いてみたかった、というところか」
 表情の浮かべようがなかった。複雑な人間関係の中には、守光の息子と孫も含まれているのだ。二人から逃げたがっていると受け止められるのが怖かった。
 守光はちらりと唇に笑みを刻むと、自分が選んだ団扇と、和彦が手にしていたブックカバーと扇子を取り上げる。
「あのっ――……」
「わしと一緒にいる間、あんたは自分の財布を出さなくていい。わしの顔を立てるためだと思って、任せてくれ」
 ここまで言われて断れるはずもなく、和彦は頷く。しかし、他に何か欲しいものはないかと言われて本気で困った。
「遠慮はいらない。あんたはもう、〈わし〉の身内だ」
 和彦の背を駆け抜けたのは冷たい感触だったが、同時に、無視できない疼きもあった。
 こうして守光に同行して、何事もなく気楽に旅行が楽しめるとは毛頭思っていない。和彦はあることを予期したうえで、それでもこうしてついてきたのだ。
 強い力には逆らわず、巧く身を委ねる。守光は、和彦にその姿勢を貫くことを求めており、おそらく試してもいる。
 支払いを済ませた守光に袋を差し出され、礼を言って受け取る。和彦はサングラスをかけて店を出ると、今度こそ守光と並んで歩く。
 総和会の男たちに四方をがっちりとガードされて歩くと、悪目立ちするうえに、あからさまに奇異の視線を向けられるか、目を逸らされるのだ。居心地が悪くて仕方ないが、守光に〈身内〉と言われてしまっては、否が応でも慣れなくてはならないのだろう。
 辺りを睥睨するわけでもなく、ただ慎重に注意を払っている男たちの中にいる自分は、果たしてどんなふうに見られているのだろうか――。
 ふとそんなことを考えた和彦は、自嘲気味に唇を歪める。物騒な男たちに囲まれている限り、自分も同じく物騒な存在なのだ。
「――ここはもう、桜が花をつけ始めているな」
 隣を歩く守光が柔らかな声で洩らし、つられて和彦も視線を上げる。確かに、通りに沿って植えられた桜は、わずかだが花をつけていた。伸びた枝には、今にも開きそうな蕾が目立ち、もう何日かすればこの通りは桜色に彩られそうだ。
「春が来ているんですね……」
 そう応じた和彦は、桜の花を見るのはずいぶん久しぶりな気がしていた。
 考えてみれば昨年の春は、賢吾によって裏の世界に引きずり込まれ、生活環境が大きく変わっていた頃だ。いままで接したことのない種類の男たちに怯え、警戒し、息が詰まるような生活を送っていた。精神状態の浮沈も激しくて、風景がどう変化しているかなど気にかける余裕もなかった。
「総和会では毎年、花見会を催している。十一の組の組長や幹部たちだけでなく、日ごろつき合いのある、総和会以外の組の者たちを呼んでな」
 思いがけない話に和彦は守光を見る。
「花見、ですか?」
「組同士の交流を目的としている。警察からは〈総会〉と呼ばれているが、表向きは、あくまで花見会だ。ヤクザが集まって、のんびりと桜を眺める」
 守光の語り口調が楽しげであればあるほど、言葉通り受け止めることはできなかった。
「……いまだにこの世界は、ぼくにとって目新しいことばかりです。しきたりや、行事とか。ぼく自身、そういうことに一切かまわない生活を送っていたので、戸惑うこともあります。変な言い方ですが、こちらの世界はきちんとしているというか……」
「歯止めを失いやすい世界だからこそ、そういうものが必要なんだよ。組織を締め上げる術だ。末端に至るまで丹念に目をかけてやることができないからこそ、上に立つものが権威を示していかなきゃならない。我々が面子を何より大事にするのは、それで飯を食っているからだ。汚い面子には、汚い人間しか寄りつかない。そういう人間は、総和会には不要だ。もちろん、総和会を支える十一の組にも」
 面子を保つためであれば、非合法な行為も厭わない。矛盾しているようだが、裏の世界で栄える組織にとっては、筋が通っている理屈なのだろう。その裏の世界で、怖い男たちに大事にされている和彦自身、非合法な行為に手を貸して、見返りを受け取っているのだ。
