と束縛と


- 第24話(4) -


 夜桜見物と称して、深夜まで秦と中嶋と〈夜遊び〉をしていた和彦は、帰宅後、目覚まし時計もセットせずにベッドに潜り込んだ。クリニックが休みの土曜日ということもあり、時間を気にせず眠るつもりだったのだ。
 だが和彦のささやかな計画は、携帯電話の無粋な着信音によって、あっさりと破綻した。
 もそりと布団の中で身じろぎ、不機嫌な呻き声を洩らしながらも、わずかに頭を上げて周囲を見回す。カーテンの隙間から陽射しが差し込んでいるせいで、室内はぼんやりと明るい。
 おそらくまだ昼にはなっていないだろうと見当をつけつつ、半ば寝ぼけた状態で携帯電話を探すが、いつもならあるはずの枕元やサイドテーブルにはなく、ここでようやく、着信音がベッドの下から聞こえてくることに気づく。
 ベッドから身を乗り出して床を見ると、脱ぎ捨てたコットンパンツやTシャツが落ちていた。夜は酔っていたため、脱ぎ捨てたままにしたのだ。和彦は片手を伸ばすと、コットンパンツのポケットからやっと携帯電話を取り出す。
 相手を確認しないまま電話に出た途端、寝起きの和彦よりも不機嫌そうな声が耳に届いた。
『――おい、いつ餌を食わせてくれるんだ』
 顔をしかめた和彦は、再び布団に包まりながら応じる。
「寝ているところだったんだが……。今、確認しないといけないことなのか?」
『当たり前だ。お前がいつまでも俺を無視しているから、こうして電話をかけたんだ。総和会の花見が終わって、もうすぐ二週間になるぞ』
 もうそんなになるのかと、妙な感慨深さを覚える。花見会の最中ですら現実味が伴っていなかったうえに、その後、里見の存在を賢吾に知られるという出来事まであり、気持ちが落ち着かなかった。それに、特別な〈オトコ〉と花見もしていた。
 桜の花も散ってしまうはずだと、わずかな寂しさが和彦の胸を駆け抜けた。
「忙しかったんだ」
『俺には関係ない』
「……嫌な男だな」
『いい〈オンナ〉に言われると、光栄だ』
 本当に嫌な男だと口中で毒づいた和彦だが、もしかすると鷹津にも聞こえたかもしれない。が、いまさら和彦が何を言ったところで、気にもとめないだろう。
『いまだに寝ているということは、今日は暇そうだな』
「暇……。今のところ、予定は入ってない」
『決まりだ。昼から俺につき合え。――早く抱かせろ』
 明け透けな言葉を熱っぽく囁かれ、胸の奥が妖しくざわつく。鷹津との、濃厚でいやらしい、否応なく官能を引きずり出される口づけを思い出すのは簡単だ。そんな口づけを与えてきながら、鷹津は容赦なく熱い欲望を、和彦の内奥深くに打ち込んでくるのだ。
 こんな気分になるのは、秦と中嶋のせいだ。戯れのように体に触れられた余韻がまだしっかりと体に残り、欲情の種火がくすぶっている。
「……今日はゆっくりしたい」
『ほお、俺に危ない橋を渡らせて、いままで放っておいた挙げ句、さらに自分の都合を通そうっていうのか』
 返事をするのが癪で和彦が黙り込むと、電話の向こうで鷹津が短く笑い声を洩らした。
『なんなら、俺が今からそこに行って、手っ取り早くことを済ませてもいいんだぜ?』
「ぼくが悲鳴の一つでも上げたら、組員が押しかけてくるぞ」
『その前に、俺がいい声を上げさせてやる』
 まだ酔いが残っているのか、寝起きで本調子ではないせいか、いつものように強気で言い返せない。鷹津に押し切られそうになっているのを感じ、和彦は身じろぎ、頭の先まで布団に潜り込む。
 鷹津のほうも、和彦の様子がいつもとは違うと感じ取ったのか、急に声を潜めた。
『――隣に誰かいるのか?』
「寝ているところだったと、さっき言っただろ。……一人で寝てるんだ」
『珍しいな』
「あんたはぼくを、なんだと思ってるんだ……」
『どんな怖い男でも咥え込む、性質が悪くて怖いオンナ』
 ニヤニヤと笑う鷹津の顔が容易に想像でき、和彦は唇を引き結ぶ。いつの間にか鷹津と話し込んでいる状況に気づき、露骨に素っ気ない声で告げた。
「用がそれだけなら切るぞ。まだ眠いんだ」
『働いた番犬を粗末に扱うと、何をしでかすかわからんぞ。特に、刑事なんて肩書きを持っている番犬は、な』
「……脅しているのか?」
 和彦が声に警戒心を滲ませると、鷹津は低く笑い声を洩らす。咄嗟に頭に浮かんだのは、里見のことだった。里見の存在は、すでに賢吾に知られてしまったため、鷹津が何を言おうが動じる必要はない――と安堵するのは早い。和彦の現状を、鷹津が里見に報告することは可能なのだ。
 和彦の危惧を知ってか知らずか、思いがけないことを鷹津は言い出した。
