袖を通した長襦袢の前を合わせると、すかさず背後から回された手が衿端を持ち、たるみを調整してくれる。
「さすがに、千尋が高校生のときにあつらえたものだから、先生には少し寸足らずか。が、思っていたより不恰好じゃない」
ぴったりと背後に立っている賢吾の言葉に、耳元をくすぐられる。和彦は反射的に首をすくめ、その拍子に、姿見に映る自分と目が合った。
先月足を運んだ呉服屋でも体験したが、着物を身につける自分の姿を鏡で見るというのは、なんとも照れくさくて、気恥ずかしい。
そんな和彦を、賢吾が妙にまじめな顔で見つめていた。こちらはすでに端然とした着物姿で、さきほどから熱心に着付けを指導してくれている。だから和彦も、逃げ出したい気持ちを堪えられた。
クリニックからの帰りに呼びつけられて本宅に寄り、一緒に夕食をとったあと、和室に連れ込まれた。そのときにはすでに、着付けの練習用の着物が一揃い用意されており、ようやく和彦は、自分が本宅に呼ばれた理由を理解したのだ。
「今日は長襦袢の下はTシャツだが、外出するときは、きちんと肌襦袢を身につけるんだ。それに、裾よけも。いかにも品のいい先生が、きちんと着物を着こなしていたら、今以上に色男っぷりが上がるぞ」
そんなことを言いながら、賢吾は腰紐を差し出してくる。受け取った和彦は、いつも賢吾がしているように結んでみる。
「上手いもんだ、先生」
「……紐を結ぶぐらい、初心者のぼくでもできる」
「俺は、褒めて伸ばす男なんだ」
和彦が顔をしかめるのとは対照的に、賢吾はニヤニヤと笑いながら、今度は長着を肩にかけてきた。袖に手を通すと、賢吾が肩をてのひらで撫でたあと、袖先を軽く引っ張り、たるみが出ないよう整えてくれる。
長襦袢の衿に重ねるように、長着の衿を合わせる。すかさず賢吾が身幅の余りを丁寧に始末して、不恰好にならないよう上前で隠す方法を説明してくれた。
「なんだか、複雑だ。あんたはいつも簡単に着付けているから、そういうものなのかと思っていた」
思わず和彦がぼやくと、前触れもなく賢吾の手が、上前の下に入り込んでくる。驚いて体を固くした和彦だが、どうやら賢吾にやましい意図はないらしく、あまり窮屈にならないよう少し緩めてくれた。
「あまりきっちり着込むと、動いたときに早く着崩れする。着物に慣れてない先生は特に、そうなるだろうな。だから、自分に合った楽な着方を覚えることだ。思っていたほど着物は堅苦しいものじゃないとわかったら、普段でも着る気になるだろ」
「あまり……、自信がないな」
「俺にしてみりゃ、人間の体を縫ったり、骨を削ったりするほうが、よほど難しいと思うが」
もう一本の腰紐を取り上げて、今度は賢吾が結んでくれる。腰を締め付けられる感触に、和彦はそっと息を吐き出す。そんな和彦の腰を撫でて、きついかと賢吾が問いかけてきたので、慌てて首を横に振る。
和彦は促されるまま帯を手に取り腰に当てる。指示に従い、おぼつかない手つきで帯を腰に巻き付け、途中から賢吾の手に帯を取られて締めてもらう。
「先生は器用だから、あっという間に数分とかからずに締められるようになるはずだ」
「……努力はしてみる」
体の後ろで帯を締め上げられ、反射的に背筋を伸ばす。和彦によく見せるためか、体の向きを変えられ、賢吾と向き合う。なんとなく気恥ずかしくて肩越しに振り返ると、ちょうど姿見には、自分の後ろ姿と、賢吾が帯を締めていく様子が映っていた。
他人の帯を締めているというのに、賢吾の手は迷うことなく動き続け、きれいな結び目を作り上げてしまった。和彦は素直に感嘆する。
「先生、苦しくないか?」
「平気だ」
「だったら今度は、自分で締めてみろ」
せっかくの結び目があっという間に解かれ、帯が緩む。和彦は仕方なく挑戦してみる。
賢吾の手の動きを思い出しつつ、ぎこちない手つきで帯を締め始める。そんな和彦を賢吾は楽しげに眺めながら、今度は手は出さずに、端的な指示だけを出してくる。
残念ながら、きれいな結び目を作ることはできず、背の中心からややズレたうえに、妙に歪んで見えた。姿見を振り返って結び目に触れた和彦は、出来の悪さにため息を洩らす。すると賢吾が低く笑い声を洩らす。
