と束縛と


- 第23話(3) -


 さきほどから地図を眺めて、賢吾はひどく楽しそうだった。食えない男のその表情を、キッチンから缶ビールとグラスを取って戻ってきた和彦は、興味深く観察する。
「――何か言いたそうだな、先生」
 地図からちらりと視線を上げ、賢吾が口を開く。油断ならない男だと、いまさらなことを実感しつつ、和彦は賢吾の隣に座った。
 グラスにビールを注いでやってから、一緒に地図を覗き込む。鷹津の乱雑な字がびっしりと書き込まれた地図は、執念のようなものが滲み出ているようだった。
 鷹津は、表向きは暴力団組織――長嶺組を憎悪する悪徳刑事を演じている。事実、憎悪はしているのだろうが、長嶺組組長のオンナである和彦と関係を持ち、結果として長嶺組に情報を流している。
 鷹津という男の屈折した感情を、この地図の存在はよく表しているのかもしれない。
「さっきから、地図を眺めて楽しそうだな」
 和彦の言葉に、賢吾は目元を和らげる。
「先生が、ヤクザの組長のオンナらしい仕事をしたと思ってな。悪徳刑事を手玉に取って、自分の身を守るための情報を取ってきた」
「……人聞きが悪い」
「そうだな。鷹津が勝手に先生を気遣って、気を回した結果だ。先生は鷹津に何も頼んでいないし、媚びてもいない。手玉に取るなんて、失礼な言い方だった」
「その言い方も――」
 気に障る。心の中で洩らした和彦は、窓の外に目を向ける。すでに日は落ち、外は暗い。
 本当であれば今日は、クリニックが終わってから弁当でも買って帰り、部屋で一人ゆっくりと過ごすつもりだったのだ。ところが夕方になって賢吾から連絡が入ったことで、和彦のささやかな予定は狂った。
 外で待ち合わせて一緒に夕食をとったあと、少し部屋で寛がせてくれと賢吾に言われては、拒めるはずもない。
 和彦はソファに深くもたれかかり、グラスに口をつけつつ相変わらず地図を見ている賢吾に視線を戻す。
「その地図、役に立つのか?」
「先生にとってはな。むしろ重要なのは、鷹津が話した内容だ。本当に、暴力団担当係の有能な刑事と〈仲良く〉なっておくものだな。鷹津から先生に、先生から俺に。そして俺は、総和会の幹部会に連絡を入れた。先生から聞いた内容をそのまま伝えたんだ。手柄を横取りしたようだが、感謝されたぞ」
「鷹津は、話した内容については、あんたなら上手く扱うはずだと言っていた。……つまり、こういう手順を望んでいたということだろ」
「鷹津は、先生からもらえる餌さえあったら満足だろうが、まあ、そういうわけにもいかん。――俺からも何か餌を与えないとな」
 冗談めかしてはいるが、賢吾の言葉には毒気が滲み出ている。和彦が睨みつけると、低く笑い声を洩らして賢吾はやっと地図を畳んだ。
 鷹津は、ただ働きはしない。和彦の〈番犬〉として働いた対価に、餌を欲しがる。一昨日、鷹津と会ったときにその餌を求められたが、体調のせいもあって断った。ただし、近いうちにまた鷹津と会って、しっかり餌を与えなくてはならないだろう。
 この辺りの鷹津とのやり取りすら、和彦は賢吾に報告してあった。そのうえで、今の発言だ。
「そう怒るな、先生。県警が、花見会の監視強化を計画しているなんて、まだこちらの耳には入ってない情報だ。つまりそれだけ、県警は情報管理を徹底して、取り締まりに本気だという姿勢を見せているってことだ。花見会には、総和会の面子がかかっている。騒ぎを起こさず、招待客にも迷惑をかけず、粛々と花見会を行うことで、総和会は力を誇示する。例え警察であろうが、水を差すことはまかりならぬ、ってな」
「……恐ろしくなるほど、ヤクザの理論だな」
「他人事のように言っているが、先生はその花見会に招待されているんだぞ」
 重圧が肩にのしかかり、和彦は深々とため息をつく。慰めか、励ましのつもりなのか、賢吾に肩を抱き寄せられた。
「やっぱり、行かないといけないのか……」
