リビングに足を踏み入れた千尋は、きょろきょろと辺りを見回してから、拍子抜けしたようにこう言った。
「先生、部屋の改装工事したんじゃなかったの?」
千尋が何を疑問に感じたのか、和彦にはよくわかった。一見して、どこも変わってないように見えるのだ。実は和彦も、総和会の別荘から戻って部屋を見たときは、正直少しだけ拍子抜けした。賢吾から概要は聞いていたが、要塞のようになっているのではないかと、戦々恐々としていたのだ。
和彦がダイニングに移動すると、人懐こい犬っころのように千尋もあとをついてくる。そしてやはり、不思議そうに辺りに視線を向ける。
「……ここも、変わってないように見える……」
そう呟いた千尋がふらふらとダイニングを出て行き、他の部屋へと向かう。部屋の改装について、賢吾から詳しいことは聞かされていないのだなと思いながら、ジャケットを脱いだ和彦は冷蔵庫からオレンジジュースの紙パックを取り出し、グラスに注ぐ。とにかく喉が渇いていた。
一息にグラスを空にして、ほっと息を吐き出す。酸味が強めのオレンジジュースがやけに甘く感じられる。
和彦はシンクにグラスを置くと、大きく腕を回してから、軽く腰を捻ってみる。普段使わない筋肉を使ったせいか、肩や背にかけて少し違和感がある。もしかすると明日には筋肉痛が出るかもしれない。
「まったく、どうしてあの父子は、事前に人の予定を聞くということができないんだ……」
小さくぼやいた和彦は、千尋の姿を探してあちこちの部屋を覗く。どこにいるのかと思えば、バルコニーに出ていた。
千尋は、厚みのある窓ガラスを軽く叩いて、目を輝かせていた。
「このガラス、本宅に入れてあるのと厚みが同じだよ、先生」
「嬉しそうに言うな。本宅と同じぐらい、ここも物騒な場所になったのかと、気が滅入りそうになる」
そう応じて和彦は窓に歩み寄る。開けた窓から吹き込む風はいくらか涼しいが、これに陽射しの強さが加わると、すでにもう春とは呼べない季節だと痛感させられる。
すぐに蒸し暑くなり、湿気にまとわりつかれる梅雨がやってくるだろう。その鬱陶しさを想像するだけでうんざりしてきて、無意識のうちに和彦は眉をひそめる。このとき何げなく、千尋に目を向ける。
多少の不快さなど跳ね返しそうな生命力に溢れる千尋の様子は、梅雨を飛び越え、一足先に夏が訪れているように見える。半袖のTシャツから出ている腕が健康的に日焼けしているのだ。普段はスーツで活動しているはずだが、この様子だと、時間さえあればラフな格好で動き回っているのだろう。
Tシャツの袖は、千尋の左腕のタトゥーの名残りを隠している。もっとも、袖を捲り上げたところで、そこにタトゥーが彫られていたとすぐに見抜く人間は、そう多くはないだろう。慎重にレーザーを当て、時間をかけて除去していったおかげで、ケロイド状の傷跡が残るようなことはなく、うっすらと皮膚の色が変わって見えるだけだ。
和彦の視線に気づいたのか、千尋が首を傾げるようにして笑いかけてくる。
「どうかした、先生?」
「いや……、どうしてもう、そんなに日焼けしてるのかと思ってな」
「今のとこ、腕と顔ぐらいだよ、焼けてるの。今年は、体は焼かない……というか、焼けない。それでなくても、肌に針を入れるとなると炎症や病気が怖いからさ。体に負担がかかるようなことはしたくない」
千尋の言葉に、和彦は表情を曇らせる。なんのことを言っているか、すぐに理解できたからだ。
「……本当に、刺青を入れるのか」
「俺が本気じゃないと思った?」
「入れるなと言う権利はぼくにはないが、ただ、二十歳を過ぎたばかりの今じゃなくてもいいだろ、と正直思っている。年相応に遊ぼうと思っても、制限を受けることになるぞ」