「初めて締めたにしては、なかなかのもんだぞ。あとは、どうすればバランスがよくなるか、指先が覚えるほど、練習するだけだ」
「……確かにあんたは、褒めて伸ばすタイプだな」
冗談交じりに言って和彦が正面を向いた瞬間、狙っていたようなタイミングで賢吾に唇を塞がれた。
「なっ……」
思わず後ずさりかけたが、背に賢吾の手がかかって阻まれる。
「着物姿の先生が色っぽくて、そそられた」
そんなことを言って、賢吾が強引に唇を吸ってくる。軽く抵抗した和彦だが、すぐに諦めて賢吾の肩に手を置く。慣れない着物を身につけているせいか、新鮮な感覚だった。帯で体を拘束されているようでありながら、腰から下は無防備だ。その無防備な感覚を煽るように、賢吾が膝で両足の間を割り開こうとしてくる。
「先生を着物姿で外に出すときは、貞操帯をつけるか。どんな男が股に手を突っ込んで、こうして、ここを弄ってくるかわかったもんじゃねーからな」
まんざら冗談とも思えないことを呟いた賢吾の手が、着物の裾を割り、奥に入り込んでこようとする。和彦は手を押しのけながら抗議の声を上げる。
「何してるんだ、あんたはっ……」
「股割りだ。これをしておかないと、歩きにくいぞ」
「だったら自分でやるっ」
「遠慮するな」
両足の間を賢吾の手にまさぐられ、和彦は腰を震わせる。下着の上から思わせぶりに敏感なものを撫でられて、咄嗟に賢吾の肩にすがりついていた。
「ほら、もっと足を開け、先生」
下着をわずかに引きおろして、賢吾が揶揄するように囁いてくる。間近から賢吾を睨みつけた和彦だが、まるで蛇が絡みつくように蠢く指の動きには逆らえず、おずおずと足を開いた。
「あっ」
賢吾の手にしっかりと、欲望を握り締められる。この瞬間、本能的に怖いと感じた。賢吾が、今のこの状況で自分を痛めつけてくるはずがないとわかってはいるのだ。これは、和彦自身が抱える罪悪感の裏返しだ。賢吾が何事もないように振る舞えば振る舞うほど、和彦は罪悪感に追い詰められる。
握られたものを手荒く扱かれて足元が乱れる。単なる戯れではなく、賢吾は本気で自分を貪ろうとしていると知り、和彦は羞恥を押し殺して訴えた。
「――……今日は、無理だ。体がつらいんだ」
「なんだ。別の男と楽しんだばかりなのか?」
大蛇の潜む目が、じっとこちらを見据えてくる。和彦が口ごもると、賢吾がスッと視線を動かし、部屋の柱を見た。このとき和彦の脳裏に、ある光景が蘇る。
前に一度この部屋で、千尋の母親の長襦袢を羽織らされ、柱に掴まった姿勢で内奥を犯されたことがあった。返答次第で賢吾が再び同じ行為を求めてくると察し、仕方なく和彦は答えた。
「千尋だ……。昨夜、酔っ払って部屋に来て、そのまま――」
賢吾が愛撫の手を緩め、こんな言葉を洩らした。
「……息子相手なら、文句も言えねーな」
この場合、どんな顔をすればいいのだろうかと、和彦は一瞬本気で悩みかけたが、すぐにそれどころではなくなる。賢吾が熱っぽく唇を求めてきたからだ。
「んっ……」
たっぷり唇を吸われて、当然の権利のように口腔に舌がねじ込まれる。和彦は従順に受け入れ、せめて、とばかりに賢吾の舌を吸う。褒美のように賢吾の唾液が流し込まれ、口腔の粘膜を舐め回されていた。いつの間にか賢吾の愛撫が再開され、和彦の欲望は上下に扱かれる。
濃厚な口づけと、欲望に対する愛撫に官能を刺激された和彦は、求められたわけでもないのに賢吾の両足の中心を片手でまさぐっていた。
着物の裾の合間から指を忍び込ませ、賢吾の欲望の形を確かめる。安堵するのも妙かもしれないが、賢吾は興奮していた。自分がされているように、下着を下ろして賢吾のものを引き出し、指を絡める。
「なんだ、サービスしてくれるのか?」
笑いを含んだ声で賢吾が言い、和彦は顔を熱くしながらも平静を装う。
「……嫌なら、いい……」
手を引こうとしたが、賢吾に手首を掴まれて止められる。そして、ゾクゾクするような魅力的なバリトンで囁かれた。
「俺の息子と楽しんでおいて、父親の俺は放っておくのか、先生? ひどいオンナだな」
あまりな言われように抗議しようとしたが、顔を上げた瞬間に賢吾に再び唇を塞がれる。すぐに和彦も口づけに夢中になりながら、賢吾のものを柔らかく握り込んだ。
