和彦の緊張が電話越しに伝わったのだろう。いつもなら他愛ない世間話から始める里見が、今日はまっさきにこう切り出した。
『何かあったのか?』
さすがに鋭いなと、内心で苦笑を洩らした和彦は、携帯電話を一度顔から離す。軽く呼吸を整えてから、努めて落ち着いた声で答えた。
「――兄さんから、連絡があったんだ。ぼくの携帯に……」
たったこれだけで、察しがよすぎるのか、それとも心当たりがあったのか、里見は事情が理解できたようだ。
『わたしのせいだな……』
「里見さん、ぼくの番号、〈K〉で登録してあるんだってね。甘い、と兄さんが言ってた」
『……迂闊と言ってくれていい。本当に、わたしのミスだ』
「それはいいんだ。もう。知られてしまったんなら仕方ない。里見さんもまさか、兄さんが携帯電話を盗み見るなんて思いもしなかったんだろ」
里見の返事は、重いため息だった。和彦としては、英俊の行為にいまさら愚痴をこぼすつもりはなかった。結果として、こちらが行動を起こすきっかけとなったのだ。
昼の休憩に入って静かなクリニックとは違い、電話越しに慌しい空気が伝わってくる。本来はゆっくり話せるよう、連絡は夜にすべきなのかもしれないが、和彦としては、里見と話し込み、決意が揺れるのが怖かった。
「兄さんと少し話した。相変わらずだったよ」
『彼は、身近な人間に対しては言葉を選ばない。わたしも、彼の上司だったときは、それなりに敬ってはもらっていたが、今はまあ……。彼なりの、親しさの表現かもしれない』
「優しいな、里見さんは」
皮肉でもなんでもなく、本当にそう思った。少なくとも和彦は、実の兄に対して好意的な表現はできない。肉親と他人の違いと言ってしまえば、それまでかもしれないが。
「兄さんと電話で話して、キツイことを言われた。それで、いろいろ考えたんだ。一度兄さんと会って、こちらの希望をきちんと伝えるべきじゃないかって」
『希望?』
「……ぼくを、放っておいてほしい。佐伯家の事情に関わらない代わりに、ぼくも佐伯家の迷惑にならないよう、姿を隠しておく」
里見が何か言いかけた気配がしたが、言葉となって発せられることはなかった。だが和彦には、里見が何を言おうとしたか、漠然とながら伝わってきた。
それは難しい、と言いたかったはずだ。
愛情のため、姿を消した息子を必死に捜そうとする家庭は多いだろうが、佐伯家は体面のために動く。だからこそ、冷静で容赦ない手を打ちそうで怖いのだ。長嶺組や総和会の事情に頭の先まで浸かってしまった現状に、佐伯家の見えない動向にまで神経を張り巡らせていたら、確実に和彦の神経は持たない。
せめて、佐伯家が――英俊が何を考えているか、自分の実感を持って把握しておきたかった。
「里見さんをまた面倒に巻き込んで申し訳ないけど、頼みがあるんだ」
『君のことで面倒なんて思ったことはない。……頼みというのは、英俊くんと会えるよう、段取りをつけることかな』
「うん。直接連絡を取ればいいだろうと思うかもしれないけど、それは避けたいんだ。今、こうしてかけている携帯も、近いうちに解約する予定だ」
『そしてわたしは、君と連絡を取る手段を失う』
軽い口調で里見に言われ、つられて和彦は笑みをこぼす。
「ずるいな、その言い方は」
『前に君に会ったときに言っただろ。大人はずるいんだと。――本当に、ずるいんだ』
里見は口調は柔らかながら、妙な迫力があった。里見の知らない世界で和彦が生きているように、和彦の知らない世界で里見は生きているのだと実感させられる、〈重み〉ともいえるかもしれない。
「……ずるい大人の里見さんは、ぼくを騙すつもり?」
『わたしのずるさは、君を守るために発揮するつもりだ』
