と束縛と


- 第25話(4) -


 男の腹部を慎重に押さえ、不自然な張りがないことを確認した和彦は、次に、手術の傷を覆っている大きなガーゼを剥がす。腸閉塞という事態には見舞われたものの、傷口は化膿しなかったようだ。
 この調子なら、もう何日かすれば抜糸ができるだろうと思いながら、消毒をして、新しいガーゼを貼る。
「手術の経過は問題なし。それと腸閉塞のほうも、便が出たと報告を受けたので、ひとまず安心はしていいだろう」
 大人用のオムツをつけた患者の男は、やれやれ、という表情となる。内心では、和彦も同じ気持ちだ。
 このとき、治療した側・された側と、まったく違う立場でありながら、同じ気持ちを共有したであろう二人の目が合う。
 総和会に匿われる身で、暴漢に襲われて重傷を負うという凄まじい経験をした男は、いかつい顔に似合わない、妙に愛嬌のある笑みを浮かべ、軽く頭を上下に動かす。喉が渇ききって声が出せないなりに、和彦に対して感謝の気持ちを示したらしい。
「……まだ油断はできない。手術のためにけっこう腹の中を弄ったから、またどんな影響が出るかわからないんだ。もう何事も起こらないかもしれないし、再発するかもしれない。なんにしても、腹の傷が完全に塞がるまでは様子見だ」
 男に対してだけ説明しているわけではなく、ベッドの傍らに立つ監視役の組員にも聞かせているのだ。
 和彦は輸液の確認をしてから、必要事項をメモ用紙に書き込む。
「明日から、水分を口からとることにしよう。ただし一日で採れるのは、カップ一杯――の半分だけ。あくまで口を湿らせる程度に。引き続き、尿と便の様子を観察してほしい。何かあれば、連絡を」
 淡々と告げてメモ用紙を一枚破ると、素っ気なく組員に押し付ける。和彦の態度に驚いたように目を丸くしたが、頭を下げて受け取った。
「お疲れ様でした。車を呼びますから、コーヒーでも飲んでお待ちください」
「――もし、呼んだ車の後部座席に誰か乗っていたら、タクシーで帰るからな」
 和彦は、冷然とした眼差しを組員に向ける。普段であれば、こんな眼差しを他人に向けることはないのだが、この場所にいて、ぬるい気持ちではいられなかった。
 これ以上なく、和彦は激怒しているのだ。激しい火花を周囲に撒き散らす種の怒りではなく、冷たく重い鉛を胸に抱き込み、ひたすら静かに耐える、そういう怒りだ。
「コーヒーはいらない。今から一階に下りる」
「いや、しかし、何が起きるかわかりませんから――」
「総和会の息がかかったこの場所で、何が起きるんだ?」
 和彦はさっさと部屋を出て手を洗うと、ソファに置いたジャケットとアタッシェケースを取り上げる。足早に玄関に向かうと、部屋にいた男たちが慌てた様子であとを追いかけてきた。
 総和会会長のオンナが図に乗っていると思われようが、どうでもよかった。ここにいる男たちのすべてとは言わないが、何人かは確実に、〈あの男〉の息がかかっている。当然だ。患者の男は、第二遊撃隊が面倒を見ることになっており、その男がベッドの上で動けない状態となっても、役目は変わっていないはずだ。
 だからこそ、〈あの男〉――南郷は、この雑居ビル内での和彦のすべての行動を把握できたのだ。
 そうでなければ、あんなことができるはずがない。
 エレベーターに乗り込んだ和彦は、数日前に自分の身に起こったことを思い返す。同時に、布越しのざらついた感触の口づけが、息苦しさとともに蘇った。忌々しくて仕方なく、一刻も早く消し去ってしまいたいが、一方で、胸の内では青白い怒りの炎がチロチロと燃え続けているため、それが叶わない。
 本当は、どんな理由をつけてでも、ここに来ることを拒否したかったが、患者を放り出せないという義務感には勝てなかった。そんな気持ちすら南郷に見透かされているようで、気分が悪い。それ以上に、気味が悪い。
 和彦がすべてを賢吾に報告することを、南郷は恐れていない。本人に確認したわけではないが、行動の大胆さを思えば、そうとしか考えられないのだ。自分のオンナがどんな目に遭ったのかを知って、賢吾がどう出るかを計っているのかもしれない。
 動けば動くほど南郷の思惑通りになりそうで、それが和彦には空恐ろしい。
 一階に到着したエレベーターの扉が開く。ハッと我に返った和彦は、慌ててエレベーターを降り、狭いエントランスを通って外に出ようとしたが、それは男たちに止められた。男の一人がまず外に出て、慎重に辺りの様子をうかがい始める。
 和彦は短く息を吐き出すと、髪に指を差し込む。安心するのはまだ早いが、少なくとも、今夜はここに一泊する事態だけは免れそうだった。
 もう二度と、あんな怖い目には遭いたくなかった。本来であれば、たった一度であろうが和彦が遭遇するはずのない事態だったのだ。
 なんといっても和彦は、長嶺の男たちの〈オンナ〉だ。
 その、長嶺の男たちに何も告げていないのには、理由がある。特に、賢吾には打ち明けたくなかった。
 賢吾に隠し事はしないと心に決めたが、今回はいままでとは状況が違う。これまでの隠し事は、いわば保身ゆえの行動だったのに対し、和彦と南郷の間で起きた出来事は、一度公になれば、個人ではなく、長嶺組と総和会という組織の問題となる危険を孕んでいる。
 男たちは事を荒立てない方法をいくらでも知っているだろうが、和彦の脳裏に浮かぶのは、花見会での賢吾と南郷が顔を合わせたときの光景だった。
 あの場にいた者ならば――和彦以外の人間でも、どんな小さな諍いの火種も、この二人の間に作ってはいけないと感じるはずだ。
 当人たちが何よりそれを知っているはずなのに、南郷は行動を起こしたのだ。よりにもよって、守光と同じ手段を使って。
