と束縛と


- 第24話(1) -


 シートに身を預けた和彦はぼんやりと、ウィンドーの外を眺める。仕事から解放されている土曜日の昼間というだけで心浮き立つものがあるが、そこに、春の暖かな気候とこれ以上ない晴天が加わると、もうじっとはしていられない。
 そんな和彦の視界に飛び込んでくるのは、花見の名所として知られる公園周辺の光景で、人や車で混雑している。通りを行く人たちが浮かれているように見えるのはきっと、和彦自身が浮かれているからだろう。
 みんな楽しそうだと口中で呟き、堪えきれず和彦は口元を緩める。本当は、信号待ちの車から今すぐにでも飛び出して、駆けていきたい気分だった。車中で過ごす一分一秒がもどかしくて仕方ないのだ。
「混んでますね」
 ハンドルを握る組員に話しかけられ、数秒の間を置いて慌てて頷く。意識が外にばかり向いていたため、危うく聞き流すところだった。
「ようやく桜が満開になったところに、天気のいい土曜日だ。みんな、考えることは同じなんだろうな。――ここから歩いていくから、適当に車道脇に寄せてくれ」
「酔っ払いに絡まれないよう気をつけてくださいね」
「そんな度胸のある人間がいるとも思えないが……」
 誰のことを指して言っているのかわかったらしく、組員は短く笑い声を洩らした。
 車が素早く車道脇に寄り、すかさず和彦は車から降りる。ガードレールを跨いだときには、すでに車は走り去るところで、それを見送ってから人の流れに乗る。
〈あの男〉はどこにいるのだろうかと、歩きながら軽く周囲を見回す。そして、すぐに見つけ出した。なんといっても目立つのだ。
 そこだけ空気が違うようだった。春の陽射しが降り注ぎ、楽しげな様子の人たちが行き交う中、その男――三田村は、ごっそりと感情をどこかに置き忘れたような無表情で立っていた。地味な色合いのスーツをきっちりと着込んでおり、人に紛れればかろうじてビジネスマンに見えなくもないが、それでも三田村の持つ雰囲気は鋭すぎる。
 その三田村の手にはデパートの紙袋があり、微妙な生活感を醸し出している。裏の世界で生きている男に無体なことをさせているなと、和彦はそっと苦笑を洩らしていた。
 ゆっくりと辺りに視線を向けていた三田村が、狙いを定めるようにぴたりとこちらを見る。ほんのわずかだが、目元が和らいだ。和彦は足早に三田村に近づく。
「――天気がよくてよかった」
 まっさきにかけられた言葉に、笑みをこぼして和彦は頷く。
「ああ」
 二人は肩を並べて公園に入り、満開となっている桜の花を見上げる。穏やかな風に乗った花びらがひらひらと舞い、目を細めたくなるような光景をより華やいだものにしている。とにかく気分がいい。
 先週、花見会で桜は堪能したはずだが、置かれた状況でこうも受ける印象は違うものなのかと、つい和彦は考えてしまう。いまだに、あの場での出来事は夢のようであり、現実味は乏しい。それに、その後での守光との濃厚な行為も――。
 突然、激しい後ろめたさに襲われた和彦は、無理やり意識を切り替える。自分の身に何が起こったにせよ、今日は三田村と休日を楽しむことにしている。ささやかな花見がしたいという和彦の望みを、律儀な男はしっかりと覚えてくれていたのだ。
「……こんな昼間から、のんびりと桜を堪能できるなんて、久しぶりだ」
 まぶしげに目を細めながら三田村が呟く。そんな三田村の精悍な横顔に危うく見惚れそうになり、和彦は慌てて視線を逸らす。
「仕事、忙しくなかったのか?」
「今日と明日は、よほどの緊急事態でもない限り、事務所に呼び出されることはない」
「なのに、その格好なんだな……」
 和彦の言葉に、三田村は自分の格好を見下ろした。
「もう、身についてるんだ。外に出るときはスーツじゃないと、隙ができるような気がして落ち着かない。もともと、着るものに頓着しない性質だしな。――先生は、何を着ても似合うな」
