と束縛と


- 第26話(2) -


 車から降りた和彦は、警戒しながら南郷に歩み寄る。マンション前に花束を持って立っていて、和彦以外の人間を待っているとは考えにくい。知らん顔をして通りすぎるなど不可能だった。
 それに――、和彦よりも先に状況を把握したのだろう。鷹津までもが歩道脇に車を停めて降り、険のある視線を前方に向ける。目を凝らしてみてみると、街灯の明かりを避けるようにして車が一台停まっていた。
「大丈夫だ。あれは、うちの隊の人間だ。佐伯先生の見舞いに行くと言ったら、何を心配したんだか、ついてきたんだ」
 声を荒らげているわけでもないのに、南郷の声は夜の空気を震わせる。和彦はハッとして、再び南郷を見た。
「……見舞いって、なんのことですか……?」
「襲われたと聞いた」
「誰がそんなことを言ったのか知りませんが、ぼくはこの通り、なんともありません」
 和彦は、南郷が持っている花束を渡されたくない一心で、冷ややかに言い放つ。一方の南郷は、和彦の反応を楽しんでいるかのように口元を緩めた。
 夜ということもあり、人通りはほとんどないのだが、それでも、マンションを出入りする人間に、明らかに堅気ではない男と話している場面を見られたくない。
 和彦が半ば強引に会話を打ち切ろうとしたところで、嫌なタイミングで南郷が切り出した。
「――長嶺組の動きが慌ただしいという報告だけは、すぐに耳に入っていたんだ。だが、一体何が起こったのか、総和会になかなか情報が上がってこなかった。見舞いが遅くなったのは、そういう理由からだ」
「長嶺組と総和会の情報のやり取りについては、ぼくにはなんとも……。連絡役になっているのは、中嶋くんでは?」
「もちろん、長嶺組の本宅に中嶋を向かわせた。が、何も知らされず、聞いたところで答えをはぐらかされたようだ」
 それなのに南郷は、襲撃の件も、その場に和彦がいたという事実も把握している。どうやって知ったのか、と考えてまっさきに頭に浮かんだのは、秦の存在だ。秦と中嶋の関係を思えば、情報のやり取りが皆無とも考えにくい。
 しかし、和彦の心の内を読んだように、すかさず南郷に言われた。
「秦静馬という男の後ろ盾になっているのは、長嶺組だ。余計なことを言うなと釘を刺されれば、どんなおしゃべりな人間でも無口になる。頭の切れる男なら、なおさらだ。――かつてのホスト仲間とはいっても、中嶋も秦から聞きだすのは無理だったようだ」
 南郷がわずかに腰を屈め、和彦の顔を覗き込んでくる。
「まあ、総和会に首を突っ込まれたくない長嶺組なりに、配慮した結果だろう。だからといって、遊撃隊なんてものを率いている身としては、知らん顔もできないから、俺なりに手を回した。襲撃された店にあんたもいたと知って、オヤジさんも心配していた」
 守光の話題に和彦は、肩を揺らす。目の錯覚かもしれないが、南郷の唇の端が微かに動いた気がした。
「俺がこうして、似合わない花束を持ってきたんだ。受け取ってくれるだろ、先生」
「……これを渡すために、待っていたんですか?」
「俺みたいなのが、あんたのクリニックを訪ねても歓迎してくれるなら、そうしてもよかったが」
 無造作に突き出された花束を、仕方なく受け取る。黄色のチューリップを、白色の小花で彩っているごく普通の花束で、豪華で目立つことに美徳を見出す裏の世界の男にしては、この選択は珍しいともいえる。
 和彦が花束からちらりと視線を上げると、あっさりと南郷は告白した。
「前にあんたに誕生日プレゼントを渡したとき、ひどく迷惑がられたからな。俺は趣味が悪いんだと思って、花屋に任せた」
 なるほど、と心の中で呟いた和彦は、南郷に慇懃に頭を下げる。
「ありがとうございます。――失礼します」
 今度こそ会話を打ち切ろうとしたが、和彦を威圧するように南郷が距離を縮めてくる。本能的な怯えから身をすくめると、背後から肩を掴まれ引き寄せられた。いつの間にか和彦の傍らに立っていた鷹津が、無機質な目で南郷を見据える。南郷は、ニヤリと笑った。