『まだ餌を与えていない番犬を、多少は労う気持ちがあるなら、そうだな――、腰にくるようないい声を、電話を通して聞かせてくれ』
 和彦は一分近い時間をかけて、鷹津の言葉の意味を理解する。激しくうろたえながら怒鳴りつけた。
「なっ……、何言い出すんだっ。できるか、そんな恥知らずなことっ」
『ほお、お前でも、恥知らずなんて上等な言葉を知ってるんだな』
 ためらいなく電話を切った和彦は、携帯電話を枕の下に突っ込む。
「何考えてるんだ、あの男っ……」
 すっかり眠気がどこかにいってしまい、少しの間未練がましくベッドの上を転がっていた和彦だが、諦めて起き上がる。
 部屋のカーテンを開けて回ると、着替えを抱えてシャワーを浴びに行く。
 熱めの湯を頭から浴びて、いくらか残っている酔いも、胸の奥の妖しいざわつきも勢いよく洗い流す。ただ、頭の片隅では考えてしまうのだ。鷹津に作っている借りを、早く返してしまわなければ、と。そこで、さきほど電話越しに言われた言葉が蘇り、和彦はまたうろたえてしまう。
 シャワーを浴び終えると、ダイニングで一息つきながらオレンジジュースを飲む。窓の外に目を向けると、部屋でおとなしくしているのがもったいなくなるような天気のよさだ。
 散歩も兼ねて、少し早めの昼食をとりに出かけようかと考えていると、電話が鳴る。一瞬、鷹津かと思ったが、あの男は固定電話にかけてくることはない。そうなると、電話の相手は限られていた。
「もしもし――」
『携帯にかけたのに、出なかったな。夜遊びのしすぎで、まだ寝ていたか?』
 妙なところで、蛇蝎にそれぞれ例えられる男二人の行動は似ている。忌々しいほど魅力的なバリトンを電話越しに聞き、意識しないまま和彦は苦笑に近い表情を浮かべる。
「シャワーを浴びていたんだ。夜遊びのしすぎ……は否定しないけど、秦と中嶋くんに、ぼくを誘えと言ったのは、あんたじゃないのか」
『夜遊びを自重した先生に、塞ぎ込まれたら困る。奔放さは、先生の魅力の一つだしな』
「……何か企んでるか?」
 和彦の問いかけに、賢吾は短く笑い声を洩らす。
『せっかくのいい天気だ。本宅で昼メシを食ってから、ドライブに出かけるぞ』
 強引な誘い方まで鷹津に似ているなと思ったが、決定的に違うのは、和彦は賢吾に対して弱い立場だということだ。それに――。
 和彦は窓の外に再び目を向ける。天気のよさと、ドライブという言葉に心惹かれていた。
「行っても、いい……」
『決まりだ。迎えの車をやるから、格好は適当でいいぞ。どうせ本宅で着替えることになるからな』
 えっ、と声を洩らしたときには、電話は切られていた。和彦は首を傾げつつ受話器を置く。賢吾が何か企んでいるのは確かだが、あれこれ推測するのは髪を乾かしながらでいいだろう。
 シャワーを浴びたこともあり、気分がすっきりした和彦は、軽い足取りで洗面所へと向かった。


 賢吾に許可を得てウィンドーを少し下ろすと、柔らかな風が車中に吹き込んでくる。
「春の匂いがする……」
 ぽつりと洩らしたのは、隣に座っている賢吾だ。和彦が目を丸くすると、ニヤリと笑いかけられた。
「なんだ。俺が言うと変か?」
「……変じゃないが、あんたがそういうことを言うと、意外な感じがするんだ」
「俺はよほど先生に、情緒の欠片もない男だと思われているんだな」
 そこまでひどいことは思っていないと、心の中で反論してみる。声に出したところで、どうせからかわれるのがオチなのだ。
「冬から春にかけては、組の行事ごとが多くて忙しいからな。なかなか穏やかな気持ちで、いい季節を堪能する機会に恵まれない。去年の春は、目を離せない人間がいて大変だったし」
 賢吾が誰のことを言っているかは明白だ。和彦は、じろりと賢吾を睨みつける。
 昨年の今ごろ、和彦はまだ混乱の中にあった。強引に裏の世界に引きずり込まれ、環境が一変したのだ。大蛇の化身のような男の〈オンナ〉になり、穏やかな季節を愛でる余裕もなく、気持ちが乱高下を繰り返していた。
「今年こそは、先生とゆっくりと春を楽しみたいと思ったんだ。きれいだが、曖昧で移ろいやすい季節だからこそ、しっかりと記憶に刻みつけておきたい」
 話しながら賢吾が手を伸ばし、髪を撫でてくる。本宅で顔を合わせたときからなんとなく感じていたが、今日の賢吾は機嫌がよかった。一週間ほど前、体に刺青を彫られる寸前だった和彦としては、いつこの機嫌が一変するかと怖くもあるのだが、それでも、不機嫌な顔をされるよりはよほどいい。