舌を絡め合いながら互いの欲望を愛撫する。和彦の呼吸はすぐに乱れ、必死に片手で賢吾の肩に掴まる。そうしないと、足元から崩れ込んでしまいそうだ。一方の賢吾は、腹が立つほど平然としている。ただし、てのひらで感じるものは力強く脈打ち始めていた。
「着物、汚れる……」
口づけの合間に和彦が訴えると、賢吾が意地悪く笑う。
「どっちの着物のことを言ってる? 確かに先生のほうは、もうダラダラと涎を垂らして――」
「嫌な男だな、あんたはっ」
羞恥を誤魔化すように声を荒らげてみたが、賢吾には通じない。熱くなって震える和彦のものの形を指先でなぞり、濡れた先端を爪の先で弄ってくる。たまらず、両腕で賢吾にしがみついていた。
「もう終わりか? 千尋の独占欲は受け止めたくせに、俺の独占欲はほったらかしか?」
賢吾の言葉に含まれているのは、甘い毒だ。『独占欲』という単語にピクリと肩を揺らして、和彦は顔を上げる。楽しげに口元に笑みを刻んでいる賢吾だが、目はまったく笑っていない。それどころか、和彦の何もかもを暴こうとするかのように鋭い。
昨夜の千尋同様、ある人物の存在を気にかけているのだろうか。それとも――。
守光の顔に続いて、里見の顔が脳裏に浮かび、和彦はヒヤリとするような感覚を味わう。今この瞬間、思考のすべてを賢吾に覗かれていたらと、ありえないことを考えていた。
「……長嶺の男の独占欲は、物騒だ。前までのぼくなら、そういうのが疎ましくて、すぐに逃げ出していただろうな」
「先生は正直だ。自分を囲っている男の前で、そういうことを言うなんて」
「ぼくが何を言ったところで、逃がす気なんてないだろうし、逃がさない自信もあるんだろ」
「さあ、どうだろうな」
さらりと応じた賢吾の口調から、それが本音なのかどうか判断することはできない。ただ、賢吾が自分に向ける強い執着を、和彦はしっかりと感じ取っていた。必要とあれば、この男はきっとなんでもするはずだ。
感じた恐怖に小さく身震いした和彦だが、同時に、抗いがたい欲望の疼きも自覚していた。
和彦は、手の中で逞しく脈打つ賢吾のものを撫でてから、眩暈がするような感情の渦に襲われる。欠片ほどは残っていた理性を手放し、おずおずとその場に跪いた。
「――……昨夜は、千尋をたっぷり甘やかしたようだな、先生。俺に、同じことをしてくれるのか?」
和彦は、頭上からそんな言葉を投げかけてきた賢吾を睨みつけはしたものの、賢吾が着物の合間から露わにしたものは拒まなかった。
自らの手で成長させた賢吾の欲望に顔を寄せ、舌を這わせる。昨夜千尋にしたように尽くしてやる。なんといっても和彦は、この男の〈オンナ〉だ。
片手で賢吾のものを扱きながら、先端に唇を押し当てる。柔らかく吸い上げ、舌先でくすぐり、括れまで口腔に含んでから、唇で締め付ける。
「焦らすのが上手いな。できることなら、このまま畳の上に這わせて、後ろから尻を犯したくなる」
露骨な賢吾の言葉に、和彦の体は熱くなってくる。羞恥ではなく、感じているのだ。
後頭部に手がかかり、軽く力が加えられる。賢吾の求めがわかり、舌を添えながら欲望を口腔深くまで呑み込む。千尋ほど素直に快感を表現しない賢吾だが、口腔では確かに、逞しいものがドクドクと脈打っていた。
狂おしい欲情に突き動かされて、情熱的な愛撫を施す。すぐに、自分自身の反応したものも気になり、着物の下に片手を忍び込ませた和彦は、賢吾の視線を気にかけつつも、自らの欲望も慰め始める。
「大胆なのか、慎ましやかなのか、わからねーな、今のその姿は」
そう言って賢吾に優しい手つきで髪を撫でられたあと、口腔深くまで硬く張り詰めたものを突き込まれる。和彦は低く呻きはしたものの、ギリギリのところで吐き気を堪える。
和彦の献身ぶりに満足したのか、賢吾はそれ以上手荒なことをせず、大きく息を吐き出してから、思いがけない話題を振ってきた。
「――オヤジが、総和会の花見会に先生を招待すると言い出した」
驚いた和彦は一度動きを止めたが、すぐに賢吾のものを締め付けるように吸引する。
「俺としては、先生をあんな目立つ場に連れて行く気はなかったし、もし、先生同行でと言われた場合は、長嶺組の身内として連れていくのが筋だと考えていた。……まったく、面倒なことを言い出したものだ、総和会会長は」