 せっかく三田村が褒めてくれたが、今の和彦の服装は、Tシャツの上にパーカー、それにコットンパンツという、非常にラフなものだった。だからこそ、散歩ついでの花見に相応しい格好とも言える。
「こんな格好でいいなら、いつでもコーディネートするけど」
「いや……、俺はきっと似合わないだろうから……」
 無表情がトレードマークの男の顔に、わずかに動揺の色が浮かぶ。和彦は小さく声を洩らして笑う。
「冗談だ。あんたに変な格好をさせて、若頭補佐の威厳を損なわせたら悪いしな。……と、弁当の入ったデパートの紙袋を持たせている時点で、ぼくに言う資格はないか」
「俺はそんなことは気にしない。俺だけじゃなく、組の人間はみんなそうだ。先生のためになるなら、喜んで働く」
 長嶺組の男たちは、怖くて物騒なくせに、和彦に優しい。その優しさが、裏の世界から逃がさないための打算含みのものだとしても、やはり心地いいし、嬉しいのだ。
「……あまりぼくを甘やかすと、とんでもないわがままを言い出すぞ」
「この間も言ったが、先生のわがままはささやかだ。先生が本気を出したら、俺が困るぐらいのわがままを言ってくれるのかな」
 三田村の困り顔を見てみたい気もするが、それを見た自分が、ひどい罪悪感に苛まれるのは容易に想像できる。和彦はぼそぼそと応じた。
「あんたに嫌われたら、ぼくが困る」
 土曜日の昼間から、酔っ払ったような会話をしているなと、和彦は急に気恥ずかしさに襲われる。一方の三田村は巧みに表情を隠してしまい、何を考えているのか読めない。
 不自然に会話が途切れたまま公園内を歩いていると、ちょうど空いたベンチを見つける。広場でシートを広げて大人数で花見を楽しんでいる人は多いが、二人連れでベンチに腰掛け、のんびりと昼食をとっている人の姿も意外にある。おかげで、妙にちぐはぐな組み合わせともいえる和彦と三田村も、さほど肩身の狭い思いをしなくて済む。
 ペットボトルのお茶と弁当を手渡され、さっそく昼食の時間となった。
 ご飯を口に運びつつ、和彦は頭上の桜を見上げる。揺れる枝の間から青空が覗き、桜色の花びらとの対比にため息が洩れそうになる。
「――去年は、こんなに桜を見られなかった」
「いろいろあって、そんな余裕はなかっただろうからな、先生は」
「今も必死だ。ただ、折り合いをつける方法を覚えたんだろうな……」
 ヤクザに守られながら、表向きは健全なクリニックを経営し、裏では不法な治療に手を貸す。そして、賢吾の許可の下、複数の男たちと関係を持っているのだ。そうやって和彦は毎日、道徳心や良心といったものに折り合いをつけて、バランスを取りながら生活をしている。
「一年前は、自分がこんな状況になっているなんて、考えもしなかった」
「……一年前の今頃、先生は確か――」
「組長に振り回されて、怯えていたな」
 弁当を食べながら話すことではないなと思ったが、和彦と賢吾のやり取りを、間近で誰よりも見てきた三田村はあくまで淡々としている。三田村なりに、胸の内でさまざまなものを呑み込み、収まるべき場所に感情が収まっているのかもしれない。和彦にとっても、こんなことが言えるぐらい、三田村は特別な男なのだ。
「ぼくは、自分が思っていたより遥かに図太い神経をしていたみたいだ。大変だと思いながら、今の生活に馴染んで、居心地がいいと感じているんだから」
「よかった、と俺が答えるのは、先生にとって酷か?」
 じっとこちらを見つめてくる三田村の眼差しは、鋭い。和彦が現状にどんな感情を抱いているか、見逃すまいとするかのように。この眼差しは、三田村の一途さと真摯さの表れだ。
 和彦はそっと笑みをこぼすと、口調で応じた。
「優しいくせに、残酷な男だな、あんたは」
「――ヤクザだからな」
「そして、ぼくの〈オトコ〉だ」
 囁くように付け加えると、ヤクザだと言い切った三田村の唇が緩んだ。


 公園でのささやかな花見のあと、スーパーで明日までの食料を買い込んでから、三田村の運転する車で帰宅する。もちろん帰宅する先は、自宅マンションではなく、和彦と三田村が二人きりで過ごすための部屋だ。