 気恥ずかしくなるほど一心に賢吾に見つめられ、眼差しに耐え切れなくなった和彦は、必死に話を続ける。
「……春を楽しみたいのはわかったが、ぼくのこの格好は関係あるのか?」
「ずっと楽しみにしていたんだ。暖かくなったら、先生に着物を着せて連れ歩こうってな。――よく似合っている。惚れ惚れするような色男っぷりだ」
 賢吾からの惜しみない賛辞を受け、改めて和彦は自分の格好を見下ろす。蓬色で揃えられた長着と羽織は、陽射しの下ではハッとするほど明るく目立ち、少し派手すぎではないかと和彦は臆したりもしたのだが、賢吾の感じ方は違うようだ。
「若くて、いかにも品のいい先生が身につけるんだ。それぐらいの色目でちょうどいい。俺の見立ては正しかったな」
「褒めてくれるのはありがたいが、着物を着ることになるなら、せめて事前に言ってほしかったな。こっちにも心の準備というものがあるんだ」
 本宅に出向いた和彦は、賢吾と昼食をとったあと、何も言わずに客間に連れ込まれ、服を脱がされたのだ。そして今のこの姿だ。ちなみに賢吾は、堂々たるスーツ姿だ。慣れない着物で、着崩れが怖くてシートにもたれるのにも気をつかっている和彦としては、少々恨めしい。
「そのわりには、着物を着たときは楽しそうに見えたぞ。普段とは違う格好で出かけるのも、気分が変わっていいだろ?」
「それは、まあ……」
「それでいい。どうせ出かける相手は俺なんだ。着崩れしようが、慣れてない草履で足元が覚束なかろうが、面倒は見てやるから、肩から力を抜いて楽しめ」
 賢吾の口調が、まるで子供を言い含めているようだな思った途端、和彦は顔を綻ばせてしまう。運転席と助手席に座る組員たちにも聞こえているはずだが、さすがというべきか、肩をピクリと揺らしもしない。賢吾の言葉に素直に反応を示しているのは、和彦だけだ。その和彦の反応に、賢吾が目元を和らげた。
「――機嫌は直ったか?」
 そう問いかけてきながら賢吾は、今度は頬を撫でてくる。和彦はスッと笑みを消した。
「直るも何も、ぼくは最初から不機嫌じゃなかった。……刺青のことなら、あれは最初にぼくが隠し事をしたせいだから、あんたに対して怒るのは筋が違う」
「物わかりがいいな、先生は。むちゃくちゃな理屈を振りかざして、感情的に八つ当たりをする姿を、たまには見てみたいものだ」
「それであんたがぼくを嫌うというなら、やってもいい」
 首の後ろに賢吾の手がかかり、ぐいっと引き寄せられる。耳元に息がかかったかと思うと、こんなことを囁かれた。
「そんなことで、俺が先生を嫌うはずがないだろう。大蛇の執着を甘く見るなよ」
 耳朶に唇が触れた感触があり、驚いた和彦は思いきり体を引く。一方の賢吾は口元に薄い笑みを浮かべた。
「俺としては、あのことで先生に怖がられて、嫌われることを覚悟していたんだがな」
 聞きようによっては、なんとも自惚れた発言だ。嫌われるということは、すでに和彦が賢吾を好いているという前提があるのだ。ただ、さすがに揚げ足を取る気にはなれなかった。それこそ、和彦が自惚れていることになりそうだ。
「……ぼくは、初めて会ったときからずっと、あんたが怖い」
「その怖い男の側に、逃げ出しもせずいてくれるということは、怖さ以上のものが俺にはあるということか?」
「長嶺の男がそういう言い方をするときは、たった一つの返事しか求めてないだろ。――絶対、言わないからな」
「かまわんさ。聞くまでもないからな」
 傲慢さすら自分の魅力に変えてしまう男は、そう言って和彦の肩に腕を回してくる。力を込められたわけでもないのに、和彦は吸い寄せられるように賢吾との距離を詰め、肩にそっと頭をのせる。
 オンナの従順さを愛でるように、長い指に髪の付け根をまさぐられ、感じた疼きに和彦は小さく身震いする。賢吾はもう何も言わず、吐息のような笑い声を洩らした。


 ドライブということは、当然のように日帰りだと思っていた和彦だが、どうやら様子が違うと気づいたのは、こじんまりとしたレストランから出たときだった。
 本宅を出発したときは鮮やかな青空だったが、今頭上に広がるのは、夕日に染まりつつあるオレンジ色の空だ。今から引き返すとなると、確実に辺りは暗くなるだろう。
「――着物を着て洋食を食うのも、シャレてるだろ」
 隣に立った賢吾に促され、和彦は駐車場へと向かう。ドライブだからといってずっと車に乗っていたわけではなく、途中、古い町並みを歩いたり、そのついでに寺巡りなどもした。おかげで、草履を履いた足が少し痛い。それに気づいているのか、賢吾の歩調はいつになくゆっくりだ。