「長嶺組の跡目として総和会にも出入りしている身で、もうチャラチャラと遊べるなんて思ってないよ」
さらりとそんなことを言う千尋は、非常にさばさばとした顔をしている。和彦などが忠告するまでもなく、タトゥーを消すと決心したときにさまざまなことを考えたのかもしれない。そのうえで、刺青を入れるとまで言っているのだ。父親や、祖父のように。
和彦はスッと窓から離れると、千尋に背を向ける。
「そうか。この先、お前と海水浴やプールにも行けないし、大浴場に入る機会もなくなるということか――……」
聞こえよがしに呟いてみると、案の定、千尋から大げさな反応が返ってきた。
「うわーっ、何それ。先生いままで、俺とそんなとこ行ったことないじゃんっ」
「そうだったか……?」
露骨にとぼけて見せた和彦は、着替えを取りに寝室へと向かう。その途中、再び大きく腕を回しながら、肩を揉んでいると、あとをついてきた千尋に指摘された。
「もしかして、レッスンのせい?」
「ああ。普段ジムでやっている運動とは、まったく違う筋肉を使った気がする。初めてで緊張していたから、体のあちこちに無駄な力が入ってたんだろうな」
だから、昼間からゆっくりと風呂に浸かり、しっかりと体を解そうと考えたのだ。
ちなみに、日曜日の午前中から千尋に連れて行かれた先は、ゴルフスクールだ。
本気で和彦をゴルフコースに連れ出すつもりらしく、そのためにはまず基礎を、ということで、勝手に体験レッスンを申し込んでいたのだ。しかも、レッスンプロによるマンツーマンの指導が受けられるという特別コースを。ゴルフ道具一式も一通り揃えてもらったため、いまさら嫌だとも言えず、和彦はやむなく人生で初のゴルフを経験したというわけだ。
和彦が慣れないクラブの握り方に四苦八苦している頃、千尋は別のレッスンプロから指導を受けていたそうだ。千尋もゴルフを習い始めたばかりだということなので、コースに出ると案外同じようなレベル同士、楽しめるかもしれない。
「……まあ、いつになるやらという話だが」
ぼそりと和彦が呟くと、何事かという顔で千尋が前に回り込んでくる。そんな千尋の頬を、やや手荒に撫でた。
「お前も、朝から動き回って疲れただろ。早く本宅に戻れ」
「全然。体力あり余ってるけど」
「……ぼくとお前の年齢差と体力差を考えろ」
千尋を押し退けて寝室に入る。
「ぼくはゆっくりと風呂に入ったら、昼寝する。疲れた」
「先生、冷たい……」
芝居がかったように恨みがましい声が背後から聞こえてきたかと思うと、いきなり抱きつかれた。驚いた和彦は声を上げ、体を捻ろうとする。
「千尋っ」
「――連休の間、ずっと先生に会えなかった俺に、そんなに冷たいこと言うわけ?」
突然耳元で低く囁かれ、和彦はドキリとする。千尋に対しての、後ろめたさの表れとも言えた。追い討ちをかけるように、拗ねた子供のような口調で千尋が続ける。
「連休の半分以上を総和会の別荘で、三田村と一緒に過ごして、帰ってきたらきたで、今度は組関係の仕事で拘束されてさ……。そういうときに限って、俺のほうは暇だったりするんだ。でも、けっこう気をつかったんだよ。先生に電話したいと思ったけど、邪魔しちゃ悪いから我慢したし」
「そういえば連休の間、やけに静かだと感じていたが、お前の声を聞いてなかったのか」
「ひでー。俺って、先生にとってその程度の存在?」
つい唇を緩めた和彦は、千尋の腕の中で身じろいで体の向きを変える。すかさず千尋が頬ずりをしてきたので、頭を撫でてやる。ここまで我慢していたものが、堪えきれなくなったのだろう。甘ったれの本領発揮とばかりに身をすり寄せてきて、その勢いに圧されて和彦の足元は乱れる。
「おい、逃げないから、少しは落ち着け――」
「無理。二人きりになって、興奮しまくり。……久しぶりの、先生の感触と匂いだ」