 南郷は、裏の世界での和彦という存在をよく把握している。抗えない力に対して逆らわず、巧く身を委ねるという気質も含めて。だからあえて、和彦を拘束することも、暴力を振るうこともなく、易々と動きを封じ込めたのだ。
 和彦は激怒しているが、その感情は南郷だけではなく、自分自身にも向いていた。同時に、羞恥し、困惑もしている。
 南郷の行為に、〈オンナ〉とはこうやって扱っていいものだと、現実を見せつけられた気がした。
「――佐伯先生」
 組員に呼ばれて顔を上げる。車が雑居ビルの前にちょうど停まるところだった。
 和彦は促された外に出ると、やや緊張しながら、組員がドアを開けてくれた後部座席を覗き込む。そこには、誰も乗っていなかった。
 こんなことでビクビクしている自分に忌々しさを覚えながら、何事もなかった顔をして和彦は車に乗り込む。すぐにドアは閉められ、速やかに車は走り出した。




 目を通していたファイルを閉じて、何げなく時間を確認する。驚いたことに、もう夕方と呼べる時間だった。
 クリニックが休みの土曜日、どこかに出かける気力も湧かなかったため、この機会だからと、総和会の総本部で藤倉から渡されたファイルに目を通していたのだ。和彦に対して、どれだけの精査能力を求めているのかは知らないが、検討してほしいと言って渡された以上、何もしないわけにはいかない。
 その後は、総和会からのクリニック経営を任せたいという申し出について、賢吾と相談しなければならないだろう。断るにしても、総和会と守光の面子を潰さないよう配慮する必要があった。
 考えることが多すぎると、和彦の心の中で嘆息する。
 ついでに、今晩の夕食もどうしようかと思っているところに、デスクの上の携帯電話が鳴った。一瞬、賢吾からの夕食の誘いだろうかと身構えたが、表示された名は、和彦の身近にいる人間の中で、ある意味もっとも気安い相手だった。
『――先生、これから食事も兼ねて一緒に飲みませんか?』
 開口一番の秦の言葉に、さすがに苦笑が洩れる。
「突然だな」
『ここ何日か、先生の機嫌がすこぶる悪いと聞いたものですから、気分転換になればと思ったんです』
「……ぼくの機嫌が悪いって……、誰から聞いたんだ」
『あちらこちらから』
 和彦はもう一度苦笑を洩らす。機嫌が悪いという自覚はなかったが、車で移動中も黙り込み、話しかけられても最低限の返事しかしていなかった。長嶺の本宅にも立ち寄っていなかったので、それらが関係者たちに伝わった挙げ句に、誰かが秦に知らせたのだろう。
「単に、疲れていただけだ。――恐ろしいな。いつの間に、情報網を作り上げたんだ。しかも、ぼくのことなんて」
『おや、わたしはこれでも、長嶺組のために働いて、庇護を受けている人間ですよ。それに先生の遊び相手でもありますから、様子を把握しておくのは、当然ですね』
「で、ぼくの機嫌取りを、誰かから任されたのか」
『わたしの考えですよ。長嶺組長にも、先生を外に連れ出していいと許可はもらいました。閉店パーティーを、先生とひっそり楽しむのもいいかと思いまして』
 秦らしいというべきか、なんとも和彦の興味を惹く物言いが上手い。あっさりと断るつもりだった和彦だが、少しだけ好奇心が疼き、仕方なくこう問いかけた。
「閉店パーティーって?」
『わたしが経営している店の一つで、内装工事を行います。去年、中嶋と先生の三人で飲んだホストクラブですよ。それと先生には、クリスマスツリーの飾りも手伝ってもらいましたね』
「そんなこともあったな……」
 忘れてならないのは、同じ店で和彦は、秦に薬を飲まされて淫らな行為に及ばれたことがある。あの頃はまだ秦の正体も知らず、律儀に敬語を使って話していたのだ。
 それが今では――。
 自分の痴態も含めていろいろと脳裏に蘇り、危うく体温が上がりそうになった和彦は、慌てて頭から追い払う。
『予定では一か月ほど店を閉めることになるので、昨夜はお客様たちを招いて、派手に騒いだんです。そして今夜は、わたしも経営者という肩書きを忘れて、先生と楽しく飲みたいと思いまして』
「……今回も、中嶋くんは?」
 和彦の問いかけをどう受け止めたのか、電話の向こうから微かに秦の笑い声が聞こえてくる。
『残念ながら、中嶋は今夜は仕事だそうです。――大丈夫。中嶋がいないからといって、先生に変なことはしませんよ』
「そんなことは心配していないっ」
『でしたら、おつき合いいただけますか?』
 秦は、和彦が断るとは思っていない口ぶりだった。和彦の機嫌が悪いと聞かされながら、あえて電話をかけてきたぐらいだ。やはり賢吾から、気分転換させてやれとでも言われているのかもしれない。
「――つき合ってもいい」
 そう和彦が答えると、また電話の向こうから、秦の笑い声が聞こえてきた。
『料理や酒を準備しておきますから、いつでもいらしてください。あっ、護衛の方の分も用意しておきますよ。中嶋が一緒じゃないので、護衛をつけないと夜遊びはできないでしょう、先生は』
 気が利くなと呟いて、電話を切る。和彦は携帯電話を握ったまま、すぐには動き出さず、ぼんやりとしてしまう。
 秦の優しい口調で問われると、言わなくていいことまで話してしまいそうで、隠し事をしているときに会うには、意外に厄介な相手だ。やはり断ればよかっただろうかと、ちらりと頭の片隅で考える。
 しかし、秦はどこまでも気が利いていた。握っていた携帯電話が再び鳴り、和彦は反射的に電話に出る。今度は、いつも護衛を務めている組員からだった。
 すぐに出発しますかと問われ、力なく笑ってしまう。
「三十分後に迎えに来てくれ」
 そう答えて電話を切ると、今度こそ立ち上がった。


