と束縛と


- 第22話(2) -


 守光と向き合ってお茶を飲むのは、ひどく落ち着かない気分だった。居たたまれない、といってもいいかもしれない。
 静かな表情でお茶を味わっている守光をまともに見ることができず、つい隣の部屋へと視線を向ける。すでに二組の布団がきちんと敷いてあった。その様子を見て、つい数十分ほど前までの自分の痴態が蘇る。
 一人で動揺する和彦とは対照的に、守光はあくまで何事もなかったように泰然としている。
 守光はさきほどの淫らな行為で、相手が自分であると隠そうとはしていなかった。和彦は確かに目隠しをして、何も見られない状態ではあったが、ほとんど意味をなさないものになっていた。守光なりの、もう目隠しを取ってもいいというサインだったのかもしれない。
 必要なのは、和彦の覚悟次第ということか。
「――今日は疲れただろう」
 守光の言葉に、和彦はピクリと肩を揺らす。『おもしろい話』をいつ切り出されるかと、身構えてしまうのだ。
「少し……。遠出は久しぶりなので」
「まあ、あんたの場合、気疲れといったところだな。わしと一緒にいることに、多少は慣れてきているようだが、それでもまだ肩に力が入っている」
「……すみません」
「謝るようなことじゃない。――そのうち、嫌でも慣れる。わしとこうして茶を飲むことも、総和会の人間に囲まれていることにも」
 どういう意味かと尋ねようとしたが、そのときには守光は立ち上がっていた。
「そろそろ布団に入ろう。横になっても話はできる」
 和彦は頷き、部屋の電気を消してから守光の隣の布団に入る。
 変な感じだった。布団の中で身を硬くしながら、隣にいるのは一体誰なのだろうかと考えてしまう。もちろん、長嶺守光という名で、総和会会長という肩書きを持つ人間だということは知っている。しかし、こうして隣り合って寝ている自分との関係は、よくわからない。
 いや、あえて曖昧にしているのだ。だから目隠しという、布一枚分の理屈を必要としていた。
 和彦はそっと寝返りを打ち、守光のほうを向く。枕元のライトをつけるまでもなく、外からの月明かりのおかげで、守光の横顔を見ることができた。賢吾や千尋との血の繋がりを感じられる、端整な横顔だ。
 守光はやっと、静かな口調で切り出した。
「――三十年以上前の話だ。わしがまだ三十代で、長嶺組の組長代理を務めている頃、長嶺組と長年つき合いのある政治家から、相談事が持ち込まれた。自分が目をかけている青年の問題を片付けてやってほしいと。社会的に高い地位に就く人間が、ヤクザに問題解決を頼んでくるのはそう珍しい話じゃない。そうやって、持ちつ持たれつつき合って、使える人脈を広げていき、秘密を保持し合う。わしは、父親から命じられて、その青年と会った。見るからに血統のよさそうな、今のあんたとさほど年齢の変わらない青年だったよ」
 守光の話を聞きながら和彦は、なんとなく青年の年齢を計算していた。おそらく現在は、五十代後半から六十代前半といったところだろう。政治家が、わざわざヤクザに頼んでまで守ろうとしたぐらいだ。よほど将来性を買っていたのかもしれない。
「女好きのする、きれいな顔立ちをしていた。そして頼み事というのも、恵まれすぎた容貌と家柄に関係するものだった。よくあることといえば、よくあることだ。ヤクザと関わりのある女に惚れられて、妻子がいるのに、求められるままに肉体関係を持ったはいいが、青年は一度きりのつもりが、女は追いすがった。結局、青年の家柄と職業に目をつけたヤクザが、女と一緒に恐喝を働こうとしたんだ」
「それを、長嶺組の力で……?」
「青年から手切れ金を預かり、それを長嶺組の名で女に突きつけた。それでもまだ騒ぐようなら、長嶺組の面子にかけて、きっちりカタをつける――と言ってな。ただそれだけだ。あっさりと問題は片付いたよ」