「オヤジが招待した以上、俺も口出しできない。それに花見の最中も、先生の側にいてやることはできない。挨拶ぐらいはできるだろうがな」
 そもそも、花見会での自分の役割すら把握できていない和彦だが、賢吾の言葉に驚く。建前上はどうあれ、賢吾が当然側にいてくれると思っていたからだ。和彦の戸惑いを表情から読み取ったのだろう。顔を覗き込んできた賢吾に髪を撫でられた。
「まだピンときてないだろうが、しっかり頭に叩き込んでおけ。――総和会という枠の中にあって、最上位にいるのは会長だ。俺は、総和会に名を連ねる組の組長。立場の違う男が、オンナを共有している。この際、父子であることは関係ない。より大きな力を持つほうが、公の場で自分のオンナだと主張できるということだ」
「正直、総和会のような組織を束ねている人が、男の……愛人の存在を明らかにしたところで、マイナスイメージにしかならないと思うんだが」
「何も、先生を愛人として紹介して回るわけじゃない。ただ、総和会会長にとって大事な存在だと、知らしめるだけだ。それにこの世界、男気に惚れた腫れたは珍しくない。それが過ぎて〈契り〉を結ぶ奴らもいる。もちろん、男同士のそういう関係に抵抗のある連中もいるが、それもひっくるめて、この世界じゃ馴染んでいる慣習の一つだ。先生のように、堅気だったにもかかわらず、物騒な男たちがオンナにしちまう場合もあるしな」
「……ぼくは、男気なんて欠片も持ち合わせてないぞ」
 ぼそぼそと和彦が反論すると、賢吾にあごを掴み上げられる。ニヤニヤと笑って言われた。
「下手なヤクザより、よほど肝が据わってるじゃねーか、先生は」
 和彦は眉をひそめると、あごを掴む賢吾の手を押しのける。缶に残っているビールを呷ると、短く息を吐き出した。
「開き直ってるだけだ。――ぼく個人に、捨てるものはないしな」
「そう言うな。そんな先生を、大事に大事に想っている〈男たち〉が悲しむぞ」
 ヤクザが白々しいことを言うなと、内心強気に思ってはみたものの、意識しないまま和彦の頬は熱くなってくる。
 どんな思惑があるのだろうかと、冴え冴えとした大蛇の目を覗き込んだが、柔らかい微笑を浮かべた賢吾からは、何も読み取れない。
 和彦はテーブルに缶を置き、再び賢吾に肩を抱き寄せられるまま、体を預けた。
「――……花見会には出席するが、警察から職質を受けるような事態だけは避けたい。身元照会をされて、佐伯和彦という人間が総和会や長嶺組に守られていると知られたくないんだ」
 保身のための要望に、和彦のどんな想いが込められているか、さすがに賢吾は正確に読み取ってくれた。
「先生が、ただの医者だったなら、そこまで神経質になる必要はないんだ。身を持ち崩して、医師免許を剥奪される医者は、世の中には何人もいる。そういう医者は、こちらの世界じゃ使い勝手がよくて、大事にされる。ただ先生の場合、医者の肩書き云々だけじゃなく、佐伯家という立派な家の名のほうがネックだ。官僚にならなかった次男が、よりによってヤクザと深い仲になっていると知ったら――、佐伯家以外にも波紋は広がりそうだな」
「ぼくの知る佐伯家なら、トラブルを揉み消したうえで、簡単にぼくを見捨てただろうけど、今は……どうだろう。兄の国政出馬の件もあって、とにかく面倒で、大事になるだろうな。それこそ、政治家まで乗り出すかもしれない」
 ここで和彦はふと、守光がしてくれた話を思い出す。昔、和彦の父親である俊哉のトラブル処理を頼まれたとき、間を取り持ったのは政治家だと言っていた。ヤクザと政治家も、必要があれば互いに利用し合うことがあるのだ。官僚として絶大な影響力を持っている現在の俊哉であれば、その政治家を利用することすら容易だろう。
 和彦が総和会と長嶺組の庇護下にあると知ったとき、俊哉は果たしてどう動くのであろうか――。
 急に不吉なものを感じ、和彦はわずかに身じろぐ。
「先生?」
 抱いた肩を撫でて、賢吾が呼びかけてくる。我に返った和彦は、顔を強張らせたまま語った。