「ビーフシチューが美味しかった」
「一度、この店で食ってみたかったんだ。だが、強面の連中を引き連れて入るのも、気後れしてな。先生がいてくれて助かった」
「……ヤクザの組長が、ずいぶん可愛いことを言うんだな」
 さらりと軽口で応じた和彦を、なぜか賢吾がまじまじと凝視してくる。機嫌を損ねたかと一瞬緊張したが、どうやらそうではないようだ。
「俺相手に『可愛い』なんて単語を使うのは、先生ぐらいのものだろうな。オヤジですら、言ってくれたことはないぞ」
「言ってもらいたかったのか……」
 賢吾は唇の端に微苦笑らしきものを刻み、わざわざ後部座席のドアを開けてくれる。おとなしく乗り込んだ和彦だが、車が走り出した方向を確認してから、たまらず賢吾に問いかけた。
「次は、どこに行くんだ?」
「ついてからのお楽しみだ」
「帰りが遅くなるんじゃ――」
「先生は何も心配しなくていい」
 別に心配はしていない、と心の中で応じた和彦は、ウィンドーの向こうを流れる景色に目を向ける。
 夕方になり、少しずつ気温が下がってきたが、車内はほどよく暖房が効き、しかも食後だ。歩き回ったことによる軽い疲労感もあり、急速に眠気に襲われる。賢吾の視線を気にかけつつも、外の景色を眺めるふりをして目を閉じていた。
 ただ、なんとなく落ち着かない。車内で男たちがどんな会話を交わすのか、どんな道を走っているのか、神経の一部を尖らせて探る。裏の世界に引き込まれる前から、自分はこんな癖を持っていたのか、もう和彦は思い出すことはできない。なんのためにこんなことをしているのかすら、実は和彦自身わかっていないのだ。
 いまさら賢吾が、和彦をどこかに連れ去るはずもないのに。
 そう思いながらも、車が、坂とカーブの多い道に差しかかったのを感じ、一体どこに向かっているのだろうかと、さすがに不安になってくる。
 とうとう和彦はゆっくりと目を開け、思いがけない周囲の暗さに驚く。軽くウトウトしたつもりだが、時間の感覚が麻痺する程度には寝入ってしまったらしい。完全に日が落ちていた。
 外を見ようとシートに座り直すと、賢吾に声をかけられた。
「気持ちよさそうに寝ていたな、先生」
「……目を閉じていただけだ」
「寝息が聞こえたと思ったが、そうか、俺の空耳だな」
 和彦が横目でじろりと睨みつけると、賢吾はわずかに口元を緩めた。気を取り直し、改めて外に目を向ける。車は、街灯も乏しい山の中を走っていた。ライトの明かりが闇を切り裂くように前方を照らしており、木々の間から何か飛び出してきそうな雰囲気だ。
「ここは……?」
「先生に見せたいものがある」
「見せたいものって――」
「行けばわかる」
 車がさらに走るにしたがい道は細くなり、人家の数も目に見えて少なくなってくる。さすがに不安になってきたところで、車はやっと、ある脇道の前で停まった。賢吾を見ると頷かれたので、ここが目的地のようだ。
 車を降りた和彦は、まだ説明をしてくれない賢吾について脇道に入る。意外にもきれいに整備されており、点々と提灯が吊るされているため、先々の道までぼんやりと照らされている。来る途中、看板には気づかなかったが、確かに〈何か〉があるようだ。
「少し坂がきつい道だが、我慢してくれ」
「それはかまわないが……」
 和彦はちらりと背後を振り返る。どこに行くにもついてきていた護衛の組員たちが、車に残ったままなのだ。和彦が何を心配したのかわかったらしく、賢吾が言った。
「ここから先についてくるのは、野暮ってものだ。道はこの一本しかないから、俺を狙う奴がいるにしても、嫌でもあいつらとかち合うことになる」
「……護衛は大変だな。あちこち動き回る組長に振り回されて」
「それは言うな。先生を連れて出歩くのが、俺の数少ない楽しみなんだから」
 さりげなく言われた言葉に、心をくすぐられる。どういう表情を浮かべていいかわからず、和彦が唇を引き結ぶと、賢吾は周囲を確認してから、片腕を突き出してきた。
「掴まれ、先生。足を引きずって歩いてるぞ」
 うろたえ、顔を熱くしながら、和彦も辺りの様子をうかがう。
「でも、人が来るんじゃ……」
「昼間は、こんな山奥でも人が多いんだがな。夜はさすがに、わざわざやってくる物好きはそういないだろ。来るときも、他の車とすれ違わなかった」
 つまり、気にするなと言いたいらしい。足を引きずっているのも本当で、下り坂がきつくて、草履の鼻緒が指の間に食い込むのだ。
 賢吾の優しさに甘えることにして、和彦は腕に掴まる。
