深夜だというのに、本宅の空気はピンと張り詰めていた。
玄関に一歩足を踏み入れただけで和彦はそれを感じ取り、体が強張って動けなくなる。そんな和彦を追い立てるように、組員が声をかけてくる。
「先生、組長がお待ちです」
立ち竦んでいたところで、みっともなく引きずられていくだけだろう。微かに震えを帯びた息を吐き出してから、和彦は靴を脱いだ。
賢吾の部屋の前まで行くと、何も言わず組員は立ち去り、廊下には和彦だけが取り残される。なんと声をかけようかと逡巡していると、中から声がした。
「――入ってこい」
ビクリと身を震わせてから、まるで操られるように障子を開ける。一瞬意外に感じたが、賢吾はまだ浴衣に着替えてはいなかった。もしかすると、すでに寝る準備を整えていたものの、和彦の行動を知って再び着替えたのかもしれない。
とにかく賢吾は、一見平素と変わらない様子で座卓についていた。ぎこちなく障子を閉めた和彦は、賢吾の正面に座る。賢吾は、すぐには口を開かなかった。
息も詰まるような緊張感に押し潰されそうになりながら、和彦は視線を伏せて耐える。激しい動揺に、膝の上に置いた手は小刻みに震え、心臓の鼓動は壊れそうなほど速くなっている。
ただ、深夜に部屋を抜け出して、外から電話をかけていただけなのだ。
状況を端的に説明するなら、それだけだ。しかし、賢吾にとって重要なのは、和彦がそんな行動を取った理由だろう。だから本宅に連れて来られたのだ。
〈オンナ〉の裏切りを疑って――。
頭に浮かんだ言葉に、ゾッと寒気がする。目の前にいる男が、どれほど危険な執着心を持っているか、和彦は知っている。
警戒心が強く慎重でありながら、獲物を絞め殺し、丸呑みできるほど凶暴で冷酷な大蛇を背負った男だ。殺されるかもしれない、と本気で和彦は思った。
いよいよ恐怖と緊張で呼吸困難になりかけたとき、唐突に賢吾が沈黙を破った。
「俺は、自分が執念深い性格だということも、厄介な独占欲を持っていることも自覚している。だからこそ、大事で可愛いオンナを窒息死させないために、寛大であるよう心がけている。お前の淫奔ぶりは、責めるべきものじゃなく、愛でるべきものだと思っているからな。クセのある男たちに大事にされてこそ、オンナっぷりを上げて、ますます俺は骨抜きになる」
どんな表情で賢吾はこんなことを言っているのか、和彦は顔を上げて確認することはできなかった。魅力的なバリトンが、今は太い鞭のように和彦の体に振り下ろされ、一言一言に打ち据えられる。
「――お前は、秘密を抱えると艶を増す。そんなお前を眺めるのは好きだが、それ以上に、その秘密を暴いてやりたくて仕方なくなる。俺が寛大さを示せるのは、俺が作った人間関係の中だけの話だ。俺の知らない誰かと……と考えると、嫉妬で歯噛みして、気が狂いそうになる」
言葉の激しさとは裏腹に、賢吾の口調はあくまで淡々としている。だからこそ、賢吾が内に抱える凶暴さ、狂気ともいえるものに気圧される。手を上げられたわけでもないのに、すでに和彦は気を失いそうになっていた。いやむしろ、そうなりたいと思っていた。
「夜中に部屋を抜け出して、散歩がてら、近くのコンビニに行くことをどうこう言うつもりはない。だがな、それが誰かに秘密の電話をかけるためだとしたら、知らん顔はできねーんだ。臆病な男としては、大事なオンナが逃げ出すための算段を、誰かとしているんじゃないかと、あれこれ考えちまう」
「逃げ出すなんて――」
反射的に顔を上げた和彦は、こちらを見据える賢吾の冷徹な眼差しに射竦められ、一瞬息が止まった。まさに、大蛇が潜む目だった。身を潜め、じっと獲物の動きを追いかけ、食らいつく瞬間を抜け目なく探っている。
和彦は、観念していた。この男に対して、ウソをつくことも、言い訳もできない――許されないと。
「……一つ、教えてくれないか」
震える声で問いかけると、賢吾の口元に薄い笑みが浮かぶ。
「なんだ」
「ぼくが、コンビニまで出かけて電話をかけていると、最初から知っていたのか?」