「お宅とは、まだ寒かったときに、ここで会った記憶がある。……確か、警察の人間だったな」
「とぼけるな。俺が刑事どころか、所属も階級も、名前すらも調べ上げてるんだろ。総和会の人間なら、それぐらい容易いはずだ」
 鷹津は、表面上の落ち着きとは裏腹に、殺気立っていた。鷹津を〈嫌な男〉として表現することがほとんどの和彦だが、このときだけは、〈怖い男〉だと思った。いや、そもそも鷹津は最初から、そういう存在だったのだ。ただ、普段から怖い男たちに囲まれている和彦の感覚が、麻痺しているだけだ。
 スラックスのポケットに片手を突っ込んだ南郷が、芝居がかった仕種で肩をすくめる。
「そう、凄まんでくれ。――鷹津さん」
「俺が凄んだところで、屁でもないだろ。総和会第二遊撃隊を率いる、南郷ともあろう男が」
「……長嶺組長だけでなく、うちのオヤジさんにとっても大事な先生を、警察の人間が守っているんだ。何事かと気にもなるってもんだ」
「そういうお前は、どうしてこいつにつきまとう。大事な『オヤジさん』の側についていなくていいのか?」
 口元に笑みを湛えたまま、南郷は凄むように鷹津に視線を定める。傍で見ていて息を詰めてしまうほど、冷たく鋭い目だった。
 二人の男のただならぬ雰囲気が伝わったのか、それとも、そんな男たちの間で戸惑っている和彦の様子から何か感じたのか、南郷の護衛についている男たちだけではなく、和彦の護衛として、鷹津の車の背後からついてきていた長嶺組の男たちが、互いに威嚇し合うように静かに距離を縮めていた。
 友好的とは言いがたい空気を無視できなくなった和彦は、ため息交じりに南郷に提案する。
「――まだ話したいなら、場所を移動してもらえませんか。ここで立ち話をされると、迷惑になります」
「だったら、先生の部屋に。前にも言ったが、長嶺組長がオンナを住まわせている部屋を見てみたい」
 こういう流れになるのは予測していた。和彦がそっと目配せすると、心得たように鷹津も応じた。
「コーヒーぐらい出せよ」


 ソファに腰掛けた二人の前にコーヒーを出した和彦は、少し迷ってから、鷹津との間に一人分のスペースを空けて隣に腰掛ける。
 足を組んだ南郷は、ソファの背もたれに腕をかけ、賢吾の好みで統一されたリビングを見回す。一方の鷹津は、そんな南郷を不躾なほど観察していた。刑事としての習性なのかもしれない。
「思った通り、長嶺組長は先生にいい暮らしをさせている。――金をかける価値のあるオンナ、ということだな」
 この部屋に入れた時点で、事情を知る男たちが何を思うか、和彦は容易に想像できるし、覚悟もしている。明け透けすぎる南郷の言葉に、眉一つ動かさずにこう答えた。
「堅気としてのぼくの人生を、めちゃくちゃにした対価だと思うようにしています。どれだけ金をかけるかは、あの人の自由です」
 この会話を盗聴器は拾っているのだろうかと、頭の片隅で考えてしまう。あとで賢吾に聞かれるのかと思うと、発言を自重しようかというより、もっと皮肉の効いたことを言いたい衝動に和彦は駆られる。
「自分のオンナに金をかけるだけじゃなく、用心棒として、よりによって暴対の刑事をつけるとは、長嶺組長は大した男だ」
「――用心棒じゃなく、番犬だ」
 鷹津が、自らの立場を卑下するでもなく、淡々とした口調で告げる。南郷はおもしろがるように身を乗り出したが、このとき視線は、包帯を巻いた鷹津の右手に注がれていた。
「人でもなく、犬か、あんた」
「ピカピカの肩書きを持つ色男に近づく、蛆虫みたいな連中を踏み散らすには、ちょうどいいだろう」
 この瞬間、リビングの温度が数度ほど下がった気がして、和彦は小さく身震いする。
 鷹津と南郷の会話は、鋭い刃先をちらちらと見せ合う行為に似ている。それによって相手が怯むか、なお挑発してくるかを探り合っているのだ。だが、傍で聞いている和彦にとっては、ただ心臓に悪い。
「その犬が、自分を手ひどい目に遭わせた男のオンナに、尻尾を振る理由が知りたいもんだ。よっぽど、具合がいいのか?」