 歩いているうちに、賢吾が何を見せてくれようとしているのか、薄々とながらわかってくる。風に乗って、ひらひらと舞い落ちてくるものがあるのだ。坂を下りると、小道に沿うように桜の木が植えられていた。すべて満開で、提灯の控えめな明かりに照らされると、薄ピンクというより、妖しさを漂わせた花びらの白さが際立って見える。
 息を呑んだ和彦は、桜の花に一瞬にして魅入られる。無意識のうちに賢吾の腕にきつくしがみついていた。
「この辺りは、今が満開の時期だ。だから連れてきた」
「わざわざ?」
 ほっと息を吐き出して和彦が問いかけると、賢吾も桜の木を見上げながら和らいだ表情となる。
「――花見がしたかったんだ。先生と二人きりで。もっとも先生のほうは、とっくに桜は見飽きたかもしれないけどな」
「そんなことは……ない。この何日かで見た桜は、全部印象が違うんだ」
「こんな辺ぴな場所に、人が桜を見にやってくるのは、理由がある。特別な桜があるんだ。その桜が人を呼び寄せるようになって、いつの間にか他の桜が植えられて、こんなふうになったらしい」
 話しながら歩いているうちに、鮮やかなピンク色の花をつけた桜の木が目に飛び込んでくる。他の木とは種類が違うのは、一目瞭然だった。
 古くて大きな木から伸びた枝は、満開の花をつけて重そうに垂れている。さほど植物に詳しくない和彦でも、すぐにこの名が口を突いて出た。
「……しだれ桜?」
「そうだ。樹齢は確か、軽く三百年は超えているはずだ。まあ、立派なもんだ。古いくせに、どの桜よりも艶やかな花を咲かせて、泰然としてる」
 淡々と語る賢吾の言葉に、ふと和彦の脳裏にある男の顔が浮かぶ。もしかすると賢吾も同じかもしれない。和彦は、桜ではなく、賢吾の横顔を見つめていた。視線に気づいたのか、前触れもなく賢吾がこちらを見て、ニヤリと笑う。
「なんだ先生、俺に見惚れているのか?」
「どうしてそんな恥ずかしいことを、口にできるんだ……」
「浮かれているんだ。着物姿の先生と二人、こうして立派な桜を眺められて。去年の今ごろとは違って、今年はそれなりに落ち着いた日々を過ごせていると、実感もしている。来年は――どうだろうな?」
 どう答えれば賢吾は満足なのだろうかと考えた次の瞬間、妙な照れを感じた和彦は、しがみついていた腕から手を離す。賢吾に背を向けて、足元に視線を落とす。地面には、まるで雪のように桜の花びらが積もっており、風が吹くたびにふわりと舞い上がる。
 屈み込み、地面の窪みに溜まった花びらをてのひらで掬い上げると、フッと息を吹きかける。ひらひらと宙を舞った花びらを再びてのひらで受け止めると、賢吾がハンカチを広げて差し出してきた。何事かと顔を上げると、意外なことを言われる。
「花びらを拾ってここに入れてくれ。土のついていないきれいなものを、たくさんな」
「……塩漬けにでもするのか?」
「先生が食いたいなら、作ってもらえ」
 他に使い道などあるのだろうかと思いながらも、言われた通り和彦は、桜の花びらを集めてハンカチにのせていく。花びらを集めるのは、さほど苦ではなかった。木の根の周囲に、散ったばかりの花びらが風に乗っては運ばれてくるのだ。
 ある程度の量の桜の花びらが集まると、賢吾は丁寧にハンカチで包む。何も言わず片腕を差し出されたので、和彦も黙ってその腕を取る。
 やってきた小道をゆっくりと引き返しながら、やはりどうしても、賢吾の手にあるハンカチをちらちらと見てしまう。和彦の興味をはぐらかすように、柔らかな口調で賢吾が言った。
「すぐ近くに宿を取ってある。もう少しだけ我慢してくれ」
「それはかまわないが、最初から一泊するつもりだったんだな」
「先生と二人、じっくりと花見の余韻に浸るのもいいと思ってな。小さな宿だから、あまり期待はするなよ」
 そんなことは気にしないと応じてから、和彦はもう一度、賢吾の手にあるハンカチを見遣る。賢吾の口ぶりから、『花見の余韻に浸る』ために必要なのだろうと見当をつけた。
 長嶺組組長という肩書きを持つ男は、意外にロマンチストだと思いながら。


 賢吾に意図があったのかどうかは知らないが、三階の部屋から眺められる景色は申し分がなかった。桜の木が並ぶ小道を見下ろせるのだ。
 外観からして古い旅館で、部屋も簡素としか言いようがないのだが、春の短い期間、この景色を眺められるのなら、余計なものは必要ないとも思える。
 提灯の明かりを受けて、闇の中にぼんやりと浮かび上がる満開の桜は、まさに幽玄と表現できる。さきほどは木を見上げていたが、こうして見下ろしてみると、また趣きが違う。
「桜の道だ……」