 興味深い話ではあるが、これがなぜ、自分と守光との間で秘密になりうるのか、まったくわからなかった。
 和彦はまじまじと守光の横顔を見つめる。すると守光も体の向きを変え、和彦を正面から見つめ返してきながら、思いがけないことを口にした。
「その青年の名は、佐伯俊哉(しゅんや)と言った」
 驚きのあまり、和彦は咄嗟に反応できなかった。まさか、この名が出るとは想像もしていなかったからだ。
「……ぼくの、父、ですか?」
「彼と顔を合わせたのは、その女の件で数回だけだ。将来を約束された官僚は、ヤクザと深いつき合いをするつもりはなかったんだろう。わしらとしても、つき合いの長い政治家との関係をこじらせたくなかったから、彼につきまとうようなマネはしなかった。正直、あんたの経歴を調べるまで、佐伯俊哉という存在を思い出すことはなかった」
 衝撃の波が去り、和彦はぎこちなく息を吐き出す。
「こういうとき……、父がかつてお世話になりました、と言えばいいんでしょうか」
 冗談ではなく、本気で言った言葉だが、守光は低く笑い声を洩らした。
「人の縁は不思議だ。こうして、あのときの青年の息子と、枕を並べて同じ部屋で寝ているんだ」
 俊哉に関する秘密を抱えて、その息子である和彦を巡る関係を観察していたのだろうかと思うと、ヒヤリとする感覚が背筋を駆け抜ける。守光が怖いというより、不気味だった。
「――あんたは、父親とよく似ている」
 守光の言葉に、和彦はちらりと苦笑を浮かべる。
「初めて言われました。ぼくも兄も、顔立ちは母方の血が濃く出ていると言われ続けてきたので」
「顔立ちのことを言っているんじゃない。あんたも、自覚はあるんじゃないか。自分のどの部分が、父親とそっくりなのか。……佐伯俊哉という人間に会ったのは数回だが、人となりを調べることは可能だ。間違いなく、あんたは父親の〈性質〉を受け継いでいる」
 守光の言う通り、自覚はあった。だがそれは、心を抉られるような痛みを和彦に与えてくる。認めたくはないのに、認めざるをえないほど、和彦と父親はある性質がよく似ている。
 和彦は返事をすることなく再び寝返りを打ち、今度は守光に背を向ける。そんな和彦を気遣うように、守光が優しい声で言った。
「おやすみ、先生」
 おやすみなさいと、和彦は小さな声で応じた。




 久しぶりに父親の夢を見た。
 幼いときの和彦にとって俊哉は、ただ畏怖の存在だった。抱き上げてくれることも、手を繋いでくれることもなく、どこかに遊びに連れて行ってもらった思い出もない。だが、成長していくに従い、それすら恵まれていたことなのだと思うようになった。
 俊哉は、和彦に一切の関心を示さなくなったのだ。まだ、厳しく躾けられていたほうが遥かにまともな状態だった。少なくとも、父親として接してくれていたからだ。
 中学生の頃には和彦は、佐伯家での自分の立場を理解していた気がする。問題を起こさず、佐伯家の名を汚さず、ただ息を潜めて暮らすことが、和彦に求められていることだったのだ。
 皮肉なのは、そんな冷たい俊哉と、自分が同じ性質を受け継いだということだ。そのことで、和彦の人生は大きく変わった。
 水に溺れたような息苦しさに襲われ、和彦は大きく息を吸い込む。反射的に目を開くと、見覚えのない部屋の様子が視界に飛び込んできた。
 寸前まで見ていた夢のせいもあり、軽いパニック状態に陥ったが、すぐに自分の状況を思い出す。ここは旅先の旅館で、和彦は守光の部屋で眠ったのだ。
 すでに室内には、柔らかな陽射しが満ちている。夢見がよかったとは言いがたかったが、体に感じる充足感から、熟睡していたのだとわかる。
 隣に守光がいながら、我ながら神経が図太い。和彦は、昨夜守光から聞かされた話を思い返し、少し複雑な気分とともに、そんなことを考える。
 当の守光は――と、もぞりと身じろいで隣の布団を見る。しかし、守光の姿はなかった。