「後ろ暗いことがあると、必要以上に行動が慎重になるものだ。特に、物騒な世界に身を置いて、物騒な連中に囲まれているとな。……電話一つかけるにしても、クリニックのスタッフにでも携帯を借りればいいし、三田村と一緒に過ごしているときは、お前に甘いあいつの目を盗むぐらいできるはずだ。なのに、それもしない。自分の周囲にいる人間に迷惑をかけたくないからだ。男関係が奔放な分、人間関係には気をつかう性質だからな、お前は」
和彦は改めて、自分がどんな男たちと同じ世界で生きているのかと痛感する。
「さっきも言ったが、夜、部屋を抜け出して、こっそり散歩をするぐらい、口うるさく言うつもりはない。だが、妙な艶っぽさを見せて、ときどき俺の反応をうかがうような表情を見せられると、知らん顔はできねーんだ。俺のオンナは、何かと妙な男に絡まれては、それを隠そうとする癖があるから、俺が気にかけてやらないと。だから――玄関にも、盗聴器を仕掛けさせた」
「えっ……」
全身の血が凍りつきそうな感覚を味わっている中、さらりと衝撃的なことを告げられて、和彦の思考は停止しかける。どういうことなのか考えるまでもなく、賢吾が説明を続けた。
「もちろん、会話を聞くためじゃない。お前が部屋にいる間の、玄関のドアの開け閉めをチェックするためだ。何事もなければ、すぐに外すつもりだったが、そうもいかなくなった」
「……そこまで、するのか……?」
慄然としつつ和彦が洩らすと、表情を消した賢吾が断言した。
「当たり前だ。お前は、長嶺賢吾の特別な〈オンナ〉だからな」
「そんな――」
ここまで聞けば、自分なりに考えたつもりのカムフラージュがいかに無駄なことであったか、理解するのは難しくない。
かつて三田村は、和彦の部屋に仕掛けられた盗聴器の受信アンテナが、マンション近くの物件に置かれていると言っていた。和彦が考えているより、その距離は近いのだろう。玄関のドアの開閉する音を、盗聴器を通して聞いてすぐに、和彦の尾行につけるほどに。
気づかれないまま長嶺組の男たちは監視網を敷き、和彦は呆気なく引っかかったのだ。
「少し舐めていたようだな。長嶺の男が、面子をかけて〈オンナ〉を大事にするってことは、こういうことだ。どんな手を使ってでも手に入れるし、逃がさない。お前の場合、長嶺の男三人分の執着を、その体に背負っているということだ。なんなら色っぽく、恋着と言ってやろうか?」
見えない手に、肩を押さえつけられたようだった。和彦は身じろぎもできず、それどころか瞬きも忘れて賢吾の顔を見つめる。一方の賢吾も、わずかに目を細めて和彦の顔を見据えてくる。
このまま眼差しの威力だけで、呼吸を止められてしまうのではないかと危惧を抱いたとき、賢吾がひどく優しい声で本題を切り出した。
「――さて、こそこそと誰に電話をかけていたのか、教えてもらおうか」
自分に抗う術がないことをすでに悟っている和彦は、空しく目を閉じ息を吐き出す。覚悟を決めたというより、大蛇に追い詰められた非力な獲物としては、取るべき手段は一つしなかった。目を開け、かき集めた勇気を奮い立たせる。
「全部話すが、頼みがある」
「この状況で、俺相手に取引を持ちかけるのは、肝が据わっているとは言わない。単なる命知らずだ。全部聞いてから、俺が判断する」
賢吾の口調に冷たい怒りを感じ取り、ささやかな勇気は潰えた。
和彦はまず、澤村を介して佐伯家から贈られた誕生日プレゼントについて話し始める。プレゼントの財布の中にメッセージカードが入っており、それを書いたのが、自分にとって馴染み深い人物であったこと。待ち合わせ場所と時間が記されており、自分がそれに従い、護衛の組員たちの目を盗んで会いに行ったこと――。
「それから、電話をかけるようになった。父さんや兄さんに信頼されている人だから、いろいろと聞き出そうと思って。……それだけだ」
「ウソだな」
賢吾に断言され、和彦は反射的に視線を逸らす。肯定したも同然だった。
「お前は、この世界での自分の立ち回り方をよくわかっているはずだ。下手に隠し事をするより、最初に正直に話したほうが、組の協力を得て、なおかつ罪悪感を抱えることなく自由に動ける。なのにお前は、秘密にするほうを選んだ。それは、そうするだけの理由があるってことじゃねーのか?」
「……巻き込みたくなかったんだ。〈あの人〉を、ぼくの事情に……」