「……ぼくはいままで、佐伯家に必要とされてこなかった。ぼくも、それを受け入れて、早々に佐伯家には見切りをつけていた。そういう関係で、問題なくやってこれた。だけど今は、事情が変わってきている。本来なら、あの家族がぼくの行方を執念深く捜すなんて、ありえないんだ」
「長嶺の家も、大概変わった家族事情だと自覚はあるんだが、先生の家には敵わねーな。少なくとも俺は、大学辞めてふらふらしている千尋を自由にはさせていたが、それでもきっちり監視はしていた。何かあったとき、素早く対処できるようにな。もちろんこれは、長嶺の大事な跡継ぎだからという理由だけじゃない。俺なりに、千尋を可愛いと思っているからだ」
 和彦は小さく声を洩らして笑うと、賢吾の肩に額を擦りつける。
「千尋と初めて話したとき、尻尾をブンブン振る、人懐こい犬っころみたいだった。家族から大事にされて育ったんだろうなと思ったんだ」
「その家族が、ヤクザの組長とは思いもしなかっただろ?」
「ああ……。千尋に外面のよさに、すっかり騙された」
 今度は賢吾が声を洩らして笑い、和彦のうなじや髪の付け根をまさぐりながら、実にさりげなく提案してきた。
「――佐伯家の面倒が嫌なら、本当に俺の養子になるか? 前回同じことを言ったら、先生にはあっさり受け流されたが、俺はかまわんぞ」
 パッと頭を上げた和彦は、瞬きも忘れて賢吾の顔を凝視する。防衛本能というべきか、賢吾の今の発言は冗談だと、咄嗟に和彦は判断した。本気にしてしまう自分自身を恐れたためだ。
 どんな言葉をかけられるより賢吾の提案は優しいと感じ、同時に、どんな打算が含まれているのだろうかとも勘繰ってしまう。和彦と賢吾の関係で、これは仕方のないことだった。
「そんなことをしたら、ぼくは一生、長嶺の男から離れられないな……」
「なんだ、離れるつもりなのか?」
 じっと身を潜めていた大蛇が、ふいに鎌首をもたげてチロリとした舌を覗かせる。そんなイメージが和彦の脳裏を過ぎり、つい顔が強張る。
 賢吾の優しさは、怖い。和彦はさりげなく体を離そうとしたが、しっかりと肩を掴まれて動けなくなる。間近で賢吾と目が合ったそのとき、前触れもなくインターホンが鳴った。この時間の訪問者は限られている。心当たりがあるうちの一人は、すでにもう和彦の目の前にいる。そうなると、考えられるのはもう一人しかいない。
 無視するわけにもいかずインターホンに出ると、案の定画面には、犬っころ――ではなく、千尋の姿が映っていた。
「どうしたんだ、千尋。お前また、酔ってるんじゃ……」
 応対しつつ和彦は、リビングの様子をうかがう。
 気まぐれにマンションに立ち寄ることが多い賢吾と千尋だが、護衛の組員たちが互いの行動をしっかり把握しているため、この部屋で父子が〈たまたま〉顔を合わせることはない。つまり今のこの事態は、どちらかが意図したものだということだ。
『今日は素面。先生にケーキ買ってきたんだ。一緒に食おうと思ってさ』
「……それはありがたいが、今はお前の父親が来ているぞ」
 口にして改めて、和彦は自分が置かれた境遇について複雑な想いを抱える。与えられた部屋に二人の男を招き入れているが、その二人が父子なのだ。そして、和彦を含めた三人が、この奇妙な関係を受け入れている。
『知ってる。……本当は今日は俺が、先生と一緒にメシ食うつもりだったのに、俺が連絡するより先に、オヤジがさっさと先生をメシに連れ出したんだ。だからせめて、ケーキぐらい一緒に食おうと思ってさ。あと、オヤジに対する嫌がらせ』
 賢吾はいい躾をしていると、和彦は苦笑を洩らす。
「エントランス前で、恥ずかしいことをぼやくな。とにかく、早く上がってこい」
 インターホンを切ると、その足で玄関のドアの鍵を開ける。次に、コーヒーを淹れるためにキッチンへと向かう。リビングでおとなしくしているかと思った賢吾も、すぐにやってきた。
