座卓についた和彦は、何度目かのため息を洩らすと、所在なく室内を見回す。
監禁されているわけではないため客間を出てもいいのだが、夜、あんな騒動があったあとで、組員たちとまともに顔を合わせられない。いつも和彦の食事の面倒を見てくれている組員も、そんな和彦の心情を慮ったらしく、朝食をわざわざ客間に運んでくれた。ただ、その朝食は喉を通らなかった。
衝撃的な出来事の余韻は、数時間ほど布団に入ったぐらいで消えるはずもなく、まだ呆然としているような状態だ。クリニックのスタッフや、予約を入れていた患者には申し訳ないが、今日は無理をして出勤したところで、仕事にはならなかっただろう。
賢吾は和彦の状態を見越すだけではなく、隠し事すらを見透かしてしまう。いまさらながら、自分はとてつもなく怖い男の〈オンナ〉なのだと痛感していた。
針が刺さった腰の辺りを、羽織ったカーディガンの上からまさぐる。針は決して深く刺さったわけではないし、もしかすると肌の上を滑っただけなのかもしれないが、和彦の全身を駆け巡った鋭い痛みは本物だ。
周囲の男たちに大事にされているせいで、最近はすっかり痛みに対して無防備になっていたと和彦は思う。皮肉にもその男たちは、必要であればいくらでも、他人に痛みを与えられる非情さを持っている。
それどころか、あえて痛みを自分の身に受け入れる男もいるぐらいだ。痛みの果てに、おぞましくも艶かしい刺青を体に宿すために。
これまで目にした男たちの生々しい刺青が脳裏に蘇り、眩暈にも似た感覚に襲われる。
急に居たたまれない気持ちになり、慌てて立ち上がった和彦はやっと障子を開ける。視界に飛び込んできた中庭は、春らしい柔らかな陽射しに溢れていた。
少しの間、立ったままぼんやりと中庭を眺めていた和彦の耳に、慌ただしい足音が届く。何事かと思って廊下に顔を出してみると、スーツ姿の千尋が血相を変えてこちらに向かってくるところだった。
側まできた千尋に、いきなり強く抱き締められる。
「おい――」
「……よかった、無事だったっ……」
呻くように千尋が洩らした言葉に、和彦は目を丸くする。どうしたのかと問いかけようとして、夜、賢吾が枕元で洩らした言葉を思い出した。
「お前、聞いた、のか?」
「聞いた。総和会の本部に泊まっていて、夜中に連絡が入ったんだ。俺はすぐに本宅に帰ろうとしたけど、組の人間に止められた。今は修羅場中だから、そこに俺まで加わったら収拾がつかなくなるからってさ。それで今朝、こうして戻ってきたわけ」
流血沙汰にはならなかったが、確かに修羅場ではあった。千尋に連絡を入れた組員の判断は正しかったといわざるをえないだろう。賢吾と向き合うだけで、限界まで神経をすり減らした和彦には、千尋の強い眼差しまで受け止める余裕はなかった。
「……心配で、一睡もできなかった」
そう言って千尋が吐息を洩らし、和彦の罪悪感が疼く。千尋の顔を一目見れば、どれだけ心配してくれていたのか十分察することはできた。和彦は、千尋の背を優しく撫でながら応じる。
「すまない……。心配をかけた」
ここで千尋が間近まで顔を寄せてきて、射竦めてくるようなきつい眼差しで和彦を見据えてきた。
「――それで先生、浮気したの?」
あまりに単刀直入な物言いに絶句した和彦だが、すぐに否定する。
「してないっ」
「でも、誤解させるような行動は取った?」
和彦を〈オンナ〉として扱う男らしく、千尋の口調には、賢吾ほどではないにしても厳しさがあった。こうして本宅に戻ってきたのも、和彦を心配するだけではなく、真実を知る権利を行使するためでもあったのだろう。
千尋を甘く見てはいけない。和彦は、心の中で自分に言い聞かせながら、小さく頷く。
