と束縛と


- 第27話(3) -


 和彦が携帯電話への着信に気づいたのは、ジムでシャワーを浴び終えてからだった。
 じっくりと丹念に全身の筋肉を動かし、健全な疲労感に満たされて、汗を洗い流してさっぱりとしたところだっただけに、一瞬、魔が差したように、億劫だなと思ってしまう。
 着信は、護衛の組員からのものだ。普段であれば、和彦がジムを出るまで待っているのだが、こうして連絡してきたということは、そうするだけの事情があるということだ。その事情は、非常に限られていた。
 賢吾からの一方的な呼び出しか、あるいは――。
 和彦は服を着込んで手早く髪を乾かしてから、急いでジムを出る。駐車場に向かうと、組員が車の傍らに立って待ち構えていた。
「何かあったのか?」
 和彦の問いかけに、組員は困惑気味の表情を浮かべる。ひとまず車に乗り込むと、他人の耳を気にする必要がなくなった組員は、すかさずこう切り出した。
「総和会から連絡が回ってきました――」
 シートに身を預けようとしていた和彦は、半ば反射的に背筋を伸ばす。全身に行き渡っていた心地よい疲労感は、瞬時に緊張感へと変化していた。
「仕事か?」
「この患者を、先生に診てもらいたいと」
 信号待ちで車を停めた間に、組員が車内灯をつけてからメモを差し出してくる。患者の名ではなく、和彦が施した処置について端的に記されているのだが、それで十分だ。ああ、と声を洩らして眉をひそめていた。
 組員が言っている『この患者』とは、一か月以上前に半死半生となるほどの全身打撲を負った男だ。腹部の内出血がひどくて開腹手術を行った後、腸閉塞を起こしたりもしたが、それから容態も落ち着いたこともあり、別の医者のもとで養生生活を送っている――と総和会から説明を受けていた。
 患者自身は、和彦の言いつけを守るし、治療にも協力的だったこともあったため、悪い印象は持っていない。ただ、この患者を診ているときに、和彦自身が思いがけない出来事に襲われ、どうしてもその記憶が蘇り、苦々しい感情に苛まれる。体に刻みつけられた生々しい感触とともに。
「……具体的に、どう調子がよくないのかという話は?」
「いえ。先生がジムを終えて出てきたら、指定した場所までお連れするよう言われただけです」
「患者は診てほしいが、ぼくがジムから出てくるのを待つ余裕はあるということか。……なんだか、変だな」
 そう呟いた和彦だが、総和会からの依頼を拒否することはできない。
 組員が運転する車でジム近くのコンビニに移動すると、数台の車が停まっている中に、独特の空気を放つワゴン車があった。何がどう違うとはっきりと言葉にできないが、ただ、近寄りがたいものがあるのだ。これは和彦が堅気の感覚を持っているがゆえに感じるのか、それとも、堅気ではなくなったからこそ感じるのか、自分でも判断はつかない。
 ワゴン車の隣のスペースに、組員は車を停める。それを待っていたように、ワゴン車の後部座席のスライドドアが開いた。
 和彦は、着替えなどを詰め込んだバッグを組員に託し、手ぶらで車を降りる。周囲に視線を向けることなく、素早くワゴン車の後部座席に乗り込んだ。
 もう何度も繰り返してきた行動とはいえ、総和会の〈領域〉に我が身を置くと、やはり緊張する。いや、怖いのだ。
 これなら、総和会の仕事を引き受け始めたばかりの頃のほうが、まだ気持ちとしては楽だったかもしれない。ヤクザらしくない中嶋が総和会側の運転手を務めていたということもあるし、何より和彦が、総和会という組織の存在を、リアルに肌では感じていなかった。だから、ある意味無防備でいられた。
 しかし今、和彦にとって総和会は、長嶺組と同じぐらい近い存在となってしまった。
 重苦しいため息をついた和彦は、ウィンドーの外を流れる景色を漫然と眺めていたが、そのうち、いつもと様子が違うことに気づき、シートから体を起こしていた。
 治療を行うとき、人目を避けるような場所を選ぶことが多く、総和会の場合は特にそれが顕著なのだが、今車は、繁華街の中を移動している。しかも、通り抜けようとしているわけではなく、同じ道を何度も行き来しているのだ。尾行を警戒していることぐらい、さすがに和彦にもわかるが、どうしてこんな場所で、と疑問に感じる。