ゾクリとするような囁きを耳に注ぎ込まれ、反射的に頭を引いた和彦は予期するものがあって慌てて体を離し、後ずさる。千尋は一瞬、不思議そうな顔をしたが、すぐに意味ありげな笑みを浮かべ、一歩踏み出してくる。
さらに和彦は後ずさり、すぐに千尋が間を詰め――と繰り返していたが、とうとう部屋の端に追い詰められ、背に何かがぶつかる。入れ替えたばかりの窓ガラスだ。もともと頑丈なガラスを入れてはあったのだが、新しいガラスはさらに厚みを増し、和彦がぶつかったぐらいではびくともしない。
ささやかな駆け引きに満足した様子で千尋が悠然と顔を寄せてきたので、観念した和彦は口づけを受け入れる。
柔らかく唇を吸われ、唆されるように吸い返し、舌先を触れ合わせているうちに、少しずつ大胆になって舌を絡め、唾液を交わしてから、口腔に千尋の熱い舌を受け入れる。情熱に任せたやや強引な口づけだが、和彦はたっぷり甘やかして、差し込まれた舌を吸い、甘噛みしてやる。感じるのか、千尋がブルッと体を震わせた。
「――別荘にいる間、三田村と毎日セックスした?」
長く濃厚な口づけの合間に、乱れた息の下から千尋がそんな質問をしてくる。一方で、手は油断なく動き、和彦が着ているポロシャツをたくし上げていた。
「想像に任せる」
和彦がそう応じると、強い光を放つ両目に、間近からじっと見つめられる。大蛇が潜んでいると思わせる賢吾の目も怖いが、若くて細身でしなやかで、荒々しさよりも美しさを感じさせる獣のような千尋の目もまた、こういう状況では怖さを感じる。
「そういうこと言うと、俺すごい想像しちゃうよ? そして、ものすごく嫉妬して、興奮して、先生にいやらしいことをしたくてたまらなくなる」
「……若くして妙な性癖を持つと、厄介だぞ」
「いいよ。ずっと先生に責任取ってもらうから」
それは困る、と思った和彦だが、千尋に性急に唇を塞がれ、言葉が口をついて出ることはなかった。
千尋の汗ばんだ両てのひらが脇腹から胸元へと這い上がり、すぐに指先に左右の突起を探り当てられ、押し潰すように刺激される。体を押し付けてくる千尋の情熱に圧倒されながら、和彦ものろのろと手を動かし、千尋の体をTシャツの上からまさぐる。いつの間にか逞しさを増した若い体だが、和彦が愛しているしなやかさは少しも損なわれていない。
Tシャツの下に手を潜り込ませ、熱く滑らかな肌を撫で回す。この肌に刺青が彫られるのかと考えると、正直惜しい。だが同時に、千尋の肌に彫られた刺青を撫で回す瞬間を想像すると、和彦はひどく高ぶるのだ。
「先生、興奮してる」
和彦の両足の間を、パンツの上から押さえつけた千尋が嬉しそうに洩らす。思わず手を押し退けようとしたが、そのときにはすでに、ベルトを外されているところだった。
「千尋、立ったままでっ……」
「どうせ俺、若くして妙な性癖の持ち主だし」
「そんなことで開き直るな。すぐそこにベッドがあるだろ」
「見えない。――先生しか見えない」
真顔で千尋に囁かれ、感じた気恥ずかしさを誤魔化すように和彦は顔をしかめる。
「……何言ってるんだ、お前は」
「つまり、たっぷり俺と気持ちよくなろうってこと」
パンツの前を寛げられ、下着ごと引き下ろされる。ポロシャツすらも脱がされながら、無駄だと思いながら和彦は一応忠告しておく。
「シャワーも浴びてないから、汗くさいぞ」
「先生の汗の匂い、大好き」
半ば予測できた千尋の返答に、和彦はもう苦笑を洩らすしかない。身につけていたものをすべて脱がされてしまうと、羞恥に身じろぐ間もなく千尋に抱き締められた。
千尋のてのひらが、うなじから背、腰から尻へと移動する。たったそれだけで、鳥肌が立ちそうな疼きが背筋を駆け抜け、和彦は小さく声を洩らしていた。顔を覗き込んできた千尋と唇を啄ばみ合っていると、もう片方のてのひらが胸元をくすぐってくる。