 南郷は、鷹津を挑発しているようでいて、明らかに和彦の反応を観察していた。
 無礼な男ばかりだと、体の奥が怒りでスウッと冷たくなる感覚を味わいながら、和彦は南郷にきつい眼差しを向ける。
「本気で知りたいなら、長嶺組長にお聞きになってください。この人をぼくにつけることを決めた当人なので。もちろん、その侮辱的な表現も忘れずに。……それで、わざわざ花束を持参して、ぼくを蔑みに来たのですか?」
 声音を抑えて和彦が問いかけると、大仰に肩をすくめた南郷が組んでいた足を下ろし、態度を改めるようにソファに座り直した。
「失礼した。正直、あんたみたいに上等で――風変わりな人間と話したことがないんで、いまだに、どう会話を交わせばいいかわからん。そういえば、先日も怒らせたばかりだったな」
「……忘れました」
「そういう答えを返してくるということは、長嶺組と総和会の間に波風を起こしたくないと、あんたなりに考えているんだな」
「あなたは、起こしたいんですか?」
 互いの腹の内を探るように、和彦と南郷は視線を逸らさなかった。
 和彦の質問の意図を、南郷はよく理解しているだろう。いかにも凶暴で粗野そうな大柄な男は、荒事が得意だという理由だけで守光に仕えているわけではないはずだ。もしかすると、この無礼さすら、守光の意向を受けてのものかもしれない。
 ふっとそんなことを考えた和彦は、患者の治療をしたあと、仮眠室で一泊したときの出来事を思い返す。あのとき、守光の行動に倣うように顔に薄布をかけられ、それだけで和彦は抵抗を封じられたのだ。
「――俺のわからない話を、いつまで続けるつもりだ」
 唐突に鷹津が、不機嫌そうな声を発する。我に返った和彦は、このときばかりは鷹津に感謝していた。南郷のペースに巻き込まれる寸前だった。
「番犬は、おとなしく飼い主の足元に身を伏せているもんだろ。会話に割って入るのは、無作法だぜ、鷹津さん」
「佐伯がイライラしているのがわかったから、その番犬としては知らん顔はできないんだ。あとで、気が利かないと叱られたくない」
 鷹津の言葉に納得したように南郷は頷き、意味ありげに和彦を一瞥した。
「俺はすっかり、先生に嫌われているようだからな」
「ほお。つまり、それだけのことをしたということか?」
「先生に聞いてみたらどうだ」
 南郷の発言に動揺しかけた和彦を救ったのは、電話の呼出し音だった。反射的に立ち上がった和彦はリビングを出ると、ダイニングで電話に出る。
『先生、大丈夫ですか?』
 切迫した声の主は、いつも和彦の護衛についている長嶺組の組員だ。ついさきほどまでマンションの前で、第二遊撃隊の男たちと睨み合っていた。和彦がマンションに入ったからといって、彼らの仕事はまだ終わっていないのだ。
 和彦はリビングの気配をうかがいつつ、小声で尋ねた。
「鷹津がいるから、ぼくのほうは心配いらない。それより、まだマンションの前に?」
『遊撃隊の連中は、車で待機しています。こちらは、マンションから少し離れた場所に車を移動させました。何かあれば、すぐにでも部屋に駆けつけられます』
「いや……、何もないだろう。向こうはあくまで、見舞いだと言っているんだ。今晩はもう、護衛の仕事はいい」
 仮に何かあったとしても、盗聴器を通して危険は伝わる――とは、さすがに口には出せない。とにかく和彦は、心配されるような事態にはならないと確信があった。
「何があったか、組長に報告だけはしておいてくれ」
 そう頼んで電話を切った和彦は、大きく深呼吸をしてからリビングに戻る。男二人は相変わらず向き合って座っていたが、南郷のほうは和彦を見るなり、ゆっくりと立ち上がった。
「あまり長居をして、長嶺組の組員に踏み込まれるのも嫌だからな。先生に叩き出される前に、お暇するとしよう」
「……なんのおもてなしもできませんでしたが」
 淡々と和彦が応じると、南郷は歯を剥き出すようにして笑った。