「息子にデートを邪魔されるとはな……」
 聞こえよがしにぼやく賢吾だが、その口調は笑いを含んでいる。和彦は湯を沸かす間に、カップや皿を準備しつつ応じた。
「その千尋は、父親が邪魔をしたと思っているようだが」
「だったら二人まとめて、先生が面倒を見てくれたら済む話だな」
「……勘弁してくれ。ぼくだって、仕事終わりで疲れているんだ」
「それこそ、俺と千尋で癒してやろう」
 カウンターに電動ミルを置いた和彦は、じろりと賢吾を睨みつける。
「コーヒー豆ぶつけるぞ」
 賢吾が声を上げて笑い、そこに、ケーキの箱を手にした千尋がやってくる。楽しげな父親の様子に目を丸くしたあと、対照的に千尋は顔をしかめた。
「もう帰っていいぞ、オヤジ」
「そういうお前は、ガキはもう寝る時間じゃないのか」
 父子の、仲が悪いようでいて、実はじゃれ合っているとしか思えない会話を聞き流しつつ、和彦は黙々とコーヒー豆を挽く。
「――もしかして二人して、花見会の打ち合わせでもしてた?」
 突然の千尋の言葉に、反射的に和彦は賢吾を見る。
「どうして、そう思うんだ」
 そう問いかけたのは賢吾だ。
「今日、じいちゃんから連絡があってさ。花見会の準備で少し変更があるとか言われたんだ。改めて幹部会から、うちの組の執行部に連絡を入れるって話だったけど……、当然、オヤジにも何か言ってきたんだろ?」
「まあな。どうやら、総和会も、バタバタしているようだな」
「その辺りは、じいちゃんは教えてくれなかった」
 和彦は、自分には関わりないという顔をして、ドリッパーにフィルターをセットする。何が珍しいのか、千尋がカウンターに身を乗り出して、じっと作業を見つめてくる。あくまで自己流のコーヒーの淹れ方をしている和彦はやりにくくて仕方ないが、見るなとも言えない。
「先生が、キッチンで細々とした作業をしているの見ると、なんかすげー、違和感というか、不思議な感じがするんだよな」
「細々って……、コーヒーを淹れているぐらいで大げさだ」
 油断ならない千尋はさりげなさを装いながら、カウンターを回り込んで、いつの間にか和彦の隣に移動してくる。あまり近づくなと、千尋を押しのけようとする和彦に、賢吾から声をかけてきた。
「色男がキッチンに立っているだけで様になるんだから、得だな。先生」
「……うるさい父子だな。ぼくの分しかコーヒーを淹れないぞ」
 逃げるようにキッチンの奥に行き、ケトルを持ってカウンターに戻ると、ダイニングから賢吾の姿が消えていた。千尋を見ると、ドアのほうを指さす。
「携帯が鳴ったから、廊下で話してる」
「ぼくなんかよりよほど忙しいのに、わざわざここに来なくてもよかったんだ」
 鍋敷きの上にケトルを置いた和彦は、ケーキの箱を覗き込む。一体何人で食べるつもりだったのか、十個のケーキが窮屈そうに並んでいる。どれも美味しそうだ。チョコレートケーキを選んで皿にのせると、さりげなく千尋が身を寄せてきた。
「で、オヤジ、ただ先生とイチャつきたくて、ここに来たわけ?」
「……ぼくが鷹津から渡されたものを、取りにきたんだ」
「何それ」
 鷹津の名を出した途端、千尋は露骨に顔をしかめた。和彦はあえて気づかないふりをして説明する。
「花見会の会場周辺の警備について、詳しく書き込んである地図。本当は、クリニックへの送り迎えをしてくれている組員に預けてもよかったんだが、お前の父親が、直接ここに取りに行くといって聞かなかったんだ」
「……花見会のことで、先生が刑事から地図を渡されて、しかも総和会がバタバタしているってことは、もしかして――」
 千尋から物言いたげな視線を向けられ、慌てた和彦は弁解めいたことを口にする。
「ぼくのせいじゃないからなっ。確かに、鷹津から聞いた話をお前の父親に話した。ただ、それで総和会がどう動くかなんて、わかるはずがないだろっ」
「そうムキにならないでよ。ちょっとからかっただけなんだから」