 久しぶりに部屋に入った和彦は、なんだか懐かしい気持ちになりながら、さほど広くない室内を見回す。一見武骨そうな若頭補佐は、誰よりも気遣いができる。その証拠に、和彦がこの部屋を訪れるたびに、こまごまとした生活用品や雑貨が増えている。
 これまでなかった姿見が壁際に置かれているのを見て、和彦はつい笑ってしまう。洗面所の壁にかかった鏡が小さくて少々不便だと感じていたのは、どうやら自分だけではなかったようだ。次にこの部屋に来たときには、どんな物が増えているだろうかと思いながら、キッチンのほうを見る。三田村は、スーパーで買ってきたものを冷蔵庫に仕舞っている最中だった。
 和彦はベッドに腰掛けると、パーカーを脱ぐ。陽気のよさもあって、外を歩いているうちにすっかり汗をかいてしまった。喉の渇きを自覚したとき、絶妙のタイミングで三田村が声をかけてきた。
「先生、何か飲むか?」
 本当に気遣いが行き届いているなと、内心で苦笑を洩らして和彦は頷く。三田村は、買ってきたばかりのオレンジジュースをグラスに注いで持ってきてくれた。
 ベッドに腰掛けたままグラスに口をつけながら、目の前に立つ三田村を上目遣いで見上げる。とっくに寛いでいる和彦とは対照的に、三田村はまだジャケットすら脱いでいない。
 空になったグラスを受け取ろうと三田村が片手を伸ばしてきたが、反射的に躱す。不思議そうな顔をした三田村に腰を屈めてもらい、和彦はやっと、大事な〈オトコ〉に触れることができる。
 片手を頬に押し当てると、気が緩んだように三田村は顔を綻ばせた。和彦はそっと目を細め、何度も三田村の頬を撫でてから、あごにうっすらと残る細い傷跡に指先を這わせる。ここまでされるがままになっていた三田村がふいに手を伸ばし、今度こそグラスを取り上げられる。
 キッチンまで持っていく時間すら惜しむように、グラスを床の上に置いた三田村が立ち上がり、和彦は肩を掴まれてベッドに押し倒された。
 体中で三田村の重みを感じた瞬間、気が遠くなるような高揚感が和彦の中を駆け抜ける。
「三田村……」
 我ながら赤面したくなるような甘い声で呼びかけると、あっという間に三田村の表情が余裕のないものになる。だが、それは和彦も同じだ。三田村に荒々しく唇を塞がれると、もう何も考えられなくなり、すがりつくように三田村の背に両腕を回していた。
 激しく互いの唇と舌を吸い合い、唾液を啜り合う。まるで口腔を犯すように三田村の熱い舌が押し込まれ、粘膜を舐め回される。その一方で、Tシャツを乱暴にたくし上げられていた。汗ばんだ大きなてのひらに脇腹や腹部を撫でられて、たったそれだけのことでゾクゾクするような疼きを感じる。
 露わになった胸元に、三田村が濡れた唇を押し当ててくる。口づけの荒々しさとは打って変わって、じっくりと丁寧に。身につけているものすべてを脱がせてもらうと、今度は和彦が、三田村の着ているものに手をかける。
 ジャケットを脱がせ、ネクタイを解き、ワイシャツのボタンを一つ、二つと外していたが、突然三田村が体を起こし、自らボタンを外し始める。三田村の体が露わになっていく様子を、和彦はぼうっと見上げる。三田村の体の熱さと感触を、身を捩りたくなるほど待ち焦がれていた。はしたないと感じながらも、早く欲しいと考えてしまう。
 堅苦しいスーツを脱ぎ捨てた三田村は、明らかに高ぶっていた。覆い被さってきた三田村の体に両腕を回そうとした和彦だが、手首を掴まれてベッドに押さえつけられる。三田村は、和彦の体をじっと見下ろしてきた。
 三田村の眼差しは、興奮と冷静さが同居していた。その眼差しの意味を、鼓動を速くしながら和彦は考える。答えらしきものを見つけ出すのに、さほど時間はかからなかった。
「――怖いか?」
 低い声で和彦が問いかけると、三田村はスッと目を細めた。
「総和会会長の〈オンナ〉の体だと思ったら、怖くて手が出せないか?」
