と束縛と


- 第22話(4) -


「――賢吾が、あんたのための着物をあつらえさせていると聞いた」
 守光の言葉に、シートの上で和彦はわずかに身じろぐ。
 寛ぐよう言われたが、総和会会長と並んで車の後部座席に座っていて、背筋を伸ばす以外の姿勢を取れるはずもない。やはりどうしても、緊張してしまうのだ。
 そんな和彦を見て、守光は口元に淡い笑みを浮かべる。
「旅行にも一緒に行ったのに、まだ、わしに慣れんかね?」
「いえっ……、突然のことで、驚いているだけで……」
 クリニックでの仕事を終え、いつものように護衛の組員が運転する車で帰宅していたのだが、途中、あるビルの地下駐車場に入ったかと思ったら、隣に停まっている車に移るよう言われた。そして、今のこの状況だ。
 守光は、ビル内にある料亭で会食を終えたところで、これから別の店に向かうそうだ。そう、守光が決めたのなら、和彦は付き従うしかない。
 濃いスモークフィルムが貼られたウィンドーから、外を流れる夕方の街並みはあまりよく見えない。この車は、総和会会長の身を守るための動く要塞だ。見た目からして威圧感に溢れており、その前後を護衛の車が守っている。
 こういう状況に身を置いていると、自分は総和会会長のオンナになったのだと、不思議な感慨をもって実感できる。まだ現実味は乏しいのだが、紛れもない事実だ。
 ただ、守光が相手だと、どう振る舞えばいいのかいまだにわからない。賢吾と知り合った当初もわけがわからないまま振り回されていたが、そうしているうちに、あの大蛇の化身のような男に慣れていった。
 しかし守光は――。
 一瞬見ただけでの、九尾の狐の刺青を思い出し、和彦は小さく身震いする。あれは触れてはならないものだと、本能が訴えていた。
 身を固くしている和彦の膝の上に、あくまで自然に守光の手が置かれる。
「そう、着物の話だ。せっかくだから、わしもあんたに着物を仕立てて贈ろうと思っている。この先、何枚あっても困らんものだ」
 遠慮の言葉が咄嗟に口をついて出そうになったが、守光の強い眼差しを向け、その気が一瞬にして萎える。和彦は少し考えて、おずおずと口を開いた。
「……気にかけていただいて嬉しいですが、ぼくはまだ着付けがまったくできないんです。せっかく贈っていただいても、申し訳ないというか……」
「大事に仕舞っておかずに、いつでも取り出して着付けの練習をすればいい。そのために贈るようなものだ。着こなせるようになったら、また新しい着物を贈ろう」
 守光の口調は柔らかだが、賢吾に負けず劣らず押しが強い。どんどん言葉を重ね、和彦からたった一つの答えをもぎ取ろうとしてくる。
「賢吾さんは……気を悪くしないでしょうか?」
「父と息子で、張り合うように同じものを贈り、それをあんたは受け取る。人によっては、下衆な勘ぐりをしたくなる話だな。あんたはさしずめ、魔性の〈オンナ〉といったところだろうな」
 楽しげに守光が低く笑い声を洩らし、和彦は顔をしかめる。つい、控えめに抗議していた。
「ぼくは、笑えません。最初に着物を贈ると言ってくれた賢吾さんの気持ちを思うと……。思惑があるにせよ、ぼくのためにいろいろと考えて、お金を使ってくれたんです。その、賢吾さんの面子を潰すことにならないか、それが心配なんです」
「息子のことをそこまで考えてくれて、ありがとう、と礼を言っておこう」
 膝に置かれていた守光の手が動き、今度は肩にかかる。抱き寄せられて促されるまま、守光との距離を詰めて座り直した。
 和彦の耳元で、守光は太く艶のある声を際立たせるように囁いた。
「――まだ自覚が乏しいようだから、あえてはっきり言おう。あんたは今は、賢吾や千尋だけではなく、長嶺守光のオンナでもある。わしの隣にいるときは、わしの面子を考えるんだ」
 和彦は息を詰め、ぎこちなく守光の顔を間近から見る。冷徹な光を湛えた両目に射竦められたが、すぐに守光は目元を和らげた。
「あんたは、総和会会長のたった一人のオンナだ。そのうち嫌でも、このことは総和会の外にも知られるようになる。あんたの性別は関係ない。わしが、息子と孫のオンナに手をつけたという事実が大事なんだ」
 守光の指に頬をくすぐられ、和彦はピクリと体を震わせた。
「総和会と長嶺組は、長嶺の血以外のもので繋がることになる。あんたという存在だ」