これは殺し文句だなと、胸の鼓動の高鳴りを感じつつ、和彦は心の中で呟く。確かに昔、自分はこの人のことが好きでたまらなかったのだと、鮮やかな思い出が蘇ってもいた。だが、里見から庇護されていた昔とはもう違うのだ。
今の和彦の周囲には、ずるいという言葉では収まらない、食えない男たちばかりで、その男たちが和彦を守っている。
甘い感傷を押し殺した和彦は、努めて事務的に、英俊と会うための条件を提示する。里見も、和彦の変化を感じ取ったのだろう。メモを取る気配をさせながら、ただ話を聞いてくれた。
窓際に置かれたソファに腰掛けた和彦は、半ば感心しながら辺りを見回す。前回、この場所を訪れたのは、桜の花が見頃を過ぎた頃だったが、あれから一か月少々しか経っていないというのに、ずいぶん様子が変わっていた。
「すごいな。もう一週間もすると、開店できるんじゃないか」
和彦の言葉に、段ボールの中を確認していた秦が顔を上げる。普段、スーツで決めていることの多い男だが、今日はジーンズにTシャツという軽装だ。だが、嫌味なぐらい様になっている。
「とりあえず、雑貨屋としての体裁を整えておく必要がありますから、商品の手配だけは急がせたんですよ」
「急がせてどうにかなるものなんだな」
「持つべきものは、手広く商売をやっている親族です。少々高くつきましたが、店の改装費用を抑えられたので、まあ長嶺組長も笑って許してくれるでしょう」
和彦は立ち上がると、店内のあちこちに置かれた大きな段ボールを避けつつ、歩いて見て回る。元はカフェだったというテナントは、夜桜見物をしたときにはあったテーブルもイスも片付けられており、その代わり、木製のシェルフやラック、デスクが運び込まれている。これだけで、ここが雑貨屋に生まれ変わるのだと感じられる。
「壁紙を張り替えはしましたけど、床材は木目できれいだったので、そのまま使っているんです。あとは、照明器具ですね。商品が届いたので、今週中にでも揃えて、早々に工事をしてもらう予定です」
秦の説明を聞きながら和彦は、カウンターの向こう側を覗き込む。きれいに片付けられた小さな厨房があった。
「ここはどうするんだ? 雑貨屋なら、使わないだろ」
「お客様に紅茶やハーブティーをお出ししましょうか。水廻りを潰すとなると、それはそれで費用と手間がかかりますし。雑貨に囲まれてお茶会を開くというのも、楽しそうですね」
「……君が店に出ると、雑貨を見るためじゃなくて、君に相手をしてほしい女性客が殺到するんじゃないか」
「先生も、クリニック経営の息抜きに、店に出てみませんか? 雑貨屋としての儲けは期待されていないとはいえ、経営者としては、やっぱりあれこれ努力はしてみたくなるものなんですよ」
十分すぎるほどの色気を含んだ流し目を寄越され、和彦は顔をしかめて見せる。
「ぼくは今日、経営戦略を聞くためじゃなく、開店準備が進んでいるか様子を見に来ただけだ」
「まあ、ここに、長嶺組の組員の方に出入りされると、目立ってしまいますからね。――でも、だからといって、様子を見にくるのは、先生にしかできない仕事というわけじゃない」
意味ありげな秦の物言いが気になり、和彦は首を傾げる。
「どういう意味だ?」
「わたしが長嶺組長から連絡を受けたとき、買い物好きの先生に、ちょっと気晴らしをさせてほしいと言われました。最近、騒ぎに巻き込まれ続けて、先生の気が滅入りかけている、とも」
余計なことをと、和彦はため息をつく。ただ、賢吾の気遣いそのものは嫌ではなかった。クリニックが休みの今日、理由がなければ書斎に閉じこもっていたはずなのだ。