「短い時間だったが、ヤクザ嫌いのくせして、ヤクザのオンナの番犬をしている、変わり者の刑事とも話せたし、なかなか有意義だった。何より、あんたがどんな部屋で生活しているか、知ることができた」
 深い意味はないのかもしれないが、南郷にそう言われた途端、胸がざわつくような不安感に襲われていた。
 顔を強張らせる和彦が何かを刺激したのか、リビングを出ていこうとした南郷が急に踵を返し、大股で近づいてこようとする。それを阻んだのは、素早く立ち上がった鷹津だった。
「――とっとと帰れ。俺は、クソヤクザと同じ空気を吸ってるだけで、反吐が出そうになるんだ。特にお前や長嶺のように、上等なものを身につけて、子分を引き連れてでかい顔して歩いている連中は、気分が悪くなりすぎて、ぶちのめしたくなる」
 鷹津の面罵にも、南郷は不快な顔をするどころか、空気を震わせるような低い笑い声を洩らした。
「光栄だな。あの長嶺組長と並べてくれるなんて」
「その口ぶりだと、自分が、長嶺賢吾の父親に拾われた薄汚い雑種だということに、多少なりと劣等感を持ってるのか?」
 鷹津がこう言い放った瞬間、南郷は表情を変えなかったが、取り巻く空気が冷たく研ぎ澄まされたことを、和彦は感じ取った。本能的な危機感を抱き、鷹津を制止しようとする。あとわずかな刺激で、南郷が凶暴な本性を見せると思ったのだ。
 和彦が顔色を変えたことに気づいたのか、南郷は口調を荒げることなく鷹津に応じた。
「先生に免じて、あんたの無礼は聞かなかったことにしておこう。――だが、二度目はないぞ、鷹津さん」
 さすがに鷹津も何かを感じたようで、頬の辺りを強張らせる。
「一度ヤクザに潰されかかった刑事を一人、完全に潰すのは、そう難しいことじゃない」
「いい度胸だな。刑事相手に脅迫か?」
「――いや、忠告だ。うちの隊は、総和会の中でも血の気が多いほうなんだ。こんな俺でも、慕ってくれる奴はいるしな」
「南郷さんっ」
 たまらず和彦が声を上げると、調子に乗りすぎたと言わんばかりに軽く首をすくめた南郷は、深々と頭を下げて帰っていった。
 玄関のドアが閉まる音を聞いて、一気に緊張が緩む。和彦は安堵の吐息を洩らすと、次に鷹津を睨みつけた。
「南郷を挑発してどうするんだ」
「俺が相手をしなかったら、あいつはネチネチとお前に絡み続けたぞ」
「だからといって――……」
 鷹津と長嶺組は、反目しつつも利用し合うという関係を築いているが、だからといって同じ手法が他の組織に通じるとは限らない。特に、手駒が多いであろう総和会には。南郷のあの余裕は、たかが一介の刑事など恐れていないという自信の表れだ。だからこそ、その南郷を挑発したあとのことを考えると、和彦は空恐ろしくなるのだ。
 和彦の側にやってきた鷹津が顔を覗き込んでくる。揶揄するようにこう声をかけてきた。
「なんだ。俺の心配をしてくれてるのか?」
「……あんたを狂犬だと、よく言ったものだと感心していたんだ。誰彼かまわず噛みつく」
 鷹津が左手で頬に触れてこようとしたので、その手を邪険に振り払う。すかさずその手を握り締められた。
「――やけにあの男と会話が弾んでいたな」
 思いがけない鷹津の発言に、和彦は眼差し同様、刺々しい声を発する。
「それは、皮肉で言っているのか?」
「いや、本気で言っている。俺の知らないところで、南郷と何かあったみたいだな。傍で聞いていて、ムカついた」
 南郷との間に、『何か』は確かにあった。だが、口には出せない。理由の一つは単純で、盗聴器を通して、長嶺組の男たちに知られるからだ。その男たちは、賢吾に隠し事は絶対にしない。すべて、報告される。
 そして今、和彦の目の前にいるのは、蛇蝎の片割れである、鷹津だ。
 すでに複数の男たちと同時に関係を持っている身でありながら、いまさら体に触れられたぐらい、と鷹津に言われたくなかった。事実ではあるが、きっと自分は屈辱感に苛まれると、和彦には予測できる。
 さらに、鷹津が南郷への敵意を募らせる状況を恐れてもいた。