どうしようもなくて本音を吐露した途端、殺気に頬を撫でられた気がして、一気に鳥肌が立った。おずおずと視線を正面に戻すと、賢吾はじっと和彦を見つめていた。何を考えているか読ませない蛇の目で。
「性質の悪いオンナらしくない、初心な発言だな。お前にとって特別な〈男〉ってことか」
「――……里見、真也。もともと父の部下だった人で、兄の上司でもあった。今は省庁を辞めて、民間のシンクタンクで働いている。ぼくにとっては、家庭教師だった人だ。中学・高校と勉強を見てもらって、実の兄より兄らしく接してくれた」
ここまで話して和彦は口ごもるが、賢吾は容赦なかった。
「それで?」
「ぼくの……初めての相手だ」
こう告げた瞬間、既視感に襲われる。なんのことはない。和彦は鷹津にも同じ台詞を言っていたのだ。その鷹津は、里見の存在を内密にしてほしいという和彦の頼みを無碍にはしなかったようだ。もし鷹津が賢吾に告げていれば、今のこの状況はもっと早くに訪れていたはずだ。
鷹津の意外な義理堅さに報いろうというわけではないが、里見の調査を頼んだことまでは、賢吾に打ち明けられなかった。鷹津は嫌な男だが、こちらの問題に巻き込んでおきながら、長嶺組から何かしらの報復を受ける事態になれば、さすがに申し訳ない。
和彦は震える唇をきつく噛んでから、強い眼差しを賢吾に向ける。
「関係を持っていたのは、高校卒業までの話だ。それ以来、ずっと会ってなかった。最近になってぼくと連絡を取ろうとしたのは、父と兄から頼まれたからだ。ぼくは、佐伯家の情報が欲しかったから、里見さんを利用するつもりだった。あの人も、佐伯家への義理もあって、ぼくと連絡を取り合える立場を確保したがってた」
「無謀だな。会いに行って、佐伯家が待ち構えていると思わなかったのか」
「……あの人は、ぼくの佐伯家での立場を知っている。だからこそ、ぼくを騙したりしない」
「もし裏切られたら、そのときは捕まるのもやむなしと、覚悟していたか?」
賢吾にそう言われて、思わず和彦は目を丸くする。そして首を横に振った。
「そんなこと……考えもしなかった」
「つまりそれぐらい、信用しているということか。――妬けるな」
賢吾の声がゾクリとするような凄みを帯びる。次の瞬間和彦は、大蛇の巨体が大きく動く様を視界に捉えたが、もちろんそんなことがあるはずもなく、実際は、唐突に賢吾が立ち上がり、こちらに近づいてくるところだった。
殴られると思ったが、一瞬にして和彦は覚悟が決まり、傍らに立った賢吾を見上げる。しかし、賢吾はさらに容赦がなかった。冷めた目で見下ろしながら、喉元に手をかけてきたのだ。
「うっ……」
わずかに力が込められ、さすがに和彦は声を洩らす。いつになく熱い賢吾の手は、内に抱えた激情を表しているようだった。〈オンナ〉の賢しい行動に対する憤怒なのか、屈辱なのか、それとも執着なのか――。
このまま縊り殺されるのだろうかと思ったとき、和彦の中を駆け抜けたのは、異常な高揚感だった。それは甘美さを伴っており、今なら苦痛すらも嬉々として受け入れられそうだ。
じっとしている和彦の反応を、賢吾はまったく違う意味に解釈した。
「おとなしいな。いつもなら減らず口で俺を楽しませてくれるのに、さすがに今日はなしか? それとも俺を怒らせて、初めての男に手を出されるのが怖いか?」
「……里見さんは、こちらの世界とは一切関係ないんだ。ぼくは何も言っていない。あんたが手を出したら、かえってヤクザの存在を知られることになって、大事になる」
ほお、と声を洩らし、賢吾は目を細めた。
「俺を脅しているのか?」
「違う……。ただ、あんたと里見さんに、関わり合ってほしくないんだ。――よくも悪くも、あんたと里見さんは、ぼくにとって特別な男だから」
少しの間を置いて、喉元にかかっていた手が退く。賢吾はその場に胡坐をかいて座り込み、和彦の顔を覗き込んできた。
「そこまでお前が入れ込んでいる男に、一度会ってみたいものだな。もちろん、俺の身元は隠して」
賢吾の発言を聞き、和彦は駆け引きも忘れて、悲鳴に近い声を上げた。
「やめてくれっ」