秦の隣に行き、作業を手伝うことにする。段ボールを一つずつ開けていき、商品が傷ついていないか確認するのだ。
「気に入ったものがあれば、差し上げますよ。先生にはお世話になっていますから」
「……いいよ。開店してから、商品として棚に並んだものを買わせてもらう」
「この店そのものが、長嶺組のものなのに、律儀なことですね」
「買い物好きは、気に入ったものを買い求める行為が好きなんだ」
凝ったデザインの小物入れらしいものを手に取りながら、秦は声を洩らして笑っている。ムキになって反応したところで、さらにからかわれるだけだと思い、ぐっと言葉を飲み込む。
和彦が開けた段ボールに入っていたのは、色鮮やかなテーブルクロスだった。自宅のダイニングテーブルに掛けると、雰囲気が変わっていいかもしれないと、ふとそんなことを考える。この瞬間、賢吾の目論見通りになっていることに気づき、少々の悔しさを感じなくもない。
ちらりと秦の様子をうかがってから、和彦は水を向けた。
「――……中嶋くんから、ぼくのことで何か聞いてないのか?」
「連休中の、楽しい出来事なら少しだけ」
咄嗟に言葉が出なかった和彦だが、顔はしっかりと熱くなってくる。なんのことかととぼける余裕もなく、慌てて視線を逸らしていた。
「そっちは関係ないっ……。総和会絡みだ」
「ああ。先生が、厄介な人に目をつけられているとは言っていましたね。誰のことを言っているのかまでは、聞けませんでしたが」
「騒ぎというのは、そのことだ。だけど今はそれよりも……、ぼくの実家のことのほうが問題だ」
「あれだけ苦労されていたのに、居場所を知られたのですか?」
和彦は苦い表情を浮かべると、首を横に振った。秦には以前、家族との不和を語ったことがある。引き換えに、和彦は秦の家族のことを少しだけ教えてもらったのだ。
「どういうわけだか、佐伯家はぼくを必要としているらしい。それで、ある知人を使って連絡を取ってきた。知らない顔をしたいところだが、知人に迷惑をかけられないし、そろそろこちらの意思を伝えておこうと思って、会うことにした。……兄と」
「『騒ぎ』とは、そういうことでしたか」
「家の問題については、ぼく自身が対応するしかないしな。下手に動くと、ぼくの周囲の人間たちに迷惑をかけるどころか、致命傷を与えかねない」
「大事なんですね。――先生の周囲の〈男たち〉が」
恥ずかしいことを言うなと怒鳴ろうとした和彦だが、すぐに思い直し、結局口を突いて出たのは、ため息交じりの言葉だった。
「……思惑があるにせよ、大事にしてもらっているからな」
「それがヤクザの手口なのに、先生は甘い」
「自分でもそう思う」
そんな会話を交わしながら、次々に段ボールを開けて商品を確認していたが、ふと秦が、あることを思い出したように腕時計に視線を落とす。つられて和彦も自分の腕時計で時間を確認していた。
「そろそろ昼だな。確か隣のビルに、イタリアンの店が入っていただろう。混む前に食べに行くか?」
和彦の提案に、秦は大仰に残念そうな顔をする。
「魅力的なお誘いですが、先生とはこれでお別れです」
「なんだ。これから用があるのか?」
「わたしではなく、先生が。もう一階に、迎えの方が到着しているはずですよ」
「そんなこと、今初めて聞いたんだが。迎えも何も、護衛の人間にはビルの外で待ってもらっていて――」
和彦が戸惑っている間に、ソファに置いたジャケットを秦が取り上げる。促されるまま袖を通すと、肩を抱かれて店の外へと送り出される。
「それじゃあ、お気をつけて」
にこやかな表情で手を振る秦の勢いに圧されるように、和彦は首を傾げつつもエレベーターに乗り込み、一階へと降りる。