 自分でも意外なほど、挑発的な言葉を発していた。和彦は見定めたかったのだ。自分がどれだけ複雑な事情に搦め取られ、厄介な立場に置かれようが、三田村は変わらず〈オトコ〉でいてくれるだろうかと。
 三田村が一瞬でも怯む様子を見せたら、そのときは――。
 本能的な恐怖に襲われそうになったが、振り払ってくれたのは他でもない、三田村だった。
「俺が先生を意識したとき、先生はすでに長嶺組組長の〈オンナ〉だった。その先生に、俺は手を出した。怖ければ、身を引くこともできたのに、そうしなかった。のぼせ上がった青臭いガキのように、我を通すことしか考えられなかったんだ。今も、その状態は変わらない。どれだけ先生の価値が増そうが、俺は引かない」
 三田村はいつから、自分と守光の関係を知っていたのだろうかと、和彦は考える。いつ知ったにせよ、三田村は変わらない態度で接してくれた。つまり三田村は、何も語らないまま、自らの覚悟を示し続けていたことになる。
 ヤクザの上下関係を思えば、賢吾のオンナである和彦と関係を持つだけでも、許されないことなのだ。それが、和彦が総和会会長のオンナとなったことで、三田村がますます複雑な立場に置かれるのは間違いない。
 だが和彦は、三田村との関係を終わらせるつもりはなかった。
「……組長が言ってたな。あんたは、ぼくを長嶺組に留めておくための鎖だと。ぼくのために危険を冒したあんたを見捨てて、ぼくは逃げられない。腹が立つことに、その通りだった」
「正直、もう俺という鎖は必要ないはずだ。もっと太くて頑丈な鎖が、先生を拘束している。総和会会長のオンナになった先生は、どう足掻いてもこの世界から逃げ出せない」
「安心した、と言いたげだな」
 手首を開放され、和彦は両手を伸ばして三田村の髪や頬を撫でる。
「それでもぼくには、三田村将成という鎖が必要だ。逃げ出さないためにじゃない。ぼくがどこかに吹き飛ばされそうになっても、今いる場所にしっかり繋ぎ止めてもらうために、必要なんだ。――ぼくのオトコは、あんただけなんだから」
「すごい、口説き文句だ、先生……」
「興奮したか?」
 煽るように囁くと、三田村の目の色は変わった。虎を背負った男らしく全身から猛々しい気を発し、威圧してくる。和彦は、三田村の変化に煽られ、興奮する。誠実で控えめで優しい男が、欲望に狂ったオトコになるのだ。全身で受け止めて、快楽で応えたくなる。
 開いた両足の間に、三田村がぐっと腰を割り込ませてくる。肌に触れた三田村の欲望は熱くなり、力を漲らせていた。これ以上なくわかりやすい反応に、自分から煽っておきながら和彦は羞恥を覚える。うろたえて顔を背けたが、すかさず三田村に耳朶に噛みつかれた。
「んっ……」
 誘われるように三田村を見上げると唇が重なってきて、深い口づけを交わす。舌を絡め合いながら、和彦は三田村の背に両腕を回し、刺青を撫で回す。それだけで虎はさらに猛り、肉を求めてきた。
 和彦の舌をきつく吸い上げ、歯を立てたあと、三田村が胸元に顔を伏せる。期待と興奮で硬く凝った胸の突起をベロリと舐め上げてから、露骨に濡れた音を立てて吸い始めた。
「あっ、はあっ――」
 肌に触れる三田村の荒い息遣いにすら感じてしまい、和彦は小刻みに身を震わせる。さらに三田村の片手が両足の間に入り込み、反応を示しつつある欲望を握り締められた。和彦は緩く腰を揺らし、吐息を洩らす。
 期待通り和彦の欲望は、三田村の熱い口腔に含まれた。
「うっ、うっ」
 いきなりきつく吸引され、たまらず和彦は大きく背を反らす。恥知らずなほど大きく開いた両足の間では、三田村がゆっくりと頭を上下に動かし始めていた。
 愛しげに欲望に舌が這わされ、丹念に舐められる。そのたびにゾクゾクするような快感が背筋へと駆け上がり、追い討ちをかけるように先端を吸われる。和彦は呻き声を洩らし、気が遠くなるような強烈な感覚を味わう。ひたむきで情熱的な三田村の愛撫に、あっという間に夢中になっていた。
「……三田、村……、三田村っ……」