いろいろと言いたいことはあったが、賢吾のものを口腔に含んでいる状態ではそれも叶わない。それに賢吾のほうも、和彦の返事は求めていない様子だ。
「毎年顔を出している行事だが、総和会の威光を一方的に見せつけられているようで、どうも俺は苦手だ。日陰者のヤクザが大勢つるんで、明るい陽の下で花見なんざ、大胆すぎて空恐ろしくなる」
獰猛ながら、警戒心が強くて慎重でもある大蛇は、物陰に身を潜めているのが似合っている。賢吾は言外に、自らのことをそう言っているようだ。
話しながらも賢吾のものはますます熱く、大きくなっていく。限界が近いことを察した和彦は、欲望の根元を指で擦りながら、ゆっくりと頭を動かす。
「……俺は、自分のオンナを見せびらかすつもりはなかったが、オヤジは違ったようだ。この色男が自分のオンナだと、周知させるつもりだろうな。なんといっても、長嶺の男三人で共有している、特別なオンナだ」
賢吾の息遣いがわずかに弾む。後頭部を押さえつけられた和彦は、思わず目を閉じ、口腔で欲望が爆ぜる瞬間を迎えた。迸った熱い精を受け止め、すぐに喉に流し込む。
口腔で震える賢吾の欲望はまだ硬く、和彦は丹念に舐めてきれいにしてやる。そんな和彦のあごの下をくすぐりながら、賢吾が問いかけてきた。
「先生、長嶺の男たちの面子のために、花見会に出てくれるか?」
問われるまでもなく、和彦に許された返事は一つしかないのだ。
長嶺の本宅から戻った和彦は、ゆっくりと風呂に浸かったあとも、体に残る気だるさを持て余していた。今晩は賢吾と体を重ねなかったが、自ら進んで淫らな行為に及んだのだ。身の内で荒れ狂った欲情は、セックスのそれと変わらない。
この気だるさは、激しい欲情に身を任せた代償だと、コーヒーを一口啜った和彦はため息をつく。
書斎に入り、簡単な書類仕事を片付けたものの、なんとなく手持ち無沙汰で落ち着かない。ソファで寛ぎながらテレビを観てもいいし、寝室のベッドに転がって本を読んでもいいのだが、そういう気分でもなかった。
厄介事が片付かないまま、どんどん積み重なっていくようで、少しでも思考を働かせていないと不安なのかもしれない。
里見のこと、守光との関係、そして、状況が理解できないまま出席することになった総和会の花見会と、どれも和彦にとっては重要な事案ばかりだ。
今晩、賢吾が言っていたことが引っかかっていた。
総和会に属する十一の組だけでなく、総和会に関わる外部の組織の人間たちも集まるという場で、特殊な立場にいる和彦が物見遊山のためだけにのこのこと出かけられるはずもなく、また、それが許されるとも思えない。
場に華を添えるために必要なのは、あくまで〈女〉だ。だったら、〈オンナ〉が必要とされる理由は、と考えてしまう。邪推で済めばいいが、和彦を花見会に呼びたがっているのは守光だ。裏がないとは言い切れない。
もっとも、どんな企みがあるにせよ、和彦に逆らう術はない。ただ力に身を委ねるだけだ。
和彦はコーヒーを飲み干すと、カップを手に立ち上がる。書斎を出ようとしたところで、デスクの上に置いた携帯電話が鳴った。慌ててデスクに戻って携帯電話を取り上げたが、次の瞬間、和彦は意識しないまま顔をしかめていた。電話の相手は、鷹津だった。
「――……こんな時間になんだ」
不機嫌さを隠しもせずに電話に出ると、鷹津が癇に障る笑い声を洩らす。
『こちらの予想通りの応対だな』
「ぼくをからかうためにかけてきたんなら、切るぞ」
『今、マンションにいるのか?』
「……ああ」
警戒しながら答えた和彦は、携帯電話を耳に当てたままキッチンに向かい、カップをシンクに置く。
『長嶺はいるのか?』
「いや――」
『聞きたいことがあるから、出てこい。マンションの前で待っている』
あまりに簡単に言われ、和彦は咄嗟に声が出なかった。すると、苛立ったような鷹津の声が耳に届く。
『おい、佐伯、聞いてるのか』
「聞いて、る……。あんたもう、マンションに来ているのか?」
『ああ。だから早く出てこい。どこかに遠出するわけじゃないから、格好はパジャマでもいいぞ。どうせすぐに済む用だ』