「あの――」
 たまらず口を開きかけたとき、ひたすら右折を繰り返していた車が、ようやく左折する。そしてあるビルの前で停まった。ここで降りるよう言われ、わけがわからないまま和彦は指示に従う。
 改めてビルを見上げれば、カラオケボックス店の派手な看板が掲げられていた。意外すぎる場所の前に降ろされて呆気に取られる和彦の側に、スッと一人の若者が歩み寄ってきた。ジーンズにTシャツ、その上からブルゾンを羽織っており、その辺りを歩いている青年たちと大差ない服装だ。ただ、胸元で揺れるシルバーのペンダントと、耳にいくつも開いたピアスの穴が印象的だった。
 前に中嶋が、南郷率いる第二遊撃隊には、面倒を見ている若者が何人もいて、使える人材として鍛えていると話していたが、どうやらウソではないようだ。服装はラフだが、意外なほど礼儀正しい若者の物腰を見て、和彦はそう判断する。
「佐伯先生、こちらに」
 外見からは想像もつかない落ち着いた声をかけられたかと思うと、有無を言わせない手つきで背を押されてビルに入る。一階のカウンターは客で混み合っているが、若者はスタッフに短く声をかけただけで、奥へと向かう。
 エレベーターで移動するわずかな間に、和彦は若者をうかがい見る。一見して堅気のよう、と言い切ってしまうには、鋭い気負いのようなものが感じられた。和彦を出迎えるという仕事に、何かとてつもない意義を見出しているような――。
 やはり今日の状況はどこかおかしいと、和彦が確信めいたものを得たとき、エレベーターの扉が開く。いまさら引き返すこともできず、若者のあとをついていく。どの部屋にも客が入っているらしく、あちらこちらから歌声や歓声が漏れ聞こえてくる。
 こんな場所に、養生の必要な患者がいるはずがない。また自分は騙されたのだと、和彦はそっとため息をつく。すると、ある部屋の前で若者が立ち止まった。
「ここです」
 そう短く言い置いて、若者が素早くドアを開ける。心の準備をする間もなく、即座に反応できなかった和彦だが、客やスタッフが通りすぎる廊下にいつまでも突っ立っているわけにもいかず、部屋を覗いた。
 視界に飛び込んできた光景に、眩暈にも似た感覚に襲われる。
 グループ用の広い部屋にいたのは、男一人だけだった。だが、存在感は圧倒的だ。
「部屋に入ってきた早々、そう睨まんでくれ、先生」
 ソファに深くもたれかかり、足を組んだ姿で南郷がそう声をかけてくる。軽く指先が動いたかと思うと、背後でドアが閉まる。外から鍵をかけられたわけではないのだが、心理的には逃げ場を失ったようなものだ。腹を決めた和彦は、南郷を見据えたまま口を開いた。
「どうしていつも、騙まし討ちのようなことをするんですか」
「こうでもしないと、あんたは俺を避けるだろ。それに、長嶺会長も長嶺組長も、潜在的な敵が多い。――もちろん、俺も。その状況で、手順を踏んであんたと会おうと思ったら、何かと面倒だ」
「面倒って――」
 和彦の問いかけを制するように南郷が片手を上げ、傍らを示す。隣に座れと言いたいのだ。
「長居をするつもりはありません」
「ここは案外、メシが美味いぞ。俺は上等な舌はしてないから、高い店で名前も知らない料理を食うより、こういう場所で、若い連中と騒ぎながら飲み食いするのが性に合ってるんだ。もっとも今晩は、俺と先生の二人きりだが」
 歯を剥くように笑いかけられ、その表情に親しみを覚えるどころか、ゾッとするようなものを感じる。この世界の男たちは、笑みすらも一つの武器にしている。強者の余裕を見せ付けて、力を持たない人間を威圧してくるのだ。南郷は特にその姿勢が顕著だ。
 外に出たところで、さきほどの若者に止められるのが関の山だろう。運よく一階に降りたところで、南郷の隊の人間が控えているはずだ。
 腹を括った和彦は、テーブルを挟んで南郷の向かいに腰掛ける。露骨に距離を取った意図を汲み取ったのだろう。南郷は軽く肩を竦めた。
「何か注文しよう。俺のほうで適当に頼んで運んでもらったが、あんたの好みもあるだろう」
「さっきも言った通り、ぼくは長居をするつもりはありません。あまり……長嶺組に不信感を抱かれるようなマネは、したくありません」