 ぽつりと呟いた和彦は手すりを掴み、腰窓から思いきり身を乗り出す。ふわりと風が吹き、風呂上がりでまだ濡れている髪を撫でる。
 つい最近、同じような行動を取ったことがあるなと思った次の瞬間、和彦の脳裏を過ぎったのは、守光と泊まった旅館での出来事だった。
 桜を眺めて、旅館に泊まる。取る行動が父子で似ているのか、それとも、賢吾が意識して張り合ったのか。
 ここまで考えたところで和彦は、これは自惚れだと自戒する。急に恥ずかしくなった。
「――窓から落ちるなよ、先生」
 背後からおもしろがるような声をかけられ、慌てて体勢を戻す。振り返ると、浴衣姿の賢吾が立っていた。和彦より先に風呂に入ったあと、一階のロビー――とも言えない、狭い玄関横の応接セットに組員たちと陣取り、わずかなつまみとビールで酒宴を催していたのだが、もうお開きになったらしい。
 敷かれている二組の布団を見下ろした賢吾は、すぐに片方の布団を移動させ、ぴったりとくっつけてしまう。どういう意図からかは明白で、なんだか見てはいけないものを見た気になった和彦は、さりげなく視線を逸らし、再び外の桜を見下ろす。
「今日は、俺のわがままにつき合わせたな」
 賢吾の言葉に、和彦はちらりと笑みをこぼす。
「もう慣れた。それに、いまさらだ」
「先生はなんだかんだと言いながら、どんなわがままでも受け止めてくれるから、つい甘えちまうんだ。多分――他の男たちもな」
 わずかに体を強張らせると、すぐ背後に賢吾が立った気配を感じる。首筋に冷たい唇を押し当てられ、強烈な疼きが背筋を駆け抜けた。
 片腕で和彦を抱き締めながら、賢吾が窓を閉める。体の向きを変えられ、今日初めて賢吾と唇を重ねた。じっくりと丹念に唇を吸われながら、和彦はじっと賢吾の目を見つめる。大蛇の潜む目に、はっきりと情欲の熱っぽさを見て取り、心の中で安堵する。今の賢吾は、和彦の反応を試しているのではなく、本当に和彦を欲しているのだ。
「今、カチコミをかけられたら、俺はあっさりと殺られるだろうな。護衛はたった二人、簡単に蹴破れる古い旅館の玄関に、三階のこの部屋まで階段で一直線。先生と知り合う前までの俺なら、こんな危なっかしいところで泊まったりはしない」
「……ぼくの、せいだと言いたいのか……」
 ニヤリと笑った賢吾に、軽く唇を吸われる。
「違う。大事で可愛いオンナを喜ばせるために、俺は命を賭けているということだ」
「ものは言いようだ」
「ヤクザは恩着せがましいぞ。お前のためにここまでしたやった。だからお前も、俺のために尽くせ、と脅すんだ」
 次の瞬間には、和彦は布団の上に突き飛ばされ、賢吾が覆い被さってくる。体全体で賢吾の重みと熱さを感じ、目も眩むような高揚感に襲われる。すかさず浴衣と下着を剥ぎ取られたが、羞恥に身じろぐ間もなかった。
 両足を抱えられて大きく左右に広げられると、賢吾が顔を埋めてくる。いきなり口腔に欲望を含まれ、呻き声を洩らした和彦は身をしならせ、強い刺激から逃れようとしたが、無駄な足掻きでしかなかった。口腔で締め付けるように吸引され、先端にヌルヌルと舌が這わされると、まるで大蛇の毒が回ったように体が動かなくなる。ただ、空しく腰を震わせるだけだ。
「うっ、うっ……、もっと、優しくしてくれ……」
 賢吾の頭に手をかけて和彦は哀願するが、聞き入れるつもりはないらしい。賢吾の片手が柔らかな膨らみにかかり、手荒く揉みしだかれながら、弱みを指で弄られる。和彦は上擦った声を上げながら責め苦に近い愛撫に耐えていたが、欲望を舌で舐め上げられ、先端に唇を押し当てられる頃になると、自分の反応が変化していくのがわかった。
「んうっ……、はっ、あぁ――。あっ、あっ、い、ぃ」
 先端から滲み出る透明なしずくを唇で吸い取られながら、柔らかな膨らみをきつく揉まれる。そのたびに痺れるような快感が生まれ、はしたなく腰を揺らしていた。
 柔らかな膨らみすらたっぷり舐ったあと、内奥の入り口にまで舌が這わされる。蠢く熱い舌が中に入り込み、指まで挿入されてくる。内奥の襞と粘膜に唾液を擦り込むように指が出し入れされ、発情した肉を解すように掻き回される。
 さほど時間をかけられるまでもなく、布団の上で和彦は蕩けていた。息を喘がせ、汗ばんだ肌を紅潮させ、慎みを失った内奥をひくつかせる。全身で、賢吾を求めていた。顔を上げた賢吾は、そんな和彦を見下ろして、唇を緩めた。