 揉め事を恐れて二人を部屋に上げたのだが、予想以上に険悪さが増した状況に、和彦は後悔を噛み締める。南郷が気を悪くしようが、迂闊に花束など受け取るべきではなかったのだ。
 深々とため息をついた和彦はさりげなく、鷹津に握られたままの手を抜き取った。
「あんたも早く帰ってくれ。お互い、もう用はないだろ」
「冷たいな。用済みの犬は、手を振って追い払おうってわけか」
「さっきあんたは、自分で言ってただろ。番犬だ、って。――怖い〈獣〉をあんたは追い払った。だから、番犬としての今夜の仕事は終わりだ」
 和彦のこの物言いを、意外なことに鷹津は気に入ったらしい。南郷との対峙で宿っていた両目の険が、この瞬間、ふっと消えた。
「お前、あの男が嫌いだろ」
 あっさりと鷹津に指摘され、南郷に対する態度の素っ気なさを自覚している和彦は、肯定も否定もしない。しかし、鷹津には十分だったようだ。ニヤリと笑ったあと、今度は和彦の首の後ろに左手をかけてきた。
「感謝しろよ。俺がいなかったら、人を食いそうな熊みたいな男に絡まれて、お前一人で対処しなきゃならなかったんだ。総和会の人間ともなると、長嶺組の護衛じゃ追い払えなかったはずだ」
「……恩着せがましい」
「ああ。だが、感謝する価値はあるだろ」
 当然の権利だと言わんばかりに鷹津が顔を近づけてきて、有無を言わせず唇を塞がれた。和彦は低く呻いて頭を振ろうとしたが、後ろ髪を乱暴に引っ張られて、強引に顔を上向かされる。捻じ込むようにして口腔に熱い舌が侵入してきた。
 鷹津の傲慢さに一瞬腹が立ち、舌に歯を立てようとした和彦だが、気配を察したように一度唇が離される。荒い息遣いが唇に触れ、誘われたように視線を上げる。射竦めるように見つめてくる鷹津と目が合い、心臓の鼓動が大きく跳ねた。
 再び唇が重なる。今度は痛いほどきつく唇を吸われ、鷹津の情熱に煽られたように、和彦も口づけに応じる。唇を吸い合い、舌先で相手をまさぐり、やや性急に絡める。それだけでは我慢できない鷹津は、舌で和彦の口腔を犯すようにまさぐり、唾液を流し込んでくる。和彦は、従順に受け止めていた。
 長い口づけに少しは満足したのか、ようやく唇を離した鷹津はおとなしく帰る気になったようだ。
「――迂闊に玄関のドアを開けるなよ。どんな物騒な〈獣〉が入り込んでくるか、わからんからな」
 鷹津の忠告に、和彦は濡れた唇を手の甲で拭って応じる。
「言われなくても」
「ああ。お前をここに押し込んでいる奴も、〈獣〉だったな」
 そう皮肉を言い置いて、鷹津がリビングを出ていく。他人のことは言えないだろうと思いながら、鷹津の背を見送った和彦だが、ふと、あることを思い出して、慌ててあとを追いかける。しかし、鷹津の姿は玄関のドアの向こうに消えるところだった。
 靴を履いて追うべきだろうかと逡巡している間に、すっかりタイミングを失う。和彦は軽く息を吐き出すと、くしゃくしゃと自分の髪を掻き乱す。
 思い出したのは、実に些細なことなのだ。
 何日か前に、賢吾と一緒に夕方の街を歩いているとき、和彦は鷹津を見かけた気がした。鷹津も、こちらを見ていたように感じ、ただそのことを確認したかっただけだ。見間違いかもしれないし、仮に鷹津がいたとしても、何か問題があるわけではない。
 次に会ったとき、覚えていれば聞けばいい。その程度のことだ。
 忘れている確率のほうが遥かに高いだろうが、と心の中で呟いて、和彦はキッチンに向かう。
 南郷は苦手だが、だからといって花に罪はない。可憐な花に相応しい花瓶で活けてやろうと思いながら、ワイシャツの袖を捲くり上げた。




 寝返りを打った拍子に、指先に硬い感触が触れた。和彦は夢うつつの状態で、これは一体なんだろうかと、緩慢に思考を働かせる。
 いよいよ連休に突入するということで、夜更かしをする気満々だった和彦は、ハードカバーのミステリー小説をベッドに持ち込んだのだ。眠くてたまらなくなったにもかかわらず、続きが気になって仕方なく、目を擦りながら読んでいたのだが、本を閉じた記憶がない。