不可解な秦の態度の理由は、扉が開いた瞬間に氷解した。
「三田村っ」
驚いた和彦が声を上げると、エレベーターの前に立っていた三田村がわずかに唇を緩める。しかし次の瞬間には表情を引き締め、鋭い視線をビルの外のほうへと向けた。
「……三田村?」
「行こう、先生」
状況がよく呑み込めないまま、三田村についてビルを出る。
明らかに、三田村は周囲を警戒していた。過剰ともいえるほど。和彦は慎重に周囲を見回すが、そこは、人が行き交うにぎやかな通りがあるだけで、何かを見つけることはできない。
三田村の警戒の理由は、コインパーキングに停められた車に乗り込んでから教えられた。
「――妙に雰囲気の鋭いガキ二人が、先生のいたビルを見張っていた」
シートベルトを締めていた和彦は、突然の三田村の言葉に目を丸くする。
「えっ……」
「二十歳そこそこで、服装も特に崩れた感じじゃなかった。だがあれは、堅気じゃない。だからといってチンピラでもない。きちんと躾けられて、鍛えられている――兵隊だ」
和彦がシートに身を落ち着けるのを待ってから、三田村は車を出した。
三田村から聞いたことを頭の中で反芻する。ぼんやりと、ある考えが浮かび上がってくるが、答えを口にしたのは三田村だった。
「多分あれは、南郷の隊の人間だ」
和彦は無意識のうちにシートベルトを握り締める。
「先生につけていた組の人間が気づいて、俺に教えてくれた。どうやら、先生の尾行が目的というより……」
「なんだ?」
「先生の護衛をしていたんじゃないかと思う。――南郷の第二遊撃隊としての行動か、総和会の意向を受けてのものかはわからないが」
なんとなく背後が気になり、和彦は振り返って後続車を確認する。もちろん見たところで、尾行がついているか、それはどの車なのか判別はつかないのだが。
シートに座り直して、大きく深呼吸を繰り返す。胸に広がる嫌な気持ちを半ば強引に切り替えていた。南郷の行動はわからないことが多すぎて、腹を立てたところで、当の南郷は痛痒を感じない。だったら、今一緒にいる男に気持ちを優先すべきだ。
「――……今日会えるなんて、聞いてなかった」
「組長から連絡が入ったんだ。先生が秦のところにいるから、迎えに行ってくれと」
「それで、気が滅入っているぼくの気晴らしをしてやれとも言われたか?」
「そこまでは……。ただ、明日まで休みをもらえたから、先生さえよかったら、一緒に過ごしたい」
生真面目な口調での誘いに、現金なもので、和彦の気持ちはいくらか和らぐ。本当に賢吾の目論見通りになっているが、すでにもう悔しさは感じなかった。
「ぼくが、嫌なんて言うわけないだろ」
ぼそぼそと和彦が応じると、三田村も囁くような声で呟く。よかった、と。
「まずは、どこかに入って昼メシを食おう。それから、先生の行きたいところに寄って――」
話しながら三田村がちらりとバックミラーを一瞥する。
「ぼくよりも、あんたのほうが落ち着かない感じだ」
和彦の指摘に、三田村は苦笑いした。
「俺と一緒にいて、先生の身に何かあったら大変だ。そういう意味では、緊張する。先生を守れるのは俺一人しかいない状況で気が抜けないのに、どうにかすると、すぐに気を抜きそうになる」
車で移動中の今ですら、三田村はピリピリしている。これでは部屋で二人きりとなったところで、寛ぐどころではないだろう。誰かがまだ見張っているのではないかと、常に気を張り詰めることになる。
余計なことをしてくれると、眉をひそめながら、ウィンドーの外を流れる景色に目を向ける。
少しの間考え込んだ和彦は、三田村にある提案をした。