 和彦の呼びかけに駆り立てられるように、三田村の愛撫が淫らさを増す。たっぷりの唾液を施しながら和彦のものを舐り、武骨な手つきで柔らかな膨らみを揉んでくる。弱みを探り当てられて執拗に弄られた挙げ句、口腔に含まれ、舌先で弄ばれる。同時に、内奥には指を含まされていた。
「あぁっ――、あっ、はっ、ふぅっ……ん」
 三田村の唇と舌、指によって下肢を溶かされると思った。和彦は無意識のうちに上体を捩り、濃厚な愛撫から逃れようとしたが、内奥に付け根まで収まった指を曲げられ、中から強い刺激を与えられる。痺れるような法悦が腰に広がり、簡単に体の動きを封じられていた。
 内奥から指を出し入れされ、ときおり舌を這わされる。男の愛撫に慣らされている場所は、すぐに媚びるように三田村の指を締め付け、物欲しげな蠕動を始める。その反応を待っていたように、三田村が再び両足の間に腰を割り込ませてきた。
 真上から、三田村が食い入るように見下ろしてくる。和彦は、すがりつくように見上げる。
 ひくつく内奥の入口に逞しいものが擦りつけられ、一気に太い部分を呑み込まされる。和彦は上擦った声を控えめに洩らしながら三田村の肩に手をかける。
「先生……」
 覆い被さってきた三田村が、耳元で囁いてくる。ハスキーな声の響きにすら感じてしまい、小さく身震いした和彦は反射的に、内奥に押し入ってくる三田村のものをきつく締め付ける。半ば強引に内奥深くまで押し入られ、さすがに苦痛を感じて身を強張らせたが、緩やかに腰を揺すられているうちに、呆気なく喘ぎ声をこぼすようになる。
「あっ、あっ、あっ……、んっ、んくっ――」
 甘えるように和彦は、三田村の背に再び両腕を回し、虎を撫でる。すると、内奥で慎重に動く三田村の欲望が力強く脈打つのだ。
 息を乱しながら三田村と唇を触れ合わせ、舌先を擦りつけてから、和彦は頭の中を空っぽにして律動に身を任せようとしたが、顔を横に向けた瞬間、あるものが視界に飛び込んできて息を詰める。和彦の異変に素早く気づいた三田村が、耳元に唇を押し当ててきた。
「先生?」
 我に返った和彦は、うろたえながら三田村を見上げる。察しのいい男は、和彦が何を目にしたのか気づいたようだった。
「……すまない。置き場所が悪かったな」
 壁際に置いた姿見を、和彦と三田村は同時に見つめる。鏡に映っているのは、ベッドの上で重なっている二人の姿だった。もっとも、映っているのは肩から上なのだが、それでも、快感に酔う締まりのない自分の顔は、あまり見たいものではない。ただ、鏡を通して見る三田村の姿は別だ。
「あんたに、食われているみたいだ……」
 和彦が子供じみた感想を洩らすと、鏡の中で三田村が柔らかな苦笑を浮かべる。
「そんなに俺が怖く見えるか?」
「まさか。……なんて言えばいいんだろう。貪り食っている感じが――すごく、いい」
 三田村の体が大きく一度だけ震える。それが興奮のためだと知ったのは、次の瞬間に訪れた、快感の波のせいだ。
「うあっ」
 内奥深くを乱暴に突き上げられ、三田村の欲望にぴったりと吸い付いていた襞と粘膜を強く擦られる。まさに、内から貪り食われているようだった。圧倒的な逞しさを持つものに内奥をこじ開けられ、刻印を刻むように熱の塊を押し付けられるのだ。逆らうこともできず、身を差し出すことしかできない。
 和彦は甲高い声を立て続けに上げて、必死に三田村の背にしがみつく。体の内も熱いが、のしかかってくる三田村の体も熱い。
「んっ、くうっ。あっ、いっ、いぃ――。三田村っ、気持ち、い……」
 三田村の肩に額を擦りつけてから、吸い寄せられるようにまた姿見のほうを見てしまう。一方の三田村は、姿見の存在などすっかり忘れたように、ひたすら和彦を見下ろしている。
 自分だけを真摯に見つめ続けてくれる三田村の姿に、和彦は体だけではなく、心で感じてしまう。どれだけ言葉を交わすより、これは自分の唯一の〈オトコ〉なのだと実感していた。
「――先生」
 切望するような声で呼ばれ、鏡に映るものから視線を引き剥がした和彦は今度こそ、本物の三田村をしっかりと見つめる。