「今日の会合は、その花見会の打ち合わせのためだ。いろいろと準備しておきたいものもあるしな。せっかくここまで足を伸ばしたんだから、いつもとは違う人間と一緒に歩きたかった。まあ、あんたにしてみれば、強面のでかい男たちに囲まれて、多少息苦しいだろうが」
 ここで頷くわけにもいかず、和彦は曖昧な表情を浮かべる。逃げ場を探すように視線をさまよわせ、再び桜の木を見上げていた。
「この世界のことをほとんど知らないぼくが、あなたの隣を歩いていていいのか、という気もします……」
「知らないから、いいんだ。わしは話し好きだ。いままでは千尋がいたんだが、あれもすっかりこの世界のことを知った気になって、今ではわしの長い話を聞きたがらん」
「千尋らしいです」
「これからは、実地でいろいろと覚えさせる時期だ。わしが元気なうちにな」
 ここで守光が前方を指さす。茶屋が出ており、すでに総和会の人間が席を取っていた。
「少し座って休憩しよう」
 守光の言葉に、和彦は素直に頷いた。


 板の間の窓を開け放った和彦は、手すりを掴んで思いきり身を乗り出す。山間にある旅館だけあって周囲を木々に覆われ、自然のカーテンとなっている。
 フロントで部屋の鍵を受け取って、きれいに手入れされた庭の小道を歩き、そこから階段を上がり、離れに続く渡り廊下を通るという、少し手間のかかる移動を経て、この部屋に辿り着いた。手入れの行き届いた和洋室で、洋間に置かれたベッドはダブルだ。周囲の環境もあって、落ち着いてゆっくりと過ごせそうだ。
 ちなみに、庭を挟んだ向かいに、守光が宿泊する部屋がある。
 露天風呂がついているという贅沢な離れの部屋を、すべて総和会で押さえてしまったのは、やはり安全のためだろう。旅館を貸切にしたようなものだ。呼ばない限り旅館のスタッフも離れには近寄らないそうで、渡り廊下を歩く人間は、ほぼ総和会の人間ということになる。
 守光はささやかな観光のあと会合に出かけ、先に旅館に戻ったのは、和彦と、護衛としてつけられた男一人だけだ。旅館を出ないでくださいと言われたが、言い換えるなら、旅館内は自由に歩き回れるということだ。
 どこかに花が咲いているのか、木々の間を抜けてきた風が柔らかないい匂いを含んでいる。軽く鼻を鳴らした和彦は、部屋でおとなしくしているつもりだったが、急に気が変わった。庭を散策してこようと思い、窓を閉める。
 部屋からの景色を目にして、旅館の外を歩いてみたい気にならないといえばウソになるが、何かあったときに総和会に迷惑をかけるわけにもいかない。
 和彦は、ときおり辺りに響く鳥の声を聞きつつ、人の姿がない庭をのんびりと歩き回る。
 足元に咲いている花を屈み込んで眺めていて、ふと視線を感じて顔を上げる。いつからそこにいたのか、庭に植えられた木の陰に人が立っていた。反射的に和彦が立ち上がると、己の存在を知らしめるように、ヌッと南郷が姿を現す。
 思いがけない人物の登場に、和彦の頭は軽く混乱する。守光と一緒に観光をしている間、確かに南郷はいなかったのだ。だから安心もしていた。
「どうしてっ……」
 和彦が声を洩らすと、南郷は無遠慮に距離を縮めてくる。本能的な怯えから後退ろうとしたが、さらに南郷が近づいてきたので、妙な意地から踏み止まる。
「――俺は用事があったんで、あとから合流することになってたんだ」
「そう、なんですか」
 落ち着いた雰囲気の庭にあって、南郷の存在は異様なほど浮いていた。ダークスーツを端然と着込んではいるものの、凶暴な空気が滲み出ており、崩れた格好をするよりよほど南郷を怖い存在に見せている。今日一緒に行動をともにした総和会の男たちも、きちんとした格好はしていたが、南郷のような印象は受けなかった。
 何が違うのかと思えば、簡単だ。南郷はあざといほどに己の存在――いや、力を誇示している。それが和彦には、堪らなく受け入れがたいのだ。
「これから、旅館の周囲に怪しい人間がうろついていないか、見回ってくる。あんたも一緒に来るか?」
 南郷の提案に、和彦は不信感を露わにする。
「どうして、ぼくが?」
