と束縛と


- 第25話(1) -


 久しぶりの大掛かりな手術だった。
 額にじっとりと汗が滲むのを感じながら和彦は、腹部に詰め込んだガーゼを慎重に取り除き、足元に置いたバケツに落としていく。昨日開腹したときは、血が溢れ出てどうしようもない状態だったが、どうやら出血は落ち着いたようだ。もっとも、そうでなければ、患者はとっくに命を落としている。
「先生、どうですか?」
 和彦同様、手術衣を着込み、帽子も被った男が尋ねてくる。何かを手伝うために簡易の手術室に留まっているわけではなく、あくまで監視のために手術に立ち合っているのだ。つまりそれほど、ベッドの上で半死半生の状態となっている男は、大事な存在だということだ。
 だったら、美容外科医に預けるようなまねをせず、設備の整った病院に行くほうが、命が助かる可能性は遥かに高いはずだが、彼らにその選択肢はない。組や、己の立場を守るためには、命を危険に晒すほうがマシだと判断するのだ。
 腹部で内出血を引き起こした傷が一番ひどいが、それ以外にも、全身に打撲を負っており、明らかに硬い棒状のもので滅多打ちにされたとわかる。つまり、暴行を受けたのだ。この傷を見れば、真っ当な医者は間違いなく警察に通報し、そこから厄介な事態に至るのは、容易に推測できる。
「先生っ」
 返事をしない和彦に焦れたように、もう一度呼ばれる。昨日、患者の腹を開け、治療をするどころか、黙々と大量のガーゼを詰め込み始めた和彦に、やはり男はこうして呼びかけてきた。
 いかにも若く、美容外科医という肩書きを持つ和彦の腕を明らかに信用していないのだ。笑えることに、和彦自身、全幅の信頼を寄せられるほどの腕が自分にあるとは、毛頭思っていない。
「――……出血はなんとか止まった。昨日、手術をしなかったのは、体温が下がりすぎて危険だったからだ。その状態で止血処置をすると、かえって容態が急変することがある。だから、腹にガーゼを詰め込んで、一時的に止血した。今は状態が落ち着いているから、こうして手術ができる」
 体内の状態は今説明したように単純なものではないが、この組員が、他の組員に説明をするときに伝えやすいよう、かなり噛み砕いた言い方をする。そうすることで和彦も、これからの手術の手順を頭の中でわかりやすく組み立てる。
 看護師代わりの人間は傍らについているが、結局は和彦が何もかもを一人で進めなければならないのだ。やるべきことを明確にしておく必要がある。
「とりあえず今日は、傷ついた組織を摘出する。それからきちんと止血処置をして、臓器の修復をして……。輸血はもっと準備しておいてくれ。それと――」
 顔を上げた和彦は、周囲を見回す。どこかに時計はないかと探したのだが、室内は半透明のシートで覆われているため、何も見えない。それに、もともと何もない部屋に、手術施設を急ごしらえしたようなものだ。時計などあるはずもなかった。
 仕方なく組員に尋ねると、苛立ったような表情を向けられる。この状況で時間など気にするなと言いたげだ。仕方なく、バイタルサインモニタの隅に小さく表示された時間を、目を凝らして自分で確認する。すでにもう午後九時だった。
 実は昨日、クリニックを閉めてすぐ、待ちかねていたように長嶺組の車に乗せられ、総和会の人間に引き渡されたのだ。そして、この部屋に連れてこられた。そのまま患者に付き添っている状態で、今朝はここから直接クリニックに出勤した。
 明日も朝から予約が入っており、クリニック経営者としてはいろいろと気を回さなければならない。
 患者の血圧が少し下がってきているが、かまわず和彦は手を動かし、切除した組織をトレーにのせていく。血には慣れていた様子の組員だが、さすがに生々しい肉片を見て衝撃を受けたのか、顔が青ざめていく。