 和彦の耳に、微かな衣擦れの音が届く。反射的に体を起こした和彦は隣室に目をやる。ちょうど、守光が浴衣を腰まで脱ぎ、シャツを羽織ろうとしているところだった。
「あっ……」
 驚きの声を上げたのは、守光の背にいるものをはっきりと見てしまったからだ。
 狐だ。もちろん、ただの狐ではない。暗雲を足元に従えるように立った狐の体は、毒々しいほどの黄金色だった。背一面に、個々の生き物のように息づく九本の尻尾が描かれている。狐の顔つきが静かである分、尻尾の不気味さと迫力が際立っていた。
 背の刺青が露わになっていたのはほんの数秒だが、目に焼きつくには十分だ。和彦が息を呑んでいると、シャツを着込んだ守光が肩越しにこちらを見る。
「朝から、不快なものを見せてすまない。老いた体に、こんな刺青があると、滑稽だろう」
 和彦は小さく首を横に振る。守光の体から生気を得ているのか、それとも背の刺青から守光が生気を得ているのか、守光の後ろ姿と刺青から、老いという言葉とは無縁の力を感じた。
 男たちの体に彫られた刺青に強烈に惹かれる和彦だが、守光の背にあるものには、ただ圧倒される。おそらく触れることすら怖くてできないだろう。
「――昔話に出てくる、九尾の狐という生き物だ。若いときは、ただ力を示す絵柄がいいと思って入れたんだが、今になって、わしにぴったりだと思えるようになった。まさに、古狐だよ。煮ても焼いても食えず、ひたすら力に固執する」
 和彦は布団の上に座り直し、浴衣の前を整える。守光にまだ朝の挨拶もしていないことに気づき、頭を下げた。
「あの……、おはようございます」
「おはよう。まだ横になっていてもかまわんよ。わしはこれから外を散歩して、露天風呂に入ってくる。朝食はそれからだ」
 そうは言われても、起き抜けに強烈なものを見てしまい、眠気など一気に吹き飛んでしまった。
 いままで守光を畏怖していたが、それは総和会会長という肩書きに対するものだったのだと実感する。九尾の狐の刺青を目にして、長嶺守光という男の一端に触れ、改めて畏怖していた。その一方で、人間としての輪郭が見えてきて、心惹かれるものがあった。
 守光はかつて和彦を、抗えない力に対して逆らわず、巧く身を委ねると表現したことがある。自覚がないまま、この本能を発揮した結果が、この心境の変化なのかもしれない。
「ぼくも――」
 声を発した自分自身に驚きつつも、和彦は言葉を続ける。
「ぼくも、散歩にご一緒していいですか?」
 守光は口元に薄い笑みを浮かべて頷いた。
「大歓迎だ、先生」


 シートに体を預けた和彦は、ウィンドーの外の景色をぼんやりと眺めていた。駅からの景色は見慣れたもので、陽射しが降り注いではいるが、通りを歩く人はまだ厚着が多い。ほんの数時間前まで滞在していた場所とは明らかに気温が違う。
 ただ、見慣れた景色に和彦はほっとしていた。帰ってきたのだと実感もしていた。
 状況に流されるように守光に同行した一泊旅行に、最初はどうなることかと危惧を抱いていたが、もうすぐ終わるのかと思うと、少しだけ名残惜しさがあった。
 緊張はしたし、終始人目を気にして居心地の悪い思いもしたが、その分、総和会の男たちに丁寧に接してもらい、気遣ってもらった。特に、守光には。
 懐柔されつつあると、頭の片隅で冷静に分析はしているのだ。和彦など、裏の世界では小さな存在だ。それでも大事にされるのは、組織に対して協力的な医者であることと、長嶺の男たちと関係を持っているからだ。
 そんな和彦を男たちは容赦なく、裏の世界の深みへと引きずり込み、逃すまいとしている。
 怖くはあるが、嫌ではないと感じている時点で、この世界にしっかりと染まっている証だ。
「――さすがに疲れただろう」
 外に目を遣ったまま、じっと考え込んでいた和彦に、隣に座っている守光が声をかけてくる。てっきり駅で別れるものだと思っていたのだが、こうして同じ車に乗り、マンションまで送ってもらっている途中だ。
