と束縛と


- 第28話(3) -


 ベンチに横になった和彦は、ゆっくりと息を吐き出しながらバーベルを挙げる。上半身の筋肉が引き締まり、重さが刺激となって行き渡る。次に、今度は息を吸い込みながら、バーベルを下ろしていく。
 そんなに重いバーベルを使っているわけではないが、一連の動作を時間をかけて数回繰り返していくと、全身から汗が噴き出してきて、Tシャツをぐっしょりと濡らす。
 集中力のすべてを、筋肉の動きへと向けていた和彦だが、ふとした拍子に、足元付近に誰かが立っていることに気づく。トレーナーが様子を見てくれているのだろうかと思ったが、そうであれば、遠慮なく声をかけてくるはずだと思い直す。
 一度気になってしまうと無視するのは難しく、大きく息を吐き出してから和彦は、ラックにバーベルをかける。すぐには上体が起こせず、呼吸を整えていると、親しげに声をかけられた。
「手を貸しましょうか、先生」
 その一声で、誰かわかった。和彦は口元を緩めると、遠慮なく片手を伸ばす。すかさず手を掴まれ、体を引っ張り起こされた。差し出されたタオルを受け取り、ひとまず滴る汗を拭いてから和彦は口を開く。
「タイミングがいいな。今日は、連絡をしなかったのに」
「先生と俺の仲ですからね。なんでもお見通しです」
 中嶋にニヤリと笑いかけられ、和彦は微妙な表情で返す。ただの友人同士であれば冗談として成り立つのだが、残念ながら和彦と中嶋の仲は、そうではない。
「先生、ここは笑ってくれないと。冗談ですよ」
「わかってはいるが、反応に困る冗談を言わないでくれ……」
 話しながら、休憩用のスペースへと移動する。イスに腰掛けた和彦は、汗で濡れた髪先を拭いながら、隣に座った中嶋の様子をうかがう。ジムを訪れ、すぐに和彦のもとにやってきたのだろう。まったく汗をかいていない。
 予定が狂ったと、思わず心の中でぼやく。
 こうして中嶋に声をかけられると、じゃあこれでと、トレーニングに戻るわけにもいかない。和彦はため息交じりに問いかけた。
「――何か目的があって、ジムにやってきたのか?」
 和彦の声から、警戒の響きを感じ取ったのだろう。中嶋は悪びれることなく、ニヤリと笑った。普通の青年の顔の下から、したたかな素顔が覗く。
「もちろん、先生のご機嫌うかがいに」
「……そういう冗談はいいから」
「では、正確に言い直しましょう。ジム内での先生の護衛を、仰せつかりました。先生を大切に思っている〈方々〉から」
 やっぱり、と和彦が露骨に顔をしかめて見せると、中嶋は軽く肩をすくめる。
「そんな顔しないでください。普段だって、俺は先生と一緒にいるときは、遊び相手としてだけではなく、護衛も兼ねているわけですから。何も変わりませんよ」
「周囲の環境が、普段と変わっているから、こういう顔になるんだ。……息が詰まる」
 最後の一言は聞き取れなかったらしく、中嶋が首を傾げる。なんでもないと応じた和彦は、口元をタオルで隠しつつ、慎重に辺りを見回していた。中嶋の他に護衛がつけられているのではないかと、つい疑心暗鬼になってしまう。
 中嶋にも言ったが、そうなってしまうぐらいには、和彦を取り巻く環境は変化した。
 英俊に会おうと決心してから、里見を介して、いつ会うかといった具体的な予定のすり合わせを行い、当然それらの内容すべてを賢吾に報告してきた。そして賢吾は、守光に。
 その結果、何が起こったかというと、長嶺組だけではなく、総和会からの護衛もつくようになったのだ。三田村と一緒に過ごしたときに、監視されていることは初めて知ったが、和彦が警戒したことで方針は変わったらしい。〈監視〉から〈護衛〉へと。