「暇そうだったから、見回りのついでに散歩に連れ出してやろうと思って」
「……お気遣いはありがたいですが、会長から旅館から出ないよう言われています」
「俺と一緒なら、オヤジさんも許可してくれるだろうが、まあ、俺みたいな見てくれの悪い男と並んで歩きたくないか」
「そんなことは思ってませんっ。……が、そう思いたいなら、ご自由にどうぞ」
 和彦がきつい眼差しを向けると、余裕たっぷりに南郷は肩をすくめる。明らかに、和彦の反応を楽しんでいる。
「――気が強いな、先生」
 そう言う南郷の表情に、一瞬の嘲りが浮かんだのを見逃さなかった。南郷は、虚勢であるにせよ和彦の強気の理由を知っている。長嶺の男たちによる庇護だ。しかもそれを、医者としての腕ではなく、体によって得ているのだ。
 和彦は何も言わず背を向け、部屋に戻ろうとする。その背に向けて南郷が声をかけてきた。
「あとで、部屋にコーヒーでも運ばせる。俺はあまり気が利く男じゃないが、オヤジさんが戻ってくるまで、しっかり面倒を見させてもらおう」
 仕方なく振り返った和彦は、最低限の礼儀として小さく頭を下げた。


 緊張して夕食が喉を通らないのではないかと危惧していた和彦だが、食前酒のワインを飲んでから、生湯葉に箸をつけると、驚くほど食欲が湧いた。
 鴨肉のソテーを口に運ぶ頃には気分も和らぎ、つい顔を綻ばせる。すると、正面に座っている守光が口元に笑みを湛えた。
「どうやら、口に合ったようだ」
 守光の言葉に、そんなに素直に顔に出ていたのだろうかと思いながら和彦は頷く。
「美味しいです、すごく……」
 この旅館は、食事は各自の部屋に運ばれるのではなく、別棟にある食事処に客が出向き、個室でとる形をとっている。総和会の人間たちも同席するのかと思ったが、現在、個室には和彦と守光の二人だけだ。個室の外に数人の人間が控えており、相変わらず守光の護衛についている。
「――南郷から、何か礼を欠いたことでも言われたかね」
 豆腐を掬った守光にさりげなく問われ、一瞬動きを止めてしまう。肯定したようなものだった。思わず和彦が苦い顔をすると、守光は声を洩らして笑った。
「許してやってくれ。あれは、礼儀作法はしっかりとしているんだが、気になる相手にはどうしても突っかかるような言動を取る。そうやって、相手を見定める――いや、もっと露骨だな。値踏みする」
「値踏み、ですか?」
「あんたのことが、気になって仕方ないんだ。なんといっても、長嶺の男〈たち〉を骨抜きにしている人だ」
 守光から静かな眼差しを向けられ、瞬間的に和彦の体は熱くなる。この場から逃げ出したくなったが、そんな無礼なことができるはずもなく、一人うろたえるしかない。
 ちょうどいいタイミングというべきか、次の料理として地魚の造りが運ばれてきて、座卓の上に並べられる。近くに海があるということで、運ばれてくる料理は魚介類も豊富だ。
「そういえば、南郷の隊にいる若い者と、親しくしていると聞いたんだが……。確か、中嶋と言ったか」
 ピクリと肩を揺らした和彦は、ぎこちなく視線を伏せる。
「ええ……。ぼくが総和会から回ってくる仕事をこなすようになったとき、彼が運転手を。そのときから、よくしてもらっています。中嶋くんが一緒だと、賢吾さんも夜出かけるのを許可してくれますし」
「いい遊び相手、といったところか」
 先日の、中嶋と秦との行為が蘇り、下がりかけた体の熱がまた上がる。守光は、中嶋との特殊な関係も把握しているのだろうかと考えはしたが、もちろん問いかけることなどできない。
「うちの者と、どんどんつき合ってやってくれ。なんといってもあんたは、長嶺組だけではなく、総和会とも縁を持つ人間だ。――この世界に足を踏み入れて一年経つのを機に、総和会が取り仕切る行事にも顔を出してみないかね?」
 食事をしながらの守光の提案は自然で、押し付けがましさも強引さもなかった。ただしそれは、和彦があくまで、長嶺守光として向き合っているからだろう。総和会の人間として、総和会会長からこんな提案をされたら、断ることなどありえない。提案は、命令として言い換えられるのだ。