 指先に触れる感触は、その読みかけの本だと見当をつけ、安心したところで再び意識を手放そうとする。が、叶わなかった。
 前触れもなく、まばゆい光が瞼を通して目に突き刺さる。和彦は低く呻き声を洩らすと、もぞりと身じろいで布団に頭まで潜り込む。一体何事かと、目を閉じたまま考えたが、心当たりは限られる。
 睡眠を中断された不満を小声で洩らし、渋々布団から顔を出す。薄暗かった室内は、すべてのカーテンを開けられたおかげで、清々しい陽射しが満ちていた。
「――連休初日にふさわしく、今日は天気がいいぞ、先生。五月晴れというやつだ」
 乱暴ではないものの、寝ているところを強引に起こされた和彦は、ベッドの傍らに立つ賢吾をじろりと睨む。不機嫌な和彦とは対照的に、賢吾は機嫌よさそうに唇を緩めている。
「今、何時なんだ……」
 低く抑えた声で問いかけると、様になる仕種で賢吾は腕時計に視線を落とす。
「八時、少し前だ」
 返ってきた答えに、ハードカバーを投げつけたい衝動に駆られた和彦だが、さすがに堪えた。その代わり、布団に半分顔を埋めつつ、賢吾に恨み言をぶつける。
「忙しい生活を送っているぼくは、クリニックが休みの日に、時間を気にせず眠ることに、ささやかながら幸せを感じているんだ。しかも今日から、あんたがさっき言った通り、連休だ。なのにどうして、こんなに早い時間に起こされないといけないんだ」
「いい寝顔だったな。思わず俺も、先生の隣に潜り込みたくなった」
「だったら――」
「午後から、業者がこの部屋にやってくる」
 賢吾の言葉に、寝起きということもあってすぐには思考が追いつかない。和彦はようやくしっかりと目を開けると、布団から顔を上げる。ベッドの端に腰掛けた賢吾が窓のほうに視線を向けた。
「少し、この部屋に手を加える。寝室だけじゃなく、他の部屋も。長嶺の男たちが大事にしているオンナが暮らしているんだ。相応しい場所にしたい」
「……今だって、十分立派な部屋だと思うが。暮らしているこっちが、気後れしそうなぐらい」
 先生は謙虚だ、と揶揄するように呟いた賢吾の目が、鋭い光を宿す。大蛇が潜むに相応しい、凄みを帯びた目だ。
「最近、何かと物騒だ。総和会との関わりが深くなって、先生が特別な存在だと知られるようになってきたし、この間の秦の件のように、誰かのとばっちりで襲われる可能性もある。このマンションは防犯はしっかりしているが、あくまで〈普通〉の悪党を想定してのものだ。暴力のプロ相手だと限界がある。そこで、少しばかり補強しようと思ったんだ」
 先日の襲撃の現場が脳裏に蘇り、和彦は身震いする。漠然とした不安に駆られて起き上がると、待ちかねていたように賢吾に肩を抱き寄せられた。ジャケット越しに感じる逞しい腕と胸の感触が、押し寄せてこようとした不安をあっという間に追い払ってしまう。
「窓ガラスや、各部屋のドアを、もっと頑丈なものに取り替える。先生が仕事に行っている間に、サイズを測らせて、注文しておいたんだ」
 普段から組員が出入りし、何かと世話を焼いてくれているため、自分が知らないところで他人が部屋に入ることに抵抗はない。ただ和彦が驚いたのは、賢吾の周到さだ。つい数日前に食事をしたときは、何も言っていなかったし、匂わせもしていなかった。
「それはかまわないが……、どれぐらい時間がかかるんだ? 夕方ぐらいまでなら、ぼくは外で適当に時間を潰しているが」
「残念だな。ガラスやドアをひょいっと入れ替えるだけじゃねーんだ。バルコニーに面した窓には特殊ガラスを入れるが、これが、厚みがあってな。今のサッシにハマらないそうなんだ。だから、サッシそのものを替える。ちょっとした改装工事だな」
「……つまり、一日じゃ終わらないということか」
 肯定するように賢吾の息遣いが笑った。
 賢吾が決めたのなら、和彦は文句を言うつもりはない。和彦の身の安全のためだというなら、なおさらだ。ここまでしなければならない状況というのは怖くもあるが、逃げられないのなら、受け入れるしかない。