 両足の中心に、守光のもう片方の手が堂々と這わされる。まさぐられ、押さえつけられたところで、たまらず和彦は小さく声を洩らす。無意識のうちに腰が逃げそうになるが、シートに座っている状況では身動きが取れない。何より、守光の静かな迫力に完全に呑まれていた。
「あんたは、貴重だ。長嶺の男たちと相性がよく、他の物騒な男たちも上手く手懐けて使っている。荒事が苦手な日和見主義のようでいて、肝が据わっている。だからといって、わしたちのような極道というわけではない。だが、すでに堅気でもない。あんたの存在は、この世界にいるからこそ妖しさが際立つ」
 守光の手がさらに深く両足の間に差し込まれ、命じられたわけでもないのに和彦は足を開いていた。
 まるで検分するように、スラックスの上から敏感なものを押さえつけられ、唇を引き結ぶ。羞恥はあったが、驚きはなかった。賢吾に強引にオンナされたばかりの頃、怒りと戸惑いを覚えている和彦に、賢吾は車中で何度も体に触れてきた。あれは、賢吾なりの和彦に対する教育だったのだ。
 どんな状況であれ、どのように扱われても、受け入れなくてはならないと。それが、ヤクザのオンナになる――されたということだ。
 和彦の目を覗き込み、守光は柔らかな笑みを浮かべた。見ていると怖くなるような笑みだが、和彦は目は逸らさなかった。逸らせば、多分食われる。
「――忘れるな。あんたに特に価値を感じているのは、長嶺守光という男だ」
 守光が囁き終えると同時に、唇が重なってくる。この瞬間、和彦が感じたのは恐怖でも嫌悪感でもなく、純粋な肉の疼きだった。我ながら度し難いと思うが、長嶺の男と相性がいいというのは、戯言では済まないところまできていた。その事実を和彦は、体で実感している。
 唇を吸われているうちに、守光の舌が当然のように口腔に侵入してくる。おずおずと舌先を触れ合わせていると、守光の指に敏感なものをまさぐられる。
 拒むこともできずうろたえる和彦に、守光が思いがけない問いかけをしてきた。
「賢吾に、激しく求められたかね?」
 咄嗟に質問の意味が理解できず、和彦は目を見開く。
「えっ……」
「わしと旅行に行ったことを、感情的に責めるとも思えん。だとしたら賢吾が、あんたに対して取る行動は限られると思ってな」
 意味ありげな守光の指の動きでやっと、何を聞かれているのか理解する。数日前の、賢吾との濃厚な交わりが蘇り、和彦の体は熱くなる。そんな和彦を、なぜか守光は満足そうに見つめていた。
「千尋はあの通り、あざといほどに喜怒哀楽をはっきりと表に出すが、賢吾は逆だ。本心は、親のわしに対してであろうが、見せることはない。いや、親だからこそ、だろうな。そういうふうに育てたのは、わしだ。その賢吾が――、あんたへの執着は隠そうともしない」
 まるで和彦と賢吾の交わりを見ていたように、守光は言い切る。そんな守光の言葉を否定することは、和彦にはできなかった。事実、和彦の体には、賢吾の執着が刻み付けられている。それは言葉や愛撫、熱い欲望によるものだが、体を傷つけるよりもしっかりと残るのだ。
「あんたもよくわかっているだろう。長嶺の男は情が強(こわ)い。賢吾や千尋だけじゃない。それはわしも同じだ」
 守光の指がスラックスの前を寛げ、侵入してくる。和彦が短く息を吐き出すと、それすらいとおしむように唇を塞がれていた。めまぐるしく思考が働き、守光が実は何を言おうとしているのか懸命に考えようとしたが、そんなことは必要ないと諌めるように守光の指が蠢く。
 父と子で、やることは同じだ。自分の〈オンナ〉に所有の証を刻みつけるように、淫らな愛撫を与えてくる。それに和彦は抗えない。
「――……あんたはこの先も、逆らえない力に上手く身を委ねていればいい。総和会と長嶺組がついている限り、悪いようにはしない」
 口づけの合間に囁かれ、背筋が冷たくなるような怖さを感じながらも、和彦は小さく頷く。それ以外の返事を守光が求めていないことなど、数えきれないほど長嶺の男と体を重ねてきた〈オンナ〉は、本能で知っていたからだ。
「せっかくだ。最後まで可愛がってやろう。たっぷり蜜をこぼして見せてくれ、先生」
 賢吾に似た声が淫らに囁いてきて、欲望をきつく握り締められた。




 ターミナルから徒歩数分の場所にあるビル内は、夕方という時間帯や場所柄もあってか、非常ににぎわっていた。もう何日かすれば、初々しい社会人や学生たちの姿もどっと増えてくるだろう。