 狂おしく唇を塞がれ、口腔を舌で犯され、唾液を流し込まれる。内奥深くには、たっぷりの精を注ぎ込まれる。和彦は、三田村のすべてを嬉々として受け入れ、熱い吐息とともに囁きをこぼす。
「もっと、虎を撫でたいんだ……」
 荒い息をつきながら、三田村は欲しい答えをくれた。
「先生の、望む通りに」


 汗に濡れた体を擦りつけるように密着させ、それでも物足りないのか、三田村の力強い両腕にしっかりと抱き締められる。まるで縛めのような抱擁が心地よくて、吐息を洩らした和彦は、すぐに、内奥深くに埋め込まれた逞しい欲望の存在を意識させられる。
 体の奥から尽きることなく官能が溢れ出し、それは熱い蜜となって反り返った先端から垂れる。和彦は腰をもじつかせ、三田村の引き締まった腹部に擦りつける。もっとあさましく腰を蠢かしたいが、きつく抱き締められているため、それは叶わない。
 三田村は、深く繋がっている感覚を堪能している。そして、視覚でも――。
「うっ……」
 尻に手がかかり、左右に割り開かれる。興奮と羞恥に襲われた和彦は身じろごうとして腰を揺らし、それが無駄であることを再び悟ると、三田村の肩にすがりつく。座って向き合う形で繋がる行為そのものは嫌いではないが、自分の背後に姿見があると思うと、いつにない感覚を味わうことになる。
 例えば、さきほどから姿見を見つめている三田村の目に、自分の姿はどんなふうに映っているのか、と気になってしまうのだ。
 意識しなくても、三田村の欲望をきつく締め付けてしまう。露骨な言葉で煽られたわけでもないのに、勝手に和彦の意識は舞い上がり、乱れる。息を喘がせながら、狂おしく三田村の背の虎を撫で回し、肩に何度も噛み付いていた。三田村も何も感じていないわけではなく、すっかり力を取り戻したものが内奥で力強く脈打っている。
 繋がった部分を指先でなぞられ、声を上げた和彦はビクンと背をしならせる。三田村は、いとおしむようにてのひらで背を撫でてくれた。
「――先生」
 三田村に優しい声で呼ばれ、おずおずと顔を上げる。照れ隠しに、というわけではないが、和彦はささやかな抗議をした。
「不公平だ。あんたの背中が、見えない……。お互いの位置を逆にしたい」
「ダメだ。俺が、先生の体を見られなくなる」
「……ぼくの体は、見たところで珍しくないだろ。普通の、男の体だ」
 そんなことはない、と言い切った三田村が、再び繋がった部分をまさぐってくる。
「振り返って先生も見るといい。この狭い部分で必死に俺のものを咥え込んで、真っ赤になってひくついている。それがいやらしくていい。締まった尻の形もいい。物欲しげにくねる腰も、しなやかに反る背中も。俺にとって――俺たちにとって、特別な体だ。今は、俺だけのものだ」
「三田村……」
 胸がつまった和彦は、三田村のあごの傷跡を舌先でそっと舐め上げてから、唇を重ねる。柔らかく唇を吸い合いながら緩やかに腰を揺らすと、三田村のほうが興奮を抑えきれなくなったのか、和彦の腰を掴んで激しく体を揺さぶってくる。
「うっ……、うあっ、ああっ」
 三田村の背に両腕を回し、必死に掴まる。いつの間にか和彦のものは精を噴き上げていた。下肢に力が入らなくなっているが、それでも内奥を掻き回す逞しいものを必死に締め付ける。もっと三田村に満たされたいし、三田村を満たしたいのだ。
「は、あぁっ、いっ、ぃ――……」
 欲望を奥深くまで突き込まれ、三田村の腕の中で思いきり背を反らした和彦は、恍惚とするあまり、数秒の間、呼吸することを忘れてしまう。
 ふっと我に返って三田村を見ると、驚くほど鋭い目をして姿見を凝視していた。荒い息の下、和彦はつい意地悪な質問をぶつける。
「……見惚れているのか?」
「ああ。先生の体に見惚れている。目に焼き付けている」
 これ以上なく真剣な口調で三田村に返され、和彦のほうがうろたえる。三田村の頬を撫で、耳元に唇を寄せてぼそぼそと呟く。
「意外に男たらしだな、若頭補佐は」