期待で硬く凝った突起を指の腹で転がされているうちに、和彦のほうが堪えられなくなり、千尋の頭を片腕で抱き締める。和彦の無言の求めを察し、千尋は嬉々とした表情で胸の突起を咥えた。
「んっ」
足元がふらついた和彦は冷たいガラスにしっかりともたれかかり、むしゃぶりつくという表現がふさわしい様子で、突起を愛撫する千尋を見つめる。真っ赤に色づいた突起を、千尋がこれみよがしに唇に挟んで引っ張ってから、舌先で弄る。和彦は、胸の奥で湧き起こる狂おしい情欲に身を任せつつ、千尋の髪を手荒く掻き上げてやる。
顔を上げた千尋が、露骨な仕種で自分の指を舐めて、濡らす。その目的を理解して和彦はうろたえ、咄嗟に背後を振り返る。このマンションの周囲に高い建物はないし、バルコニーの手すり壁があるため、すべてが見えてしまう心配はないのだが、やはり気になる。
「先生、しっかり窓にもたれておいてね」
「……何をする気だ」
「いいこと」
軽い口調で言った千尋に次の瞬間、片足を持ち上げられる。千尋に言われるまでもなく、無理な体勢となった和彦は身動きが取れず、されるがままになるしかない。
唾液で濡れた千尋の指が尻の間に這わされ、内奥の入り口を探り当てられる。蠢くようにして一本の指が侵入を始め、和彦は異物感に眉をひそめる。
「きつい……」
そう感想を洩らしたのは千尋だった。和彦は千尋を睨みつけて、軽く頬を抓り上げてやる。
「それは、ぼくの台詞だ」
「でも、先生の中の感触が、よくわかる」
千尋がぐいっと腰を押し付けてきた拍子に、内奥にさらに深く指を埋め込んでくる。立って片足を抱え上げられるという無理な姿勢もあり、いつも以上に内奥で蠢くものの感触をよりはっきりと感じることができる。
「むちゃくちゃよく締まってるよ。それに、中が熱くて、いやらしくヒクヒクしてる。……ここ、擦ってやると、すぐに柔らかくなるんだよね。それで、俺をたっぷり甘やかして、包み込んでくれる」
千尋に露骨な言葉を囁かれているうちに、背で感じていたガラスの冷たさが気にならなくなる。それどころではないのだ。
唇を吸われて、心地よさに声を洩らす。千尋は内奥で指を蠢かしながら、和彦の首筋に唇を這わせ、肩先には歯を立ててくる。胸の二つの突起を舌先で転がされる頃には、和彦の欲望は身を起こし、先端から透明なしずくをこぼしていた。それを確認した千尋が、ようやく内奥から指を引き抜く。
抱えられていた片足を下ろされ、ほっとする間もなく、和彦は体の向きを変えられた。
背後から抱き締められ、うなじに唇を押し当てられる。すでに体が熱くなっていた和彦は、たったそれだけの刺激でも、吐息を洩らしてしまう。
「千尋、そろそろベッドに――」
「まだダメ」
「ダメって、お前……」
千尋の腕が移動し、今度は腰を抱かれる。尻に押し付けられたのは、生々しい欲望だった。無駄だと思いつつ身を捩った和彦だが、やや強引に腰を掴まれて、尻を突き出したような姿勢を取らされると、もう抵抗はできない。
「……俺やっぱり、性癖に問題あるかなー。いかにも上品な先生に、こういう格好させると、それだけで感じる」
そんなことを言いながら、千尋が内奥の入り口に熱の塊を押し当ててくる。指でわずかに解されただけの内奥が、凶暴な欲望でこじ開けられるのだ。背後から押し寄せてくる苦しさに和彦は呻き声を洩らし、必死にガラスに両手を突く。
腰を掴む千尋の手の力に容赦はないが、腰の動きそのものは慎重だ。和彦は、こういう形での交わりに少しばかり腹立たしさを感じはするものの、千尋の気遣いがわかるだけに、怒鳴ることもできない。大きな犬っころにじゃれつかれ、のしかかられているようにも感じられ、苦しさに喘ぎながらも、つい唇に笑みを刻む。