 秦が経営するホストクラブは、すでに内装工事に向けての準備が始まっているらしく、店内装飾のほとんどが撤去されていた。昨夜、客を招いてパーティーを開いたという話だったので、その後に作業に取り掛かったのだとしたら、ずいぶん仕事が早い。
 立ち働く従業員も客もいない静けさを誤魔化すように、店内には音楽が流れていた。おかげで沈黙を意識しなくていい和彦は、黙々と寿司を食べる。そんな和彦を、向かいの席についた秦は目を細めて眺めていた。
「体調が悪いのかと心配していたのですが、食欲はあるようなので、安心しました」
 秦の言葉に、和彦はわずかに唇を歪める。
「……別に、体調はなんともない」
「機嫌が悪いだけ?」
「そういう言い方をされると、ぼくが子供みたいだろ。――仕事でいろいろあって、一人で頭を悩ませているだけだ」
「それだけ、背負うものが大きくなったということは、先生の存在感がこの世界で大きくなったということですよ」
 秦はどこまで把握しているのだろうかと、ちらりとそんなことを考えて、苦々しく和彦は洩らした。
「一気に食欲が失せることを言わないでくれ」
「残念ですね。こういうときこそ中嶋がいれば、先生の気も紛れるでしょうに。あいつ相手なら、けっこう気楽に、なんでも話せるでしょう」
「それは……、どうだろう」
 親しいつき合いでつい忘れてしまいそうになるが、中嶋は総和会の人間だ。しかも、南郷が率いる第二遊撃隊に属している。中嶋を信用していないわけではないが、野心家の一面を知っているだけに、慎重にならざるをえない。なんといっても中嶋は、長嶺組にも出入りしているのだ。
 これ以上詮索するなという意味も込めて和彦は、露骨に話題を逸らした。
「――しかし、一か月も店を閉めて内装工事だなんて、景気がいいみたいだな」
 和彦の意図を汲み取ったのだろう。秦は小さく笑みをこぼして、店内を見回す。
「景気が悪くても、よさそうに見せないといけないんですよ、こういう仕事は。この店の内装は気に入っていて、しばらく変えていなかったのですが、さすがにマンネリかと。それに、一店舗を閉めてでも、少し時間と人手が欲しかったんです」
「ぼくに説明してくれた、新しい事業の準備か?」
 大仰に目を丸くした秦は、次の瞬間にはにこやかな表情となり、空いたグラスにワインを注いでくれた。
 ちなみに、この店には現在、和彦を除いて三人の男がいる。秦と、和彦の護衛としてついている長嶺組の組員が二人だ。客もいないというのに、護衛の男たちは離れたテーブルにつき、和彦と同じように寿司を摘みながら、お茶を飲んでいる。秦はグレープフルーツジュースで、アルコールを飲んでいるのは、和彦だけだ。
 賢吾が大げさに吹き込んだのかもしれないが、これではまるで、和彦の機嫌取りのためだけに、酒宴が設けられたようなものだ。
「……ぼくだけが飲んでいると、申し訳ないんだが……」
「大丈夫です。もうそろそろ、先生につき合える人が来るはずですよ」
 えっ、と声を洩らした和彦に、気障ったらしく秦がウインクしてくる。
 秦が誰を指して言ったのかは、十分ほどして判明した。
 なんの前触れもなく店に入ってきた人物を見るなり、和彦より先に、護衛の組員が反応して立ち上がる。殺気立つことはなかったが、敵意に近い警戒心を露わにする。少し遅れて、和彦も立ち上がった。
 黒のソリッドシャツにジーンズという、見慣れた格好をした鷹津が、ふてぶてしい表情でこちらを見て、ニヤリと笑う。蛇蝎の片割れに例えられる男らしい、嫌な笑い方だ。
「どうして……」
「――わたしが、声をかけたんですよ」
 和彦が洩らした言葉に、秦が応じる。怪訝な顔をすると、座るよう促されたので、思わず従ってしまう。すると、当然のように鷹津が隣にドカッと腰を下ろし、和彦の肩に手をかけてきた。
「ようやく捕まえたぞ、佐伯」
 鷹津の傲慢な物言いに、反発を覚えた和彦は睨みつける。ついでに、秦も。
「二人揃って、ぼくに対する嫌がらせか?」
 鷹津は鼻先で笑い、秦はとんでもないといわんばかりに肩をすくめた。
「鷹津さんは、わたしの店の常連ですよ」
「ホストクラブのほうじゃないぞ。俺は、男に興味はない」
 わざわざ念を押した鷹津を、和彦はもう一度睨みつける。嫌な男だ、と心の中で呟いたが、もしかすると声に出ていたかもしれない。和彦がどれだけ毒づこうが、鷹津の図太い神経に小さな傷すらつけられないだろう。
 実際、鷹津は目の前で機嫌よさそうに笑っている。その理由に、嫌というほど和彦は心当たりがあった。
「……この男が来るとわかっていたら、ぼくは部屋から出なかった」
 恨みがましく和彦が言うと、秦は困ったような顔をする。
「すみません。先生を誘ったあとで、鷹津さんから酒を飲ませろと連絡が入ったもので。先生の機嫌を直すなら、気心の知れた人がもう一人いてもいいかなと思ったんです」
 和彦は冷めた視線を鷹津に投げかける。
「刑事のくせに、人にタカっているのか」
「失礼な奴だな。俺と秦は、持ちつ持たれつってやつだ。あれこれと目をつぶって、たまに情報を流してやっている代わりに、俺は美味い酒を飲ませてもらっている。――俺とお前の関係も、そうだろ」
 鷹津に、意味ありげな手つきで頬をくすぐられる。その手を素っ気なく払い除けた和彦だが、頬が熱くなるのは抑えられなかった。
 鷹津にまだ〈餌〉を与えていないことを、当然忘れてはいない。こうして顔を合わせた以上、何事もなく別れられるはずもなかった。それを裏付けるように、和彦の耳元に顔を寄せ、鷹津が囁いた。
「今日はきっちり、餌を食わせてもらうからな。時間がないというなら、ここのトイレに連れ込んでもかまわねーぞ」
「恥ずかしい男だなっ。ここで、そんなことを言わなくてもいいだろっ」
「なんだ。お前みたいな奴でも、体面なんてものを気にするのか。ろくでなしが勢揃いしているこの場で」