すぐに済む用ではあるが、電話では済まない用なのかと、細かな点が気になりながら電話を切る。鷹津の言葉を真に受けてパジャマで外出するわけにもいかず、和彦はパンツと長袖のTシャツに着替え、その上からジャケットを羽織ると、部屋の鍵と携帯電話だけを掴んで慌しく出かける。
エントランスに降りると、外に面したガラスの向こうに鷹津が立っていた。いかにも仕事終わりといった様子のくたびれたスーツ姿で、和彦を見るなり、唇を歪めるようにして笑いかけてくる。和彦は唇を引き結び、きつい眼差しを向ける。
鷹津に伴われて、マンション前に停まった車に乗り込む。
「――……聞きたいことってなんだ」
鷹津が運転席のドアを閉めると同時に、和彦は口を開く。しかし鷹津は、素っ気なく一瞥をくれてこう言った。
「シートベルトを締めろ」
「話だけなら、別にここで――」
「こんなところに車を停めていると、誰が近寄ってくるかわからんぞ。なんといっても、お前を気にかけている男は多いからな。俺と逢引している様を見せびらかしたいなら、それでもかまわんが」
和彦は横目で鷹津を睨みつけて、渋々車を出すことを認める。
「どこに行くんだ」
車が走り出すと、とりあえず和彦は尋ねる。すぐに済む用なら、あえて組に連絡を入れる必要はないが、行き先によってはそういうわけにもいかない。
「どこにも行かない。話をする間、この辺りをぐるぐる回るだけだ。ちょっとしたドライブだとでも思えばいい」
「……ドライブはもっと楽しいものじゃないのか」
「見解の相違だな」
気取った言い方をするほどのことでもないだろうと、心の中で呟いた和彦は、眉をひそめてウィンドーのほうを向く。すると、唐突に鷹津が話し始めた。
「――県警には、毎年この時期に恒例行事になっていることがある。ある集会を監視するために特別対策室が設けられて、俺のいる課だけじゃなく、県警の管区機動隊に大号令がかかるんだ。暴力団撲滅を謳ってな」
鷹津が何を言おうとしているか察し、数秒の間を置いて和彦は応じる。
「総和会が催す、花見会のことか?」
「やっぱり知ってやがったな」
「教えてもらったのは最近だ。……それで、聞きたいことというのは……」
「万が一にも、お前が出席するのか気になってな。さすがに長嶺が、自分の弱みにもなりかねないオンナを伴って、大物ヤクザが勢揃いする場に出かけるほどマヌケとも思えんが――どうなんだ?」
鷹津はこれでも警察の人間だ。本来であれば、長嶺組や総和会にとって敵ともいえる人間だ。現在も、決して賢吾たちに対して友好的というわけではなく、妙な成り行きから、あくまで和彦の〈番犬〉としてつき合っているのだ。
こちら側の情報を、賢吾に相談もなく与えていいものだろうか。和彦がそう逡巡していると、こちらを一瞥した鷹津は鼻先で笑った。
「その様子だと、出席するみたいだな。あの長嶺が、色ボケして迂闊な判断をしたと取るべきか、何か企みがあるのか……」
「――組長が決めたんじゃない」
頭で考えるより先に、言葉が口をついて出る。
「長嶺組長は、ぼくを花見会に連れて行く気はなかったし、もちろんぼくは、自分が出席するなんて考えもしなかった。でも、やむをえない事情ができたんだ」
鷹津が、賢吾を蔑むような発言をしたことが、なぜかいまさら気に障った。いや、単に、鷹津の誤解を訂正したかっただけだったのかもしれない。とにかくこのときの和彦は、鷹津相手の駆け引きを忘れていた。
鷹津は前を見据えたまま、冴えた表情を浮かべる。通りすぎる車のライトを受けて、サソリにも例えられる下卑た嫌な男は、精悍で有能な刑事に見えた。
「……長嶺でも手の打ちようのない、やむをえない事情ってのは、興味があるな。総会――ヤクザどもに言わせれば花見会か、そこで揉めるのを避けたのか。だとしても、わざわざ目立つ場に、いかにも堅気のお前を連れていくのは解せないな」
こちらに語りかけているようでありながら、どこか独り言のようでもある鷹津の言葉を、和彦は無視できなかった。
「花見会へ出席するよう言ったのは、総和会会長だ。ぼくは、長嶺組長じゃなく、長嶺会長の客として招待されることになったんだ」
車内に響いたのは、鷹津の忌々しげな舌打ちの音だった。