「ただ俺と、カラオケ屋で会ってメシを食うだけだろ」
「――ぼくを騙して」
 南郷はもう一度肩を竦め、掴んでいたリモコンをテーブルに置き直した。
「初心な娘じゃないんだ。ヤクザに騙されるなんて、何度も経験済みだろう。あんたが長嶺組長の〈オンナ〉になった経緯からして、そうじゃないのか」
 その経緯は、あくまで長嶺組内の出来事だ。なのに南郷は完全に把握している口ぶりだ。どこまで把握しているのだろうかと、和彦は警戒心を露わにする。
「それは……南郷さんには関係のないことです」
「そう思うか?」
 短い問いかけが、鋭い刃となって喉元に突きつけられる。不安とも恐怖とも取れる感情に襲われ、鳥肌が立っていた。和彦は無意識のうちにジャケットの上から腕をさする。
「心細そうだな、先生。目の前にいる今のあんたは、実に普通に見える。普通の、優しげで非力な色男だ。ヤクザの怖い男たちを何人も手玉に取って、骨抜きにしているとは、到底思えない。だが、力のある男の傍らにいるあんたを見ると、納得させられるんだ。妙に妖しさが引き立つ。男だからこその色気ってやつだな」
「……そろそろ本題に入ってください」
 ここで南郷が組んでいた足を解き、ソファに座り直した。
「――この間、長嶺組長に呼ばれて、二人きりでメシを食った。ちょうど連休中で、あんたは総和会の別荘にいた頃だ」
「賢……、組長と?」
 危うく『賢吾』と口にしそうになった和彦に気づいたのだろう。南郷はちらりと視線を動かしたあと、何事もなかったように話を続ける。
「俺と長嶺組長は、外野からはとかくあれこれと言われがちだ。俺が会長に可愛がられているということで、長嶺組長は、南郷の存在をおもしろくないと感じているんじゃないか、とかな。一方の俺も、会長の実子ということで、当然のように何もかもを持っている長嶺組長を妬んでいる――」
 和彦は慎重に問いかけた。
「本当のところは、どうなんですか」
「ズバリと聞くなんて、肝が太いな、先生。俺にとっちゃ、デリケートな話題だというのに」
「聞いてほしいから、言ったんじゃないんですか」
 南郷の目がこのとき一瞬、鋭い光を宿したように見えたのは、決して気のせいではないだろう。怯みそうになった和彦だが、必死の虚勢で南郷の目を見つめ続ける。
 南郷は、薄い笑みを唇の端に刻む。真意の掴めない表情だと和彦は思った。
「俺は、長嶺組長にそんな生々しい感情は持っていない。あの人も、そこのところはよくわかっている。あえて言葉にしなくても、互いにそれを汲み取るぐらいはできる」
 和彦は相槌すら打たず黙り込むが、南郷は勝手に和彦の心の内を読んでいた。和彦の顔を覗き込む仕草をして、こう言ったのだ。
「そんなことを言って、本当はどうだかわからない、と思っているな」
「……そんなこと……」
「まあ、追及はやめておこう。誰だって、腹の底には何かしら抱えているものだ。それを暴かれるのは気分がよくない」
 ここで二人は一旦沈黙する。和彦は、南郷が何を思ってここに自分を呼び出したのか、真意が読めない以上、迂闊に会話の続きを促せないのだ。
 音楽の流れていないカラオケルームは、なまじ防音がしっかりしているせいか、静けさを認識しやすい。ソファに座り直す微かな気配すら意識してしまいそうで、和彦は不自然に体を強張らせていた。対照的に南郷は悠然としたもので、スマートフォンを取り出して操作し始めた。
 武骨そうに見える指が器用に動く様に、少しの間だけ見入ってしまった和彦だが、我に返ると、思いきって南郷に話しかける。
「結局、ぼくをここに呼んだ理由はなんですか。話す気がないなら、ぼくはこれで帰ります」
「俺のオンナに悪さをした奴がいる――と、長嶺組長が話していた。……命知らずな奴がいると思わないか、先生?」
 和彦は愕然として、南郷を見つめる。南郷が何を言っているか、すぐには理解できなかったのだ。もしかすると、理解したくなかったのかもしれない。
 賢吾と南郷が向き合い、食事をしながら、〈オンナ〉のことを話している姿を想像して、寒気がした。まさに、さきほど南郷が言った言葉だ。
『あえて言葉にしなくても、互いにそれを汲み取るぐらいはできる』