「――先生は本当に、惚れ惚れするほどいいオンナだ。見た目は清廉で優しげな色男だが、中身は淫奔でしたたかでふてぶてしくて、怖い男たちを骨抜きにする性質の悪さだ。そんな先生が桜の下にいると、びっくりするぐらい様になる。春の陽射しも、桜の可憐さにも、ピクリとも心を揺らさない冷たい人間に見えたかと思うと、まるで子供みたいに無防備で無邪気にも見える」
 話しながら賢吾は、浴衣の懐からハンカチを取り出した。さきほど桜の花びらを包んだものだ。確か、部屋の隅に移動させた座卓の上に置いてあったはずだが、部屋に戻ってきた賢吾がいつの間にか忍ばせたらしい。
 傍らに置いたハンカチを開いた賢吾は、花びらを軽く掴み取り、思いがけない行動に出た。しどけなく開いたままの和彦の両足の間に、振り撒いたのだ。慌てて足を閉じようとしたが、賢吾の腕に押さえられて動けない。
「何、してるんだっ……」
「桜の花を愛でてるんだ。先生に似合うかと思ったが……なかなかのもんだ」
 濡れそぼった和彦のものに花びらが張り付く。さらに賢吾はおもしろがるように、数枚の花びらを先端に擦りつけてくる。刺激に声を上げそうになった和彦は必死に唇を噛み、顔を背ける。しかしそれが、さらに賢吾を煽ったようだ。
 片足を抱え上げられ、内奥の入り口をまさぐられる。まさか、と思ったときには、指を挿入されていた。すぐに指は引き抜かれたが、再び挿入され、それを何回も繰り返される。わずかな違和感があった。いや、異物感というべきかもしれない。
 ハッとして賢吾を見上げると、のしかかられ、唇を塞がれる。一方で、内奥を指でまさぐられ――桜の花びらを押し込まれる。
 鳥肌が立つような倒錯的な悦びと興奮を覚えていた。
「うっ、あぁっ――」
 賢吾の指を締め付けて、和彦は絶頂に達していた。賢吾は、和彦のその反応に悦びを覚えたように、官能的なバリトンを耳に注ぎ込んできた。
「もうイッたのか。堪え性のないオンナだ。それとも、桜の花びらとも相性がいいのか?」
 少し意地の悪い囁きに、和彦の理性は陥落する。賢吾の首にしがみつき、懇願していた。
「……早、く……、賢吾さん、早く中にっ……」
「中にもう入れてるだろ。指も、桜の花びらも」
 もう一度桜の花びらを内奥に押し込まれる。焦れた和彦は、癇癪を起こしたように賢吾の背を殴りつける。ようやく体を起こした賢吾が、もったいぶるように浴衣の帯を解いた。
 裸の熱い体にのしかかられ、夢中になって背の大蛇を両手でまさぐる。内奥の入り口に賢吾の欲望が押し当てられて、潤んだ吐息が洩れていた。
「んっ、くうぅっ――……」
 圧倒的な存在感を持つものに内奥をこじ開けられ、襞と粘膜を強く擦り上げられる。さらに今日は、粘膜と粘膜の間には桜の花びらがある。和彦はビクビクと腰を震わせながら、夢中で賢吾の腰に両足を絡める。抉るように内奥を犯しながら賢吾が言った。
「桜の花びらは、気に入ったようだな」
 奥深くまで突き上げたあと、あっさり欲望が引き抜かれる。賢吾は緩んだ内奥に花びらを詰め込み、また犯し始める。和彦は、首を左右に振りながら乱れていた。
「あっ……ん、あっ、あっ、んうっ」
 乱暴に突き上げられるたびに、精を放ったばかりだというのにもう身を起こした和彦のものが揺れる。内奥も、力強く脈打つ賢吾のものを花びらごときつく締め付け、歓喜している。
「気持ちいいか、先生?」
 優しい声で賢吾に問われ、和彦は夢中で頷き、大蛇が息づく背に爪を立てる。すると、内奥でひときわ賢吾のものが大きくなる。
 荒々しい嵐に巻き込まれているようだった。容赦なく内奥を突き上げられ、掻き回され、両足を大きく左右に開いた姿勢を取らされて、賢吾の眼差しを受けながら、熱い精を注ぎ込まれる。和彦は、悦びの証として二度目の精を噴き上げ、下腹部を濡らしていた。
 散らされた桜の花びらを自らの精で汚し、ひどく申し訳ない気持ちになったが、一方の賢吾は、楽しげに口元を緩める。
「――いい光景だ」
 賢吾の洩らした一言に、和彦は羞恥のあまり蒸発しそうになる。緩慢な動作で賢吾の肩を押し上げようとしたが、反対に両手首を掴まれて布団に押さえつけられ、深い口づけを与えられる。
 汗に濡れた体を擦りつけるように抱き合いながら、舌を絡め合う。そうしているうちに賢吾のものはすぐに力を取り戻し、それを感じた和彦は小さく喘ぐ。
「しっかり尻を締めてろ。今度は、後ろから愛してやる」
 露骨な囁きに身じろいだときには、賢吾のものが内奥から引き抜かれていた。
 和彦は腰を突き出した姿勢を取らされ、内から溢れ出ようとするものを押し戻すように、すぐに背後から貫かれる。
「ううっ……」