「バカ千尋……」
小さな声で呟くと、和彦の腰を抱え込むようにして、千尋が繋がりを深くする。肩の辺りに、熱く荒い息遣いを感じた。
「何か言った、先生?」
地獄耳、と今度は心の中で呟いてから、和彦は首を横に振る。すると、千尋の片手が両足の間に入り込み、欲望を掴まれた。
「もう少し我慢してね。気持ちよくしてあげるから」
千尋に緩く腰を突き上げられるたびに、欲望を扱かれる。最初はただ、内奥を犯される苦しさに声を上げていた和彦だが、次第にそれ以外の感覚が湧き起こり、上げる声が艶を帯び始める。
「うっ、あぁっ、はっ……」
頬を押し当てたガラスが、喘ぐたびに白く曇る。和彦の変化にとっくに気づいていたのだろう。千尋が大きく腰を動かし、内奥深くに欲望を突き込まれる。その瞬間、和彦の全身を強烈な疼きが駆け抜けた。
息を弾ませて千尋が言う。
「……今、先生、感じただろ? 中が、ビクビクって震えたんだ。それに、背中が赤く染まってきてる。こうして明るい中で見ると、鮮やかだよね。すげー、きれい」
快感を貪り始めた和彦を一層煽るように、千尋が力強い律動を繰り返す。背後から何度も突き上げられ、そのたびに腰を揺らしながら和彦は、懸命にガラスにすがりつき、体を支える。すでに両足は震えて力が入らなくなっているが、和彦を離すまいとするかのように腰に絡みついた千尋の片腕は力強い。
「あっ、あっ、千、尋っ……。もう少し、ゆっくり――」
「それだと、今みたいに気持ちよくなれないよ、先生」
囁く千尋の声は、甘い毒を含んでいる。口調はまったく違うというのに、この状況でこんなことを言えるあたりが、父親にそっくりだった。
「んうっ」
抉るように内奥深くを突かれ、はしたないと思いながらも和彦は自分の意思で腰を揺らし、逞しい感触をしっかりと淫らな襞と粘膜で堪能する。感嘆したように千尋が声を洩らした。
「はあ、最高だよ、先生……」
興奮を物語るように熱い千尋のてのひらに、腿から尻、腰から背にかけてじっくりと撫でられる。それから、硬く凝ったままの胸の突起を、捏ねるように刺激された。その最中に、力強く内奥を突き上げられ、呆気なく和彦は陥落した。
絶頂を迎え、精を放った和彦の下肢から完全に力が抜けるが、崩れ込む寸前のところで千尋の両腕にしっかりと抱き締められ、一層激しく攻め立てられる。
「うあっ、あっ、もっ……、千尋っ……」
ガラスと千尋に挟まれて、めちゃくちゃになりそうだと思ったとき、和彦は自分の中で生じた爆発に陶然とする。
甘い呻き声を洩らし、小刻みに体を震わせながら、注ぎ込まれる千尋の熱い精をすべて受け止めていた。
内奥深くまで埋め込まれた千尋の欲望が、歓喜に震えるように、ビクッ、ビクッと脈打っている。しなやかな獣のような青年を満足させてやれたのだと、和彦は快感とは別に、安堵感にも酔い痴れる。
千尋は荒い呼吸を繰り返しながら、和彦の肩に何度も強く唇を押し当ててくる。唇の熱さから、千尋の体の内でまだ欲望が暴れているのだと、感じ取ることができた。
「千尋――」
「まだ……、まだ、先生の中にいたい」
切実な口調で囁かれ、和彦は吐息をこぼして応じた。
「甘ったれ」
和彦はTシャツを着込むと、濡れた髪を掻き上げてから大きく息を吐き出す。そして、ドアを開けたままのバスルームにちらりと視線を向けた。
バスタブの縁にあごをのせた千尋が、目が合った途端に笑いかけてくる。締まりのない顔だが、これが長嶺の男だと思うと、可愛いと感じられるから不思議だ。いや、単に和彦が、千尋に対して甘いだけかもしれない。
「先生、もっとゆっくり湯に浸かればいいのに」
「……お前がまとわりついてくるから、湯あたりしそうになるんだ」