 言い返そうとした和彦だが、明らかにおもしろがっている秦の視線を感じ、ため息で誤魔化した。どうしても鷹津が相手だと、遠慮なく言い合ってしまうのだ。
 和彦にとって鷹津は、数少ない気遣いのいらない相手だし、〈番犬〉として、自分の都合で扱える。ただし、いつ鎖を引き千切るかわからない、狂犬だ。身構えつつも、餌を与える相手に噛み付くなということだけは、きっちりと躾けなければならない。
 そういう気持ちを胸の内に抱きつつ鷹津と接しているというのに、秦は楽しげな口調で言った。
「――仲がいいですね、先生と鷹津さんは。まるで、悪友同士だ」
「目が腐っているんじゃないか、お前……」
 呆れたように応じたのは、鷹津だ。一方の和彦も、苦々しく洩らした。
「冗談じゃない。こんな嫌な男と」
「そう言いながら、二人とも会話が弾んでいるじゃないですか」
 秦が差し出したグラスを不機嫌そうな顔で鷹津が受け取り、手酌でビールを注ごうとする。
 次の瞬間、異変は起こった。
 和彦の周囲を流れていた空気が一気に凍りつき、目の前に座っている秦が顔を強張らせる。そこまでを認識したときには、世界が一変した。
 寸前まで隣に座っていた鷹津がいつの間にか立ち上がり、体が震えるような怒声を発する。テーブルの上の食器を掴んだかと思うと、ホールの中央に向かって投げつける。同時に秦がテーブルを乗り越えながら、スーツのジャケットから何かを取り出す。ちらりと見えた銀色の冷たく輝く刃が、和彦の網膜にしっかりと焼きついた。
「佐伯っ、伏せてろっ」
 鷹津に怒鳴られて、ぐいっと頭を押さえつけられる。和彦はソファの上に倒れ込んだが、そのまま体が硬直し、動けなくなった。
 その間、鼓膜に突き刺さるようなガラスの割れる音と、重々しい衝撃音が響き、そこに男たちの罵声や、威嚇する声が入り乱れる。ずいぶん長い間続いていたような気がするが、もしかすると一分ほどのことだったかもしれない。とにかく和彦は、身動きどころか瞬きもできず、ただ、壁を凝視していた。
「――生きてるか」
 再び頭上から鷹津の声がする。ハッと我に返った和彦は、大きく息を吸い込む。すぐには身動きができないでいると、正面に回り込んできた秦に顔を覗き込まれた。店内がただならぬ状況にあったのは、秦のまだ強張った顔を見ればわかった。
「怪我はないですか、先生?」
 そう問いかけられて、手を差し出される。秦の手を取って体を起こそうとした和彦だが、男の怒声が聞こえて、大きく身を震わせ、怯える。秦がようやく微笑を浮かべ、耳元で囁いた。
「もう大丈夫ですよ。押さえましたから」
 和彦はぎこちなく体を起こし、背後を振り返る。凄惨ともいえる光景が、そこにはあった。
 ホールの床の上に見たこともない男たち三人が倒れていた。一人は完全に気絶しており、もう一人は腕を抱えてのたうち回ろうとして、護衛の組員に肩を踏みつけられている。残る一人は、うつ伏せの姿勢で必死に顔を上げ、何かを喚いている。起き上がれないのは、もう一人の組員が背に座り込み、しっかりと腕を捻り上げているからだ。
 食器や酒瓶の破片が床に散乱しており、さらには点々と血が落ちている。それを見てドキリとした和彦は慌てて、秦や組員たちの様子を確認したが、一見して無傷に見えた。
 そして、もう一人――。
 店内を見回すと、鷹津はカウンターに寄りかかり、おしぼりで右手を拭いていた。安堵しかけた和彦だが、おしぼりが真っ赤に染まっていくのを見て、反射的に立ち上がる。
「先生っ、まだじっとして――」
 和彦を引きとめようと秦が手を伸ばしたが、それをすり抜け、慌てて鷹津の元に駆け寄る。鷹津は忌々しげに唇を歪め、和彦を一瞥した。
「……酒を飲むつもりで来たのに、まだ一口も飲めてねーぞ」
「人にタカってまで飲むなということだろ」
 いつもの調子で応じた和彦だが、声はわずかに震えを帯びていた。状況が呑み込めないまま、まだ激しく動揺している。
 それでも、鷹津の怪我を放っておくことはできず、秦に頼んでタオルを持ってきてもらう。
 鷹津のシャツの袖を捲り上げる。腕から手首にかけて、十センチほどざっくりと裂けて、そこから出血していた。どうやらナイフで切りつけられたようだ。
 傷口にタオルを押し当てて、まずは止血する。
「一体、何が起こったんだ」
 和彦が尋ねると、鷹津は軽くあごをしゃくり、どこかに電話をかけている秦を示した。
「多分、秦を狙った〈客〉だ。ここにヤクザも刑事もいるってのに、まっさきにあいつに向かって突っ込んできた」
 それを聞いた和彦は、あっ、と声を洩らしていた。
「どうした?」
「いや……、この間――」
 秦の護衛を一時期務めたことのある長嶺組の組員が、何日か前に襲われたことを話す。本来、こういう情報を他言するのは賢吾の許可をもらうべきなのだろうが、秦を狙った男たちのせいで負傷した鷹津を目の前にして、そういう理屈も振りかざせない。
「秦を狙っている奴は、よほどの阿呆か、ヤクザ相手に張り合えると、本気で思っている人間だな。例えば――外国人。最近は、外国人とつるんで仕事をする、日本人のチンピラもいるしな」
 意味ありげに、鷹津が和彦を見る。和彦は傷口にタオルをぐっと押し付けて、首を横に振った。
「ぼくは何も知らない。それに、あんたにしても、探ったところで仕方ないだろ。いるはずのない刑事が、犯行現場にいたんだ。同僚を呼んで、捜査をするのか?」
「……そうだ。俺は今晩は、美味い餌を食いに来ただけだ。刑事としての俺は、ここにはいなかった」
 ここで鷹津が顔を歪める。平然として話しているようだが、やはり切りつけられたばかりの傷が痛んでいるのだ。和彦はタオルをそっと外し、出血が止まりつつあることを確認する。