「総和会に深入りするなと言っておいたが、俺の忠告は無駄だったようだな。もう、総和会会長に取り入ったのか」
「あの人も、長嶺の男だ。……つき合いを拒む手段があると思うか?」
和彦がきつい眼差しを向けた先で、唇を歪めて黙り込んでいた鷹津だが、あることに気づいたように目を見開いた。
「――……長嶺の男、って、お前まさか……」
和彦はさすがに返事は避けたが、それでも鷹津には十分伝わったようだ。嫌悪感も露わな声で言われた。
「怖い奴だな、佐伯。あのジジイ、今何歳だ。実年齢より若く見えると言われてはいるが、それでもけっこうな歳のはずだ。そんなジジイでも、お前相手には勃つのか」
「用がそれだけなら、さっさとマンションに引き返せっ。あんたみたいな奴からの、罵りの言葉を聞くつもりはないからな」
一瞬の激情から声を荒らげた和彦だが、冷静になるのは早かった。これは鷹津に対する八つ当たりだと、嫌になるほど自覚していた。賢吾や千尋だけでなく、守光とも関係を持ち、〈オンナ〉と呼ばれることに、堂々と胸を張れるわけもない。普段は意識しないようにしているが、和彦の中に恥じ入る気持ちはあるのだ。鷹津の発言は、目を背けたい事実を和彦に突きつけてくる。だから、腹が立つ。
「そうやってキャンキャンと吠えるということは、自分でものっぴきならない状況になっていると、自覚はあるのか」
「当たり前だ……。あの長嶺の男で、しかも総和会会長だ。ぼくには何もできない」
「そしてお前は、その長嶺の男とおそろしく相性がいい。自分の持つ絶大な力を見せ付ける舞台に、わざわざお前を招待するということは、長嶺守光も、特別なオンナだと認めているということか――……」
答えようがなくて唇を引き結ぶと、鷹津も返事を求めてくることはなく、車内に沈黙が訪れる。マンションに引き返すよう言ってもよかったが、助手席に座っての、見慣れた場所を回るだけのドライブも案外悪くはなく、なんとなく和彦は切り出すきっかけを掴みかねる。
そうしているうちに車は、薄暗く人気のない小さな公園の側を通りかかり、駐車場に入った。エンジンを切った鷹津が口を開く。
「――グローブボックスを開けてみろ」
「えっ?」
「必要ないなら捨てようと思っていたが、そうもいかないようだからな。持って帰って、長嶺に見せてみろ。あいつなら、お前のために手を回してくれるはずだ」
そこまで言われて和彦は正面のグローブボックスを開けてみる。普段から整理していないのか、さまざまなものを押し込んであり、一番上に大判の封筒が窮屈そうに入っていた。
鷹津に言われるまま封筒を取り出し、和彦は首を傾げる。
「これは……?」
「花見会は、毎年同じ場所で催される。これは、総和会と県警との取り決めのようなものだ。総和会は、なんとしても行事を行いたいし、県警としても、毎年場所を変更されて、そのたびに警備を見直す時間も予算もかけられない。そういう理由もあって、互いに威嚇し合いながらも、大きなトラブルを起こさずにやってきた。だけど今年は少し様子が違う」
そこまで言って鷹津は、封筒を指先で軽く弾いた。
「今年の県警は、気合いが入っているぞ。厳戒態勢を敷くと、うちの課長が息巻いている。その手始めに、警官の動員数を増やすそうだ。――例年、大物幹部は、あらかじめ知らされている警備の手薄な場所から、花見の会場に入っている。そうやって、警察との接触を避けてきた。警察とヤクザとの癒着……と言うなよ。下手に職質をかけると、護衛についている組員たちが興奮して、手がつけられなくなるんだ。そんな事態を避けるための、苦渋の決断だ。表向きは」
「その口ぶりだと、今年は大物だろうが容赦しない、ということか」
「所持品検査ぐらいはさせてもらうつもりだ。拒めば、のん気に花見なんぞできない状況に追い込む」
それは困る、と和彦は心の中で呟く。物騒なものを持ち歩く必要のない和彦自身は、所持品を調べられるぐらいはかまわないが、それと同時にまず確実に行われるのは、身元照会だろう。医師という肩書きのため、医師会に問い合わせでもされたら、現在は何をしているか追及されるのは目に見えている。