「あの、それは――……」
 どういう意味かと問おうとしたとき、ジャケットのポケットの中で携帯電話が震えた。慌てて携帯電話を取り出して相手を確認したあと、反射的に守光を見る。ニヤリと笑って返された。
「その顔だと、相手は千尋だろ。かまわんよ。電話に出なさい」
 頭を下げた和彦は体ごと横を向くと、声を潜めて電話に出る。
『先生、今何してる?』
 他愛ない千尋の質問に、和彦は小さく苦笑を洩らす。
「会長と夕食をとっているところだ」
『いーよなー。豪華なんだろ? 俺なんて、今日は本宅に戻れそうにないから、これからラーメンでも食おうかって話してるところだよ』
「忙しそうだな」
 そう応じた和彦は、ふと疑問を感じた。千尋のことなので、仕事絡みとはいえ一泊旅行に行くとなれば、自分も行くと言い出すのは目に見えている。かつて守光は、千尋をゴルフ旅行に同行させていたので、今回もそうしても不思議ではなかったが、状況は今電話で聞かされた通りだ。
 おかげで和彦は、千尋ですら邪魔できない場所で、こうして守光と向き合っている。
 あえて、千尋と引き離されたのだろうか――。和彦はふっとそんなことを考えてしまう。
『先生?』
「あっ……、聞いている」
『いい機会だから、じいちゃんにたっぷり甘えて、いろいろ買ってもらうといいよ。なんといっても総和会会長は、太っ腹だから』
「……返事がしにくいことを言うな」
 守光に代わろうかと聞いてみたが、あっさりと千尋に断られた。
 和彦が携帯電話をポケットに仕舞うと、守光が楽しそうに話しかけてきた。
「薄情な孫だな。わしの声は聞きたくないと言ったんだろ?」
「そこまでは……。お腹が空いているらしくて、これからラーメン屋に行くそうです」
「だったら千尋の分まで、しっかり料理を味わっておこう」
 守光の言葉に、座椅子に座り直した和彦はぎこちなく微笑んで頷いた。


 夕食後すぐに、部屋の露天風呂にゆっくりと浸かった和彦は、板の間の籐椅子に腰掛けて、体の火照りを鎮めていた。
 外はすでに闇に覆われており、窓から見えるのは、微かな月明かりが生み出す木々の影ぐらいだ。街中で生活していると、これほど人工的な明かりのない夜というのも珍しい。
 和彦は改めて、ここは旅先なのだと実感していた。総和会の人間と行動をともにしながら、ずっと肩に力が入っていたが、そのおかげというのも変な表現だが、抱えた問題について考える余裕はなかった。
 一人になって落ち着いた今になって、里見と英俊が一緒にいた光景が脳裏に蘇る。見かけたときの衝撃は少しずつ薄まりつつあるが、嫉妬してしまったという事実は、胸の奥で重みを増しているようだ。
 首筋を伝い落ちる汗をタオルで拭い、ペットボトルの水を飲む。
 いくら昼間は春らしい気候だったとはいえ、夜の山間はさすがに少し冷える。湯冷めする前に、ベッドの上に置いた茶羽織を取ってこようと和彦が立ち上がりかけたとき、前触れもなく部屋の電気が消えて暗くなった。
「えっ……」
 反射的に洋間のほうを振り返った和彦が見たのは、こちらに近づいてくる人影だった。次の瞬間、再び窓のほうを向く。いくら部屋が暗くなろうが、月明かりのせいでおぼろながら相手を認識することはできる。だから、はっきりと相手を見ることを避けたのだ。
 相手が背後にやってくるまでのわずかな間に、和彦の心臓の鼓動は壊れそうなほど速くなっていた。部屋への侵入者が怖いわけではない。これから自分の身に何が起こるか、一瞬にして理解したからだ。
 和彦は体を硬くして、じっとしていた。相手も心得ているように、声をかけてくることなく行動を起こす。
 ひんやりとして滑らかな感触の布が和彦の両目を覆い、あっという間に頭の後ろで結ばれる。そして、手を取られた。促されるまま立ち上がった和彦は、手を引かれておそるおそる歩く。
 取られた手を振り払い、目隠しを外すという選択肢はなかった。旅行に誘われたときから、覚悟はしていたことだ。
 決して期待していたわけではない――。