「自分でしっかりとタオルを押さえておいてくれ。新しいタオルをもらってくる」
 そう言い置いて、ちょうど電話を終えた秦の元へと行く。和彦に気づき、秦は表情を曇らせた。
「すみません、先生。こんな騒ぎに巻き込んで……。今、長嶺組の本宅に連絡を入れましたので、すぐに迎えの車が来ると思います」
「ぼくのことは気にしなくていい。それより――」
 和彦はそっと、ホールの男たちを見る。襲撃してきた男たちは三人とも、両手足を縛り上げられたうえに、口にはタオルを押し込まれていた。それを、組員たちが仁王立ちで見下ろしている。
「長嶺組に任せましょう。わたしはとにかくここを、明後日には内装工事の業者を入れられる状態にしないと」
 自分が襲われかけたというのに、危機感に欠けた口調で秦が話す。だからこそ、この男が見た目通りの優男ではないと、実感していた。ヤクザに囲まれて生活しながら、ヤクザではないという点で、和彦と秦は似ているが、比較にならないほど秦の抱える闇は深い。
「それで先生、鷹津さんは?」
「あっ、そうだ。タオルをもう二、三枚もらえないか? あの傷だと、縫わないといけない。病院に……と言いたいが、あの刃物傷なら、包丁で切ったとも言い訳できない。刑事だとなおさら、大事にできないだろうしな」
「ということは、先生のクリニックに?」
 和彦は、タオルを捲って傷を確認している鷹津を見遣り、ため息をついて頷く。
「仕方ない。現場にいた以上、放っておけない」
「わたしからも、お願いしますよ。なんといっても、鷹津さんがいたおかげで、わたしのせいで先生が怪我をする事態を避けられたんですから」
 秦の言葉に、和彦は首を傾げる。すると秦は、思いがけないことを教えてくれた。
「男の一人が、先生が座っていたソファに、ナイフを構えて突っ込んでいこうとしたんですが、寸前で鷹津さんが庇った。怪我は、そのとき揉み合ったせいです」
 和彦が知っている鷹津なら、何より先にそのことを、恩着せがましく報告してくるだろう。だが、さっきまで話していた鷹津は、匂わせもしなかった。
 ふてぶてしい男でも、気が高ぶって話す余裕がなかったのか、それとも何か意図があるのか――。
 思考を働かせようとした和彦だが、早々に諦めた。いまだに激しい動揺の余韻が残っているため、頭が上手く回らない。
 軽い眩暈に襲われ、近くのソファに腰掛けた和彦に、心配そうに秦が声をかけてくる。
「先生?」
「……なんでもない。ただ、少し気が抜けた。ぼくは君らと違って、修羅場には慣れてないんだ」
「先生は、違う意味の修羅場には慣れていそうですけどね」
 この状況に不似合いな秦の軽口に、和彦は力なく笑っていた。


 長嶺組の組員が運転する車でクリニックに向かった和彦は、鷹津をすぐに処置室へと連れ込む。
 さすがに出血は止まっており、傷口をよく洗ってから鷹津をイスに座らせると、和彦は処置室の棚の鍵を開け、縫合に必要なものをトレーに載せていく。
「――お前の医者らしい顔は、前にも見たな」
 ふいに鷹津が話しかけてくる。和彦は局所麻酔薬を手に振り返った。
「いつのことだ?」
「お前が、マンションの部屋でヤクザの治療をしているときだ。俺が踏み込もうとしたら、お前がハッタリをかましたことがあっただろ。バレバレのウソだったが、腹の据わったお前のウソに免じて、引いてやった」
「恩着せがましく言うな。令状もなしで踏み込む権限なんて、なかっただろ」
「俺が、ヤクザ相手に、律儀に手順を踏む男だと思うか?」
 否定できなかった和彦だが、だからといっていまさら鷹津に感謝する義理もなく、上肢台を挟んで鷹津の正面に座る。
 改めて傷口を検分するが、神経は傷ついておらず、今後の生活に支障が出る怪我ではないとわかり、ほっとする。
 さっそく局所麻酔を打ってから、傷口を縫い始める。さすがに、自分の生々しい傷口を見る趣味はないらしく、鷹津はさりげなく視線を逸らした。
「麻酔が切れたら傷が疼くだろうから、あとで処方する痛み止めを飲んでくれ。今夜は絶対酒を飲むなよ。それと、傷が塞がる数日間は、不用意に手を動かすな」
 和彦は傷口を縫いながら注意をする。聞いているのかいないのか、鷹津は返事をしなかった。和彦としても、まじめな患者の反応をこの男に求めるつもりはないので、気にしない。
 無茶をして痛い目を見るのは、鷹津だ。そう思いもしたのだが、ふと和彦の脳裏に、店で秦から聞かされた話が蘇る。この瞬間、なぜか和彦はうろたえ、ちらりと視線を上げる。
 いつもオールバックにしている鷹津の癖のある髪が、少し乱れていることに気づいた。
 和彦は乱闘を見ることはなかったが、それでも、男たちの殺気立った様子や、店の惨状を目の当たりにして、想像力を働かせるぐらいはできた。そして、鷹津のこの怪我だ。
 秦から聞いた話を胸の内に仕舞ったままにはできず、和彦は自分から切り出した。
「――……あんた、ぼくを助けたらしいな」
 鷹津は一瞬真顔となったあと、ニヤリと笑う。
「そういう言い方をされると、仮に違ったとしても、そうだ、と答えるしかないな」
「秦から聞いたんだ。ぼくが座っていたソファに男が突っ込んでこようとして、あんたが庇ってくれたと。この傷、そのときに負ったんだろう」
「俺が側にいて、お前に怪我させるわけにはいかん。長嶺にどれだけ胸糞の悪い嫌味を言われるかわからんしな」
「そんなこと――」
「切りつけられたとき、咄嗟にこう思ったんだ。この傷は、お前に高く売りつけられる、ってな」
 一瞬にして和彦の顔は熱くなる。そんな反応を知られたくなくて鷹津を睨みつけるが、見せつけるような舌なめずりで返された。そのうえ、傷口を縫合している最中だというのに、鷹津の左手に膝を撫でられた。