 内奥深くを突き上げられて、苦しさに和彦は呻く。それでも呑み込まされたものを拒むことはできず、むしろ媚びるように、襞と粘膜を使って逞しい欲望に奉仕する。褒美のつもりなのか、賢吾の手が体に這わされた。
 触れられないまま硬く凝った胸の突起を抓られ、和彦は鼻にかかった声を洩らす。内腿を撫でられ、欲望を軽く上下に扱かれ、ここで腰を抱え込まれて一層深く繋がる。
「ひっ……、くっ、うぁ――」
 布団を鷲掴んで和彦が背をしならせると、ふいに賢吾が話し始めた。
「やっぱり、惜しいことをしたな。この体にしっかりと、俺のオンナだっていう証の刺青を入れてやればよかった」
 背を撫でられ、和彦は身を強張らせる。和彦の怯えが伝わったのか、賢吾は低く笑い声を洩らした。
「冗談だ。――今は、これで満足だ」
 和彦は、羽毛でくすぐられたような感触を背に感じる。何事かと思っていると、目の前にひらひらと桜の花びらが降ってきた。
「どこもかしこも、桜の花びらだらけだな、先生」
「……誰の、せいだ」
「桜の花はあっという間に散っちまうが、記憶にはずっと残るだろ。こうして、俺と〈遊んだ〉ことも」
 賢吾はこんなことを、どんな顔をして言っているのか。和彦は首を巡らせ確認しようとしたが、その瞬間、内奥で蠢く感触を強く意識していた。
 興奮しきった賢吾の欲望を強く締め付ける。和彦の官能が高まっていることを知ったのか、賢吾は律動を再開した。
「あっ、あっ、い、いぃ。賢吾、さんっ……」
 激しく腰を打ち付けられながら、体を前後に揺さぶられる。和彦は声を抑えられず、放埓に嬌声を上げていた。
 汗に濡れた肌に桜の花びらを貼り付かせ、浅ましく腰を振って肉を求める〈オンナ〉の姿に、賢吾は満足しているようだった。その証拠に、和彦の耳に低い唸り声が届く。
 内奥深くに二度目の精を注ぎ込まれ、和彦は何度も深い吐息を洩らしながら、すべてを受け止めていた。全身に快美さが行き渡り、これが賢吾に執着されているということなのだと、肉に刻み込まれる。
 体に力が入らず、与えられた快感の余韻に浸っていた和彦だが、賢吾はさらに〈遊び〉を楽しむつもりのようだ。呼吸を落ち着けると、こんなことを言い出した。
「遊んだあとは、しっかり後片付けをしないとな」
 次の瞬間、和彦は目を開く。内奥から賢吾のものが引き抜かれたからだ。
「待っ――」
 蕩けて喘ぐ内奥から、注がれた精がドロリと溢れ出す。しかし、それだけではない。和彦はようやく、賢吾の行為の目的がわかった気がした。
「せっかくきれいだったのに、桜の花びらがひどいことになってるな」
 言葉とは裏腹に、楽しげな声で言いながら賢吾が内奥に指を挿入し、出し入れを繰り返す。精と、無残なことになっているであろう花びらを掻き出されていた。
 和彦は羞恥と屈辱を味わう一方で、どうしようもなく感じていた。潤んだ襞と粘膜を賢吾の指にまとわりつかせ、内奥全体で締め付ける。
「覚えておけよ、先生。俺の証が、ここにもあるってことを。刺青は入れないが、俺は、俺の〈オンナ〉にしっかりと証は入れる。どれだけの男を咥え込もうが、桜が咲く季節のたびに思い出すだろ。俺とこうしたことを」
 物騒なのかロマンチストなのか、それとも両方なのか――。賢吾の言葉に、和彦は力なく笑ってしまう。
「……こんなことをするのは、あんたぐらいだ……。嫌でも、忘れられない」
「おう、忘れるなよ」
 賢吾の唇が腰に押し当てられたのを感じ、和彦は小さく身震いをする。あれだけ求め合い、快感を貪り合ったというのに、まだ賢吾の執着を感じたいと願う自分自身がいる。それがひどく怖い反面、いままで知らなかった情愛に新鮮さを覚えていた。
 和彦の背に張り付いた桜の花びらに、戯れるように賢吾が口づけを落とす。再び体を仰向けにされると、覆い被さってきた賢吾と熱っぽく唇を吸い合いながら、和彦は片手を伸ばして桜の花びらを掴み、賢吾の背に振り撒いてやる。
「大蛇に、桜の花は似合わねーだろ」
 そう言って賢吾が低く笑う。どうだろう、と和彦は口中で洩らす。艶かしくうねる蛇の体に、可憐な桜の花びらは似合うというより、いかがわしく見えるかもしれない。
 ぼんやりとそんなことを考えていると、賢吾も桜の花びらを手に取り、ふっと息を吹きかけた。和彦の顔や胸元にひらひらと舞い落ち、賢吾の唇が追いかけてくる。
 小さく笑みをこぼした和彦は、もうしばらく、大蛇と桜の花びらと戯れることにした。









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