 誰に対してのものかわからない言い訳を、ベッドに着くまでの間、和彦は繰り返す。いざベッドに押し倒されたときには、もう何も考えられなくなっていた。ただ、与えられる感触がすべてになる。
 覚えのある手順で帯を解かれ、浴衣の前を開かれると、下着を脱がされた。サイドテーブルのライトがつけられて、まだ汗ばんでいる肌を撫で回される。
 まるで儀式のように体を検分されると、次は両足の間にあるものを握り締められるはずだ。はしたないと思いながらも、頭の中で行為の手順をなぞっていた和彦だが、相手の行動はあっさりと予想を裏切った。
 覆い被さってきた相手の重みに続いて、首筋に熱い息遣いを感じる。
「うっ」
 動揺した弾みから、和彦は小さく声を洩らした。首筋に、柔らかく濡れた感触が触れたからだ。まったく知らない感触ではないが、まさか今、自分にのしかかっている相手から与えられるとは思わなかった。
 和彦の戸惑いをよそに、相手の唇がゆっくりと首筋に這わされる。これまでの行為で、相手の唇が肌に触れたことはなく、いつも指先やてのひらで撫でてくるだけだった。しっかりと肉で繋がりながら、〈情を交わす〉という感覚とは無縁だったのは、姿が見えず、声も聞けず、相手の唇の感触を知らなかったからだ。
 どうして今日は、と相手に問いかけたかったが、和彦はすぐに冷静ではいられなくなる。
 浴衣を脱がされながら肌を唇でまさぐられ、舌も這わされているうちに、嫌でも和彦の官能は高まり、息が乱れる。これまでのように体をてのひらで撫でられ、追いかけるように唇と舌が這わされて、愛撫の心地よさに体の強張りが解けていた。
「んうっ……」
 すっかり硬く凝った胸の突起を、いきなりきつく吸い上げられる。そうかと思えば、濡れた舌先にくすぐるように舐められ、転がされ、軽く歯を立てられた。和彦は喉を反らして震える吐息を洩らし、促されるまま両足を開いて、身を起こしかけた欲望を握り締められた。
「あっ、あっ」
 軽く扱かれて、爪の先で感じやすい先端を弄られる。ビクビクと腰を震わせて和彦が身悶えると、下腹部から胸元にかけてじっくりと舌を這わされる。
 これまで以上に和彦が乱れるのが早いと感じたのか、相手もペースを合わせてくる。濡れた指に内奥の入り口をまさぐられた。
 今夜は潤滑剤ではなく、唾液を使って濡らしているようだった。少しずつ内奥をこじ開けられながら、指を出し入れされる。和彦は息を喘がせてシーツを握り締める。他の男たちの愛撫にはない慎重さがもどかしく、そう感じる自分の浅ましさが、感度を高めているようだった。
 ようやく指がしっかりと内奥に挿入されたとき、意識しないままきつく締め付ける。相手は巧みに指を蠢かす一方で、反り返った和彦のものをもう片方の手で握り、扱く。前後から押し寄せてくる快感に、和彦は甲高い声を上げて腰を浮かせていた。
「うあっ、あっ、んんっ――」
 再び欲望の先端を爪の先で弄られ、今度は腰が砕けるように力が抜けた。
 思わせぶりに内奥から指が引き抜かれ、片足を抱え上げられる。目隠しをされていて見えるはずもないのだが、相手の強い眼差しを感じることはできた。指で綻ばされてひくつく部分を、じっと見つめられているのだ。
 本能的な怯えから身を捩ろうとしたが、その行動を封じるように熱く硬いものが内奥の入り口に擦りつけられた。
「あっ……」
 和彦が声を洩らしたときには、内奥の入り口をこじ開けるようにして欲望が押し入ってくる。咄嗟に頭上の枕を握り締めて、顔も見えない相手と繋がる。
「くっ……ぅ、うっ、うっ、ううっ」
 たっぷりの唾液をすり込まれた襞と粘膜を強く擦り上げられ、苦痛が一瞬あとにはゾクゾクするような肉の疼きへと変化していく。
 ある程度まで欲望が内奥に埋め込まれると、両足を折り曲げるようにして抱えられ、深々と突き上げられる。和彦は声も出せずに仰け反り、小刻みに体を震わせる。
 相手の欲望に屈服させられ、受け入れた証として、すでに内奥は淫らな蠕動を繰り返していた。その感触を堪能するように相手は腰の動きを止める。その代わり、和彦の体をてのひらで撫で回してくる。