「先生が……相手だからだ。俺みたいな男が持っている言葉も感情も、全部先生に与えたい。そうしても惜しくないと思っている」
 ヤクザなどという物騒な存在のくせに、三田村は真摯で一途だ。対する自分は――。
 いまさら、複数の男と関係を持っていることに後ろめたさはない。和彦がこの世界で安全に暮らすために必要なことだ。打算から始まった関係ではあるものの、どの男にも情を抱いているし、執着もしている。一方で、恐れてもいる。だからこそ、絶妙のバランスを保てているといえる。
「――きっと、こう思っているのは俺だけじゃない。先生を大事にしている男たちは、先生にいろんなものを与えたいと思っているはずだ」
「ぼくを逃がさないために?」
 聞きようによって皮肉と取られても不思議ではない問いかけに、真剣な顔で三田村は頷いた。
「ああ。先生を、この世界から逃がさないために」
 三田村の言葉の響きは、冷徹ですらあった。そこから、この男が胸に抱える覚悟を推し量れるようだ。
 そして和彦は、三田村の覚悟に触発される。この世界で生きていくためには、生ぬるい感傷と思い出にすら折り合いをつけ、利用するべきだと思い知らされるほどに。
「……昔、逆のことを言った人がいたんだ」
 三田村の背を撫でながら、甘く、一方でほろ苦くもある思い出をぽつぽつと語る。和彦の脳裏に浮かぶのは、里見の顔だった。
「早く、この世界から抜け出せって。そのために、自分の行きたい場所に行けるよう、賢く、強くなれと言って、いろんなことを教えてくれた」
「先生にとって、特別な人なんだな……」
「妬けるか?」
 三田村は答えないまま、和彦の腰を掴んで揺さぶる。内奥で脈打つ欲望が一際大きくなり、その反応が何よりも雄弁に三田村の気持ちを物語っているようだ。
 何度も激しく突き上げられ、いつにない三田村の荒々しさに翻弄されながら和彦も、自ら腰を前後に動かす。
「あっ、あっ、んうっ、うぅっ――」
 三田村に掻き抱かれた次の瞬間、二度目の精が内奥に注ぎ込まれた。和彦は全身を小刻みに震わせ、押し寄せる快感に酔う。しかし、満たされた和彦とは違い、三田村の興奮はまだ鎮まっていなかった。抱き締めてくる腕は熱く力強く、内奥で震えるものはまだ逞しさを失っていない。
 さらに求められているとわかり、息を乱しながら和彦は哀願する。
「三田村……、少し、待ってくれ、まだ、体に力が入らない」
「俺を煽ったのは、先生だ」
 そう言って三田村に腰を抱え上げられ、内奥から欲望を引き抜かれる。途端に、注ぎ込まれたばかりの精が溢れ出してきた。もちろん姿見には、その光景がしっかり映っているだろう。三田村は、姿見のほうを見ながら、慎みを失っている内奥に容赦なく指を挿入してきた。
「うっ……」
 和彦は甘い呻き声を洩らして、三田村の指を貪欲に締め付ける。精に塗れた襞と粘膜を擦り上げられるのが気持ちよかったが、何より和彦が感じたのは、三田村がぶつけてくる独占欲と執着心に対してだった。




 夜が更けてからマンションを出た和彦は、足早にコンビニに向けて歩き出しながら、めまぐるしく思考を働かせていた。もちろん、コンビニで何を買おうかと考えているわけではない。
 夕方、三田村と別れてから、和彦の頭の中はある男のことで満たされていた。里見だ。
 これから、いつもの公衆電話から里見に連絡をするのだが、どんなふうに会話を交わせばいいのだろうかと、ずっと考えている。
 自分が今、満ち足りた生活を送っており、それを守るために里見に助けてほしいと言ったらどうするか――。
 先日電話をかけたとき、和彦は里見にこう問いかけ、それに対して里見は、交換条件を出すと答えた。
 今夜は、中途半端に電話を終わらせないと決心していた。佐伯家の動向を知るためにはどうしても、里見は必要だ。住む世界が違い、和彦の味方であると確信が持てない以上、里見を共犯者にするのはありえないし、そうするつもりもない。ただ、少しだけ手を貸してほしかった。