 なんといっても、春だ。いろいろと変化の多い季節がすぐそこまで来ている。
 春物のコートの裾を軽く揺らして、和彦は階段で地下へと下りる。
 やや奥まった場所に、他の飲食店に比べて控えめな看板のかかった店があった。狭い入り口をくぐると、思いがけず奥行きのある空間が和彦を迎えてくれる。友人が先に到着していることを店員に告げると、個室の一つに案内された。
 障子を開けると、中嶋が一人、手持ち無沙汰な様子でテーブルについていた。そんな中嶋を見て、和彦は即座に疑問を感じた。
「……秦は?」
 コートを脱ぎながら問いかけると、中嶋は軽く肩をすくめる。
「急な出張です。しかも、海外」
「それは本当に急だな。夕飯を一緒にどうかとメールを送ってきたのは、今日の午前中だったのに」
 和彦はイスに腰掛け、傍らにコートを置く。すでに料理を注文しておいたのか、すぐに店員たちが、鍋や皿に盛った食材を運んできて、二人が見ている前で手早く調理を始めた。
「今日は、鍋を食べないかと言って秦に誘われたんだ」
「鶏すきですよ。これからどんどん暖かくなってきて、鍋料理を食べる機会も減ってきますから。――仲がいい者同士、鍋をつつき合うのに憧れていたみたいです、秦さんは」
 このとき和彦は、自覚もないまま奇妙な表情をしたらしい。中嶋はヤクザらしくない、軽やかな笑い声を上げた。
 和彦としては、中嶋と秦とどんな顔をして会おうかと、多少なりと緊張してここまで足を運んだのだ。なんといっても、大胆で淫靡な行為に及んだ〈仲がいい者同士〉だ。ただ、居心地が悪い――気恥ずかしい思いをするとわかっていながら、誘いに乗ったのには理由がある。
「……憧れていた本人が、出張でこの場にいないというのも、ついてないな」
「まあ、仕方ありません。重要な人から、重要な仕事を仰せつかったようなので」
 意味ありげな中嶋の物言いで、すぐに和彦はピンときた。だからといって、ここで長嶺組組長の名を出すわけにもいかず、曖昧な返事をする。
「へえ……。自分の店もあるのに、大変だな」
「その店を順調に営めるのも、後ろ盾があってのことだから、と本人は笑ってましたよ。……とはいっても俺は、行き先も仕事の内容も、教えてもらってないんですけどね。なんといっても、所属する組織が違いますから」
「拗ねているのか?」
 中嶋が目を丸くしたところで、飲み物が運ばれてくる。車の運転がある中嶋に合わせて、二人揃ってウーロン茶だ。
 鍋の準備を終えた店員が出て行くのを待ってから、苦笑交じりで中嶋が口を開く。
「先生は、ヤクザ相手に話している感覚がないでしょう」
「そんなことはない。常に、君がヤクザだということは頭にある。ただ君とは、物騒な話をするより、こうして飲み食いしたり、いかがわしいことをしていることのほうが多いからな。だから遠慮がなくなるんだ」
「いかがわしい、ね……」
 食えない笑みを浮かべた中嶋がグラスを掲げたので、和彦も倣う。軽くグラスを触れ合わせて、とりあえず乾杯となる。
 ウーロン茶を一口飲んだ和彦は、ほっと息を吐き出した。
「君がヤクザだろうが、野心のためにぼくと親しくしていようが、一緒にいて気楽なのは確かだ。多分、君の〈女〉の部分を知っているからだろうな。今の世界で、他の男たちは絶対に見せない部分だ。それをぼくに晒してくれた分だけ、君を信頼――はどうかと思うが、近しい存在だとは思っている」
「先生は率直だ。俺は単純に、先生が好きですよ。もちろん、利用価値としての魅力も十分感じていますが」
「……君も十分、率直だ」
 鍋が煮立ってきたところで、生卵を落とした器を手に取る。実は、鶏すきを食べるのは初めてだ。卵を絡めた鶏肉を口に運んだ和彦は、その味に満足しながら、ふとこんなことを考えていた。
 寒いうちに、三田村ともう一度ぐらい鍋を一緒に食べたかったな、と。もっとも三田村のことなので、和彦が望めば、それこそ真夏であろうが熱い鍋につき合ってくれるだろう。
 思いがけず三田村のことを考えて、ここ最近、ゆっくりと会えない状況がもどかしくなってくる。三田村だけでなく、和彦も忙しすぎる。ただ会って食事をするだけなら、時間は作れる。しかし、三田村と顔を合わせて、それだけで済ませるのはあまりに酷だ。気が済むまで抱き合いたいし、口づけも交わしたい。何より、三田村の背の虎を撫でてやりたい――。