「あっ、いえ……。ぼくはのんびりとさせていただきましたから。疲れるようなことは、何も……」
「そうは言っても、気疲れはしただろう。それに、せっかくの土日をこんなジジイにつき合わされたんだ。せめて今夜は、よく休みなさい。明日からクリニックで仕事だろう」
 守光の物言いに、和彦は曖昧な表情で返す。冗談めかしてはいるが、守光と過ごした一泊二日の時間は濃密だった。交わした会話も、行われた淫靡な行為も、何もかもが。
 胸の奥で妖しい衝動がゾロリと蠢き、急に落ち着かない気分となった和彦はシートに座り直す。本当はドアのほうに身を寄せ、守光からわずかでも距離を置きたかったが、そこまで露骨なこともできない。
 髪を掻き上げ、意味なく腕時計で時間を確認し、なんとか気を紛らわせようとするが、横顔に守光の視線を感じる。
 沈黙では間が持たず、とにかく会話をと思った和彦は、半ば反射的に背後を振り返った。二人が乗った車の前後には、護衛の車がぴったりと張り付いている。後続車には南郷が乗っていた。
「南郷が気になるかね」
 守光の言葉に、和彦は微かに肩を揺らす。
「……いえ。ただ、会長の身近にいるのが南郷さんだとうかがっていたので、この車に同乗しなかったのが不思議で」
「あんたは、あの男が苦手だろう?」
 和彦が返事に詰まると、守光は低く笑い声を洩らした。
「クセのある男だからな。いかにも極道らしい外見をして、言動は筋金入りの極道だ。ただ――それだけの男じゃない。わしがずっと目をかけてきたのは、それなりの理由がある。南郷は、賢吾にはないものを持っている。わしはそれが気に入っているんだ」
「すみません……。彼に失礼な態度を取ってしまって」
「かまわんよ。賢吾と――長嶺の男と相性がよければよいほど、その男たちとは対照的な姿で、極道の世界を生き抜いている南郷は、合わんだろう」
 ここで、守光の腕がそっと肩に回される。身を強張らせた和彦は、何事かと思って守光を見る。じっとこちらを見据えてくる守光の目は、冷徹な光を湛えていた。静かでありながら凄みのある表情は、今朝見たばかりの守光の背にいる九尾の狐を彷彿とさせる。
「ただ、あんたには慣れてもらわないと」
「……慣れる、ですか?」
「そうだ。南郷にも、総和会のやり方にも。何より、わしに」
 肩にかかった守光の手に、力が加わる。抱き寄せられた和彦は、抗うこともできず守光におずおずともたれかかった。
 守光のもう片方の手があごにかかり、持ち上げられる。初めてこんなに近くから、守光の顔を見ることになる。
 端整な容貌の老紳士が、総和会という巨大な組織の頂点に君臨するには、相応の理由がある。見た目がいかに穏やかであろうが、守光の内面がそうであるとは限らない。
 守光は、じわじわと本性を露わにしていき、和彦を呑み込んでいく。
「あんたは、自分が逆らえない力に敏感だ。そして、その力に対して巧く身を委ねられる。わしに対してもそうであると、考えていいかね?」
 目隠しの布一枚分の理屈が、剥ぎ取られる瞬間だった。もう必要ないと守光は確信しているのだ。そして和彦は――。
 守光の目を見つめたまま、ゆっくりと唇を塞がれた。
 昨夜知ったばかりの唇の感触に、他の男たちには感じない緊張を強いられる。口づけの感覚を分かち合うというより、自分の身を差し出す感覚に近い。一方的に貪られるのだ。
 唇を吸われてから、歯列をこじ開けるようにして舌が口腔に入り込む。その間も和彦は、守光の目を見つめ続けていた。賢吾は目に大蛇を潜ませているが、守光の場合は何も捉えられない。冷たい檻が存在していて、その奥に怪物が棲んでいるのだろうかと想像してしまう。守光の怖さは、正体の掴めなさにあるのだ。
「んっ……」