 長嶺組と総和会、それぞれの看板を背負った男たちが言葉を放つことで、それは言質となりうる重みを持ち、揉め事の火種となるかもしれない。だから、言葉にせずに、汲み取るのだ。
 もしかして南郷は、自分にもそうするよう求めているのだろうか。
 和彦の脳裏に、ふとそんな考えが過ぎったが、南郷は言葉以上に明確な意思表示を寄越した。操作していたスマートフォンを、テーブルの上を滑らせて和彦に寄越したのだ。
 目を丸くした和彦に対して、南郷があごを軽くしゃくる。それが、スマートフォンを見てみろという意味だと解釈し、和彦はおそるおそる画面を見てみる。何かの動画が再生されていた。
 その動画がなんであるか理解した瞬間、危うく和彦は気を失いそうになった。
「これは――……」
 絞り出した声は震えを帯びていた。
 顔に布をかけられた人物がマットの上に横たわっていた。トレーナーはたくし上げられており、腰から下は映ってはいないが、下肢は何も身につけていないことを和彦は知っている。映像に映っているのは、和彦自身だからだ。
 その和彦にのしかかり、布の上から唇を貪っている荒々しい獣のような男は――南郷だ。
「――長嶺組長のやり方に倣ってみた」
 怒りで全身が熱くなっていくのに、胸の内は凍りつきそうなほど冷たくなっていく。頭は混乱しながらも、南郷に対する表現しがたい嫌悪感や拒否感だけは認識できた。
 払い除けるようにしてスマートフォンを南郷に押し返す。視線を逸らす和彦を多少は気遣うつもりがあるのか、南郷はすぐに動画の再生を停めた。
「長嶺組長とメシを食いながら話していてわかったが、あんたは肝心なことを、長嶺組長に打ち明けてないんだな」
「肝心なことって……」
「自分に悪さをした相手が、総和会の南郷――俺だということを。顔は見ていなくても、あんたならわかっていたはずだ。あんなことをしでかすのは、俺しかいないということは。あんたと長嶺組長の間でも、あえて言葉にしないまま、互いにそれを汲み取ったわけだ」
「……ぼくはあのとき、相手の顔を見ることはできませんでしたから、迂闊なことは言えません」
「できた〈オンナ〉だ」
 皮肉っぽい口調で洩らした南郷が、ふいに立ち上がる。驚いた和彦は反射的に体を強張らせたが、それ以上の反応ができないうちに、隣に南郷が座った。荒々しい威圧感に頬を撫でられた気がして、体が竦む。
「自分が原因で、総和会と長嶺組に波風が立つのを避けたかったんだな」
 自惚れるなと、南郷に鼻先で笑われるのが嫌で、和彦は返事を避けた。しかし南郷は一人で納得した様子で頷く。
「さすが、オヤジさんが見込んだだけはある。――どの男にもいい顔をして、揉め事は避ける。この世界での、あんたの処世術だ」
 南郷の声に侮蔑の響きを感じ取り、それが何より我慢ならなくて和彦は立ち上がろうとする。すかさず大きな手に肩を掴まれ、腰を浮かせることすら叶わなかった。
「どうにも、生まじめに反応するあんたが新鮮で、つい煽るようなことを言っちまう。すまないな、先生」
「……離して、ください」
 和彦は顔を強張らせ、肩にかかる南郷の手を押しのけようとする。だが手を退けるどころか、反対に力を込められた。
「そろそろ、聞いたらどうだ。――俺がなぜ、長嶺の男たちが大事にしているあんたに、あんなことをしたか。長嶺組長に言わせると、『悪さ』か」
 それができるなら、とっくにしている。和彦は、南郷に対して感じる不気味さを堪えつつ、鋭い視線を向ける。
 南郷の口から出る答えが恐ろしくて、疑問は胸の奥に押し込んでいた。同じような行為を、さらに容赦ない方法で実行した賢吾とは、いろいろありながらも今は深い関係を結んでいる。
 では南郷が望むものは。
 明確な答えはわからないが、南郷の底知れぬ企みのようなものは感じ取れる。守光が目をかけ、側に置いているほどの男が、なんの考えもなく行動するとは思えない。
「さっきの動画を消してください」
 和彦は、寸前の南郷の言葉を露骨に無視したうえで、こう要求する。さすがに虚をつかれたように南郷は目を丸くしたが、すぐにスマートフォンを再び手にした。
「こいつに入っている動画を消したところで、もうネットに上げちまったかもしれないだろ」
「そんなに迂闊な人ではないでしょう、あなたは」