 これで、余計な質問をぶつけてこなくなるだろうと、和彦はマスクの下で短く息を吐き出す。長い夜は始まったばかりだと思うと、到底気など抜けなかった。


 血まみれの手術衣のまま部屋を出た和彦は、ぎょっとする男たちの視線に遠慮する余裕もなく、身を投げ出すようにしてソファに腰掛ける。
「佐伯先生、仮眠用の部屋を用意していますが……」
 待機していた男の一人が、控えめに声をかけてくる。和彦は力なく首を横に振った。
「さすがに少しは自分の部屋で休みたいから、帰りの車を呼んでくれないか」
 ひとまず、今日すべき処置は終えたが、感染症の恐れもあるため安心はできないのだ。仕事の合間にクリニックを抜け出して、様子を見にくる必要がある。和彦の負担を軽くするため、他の医者も手配しているとは言っていたが、それがいつになるかはわからない。
 すぐに車を手配するという言葉を受けた和彦は、背もたれに深く体を預けようとしたところで、自分の格好に気づく。もう必要なくなった手術衣を脱ぐと、丸めて組員に手渡す。
 ささやかな開放感を味わいながら、ソファに置いたままにしてあったジャケットを羽織る。ここで、ポケットに入れたままにしておいた携帯電話の存在を思い出し、何時間ぶりかに電源を入れる。そしてアタッシェケースから、もう一台の携帯電話を取り出す。先週、賢吾から渡されたプリペイド携帯だ。
 一瞬逡巡はしたものの、電源を入れてみると、メールが届いていた。わざわざ確認するまでもなく、送信主はわかっている。この携帯電話の番号とメールアドレスは、賢吾以外にはたった一人、里見にしか知らせていないのだ。
 以来、毎日メールが送られてくる。内容は他愛ないものばかりだが、だからこそ、和彦の生活の様子を慎重にうかがっているのだと感じられる。当然といえば当然だろう。これまで、公衆電話から一方的に電話をかけてくるだけだった相手が、突然、携帯電話から連絡を取ってきたのだ。
 それでも理由を問うてこないのは、里見らしいといえた。問われたとしても、和彦も答えに困る。
 複雑な気持ちを押し隠し、二時間ほど前に送られてきたメールに目を通す。
 和彦の父親である俊哉と一緒に昼食をとったという内容に、無意識のうちに眉をひそめていた。和彦の態度の軟化を気にかけているとも記されており、わずかな苛立ちが胸の奥で芽生える。実家で暮らしている頃、父親は和彦の様子になど目を向けたことはなかったのだ。
 佐伯家の様子を伝えてほしいと頼んだのは自分だが、知らされるたびに、神経がささくれ立つような感情に苛まれるのかと思うと、疲れているせいもあり、少しだけ和彦は気が滅入る。だからといって届いたメールを無視するわけにもいかない。
 何時であろうがメールしてもらってかまわないという里見の言葉に甘え、俊哉のことには触れずにメールを返信した。
 これでやっと、日づけは変わってしまったが、今日一日の仕事が片付いた気がする。
 和彦は大きく息を吐き出すと、顔を仰向かせて目を閉じる。これから帰宅したところで、あまり睡眠時間はとれないだろう。ほんの少し前まで、桜の花を眺めて浮かれていたのがウソのような慌ただしさだ。
 閉じた瞼の裏に、満開の桜の映像が映し出される。この桜を一緒に眺めたのは――。
「先生、もうすぐ車が到着しますので、一階までご案内します」
 いつの間にか眠っていたらしい。そう声をかけられて目を開けた和彦は反射的に、手にしたままの携帯電話で時間を確認する。メールを送信してから、三十分ほど経っていた。慌てて携帯電話を、ジャケットのもう片方のポケットに入れた。
 アタッシェケースを手に部屋を出る。古い雑居ビルの共用廊下は、室内の明るさとは対照的に薄暗く、時間の感覚が麻痺していた和彦はようやく、今が深夜なのだと実感する。