「俺が介抱するけど?」
「そんなこと言って、何されるかわかったものじゃないから、遠慮する」
連休の間、どれだけ千尋に我慢を強いていたのか、和彦は今日、身をもって知った気がする。とにかく普段以上に、千尋のスキンシップが激しい。ベッドに移動して、さんざん快感を貪り合ったあとも、しばらく離してもらえなかったうえに、風呂まで一緒に入ることになったぐらいだ。
この様子だと、今夜は泊まっていくつもりだろう。長嶺の男たちの〈オンナ〉である和彦には、そのことで文句を言うつもりはないが、多少心配にもなってくるのだ。自分は、長嶺組の跡目を甘やかしすぎているのではないか、と。
「夕飯は外に食べに行くんだろ? まだ時間はあるから、お前はのんびり湯に浸かっていていいぞ。その間ぼくは――」
寝室の片付けをする、という言葉を寸前のところで呑み込む。首を傾げた千尋を一瞥して、逃げるように脱衣所を出た。
和彦は、情交の痕跡が生々しく残る寝室に入ると、シーツを剥ぎ取るだけではなく、汚れた床も手早く掃除する。千尋が場所を選ばず行為に及んだせいで、と責めるつもりはない。結局のところ、受け入れてしまった和彦も同罪なのだ。
寝室の空気を入れ替えるため、窓を開ける。入り込んできた風が、風呂上がりなのと、それ以外の理由で火照った体には気持ちいい。
すっかり見慣れたマンションから見渡せる街中の景色を眺めていると、ほんの数日前まで、自然に囲まれた別荘でのんびり過ごしていたことが、ずいぶん懐かしく感じられる。そのくせ、ともに過ごした三田村のぬくもりや感触などは、今でも鮮やかに思い返せるのだ。
千尋に甘えられた直後に、別の男のことを考えるのはさすがに気が咎める。我に返った和彦は、洗面室のランドリーバスケットにシーツを丸めて放り込んでから、ダイニングに向かおうとする。
ドアを開けたままにしておいた書斎の前を通りかかったとき、携帯電話の着信音が聞こえ、ドキリとして足を止める。特定の相手――里見との連絡にしか使っていない携帯電話の着信音だったからだ。
一瞬感じたのは、違和感だった。
里見は、和彦の置かれている状況がわからないからこそ、よく気をつかってくれる。電話をかけてくるにしても、事前にメールで、許可を求めてくるぐらいだ。その里見が、日曜日の午後に唐突に電話をかけてきたのだ。何事かあったのだろうかと、つい考えてしまう。
バスルームのほうの気配をうかがった和彦は、咄嗟に書斎に入ってドアを閉めていた。
慌ててデスクに歩み寄り、携帯電話を取り上げる。表示されているのは、見知らぬ番号だった。和彦の中で違和感はますます強くなり、それはもう、危機感と呼んでも間違いではないだろう。
電話に出たくないと痛烈に思ったが、電源を切ってしまうのも怖くて、結局和彦は、見えない力に従わされるように電話に出ていた。
いつもなら、和彦を安心させるように名を呼んでくれる里見だが、電話の向こうから聞こえてくるのは沈黙だった。微かに喉を上下させ、ようやく和彦は声を発する。
「もしもし……」
『――久しぶりだな、和彦』
淡々とした言葉が、スッと耳の奥に突き刺さる。感情というものを一切排した、冷たいというより無機質な声だった。
心が凍てつくような感覚に数瞬襲われたが、すぐにその反動のように、押し寄せてきた感情の渦に体の内と外を揺さぶられる。たまらず和彦はデスクに片手をつき、体を支えていた。
「兄、さん……」
どうしてこの電話の番号を、と問いかけようとしたが、考えられることは一つだ。胸を過ったのは、裏切られたという思いだった。
「……里見さんが……」
『あの人は、昔からお前に甘い。そして、今でもお前の保護者のつもりでいる。わたしや父さんが、何度尋ねても、頑としてお前の連絡先を教えてくれない。和彦くんの置かれた状況がわからない以上、こちらが下手に動けば、彼が危ない目に遭うかもしれない――と必死になって言っていたな』