 三田村との濃密な情交が脳裏に蘇る。甘美な記憶にそのまま浸ってしまいそうで、和彦は慌てて意識を現実に引き戻す。ふと目を上げると、口元を緩めた中嶋がじっとこちらを見ていた。
「今、艶かしい顔をしていましたよ、先生」
「ぼくの〈オトコ〉のことを考えていた」
 あえて大胆な発言をしてみると、中嶋が一瞬視線をさまよわせる。ムキになって反論するより、よほど効果があったようだ。
 羞恥心を刺激する会話を続けるのは不毛だと、互いに嫌というほどわかっている。何事もなかった顔をして、まずは鶏すきを味わうことにした。


「――そういえば先生、もう聞いていますか? 総和会の護衛の件」
 鶏すきの締めとしてうどんまで堪能したところで、唐突に中嶋が切り出してくる。和彦は首を傾げた。
「なんのことだ……?」
「俺もちらっと小耳に挟んだ程度で、まだ本決まりというわけではないみたいですが――」
 中嶋が口にしたのは、思いがけないことだった。和彦の護衛に、総和会の人間をつけるという話が出ているというのだ。総和会が仲介となる仕事も増えてきたため、長嶺組だけに和彦の護衛という負担を押し付けるのは如何なものか、ということらしい。
 長嶺組組長のオンナという立場があるにせよ、表向きは一介の医者でしない和彦を、総和会が気にかけるには相応の理由がある。和彦には、その理由は一つしか思いつかなかった。
 もちろん、耳聡い組関係者も薄々とながら事情を察しているだろう。和彦の目の前にいる青年も例外ではない。
 澄ました顔でウーロン茶を飲み干した中嶋は、これが本題だと言わんばかりに問いかけてきた。
「先生は先日、うちの会長と旅行に出かけたんですよね?」
「……成り行きで。総和会会長直々に誘われて、断る余地があるはずないだろう。……もっとも、それだけじゃないんだが」
「何かあったんですか」
 和彦は自嘲気味に唇を歪める。なんとなくこのとき、アルコールが欲しいなと思った。実は今晩、秦からの食事の誘いに乗ったのは、心に溜まる重苦しい気持ちを一時でも忘れたかったからだ。
 総和会会長の〈オンナ〉になったという事実は、和彦の肩にズシリとのしかかり、その重圧に気持ちが押し潰されてしまいそうだ。
 逃げられないなら、受け入れるしかない。その覚悟はしたつもりだが、長嶺守光という存在を間近に、そして体の内で感じてしまうと、和彦の覚悟など簡単に揺れる。
 昨日、車内で受けた守光の愛撫が、まだ下肢に絡みついているようだ。我ながら忌々しいほど簡単に、和彦の体は反応した。守光に求められて疼いた欲望と高揚感を否定する気はない。和彦は、求められると弱い。特に、長嶺の男に。
「――……大事に扱われて、怖いんだ。男のくせに、オンナとして囲われているんだ。どれだけ蔑まれて、乱暴に扱われても、ぼく自身は不思議じゃないと思う。だけど現実はそうじゃない。ぼくはそこそこの自由と、十分な報酬と環境を与えられて、大事に守られている。そのことを、いつの間にか当然のように受け入れているんだ」
「医者としての先生の腕も買われているんですよ」
「だとしても、ぼくはまだ経験の浅い美容外科医だ。どんな手術もこなせる腕も知識もない」
「だったら、佐伯和彦という人間に、それだけの価値があるんでしょう。少し前まで堅気だったくせに、妙にこの世界に馴染んで、あっという間に怖い男たちを手懐けた。蔑まれて当然のオンナという立場にいて、そうされないというのは、先生がそれを許さないものを持っているからだ」
 テーブルに頬杖をついた中嶋が艶然と笑む。秦のことを話しているわけでもないのに、このときの中嶋は〈女〉に見えた。秦には悪いが、今晩は中嶋だけが相手でよかったと思う。おそらく秦には理解できない感覚を、和彦と中嶋は共有している。
「先生、この世界、背筋を伸ばして生きていけるってのは、それだけで才能なんですよ。どれだけ後ろ暗いものを持っていても、ね。それが、この世界での強さです。腕っ節は二の次ですよ。だから元ホストの俺でも居場所がある」
「……前職はどうあれ、君は今は野心的なヤクザだ。だけどぼくは、この世界にいてもヤクザじゃない。――オンナでいることが今は重い。嫌というわけじゃなく、戸惑っているというか……」
 いまさら、と言って中嶋は笑うかと思ったが、そんなことはなかった。それどころか、真剣な顔をしてこんな提案をしてきた。