 エレベーターで一階に降りると、ちょうど車が雑居ビルの前に停まったところだった。和彦を招くように後部座席のドアが開き、身を乗り出すようにして一人の男が顔を見せる。和彦は息を呑み、足を止めた。
「どうした先生、早く乗ったらどうだ」
 獣の唸り声が空気を震わせる。南郷の声と口調は決して荒々しいわけではないのに、和彦にそんな印象を抱かせる。もしかすると、南郷が内に飼っているものの気配を感じ取っているのかもしれない。
 車を呼ぶのにやけに時間がかかったと思ったが、どうやら南郷が関係あるらしい。和彦はきつい眼差しを南郷に向けはしたものの、無視して立ち去れるはずもなく、仕方なく車に乗り込む。
「どうして――」
 車が発進してすぐ、和彦は疑問を口にしようとしたが、こちらの言うことなど聞く気はないらしく、一方的に南郷が説明を始めた。
「第二遊撃隊で面倒を見ることになっていた男だ。厄介事を起こして、総和会に泣きついてきたんだが、それでおとなしくしてりゃいいものを、ふらふらと出歩いて、あの様だ。――総和会の中で詰め腹を切らせることで話はついている。それが、外の組の者にボコられて死んだとあっちゃ、あちこちにケジメがつかない。〈今〉は、生きていてもらわないと困る」
 南郷と一緒にいるというだけで、まるで本能が警報を発しているかのように、全身の神経がざわつく。存在そのものがまるで凶器のようで、怖くて痛いのだ。そんな男に物騒な発言をされると、吐き気すら催しそうだ。
 和彦は感じる不快さを隠そうともせず、露骨に表情に出す。
「……詰め腹を切らせるって、もしかして……」
 最後の一言が声に出せず、口ごもる。南郷は悠然とシートにもたれかかりながら、嘲笑に近い表情を浮かべた。
「繊細だな、先生。さぞかし、長嶺組長に大事にされているんだろう。花見会のときの様子を見れば、簡単に想像はつくがな」
「あなたの隊が面倒を見ることになった人の腹に、たった今手を突っ込んできたのは、ぼくです。そういう言い方はやめてください」
 苛立ちを押し殺して冷ややかな声で応じるが、和彦のその反応は、南郷の神経をわずかでも傷つけることはできなかったようだ。返ってきたのは、低い笑い声だった。
「そうだった。どうも、育ちのよさそうなあんたの外見に惑わされる。あんたは、下手なヤクザが裸足で逃げ出す、性質の悪い〈オンナ〉だったな」
「――ぼくに皮肉を言うために、こんな時間に出向いてきたんですか」
「まさか。むしろ、あんたには礼を言いたい。前にも話したと思うが、第二遊撃隊っていうのは仕事上、どうしたって荒事が多くなる。荒事が多いと、怪我人も出る。そして、その怪我人が世話になるのが、先生だ」
 果たして南郷から礼を言われたことがあっただろうかと、つい和彦は考えてしまう。南郷とはすでに何回も顔を合わせているが、この男から常に感じるのは、凶暴性と不気味さだ。そのうえ、上辺だけの礼儀正しさすらも、なぜか和彦相手には発揮せず、ひたすら無礼だ。
「総和会が抱えている医者は、ぼくだけじゃありませんから……」
「オヤジさんが特別気に入っている医者は、あんた一人だ」
 南郷が言外に、和彦と守光の関係を匂わせる。疲れているせいもあって、和彦はいつもより感情の抑制が利かなかった。
 敵意を込めて南郷を睨みつける。もしかすると嫌悪や恐怖という感情も混じっていたかもしれない。
 少し前に守光から、南郷に慣れるよう言われた。総和会や守光という存在に慣れろというならまだわかるが、あえて南郷の名を挙げたのは不思議だ。守光の身近にいて、信頼されている男だからというのは、理由としては理解できる。しかし、なぜ南郷なのか――。
 実の息子とさほど年齢の変わらない男を、隠し子ではないかと噂されながらも側に置き、可愛がっているのには、やはり相応の理由が必要だ。〈信頼〉という抽象的な言葉ではなく。