「だったらどうして、この番号がわかったんだ」
『仕事で顔を合わせたときに、里見さんの携帯電話を盗み見た。アドレス帳に、意味ありげに〈K〉と登録されていたから、すぐにピンときた。適当な偽名をつけておけばいいものを、それができないのが、あの人の優しさ……甘さだろうな」
ここで英俊が低く笑い声を洩らす。和彦に向けて毒を放つとき、英俊はよくこんな笑い方をするのだ。そして案の定、英俊が吐き捨てるように言った。
『バカがっ。何が危ない目だ。あんなおぞましい画像を撮られて、みっともなくて父さんの前に顔を出せないだけだろ。あんなものが外に出回るんじゃないかと、うちの人間がどれだけ危惧したと思っているんだ。そのくせお前からは一切説明はないし、連絡すら取れない。肝心の里見さんも、お前に丸め込まれているようだし』
「里見さんはっ――」
『お前の性癖についてとやかく言うつもりはない。こちらに迷惑をかけない限りはな。どうせ、佐伯家の跡継ぎを期待される立場でもない。女だろうが男だろうが、好きなほうと、好きなだけ寝ればいい』
相変わらず、自分を傷つけるための言葉を心得ている人だと思い、和彦は唇を引き結ぶ。どれだけ佐伯家と距離を取り、関わるまいとしようが、電話で少し会話を交わすだけで、和彦の意識は過去へと簡単に引き戻される。自分という存在がまったく尊重されず、必要ともされていなかった、佐伯家で生活していた頃に。
自分を守るために身につけた術だが、和彦は心を凍りつかせる。動揺すらもあっという間に鎮まり、英俊と同じような淡々とした口調で応じた。
「だったら、ぼくに連絡をしてくる必要はなかっただろ。ぼくは今、好きなように生きている。兄さんたちが関わってこないなら、ぼくからも関わる気はない」
『それがそうできないから、お前と連絡を取ろうとしていたんだ。里見さんから聞いたが、お前も少しは、こちらの動向を把握しているんじゃないのか』
「――……兄さんが出馬するという話なら」
『それだ。珍しくはないだろ。官僚から政治家へ転身という話は。父さんも、すでにあちこちに根回しをしていて、とにかく忙しい。そんな状況で、〈身内〉に足を引っ張られたくない』
佐伯家は相変わらずだと、そっと和彦は嘆息する。かつて父親は、省内の権力争いに血道をあげて勝利し、絶対的な支配力を誇っていたが、定年が間近に迫り、すでに天下り先も決めている。だからといって、そこがゴールではない。父親と酷似した道を歩んできた英俊は、ここにきて新たな権力の道を見出し、進もうとしている。当然、父親の後ろ盾があってのことだ。
父親と英俊が歩み、和彦には関わることすら許されなかった道に、自分がどれだけの影響を及ぼせるというのか。和彦は自嘲気味に唇を歪めていた。
「ぼくは……、父さんと兄さんが何をしようが、邪魔をする気はない」
『それは賢明な考えだが、一切関係ないという顔をされても困る。――お前には、わたしたちを手伝ってもらう。〈佐伯家の人間〉としてな』
らしくない英俊の熱っぽい口調にゾッとする。何か、嫌なものに足首を掴まれたような、おぞましい気持ちになった。
和彦は静かに息を呑み、沈黙する。迂闊なことを言えば、そこで英俊に逆らえなくなると、確信めいたものがあった。英俊と和彦の歪な兄弟関係は、ずっとそうやって成り立ってきたのだ。
『お前はいままで、佐伯家のためになることをまったくしてこなかった。このあたりで、恩返しをしてもいいんじゃないか』
英俊のあまりな言い分に、さすがにカッとする。一度は言葉を呑み込みかけたが、結局、口を開いていた。