「怪我をしたから、セックスもダメとか言うなよ。傷口が開こうが、俺は今夜、お前をおとなしく帰すつもりはないからな」
 いっそのこと処置室を飛び出してしまいたかったが、傷はまだ半分しか縫えていない。和彦を守るために、鷹津が負った傷だ。
「……あんたは、頭がおかしい」
 率直に和彦が洩らすと、鷹津は楽しげに喉を鳴らす。
「そんな男を番犬に飼ってるんだ。大変だな、お前も」
「あんたが言うな」
 鷹津に急かされながら、なんとか縫合を終えると、ガーゼを当ててしっかりと包帯を巻く。すぐに和彦は立ち上がると、ナイロン袋に交換用の包帯にガーゼ、痛み止めを詰め込み、鷹津に押し付ける。
「消毒薬は、薬局に売っているのを買ってくれ」
 そう言い置いて、半ば逃げるように処置室を出ようとしたが、素早く鷹津に腕を掴まれて引き戻される。耳元で、掠れた声で囁かれた。
「――焦らすな。早く抱かせろ」


 長嶺組の組員が頭を下げ、ドアの向こうに消える。すぐに鷹津はドアに鍵をかけ、しっかりとチェーンもかけた。一応、誰かに踏み込まれることを警戒しているらしい。
 頬の熱さを意識しながら和彦は、久しぶりに足を踏み入れた鷹津の部屋をさりげなく見回す。相変わらず、散らかってはいるのだが、生活臭の乏しい部屋だった。寝に帰り、着替えるだけといった感じで、彩りといったものが一切欠けている。
 鷹津はダイニングテーブルの上に、ナイロン袋の中身を出す。クリニックで和彦が持たせたものだけではなく、ここに向かう途中に薬局で買い求めた消毒薬もある。
「抜糸まで、自分でしっかりと消毒して、ガーゼを取り替えてくれ。とにかく清潔に――」
 和彦が説明をしている途中で、鷹津は隣の部屋に入って電気をつける。そして、和彦に向けて傲慢に言い放った。
「こっちに来いよ、佐伯」
 和彦は唇を引き結び、十秒ほどその場に立ち尽くしていたが、部屋を出て行くという選択肢はない。和彦のために〈番犬〉が働いたのだから、〈餌〉を与えなくてはならないのだ。
 覚悟を決めて鷹津の元に行くと、いきなり手荒く頬を撫でられる。
「……本当に焦らされたな。前回の餌ももらってないんだから、俺が満足するまで、しっかりとつき合ってもらうからな。――長嶺にも文句は言わせない」
 その賢吾には、これから鷹津の部屋に行くと、車中でメールを送っただけだ。一体何があったかは、和彦が長々とメールするまでもなく、組員が直接説明するだろう。
 あごを持ち上げられ、ゆっくりと鷹津の顔が近づいてくる。和彦は視線を逸らすことなく、まっすぐ鷹津を見つめる。
 クリニックで鷹津の傷口を縫合しながら気づいていたが、普段であればドロドロとした感情の澱が透けて見える目は、今は滾るような欲情を湛えてギラギラとしていた。いつでも和彦に襲いかかれるように。
 番犬のくせに、と心の中で呟いた和彦は、鷹津と唇を重ねる。
「んっ……」
 いきなり痛いほど唇を吸われると、強引に口腔に舌が押し込まれた。和彦に聞かせるように露骨に濡れた音を立てて、執拗に唇と舌を吸ってくる。最初はされるがままになっていた和彦だが、鷹津の欲望に感化されたように胸の奥がざわつき、じっとしていられなくなる。
 唾液を流し込まれながら、口腔の粘膜を舐め回されているうちに、自然な流れで鷹津と舌先を触れ合わせ、次の瞬間には性急に搦め取られる。差し出した舌同士を大胆に絡め合っていた。
 いやらしい口づけに、欲望を煽られる。和彦は息を喘がせ、喉の奥から声を洩らす。唇を触れ合わせたまま、鷹津がニッと笑った。
「気持ちいいか? 久しぶりの、俺とのキスは」
「……自惚れてるな。そういうことを聞くなんて」
「今にもイきそうな声を出してたぜ、お前」
 カッとした和彦は体を離そうとしたが、その前に鷹津に、パンツの上から尻の肉を掴まれた。再び唇を塞がれ、舌を絡め合いながら、鷹津に尻を揉まれる。和彦は咄嗟に、鷹津の右腕を押さえていた。医者としては、縫合処置をしたばかりの傷が、無茶な行動で開くのではないかと気が気でないのだ。おかげで、もう鷹津から体を離すことができない。
「あっ」
 さんざん尻を揉んだ鷹津の手が今度は前に這わされ、両足の間をまさぐり始める。言葉はなくても、この男の求めはわかっていた。
 ジーンズの上から、鷹津の欲望の形に触れる。興奮を物語るようにすでに硬く大きくなり、苦しそうだ。唇を離した鷹津に頭を引き寄せられて、耳元で囁かれる。
「――今日は、舐められるだろ」
 屈辱でも羞恥でもなく、和彦を襲ったのは甘い眩暈だった。和彦の機嫌を取るように鷹津が唇を啄ばんできて、それに応じる。互いの舌と唇を吸い合ってから、和彦はその場にぎこちなく両膝をついた。
 鷹津のジーンズの前を寛げ、高ぶった欲望を外に引き出す。短く息を吐き出してから顔を寄せると、初めて鷹津の欲望に唇で触れた。
 慰撫するように先端に柔らかく舌を這わせ、唇を押し当てる。括れを舌先でくすぐり、もう一度先端に唇を押し当てて、そっと吸い上げる。ゆっくりと口腔に含むと、鷹津の下腹部が緊張した。
 鷹津の欲望を握り、根元から扱き上げながら、舌を添えて喉につくほど深くまで呑み込む。濡れた粘膜でしっとりと包み込み、唇で締め付けると、鷹津が歓喜しているのが伝わってくる。口腔で、ドクッ、ドクッと脈打ち、逞しさを増していくのだ。
 大きく深く息を吐き出した鷹津が、和彦の頭を撫で、髪を梳いてくる。それだけで、ゾクゾクするような疼きが背筋を駆け抜けていき、微かに肩を揺らす。すると、頬を撫でた鷹津の手があごにかかり、わずかに顔を上げさせられた。