 楽しげに笑った千尋が、和彦の肩にあごをのせてくる。ふいに、耳元で囁かれた。
「オヤジがわざわざここまで来た本当の目的って、先生と鷹津のことを探るためじゃない?」
 ドキリとして、思わず千尋を見る。寸前まで無邪気に笑っていた青年は、今は強い輝きを放つ目で、じっと和彦を見つめている。こういう眼差しをしているときの千尋は、犬っころどころか、一端の獰猛な肉食獣を連想させる。
「探るも何も、ぼくと鷹津は……」
 割り切った体の関係を持っている。和彦は、体を自由にさせる代わりに、鷹津を自分のために働かせているのだ。
 和彦があえて呑み込んだ言葉を察したのか、千尋は軽く首を横に振る。
「そういうことじゃ、ないんだよなー」
「……なんだか、気になる言い方だな」
「まあ、先生がモテすぎて、迂闊に目を離せないってこと」
 突然、千尋がぐいっと体を押し付けてくる。何事かと和彦が目を見開いたときには、眼前に千尋の顔が迫り、唇を塞がれた。驚いた拍子に後退ろうとしたが、次の瞬間には千尋にしっかりと肩を掴まれる。
 熱っぽく唇を吸われ、最初は千尋の顔を押しのけようとしていた和彦だが、そのうち意識は、ドアのほうに向く。いつ、賢吾が戻ってくるか気になるのだ。どれだけ破廉恥な行為を見られたところで賢吾が動じるはずもないが、和彦は違う。
「――先生のそういう顔見ると、なんか悪いことしてる気になって、興奮する」
 和彦の唇を啄ばみながら、楽しげに千尋が囁いてくる。そんな千尋の頬を軽く抓り上げた和彦は、小さくため息を洩らした。
「性癖に問題ありだぞ、お前」
 すると千尋が、意味ありげな視線をカウンターの足元へと向ける。その視線に込められているのは、明け透けな卑猥さだ。先日このカウンターで、自分と千尋がどんな行為に及んだか、生々しい記憶が蘇った和彦は、今度は両手で頬を抓り上げる。
「……何も、言うなよ?」
「俺と先生の秘密ってことだよね」
 そう言って千尋が再び唇を塞いでくる。自分のことだけを気にかけろと、せがまれているようだった。そう感じた時点で、和彦はもう千尋を押しのけることはできなかった。それどころか――。
「んっ……」
 余裕なく千尋の舌に唇をこじ開けられ、それを受け入れる。間近で千尋の強い光を放つ目を見つめながら、舌先を触れ合わせ、絡め合う。抓り上げていた千尋の頬をてのひらで包み込んでやると、素直な子犬のように青年は簡単に喜び、さらに和彦を求めてくる。
 口腔の粘膜を舐め回す一方で、肩を掴んでいた千尋の手がじわじわと移動し、セーターの上から脇腹をまさぐり始める。さすがにこれ以上悪戯をされては堪らないと、和彦が唇を離そうとした瞬間、背に硬い感触が触れる。それが何かと考える余裕もなく、あごを掴まれて引き寄せられた。
 ハッとしたときには、掴まれたあごを持ち上げられるようにして、半ば強引に振り向かされる。いつの間にか無表情の賢吾が立っており、有無を言わせず和彦の唇を塞いできた。傲慢な舌が口腔に入り込み、千尋に味わい尽くされたばかりの粘膜をまさぐりながら、唾液を流し込んできた。
 平気で和彦を共有しながらも、この父子は競い合っている。
 引き出した和彦の舌を、賢吾が濡れた音を立てながら吸い、千尋には、首筋をねっとりと舐め上げられる。どちらのものとも知れない手がセーターの下に入り込み、肌を撫でてくる。身震いしたくなるような疼きが生まれ、和彦は喉の奥から声を洩らしていた。その声を呑み込んだのは、賢吾との口づけに割り込んできた千尋だ。
 差し出した舌を卑猥に絡め合っていると、今度は賢吾に首筋を舐め上げられ、耳をたっぷり舐られる。
 高揚感に意識が飛びそうになる。和彦の足元はふらつくが、二人の男にしっかりと支えられているため、座り込むこともできない。
「もっ……、いい加減に、しろ……」
 名残惜しそうに唇を啄ばんでくる千尋の顔を押し返し、ついでに賢吾の腕の中からも逃れる。今になって照れ臭くなった和彦は、濡れた唇を手の甲で乱暴に拭った。