 これまでと同じ、じっくりと時間をかけての交わりだった。相手は、自分好みの攻め方で和彦に快感を与え、体に刻みつけてくる。他の男たちのような激しさで振り回すことはないが、じわじわと嬲られて狂わされていくのは、まるで甘い責め苦だ。
 思い出したように内奥深くを抉られ、和彦は息を詰めて喉を反らす。抱えられた両足の爪先をピンと突っ張らせて、全身を駆け抜ける肉の悦びを堪能する。このとき、触れられないまま絶頂に達し、下腹部を精で濡らしていた。
 引き絞るように内奥が収縮する。相手が緩やかに腰を動かし、発情しきった襞と粘膜を擦り上げてきた。
「んっ、んんっ……、くぅっ――……」
 首筋に唇が這わされ、それが驚くほど心地よくて、和彦は喘ぎ声を上げる。相手の唇が耳の形をなぞり、こめかみに押し当てられ、唇の端に触れてくる。ハッと我に返って顔を背けようとしたが、あごを掴まれて唇を塞がれていた。
 肌に唇が触れただけでなく、唇にまで触れてきたのだ。今夜は何か違うと察知するには十分で、急に怖くなった和彦は必死に口づけを拒もうとしたが、内奥に埋め込まれたものが蠢き、腰から背筋にかけて快感が這い上がってくる。堪えきれず呻き声を洩らすと、待ちかねていたように口腔に舌が入り込んできた。
 ここまでされて、ようやく相手が生身の人間なのだと実感できる。掛け軸に画かれた若武者の姿は、すでに脳裏から消えかかっていた。
「あうっ」
 大きく内奥を突き上げられ、反射的に相手の肩に手をかける。相手は浴衣を脱いですらいないが、てのひらを通して感じた硬い感触に、すぐに和彦は手を引く。本能的に、軽々しく触れてはいけないと感じたのだ。
 どれだけ相手が生身の人間だと実感できようが、〈長嶺の守り神〉という事実は変わらない。和彦は、その守り神に捧げられた生け贄だ。
 だからこうして――食われている。
 胸の突起を強く吸い上げられ、女のような嬌声を上げて煩悶する。達したばかりだというのに和彦の欲望は再び反応し、相手の手の中で弄ばれていた。
 和彦の体のどの部分が、どのタイミングで攻められるとより感じるか、相手は分析しつくしていた。
「ああっ……、はっ、あっ、あうっ、も、うっ――」
 和彦が切羽詰った声を上げる頃、ようやく内奥で律動が刻まれる。恥知らずな歓喜の声を立て続けに上げると、まるで褒美のように精を注ぎ込まれた。
 必死に頭上の枕を握り締め、快感の奔流に耐える。そうしないと、今度こそ相手にしがみついてしまいそうだったのだ。今度は、和彦の従順さに対する褒美なのか、相手は再び絶頂へと導いてくれた。
 二度目の精を迸らせた和彦が脱力するのを待ってから、繋がりは解かれる。だが、これで終わりではなかった。
 喘ぐ唇を軽く吸われ、ごく当然のように和彦は舌を差し出し、絡め合う。汗に濡れた体を撫でられ、心地よさに小さく声を洩らしていた。
 長い口づけを堪能したあと、唇が耳に押し当てられる。
「――一階の露天風呂を貸し切りにしてある。ゆっくり入ってきなさい」
 耳に注ぎ込まれたのは、賢吾に似た太く艶のある声だった。目隠しの下で和彦が目を見開いている間に、ベッドが揺れ、相手が下りた気配がする。そのままベッドの上でじっとしていると、数分ほどして、部屋のドアが閉まる音がした。
 和彦はおずおずと目隠しを外し、わずかに体を起こす。快感からまだ完全に醒めていないのか、頭がふらついている。それでも、自分が放った精や、鮮やかな愛撫の痕跡が残る体を見て羞恥する程度には、理性は戻っていた。
 床に落ちた浴衣を拾い上げた和彦は、とりあえず下肢の汚れを拭うことにする。こんな状態では、とてもではないが部屋を出られなかった。


 一階の露天風呂は、部屋についているものとは違い、さすがに広かった。貸し切りということで、誰かが入ってくる心配もないため、情交の跡が残る体を隠すことなく入浴することができる。