「ぼくは――」
和彦が話し始めようとしたとき、突然千尋が片手を上げて制した。
「待った。先に着替えてくる」
「……ああ。今日はクリニックを休んだから、時間はたっぷりある」
自嘲気味に和彦が答えると、千尋は人懐こい笑みを浮かべ、額と額を合わせてきた。
「しょんぼりしてる先生、可愛い」
「うるさい。さっさと着替えてこい」
強気を装って和彦が肩を押し返すと、千尋は小さく笑い声を洩らしながら、部屋にやってきたときとは対照的に、やけに軽い足取りで出て行った。
和彦が事情を説明している間、千尋は威圧的な態度は一切取らなかった。畳の上にあぐらをかいて座り込み、真剣な顔で黙って話を聞き続けていた。一方の和彦は、正座だ。
普段、喜怒哀楽をはっきりと表に出すタイプの千尋だが、いざとなればいくらでも感情の抑制が利くのだ。里見の存在を知り、胸の内でどんなことを思ったのかすら、和彦は読めなかったぐらいだ。
「――……刺青を入れられそうになった」
この話題を切り出すとようやく、千尋は顔をしかめる。
「オヤジが先生に刺青を入れさせてたら、俺は絶対、オヤジに殴りかかってたな」
その賢吾は、和彦が朝目を覚ましたときには、すでに出かけていた。
「操を立てろと言われたんだ。刺青を入れることで組長が納得するなら、ぼくは受け入れるつもりだった。でも結局……」
「勢いだけでタトゥー入れた俺が言えた義理じゃないけどさ、理由を他人に求めると、絶対後悔する。俺は、オヤジが嫌がる顔を見たかったんだ。先生は、オヤジに対する操立てで。病気になるかもしれないリスクを背負って体に墨を入れるなら、自分自身がそうしたいと思えるまで気持ちを突き詰めないと、理由を求めた相手を――恨むことになる」
「……そうだな」
「もっとも、先生はもうとっくに、オヤジを恨んでるかもしれないけどさ」
千尋がちらりと笑みをこぼし、つられて和彦も笑ってしまう。賢吾のせいで裏の世界に引きずり込まれたことを思えば、心底恨んでも仕方がないのだろう。だが、その賢吾の強引さと、残酷なまでの優しさに翻弄されているうちに、恨みの感情を抱く暇すら与えられなかった気がする。
突然千尋が、芝居がかった動作でポンッと手を打つ。
「そうなると、俺も先生に恨まれるかもしれないのか」
「恨まれたいのか?」
「先生の特別な男になれるなら、それもいいかも」
苦い表情で返した和彦は、ここでやっと、肝心の質問を千尋にぶつけることができた。
「――……千尋、怒っているか?」
「俺の分まで、オヤジが暴れたようなもんだから、それはないかな。でも、不思議な感じだ」
和彦が首を傾げると、膝が触れるほど近くまで千尋がにじり寄り、手を握ってくる。
「世の中に、何も知らなかった先生とつき合っていた男がいるんだなと思うと。高校生のときの先生はどんな感じだったのか、すげー気になる。あっ、先生の書斎にあった写真撮ったの、その男だろ?」
「……そうだ」
「やっぱりな。特別って感じだよな。嫉妬もあるけど、でもそれより、好奇心が勝っているというか」
「そういうものなのか……」
「俺、嫉妬や独占欲とのつき合い方は上手いんだよ。年上の恋人を最初にオヤジに横取りされたときから、数年先を見据えるようにした。今は独占できない恋人を、将来は俺だけのものにすると決めてあるから、恋人が過去、どんな男とつき合っていようが、俺との将来には関係ない。過去は過去。そのときには戻れない。――戻すつもりもないし」
子供っぽいかと思えば、食えないヤクザらしい面も持ち合わせ、直情的な一方で、打算的な言動も取れる青年は、和彦の想像を超えてしたたかだ。