 嫌な笑みを浮かべているかと思った鷹津は、予想に反して真剣な顔をして、食い入るように和彦を見下ろしていた。欲望を含んだ顔を見られたくなくて、和彦はなんとか顔を伏せようとするが、鷹津は許してくれない。口腔での愛撫だけではなく、和彦の浮かべる表情にも愉悦を覚えているのだ。
「……初めて見た、お前の顔だ。そうやって、男のものをしゃぶるんだな。そりゃあ、どの男も骨抜きになるはずだ」
 一瞬、鷹津の目に激情が走ったように見えたが、確かめようがなかった。
 髪を掴まれ、促されるまま鷹津の欲望を口腔から出し入れする。ときおり、反り返った欲望を舐め上げ、先端から滲み出る透明なしずくを吸い取ると、また口腔深くまで呑み込む。
 そして、鷹津の欲望が爆ぜる。
 迸った精はすべて舌で受け止め、再び鷹津に顔を上げさせられて、身を焼かれそうな眼差しに晒されながら喉に流し込んだ。
 肩を上下させて荒い呼吸を繰り返す鷹津だが、欲望は萎えていなかった。和彦は舌を這わせ、唇を押し当てながら、鷹津のものを優しく愛撫する。さほど時間をかけることなく、鷹津のものは逞しさを取り戻した。
 いきなり腕を掴まれて強引に引き立たされると、ベッドまで連れて行かれる。
 まるで主のように振る舞う鷹津に言われるまま服を脱がせる。しかし、鷹津の傲岸さはこんなものでは済まなかった。ベッドに仰向けで横になり、和彦にこう言ったのだ。
「片腕が使えなくて不便だ。今夜は、お前が上になれ。俺のものは使えるんだから、不満はないだろ?」
 何様だと、さすがに鷹津を怒鳴りつけた和彦だが、このまま放って帰ることはできない。鷹津を睨みつけながら脱いだジャケットを、腹立ち紛れに投げつける。
 身につけていたものをすべて脱ぐと、猫を呼ぶように鷹津に手招きされ、逞しい腰の上に跨る。ここまでの行動はまるで作業のように無造作だったが、さすがに鷹津と目が合うと、和彦は激しくうろたえ、羞恥する。そんな和彦の様子に、鷹津は欲情を刺激されたようだった。
 右腕はベッドに投げ出したものの、左腕を伸ばし、和彦の体に触れてくる。
 腿から腰にかけて撫で回され、這い上がったてのひらに胸元をまさぐられる。胸の突起を指先でくすぐられ、反射的に体が動く。すると一気に手が下り、身を起こしている和彦の欲望を握り締めてきた。
 緩やかに上下に擦られ、唇を噛んで眉をひそめた和彦は、ようやく次の行動に出る。
 腰を浮かせ、片手で鷹津の欲望を握ると、頑なに閉じたままの内奥の入り口に位置を合わせる。慎重に腰を下ろし、少しずつ内奥をこじ開けるしかないのだが、容易なことではなかった。和彦は自分の指を舐めて唾液で濡らすと、自ら内奥の入り口に擦り付けて潤す。
「大胆だな」
 和彦の行動を眺めていた鷹津が、揶揄するように声をかけてくる。ただ、口調からうかがえる余裕とは裏腹に、鷹津の欲望は熱く張り詰めていた。
「んんっ……」
 唾液で簡単に湿らせただけの内奥の入り口を、逞しいもので押し広げながら、時間をかけて呑み込んでいく。異物感と痛みに呻きながら、それでも和彦は腰を上げることはできなかった。
 繋がりつつある部分に、鷹津が指を這わせてくる。和彦は息を詰め、ビクンと背をしならせる。
「ほら、もっと突っ込ませろ。お前の尻は、もっと俺を気持ちよくしてくれるだろ」
 鷹津を睨みつけてから、機能的な筋肉に覆われた胸に両手を突く。支えを得た状態で腰を揺らし、一層深く欲望を呑み込んでいくうちに、和彦の息遣いは妖しさを帯びる。変化はそれだけではなく、反り返った和彦の欲望は、先端から透明なしずくを垂らしていた。
「……性質の悪いオンナだ。尻の具合のよさだけじゃなく、こうして見た目でも、男を悦ばせてくれるんだからな」
 そう言って鷹津の手が、再び和彦の欲望にかかる。
「うっ、うあっ――」
 先端を指の腹で擦られ、腰から熱い感覚が駆け上がる。内奥がきつく収縮し、鷹津の欲望の感触をさらに強く意識する。それは鷹津も同じなのか、軽く眉をひそめて息を吐き出した。
「こうしてお前と繋がっていると、お前の尻にある襞の感触が、いつも以上によくわかる。俺のものが、いいところをしっかりと擦り上げてるだろ?」
 露骨な言葉で煽りながら、鷹津が腰を突き上げてくる。前に倒れ込みそうになった和彦だが、鷹津の胸に手を突いていたおかげで、なんとか耐えられる。非難を込めた眼差しを向けたが、口元に薄い笑みを浮かべた鷹津は、片手で握り締めた和彦の欲望を緩やかに上下に扱き、たまらず和彦は喘ぎをこぼしていた。
 前後から押し寄せてくる異なる感覚に、呆気なく翻弄される。鷹津の愛撫する手の動きに合わせて、いつしか腰をくねらせ、自ら求めるように内奥深くまで鷹津の欲望を呑み込んでいく。
「うっ、うぅっ……」
 これ以上なくしっかりと繋がった男の腰の上で、和彦は身をしならせる。透明なしずくを垂らして、和彦の欲望は愉悦を知らせていた。
「……本当に、憎たらしいぐらい、いいオンナだ」
 そう呟いた鷹津の左手が、腹部や胸元を撫で回してくる。和彦は咄嗟にその手を掴み、なぜだか強く握り合っていた。
「うっ、あっ、あっ、あっ……ん」
 鷹津と片手を握り合ったまま、和彦は腰を揺らす。発情して蠢く内奥で、鷹津の欲望は力強く脈打ち、官能を刺激してくる。
 自ら腰を上下に動かし、内奥から鷹津の欲望を出し入れする。鷹津が唇を引き結び、一度目を閉じたのを見て、和彦はもう片方の手を伸ばし、汗が浮いた鷹津の顔を撫でた。目を開けた鷹津がふっと笑みを浮かべたが、和彦が知っている嫌な笑い方ではなかった。
 胸の奥で狂おしい情欲と、よくわからない熱い感情が入り乱れる。和彦は自分自身の反応に戸惑いながら、鷹津の欲望に奉仕する。
 鷹津が低い呻き声を洩らし、大きくゆっくりと腰を突き上げ、和彦の内奥深くで二度目の精を迸らせた。
「んあっ――」