 この展開には、男たちの突飛な行動に慣れたつもりの和彦でも、さすがに困惑した。どういう理由からの護衛なのか、まず見当がつかなかったせいだ。
 万が一にも、佐伯家が和彦の居場所を探り当て、接触してくる恐れがあるため――と総和会から賢吾に説明はあったようだが、それも釈然としない。佐伯家がどんな家なのか、守光はとっくに知っており、必要性を感じていれば、もっと早くに和彦に護衛をつけていたはずだ。
 ここ数日、和彦が乗った長嶺組の車の後ろを、ぴったりと総和会の車がついてくる状況が続いている。護衛というより、まるで存在を誇示しているようだと、正直和彦は感じている。長嶺組の組員たちも、口には出さないものの、不快さや不満を抱いている様子だ。
 同じ車に乗って移動する長嶺組の護衛とは違い、背後から尾行してくる総和会の車は、誰が乗っているのかすら知らない。ただひたすら、和彦の背後をつけて回る。
 護衛といいながら、精神的圧迫感を与えてくるだけではないかと、毒を吐きたい気持ちをギリギリで抑え、ジムに入ってやっとほっとしたところだったのだ。
 和彦はさりげなく、中嶋の横顔を一瞥する。抜かりない、と心の中で呟いていた。
「……何も、ジムの中まで追いかけてこなくていいだろ。こんな場所で、誰が何をできるって言うんだ」
 和彦は大げさに周囲を見回す動作をする。平日の夜のジムは、仕事を終えて訪れる〈真っ当な〉勤め人たちが多いのだ。
「何より、一歩外に出れば、怖い男たちが待機している」
「先生の護衛という名目で、互いの組織が牽制し合っているようですね」
「もしかすると、嫌がらせかもしれない」
 皮肉っぽい口調で和彦が洩らすと、中嶋は不思議そうな顔をしたが、それも数秒のことだ。すぐに察したように、声を上げた。
「ああ、先日の〈あれ〉ですか」
「君の言う〈あれ〉が何を指しているのか、ぼくにはわからないんだが」
 素っ気なく言い置いて、和彦は立ち上がる。
「先生?」
「ジャグジーに入る」
「だったら、俺も」
 遠慮してくれないかと、眼差しで訴えてみたが、清々しいほどに気づかれなかった。もしかすると、わざと無視されたのかもしれないが。
 使うなと強制する権限が和彦にあるはずもなく、仕方なく、中嶋と連れ立ってジャグジーに向かった。
「――ちょっとした噂になっていますよ」
 少し待ってジャグジーに二人きりになったところで、中嶋がさらりと切り出す。全身を包む泡の心地良さにリラックスしかけていた和彦だが、慌てて我に返る。
「何がだ」
「〈あれ〉――、先生が、南郷さんを土下座させた件」
 両手で髪を掻き上げた中嶋が、流し目を寄越してくる。濡れ髪のせいもあって妙に艶やかに見えるが、同時に、中嶋の中に息づく鋭さも垣間見える。和彦から何かしらの情報を引き出そうとしているのだ。
 和彦はうんざりしながら応じた。
「どうせ、理不尽な理由で南郷さんに土下座をさせたとか、そんな話になっているんだろ……」
「総和会の人間は、興味津々ですよ。南郷さんは、会長の顔を立てて頭を下げたんだろうけど、先生の後ろにいる、長嶺組長の圧力に屈したというのもあるんじゃないかと言われてますが、純粋に、先生の機嫌取りのためじゃないか、と言っている人間もいます」
 中嶋の話を聞きながら和彦は、バーベルを持ち上げて疲労している腕を、ゆっくりと動かす。何かしていないと、感情が素直に顔に出てしまいそうなのだ。
「南郷さんがウソをついて先生を連れ出した件は、俺もちょっとヤバイかなとは思ったんですが、まさか、ここまで大事になるとは、正直予想外でしたよ。――先生の発想じゃないですよね。手打ちとして、相手に土下座を求めるのって」
「当たり前だ。……ああでもしないと、影響が少ない形でケリがつかなかったんだ。ぼくがいいと言ったところで、それで納得しない男たちがいた」