「迂闊ではないが、悪辣な人間かもしれない。あんたの職場に画像をバラ撒いた長嶺組長ほどではないにしても」
「ぼくは、その悪辣な男の〈オンナ〉ですよ。――ぼくを、脅すつもりですか?」
 声を潜めたのは、微かな震えを誤魔化すためだ。ここで南郷は、ゾッとするほど冷めた目で和彦を凝視してきたが、ほとんど意地だけで見つめ返すと、ふいに興味を失ったようにスマートフォンに視線を落とした。
「――あんたは、俺を毛嫌いしている。そんなあんたに、俺という男を知ってほしかった」
「卑劣な人だと?」
 南郷は鼻で笑った。
「同じ言葉を、長嶺組長にぶつけたことがあるか?」
「あなたは……長嶺組長じゃない」
 そうだ、と呟いたとき、確かに南郷は唇に笑みを浮かべた。和彦の目を意識したものではなく、込み上げてきたものを堪え切れない、といった様子の表情だ。ただ和彦は、南郷の笑みに薄ら寒いものを感じてしまい、息を呑む。
 スマートフォンの操作に集中しているのか、肩に回された南郷の腕から力が抜ける。一瞬、逃げようかとも思ったが、その気持ちを見透かしたように南郷に言われた。
「動くなよ、先生。今、動画を消してやっているが、気が変わってもいいんだぜ」
 ようやく顔を上げた南郷が、唐突にスマートフォンを投げて寄越してくる。反射的に受け取った和彦は意味がわからず、南郷とスマートフォンを交互に見る。
「あの……」
「動画は消した。確認してみたらどうだ」
 いくらでもコピーができる動画が目の前で消去されたところで、確認することに意味はない。そう考えたことが顔に出たのだろう。南郷はこう続けた。
「まあ、俺を信用してくれとしか言えない。それに――長嶺組長のオンナに悪さをした証拠を、いつまでも手元に残しておいたところで、俺に益があると思うか?」
 和彦はスマートフォンを南郷に返す。
「……二度と、こんなことをしないでください」
「騙して呼び出したことか。それとも、あんたの特別な場所に触れたことか――」
 前触れもなく南郷に肩を抱き寄せられ、耳元に獣の息遣いがかかる。続いて、耳朶に鈍い痛みが走った。食われる、と本能的な怯えを感じた和彦は短く悲鳴を上げ、身を捩って南郷の腕の中から逃れた。
 全身の血が沸騰しているようで、心臓が痛いほど強く鼓動を打っている。南郷の様子をうかがいながら慎重に立ち上がった和彦だが、眩暈に襲われて足元がふらついていた。
「大丈夫か、先生。顔が真っ青だ」
「こんなぼくを見られて、満足しましたか……?」
 和彦が睨みつけると、悪びれたふうもなく南郷は大仰に肩をすくめる。
「必死に虚勢を張っているあんたの姿は、なかなかいい。こういうところでも、育ちが出るんだろうな。感情的になっていても、品がある」
「そんな……いいものじゃないです。怖いんです。この世界の男を怒らせるのは」
「オンナらしい配慮だ。何をされても、相手を怒らせないよう気遣わないといけねーなんて。つまり今晩のことも、長嶺組長には〈告げ口〉しないということか」
 南郷が向けてきた冷笑を、和彦は見ないふりをする。挑発しようとしている意図が、露骨に透けて見えるのだ。和彦のささやかな反撃を、きっとこの男は、楽しげに受け流すはずだ。
 なんとか大きく息を吐き出すと、ドアに向かおうとする。本当は駆け出したいところを、ぐっと気持ちを堪えて。
「――俺は、あんたのことが知りたかった」
 ドアを開けようとしたところで、背後からそんな言葉が投げつけられる。動きを止めた時点で、和彦の負けだ。聞こえなかったふりもできず、仕方なく振り返る。
「さんざん調べたんじゃないですか」
「経歴については、いまさら俺が調べるまでもなく、資料は揃ってた。俺が言ってるのは、あんたの内面についてだ。そして、人間の本質が表れやすいのは、怒っているときだと俺は思っている」
「……ぼくを怒らせたくて、こんなことを?」
「そのつもりだったが、今日は怯えてばかりだったな、先生」
 何を言われるよりも怒りを刺激され、和彦は勢いよくドアを開けて部屋を出る。目の前には、部屋まで案内してくれた若者が立っていた。どうやら、行き交う人たちの視線もものともせず、ずっとこうやって待機していたようだ。