「……ときどきお前の、一途というか、純粋なところが怖くなるときがある。お前が向けてくれる気持ちを、ぼくは受け止めきれるんだろうかと考えるんだ」
「できるよ、先生なら。今だって、何人もの男の気持ちを受け止めているぐらいなんだから。むしろ、受け止めてもらわなきゃ困る」
きっぱりと断言され、和彦は口中で呟く。長嶺の男は怖い、と。
千尋はニヤリと食えない笑みを見せると、次の瞬間には真剣な顔となった。
「――その長嶺の男として、先生にケジメをつけてもらいたい。オヤジに操を立てて、俺には何もなしってのは、不平等だよね」
和彦は反射的に姿勢を正すと、千尋の手を握り返した。
「わがままを言える立場じゃないのはわかっているが……、痛いのは嫌だ」
「この状況で、組長の息子にそういうことを言えるのが、先生だよなー」
そんなことを言った千尋が、思いがけない行動を取る。いきなり畳に転がったかと思うと、和彦の腿に頭をのせてきたのだ。
「おい――」
困惑する和彦にかまわず、千尋は眠そうに目を細める。
「俺、先生が心配で一睡もしてないって言っただろ。だから、膝枕で少し仮眠とらせて」
「寝たいなら、布団を敷けっ。こんな格好じゃ寛げないだろ」
「嫌なら、俺の頭を押しのけていいけど」
できないだろ、と言いたげに見上げてくる千尋の頬を軽く叩きはしたものの、もちろん和彦は押しのけたりはしない。
「……甘ったれ」
「いいじゃん。俺がこんなふうに甘えるの、先生だけなんだから」
この光景は賢吾には見せられないなと思いながら、和彦は千尋の茶色の髪をそっと撫でる。心地よさそうにゆっくりと目を閉じた千尋が、甘ったれらしい質問をぶつけてきた。
「先生、刺青を入れられそうになって、うちの組のこと、嫌いになったりしてない?」
和彦は声を洩らして笑ってしまう。
「この状況で、嫌いになったなんて、言えるわけないだろ。というか、言わせるつもりがないだろ」
「俺は、ヤクザだからね。先生から欲しい答えをもぎ取るためなら、なんでもする。――痛いこと以外は」
「紳士だな……」
「先生に嫌われたくないから」
返事のしようがなくて唇を引き結ぶと、かまわず千尋は言葉を続けた。
「俺が起きたら、気分転換に買い物行こうよ。前に約束した通り、ゴルフを始めるなら、いろいろ揃えておかないと。今日はクリニック休みにしたんだろ?」
「……あまり、外出したい気分じゃないんだ」
「だからこそ、出かけるんだよ。先生まだ、オヤジにされたことにびっくりして、感情が麻痺しているように見える。放っておいたら、一日中でもこの部屋でぼうっと座り込んでそうだ。今のうちに刺激を与えて、元の先生に戻ってもらわないと」
和彦を外に連れ出すための詭弁に思えなくもないが、子供が駄々をこねているような、どこか甘えたような口調で千尋に言われると、無碍にもできない。
どうしようかと迷っているうちに、千尋があくびを洩らす。いかにも眠そうな千尋相手に理屈をこねるわけにもいかず、和彦は小さく頷いていた。
千尋の髪を撫でながら、中庭に視線を向ける。まだ朝の慌ただしい時間だというのに、この部屋だけは緩やかな空気が流れ、静かだった。だがそのうち、子供のように健やかな寝息が聞こえてくる。
男の膝枕など感触がいいとも思えないのだが、関係ないとばかりに千尋は寝入っていた。和彦を心配して一睡もできなかったというのは、どうやら本当だったようだ。
再び罪悪感が疼き、千尋の髪にそっと指を絡める。この罪悪感が和らぐのなら、いくらでも膝枕ぐらい提供しようと思った。
だがその気持ちは、十分もしないうちに揺らぐことになる。