「お前に、俺に意見する権利はないぞ。隠し事をしたのはそっちだ。それに対するケジメをつけたいだけだ」
この部屋に足を踏み入れてからずっと強張っていた体が、やっと和彦の命令通りに動く。賢吾の腕に必死にすがりついていた。
「あの人は、こちらの事情を何も知らないんだ。ただ、ぼくがトラブルに巻き込まれたと思って、心配してくれているだけなんだ」
「だが、お前に手を出した男であることに変わりはない。しかも、堅気だ。お前を連れ戻そうとしているんだろ? 俺は、お前をこの世界に繋ぎとめておこうと苦労している。そのお前が、昔の男と連絡を取り合っていたと知って黙っていられるほど、優しくはねーぞ」
説明を重ねても無駄だと、すでにもう和彦は悟り始めていた。賢吾にとって里見は、自分からオンナを引き離そうとする敵なのだ。
長嶺の男の独占欲は怖い――。そのことを知っているつもりだったが、賢吾が和彦の喉元に突きつけてくるそれは、鋭い刃そのものだ。和彦が逃げ出すと感じれば、容赦なく刺し貫いてくるだろう。自分の独占欲を満たすために。
そして和彦は、賢吾が向けてくる傲慢な独占欲にどうしようもなく惹かれるのだ。
賢吾の腕を掴む指に力を込める。
「……ケジメをつけるなら、ぼくだけにしてくれ。指を、落としてもいい。あんたの、気が済むように……」
和彦の真意を探るように、手荒く後ろ髪を掴んだ賢吾が間近から目を覗き込んでくる。向けられる静かな殺気に気圧されそうになりながらも、必死に和彦は見つめ返す。数分ほど見つめ合い――というより、睨み合ってから、後ろ髪から手が離れる。次に賢吾が掴んできたのは、和彦の指だった。
「医者の指を落とすわけがないだろ。これは大事な商品だ。これから先も、物騒な男たちの面倒を見るんだ。何より、俺の背中のものを可愛がってもらわねーと」
魅力的なバリトンを際立たせる囁きに、和彦は目を見開く。そんな和彦の頬を、賢吾は手荒く撫でてきた。馴染み深いその感触に、一瞬だけ気が緩みかける。すかさず、冷ややかな声で賢吾が告げた。
「俺は、〈オンナ〉には覚悟は求めない。求めるなら、操立てだ。いまさら、他の男と寝るなと言うわけじゃない。気持ちの問題だ。堅気の男に心を許さない、というな」
「何を、すればいいんだ……?」
問いかけながら和彦は、確信めいたものがあった。一年に及ぶ賢吾との関係で、自分が何を求められてきたか、しっかりと覚えていたからだ。
賢吾が答える前に、廊下を歩いてくる抑えた足音がした。
「――組長、準備ができました」
障子の向こうから声がかかると、賢吾は勢いよく立ち上がり、和彦に向けて手を差し出してくる。
「行くぞ」
本能的な怯えから、座ったまま和彦は後退る。しかし有無を言わせず賢吾に腕を掴まれ、強引に引き立たされた。
「どこにっ……」
「客間だ。そこに準備を整えさせた」
何を、と問いかける間もなく、部屋から引きずり出される。半ばパニック状態に陥った和彦は、必死に賢吾の手を振り払おうとしたが、無情にももう片方の腕も組員に掴まれた。本宅に出入りをするようになってから、こんなに手荒な扱いを受けるのは初めてだった。だからこそ、何が待ち受けているのか怖くてたまらない。
賢吾に連れて行かれたのは、和彦がいつも泊まっているのとは別の客間だった。
障子が開けられると、部屋の中央には布団が敷かれていた。その周囲に白い布が敷かれ、滅菌パウチや小さなボトルがずらりと並んでいる。これだけ見ても、和彦には状況が理解できなかった。
背を押されて部屋に入ると、微かな消毒薬の匂いが鼻先を掠める。わずかに眉をひそめた和彦は、布団の傍らに座った見慣れない中年の男に目を止める。正確には、男の手元に。銀色の冷たい光を放つ細長いものを、布の上に丁寧に並べているところだった。それが特殊な形状をした針だとわかり、総毛立つ。
強張る肩に賢吾の手がかかる。
「俺のわがままは聞き入れられなくても、操立てのためだとしたら、体に墨を入れられるだろ。心配するな。いきなり大きなものを入れたりしない。小さな花で勘弁してやる」