和彦を軽く扱っているようだから、という誠実な理由で、三田村はホテルを使いたがらない。わざわざ逢瀬の部屋を借りてくれたのも、そのためだ。
だから今回は、あくまで緊急避難だ――。
窓に歩み寄った和彦は、首筋を流れ落ちる水滴をタオルで拭いながら、夕闇に包まれかけている街並みを見下ろす。闇が濃くなっていくに従い、街そのもののまばゆさは増していくのだろう。実際、渋滞した道路は車のライトで溢れ、どのビルも明かりがついている。
本当であればいまごろ、静かな住宅街の中にあるマンションの一室で、三田村とひっそりと過ごしているはずだったのだが、予定は狂ってしまった。
現在、二人がいるのはシティホテルの一室だ。南郷がつけたかもしれない尾行を引き連れて、特別な部屋に戻りたくなかったのだ。何より、三田村に余計な緊張を強いたくなかった。多くの人が滞在している場所であれば、自分たちに向けられる注意がそれだけ逸れる――という錯覚は得られる。
闇に覆われる寸前の、独特の色合いを帯びた街をもっと眺めていたい気もするが、三田村がシャワールームから出てきたため、カーテンを引く。
「三田村、ビールでいいか? なんなら、ルームサービスを頼んでおくか。いや、夜食を食べたくなったときにするか……」
冷蔵庫と電話の間を落ち着きなく行き来する和彦を見て、三田村が表情を和らげる。どうやら、ホテルに一泊するという選択は、間違っていなかったようだ。
「なんだか楽しそうだ、先生」
三田村の言葉に、照れ臭さと申し訳なさを同時に感じながら、和彦は答える。
「新鮮だと思って。あんたと、こうしてホテルに泊まるの。いつもの部屋だと、自分の部屋だというぐらい、すぐに寛げるけど、こういう場所だと勝手が違うからこそ、テンションが高くなるというか――」
「よかった。先生を怯えさせてしまったら、どうしようかと思ってたんだ」
「あんたが一緒にいてくれるのに、どうしてぼくが怯えるんだ」
三田村の笑みが深くなる。和彦もちらりと笑い返すと、ベッドに上がり、傍らをポンポンと叩く。和彦の意図を察した三田村も、ベッドに上がった。
二人並んで横になると、当然のように三田村が腕を伸ばし、遠慮なく和彦は頭をのせる。バスローブに包まれた体を寄せ合ってやっと、人心地がついた気がした。
タイミングをうかがうように沈黙が続いたが、ようやく三田村がこう切り出した。
「――……お兄さんに会うと聞いた」
和彦はわずかに身じろいでから、頷く。
「覚悟を決めた。会って話して、今後関わるつもりはないと、はっきりと言うつもりだ。もともと、家族としての関係は希薄だったんだ。なのに今になって、一方的な事情の変化に振り回されたくない」
「俺たちも、先生を振り回し続けているだけに、意見は言いにくいな……」
「でも、あんたたちは、ぼくを大事にしてくれている。ぼくもそれを、心地いいと思っている。だから、そういう言い方はしないでくれ」
話しながら和彦は、三田村の胸元を片手で撫でる。一方の三田村は、濡れた髪を優しく指で梳いてくれる。
「正直俺には、想像もできないんだ。先生の家は、代々官僚を輩出している名門で、両親も揃っていて、もちろん金にも不自由しない。先生自身、いい学校を出て、医者になっている。世間から見たら、親の期待を裏切らない息子の一人のはずだ。そんな先生が、佐伯家の中で……素っ気なく扱われている理由が」
「……珍しくもないだろ。長男は大事な跡取り。次男は、それ以外の存在。だからぼくは、兄さんと同じ道に進むことは許されなかった。ぼくと兄さんは、徹底的に違うんだ」
「それが今になって、先生を必要だと言い出した……」
「利用価値があるらしい。多分、そう判断したのは――父さんだ」
「先生の、父親……」