正座をしたままのうえに、男一人の頭を膝にのせているせいで、足が痺れてきたのだ。しかし、千尋を起こしたくないので足を崩すことができない。
実はこれは、千尋がいつもの甘ったれぶりを発揮したようでいて、和彦に罰を与えるための罠だったのではないかとすら考えてしまう。
これならまだ、添い寝をしてくれとせがまれたほうがよかったと思いながらも、それでも和彦は、千尋を起こすことだけはできなかった。
「――確かに、これも花見だな」
紙コップに入ったワインを空にした和彦は、外の景色に改めて視線を向けて、しみじみと洩らす。
ビルから夜桜を見下ろしながら、という説明は事前に受けていたが、確かにそれは間違っていない。ただ和彦は、元ホスト二人が招待してくれるということで、勝手に想像をしていたのだ。ライトアップされた桜並木を見下ろせる、シャレた店を貸し切りにしているのだろうな、と。
この想像は半分正解、残り半分は――といったところだ。
大通りの一角に窮屈そうに建っている、細長い雑居ビルの最上階である六階からは、渋滞する道路も、大勢の人が行き来する歩道の様子もよく見える。そして、沿道に植えられた桜の木も。満開の時期を過ぎ、すでに葉桜になりつつあるが、それでもささやかながら花を残していた。
夜だからといってわざわざライトアップする必要もなく、夜の街を彩る明かりのほぼすべてが、わずかな桜の花を照らしている。夜の大通りは明るいというよりきらびやかで、風情がないといってしまうのは簡単だが、変わった趣きの夜桜が楽しめる。
紙コップにワインを注いだ秦が口を開いた。
「ここは殺風景ですが、外を眺める分には問題ないでしょう?」
「殺風景……」
ソファの背もたれから身を起こした和彦は、自分が今滞在している場所を見回す。元は個人経営のカフェがテナントとして入っていたということで、その名残りがそこかしこに残っている。慌ただしい廃業だったらしく、隅に押しやられたテーブルやイスが物悲しい感じもするが、どちらかというと殺風景というより、雑多な空間だ。
もっともそのおかげで、花見の宴の準備が楽だったともいえる。窓際にソファとイスを移動させて、段ボールをひっくり返しただけの簡易テーブルを作ったのだ。オードブルと飲み物は、近くのデパートで買い込んできた。
「花見の場所としては穴場だが、よくこんなところを見つけられたな。というより、よく入れたな」
「契約したんですよ、秦さんが」
そう答えたのは、コンビニから戻ってきた中嶋だ。段ボール――テーブルの上に、買ってきたばかりの缶ビールをどんどん並べていく。
「夜桜見物のために?」
「そこまで豪気じゃありませんよ、わたしは」
イスに腰掛けた秦は品のいい苦笑いを浮かべ、紙皿にオードブルを取り分けると、和彦の隣に座った中嶋にさっそく差し出した。喉が渇いていたのか中嶋は、缶ビールを開けて勢いよく呷る。
「ここで輸入雑貨屋を開くんです」
中嶋の飲みっぷりに目を奪われていた和彦の耳に、予想外の言葉が届く。一瞬、聞き間違いかと思ったぐらいだ。
「……誰が、何を?」
「わたしが、この場所で、輸入雑貨屋を開くんです。親会社は、起業したばかりの小さな輸入商社で、事業計画としては、今後さらに店舗を増やしていく予定です。オーナーの名義はわたしではなく、別人になりますが。先生のクリニックと同じ方式ですよ」
秦の話によって、和彦の脳裏に浮かぶ人物はたった一人だ。わずかに顔をしかめると、こちらの言いたいことを察したのか、秦はニヤリと笑った。
「そんな顔しないでください。真っ当な商売をするつもりなんですから」
「正体不明の実業家とヤクザが組んでいる時点で、信じられるわけないだろ」