「大物たちの寵愛を受けるのも、大変そうですね」
「……君、おもしろがってるだろ」
 返事のつもりか、中嶋はニヤリと笑う。それに和彦は、ため息で返した。
「変わり種の君はともかく、第二遊撃隊の中はどうだ? 気が立っている人間がいるんじゃないか。自分たちのリーダーが、よりによってぼくなんかに土下座したんだから」
「うちの隊は、南郷さんがすべて、というところですから。南郷さんが納得して頭を下げたのなら、自分たちが気分を害することすら、おこがましい――」
「なんだか……、狂信じみてるな」
「率直な意見ですね。南郷さんは、ただ会長の権力を傘に着て、総和会の中で地位を固めてきたわけじゃない。スマートさから程遠い外見と言動をしてますが、だからこそ、泥臭い生き方をしてきた人間には好かれる。いや、崇拝されると言ったほうがいいかな」
 中嶋は言外に、自分は崇拝しているわけではないと言っているようだ。恵まれた外見を活かしてホストをしていた青年は、ヤクザになって借金を背負ったりと災難に見舞われはしたものの、早いうちに組の中で頭角を現し、推薦されて総和会に入った。そして、さらなる野心を満たすために、南郷が率いる第二遊撃隊に入ったのだ。
 本人が口にしないだけで、さまざまな苦労はあっただろうが、それでも、少なくとも泥臭い生き方とは縁遠かったはずだ。つまり客観的に、そして冷静に、南郷を見られる男だ。
 和彦がじっと見つめると、視線に気づいた中嶋に言われた。
「先生は、この世界の誰よりも、泥臭い生き方とは対極にいる人ですよね。そんな先生が、南郷さんをどんなふうに見ているのか、気になる――と聞くまでもないですね。先生は、南郷さんが苦手でしょう。いろいろとあったようですし」
 中嶋から意味ありげな視線を投げかけられたが、和彦は露骨に無視する。タイミングよく、数人のグループがジャグジーにやってきたため、入れ替わる形で和彦は立ち上がる。あとを追うように中嶋もジャグジーを出ようとしたので、すかさず和彦はこう言った。
「せっかく筋肉が解れたんだから、そのままプールで泳いできたらどうだ。ぼくはもう、たっぷり体を動かしたから、先に帰るけど」
 更衣室までついて来るなという和彦の牽制がわかったらしく、中嶋は苦笑を浮かべる。
「俺が、先生の一人の時間を邪魔したから、怒ってますね」
「ぼくが怒っていると言ったところで、君は怖くもなんともないだろ」
「いえいえ。先生に嫌われたらどうしようかと、内心ドキドキしてますよ」
「――……本当に、秦に口ぶりが似てきたな」
 そう言って和彦は軽く手をあげると、更衣室に向かう。さすがの中嶋も、今度ばかりは追いかけてはこなかった。


 ジムを出た和彦は、湿気を含んだ風に頬を撫でられ、思わず空を見上げる。闇に覆われているせいばかりではなく、厚い雲も出ているのか、星はおろか、月の姿すら見ることができない。
 そろそろ梅雨入りだろうかと、その時季特有の鬱陶しさを想像してため息をつく。それをきっかけに、一時遠ざけていた現実が肩にのしかかってきた。オーバーワーク気味に体を動かして気分転換をしたところで、抱えた状況は何も変わっていないのだ。
 もう一度ため息をついて、ジムの駐車場がある方向を一瞥する。待機している長嶺組の車に乗り込むと、当然のように、総和会の車も背後からついてくるのだろう。さきほど中嶋と話した内容もあって、心底うんざりしてくる。
 少しの間、一人で外の空気を堪能しようかと、間が差したようにそんなことを考える。魅力的な企みではあったが、数十秒ほどその場に立ち尽くしていた和彦は、結局、駐車場に向かっていた。長嶺組の男たちに迷惑をかけるのは、本意ではない。