 口腔の粘膜をじっくりと舐め回されたとき、和彦はゾクゾクするような疼きが背筋を駆け抜ける。
 顔を見つめ合いながら唇を重ねて、ようやく和彦は実感していた。守光もまた、長嶺の男なのだと。堪らなく怖い存在である守光に、心と体のどこかで強烈に惹かれるものがあるのだ。もしかすると、そう思い込むことで、この世界での自分の身を守ろうとしているのかもしれないが――。
 促されるまま舌を差し出し、守光に吸われる。そうしているうちに緩やかに舌を絡めながら、守光の唾液を受け入れる。守光は目を細めて一度唇を離し、この行為の意味を囁いてきた。
「――あんたは今から、長嶺守光の〈オンナ〉だ。いいな?」
 まるで暗示にかけられたように和彦は頷く。頭の中が真っ白に染まり何も考えられなかったのだが、たとえ迷ったにしても、用意された答えは一つしかない。それぐらいは理解していた。
「怖がることはない。賢吾と千尋にとっても、あんたは大事で可愛いオンナだ。わしも、それに倣おう」
 再び唇が重なり、和彦はようやく目を閉じると、守光との濃厚な口づけに酔った。




 ベッドに横になった和彦は、照明に透かすように掲げた片手を、じっと見つめる。なんだか不思議な感覚だった。
 自分の体のはずなのに、意識の一部が切り替わったように、こう感じるのだ。――長嶺守光に所有されている体だ、と。
 和彦のことを〈オンナ〉と呼ぶ男は、すでに二人いる。当然、賢吾と千尋のことだ。慣れとは恐ろしいもので、屈辱的な呼称を和彦は受け入れ、自分自身、口にすることに抵抗も薄れつつある。だが、五日前に、守光のオンナとしての立場を受け入れてから、和彦は精神的に少し不安定になっていた。
 裏の世界で生きる怖さは、この一年で実感しているはずだった。だが、総和会会長と深い関係を持つというのは、長嶺組との関わりでささやかに作り上げた足場をぐらつかせ、底なし沼に足を踏み出したような危うさを和彦に与えてくる。何かの拍子に、とてつもない闇に一気に引きずり込まれてしまいそうだ。
 淡白な体の関係だけを求められているわけではないと、守光と接し、会話を交わしていれば察することはできる。賢吾が策謀を張り巡らせる外で、守光はさらに大きな仕掛けを用意しているように感じるのだ。
 利用される価値は自分にないと思う一方で、総和会から丁重に扱われているという事実が、和彦を不安にさせる。
 守光との旅行から戻ってきて以来、気分が塞ぎ込み、誰とも会いたくない状態が続いている。しかし、クリニックでの仕事がある以上、部屋に閉じこもるわけにもいかず、出勤はしている。ただ、長嶺組の人間との接触は、送迎の車内だけに留めていた。賢吾とも、電話ですら話していない。
 勘のいい男は、和彦の素っ気ないメールの内容だけで、ある程度の状況は把握してくれたようだ。今のところ本宅への呼び出しも、部屋を訪ねてくることもない。
 守光は、旅行中のことを賢吾に話したのだろうかと、ふと考える。
 賢吾は、千尋とつき合っていた和彦を罠に掛ける形で裏の世界に引きずり込み、自分のオンナにした。千尋はそんな賢吾に対して、本宅に戻る条件として、和彦をオンナにすることを認めさせた。血が繋がっているとは言え、長嶺の男たちの関係はヌルくはない。
 かつて守光は、総和会会長の立場では、長嶺組の〈身内〉の処遇について命令はできないと言った。今ならこれが、言葉のうえだけの建前でしかないと理解できる。命令はしなくとも、和彦が選択するよう仕向ければいいだけの話なのだ。そして和彦は、選んだ。
 男たちの思惑に搦め取られていくうちに、果たして自分はどこに行き着くのか。
 考えたところでわかるはずもなく、それがまた和彦の気分を沈み込ませる。何か、しっかりとした支えに掴まっていなければ、今度こそ気持ちを立て直せない危惧すら抱いてしまう。