「客として来る人間には、そんなことはわかりませんよ。あくまで、正規のルートで仕入れたものを売るだけですから。必要なのは、海外からあれこれ輸入して販売している業者がここにいる、という既成事実ですよ。扱う物によっては、きちんと役所に届け出て、許可をもらいますし」
「……本当に、扱うのは『雑貨』だけなのか?」
露骨に怪しむ和彦の問いかけに、秦はこう応じた。
「女性向けの雑貨を充実させていく過程で、おいおい扱う商品の種類も増えていくでしょうね。そのためにも、医者の診断書も必要になることがあるでしょうから、そのときはよろしくお願いします」
「医者の診断書が必要になるのは、薬事法が関わってくる商品を扱うときだ」
秦が妖しさをたっぷり含んだ流し目を寄越してくる。それを見た和彦は改めて確信する。秦と賢吾――長嶺組が組んで、真っ当な輸入雑貨屋を営むつもりはないのだと。女性向け商品で薬事法が関わってくる商品として、まず化粧品が頭に浮かぶが、それらを輸入したところで、組のビジネスとして満足できる売り上げがあるとは思えないのだ。
だとすれば、大掛かりな準備をしてまで、何を手に入れようとしているのか。
和彦が目まぐるしく頭を働かせようとしたとき、イスからソファの端に座り直した秦に、顔を覗き込まれる。
「そう、難しいことじゃないですよ。一気に手広く輸入ビジネスを始めるだけです。わたしの親戚筋がそういう仕事をしているので、ノウハウについても詳しいんです。この間の海外出張も、その下準備のためでした」
説明しているようでいて、実は詳しいことは言っていない。ここは素直に丸め込まれるべきなのだろうかと思いながら、和彦は視線を反対隣に向ける。中嶋は、すでに二本目の缶ビールを開けているところだった。目が合うと、芝居がかった仕種で肩をすくめられる。
「ダメですよ、先生。秦さんは、俺にも同じことしか言わないんです。美味しい話なら、俺も一枚噛ませてほしいんですけどね」
「そのうち、お前の手も必要になるだろうから、そのときは嫌でも協力させる」
「おや、楽しみですね」
かつての秦は、中嶋が自分に深入りすることを、厄介事に巻き込みたくないからと避けたがる傾向があったようだが、このやり取りを聞く限り、変わりつつあるようだ。もちろん、情だけが理由ではないだろう。互いの存在が利用できると、秦も中嶋もよく知っている。
そして和彦は、この二人にとって非常に使い勝手のいい存在なのだ。
「――……派手に動いて大丈夫なのか?」
これまでもヤクザと関わる仕事をしていた男に対して、杞憂かと思いつつも、つい言葉が口をついて出る。秦と中嶋は顔を見合わせてから、表情を和らげた。
「心配してくれるんですか、先生」
「こんな世界に身を置いて言うことじゃないかもしれないが、〈友人〉が痛い目に遭うのは見たくない」
「優しいですね」
さらりと秦に言われ、和彦は返事に困る。
「……優しくない。気になるから聞いただけだ」
こう答えた途端、隣から抑えた笑い声が聞こえてくる。中嶋が顔を伏せて笑っていた。そんな中嶋の肩を軽く小突いて、和彦は紙コップのワインを飲み干す。
ふっと息を吐き出してソファに深くもたれかかる。大通りを挟んで正面には、大型書店の入ったビルがあるが、すべての階の電気が消えており、人工の光に溢れた大通りの中、今は夜なのだと実感させてくれる。ビルの一室から街の景色を眺めながら、人目を気にすることなく寛ぐというのも、なんだか妙な気分だった。
桜が開花を始めてから、あまりにさまざまなことがあり、物理的にも精神的にも忙しすぎた。ようやく金曜日かとほっと一息をついたところに、絶妙のタイミングで秦から連絡が入り、約束通りこうして夜桜見物をするに至ったというわけだ。