羽織っていたジャケットを脱がされ、Tシャツをめくり上げられそうになる。思わず身を捩って抵抗しようとしたが、布団の上に突き飛ばされ、馬乗りになってきた賢吾に強引に脱がされる。その間、和彦は声を上げなかった。本能的なものとして抵抗はしたものの、本当はわかっている。この男が求めるなら、自分は応じるしかないのだと。
上半身裸となった和彦の体を見下ろし、賢吾は口元を緩める。肌に残る三田村との情交の跡を指先で触れてきた。
「次にお前の体を見たとき、三田村は驚くだろうな。なんなら、俺が許可している男の数だけ、花を彫ってみるか?」
顔を強張らせたまま和彦は、やっと声を絞り出した。
「あんたの気が済むなら……。それで、操を立てたことになるなら、好きにすればいい」
「痛いのが何より苦手なくせに、そんなことを言っていいのか? 肌に針で傷をつけるんだ。かなり痛いぞ」
想像するだけで気が遠くなりかける。それでも和彦は、嫌だとは言わなかった。覚悟が決まったというより、拒める状況ではないという諦観に近い。だが、賢吾のために、という気持ちだけは確かなものだった。
里見に対して、昔抱いたような感情はすでにないと信じてもらうために、賢吾が求める儀式を受け入れるのだ。
唇を引き結んだ和彦の表情を見て、賢吾はスッと体の上から退いた。和彦はうつ伏せにされ、男たちに左右からしっかりと肩を押さえつけられた。体に加わる圧力に、それだけで和彦はパニックを起こしそうになる。
やめてくれという言葉が、口から出かかっていた。このとき、大蛇を潜ませた賢吾の目が脳裏に蘇り、寸前のところで呑み込む。
大蛇の化身のような男の執着が、全身に絡みついてくるようだった。その執着が、刺青として体に刻み込まれるのだ。嫌悪と恐怖だけではなく、服従したいという強い衝動が和彦の中でぶつかり合う。
そこに前触れもなく、腰に鋭い痛みが生まれる。この瞬間、和彦の意識は弾け飛んでいた。
和彦がゆっくりと目を開けると、視界に飛び込んできたのは、薄ぼんやりとした明かりで照らされる、見慣れた客間の天井だった。
いつ自分は、本宅に泊まることになったのか――。
緩慢な思考を働かせてそんなことを考えていたが、すぐに、自分の身に起こったことを思い出し、目を見開く。布団の中で身じろいだ拍子に、浴衣に着替えさせられていることを知り、慌てて腰をまさぐる。針が突き刺さった感触が蘇ったが、不思議なことに、痛みは残っていなかった。
「――心配するな。針で一刺ししただけだ」
すぐ側から声がかかり、顔をそちらに向ける。布団の傍らに胡坐をかいた賢吾が、じっと和彦を見下ろしていた。
まだ少し、頭が混乱している。和彦は慎重に体を起こし、辺りを見回す。確かに、和彦がいつも使っている客間だった。それを確認してからもう一度、浴衣の上から腰に触れる。
「先生に、こっちは本気だと信じ込ませるためにやったんだ」
賢吾の言葉に、和彦はただ困惑する。空しく唇を動かすと、自嘲気味に笑って賢吾は続ける。
「が、実はギリギリまで迷っていた。この機会に、いっそのこと俺の証でも入れちまおうか、ってな。もっとも、痛いのが何より嫌だという先生が、針で刺されて声も上げずに気を失ったのを見たら、その気は萎えた。大事で可愛いオンナを痛めつけるのは、どうやら俺の趣味じゃなかったようだ」
ここで賢吾が片手を伸ばしてきたため、一瞬殴られるのかと思った和彦はビクリと体を震わせる。賢吾は、寝乱れた和彦の髪を撫でてきた。
「先生はこの世界にいて、きれいな体でいるから価値がある。一時の独占欲に駆られて、無体なことはできねーな」
和彦は、優しい声で話す賢吾を、うかがうように見つめる。次の瞬間には様子が一変するのではないかと考えると、まだ怖いのだ。そんな和彦に対して賢吾は、辛抱強く髪を撫でてくる。
「先生はいい加減、自分が隠し事に向かない人間なんだと理解するべきだな。秦や鷹津のときもそうだっただろ。自分の保身のためだけじゃなく、相手の男の心配なんてものまでするから、身動きが取れなくなる。最初から、なんでも俺に打ち明けておけば、悩まなくていいし、罪悪感も抱えなくて済む」
「……住む世界が違いすぎる。秦や鷹津はともかく、里見さんは……表の世界の人間だ。そういう人間は、ヤクザと関わって失うものが大きすぎる」
「かつての先生のようにか?」