 睨み続ける和彦の目を覗き込み、歯を剥くようにして南郷は笑った。
「あんたは、蔑むように人を見る目がよく似合うな。言われたことはないか?」
「……ないです」
「だとしたら、あんたがそんな目をするのは、俺だけだということか」
 車のライトに強く照らし出された南郷の目は、凍えるほど冷たかった。この瞬間、和彦の舌が強張り、否定の言葉が出てこない。これでは肯定したも同然だと思い、反射的に和彦は顔を背けようとしたが、すかさず後頭部に手がかかり、後ろ髪を掴まれた。
「痛っ……」
 和彦が声を洩らすと、ぐっと身を乗り出した南郷の顔が目の前に迫る。本能的な怯えから息を詰め、体を強張らせていた。それをいいことに、南郷が首筋に顔を寄せた。獣の息遣いが肌にかかり、一気に総毛立つ。
「相変わらずいい匂いだな。血の匂いがする」
 和彦は本気で、このまま南郷に首筋に食らいつかれて殺されると思った。肌に突き刺さりそうな鋭い気配を感じ、抵抗しようという気力はあっという間に潰える。
 南郷は明らかに、和彦の無抵抗ぶりを楽しんでいた。
「なんだ、逃げないのか、先生? 見た目によらず気が強いあんたなら、俺をひっぱたくぐらい平気ですると思ったんだが」
「……ヤクザを殴るのは、一回で懲りました……」
 その一回の相手が誰であるか、南郷はすぐに察しがついたようだ。
「肝が据わってるな。あの長嶺組長を殴ったのか」
「南郷さんには……関係ありません」
「関係ない、か」
 ぽつりと言われ、和彦は生きた心地がしなかった。次の瞬間には、激高した南郷にこちらが殴られるのではないかと思ったからだ。和彦の怯えを間近で感じ取ったらしい。南郷が耳元で笑い声を洩らした。
「オヤジさんの大事なオンナに、手を上げるわけないだろ。暴れるしか能のない俺でも、それぐらいの分別はある」
「だったら……、手を離してください」
「俺みたいな男に触られるのも汚らわしいか?」
「――ぼくみたいな男に触ると、汚れますよ」
 このとき南郷がどんな表情をしたか、和彦はちらりとでも視線を向けて見ることはできなかった。南郷の挑発的な物言いに煽られて、自分でも驚くような発言をしてしまったと自覚があったからだ。
 掴まれたままの後ろ髪を解放され、代わって髪の付け根をまさぐられる。そして、耳に唇を押し当てられた。身震いしたくなるような不快さが全身を駆け抜け、和彦は硬直する。思いがけない南郷の行動だった。
「この場で食っちまおうか。長嶺組長が大事にしているオンナを」
 耳に注ぎ込むように囁いた南郷に、耳朶に歯を立てられる。このままでは食い千切られると、本気で危機感を覚えた和彦は我に返り、南郷の体を必死に押し戻す。
 何か言われる前に、平手で思いきり頬を打っていた。
 車内に鋭い音が響き、次に息苦しいほどの沈黙が訪れる。
 和彦はシートに座り直すと、激しい動揺とは裏腹に、冷然とした声で告げた。
「……あなたを殴ったことをぼくに謝罪させたいなら、長嶺組長に話を通してください。そうすれば、土下座だろうが、あなたの気が済むように謝罪します」
 南郷は凶悪な笑みを浮かべた。
「そんな野暮はしない。これは、俺とあんたとの間でケリをつけることだ。そして――」
 突然頭を下げた南郷が発したのは、すまなかった、という一言だった。呆気に取られた和彦は、すぐには声が出せず、ただ目を丸くする。
「これでケリはついた。だろ?」
 頭を上げた南郷が悪びれた様子もなく同意を求めてくる。車内というごく狭いスペースでのトラブルを外に持ち出し、組の面子というレベルにまで騒ぎ立てるつもりはない。
 和彦は、南郷の反応をうかがいつつも、小さく頷く。
 力を持たない自分には、南郷の謝罪をこの場で受け入れるしかないと、よくわかっていたからだ。