「心配といえば、今夜先生を夜遊びに誘うことを長嶺組長に報告したら、たっぷり息抜きをさせてほしいと頼まれましたよ。様子を気にかけてやってほしいとも。ああいう方なので、感情を表には出さないでしょうが、なんとなく、先生を心配しているように感じました」
あくまで自然な調子で秦が切り出し、身に覚えがありすぎる和彦は苦い表情を浮かべ、そんな和彦を、中嶋は興味深そうに見つめてくる。
この二人はどこまで知っているのだろうかと、左右に座る男たちの様子をうかがいつつ、仕方なく口を開く。
「……いろいろと、あったんだ」
まさか、浮気を疑われて大変だったと正直に答えるわけにもいかない。大雑把すぎる表現をしてみたものの、当然のように二人が納得するはずもなかった。特に中嶋は、すでにアルコールが回り始めているのか、やけに楽しげな顔で切り出してきた。
「今週の日曜日、長嶺組の本宅に、妙な時間に彫り師が呼ばれた、という情報を耳にしたんですが――」
「ぼくは、何も彫られてないからなっ」
思わずムキになって和彦が反応すると、数秒の間を置いて中嶋がくっくと声を洩らして笑う。これでは、何かあったと白状したも同然だ。そんな和彦に追い討ちをかけるように、秦までもがこう言った。
「先生は正直だ」
「二人して、ぼくをからかって楽しんでいるだろ……」
自分で紙コップにワインを注ぐと、勢いよく飲む。どうせ明日はクリニックは休みだと思うと、多少ハメを外してみたくなった。賢吾にしても、息抜きをさせてほしいと秦に頼んだということは、こういうことを望んでいたはずだ。なんといっても秦と中嶋は、今いる世界での和彦の数少ない友人だ。
多少、〈特殊〉な友人ではあるが――。
紙コップを置こうとした和彦はここで、あることに気づいた。
「ところで、長嶺組の本宅に彫り師が呼ばれたなんて情報、どこから君の耳に入ったんだ?」
和彦がぶつけた疑問を、中嶋は澄ました顔で受け流す。代わって答えたのは、秦だった。
「組を顧客に持つ彫り師は、仕事のことを口外したりしませんが、だからといって、その弟子やスタッフまでそうとは限りません。中嶋はいまだに、いろんな店や人間に顔が利きますからね。変わったことがあれば連絡が入るようになっているんです。何も腕っ節だけが、ヤクザとしての価値じゃないということです」
「だからといって……、別に彫り師の行動まで知る必要はないだろ」
「でも、そのおかげで、長嶺組の本宅で何かが起こった、という情報を掴めましたよ」
中嶋がぐいっと顔を近づけてきて、和彦の目を覗き込む。一体何が起こったのか、探ろうとするかのように。和彦は露骨に顔を背けてみたが、中嶋は引かない。半ばおもしろがるように、さらに身を乗り出して、和彦に迫ってくる。
「おい、ぼくじゃなくて、桜を見ろっ。こんな街中でも、きれいに咲いているじゃないか」
「――花見会で見た桜はどうでした?」
返事に詰まった和彦は、中嶋をどうにかしろと、非難を込めた眼差しを秦に向ける。秦は芝居がかった仕種で肩をすくめた。
「中嶋は、寂しいんですよ。ここ最近、先生は話題の人ですからね。しかも、ある意味で〈大物〉になった。そういう情報は耳に入るのに、肝心なことを先生から教えてもらえなくて」
秦が何を指して〈大物〉という言葉を使ったのか、当然和彦は理解している。自嘲気味に唇を歪めたが、この表情は守光に対する非難に当たるのではないかと思い直し、すぐに苦い笑みへと変えた。
「……流され続けていたら、いつの間にかとんでもないことになっていた。しかもぼくは、それを受け入れてしまった。多分――、いや、絶対に引き返せないんだろうな」