三田村の物言いたげな雰囲気が伝わってくる。しかし、それを実際に言葉として発しないところに、三田村の優しさを感じる。
その優しさに報いるため、和彦は言葉を選びながら話す。
「佐伯俊哉。ぼくのことを調べたときに、父さんのことも調べたんだろう。大物官僚で、怖いぐらいの切れ者だ。子飼いの官僚が何人もいて、一大派閥を作り上げて、政治家に対しても影響力がある。傲慢で野心家、氷のように冷たい。でも――」
「でも?」
「ものすごく、ハンサムなんだ。家柄も仕事にも恵まれていて、そのうえ外見もとなると、女性が放っておかない。父さんの傲慢さや冷たさは、女性にとっては魅力的らしい。自分は結婚していて、子供がいようが関係ない。気に入った相手と関係を持つ。堅いイメージに守られた佐伯俊哉の本質は――奔放さだ」
守光から、俊哉の女性関係の処理について聞かされたとき、驚きはしたものの、その内容をすぐに信用したのは、このためだ。和彦は、父親の実像を嫌というほど把握している。
「……見た目はまったく似てないけど、ぼくと父さんは、こういう部分でよく似ている。性的な禁忌に対する感覚が、きっと壊れているんだ」
三田村に肩先を撫でられたあと、ぐっと掴まれる。驚いた和彦が顔を上げると、三田村は厳しい表情でこう言った。
「壊れているなんて、言わないでくれ。俺はずっと、先生の愛情深さに心地よさを感じている。先生の本質も奔放さだというなら、俺はその奔放さが、愛しくてたまらない」
和彦は瞬きも忘れて三田村の顔を凝視してから、小さく声を洩らして笑う。
「すごい口説き文句だ」
「そんなつもりはないが……、でも、本心だ」
笑みを消した和彦は、三田村の頬を撫で、あごにうっすらと残る傷跡を指先でなぞる。何かが刺激されたように三田村がゆっくりと動き、和彦の体はベッドに押し付けられた。
きつく抱き締められ、その感触に意識が舞い上がるほどの心地よさを覚えながら、和彦は両腕を三田村の背に回す。
「あんたのことも聞きたい」
「俺のこと?」
「あんたの父親のこと」
三田村は一瞬痛みを感じたような顔をしてから、苦々しい口調で言った。
「俺の父親は……、わざわざ先生に話して聞かす価値もない、ロクでもない奴だ」
「確か、このあごの傷を――」
「そういえば、先生に話したことがあったな。俺のあごの傷跡は、親父がつけたものだ。気に食わないことがあればすぐに暴れて、刃物を振り回すこともあった。よく、殴られたり、蹴られたりしたものだ」
「泣いたか?」
和彦の問いかけに、三田村が笑みをこぼす。その笑みに誘われて、三田村の頭を引き寄せた和彦は、そっと唇を吸ってやり、いつものようにあごの傷跡に舌先を這わせる。三田村が荒い息を吐き出した。
「……泣けなかった。こんなクソ野郎の前で、意地でも弱みを見せるもんかと思ったんだ」
「強いな。ぼくは……体の痛みには慣れない。体を痛めつけられると、心が折れる。痛いのは、嫌いだ」
「先生を痛めつけるような奴がいたのか?」
三田村の声が怖い響きを帯びる。和彦は曖昧な表情で返し、三田村が羽織っているバスローブの紐を解く。すぐに、バスローブの下に手を忍び込ませ、直に三田村の体に触れた。
「あんたの父親は、仕事は何をしてたんだ?」
自分の質問がはぐらかされたことに三田村は戸惑いを見せたが、優しい男は和彦を問い詰めるようなマネはしない。
「親から継いだ小さな工場を経営していたが、さっぱり才覚がなくて、潰しちまった。それからは、いろいろ手を出しては失敗して、どんどん落ちぶれていった。その鬱憤を、俺相手に晴らしていた――」
虎の刺青を撫で始めると、三田村が唇を引き結ぶ。そして、まるで和彦に甘えるように頬ずりをしてきた。