「……でかい動物二頭にじゃれつかれているみたいだ」
 非難がましい視線を父子に向けて洩らすと、二人はよく似た笑みを浮かべた。そして、和彦の予想を外さない発言をした。
「情が湧いて仕方ないだろ?」
「ぼくがなんと答えたら満足なんだ」
「――さっきの俺の提案を、いつか真剣に考えてもいい、と」
 和彦がスッと表情を消すと、その変化を目の当たりにした千尋が目を丸くする。しかしすぐに、興味津々といった様子で問いかけてきた。
「なんのこと?」
「俺と先生の秘密だ」
 そう賢吾が答えると、千尋と顔を見合わせてから和彦は大きくため息をついた。
「さっき、ぼくと千尋の話を聞いてたんだろ……」
「さあ、なんのことだ」
 露骨に賢吾がとぼける。ムキになって問い詰めたところで、千尋と恥知らずな行為に及んだ自分の分が遥かに悪いことを、和彦は知っている。
 強引に会話を打ち切ると、ダイニングテーブルを指さした。
「コーヒーを淹れるから、おとなしく二人で座って待っていてくれ」


 眠くて横になったはずなのに、数十分経っても和彦は寝返りを打ち続け、とうとう枕元のライトをつけていた。ぼんやりと浮かび上がる天井を見上げながら、両手を伸ばしてベッドをまさぐる。左右には誰もいない。大きなベッドにいるのは、和彦一人だった。
 賢吾は本当は、今夜はここに泊まるつもりだったらしいが、千尋の襲来で予定が狂ったようだ。結局、二人は一緒に帰ってしまった。正確には、賢吾が千尋の首根っこを掴み、引きずっていったのだが。
 おかげで和彦は、一人ゆったりとした時間を過ごし、遅くならないうちにベッドにも入れた。あとは何も考えずに眠ってしまえばいいのだが、どうしても目が冴えてしまう。
 賢吾と交わした会話が、頭から離れなかった。花見会のこと、いまだに和彦は本気にしていないが、養子のこと。そして――佐伯家のこと。
 今の生活が平穏で、安らぎに満ちているとは言わないが、愛しさを感じ、手放したくないと思っていることに間違いはない。佐伯家の事情で掻き乱されたくないと、道徳的に許されない感情も抱いている。長嶺の男たちの事情に巻き込まれ、結果として総和会に深入りする事態は甘受できても、佐伯家と関わりを持つことは、今の和彦にはできないのだ。
 周囲にいる男たちに迷惑をかけないために、無防備なままではいられない。そのためにも和彦は、佐伯家の現在の情報をもっと必要としていた。自分にしかできない手段を使ってでも。
 ここまで考えたところで、体を起こす。ベッドに横になっても眠くならないのには、相応の理由がある。今晩のうちにやっておくべきことがあるからだ。
 和彦はパジャマから着替えると、コートを羽織りながらダイニングへと行き、財布と部屋の鍵をポケットに突っ込む。慌ただしく部屋を出て、エレベーターに飛び乗った。
 マンションの外に足を踏み出した和彦の髪を、強い風が嬲る。さすがに夜中はまだ肌寒さを感じるが、それでも風が運んでくる匂いは春めいて柔らかい。もう春一番は吹いたのだろうかと、ふとそんなことを気にかけながら、慎重に辺りをうかがう。人通りはなく、車が走ってくる気配もない。
 まるで誰かに背を押されるように、和彦は足早に近所のコンビニへと向かう。もちろん用があるのは、コンビニの外に設置された公衆電話だ。
 コンビニ前まできてもう一度周囲を見回してから、受話器を取り上げる。
 里見に連絡をするのは最初で最後だと心に決めていたが、事情は変わった。今の生活を守るために、という綺麗事を言うつもりはない。自分の身の安寧のために和彦は、里見を利用することにした。
 もしかすると、この理由すら建前で、賢吾に隠れて里見と連絡を取る理由を欲しているだけなのかもしれないが、和彦の中で、感情はあくまで混沌としている。だからこそ、直感で動いたのだ。