 和彦が駐車場に入ってすぐに、待機していた長嶺組の組員の一人が車から降り、出迎えてくれる。総和会の車は、駐車場の外に停まっていた。
「――……気分転換をして外に出てきた途端に、もう気分が塞ぎ込みそうだ……」
 バッグを手渡しながらの和彦のぼやきを聞いて、組員は苦笑を洩らす。立場上、素直に賛同するわけにはいかないのだろう。
「帰りは、個室のある店で夕食にしますか?」
「あー、どうしようかな。どこでもいいから、手っ取り早く済ませたい気持ちも――」
 ここで和彦の携帯電話が鳴る。表示された名を見て、思わず複雑な反応を示していた。電話は、鷹津からだった。
 気疲れがさらに蓄積されそうで、一瞬無視したい衝動に駆られたが、先日、自分が鷹津に頼んだことを思い出し、断念した。
『今、どこにいる』
 開口一番の鷹津の不躾な問いかけに、いまさらムッとしたりはしない。
「……ジムを出たところだ。これから食事をして帰ろうかと思っていた」
『ちょうどよかった。俺もメシはまだだ』
「だから?」
『仕方ねーから、奢ってやる』
「今のやり取りで、どうしてあんたと、顔を突き合わせて食事することになるんだ」
 イライラとして口調を荒らげたところで、さらりと鷹津が言った。
『お前の実家について、おもしろい話を仕入れた』
 鼓膜に注ぎ込まれた言葉が、毒を含んだ好奇心となって体に行き渡る。
 鷹津の発言を疑ったりはしない。この男はよくも悪くも、和彦が与える〈餌〉への欲望に正直だ。一度のウソで和彦の信頼を失うような愚かなマネはしない。
「わかった。――どうすればいいんだ」
 鷹津の指示を受けてから、電話を切る。車に乗り込んだ和彦はさっそく、これから鷹津と会うことと、指示の内容を告げる。そして、総和会の車を引き連れて行きたくないとも話すと、和彦の真意を正確に汲み取ってくれたらしい。ハンドルを握った組員が、どこか楽しげな様子でこう答えた。
「そういうことなら、任せてください。この時間帯、どこも道は混んでますからね。やむをえず、前を走る車を見失うこともあるでしょう。連中は、勝手にうちの車について回っているだけで、こっちは、仲良く連れ立って走れと指示を受けているわけじゃないですから」
 予想外の展開になってきたと思いながら和彦は、慌ててシートベルトを締める。ただ、数分前まで塞ぎ込みそうだった気分は、いくらか持ち直していた。
 もちろん、鷹津のおかげだと言うつもりはなく――。
 長嶺組の車は、ジムの駐車場を出た瞬間から、本気で総和会の車を撒きにかかる。普段とは比較にならない乱暴な運転で車の列に割って入り、それを繰り返して裏道に入ったかと思うと、スピードを上げる。
 和彦は後部座席のシートで身を固くしていたが、助手席に座る組員は平然と、携帯電話で誰かと連絡を取り合っていた。
 おそるおそる背後を振り返ると、この数日で見慣れてしまった総和会の車はついてきていない。
「相手もムキになって追いかけてはこなかったようですね」
「……まあ、向こうにしても、本気で誰かがぼくに接触するとは思ってないんだろう。あくまで、ぼくに見せ付けるのが目的だったんじゃないか」
 そんな会話を交わしているうちに、鷹津に指定された場所に到着する。飲み屋の多い一角で、人だけではなく、タクシーで混雑している。路地に入り込むと、抜け出すのに苦労しそうだと思い、和彦だけ車を降りる。
「帰りは鷹津に送らせるから、今日はもうぼくについてなくていい。あと、車を撒いたことで何か言われたら、ぼくの指示だったと言ってくれ」
「大丈夫ですよ。先生はご心配なく」
 その言葉に送られて和彦は、にぎわう路地へと入る。鷹津には、とにかく路地を歩いていろと言われたのだが、その意味はすぐにわかった。