「……佐伯家が、ぼくを必要としてこなかったんだろ。あの家の人間として振る舞うことすら、兄さんはいい顔をしなかった」
『それでもお前は、わたしの弟だ。これは、わたしにはどうしようもない。だったら、せいぜい利用させてもらう』
英俊が向けてくる冷たい悪意は、電話越しでもしっかりと伝わってくる。どれだけの言葉を費やそうが、気持ちは決して交わることはなく、ただ一方的に搦め取られそうになる。
「ぼくに何ができる? 兄さんが言うとおり、おぞましい画像を撮られて、いつスキャンダル沙汰になってもおかしくない人間だ。そんなぼくが佐伯家にできることと言ったら、存在を隠すことだけだ」
『そんなお前でも、利用価値はある。佐伯の血を引いているという一点でな』
ゾクリとするような感覚が、全身を駆け抜けた。
和彦は、〈血〉の怖さと重さを知っている。長嶺の男たちによって教えられたのだ。切り捨てることも、逃げ出すこともできないものであるということも。
『父さんは、お前を外で自由にはさせていたが、手放す気は一切ないぞ。……わたしにとっては忌々しいがな』
不穏な空気を感じ取った――わけではないだろうが、なんの前触れもなく、書斎のドアが開いた。
「あっ、先生、ここにいたんだ」
ピンと張り詰めた空気を壊すように、上半身裸の千尋が緊張感のない声を発する。即座には状況が呑み込めなかった和彦だが、対照的に、英俊の反応は早かった。
『誰かいるのか?』
ハッと我に返った和彦は、慌てて千尋に駆け寄ると、片手で口を塞ぐ。大きく目を見開いた千尋が何か言おうとしたが、和彦の異変に気づいたのだろう。すぐに険しい表情となって目を眇めた。
「……兄さんには関係ない」
『若い声だったな。先生、と呼んでいたということは、患者か? お前がまだ医者をしているようだと里見さんは言っていたが、どうやら本当だったようだな』
このままでは英俊のペースに巻き込まれると思い、和彦は早口に告げた。
「もうかけてこないでくれ。あなたと話すことは……ない」
『ああ、電話はかけない。だが、お前はわたしと、直接会うことになる』
「その気はない。悪いけど……」
『お前が意固地になればなるほど、里見さんの立場が悪くなるぞ。なんといってもあの人は、佐伯家を裏切っていたともいえる行動を取っていた。お前と連絡が取れた時点で、すぐに教えてくれていれば、問題が簡単に片付いたかもしれないし、わたしも盗人みたいなマネをしなくて済んだ』
込み上げてくるどす黒い感情のせいで、吐き気がした。よほどひどい顔をしていたのか、口を塞いでいた和彦の手を、千尋がぎゅっと握り締めてきた。ふと顔を上げた和彦は、まっすぐ見据えてくる千尋の眼差しに気づき、なんとか自分を取り戻す。
いろいろと言いたいことはあったが、和彦が口にできたのは、ささやかな苦言だった。
「……相変わらず、自分の都合ばかりだ」
『佐伯家を守る義務があるからな。――わたしには』
耳から引き剥がすように携帯電話を離すと、乱暴な手つきで電源を切る。和彦はその場に崩れ込み、大きくため息をついた。自分の中のどす黒い感情を一気に吐き出すように。
「先生……」
気遣うように千尋が肩に手をかけてくる。和彦が力なくうな垂れていると、思いきったように傍らに座り、顔を覗き込んできた。ぎこちなく頭を引き寄せられたので、遠慮なく千尋の肩に額を押し当てる。
「今の電話の相手、先生、『兄さん』って呼んでた……」
「ああ。……佐伯英俊。ぼくの、兄だ」
「先生、震えてる」
千尋に指摘されて初めて和彦は、自分の体の震えを認識する。たまらず、本音を吐露していた。
「――……ぼくは物心ついたときから、自分の兄が怖いんだ」
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