「だったら、先生の気が少し晴れるよう、俺が協力しますよ」
「えっ?」
「俺の部屋で飲みましょう。今夜は泊まっていってください。そのほうが、ゆっくりと遊べる」
 和彦が返事をする前に、すでに中嶋は伝票を手に立ち上がっている。状況がよく呑み込めないまま和彦も立ち上がり、コートを羽織る。
 それぞれ相手の立場を慮り、面倒が起きないよう割り勘で支払いを済ませて店を出ると、車を停めてあるという駐車場に向かう。歩きながら、これから中嶋の部屋に行くことを、賢吾にメールで知らせておいた。
 中嶋が運転する車の助手席に乗った和彦は、ネオンや街灯、車のライトでまばゆく照らされる街並みを横目に、ぼんやりとあることを考えていた。すると、中嶋が話しかけてくる。
「先生もしかして、迷惑だなー、とか思っています?」
 和彦は反射的にシートの上で身じろいでから、慌てて首を横に振る。
「違う、そうじゃないんだっ……。ただ、君の部屋に行くのは、秦が怪我したとき以来だなと思って」
「あのときは、本当に迷惑をおかけしました。それに、お世話になりました。俺自身、どうなることかとビクビクしていたんですが、結果として、何もかもいい方向に転んだ。先生のおかげですよ」
「……ヤクザにそこまで感謝されると、かえって怖いんだが……」
「大丈夫ですよ。怖いことも、痛いこともしません」
 ふいに沈黙が訪れる。和彦は目を見開いて、ハンサムな青年の横顔を凝視していた。今言われた言葉を頭の中で反芻してようやく、中嶋がどういう意図から自分を誘ったのか理解する。
 和彦は小さく声を上げると、口元に手をやった。中嶋は短く笑い声を洩らす。
「そう、深刻な顔をしないでください。少なくとも俺と先生の関係は、重たい事情も理屈も絡んでいない。俺の問題を先生は解決してくれて、あとに残るのは、気楽な友人関係と、享楽的な体の関係だけです」
「そう言われると、なんだかずいぶんな関係だな。君とぼくは」
「だけどこの世界じゃ、俺と先生の関係は、唯一無二のものですよ」
 信号待ちで車を停めると、素早くシートベルトを外した中嶋が身を乗り出してくる。やや強引に唇を塞がれたが、次の瞬間には和彦は、中嶋と激しく唇を吸い合っていた。


 中嶋との関係は本当に不思議だと、裸の体を擦りつけ合いながら、つい和彦は思っていた。他の男たちのように執着や愛情で繋がっているわけでもないのに、それでも体と心は欲情するのだ。それでいて、普段の関係はあくまで穏やかだ。
 中嶋には秦という存在がいる以上、自分とのことはやはり浮気になるのだろうかと、ちらりと頭の片隅で考えて、なんだか和彦はおかしくなった。
 複数の男と同時に関係を持つ自分が、他人の関係をとやかく言う権利はないと思ったのだ。何より、中嶋自身が気にしていないだろう。
 せっかくビールを買い込んできたというのに、それを味わう間もなく、衝動に突き動かされて二人でベッドに倒れ込んでいた。あとは夢中だ。貪るような口づけを交わし、互いの肌に唇と舌を這わせて、欲望を高めていく。
 和彦の両足の間に腰を割り込ませて、中嶋が熱くなったものを押しつけてくる。もちろん、和彦のものも高ぶっている。欲望同士がもどかしく擦れ合い、二人の口から同時に吐息が洩れていた。顔を見合わせ、照れた笑みを交わし合う。
「……まだ、先生相手だと、勝手がよくわかりません」
 素直な中嶋の言葉に、和彦は苦笑する。
「それを言うなら、ぼくもだ。いつもこうして相手を見上げて、触れられているのを待っているんだが、君が相手だと――ことが進まないんだろうな」
「俺は、進めてもかまいませんよ。今すぐにでも、先生の中に入りたい」
 これ見よがしに指を唾液で濡らした中嶋が、和彦の片足を抱え上げ、内奥の入り口をまさぐってくる。
「この間、俺は先生のこの中を犯したんですよね」
「そして君は、秦に犯された」
「強烈すぎて、いまだに夢に見ますよ。――また、やりたいですね」
 中嶋が〈女〉の顔で笑い、それを見た和彦の胸が疼いた。
 濡れた指がゆっくりと内奥に挿入されてくる。和彦は息を吐き出しながら顔を背け、露わにした首筋を中嶋に舐め上げられる。促されるように再び中嶋を見上げると、唇を啄ばみ合い、差し出した舌を絡めていた。
 内奥から指が出し入れされたかと思うと、狭い場所をさらに解すように大胆に掻き回される。和彦は控えめに声を上げて腰を揺らす。