「こういう状況になったのは、ヤクザ連中の自業自得だ。交番勤務に飛ばされた俺が、また県警本部に戻れたのは、いくつかの小さな組が、薬絡みで不穏な動きをしているという情報があったからだ。俺は、よくも悪くも組の人間とのつき合いに慣れていて、その辺りの働きを見込まれた。――ヤクザを憎む悪徳刑事として」
「つまり警察は、薬の件に総和会のどこかの組が噛んでいると踏んでいるのか?」
「総和会は、薬の扱いはご法度だろ。一応」
鷹津がニヤリと笑いかけてきて、和彦は唇を引き結ぶ。かつて賢吾に言われた内容は、しっかりと覚えていた。
裏の世界では、建前と理屈を都合よく使い分けている。総和会には、組員が薬物で検挙されれば、その組員がいる組は即除名という会則があるという。しかし、その会則にはしっかりと抜け道があり、それを熟知している組は巧くやっているのだ。
「……ぼくは、その辺りのことは本当に何も知らないからな」
「俺も、お前とそんな色気のない話をする気はない」
そう言って鷹津が頬を撫でてくる。和彦は思わず手を振り払おうとしたが、反対に手首を掴まれた。
「封筒に入っているのは、花見がある会場と、その周辺の地図だ。去年までの警備態勢について細かく書き込んである。そこに、俺が今日までに得た情報を追加した。花見の会場は、個人所有のでかい屋敷だ。その隣の敷地は、市が所有している自然公園で、一般公開されている。ヤクザ一行が紛れ込んだら目立つだろうが、見た目は堅気のお前なら、問題なく客のふりして入れるだろ。公園と屋敷の庭は、一部が接していて、昔使っていた非常用の出入り口がある」
「そこから入れということか……」
「手はずは、長嶺に考えてもらえ。今話した内容についても、あの男なら上手く扱うはずだ。俺はただ、お前相手に世間話をして、お前がその世間話を誰に漏らそうが、俺は関知しない」
和彦は、手にした封筒と、鷹津の顔を交互に見る。素直には認めたくないが、鷹津は和彦の身の安全のために、こちらが求める前に動いたのだ。こういう場合、鷹津がどんなに嫌な男だとしても、人として言っておくべき一言がある。
「ありが――」
「俺は、ただ働きはしない。お前から餌をもらうために動いたんだ。その俺の働きを、礼儀正しい一言で片付けるなよ、佐伯」
芝居がかったような下卑た口調で言った鷹津が、舌なめずりをする。おぞましさに鳥肌が立ちそうになった和彦は、低い声で吐き出した。
「……嫌な、男だっ……」
「だが、お前の番犬だ」
封筒をダッシュボードの上に放り出し、二人分のシートベルトを素早く外した鷹津に、当然の権利のように乱暴に頭を引き寄せられる。和彦が目を見開いたときには、熱い唇が重なってきた。
「んんっ」
痛いほど強く唇を吸われながら、Tシャツの下に無遠慮な手が入り込んでくる。鷹津が何を求めているのかは明白で、和彦はシートの上で抵抗しようとするが、鷹津がものともせずに強引な口づけを続ける。
胸元をまさぐられ、指先に突起を探り当てられる。執拗に指の腹で擦られて喉の奥から声を洩らすと、鷹津に後ろ髪を掴まれて、口腔に舌を捻じ込まれた。吐き気を覚えたのはわずかな間で、和彦の背筋を、馴染み深い感覚が駆け上がってきた。
征服の手始めのように、鷹津が口腔に唾液を流し込んでくる。最初は嫌がった和彦だが、いやらしく口腔の粘膜を舐め回されているうちに、コクリと喉を鳴らして受け入れていた。
Tシャツを押し上げられて、硬く凝った胸の突起をてのひらで捏ねるように愛撫される。そして、口づけの合間に囁かれた。
「……お前のために働いてやったんだ。今すぐ抱かせろ」
和彦は熱い吐息をこぼし、それすら惜しむように鷹津に唇を吸われる。その間にも鷹津の片手が、胸元から両足の間へと下りていた。数時間前に賢吾の愛撫を受けたばかりだというのに、和彦の体は反応したがっている。
「今日は、ダメだ――……」
答えた途端、それでなくても鋭い鷹津の眼差しが殺気を帯びる。
「ヤクザのオンナが、偉くなったもんだな。刑事を使っておいて、礼もなしか? このまま無理やり、お前の尻に突っ込んでもいいんだぞ」
「体がつらいんだっ。昨日……だったから。だから今日は、組長の誘いも断った」