 一度は横になりながらも眠れる心境ではなく、結局和彦は寝室を出る。コーヒーでも入れようかとキッチンに行きはしたものの、カップを出そうとしたところで動きを止める。
 一瞬にして芽生えた衝動を必死に抑えようとしたが、できなかった。手早く服を着替えると、財布と部屋の鍵を掴んで玄関を出た。
 部屋に引き返したほうがいいと、頭の片隅で弱々しく理性の声がする。しかしそんな声で足を止められるはずもなく、和彦はエレベーターに乗り込む。
 マンションを出たときには、これが最初で最後だからと、自分自身に言い訳をしていた。
 周囲をうかがいながら小走りで向かったのは、近くのコンビニだった。正確には、コンビニの外に設置された公衆電話に用がある。家から電話をかけると、盗聴器を通して会話を聞かれる恐れがあった。
 つまり、組の人間に聞かれたくない電話をかけたいのだ。
 慎重に辺りを見回してから受話器を取り上げる。電話番号は、携帯電話に登録したり、メモを手元に残しておくわけにもいかず、頭に叩き込んであった。
 番号を押し、呼び出し音を五回聞いたところで受話器を置こうと、心の中で決める。これで、もう縁は切れたのだと諦められると、和彦は思った。
 しかし決意とは裏腹に、〈彼〉との縁はそう脆いものではなかったようだ。
 三回目の呼び出し音が鳴る前に、あっさりと彼が――里見が電話に出た。
『もしもし?』
 電話越しに里見の声を聞いた瞬間、和彦の胸は切なく締め付けられる。自分が高校生だった頃の感覚に引き戻されるが、その一方で、自分の今の生活が脳裏を過ぎる。先日里見と会ってから、さほど日は経っていないというのに、和彦の置かれた状況はますます複雑に、物騒になった。
 なんといっても、総和会会長のオンナになったのだ。
 和彦が咄嗟に声を出せないでいると、それで里見は察するものがあったのか、いくらか声を潜めて尋ねてきた。
『もしかして、和彦くんか?』
「……こんな時間にごめん、里見さん」
 返ってきたのは、安堵したような息遣いだった。
『気にしなくていい。こうして電話をくれたんだ。それだけで嬉しいよ』
 里見の穏やかな声につい笑みをこぼしかけた和彦だが、ふとある光景が蘇り、顔が強張った。精神的に塞ぎ込んでいた原因は、何も守光のことだけではない。守光からの旅行の誘いに乗ったとき、和彦の気持ちはすでに不安定だったのだ。
『もう二度と、君の声を聞けないんじゃないかと、気が気じゃなかったんだ。それが、こんなに早く連絡をくれるなんて、嬉しいよ』
「本当は、連絡を取るつもりはなかったんだ。……里見さんに迷惑をかけるのが怖かったから。でも、だとしたら、あなたはもっと心配するんじゃないかとも思った」
『その通り。わたしは今の君について、何も知らないからね。ずっと心配していた』
 ここで一度、沈黙が訪れる。和彦は急に寒さが気になり、冷たくなった指先を首筋に押し当てる。せめて手袋ぐらいしてくるべきだったかもしれない。
『――……公衆電話からかけているみたいだけど、寒くないか?』
「寒いけど、外から電話をかける必要があったんだ。携帯も……使えない」
『それは、わたしのことを用心しているのか、それとも君が置かれている環境のせいで、そこまでしないといけないのか。どっちだい?』
「両方だよ。ぼくは、佐伯家と繋がりのある里見さんを警戒している。それに、今ぼくの周囲にいる人間は用心深いんだ」
 並んで歩いていた里見と英俊の姿が、脳裏をちらつく。ただ、そんな場面を見たと里見に言うわけにもいかない。
『それは……君を手放したくないからこその、用心深さかい?』
「そうだよ。ここでは大事にされている。それに、必要とされている」
『佐伯家での君を知っているわたしからしたら、胸が痛むね。その言葉は。率直に言って君は、佐伯家に必要とされている人間じゃなかった』
 口調は穏やかながら、里見の言葉は切りつけてくるように鋭い。だが、事実だ。