 明らかに機嫌が悪い和彦を目の前にしても、眉一つ動かすことなく若者は、エレベーターホールへと歩きながら、携帯電話を取り出す。
「一階で少しお待ちください。車を正面に回しますから――」
「いい。一人でタクシーで帰る」
「それはできません。第二遊撃隊が責任をもって、佐伯先生を長嶺組にお返しします」
 一人になって気持ちを切り替えたいのだと言いたかったが、今日会ったばかりの若者に説明するのも億劫で、今度はこう提案した。
「――だったら、中嶋くんを呼ぶ。彼に運転手を頼む」


 腕組みをしてイスに腰掛けた和彦を見るなり、中嶋は唇を緩めた。
「遅い、と言いたげな顔ですね、先生」
「……連絡して三十分で来てくれたんだから、むしろ早いほうだ」
 よほど慌てて出てきたのか、ノーネクタイのうえに、ワイシャツのボタンも上から二つを留めていない中嶋だが、夜の繁華街で少々羽目を外した若いビジネスマンにしか見えない。こんな中嶋が、いかにも筋者な見た目の南郷率いる第二遊撃隊に所属しているのだ。
 さきほどから和彦の傍らに立ち、辺りを静かに睥睨している若者も含めて、南郷は自分のスタイルにはこだわるものの、それ以外の者には自由に――あるいは、あえて筋者に見えないよう徹底させているのかもしれない。
 若者が、低く抑えた声で中嶋に挨拶をする。それに応じたわずかな間だけ、普通の青年の顔の下から、中嶋の別の顔が覗き見えた気がする。和彦が思わず目を凝らした数瞬のあとに、中嶋はいつものように気安い雰囲気で話しかけてきた。
「びっくりしましたよ。突然先生から、迎えに来てほしいと連絡がきたときは。声を聞いたら、なんだか機嫌が悪そうだし。事情がわからないままここに来たら、外で隊の人間が待機しているし。さすがに何事かと思って事情を聞きましたが……、南郷さん、歌っているそうですね」
「……さあ、さっさと出てきたから、あの人が部屋で何をしているかまでは知らない」
 カラオケボックスに来て、他にすることがあるとも思えないが、あえて和彦は素っ気なく応じる。勘の鋭い中嶋には、それだけで十分伝わったはずだ。
 参ったな、と小さく洩らした中嶋は、乱雑に髪を掻き上げた。
「先生に関することは、すべて俺にも知らせてほしいと言ってはあるんですけど。――どうも、たびたび伝達に不備が起こるようで」
 中嶋は苛立ちを込めた視線を若者に向ける。当の若者のほうは、こちらの会話に聞き耳を立てているような素振りも見せず、注意深く辺りを見回している。その様子は、よく訓練された犬のようだ。
 客として出入りしている同年代の若者たちとの違いに、いまさらながら瞠目している和彦に、中嶋がそっと耳打ちをしてくる。
「彼に、何か失礼はありませんでしたか?」
 若者を見つめる視線を、中嶋は勘違いしたらしい。和彦は慌てて首を横に振る。
「それはないんだっ。むしろ失礼だったのは――」
 南郷のほうだ。そう言いたかったが、ぐっと言葉を呑み込む。迂闊なことを言って、若者から南郷に報告されても困る。こんなことで激怒する男だとも思えないが、何かあって中嶋の立場が悪くなるのは申し訳ない。
 和彦は、遠慮がちに中嶋を見上げた。
「……咄嗟に君の名を出したんだが、そのことで南郷さんから叱責されるようなことはないか?」
「俺は一応、総和会での先生の世話係を任されている立場ですよ。先生が困って、俺を呼びつけるのは、行動として正しい。ここで長嶺組の方を呼ばれると、そちらのほうが面倒なことになったと思います」
 ひとまず、その言葉に安堵しておく。
「そうか。よかった……。頭に血がのぼっていて、君に電話したあとで、急に不安になったんだ」
「先生に、そんな顔で心配されるのは、なかなか気分がいいですね。急いで駆けつけた甲斐がありますよ」
 ここでやっと和彦は、小さく笑みを浮かべることができた。
 中嶋に促されてビルを出ると、人の流れに乗るようにして歩き始める。和彦は念のため背後を振り返ろうとしたが、すかさず中嶋に言われた。
「うちの人間はついてきていません。ここからは、先生を守るのは俺の役目ですから」
 和彦は大きくため息をつくと、前髪をくしゃくしゃと掻き乱す。いろいろと言いたいことはあるのだが、張り詰めていた緊張の糸が切れたのか、一気に疲労感が押し寄せてきた。