我ながら嫌になるが、鷹津にとってどの話題が効果的か、和彦は把握している。賢吾だ。一方の鷹津も、和彦がどんな意図から賢吾の名を出したか把握しており、忌々しげにこう洩らした。
「性質の悪いオンナだ。――昨日は誰に抱かれたんだ」
「あんたに……関係ない」
そしてまた、和彦は唇を塞がれる。舌を引き出され、露骨に濡れた音を立てて激しく吸われる。そんな口づけにすっかり和彦は慣らされていた。扉をこじ開けるようにして官能を引きずり出され、獣じみた衝動を共有することを、求められる。もちろん、拒めはしない。
誘い込まれるように鷹津の口腔に舌を侵入させ、自分がされたように粘膜を舐め回し、歯列に舌先を擦りつける。鷹津が歓喜しているのは、取られた片手で触れさせられた欲望の形からわかった。
口づけを続けながら、互いの欲望を外に引き出し、握り締める。すでに熱くなっている鷹津のものを緩やかに上下に扱いてやると、和彦のものは性急に擦り上げられた。
「仕方ねーから、今夜は手で一発抜くだけで勘弁してやる」
鷹津の言葉に、和彦は目じりに涙を滲ませて睨みつける。
「……何様だ、あんた……」
「お前の番犬だ。餌欲しさに、お前のためだけに働いている」
その言葉を受けて、差し出した舌を大胆に絡め合う。明け透けな欲情を見せ付けられて、和彦も興奮していた。狭い車内で、シートから身を乗り出す不自由な姿勢で口づけを交わし、互いのものを愛撫し合っていると、もどかしさが媚薬となる。
和彦は片手を鷹津の肩にかけていたが、車内の空気が淫靡さを増してくると、無精ひげの生えた頬にてのひらを押し当てるようになっていた。鷹津はピクリと肩を揺らし、食い入るように間近から和彦を見つめてくる。いまさら鷹津の眼差しの強さに気恥ずかしさを覚え、和彦は視線を伏せる。すると鷹津が、誘われるように目元に濡れた唇を押し当ててきた。
「残念だ。お前がその気になっている今みたいなときこそ、思うさま尻を犯してやりたいのに」
「誰が、その気なんて――」
鷹津の指に強く先端を擦り上げられ、たまらず和彦は呻き声を洩らす。和彦のものは熱く脈打ち、先端から透明なしずくを垂らしているが、それは鷹津のものも同じだ。ふてぶてしく息づき、和彦の手を濡らしている。
声に出してタイミングを計る必要もなかった。鷹津の愛撫の手が速くなり、つられて和彦も握ったものを強く扱き上げる。
「あっ、あっ」
たまらず和彦が声を上げ始めると、唇にかかる鷹津の息遣いも荒くなってくる。
「イけよ、佐伯。イク瞬間の顔をたっぷり拝んでやるから」
言い返したくて仕方なかったが、その余裕はもう和彦にはなかった。ぐっと奥歯を噛み締めて、腰を震わせる。閉じた瞼の裏で閃光が走り、快感の塊が背筋を滑り落ちた。そして、鷹津の手の中で精を迸らせていた。
「は、あぁ……」
詰めていた息を吐き出すと、すかさず鷹津に言われる。
「俺のも最後まで面倒見てくれよ」
半ば意地のように和彦は、握り込んだ脈打つものを手荒く扱き、自分がされたように鷹津の精をてのひらで受け止める。ビクビクとてのひらの中で震える鷹津のものが生々しい。まだ、硬く熱いのだ。
この時点で和彦は、精を放ったばかりだというのに、自分の中にまだ荒れ狂う欲望が存在していることに気づいた。
いつもなら、もっと淫らな行為に及んでいる――。
自分が鷹津を欲していると自覚して、うろたえた和彦は体を離そうとしたが、首の後ろを掴まれて動きを止められる。目を見開く和彦の前で、鷹津は思いがけない行動を取った。和彦の精が絡みついた指を、これ見よがしに鷹津がベロリと舐めたのだ。
「な、に、して……る」
「いまさらだろ。俺はこれまで、お前のものをしゃぶって、精液だって飲んでやった。もっともお前は、いまだに俺のものは舐めてすらくれないがな」
これは鷹津なりの挑発だと察し、和彦は顔を背けようとしたが、首の後ろを掴まれたままのためそれも叶わず、唇を塞がれた。
自分の精を舐めたばかりの男の舌に、口腔を犯される。込み上げてきた吐き気は、倒錯した被虐的な快感の前には無力だった。
和彦は目を閉じると、気が済むまで鷹津との下品な口づけにつき合うことにした。
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