 体の汚れを流した和彦は、湯に浸かりはしたものの、風呂から見渡せる景色を堪能することなくすぐに上がる。部屋の風呂にゆっくり浸かったあとに、濃厚な行為に及んだのだ。いまだに体に熱が留まっており、あっという間にのぼせてしまいそうだ。
 脱衣所で浴衣と茶羽織を着込むと、洗面台の前に置かれたイスに腰掛け、少しの間ぼうっとしてしまう。体には確かに、嫌というほど覚えのある情交後のけだるさがあるのに、まるで夢を見ていたような感覚に陥るのは、目隠しをしていたからだ。
 ふいに口づけの感触が蘇り、和彦はハッとする。鏡に映る自分の緩みきった表情に羞恥心を刺激され、慌てて備え付けのドライヤーを手にした。
 手早く髪を乾かすと、タオルを抱えて脱衣所を出る。ラウンジを通り抜けて庭に出たとき、大柄な男が悠然とした足取りでこちらに向かってくる。運が悪いことに、南郷だった。
 和彦は咄嗟に周囲を見回して逃げ場を探したが、ラウンジに人気はなく、人に紛れることもできない。一方の南郷は、和彦を見るなり驚いたような表情を見せた。
「――……どうして、ここに?」
 和彦の目の前までやってきたかと思うと、開口一番にこう問われた。無視するわけにもいかず、露天風呂がある方向を指さす。
「露天風呂に入っていました」
「もう上がったのか」
 変なことを言うのだなと、眉をひそめながら和彦も問いかけた。
「それで、あなたはどこに?」
「露天風呂に行こうとしていた。本当は、風呂であんたを捕まえるつもりだったんだ。まさか、こんなに早く上がるとは思っていなかった」
 悪びれた様子もなく南郷が言い放ち、和彦は唖然とする。貸し切りで和彦一人が入っていた露天風呂に、南郷は押しかけるつもりだったのだ。
 もし、露天風呂で出会っていたらどうなっていたか――。
 和彦は南郷を睨みつけると、足早に庭の小道を歩く。部屋に戻ろうとしたのだが、当然のように南郷があとをついてくる。
「……ついてこないでください」
「部屋まで送る。――物騒だからな」
 階段を上っていた和彦は、振り返ってもう一度南郷を睨みつける。嫌な笑みを浮かべた南郷がゆっくりとした動きで片手を伸ばし、和彦の腕を掴んでこようとする。それをあっさりと躱したが、すかさず、今度は素早い動きで南郷が間合いを詰め、和彦の体を手荒に手すりへと押し付けた。
「なっ……」
「そんなにふらついた足じゃ、階段から転げ落ちるかもしれない。なんなら、抱き上げて連れて行こうか?」
 南郷は本気で言っているわけではない。おもしろがるわけでもなく、ただ和彦の神経を逆撫でるようなことを言って、反応を観察してくる。それがわかるからこそ和彦は、南郷が苦手で――不気味だった。
 息を詰め、ほとんど虚勢だけで南郷の目を見据える。和彦のそんな眼差しすら、南郷は観察している様子だったが、思いがけない声が二人の間に割って入った。
「――南郷」
 窘めるように南郷を呼んだのは、さきほど和彦が耳元で聞いた声だ。顔を上げると、渡り廊下に立った守光がこちらを見ていた。
「先生に、礼を欠いた態度を取るな。長嶺の家だけじゃなく、総和会にとっても大切な人だからな」
 守光の声も表情も穏やかではあるが、その立場を知っているせいか、かえって萎縮してしまう怖さがある。南郷は、軽く肩をすくめてからスッと体を引くと、恭しく和彦に向けて頭を下げた。
「申し訳なかった、先生」
 言葉と態度とは裏腹に、ちらりとこちらを見た南郷の目には狡猾さがちらついている。和彦は何も言わず階段を上がり、守光の元に行く。礼を言うのも変な気がして口ごもると、守光の手が肩にかかった。
「わしの部屋で寝るといい」
「でも――」
「先日、あんたに約束しただろう。泊まった先でおもしろい話をしてやると」
「……ぼくにとっても興味深い話だと……」
「そう。賢吾も千尋も知らない」
 和彦は、階段にとどまっている南郷を振り返ってから、総和会の男二人にいいように追い込まれているように感じながらも、頷くしかなかった。









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