「引き返したいんですか?」
和彦の表情に感じるものがあったのか、中嶋が頬に触れてくる。一方の秦は、片手を握り締めてきた。和彦の気分転換のために、この二人を選択した賢吾の判断は、おそらく正しい。まるで柔らかな触手のように巧みに心に入り込み、優しく慰撫してくるのだ。
この役目は、三田村ではダメなのだ。特別で大事な〈オトコ〉だからこそ、三田村に心配をかけまいと身構える部分があるが、この二人に対してはそれが必要ない。いくらでも、和彦の事情で振り回せる。友情めいた感情と利害で繋がっている利点は、こういうときに発揮されるべきなのだ。
中嶋が、スッと外の桜を指さす。
「先生は、あの桜みたいなものですよ。場違いなところに咲いて、寂しげに見えるどころか、堂々としている。そういう姿に、俺たちは親しみを覚えるし、憧れもする。触れてみたい、枯れないように世話をしたい。手折りたい衝動にも駆られる。風が吹いたら花びらは散るでしょうが、根っこはしっかりとして、見た目の可憐さとは違って逞しい。まさに、先生でしょう」
「それは……褒めすぎだ」
「先生は、自分の存在を過小評価しすぎですよ」
中嶋がちらりと秦を見る。さりげないその仕種に〈女〉を感じ取り、ドキリとする。漂う空気が緩やかに変化し、妖しさを帯びていく。
「……この世界の人間は、ぼくを過大評価しすぎだ」
「先生がどう思おうが、俺は、先生が好きですよ。長嶺組の人たちも、きっと同じだ。だから先生を側に置きたがる。どんな手を使ってでも。――本当に刺青を彫られてないんですか?」
「彫られてないっ」
否定した途端、秦の手がTシャツの下に入り込んできた。
「だったら、確認してみましょう」
タイミングを計っていたように中嶋の片手が首の後ろにかかり、あっという間に唇が重なってくる。喉の奥から驚きの声を洩らした和彦は、反射的に立ち上がろうとしたが、膝を二人がかりで押さえ込まれて動けない。
素肌を秦のてのひらにまさぐられながら、口腔には中嶋の舌の侵入を許してしまう。最初は二人を押しのけようとしていた和彦だが、自分でも抵抗は弱々しいものだと感じていた。
里見の存在を賢吾に明らかにしたうえで、操を立てるために、危うく刺青を入れられそうになったショックを、いまだに和彦は引きずっている。賢吾はそれを見抜いたうえで、秦に頼んだのだ。
「んっ……」
Tシャツをたくし上げられ、いよいよ秦の両手が胸元に這わされる。優しく撫でられているうちに敏感な部分が反応し、待ちかねていたように秦の指先に探り当てられていた。口腔では中嶋の舌が蠢き、情熱的に舐め回される。唆されるように和彦も応え、舌先を触れ合わせていた。
合間にTシャツを脱がされ、それをきっかけに口づけの相手が秦へと替わる。すると中嶋が胸元に顔を埋め、秦の指によって尖らされた突起を唇に挟み、軽く引っ張った。たまらず和彦は体を震わせ、小さく声を洩らす。悠然と秦の舌が口腔に入り込んでくる。
油断ならない秦の手は、今度は下肢へと伸び、ベルトを緩めてしまう。さすがに止めようとしたが、中嶋に手を取られ、ある部分へと導かれる。それは、中嶋の両足の中心だった。スラックスの上から触れた中嶋のものは、すでに反応している。カッと体が熱くなり、和彦のほうがうろたえてしまうが、かまわず秦の手は動き、コットンパンツの前を寛げられる。
「お、い、ぼくはいい――」
「ダメですよ。長嶺組長に頼まれていますから。息抜きをさせてほしいと」
秦の手が下着の中に入り込み、欲望に触れられる。一気に高揚感が増し、思考が働かなくなっていた。