「……中、ヒクヒクしてますよ。それに、いい締まりだ。奥、掻き回されるの好きなんですか?」
 言葉で和彦を煽りながら、中嶋が胸元に顔を伏せる。触れられないまま硬く凝った胸の突起に舌先を這わされ、和彦は上擦った声を上げていた。
「先生の体に触れるの、楽しいですよ。なんだかゾクゾクしてくる」
「ズルく、ないか……。君ばかり楽しむのは」
 数秒の間を置いて、和彦が言おうとしていることを理解したのか、内奥から指を引き抜いた中嶋が今度はベッドに仰向けになる。和彦は、すぐに中嶋の上に覆い被さった。
 中嶋の体にてのひらを這わせ、しなやかな筋肉の感触を堪能する。この体を秦が愛しているのかと考えると、倒錯した高揚感が湧き起こる。おそらく、秦と中嶋が絡み合う姿を目の前にしても、同じ高揚感を味わえるだろう。
 身を起こしかけた中嶋の欲望をてのひらに握り込み、丹念に上下に扱いてやる。すぐに中嶋は声を洩らし、その声に誘われるように和彦は、汗ばみ始めた肌に唇と舌を這わせた。
 和彦と中嶋は、まず互いの体に触れ合うことを、次に、快感を引き出すことを楽しみ始める。高ぶった欲望をすぐに爆発させてしまうのはもったいない気がした。やりたいように相手に触れ合い、感じ合い、そうしているうちに、意識が切り替わっていくようだ。〈オンナ〉という意識が。
「ヤクザに目をつけられる前まで、ぼくにとってのセックスは、純粋に楽しむものだった。相手が何者かなんて関係なかったし、束縛もし合わない。気ままに、気楽な関係を持って――長続きはさせない。だけどそれが、性に合っていた」
「今は、まったく逆でしょう。先生に触れられる相手は限られていて、セックス一つにいろんな事情が絡み合う。だからこそ先生は執着されて、大事にされて、束縛される。この世界で生きる限り、そんな状況はずっと続く」
「君とのセックスに惹かれる理由は、そこにあるのかもな。君相手なら、ぼくは自由に振る舞える」
 中嶋のものが、先端から透明なしずくを滴らせ始める。反り返った形を指先でなぞった和彦は、さきほどのお返しとばかりに、中嶋の内奥に指を挿入していく。声を堪えるように唇を引き結んだ中嶋だが、和彦が指を動かすと簡単に声を洩らすようになる。
「秦に、慣らされているようだな」
 奥まで突き入れた指をきつく締め付けられ、和彦は口元に笑みを刻む。発情した襞と粘膜が絡みつき、吸い付いてくるようで、その感触だけで和彦の体は熱くなってくる。
 中嶋の片手が伸びてきて、和彦の欲望に触れられる。腰を密着させ、熱く濡れそぼった欲望を再び擦りつけ合っていたが、先に限界を迎えたのは中嶋だった。
 和彦の体はベッドに押さえつけられ、しなやかな獣のように中嶋がのしかかってくると、両足をしっかりと折り曲げるようにして抱え上げられた。
「ううっ……」
 内奥を、中嶋のものによってこじ開けられる。この瞬間、和彦が感じたのは痛みでも苦しさでもなく、身を捩りたくなるような肉の愉悦だった。襞と粘膜を強く擦り上げられ、喉を反らして呻き声を洩らす。緩やかに内奥深くを突かれてようやく、下腹部に重苦しさが広がったが、それすら、すぐに快感と区別がつかなくなる。
 自分にとって男を受け入れることとは、苦痛も快感も大差ないのかもしれない。頭の片隅で、ふっとそんなことを考えた和彦は、間近から顔を覗き込んできた中嶋と貪るような口づけを交わす。
「――やっぱり、先生の中は気持ちいい。物欲しげなきつい締め付けも、甘やかすような襞の動きも素敵だけど、この感触を、先生を大事にしている怖い男たちが堪能しているのかと思ったら、ゾクゾクしますよ」
 深く押し入ってきた中嶋のものが力強く脈打ち、感じている興奮を物語っている。その興奮に感化されたように和彦も乱れ、突き上げられるたびに首を左右に振る。〈女〉を感じさせている男に犯される状況に、自分がひどくか弱い生き物になったようで、倒錯した悦びが押し寄せてくるのだ。
「あっ、あっ、あぁっ――……」
 間欠的に声を上げながら和彦は、中嶋の乱れた髪を掻き上げてやる。顔を上気させ、息を弾ませた中嶋は、荒々しさと鋭さ、凄絶な色気も加わって、普段以上に魅力的に見えた。
 そんな中嶋が、ニヤリと笑って和彦のものを強く握り締めてくる。
「俺はもうすぐイきますけど、先生はイッちゃダメですよ。次は、先生の番なんですから」