「……あの家は、兄さんだけがいればよかったんだ。実際兄さんは有能だし、父さんと考え方もよく似ている。佐伯家を継ぐに相応しい人だよ」
『だけど、君が佐伯家に生まれなければ、わたしは知り合うことはできなかったし、近い存在になることもできなかった。君が佐伯家の中で抱えた人恋しさに、わたしがつけ込んだとも言えるが』
「見かけによらず、悪い大人だったよ、里見さんは」
 受話器を通して里見の笑い声が聞こえ、つられるように和彦も口元に笑みを浮かべる。それだけで、塞ぎ込んでいた気持ちがわずかだが軽くなった気がした。里見と話すことで、やはり気持ちは舞い上がり、正直、嬉しいとも思ってしまう。この気持ちはどうしようもなかった。
 すると、今しかないというタイミングで里見が切り出した。
『――少しだけでも、佐伯家に顔を出す気はないのか?』
「ぼくが身を隠しながらも、きちんと仕事をして生活していると、澤村やあなたを通して知っても、それでも佐伯家がぼくに会おうとしている理由がわかるまで、顔を出す気はない。少なくとも、ぼくから手の内を晒すマネはしない」
『だったら、わたしとは?』
「そう言われると、なんだか怖いな。のこのこと出かけていったら、そこに兄さんがいたりして――」
『わたしは、騙まし討ちのようなことはしないよ。君からの信頼をなくすのは、何より怖い』
「……口が上手いな」
『英俊くんとは今、官民共同のプロジェクトを手がけていて、よく顔を合わせるんだが、そのたびに君のことを聞かれるんだ。電話で話しただけだからと誤魔化すんだが、それが気に食わないみたいでね。早く和彦と会って、首に縄をつけてでも佐伯家に連れて来い、と言われている』
 見た目も内面もクールな英俊だが、ときおり底知れない激しさを見せることがある。和彦は、その英俊の激しさの一番の被害者だと自負していた。どうやら、相変わらずのようだ。
 それより和彦が気になったのは、里見が英俊と今も顔を合わせているという発言だ。つまり、二人が一緒に歩いていた姿には納得できる理由があったということだ。
「兄さんが、里見さんの職場に出向くことはあるのかな?」
『あるよ。特に今は、仕事の引継ぎのこともあるから』
「引継ぎって……」
『国選出馬の本格的な準備に入る前に、プロジェクトに一区切りつけたいと言っていた。そのために、引継ぎも急いでいるようだ。最近は自宅に戻る時間も惜しくて、官庁近くのビジネスホテルに泊り込んでいるらしい。見合いをする時間もないと、彼には珍しく冗談を言っていた』
 英俊の性格からして、淡々と事実を述べただけだと思うが、里見は穏やかに微笑みながら聞いていたのだろう。その光景を想像して、和彦まで微笑んでしまう。
「――……あの人、まだ独身なのか。とっくに結婚したのかと思っていた。報告がなくても不思議じゃない兄弟仲だから、特に気にもかけてなかったけど」
『結婚するとしたら、大変だよ。佐伯家に入るんだ。当然、結婚相手は慎重に時間をかけて選ぶ気だろう。近い将来、政治家になるかもしれない人の奥さんだ』
「そうだね……」
 複雑な想いを抱えて和彦が応じると、突然里見に、硬い口調で問われた。
『君には今、大事な人はいないのか?』
 この瞬間、和彦の頭に浮かんだ男の顔は――。
 ふっと我に返り、慌てて周囲を見回す。こちらを見ている人の姿はないが、なぜだか、とてつもない悪事を働いているような罪悪感に襲われる。和彦は早口に告げた。
「ごめん、里見さん。今夜はもう、これで電話を切るからっ」
 一方的に電話を切る直前、確かに里見の声が聞こえた。
『また電話をかけてきてくれっ。なんでもいい。君と話したい――』
 受話器を置いた和彦は大きく息を吐き出すと、足早にマンションへと戻った。









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