「――今夜は、誰も連れてないのか」
 前触れもなく、背後から声をかけられる。聞き覚えのある声に振り返ると、黒のソリッドシャツにジーンズという定番の格好をした鷹津がいた。いつの間に、と和彦は目を丸くする。すると鷹津は、ニヤリと笑った。
「お前を誘拐するのは、簡単そうだな。護衛がついてなかったら、無防備そのものだ」
「……仮にも刑事が、物騒なことを言うな。それより、実家の話って?」
 和彦の問いかけは、あっさり無視された。先に歩き始めた鷹津の背を睨みつけた和彦だが、往来で問い詰めるわけにもいかず、仕方なくあとを追いかける。
 鷹津は人気のない細い路地へと入り、その突き当たりにあるこじんまりとした古い店の前で立ち止まる
「ここだ」
 素っ気なく言って鷹津は店に入り、ため息をついて和彦もあとに続く。
 店に一歩足を踏み入れると、なんとも食欲をそそる匂いが鼻先を掠めた。あちこちのテーブルから煙が立ち上り、そこに、肉の焼ける音も加わり、反射的に和彦の腹が鳴る。肉が食べたいと自覚はしていなかったが、こうして店に連れてこられると、肉以外の選択肢はなかったように思える。
 店の奥のテーブルについた鷹津は、油で汚れた壁にかかったメニューを見上げ、何品か注文する。最後に和彦が、冷たい緑茶を付け加えた。
「あんたいつも、こういう店で食事しているのか?」
 他のテーブルが楽しげに食事をしている中、鷹津と向き合って沈黙していると間がもたないため、和彦は他愛ない疑問をぶつける。鷹津の反応は鈍かった。すぐには返事をせず、ただ和彦を見つめてくるのだ。
 鷹津特有の、ドロドロとした感情の澱が透けて見える目は、なぜか妙な力強さを漲らせている。思わず鷹津の目を覗き込みたい衝動に駆られた和彦だが、今は、そちらの好奇心は抑えておく。
「……想像つかないな。あんたが、同僚と楽しく飲み食いしている姿は」
「これでも警官時代は、それなりに外面は取り繕ってたんだぜ」
「でも、その当時から、悪徳警官だったんだろ」
「なんだ。俺の過去に興味があるか?」
 和彦が言い返そうとしたところで、肉の並んだ皿が一気に運ばれてきた。
 網に次々と肉をのせていく和彦に、あくまで世間話でもするような口調で、鷹津が本題に入った。
「――お前の父親が、ある企業の創業者と頻繁に会っているそうだ。誰でも知ってる大企業ってやつだ。表向き、経営からは退いているが、影響力はいまだに絶大だ。お前の父親自身が今まさに、業界は違えど、同じような道を歩もうとしていると、俺は記憶しているんだが」
 和彦が苦虫を噛み潰した顔をしてみせると、満足したように頷き、鷹津は話を続ける。
「官庁の中だけのお山の大将というタイプじゃないようだな。お前の父親は。調べれば調べるほど、驚くような人脈と繋がっていく」
「どちらかと言うと、人脈を求める人間が、父と繋がりたがるんだ。……そうなるよう、いろいろと動いてはいるだろうけど」
 焼けた肉を、鷹津が和彦の皿に放り込んでくる。子供ではないのだからと、つい淡い苦笑を洩らした和彦だが、素直に肉を口に運ぶ。
「で、それのどこがおもしろい話なんだ。父の身近にいる人間なら、誰でも知っていることだ」
「そう慌てるな。俺がおもしろいと思ったのは、ここからだ。――その創業者に、二十代後半の孫娘がいる。お嬢様大学を出たあとに、海外留学を経て、祖父が創った企業に入社。今は重役秘書をしている。で、その娘が、花嫁修業目的のお嬢様に人気の教室に通い始めた。これまでも、家の勧めで何度か見合いをしている娘だが、いよいよ祖父の眼鏡に適う男が現れたか、と噂になっているそうだ」