「わがままを言っていいか……?」
「俺が叶えられる範囲でなら、なんでもどうぞ」
「――お腹が空いた。それと、あまり歩き回りたくない」
 可愛いわがままですね、と笑いを含んだ声で洩らした中嶋が、少し考える素振りを見せる。和彦は慌てて付け加えた。
「君さえよかったら、どこでもいいんだっ。気取った店に入りたいというわけじゃなくて、むしろ、気楽な気分で過ごしたいというか――」
「なら、決まりですね。あそこに入りましょう」
 そう言って中嶋が前方を指さす。指し示された先にあるのは、チェーン展開している居酒屋だ。和彦に異論はなく、大きく頷く。
 中嶋とともににぎやかな店内に足を踏み入れると、さっそくテーブルにつく。和彦はメニューを開くと、飲み物といくつかの料理を選び、注文を中嶋に任せた。
「で、何があったんですか?」
 店員がテーブルを離れると同時に、中嶋に問われる。和彦は意識しないまま眉をひそめ、どう答えるべきかと考える。その間に、まず飲み物が運ばれてくる。和彦はレモンサワーで、車の運転がある中嶋はジンジャーエールだ。居酒屋にいてアルコールが頼めないということに罪悪感が疼いたが、胸の内で吹き荒れる怒りの前では、あまりに儚い感情だ。
 和彦は呷るようにレモンサワーを飲み、焼きおにぎりの皿が目の前に置かれたときには、グラスを空にしていた。いつにない和彦の勢いに、さすがの中嶋も目を丸くしつつも、すかさず飲み物を追加で注文してくれる。
「……先生がそんな飲み方をするなんて、よほどですね」
 ふっと一息ついた和彦は、恨みがましい視線を中嶋に向ける。自分でも、今夜は絡み酒になりそうな気配を感じ取っていた。事情もわからないまま呼び出され、こうしてつき合わされる中嶋にとってはいい迷惑だろう。
 和彦が口を開かないうちに、次々に料理が運ばれてきて、テーブルの上にところ狭しと並べられる。気をつかった中嶋があれこれと頼んでくれたのだ。
「何があったにせよ、顔を合わせたのは連休以来なんですから、先生の気が済むまでつき合いますよ」
 中嶋の言葉に、知らず知らずのうちに和彦の顔は熱くなってくる。五月の連休中、総和会の別荘で三田村と中嶋の三人で過ごし、非常に穏やかで楽しい時間を過ごしたのだ。が、最後の夜は一転して、濃厚で淫靡な行為に耽り――。
 頬の熱さを誤魔化すようにてのひらで擦ってから、そっと中嶋をうかがい見る。グラスに口をつけている中嶋は、普通のハンサムな青年だ。表情によってはドキリとするような色気もあり、こういってはなんだが、ホストは天職だったのではないかとすら思える。
 こんな青年が、南郷の下で物騒な仕事をこなしているのだ。そんなことをふっと考えた瞬間、和彦の口を突いて出たのは、自分でも驚くような質問だった。
「――……南郷さんから、性的な嫌がらせをされたことはないか?」
 さすがの中嶋も驚いたらしく、不自然に動きを止めたあと、ぎこちなくグラスを置いて、テーブルに身を乗り出してきた。
「やっぱり何かあったんですか」
「ぼくが質問をしているんだ。ぼくが何かされたと言っているわけじゃない」
 我ながら苦しい言い訳を、当然中嶋は信用していない。苦笑に近い表情を見せたあと、急に澄ました顔で語り始めた。
「前に確か、先生に話したことがありますよね。南郷さんは、長嶺会長に付き従っていることが多くて、あの人の動きを追えば、長嶺会長の動きもだいたい把握することができると。ところが最近は、ちょっと様子が変わってきていると、総和会の中でもっぱらの噂なんですよ。南郷さんと長嶺会長が別行動を取ることが増えてきた、と。第二遊撃隊をいよいよ大きくして、実行委員の一人として名を連ねるつもりじゃないかとも。総和会の人事について、先生はピンとこないでしょうが、これが実現したら、かなりすごいことなんですよ」
「……ぼくの質問と、君のその話と、どう繋がるんだ……?」
「隊にいるからこそ、感じることもあるんです。最近の南郷さんは、先生を追うために動いているんじゃないか――」
 柔らかだが、ときおり怜悧さも覗く中嶋の視線を向けられ、なんとなく息苦しさを覚えた和彦は、焼きおにぎりをほぐしながら食べ始める。