「昔のことを話すとどうしても、自分の荒みっぷりを自覚して、うんざりするんだ……。俺は何も持ってない、誰にも期待もされないつまらない人間で、いままでもこれからも、そうあり続けるんだと。それが嫌で、他人に話すこともなくなっていた」
「ぼくが、心の傷を抉ったか?」
「いや。不思議だな。先生が相手だと、荒むどころか、癒される」
「若頭補佐は、ぼくに甘すぎる」
和彦が声を洩らして笑うと、三田村に唇を塞がれる。余裕ない動きで片手が足の間に差し込まれ、敏感なものを握り締められる。洩らした声はすべて三田村に吸い取られた。
性急な愛撫を与えられ、腰を揺らしながら和彦は、自分の官能の高まりを知らせるように、三田村の背を忙しくまさぐる。すでに荒ぶっている虎を駆り立てるのは、実に簡単だった。
指を唾液で濡らした三田村が、内奥の入り口を簡単に湿らせてから、高ぶった欲望の先端を擦りつけてくる。和彦は自ら両足を大きく左右に開き、愛しい〈オトコ〉を受け入れる態勢を取った。
「すまない、先生っ……」
言葉とともに、三田村がぐっと腰を進める。頑なな内奥の入り口を強引に押し開かれ、欲望の太い部分を呑み込まされる。さすがに痛みに眉をひそめると、三田村にそっと唇を吸われ、掠れた声で言われた。
「俺が、先生を痛めつけているな」
和彦は、三田村の肩からバスローブを落とし、逞しい腕を撫で上げる。三田村の筋肉が一気に緊張したのが、てのひらから伝わってきた。
「違うだろ。あんたは痛めつけているんじゃない。愛してくれているんだ」
「……先生のほうこそ、俺に甘すぎる」
三田村と唇と舌を吸い合いながら、さらに腰を密着させる。三田村は慎重に、しかし確実に和彦の内奥を押し開き、熱い欲望を埋め込んでくる。痛みと、その痛みすら心地よさに変えてしまう興奮に、和彦は息を喘がせる。
中途半端な愛撫を与えられただけの自分の欲望に片手を伸ばし、三田村の動きに合わせて扱く。意識せずとも内奥がきつく収縮していた。
「いやらしいな、先生」
耳元で三田村に囁かれ、その声の響きだけで全身が痺れる。さらに、ようやく根元まで埋め込まれた欲望に内奥深くを突き上げられて、痺れた全身に快美さが行き渡る。
上体を起こした三田村に緩やかに律動を繰り返されながら、すっかり乱れたバスローブを脱がされた。触れられないまま硬く凝った胸の突起をてのひらで転がされ、反り返って先端を濡らした欲望を軽く扱かれてから、柔らかな膨らみを優しく揉み込まれる。
「うっ、うあっ――……」
傷ついていないか確かめるように、繋がっている部分を指で擦り上げられたときには、和彦はビクビクと間欠的に体を震わせる。
再び覆い被さってきた三田村に、焦らすように胸の突起を舌先で弄られ、そっと吸われる。和彦は夢中で三田村の背に両腕を回し、この男が本来持つ激しさを求める。
「三田、村、もっと……、もっと強くっ……」
上目遣いで和彦を見上げてきた三田村の両目に、狂おしい情欲の火が点る。次の瞬間、三田村の背に回していた両腕を乱暴に振り解かれていた。内奥からは欲望が一気に引き抜かれ、呻き声を洩らしたときには、和彦の体はうつ伏せにされ、高々と腰を抱え上げられた。
「くっ、うぅっ」
ひくつく内奥の入り口を、熱く硬い感触にこじ開けられる。背後から三田村に犯されていた。
尻の肉を鷲掴まれ、強く内奥を突き上げられる。和彦は体を激しく前後に揺さぶられながら、必死にシーツを握り締め、三田村の肉の感触をしっかりと味わう。
「あっ、あっ、あっ……ぅ、うっ、あうっ」