ため息をついて和彦は頷く。いまさら、そのことで賢吾を――長嶺組の人間を責めるつもりはなかった。最初はともかく、すでに和彦はこの世界に馴染み、居心地のよさすら感じている。
「あの人には、これまで通りの生活を送ってほしい。久しぶりに会って、いろいろと込み上げてくる感情はあったけど、だからといって、昔のような関係になりたいわけじゃないんだ。でも……、隠れて電話をしていて、少し楽しかったかもしれない。実家の情報を引き出すということを、理由にしていた」
髪を撫でていた賢吾の手が肩にかかり、引き寄せられる。ぎこちなく賢吾の胸にもたれかかった和彦は、そっと問いかけた。
「もっとぼくを泳がせて、里見さんと会っている現場を押さえようと思わなかったのか? そのほうが、ぼくからあれこれ聞き出すより、確実だったはずだ。ぼくが……ウソをつかないとは限らなかったはずだし」
肩を掴む大きな手にぐっと力が込められる。
「自分のオンナが、よその男を想って心が揺れている様を、指を咥えてもっと見ていろと言うのか? それは拷問だぞ、先生。それに俺は、先生の昔の男となんとしても会いたいわけじゃない」
「……そう、なのか……?」
「今回のことは、ヤクザも組も関係ない。俺と先生の、信頼の問題だと思っている」
こう感じるのは変なのかもしれないが、賢吾の言葉が嬉しかった。本音を言っているとも限らないのに、胸の奥深くにズンと突き刺さる。これが本音であってほしいと、和彦自身が願ったせいかもしれない。
「信頼、か……」
「ヤクザが何を言ってる、なんて笑うなよ」
「――……そんな命知らずなこと、するわけないだろ」
「いつもの調子が出てきたじゃねーか、先生」
そうでもない、と和彦は口中で答える。こうして賢吾に身を預けていても、次の瞬間には大蛇の化身らしい本性を見せられるのではないかと、つい想像してしまうのだ。それほど、自分の体に馬乗りになり、刺青を入れると言った賢吾は怖かった。
しかしその怖さは、賢吾が抱える和彦への執着の強さを表してもいる。
賢吾の手が、肩から背、そして腰へと移動する。物騒な言葉が和彦の耳に届いた。
「次にこんなことがあったら、何日だろうが部屋に閉じ込めて、先生の体に艶やかな絵を彫ってやるからな」
ハッとして顔を上げると、賢吾は薄い笑みを口元に刻んでいた。
「そして――相手の男は殺す」
急に寒気を感じて和彦は身震いする。本当は賢吾から体を離したかったが、その途端、機嫌を損ねた大蛇の牙が首筋に突き立てられそうで、動けなかった。
賢吾は決して、和彦の背信行為を許したわけではないのだ。
「先生にもう一台、携帯電話を用意してやる。それで、昔の男と連絡を取ればいい。上手く男を操って、佐伯家の動きを探るんだ。自分の身と生活を守るために。利用するためだと割り切れるなら、接触するのも許してやってもいい。組の人間を護衛につけて、だが」
「……あんたは本当に、怒っているんだな」
和彦がぽつりと洩らすと、優しい手つきで頬を撫でられる。
「ああ、怒っている。先生が俺に隠し事をしていたことにな。だから、先生が隠そうとしていたものを利用してやる。痛みを与えることだけが、相手を罰する方法じゃない。こういうやり方だってあるんだ」
賢吾の冷酷さが、心地いい。
和彦はようやく自分から賢吾に身をすり寄せると、広い背に両腕を回し、服の上から大蛇を撫でる。賢吾も、しっかりと和彦を抱き締めてきた。
「まだ明け方だ。今日はクリニックを休みにするよう連絡を入れておくから、今日はゆっくり休め」
「でも、予約が入って――」
「先生の本業は、物騒な男たちの世話だろ。俺を宥めて、やれやれと思っているかもしれないが、もう少ししたら、事情を知った子犬がキャンキャン吠えて本宅に戻ってくるぞ」
ここまで言われては仕方ない。スタッフや患者には申し訳ないが、今日の予約は、和彦が急病だと告げて日にちをズラしてもらうしかないだろう。
「いいな?」
否とは言わせない賢吾の短い問いかけに、ゆっくりと目を閉じて和彦は頷いた。
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