 内奥で生まれた感覚に刺激され、和彦の欲望も触れられないまま絶頂を迎え、引き締まった鷹津の腹部に向けて精を飛び散らせる。
 鷹津の胸に崩れ込みそうになりながら、握り合った手を離す。しかし鷹津と目が合うと、言葉もないまま、再び手を握り合っていた。
 漠然と、まだこの男と離れたくないと思ったからだ。


 シャワーを浴びて浴室を出た和彦は、すぐに異変に気づいた。脱衣所のカゴに入れたスウェットの上下が見当たらないのだ。何が起こったのかと考え込んだのは、ほんの数秒ほどだ。
 和彦は簡単に体を拭くと、バスタオルを腰に巻いて脱衣所を出る。
「おい、着替えをどこにやった――」
 足音も荒く部屋に入ると、鷹津は裸のままベッドに腰掛け、ペットボトルの水を飲んでいた。すでにもう見慣れたとも言える鷹津の体だが、不意打ちで視界に飛び込んできたため和彦は内心でうろたえる。
 情交の熱気も、汗や精の匂いも残っている部屋に、ほんの少し前まで自分が撫で回していた男の体が目の前にあるのだ。ひどく生々しいものを感じ、いまさらながら和彦の中で、自分の痴態が蘇る。
 立ち尽くす和彦に、鷹津がペットボトルを差し出してくる。ぎこちなく歩み寄り、受け取った。
「……着替え、持っていっただろ」
 ペットボトルに残っていた水を飲み干して和彦が問いかけると、鷹津はニヤリと笑う。
「俺のを、お前が勝手に引っ張り出して、持っていったんだろ」
「だったら、パジャマ代わりになるものを貸してくれ。ぼくは寝るんだ」
「あれだけ興奮したあとで――寝られるか?」
 そう言って鷹津の片腕に腰を抱き寄せられる。腰に巻いたバスタオルを落とされ、持っていた空のペットボトルを取り上げられる。胸元を伝い落ちる水滴を舐め取られて、和彦はなんの抵抗もなく鷹津の頭を抱き締めていた。
 鷹津は何度も胸元や腹部に唇を押し当てながら、和彦の尻の肉を鷲掴み、荒々しく揉みしだいてくる。
「手の傷が痛んできた……」
 ふいに鷹津がぼそりと洩らす。
「痛み止めが切れ始めたんだ。あまり痛むようなら、テーブルの上に痛み止めが――」
「手っ取り早く、痛みを忘れられる方法があるだろ。俺を興奮させて、感じさせてくれればいい」
 顔を上げた鷹津が下卑た笑みを浮かべる。嫌な男だ、と心の中で呟いた和彦だが、同時に胸の奥が疼いてもいた。さきほど、鷹津と手を握り合って交わった高揚感と一体感は、容易なことでは消えない。それどころか、些細な刺激で再燃する。
 和彦の返事など必要としていないといった様子で、鷹津はベッドにもたれかかるようにして床の上に座り込み、こちらを見上げてきた。
「面倒を見てくれるだろ、――先生?」
「……こんなことなら、ぼくが怪我したほうがよかった」
「冗談でも、そんなことを言うなよ。お前が本当に怪我をしていたら、あの場にいた奴らはみんな、長嶺から何かしらの罰を受けていた。組長の〈オンナ〉を守るってのは、それだけ重いんだ」
 鷹津に強い力で手首を掴まれる。和彦は再び腰に跨ることになったが、今度は鷹津は上体を起こしており、嫌でも間近で顔を合わせることになる。
 息もかかる距離で鷹津に見つめられ、つい視線を逸らす。かまわず鷹津が顔を近づけてきて、半ば強引に唇を塞がれた。
 執拗に唇を吸われているうちに、鷹津と舌先を触れ合わせ、すぐに大胆に絡め合う。一方で、下肢が密着し、互いの欲望が擦れ合う。さんざん欲望を散らし合ったはずなのに、すでにもう二人は熱くなっていた。
「うっ……」
 尻の合間に鷹津の指が這わされ、蕩けるほど柔らかくなっている内奥の入り口をこじ開けられる。和彦は腰を揺らし、引き締まった鷹津の下腹部に、意図しないまま欲望を強く押し当てていた。
「もう少し我慢しろよ。すぐに、突っ込んでやる」
 荒い息遣いとともにそう言って、鷹津が胸元に顔を埋めてくる。硬く凝った胸の突起にいきなり歯が立てられたが、和彦が感じたのは痛みではなく、鳥肌が立つような心地よさだった。
「あっ、あっ」
 背をしならせ、内奥に挿入された指をきつく締め付ける。和彦のその反応に勢いを得たのか、鷹津は激しく濡れた音を立てて突起を吸う。
 言葉はなくとも、互いに求めている次の行為はわかっていた。
 和彦が腰を浮かせると、鷹津が熱くなった欲望を握る。手探りで位置を合わせ、あとはゆっくりと腰を下ろすだけだった。
「うっ、ああっ――……」
 内奥を押し広げる逞しい感触に、全身に快美さが響き渡る。和彦は鷹津の肩に掴まりながら、大きく背をしならせていた。
 貪るように鷹津のものを奥深くまで呑み込み、締め上げる。眉をひそめて呻き声を洩らした鷹津に背を引き寄せられ、たまらず和彦は両腕でしっかりとしがみつく。
 内奥深くで鷹津の力強い脈動を感じ、合わせた胸を通して、心臓の鼓動を感じる。耳元には、大きくゆっくりとした息遣いがかかる。燃えそうに熱いてのひらで背を撫でられながら、和彦は全身で鷹津という男を堪能していた。
 あとは――。鷹津の顔を覗き込み、自ら唇を重ねると、口腔に舌を差し込む。
「……サービスが、いいな」
 口づけの合間に掠れた声で鷹津が話しかけてくる。和彦は息を喘がせながら睨みつけた。
「今日だけ、だからな」
「ああ……。わかってる。お前は、俺の〈オンナ〉じゃないからな――」
 毒と皮肉と自嘲がこもった鷹津の呟きに、どういう意味かと問いかけようとした和彦だが、緩く腰を突き上げられて、唇をついて出たのは甲高い嬌声だった。誘われたように今度は鷹津に唇を塞がれる。
 あっという間に言葉を交わす余裕すらなくし、二人は互いを貪り合う行為に夢中になっていた。









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