秦と中嶋に交互に口づけを与えられ、愛撫を受けながら、和彦は求められるまま中嶋の体に触れる。煽られ、誘われているうちに、気がつけばソファの上で中嶋と絡み合っていた。和彦は身につけていたものすべてを奪われているが、中嶋はスラックスと下着を下ろしてはいるが、ワイシャツのボタン一つ外していない。秦にいたっては、まったく格好が乱れていなかった。
両足を抱えられ、腰を割り込ませてきた中嶋が胸元に舌先を這わせてくる。呻き声を洩らした和彦が仰け反ると、頭上から顔を覗き込んできた秦に唇を塞がれる。
「うっ……、んふっ」
街中にある大通りに面したビルの一室で、よりによって窓際で男三人で睦み合う光景は、想像するだけで気が遠くなりそうなほどの羞恥に襲われるし――興奮する。向かいのビルの電気は消えているが、もしかすると人がいるかもしれないし、この情景に気づかれる可能性もある。
止めないと、と最初は思っていた和彦だが、二人から与えられる愛撫に体が馴染み始めると、思考は甘く蕩けてしまう。気づかれたところで、大通りを挟んでいるため、顔まで見えるはずがないのだ。
顔を上げた秦が低い声で中嶋を呼ぶ。中嶋も顔を上げると、和彦が見ている前で差し出した舌を絡め合う。口づけに夢中になっているように見える二人だが、それぞれの手が和彦の胸元を這い回り、左右の突起を指先で弄る。
再び秦に唇を塞がれ、口腔を舌で犯される。中嶋には、興奮に凝った胸の突起を舌先で転がされながら、熱くなって反り返った互いの欲望を擦りつけ合うように刺激される。
快感に溺れそうになり、咄嗟に片手を伸ばした和彦は、ソファの背もたれを掴んでいた。
「……色っぽいですね、先生。その手つき」
口づけの合間に秦がそんなことを囁いて、背もたれを掴む和彦の手を握り締めてくる。
「今いる世界の中で、理性的で、道徳的であろうと必死に足掻いてはみるものの、結局そんな姿すら、先生の周りにいる人たちにとってはたまらなく魅力的なんでしょうね。だから、いくらでも快感を与えて、悶えて足掻く先生の姿を見たがる――」
「そんなことを考えるのは、秦静馬という男ぐらいじゃないのか」
「まるで、わたしの性癖が特殊であると言いたそうですね」
悪びれることなく艶然と微笑む秦の顔を、和彦は息を喘がせながら見上げる。今のこの状況は、十分性癖が特殊であることを物語っていると思うが、それを指摘すると、和彦自身も含めなくてはならなくなる。もちろん、中嶋も。
「楽しそうな会話ですね」
そう言って会話に割り込んできた中嶋に、唇を吸われる。擦れ合う欲望同士は熱く膨らみ、些細な刺激で破裂しそうだ。
「先生、一緒に……」
中嶋に言われ、余裕なく和彦は頷く。快感によって頭の芯がドロドロに溶けていくにしたがい、胸の奥に巣食っていた靄が晴れていくようだった。これまで自覚していなかったが、千尋が言っていた『感情が麻痺している』状態から、立ち直っているのかもしれない。
毒々しいほどに甘く、油断ならない男たちに、弱った姿を見せたくないと思う程度には。
賢吾は、和彦という人間をよく理解している。気楽な会話と心地よい愛撫を与えるほうが、今の和彦には効果的だとわかっているのだ。
残念ながら和彦には、操を立てて見せろと迫っておきながら、〈男〉を与えてくる賢吾の心理はいまだによく理解できないが――。
ただ、どんな形であれ、大蛇の化身のような男に大事にされていることだけは、実感している。
絶頂に達した和彦が短く声を洩らして仰け反ると、一拍遅れて中嶋が深い吐息を洩らす。秦は、喘ぐ和彦と中嶋を労わるように、交互に髪を撫でてきた。
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