「――心ここにあらず、といった感じだな、先生」
 笑いを含んだ声でそんなことを言われ、ショーウィンドーにぼんやりと視線を投げかけていた和彦は慌てて隣を見る。賢吾がニヤニヤと笑っていた。
 ムキになって反論しようとしたが、ここがどこであるか思い出し、寸前のところで声を潜める。
「はっきり言って、歩くのもつらいほど……眠いんだ」
「だったら遠慮なく、俺の腕に掴まれ」
 できるわけないだろ、と心の中で言い返して、和彦は周囲を見回す。夕方の街中は、人と車で雑然として慌ただしい。仕事や学校を終え、夜が訪れるまでの時間をどう過ごすか、足早に歩きながら考えている人もいるだろう。
 当の和彦は、予定ではまっすぐ帰宅し、食事もとらずにすぐにベッドに潜り込むつもりだった。睡眠不足でとにかくフラフラなのだ。ところが、いつものように送迎の車に乗り込むと、なぜか長嶺組の事務所に連れて行かれ、そこで待機していた賢吾とともに、こうして街を歩く状況となった。
 夕食の前に軽いデート気分を味わいたいと、大蛇を背負った男がヌケヌケと言ったのだ。
 街中の人通りの多い場所を、賢吾と並んで歩くのは新鮮だ。何かと理由をつけてよく連れ出されてはいるのだが、車で降りた目の前が目的地であったり、護衛が前後にしっかりと張り付いていたりすることがほとんどなのだ。今も護衛の組員はついているが、それでもずいぶん離れて歩いている。普段の厳重な護衛ぶりを知っていると、この状態は無防備といえるはずだ。
「何か企んでいるのか?」
 髪を掻き上げ、さりげなく和彦は問いかける。スラックスのポケットに片手を突っ込み、賢吾は肩をすくめた。
「俺は信用がねーんだな。純粋に、先生とのささやかなデートを楽しみたいだけなのに」
「……往来で、物騒な男が何言ってるんだ……」
 ダブルのスーツをこれ以上なく完璧に着こなした、一見して極上に見える男は、人に紛れて街中を歩くにはあまりに目立ちすぎる。辺りを睥睨しているわけでも、荒々しい空気を振り撒いているわけでもないが、やはり明らかに、一般人とは何かが違う。
 前までの和彦なら、それがなんであるか明確に表現できたのかもしれないが、今は無理だった。いつまでも自分は普通の感覚を持ち続けていると過信しているうちに、その〈普通の感覚〉が鈍くなってきている。
 いや、裏の世界に馴染んでしまった、というべきか。
「――昼間、クリニックを抜け出して、患者のところに行ったそうだな」
 低く抑えた声で賢吾が言う。ここで切り出されるとは思わず、一瞬戸惑った和彦だが、すぐに頷く。
「大変だな。一昨日からかかりっきりだろ。昨日……というか今日も、夜中に部屋に戻ってきたんだったな。その様子だと、あまり寝ないうちにクリニックに出勤した、ってところか」
 和彦自身が詳細な説明をするまでもなく、賢吾には組員を通して、和彦の行動はほぼ正確に伝わっている。総和会からも、報告が入っているだろう。もちろん、南郷が和彦を送ったことも。
 ただ、車中での和彦と南郷のやり取りについてはどうなのか、確認していない。賢吾や総和会は把握しているのか、何もなかったこととして、南郷は自分の胸に収めてしまったのか。
 南郷ほどの男に頭を下げさせたことがいまさらながら怖くなる。今晩の食事中の話題は、決まったようなものだった。南郷との間にあったことを黙っているわけにもいかず、打ち明けることにしたのだ。賢吾に隠し事をするのが、和彦には何より怖い。
「先生?」
 賢吾に呼ばれ、伏せていた視線を上げた和彦は大仰に顔をしかめてみせる。
「ぼくが大変な状況だとわかっていて、わざわざ外に連れ出したのか」
「やつれた先生の顔を見たくてな」
 澄ました顔でさらりと言われ、和彦のほうが照れてしまう。誤魔化すようにぼそぼそと説明をした。