 記憶を辿りながら番号を押した途端、心臓の鼓動が速くなる。
 呼び出し音の回数を数えるまでもなく、里見はすぐに電話に出た。
『――公衆電話という表示を見た瞬間、胸がときめいたよ』
 開口一番の里見の言葉に、緊張で顔を強張らせていた和彦はつい笑ってしまう。
「電源を切られなくてよかったよ」
『そんなこと……するはずないだろう』
 わずかな間沈黙が訪れたが、気を取り直したように里見が提案してきた。
『君が住んでいるところは、ネット環境は整ってないのか? ネットが使えるなら、いくらでもやり取りの手段はある。少なくとも、連絡のたびに公衆電話まで行かなくていいから、楽なはずだ。それに履歴を消せば、君がネットでどこを見ていたかも特定されにくい』
「パソコンを持っていて、ネットにも繋いであるけど――……、手軽すぎて、怖いな。里見さんと連絡を取り合うことに緊張感がなくなりそうで」
 さすがに賢吾も、和彦が個人で使っているパソコンまでチェックはしていないようだが、だからといって今後もそうだとは限らない。隙を見せた瞬間が危ないのだ。
『その口ぶりだと、無理ということかな』
「……残念だけど、そうだよ」
『だけど、こうしてわたしに電話をくれたということは、よほど話したいことがある?』
 里見の口調はあくまで穏やかだが、見えない刃を喉元に突きつけられたような圧迫感を覚え、和彦は口ごもる。これは多分、里見を利用しようとしている和彦自身が抱えた罪悪感の表れだろう。
「どうしても、佐伯家の様子が気になるんだ。いままで、ぼくに無関心でいてくれたのに、急に実家に顔を出せと言うなんて。兄さんが国政出馬を控えているから、というのはもっともらしい理由だけど、少なくとも佐伯家で通じる理屈じゃない。お前には関係ないと言われるほうが、自然なんだ。……ぼくと家族の間にある溝は、それだけ深い」
『わたしは、君だけが佐伯家で浮いた存在だったことは知っているけど、その理由は知らない。どんな家族にも、一つや二つの秘密はあるし、わたしにはそれを暴く権利はない。ただ、君が佐伯家に頼らなくても満ち足りた日々を送れるよう、少しでも手助けしたかった』
「ぼくが今、そんな毎日を送っていて、それを守るために里見さんに助けてほしいと言ったら、どうする?」
 相手から必要な返事を引き出すための物言いは、知らず知らずのうちに賢吾から学んだようだった。そんな自分に多少の嫌悪感を覚えるものの、その反面、ひどく新鮮でもあった。日々の生活は、確実に和彦をこれまでとは違う人間に造り替えている。計算高くて狡猾で、失いたくないもののために必死になる人間に。
 受話器の向こうで里見は息を潜めていた。和彦の言葉の真意を探っているのかもしれない。それとも、電話の相手は本当に和彦なのかと、疑っているのだろうか。
 和彦は、急に里見の返事を聞くのが怖くなり、慌てて言葉を続けた。
「今夜はもう、これで切るよっ。ごめん、夜遅くにかけたりして」
 受話器を耳元から離そうとした瞬間、落ち着いた里見の声が聞こえた。
『――わたしはズルイ大人だから、君の頼みを聞くときには、交換条件としてわたしの頼みも聞いてもらうよ』
 返事をする前に電話は切られ、和彦も受話器を置く。
 里見に対する想いを部屋まで持ち帰るわけにはいかず、断ち切るように和彦はコンビニへと入る。夜中に出かけたアリバイ作りのために、こまごまとした買い物をしておく必要があった。
 カゴにガムやヨーグルトを入れてから、雑誌コーナーへと移動する。適当に週刊誌を選んでいて、何げなく視線を上げる。窓の向こうには誰もおらず、客がやってくる様子もない。なのに、視界の隅に人影を捉えた気がしたのだ。
 見間違いだろうと思いつつも和彦は視線を落とすことはできず、街灯で照らされる通りをじっと見据えていた。









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