 連休が始まったばかりだというのに慌ただしいなと、そっとため息をつこうとしたとき、さらに賢吾が驚くべき発言をした。
「工事の間、本宅に泊まればいいと言いたいところだが、せっかくの連休中、いつもと変わり映えのしない過ごし方もつまらんだろう。だから、オヤジに話をつけて、別荘を押さえた。冬に一度、先生も行ったことがある別荘だ。今は気候もいいから、のんびりと過ごせるぞ」
 和彦は目を丸くして、まじまじと賢吾の顔を見つめる。やや呆れつつ、こう言っていた。
「人の貴重な休みを、なんだと思ってるんだ。なんでもかんでも、ぼくに相談もなく勝手に決めて……」
「気に食わんか?」
「忙しいあんたが、ぼくのためにあれこれ気を回してくれることは、ありがたいと思う。だけど、少しぐらいはこっちの都合を考えてもいいだろ」
「生憎、俺は仕事があって、動けん。だからこそ先生の都合を考えて、三田村を護衛につけるんだが、それも嫌か?」
 あっ、と声を洩らした和彦は、次の瞬間には顔をしかめる。
「――……喜ぶ顔もできるが、あんたのプライドを慮って、こういう顔をするんだからな」
「喜ぶ先生に対して嫌味を言うほど、俺は狭量じゃないぜ」
 ニヤニヤとする賢吾を軽く睨みつけてから、和彦は顔を背ける。
「ぼくの都合を考えて、三田村の都合を無視したことにならないか」
「あいつは、先生の護衛だと言われたら、地の果てだってついていくさ。組の中じゃ、一番先生の扱いを心得ているし、腕も立つ。よく気も利くしな。数日一緒に過ごす護衛としては、最適だ。……たっぷり尽くしてもらって、いい連休にしてもらえ」
 優しい声で賢吾に囁かれて、すぐに顔を綻ばせられるほど和彦は現金ではない。それに、物騒な男たちに囲まれて暮らしているせいで、すっかり疑い深くなってしまった。
 寝起きでぼんやりしていた頭はすっかり冴え、胡散臭く思いながら賢吾に視線を投げかける。和彦の反応の意味がわかったのだろう。賢吾は大仰に肩をすくめた。
「部屋の改装工事については、総和会からの意向も入っている。襲撃を受けた現場に先生がいたということで、オヤジが俺に連絡をしてきてな。先生の安全について、もっと気を配れと説教をされた。その話の流れで、この部屋のことが出た。――南郷から、報告を受けたんだろう。総和会からも金を出すから、もっと安全な部屋に引っ越せとな。すでに改装の手配をしていると言って、なんとか納得させたんだ」
 南郷ほどの男が、見舞いのためというもっともらしい理由をつけ、目立つ花束を持ってマンション前に立っていたのは、確かにおかしかった。成り行きのような形で中に招き入れたが、南郷は最初から、部屋の内部を見るのが目的だったのだろう。
 滞在していたのは短時間だったが、それでも、視界に入る範囲で部屋の様子を記憶に留め、守光に報告したのだ。鷹津がいなければ、もっと長居されていたかもしれない。
 あの男と二人きりになった状況を想像して、和彦はゾッとする。そんな和彦に追い討ちをかけるように賢吾が続けた。
「――そういうわけで、別荘での滞在には、総和会からも護衛がつく」
 どうして、と問いかけようとしたが、その前に理屈を理解してしまう。和彦は、長嶺組組長のオンナであると同時に、総和会会長のオンナでもあるのだ。互いの面子を尊重し、無用な波風を立てないために、平等に和彦の生活に関わるということだ。
 父子とはいえ、それぞれの組織の背負う男たちの事情を呑み込んだ和彦は、必要最低限のこととして、これだけは尋ねておく。
「総和会からの護衛って、誰がつくんだ……?」
 このとき賢吾は、冴え冴えとした表情を見せた。肩を抱く腕に力が込められ、一瞬和彦は怯える。
 護衛と聞いて、まず和彦が思い浮かべた男の存在を、賢吾は察したのかもしれない。
「今の先生の表情を見て思い出した。――そろそろ、俺への隠し事を話す気になったか?」
 大蛇の化身のような男の追及を、これ以上避けることはできない。いつかは、打ち明けなければならなかったのだ。