三田村の律動に合わせて、和彦も腰を動かす。獣のように浅ましい行為だが、三田村に見られているというだけで、羞恥は高揚感に変わる。和彦の痴態に誘われたように、三田村からこう求められた。
「――先生、さっきみたいに、自分で慰めてみてくれ」
和彦を促すように、背後から大きく内奥を突き上げられ、奥深くを丹念に掻き回される。喉を鳴らした和彦は、おずおずと片手を自分の下肢へと伸ばす。両足の間で震える和彦の欲望は、もう愛撫を必要としないほど、熱く硬くなり、反り返って濡れそぼっている。
本当は三田村に触れてもらいたいと思いながら、ゆっくりと上下に扱く。同時に、内奥で蠢く三田村の欲望をきつく締め付けていた。
三田村が深く息を吐き出し、和彦の腰から背へとてのひらを這わせてくる。
「別荘で過ごして以来、よく夢を見るんだ。中嶋を犯している先生を、こうして後ろから犯している光景を。夢なのに、ひどく興奮して、感じるんだ」
三田村の欲望が、内奥から引き抜かれていく。発情しきった襞と粘膜を強く擦り上げられ、和彦は感極まった声を上げて反応してしまう。自ら愛撫する必要もなく絶頂を迎え、シーツに向けて精を飛び散らせていた。その瞬間を待っていたように、再び三田村の欲望が内奥深くに押し入り、重々しく突き上げられる。
「んあぁっ――」
衝撃に、ふっと意識が遠のきかけるが、三田村に腰を揺すられて我に返る。和彦は無意識のうちに、腰に回された三田村の腕に、爪を食い込ませていた。痛みすら心地いいのか、内奥でますます三田村の欲望が膨らむ。
「あっ、う……。い、い――。三田村、気持ちいぃっ……」
「〈男〉なのに、〈オンナ〉でもある先生の姿が、目に焼きついている。どうしようもなく淫らでふしだらで、魅力的だった。自惚れるなと言われるかもしれないが、俺は、先生の奔放さと、相性がいい。……いや、どんな先生でも、たまらなく愛しい」
惑乱した意識のせいで、三田村の言葉が耳に入りはするものの、頭が意味を理解しようとしない。だが、必死に言葉を紡いでくれているのだということは、わかる。なんといっても、体を繋ぎ合っているのだ。
「もう、先生のいない世界は、考えられない。だから、俺の前からいなくならないでくれ。例え俺を遠ざける瞬間が訪れたとしても。この世界の怖い男たちに囚われたままでいてくれ。そうすれば、俺はいつでも、先生の存在を感じていられる。それだけでも、十分幸せだ」
和彦は短く悲鳴を上げ、腰を震わせる。内奥深くに、三田村の熱い精を注ぎ込まれたからだ。これは、惜しみなく与えられる三田村の〈情〉そのものだ。
繋がりを解かれて、和彦の体は再び仰向けにされる。のしかかってきた三田村が、まだ硬さを保った欲望を内奥にねじ込んでくる。和彦は悦びの声を上げて受け入れ、包み込む。
顔を覗き込んでくる三田村の頬を撫で、そっと笑いかける。
「普段優しいくせに、いざとなると、あんたは怖い」
三田村に、噛み付くような激しい口づけを与えられた。
「……先生が、あんなに怯えていた相手に会うと聞いて、嫌な予感がした。連れ戻されて、こっちの世界にもう二度と戻ってこないんじゃないかと……」
体の内と外で感じる三田村の存在が心地よくて、和彦は吐息をこぼす。ふいに、中嶋に言われた言葉を思い出していた。
三田村は、失わないために鬼になれる男だ、と。
三田村の背の虎を撫でながら、和彦は応じた。
「――……ここにいたいから、会うんだ。ここはもう、ぼくが戻ってくる世界になったんだ」
返事の代わりに三田村がくれたのは、安堵の吐息だった。
Copyright(C) 2013 Tomo Kitagawa All rights reserved.
無断転載・盗用・引用・配布を固くお断りします。