「……昼休みを挟んで、予約時間まで余裕があったから、様子を見に。感染症が心配で、本当は目が離せない状態なんだ。患者の容態は落ち着いていたし、夕方からは他の医者が付き添うことになったから、金曜日の診察まで、ぼくは顔を出さなくていいみたいだ」
「先生が文句を言わないのをいいことに、気安く仕事を頼みすぎだな、総和会の連中は」
「気安いかどうかはわからないが、美容外科医に対して、無茶な注文をしてくるのが困る。……あんたも、総和会も」
「そうだったか?」
 露骨にとぼける賢吾の脇腹を軽く小突くと、悪戯っぽい笑みで返される。つられるように和彦も、微笑を浮かべていた。
 先日、一緒に夜桜見物をして宿に一泊して以来、賢吾は機嫌がいい。もっと正確にいうなら、和彦に対して甘くなった気がする。そして和彦自身、そんな賢吾の側にいると心地いい。困ったことに。
「まあ、先生が働くおかげで、うちの組の稼ぎになる。今日はこれから、俺の靴を買いに行くんだが、先生にも何か買ってやる。なんでもいいぞ」
「いきなり言われても……」
「言わないなら、俺が勝手に選ぶからな」
「それは、いつもと同じじゃないか」
 ときには笑みをこぼし、他愛ない会話を交わしながら、賢吾と並んで歩く。こうしていると、相手が大きな組の組長であるということを忘れそうになるが、即座にヒヤリとするような緊迫感が蘇り、そこで賢吾が何者であるかを実感させられる。
「そろそろ、夏物の着物も仕立てるか」
 ゾクリとするような流し目を寄越し、賢吾が提案してくる。なぜか頬の辺りが熱くなっていくのを感じ、和彦はさりげなく視線を逸らす。
「着物に関しては、あんたに任せる。どうせ、自分好みのものを選ぶんだろ」
「俺は、誰よりも先生を知っているからな」
 ごく最近、里見の件で騒ぎになったせいもあり、和彦はどんな顔をすればいいのかわからず、性質が悪いことに賢吾は、そんな和彦の様子を楽しげに眺めている。
「……嫌な、男だ」
「大蛇だからな」
 人通りがあるというのに、平然と賢吾は頬を撫でてきた。驚いた和彦は、これ以上賢吾に大胆な行動に出られては敵わないと、足早に先を歩く。
「先生、そんなに急ぐと、転ぶぞ」
 背後から悠然とした声をかけられ、ますます和彦は歩調を速める。
 ふと、こちらを見ている人の姿を視界の隅に捉えた。ハッとして車道の向こうに目を向ける。ちょうどデパートの正面口があり、それでなくても人通りが多いうえに、待ち合わせをする人たちで混み合っている。
 その人たちの中に、見知った男の姿があった。鷹津だ。
「えっ……」
 和彦は小さく声を洩らし、目を凝らす。黒のソリッドシャツという格好は、ある種鷹津のトレードマークのようなものだ。その見覚えのある格好をした鷹津は、射るような視線でこちら――和彦を見ていた。
 確かに目が合ったと感じたとき、学生らしい一団が和彦のすぐ目の前を通り過ぎ、数秒の間、鷹津の姿が視界から消える。
「急に立ち止まってどうした」
 立ち尽くす和彦に、追いついた賢吾が声をかけてくる。
「いや、あそこに――」
 和彦が再び視線を向けた先には、すでに鷹津の姿はなかった。まるで幻が消えたかのように。
 本当に自分は鷹津を見たのだろうかと、急に不安になった和彦は緩く首を横に振る。
「デパートに少し寄ってもらっていいか? ワインを買って帰りたいんだ」
「ああ」
 賢吾の手がさりげなく肩にかかる。促されるように歩き出しながら、和彦はもう一度、鷹津が立っていた辺りを見る。
 目を開けたまま夢を見ていたようで、なんだか落ち着かない気分だった。









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