「ぼくにはよくわからない。ただ、顔を合わせる機会は増えたかもしれない。……今夜は、完全に騙された。患者の治療をするつもりだったのに、連れて来られたのがカラオケボックスで、南郷さんがいた」
「それで、性的な嫌がらせをされたと」
「ぼくのことはいいっ」
 ムキになって言い返したが、すぐに和彦は顔を伏せ、焼きおにぎりを口に運ぶ。
「……あの人は、不気味だ。何をしたいのか、よくわからない。まるで、長嶺組との間に揉め事を起こそうとしているようで……」
「ちょっと考えにくいですね。南郷さんは、長嶺会長の側近で、その長嶺会長が何より大事にしているのが、総和会と――長嶺組です。そして、長嶺組が今大事にしているのは、先生だ」
「買い被りだ。ぼくはあくまで、長嶺組長と、その跡目である千尋のオンナというだけだ」
「そのオンナの存在が、総和会にまで影響を及ぼしているんです。決して買い被りじゃないですよ」
 中嶋がさりげなく、唐揚げを盛った皿を差し出してきたので、自分の皿に取り分ける。もそもそと唐揚げを齧っていた和彦だが、たまらずため息をついていた。
「個人的な問題が起こっている最中で、今は気持ちに余裕がないんだ。そこに、これ以上厄介なことを抱えると、さすがに限界だ」
「気分転換なら、いつでもおつき合いしますよ」
 力なく笑った和彦だが、何げなく視線を周囲に向ける。学生らしいグループや、会社帰りと思しきスーツやワイシャツ姿の一団、女性たちだけで盛り上がっているテーブルもあり、とにかくにぎやかだ。そんな客たちの姿を眺めながら、自分や中嶋も、この場に上手く溶け込めているのだろうかと考えていた。
 自分たちの存在が特別なのだというつもりはない。ただ、異質なのだ。いつの間にか異質であることを受け入れ、馴染んでいることに、いまさらながら不安のようなものを感じていた。
「先生?」
 中嶋に呼ばれ、我に返った和彦は慌てて箸を動かす。
「たまには、こういう店で飲むのもいいなと思ってただけだ。普段は、一緒にいる男たちの安全を考えて、人の出入りが多い店を避けがちになるから」
「そのうち、先生を気軽に連れ回すことができなくなるかもしれませんね」
 どういう意味かと問いかけようとしたとき、店の自動ドアが開き、二人の男性客が入ってきた光景を視界の隅に捉えていた。男性客が店員と短く言葉を交わしてから、こちらに歩み寄ってくる。ここで和彦はやっと、その男性客が見知った男たちであることに気づいた。長嶺組の組員たちだ。
「どうして――……」
「南郷さんが、長嶺組のほうに連絡を入れたんだと思います。騙す形で先生を連れ出して、そのうえ怒らせてしまったのに、何事もなかった顔はできなかったんじゃないでしょうか。……この店に長嶺組の方が来たということは、もしかして俺たち、隊の人間にしっかり尾行されていたみたいですね」
 さらりとそんなことを言われ、和彦は思わず中嶋を睨みつける。口ぶりからして、中嶋は尾行に気づいていたと察したからだ。中嶋はペコリと頭を下げた。
「すみません。だけど、こちらの都合で先生を振り回して、不愉快な思いまでさせた挙げ句、危険な目には絶対遭わせるわけにはいきません。もし先生の身に何かあったとき、第二遊撃隊全体の責任問題になります」
「そこまでのリスクを、あの人はわかっていたはずだろっ。なのにどうして、今日みたいなことを――」
 中嶋にぶつけるというより、声に出して自問自答をしたようなものだが、それでもはっきりと南郷の名を口に出すことはできなかった。長嶺組の男たちがテーブルの傍らに立ったからだ。
 ここで自制心が働いたことで、和彦は嫌なことに気づかされる。自分は、南郷に試されているのだということに。
 何もかもを打ち明けて、南郷がすべて悪いと断罪することは容易い。だが、和彦が撒き散らした言葉を受けて、長嶺組や総和会の男たちは問題解決のために動かざるをえないのだ。南郷を側に置いている守光も、知らぬ顔はできないだろう。
 そして和彦は、守光のオンナだ。
 新たに運ばれてきたレモンサワーをぐいっと飲んで、自分を囲む男たちに向けて言った。
「……ぼくの自棄酒に、少しつき合ってくれ」









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