 長嶺組の男たちには一切悟られないよう、佐伯家に対する対抗策を自ら講じるために、里見ともう一度会うことも仕方ないと思っている。
 甘い感傷から、こんなことを考えたのではない。長嶺組と佐伯家との接触を避けるために、自分だけが事態を把握して動くのが最善だという結論を出したのだ。
 街灯に照らされる道の先に、一際明るいコンビニが見えてくる。ほとんど小走りとなった和彦は、一台の車も停まっていない駐車場を横目に、公衆電話に駆け寄った。
 受話器を手に、すっかり覚えてしまった番号を押す。呼び出し音を聞きながら、短く息を吐き出す。ふいに呼び出し音が途切れた。
『思っていたより早く、電話がかかってきた』
 里見は、相手が和彦だと確認しないで話し始める。こんな時間に、公衆電話からかけてくる相手は和彦ぐらいしかいないのだろうが、それでも警戒心がなさすぎではないかと、少しだけ心配になる。
『――わたしが、連絡用の携帯電話を買おう。それを君が使えばいい。知りたいことがあれば、いつでもメールなり、電話をしてくるんだ。そうすればわたしは、佐伯家の動きについて教えてあげられる』
「せっかちだ、里見さん……」
『佐伯家の人たちも、せっかちだ。君の居場所を早く聞き出せと、急かされているところだ』
 ああ、と声を洩らした和彦は、コンビニの店内へと視線を向け、所在なく前髪を掻き上げる。
『わたしが君に肩入れしていると察したら、あの家の人たちはどんな手段を取るかわからない。ことを大げさにしたくないというのは本音だろうが、それ以上に、英俊くんの国政出馬が公になる前に、厄介事を片付けてしまいたいはずだ』
「……ぼくは、厄介事か」
 さすがに里見は、上辺だけの慰めの言葉は発しなかった。佐伯家の中での和彦の存在がどんなものか、里見はよく知っているのだ。
『本当は、君が佐伯家に出向いて、安心してほしいと一言いえば一番なんだろうが』
「会いたく、ない……」
『だったら、わたしと連絡を取り合うしかない。それだけで、君の家族も少しは安心できるはずだ。言いたいことは、わたしの口を通して君に伝えられるんだ。そうしているうちに、いつかは状況も変わるかもしれないしね』
 そうだろうか、と和彦は思う。佐伯家を出たときから、和彦は家族を必要としていなかった。家名を汚さないという最低限の役目を果たしていれば、関わる必要はなかったのだ。そもそも佐伯家が、和彦を必要としていなかった。
 だからこそ今の佐伯家の動きは、妙というしかない。あの家の人間に限って、いまさら情に突き動かされるということは、絶対にありえないのだ。
 忘れかけていた仄暗い感情が、胸の奥にじわじわと広がる。そんな和彦の機微を感じ取ったわけではないだろうが、里見が優しい声で囁いた。
『大人になった君と、またいろんなことを話したい――という下心もある。こんなきっかけでもなかったら、わたしと君は、もう二度と話すことすらなかったかもしれないんだ』
「……そんなふうに言ってもらえるほど、ぼくは立派な大人にはなってないよ」
『でも、いろんな出会いはあっただろ』
 知らず知らずのうちに和彦の頬は熱くなってくる。
「それは――」
 動揺して言葉に詰まった瞬間、突然横から手が伸び、公衆電話のフックを押した。電話が切れ、和彦は状況が理解できなかった。
 身じろぎもできないでいると、耳に当てた受話器を取り上げられて戻される。ここでやっと、ただならぬ事態が自分の身に起きたのだと悟った。
「――先生」
 すっかり慣れ親しんだ呼び方に、おずおずと振り返る。いつの間にか、すぐ背後に長嶺組の組員が立っていた。
「組長がお呼びです。これから本宅にお連れします」
 こう言われたとき和彦は、全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。
 恐怖という感情から。









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