 内奥を抉るようにゆっくり深く突き上げられ、そのたびに和彦はビクッ、ビクッと体を震わせる。本当なら、精を噴き上げて絶頂に達しているところだろうが、中嶋にしっかりと欲望の根元を押さえられているため、それが叶わない。
「うっ、ううっ……ん、あんっ」
 抜き差しされる中嶋のものを、絞り上げるように懸命に締め付ける。
「すごいな、先生……。よすぎて、腰が溶けそうですよ」
 恥知らずな嬌声を上げてしまいそうで、和彦は口元に指を当てて声を堪える。和彦のその姿に感じるものがあったのか、ふいに中嶋が顔を寄せてきて、唇に軽いキスを落とされた。深く唇が重なってきて、口腔に中嶋の唾液が流し込まれる。同時に、内奥深くを大きく突き上げられ、熱い精を注ぎ込まれた。
「ふっ……、ん、くぅっ、んうっ――」
 下肢が震える。内奥は快感を貪っているが、中嶋の手に縛められた和彦の欲望は、一刻も早く絶頂を迎えたがっている。中嶋は大きく肩を喘がせてから、汗を滴らせたしなやかな体を離し、ベッドに転がった。
 言葉はなくても、次に何をすべきかはわかっている。和彦は中嶋に覆い被さると、高ぶったままの自分の欲望を、綻んだ内奥の入り口に押し当てた。
「……いまさら言うまでもないが、ぼくは、受け止める立場にしかなったことがないんだ」
「俺もこの間まで、男を受け止めたことなんてありませんでしたよ」
 思わず笑みを交わし合ってから、和彦はゆっくりと腰を進め、中嶋の内奥に欲望を沈めていく。
 初めて味わう感触だった。和彦を受け止めてくれる部分はひどく狭いが、だからといって頑なというわけではなく、うねるように蠢き、熱く滑っている。和彦自身が指で解したおかげだ。
 深々と中嶋と繋がり、大きく息を吐き出す。蠢く襞や、吸い付いてくるような粘膜の感触をじっくりと堪能できるだけの余裕はあった。いままで体験したことのない感覚は新鮮で、中嶋の上で和彦は背をしならせる。そんな和彦を見上げて、中嶋は目を細めた。
「色っぽいですね、先生。俺の中に先生がいるのに、たまらなく先生を抱きたくなる」
「なんだか……恥ずかしいな」
 中嶋に頭を引き寄せられ、じゃれ合うような軽いキスを交わす。そのうちキスは熱を帯び、深い口づけとなり、差し出した舌を濃厚に絡め合う。和彦は狂おしい衝動に背を押されるように、慎重に腰を動かし始めていた。
「あっ、あっ……」
 中嶋の唇から声が洩れる。収縮を繰り返す内奥に欲望をきつく締め付けられ、和彦も呻き声を洩らす。
 いままで男たちは、自分をどんなふうに愛して、快感を与えてくれたか、頭ではわかっているのに体が思うように動かない。こんな形で同性の体に触れることに、少し戸惑っているのだ。
 和彦の気持ちを見抜いたように、中嶋が息を喘がせて言った。
「先生は、俺に〈オンナ〉の悦びを教えてくれて、秦さんと関係を持つ後押しをしてくれた。だったら俺が今度は、先生の望みを叶えますよ。――先生は、今何を望んでいます?」
 和彦は、下肢に絡みつくようだった守光の愛撫を思い出し、肉の疼きを覚える。
「……少しだけ、オンナの立場を忘れたい……」
「堅苦しいですよ。もっと楽な気持ちで、俺とセックスしましょう」
 思わず顔を綻ばせた和彦だが、次の瞬間には表情を引き締める。中嶋の片足を抱えると、ゆっくりと律動を刻み始めた。
 内奥を擦り上げるたびに、身震いしたくなるような感覚が和彦の背筋を這い上がる。中嶋も、身を捩り、仰け反りながら反応してくれる。演技でないのは、和彦の中で一度は精を放った欲望が再び反り返り、先端から透明なしずくを垂らしていることからもわかる。
 和彦は、中嶋のものをてのひらに包み込むようにして上下に扱く。
「あうっ」
 中嶋が声を上げると同時に、内奥を激しく収縮させる。たまらず和彦も声を洩らしていた。
「ぼくも……、今みたいな反応をしているのかな。絞り上げるように締まったんだ」
「気持ちよかったですよ、先生の中」
 あっさり中嶋に返され、急に和彦は羞恥に襲われる。行為を中断したい心境にもなったが、まるで和彦の欲望を駆り立てるように中嶋の内奥が蠢き、欲望を締め付けてくる。その感触に促されるように、再びゆっくりと腰を動かす。
 熱い肉を押し広げるように突き上げる合間に、反り返った中嶋のものを愛撫し、先端から透明なしずくがこぼれ落ちる様子を愛でる。気まぐれに、胸元に顔を伏せて突起を舌先でくすぐってやると、中嶋が掠れた声を上げる。