 それにしても朝から重い話題だと、そっとため息をついた和彦は、慎重に言葉を選んで打ち明ける。
「……この間、総和会からの仕事で治療に行って、患者が目を離せない状態だったから、詰め所のような部屋で一泊したんだ」
「ああ、そんなことがあったな。報告は受けている」
「その部屋で休んでいて……、誰かに、体を触られた」
「『誰か』、か?」
 冷然とした賢吾の声に、和彦は体を強張らせる。危うく、ある男の名を口にしそうになったが、寸前のところで堪える。賢吾の、静かな――静かすぎる反応を間近で感じていると、とてもではないが言えない。
 獲物に狙いを定めた大蛇が、身を潜める光景が脳裏を過ったからだ。一度身を起こしてしまうと、獲物の四肢を引き千切る残酷さと、容赦のなさを発揮する。
「顔は、見ていない……。触られただけだから、騒ぎにしたくなかったんだ」
「長嶺の男たちが大事にしているオンナに手を出すなんざ、ずいぶん度胸のある男だな。単なるバカの命知らずか、それとも、長嶺を……俺を恐れないだけの後ろ盾を持っているのか――」
 まるで独り言のように話しながら、賢吾の手に頬をくすぐられる。その感触が優しいからこそ、和彦はあることを本気で危惧し、たまらず忠告していた。
「……ぼくのことで、誰かと揉めたりしないでくれ。前に聞いたことがあるんだ。ぼくと会長のことで、長嶺組と総和会の関係が微妙になっていると。それが事実かどうかはわからない。だけど、今回のことが原因で、本当に総和会との関係がこじれたら……」
「他の奴が言ったなら、自惚れるなと鼻先で笑う台詞だが、先生が言うと、シャレにならねーな。一年ちょっと前なら、長嶺組の世間知らずの跡目を引っ掛けた、遊び好きの色男、という程度の存在だった先生が今や、長嶺組と総和会の上に立つ男にとって、大事な〈オンナ〉だ。――面倒な存在になっちまったな」
 指であごを持ち上げられ、賢吾に柔らかく唇を吸われる。和彦は緊張しながらその口づけを受け止め、抑えた声でこう応じた。
「ぼくは、望んでなかった。……なんでも、長嶺の男たちで決めてしまったくせに」
「俺が見初めたんだから、仕方ねーな。この世界で生活する限り、先生はどんな理不尽も不合理も、腹の中に呑み込まないといけない。厄介なことに先生は、そのたびにオンナっぷりを上げる。忌々しいぐらいに」
「そのオンナが、頼むんだ。――ぼくが原因で、揉めないでくれ」
 和彦はじっと賢吾の目を覗き込む。
 剣呑として物騒な、大蛇が潜む目に引きずり込まれてしまいそうな感覚に、あと少しで視線を逸らしそうになったが、寸前のところで賢吾が口を開く。
「先生にあれこれ呑み込ませている分、俺は、先生の頼みをいくらか聞き入れないといけねーだろうな」
 ヤクザの言うことなど信用してはいけないと、賢吾と出会ったときから体には叩き込まれている。今も和彦は、賢吾が心の内を素直に言葉にしているとは思っていない。複雑で厄介な事情と理屈を、もっともらしいしきたりと礼儀で装いながら、表向きは円滑に、裏の世界は動いているのだ。
 実際、和彦の頼みに対して賢吾は、わかった、という一言すら口にしない。直截な返事を避けているようだ。
 賢吾は薄い笑みを浮かべ、機嫌を取るように和彦のあごの下をくすぐってくる。
「先生は心配性だな。いや、優しいのか」
「……別に心配性でも、優しくもない。自分が面倒に巻き込まれて、痛い思いをしたくないだけだ」
「自分さえよければ、ヤクザ同士、勝手に揉めて潰し合えということか」
「そこまで言ってないだろっ」
 ムキになって和彦が否定すると、満足のいく反応だったのだろう。賢吾は声を洩らして笑い、再び唇を吸ってきた。
「すぐに出かける準備をしろ。先生は何も気にせず、のんびりしてくればいい。それが、俺とオヤジの望みだ」
 賢吾の口調は穏やかだが、これ以上の口出しを許さない空気を感じ取り、和彦は頷くしかなかった。









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