「――……は、あぁ……。あっ、あっ……」
 その声に誘われるように中嶋の唇を啄ばみ、誘い込まれるままに口腔に舌を侵入させる。舌を吸われながら和彦は、律動を繰り返す。もう、中嶋のものを愛撫する余裕はなかった。今度はしっかりと両足を抱え上げ、しっかりと己の欲望を内奥深くに埋め込み、抉る。
「うあっ」
 中嶋が喉元を反らし、一方の和彦は、押し寄せてくる快感に身震いして、背を反らす。
 頭の片隅で、自分と体を重ねてきた男たちはこんなとき、どんなことをして自分を悦ばせてくれただろうかと考えてはみるのだが、初めて味わう感覚に思考力すら奪われてしまう。
 中嶋を犯していながら、まるで自分が犯されているようだ――。
 そんなことを思った次の瞬間、和彦は呆気なく絶頂を迎え、低く呻き声を洩らして中嶋の内奥深くに精を放つ。
 一気に体の力が抜け、中嶋の胸に倒れ込んでいた。
「俺の中は、よかったですか?」
 中嶋からの露骨な問いかけに、息を乱しながらも和彦は顔を上げ、苦笑する。
「いつも秦にも、そんなふうに聞いているのか?」
「あの人が相手だと、俺はこんなふうに口を開く体力は残っていませんよ」
「……それは、悪かった。ぼくが相手だと物足りなかっただろ……」
「身震いするほど、興奮しました。倒錯した感覚っていうか、先生に抱かれているようで、ずっと抱いているような感じで」
 汗で額に張り付いた髪を、中嶋が指先で掬い取ってくれる。なんとなく察するものがあり、和彦は誘われるように中嶋と唇を触れ合わせる。次第に口づけは熱を帯び、いまだ消えることのない互いの欲情を煽る。
 汗に濡れた互いの熱い体を擦りつけるように、狂おしく抱き合う。和彦が内奥から欲望を引き抜くと、すかさず体の位置が入れ替わり、中嶋が上となる。
「あっ……」
 さきほど犯されたばかりの内奥に、熱く硬いものを浅く含まされる。この瞬間、和彦の全身には電流にも似た感覚が駆け抜けた。逞しいもので貫かれたいと、本能的に思ったのだ。和彦にとっては馴染みのある、オンナとしての欲望だ。
「――……性質が悪いな、先生は。怖い男たちが骨抜きになるわけだ」
 中嶋はどこか楽しげな様子でそう呟くと、やや強引に和彦の体をうつ伏せにする。腰を抱え上げられた拍子に注ぎ込まれていた中嶋の精が溢れ出し、その感触に和彦は動揺する。羞恥のため腰を捩って逃れようとしたが、そのときには中嶋が背後からのしかかってきて、一息に欲望を挿入された。
「うああっ」
 何度も擦られて脆くなっている襞と粘膜が、歓喜するように中嶋のものにまとわりつく。
 自分はこうされることが好きなのだと、和彦は体で痛感していた。男に求められ、熱い欲望を内奥にねじ込まれるのが好きなのだ。〈オンナ〉という呼称も立場も関係ない。和彦は、そういう人間なのだ。
 何を勘違いしていたのだろうかと、背後から突き上げられながら和彦はつい笑みをこぼす。
 自分を高尚だとも、高潔だとも思ったことは一度もないが、裏の世界の男たちに大事にされ、求められ続けているうちに、〈オンナ〉という存在が和彦の中で主張を持ち始めたのかもしれない。和彦の一部でありながら。
 意識しないまま、中嶋の律動に合わせて腰を揺らし、求めてしまう。内奥で精を放つ悦びを知ったからこそ、こうして内奥を愛されて得る悦びが、深みを増したようだ。
 和彦の内奥深くを丹念に突きながら、中嶋が息を弾ませて言う。
「俺ばかり、楽しんでますか?」
 和彦は枕を握り締めて、小さく首を横に振った。
「……そんなこと、ない……。ぼくも、楽しんでいる。君と、こうしていること――」
 中嶋と体を重ねることで、何かが解決するということはない。ただ、とても気持ちは楽になっていた。油断ならないこの世界で、誰かに身を委ねることはできても、気持ちを委ねることは容易ではない。みんな、和彦とは違う種類の男たちだ。
 しかし中嶋は、その違う人種の男ながら、少しだけ和彦に近いものを持っている。そんな男とこうして体を重ねるのは、どんなに親身な言葉をかけられるより気が休まる。
 自分は受け入れることで、裏の世界を生きている――。
 和彦は強くそう実感すると、快感に身を委ねるために目を閉じた。









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