 ここまで聞いて、さすがに和彦も察するものがあった。眉をひそめて黙り込むと、何事もなかった様子で鷹津は金網に肉をのせていく。このとき和彦の視線は吸い寄せられるように、肉を焼く鷹津の右手に吸い寄せられていた。シャツの袖からわずかに、まだ生々しい傷跡が覗いているのだ。
「――お前の考えは?」
 鷹津に声をかけられ、ハッとする。
「それだけじゃ、なんとも……。なんでもない二つの事実を、強引に関連付けているとも取れる」
「今、お前が言ったんだろ。人脈を求める人間が、お前の父親と繋がりたがると。名門の佐伯家というだけでなく、佐伯家にいる独身息子個人も、かなりの価値があるしな。職業的に隙がなく、見た目も、申し分がない。結婚するとなると、高く売れそうだ」
 露骨な表現に顔をしかめた和彦だが、否定の言葉は出なかった。あり得ないと断言できるほど、和彦は今の佐伯家の内情を知らない。つまり、あり得る話でもあるのだ。
「……別世界の話を聞いているようだ。ぼくが家にいるときは、兄の結婚話なんて出たこともなかったから。そうか。もうとっくに、そういう歳なんだな……」
 仲が悪いという以上に、殺伐とした兄弟関係であるため、和彦は兄である英俊の私生活に立ち入ることはおろか、あれこれと想像を巡らせることすら避けてきた。ここにきて、他人の口から思いがけないことを聞かされ、戸惑うしかない。
 鷹津は、そんな和彦を興味深そうに見ていた。口元がわずかに緩んでいることに気づき、きつい眼差しを向ける。
「変な顔をするな」
「いや、途方に暮れたようなお前が、おもしろくてな。そうか、そんなに意外な話なのか」
「あくまで、ぼくの感覚だ」
「この件、もっと突っ込んで調べてやろうか?」
 和彦が返事をためらう間、鷹津は淡々と肉を食べていた。その姿を眺めながらなんとなく、普段からこんな感じで、この店で一人で食事をしているのだろうかと、想像してしまう。それとも、誰かと悪だくみの相談をしながら――。
「――……動くのは、少し待ってほしい。ぼくが実家のことを嗅ぎまわっていると知ったら、どんな報復に出るかわからない」
「報復とは、どういう意味だ?」
 ここで和彦の携帯電話が鳴る。慌てて箸を置いた和彦は、護衛の組員からのメールであることを確認すると、鷹津と会えた旨を手短に返信する。そんな和彦を眺めながら、鷹津は鼻先で笑った。
「相変わらず長嶺組は、組長のオンナに対して過保護だな」
「今は特別だっ。……この数日、長嶺組の護衛だけじゃなく、総和会の人間も、ぼくについて回っているんだ」
 こう告げた瞬間、鷹津の眼差しが鋭さを帯びる。この変化を目の当たりにすると、普段の言動にどれだけ難があろうが、この男は〈有能〉な刑事なのだと理屈抜きで実感させられる。
「俺の知らないうちに、いろいろあったようだな」
「……いろいろは、ない。ただぼくが、兄と会うことにしただけだ。それは、知人――里見さんを通じて兄に知らせてあって、組長の許可も取ってある。もう、会う場所も日時も決めた。そして、なぜか総和会が動いて、ぼくの護衛が増えた」
「迷惑だと、言いたげな顔だな」
 和彦は何も言わず、ただ顔をしかめて返す。短く声を洩らして笑った鷹津は、焼けた肉をまた和彦の皿に放り込んできた。
 鷹津がさらに肉を網にのせようとしたので、負けじと和彦は野菜をのせる。
「肉ばかり焼くな。野菜も食べろ」
「うるせーな。好きに食わせろ」
「ああ。あんたが不摂生でどうなろうが、ぼくは知ったことじゃないけどな」
 忌々しげに唇を曲げた鷹津だが、器に盛られたキャベツをこれみよがしに生で食べ始める。
「大人げがないな、あんた……」
「お前は口うるさい」
 お互い皮肉を交わしながらも、肉は文句なしに美味しいし、野菜も新鮮なため、食は進む。楽しい内容とは言いがたいが、会話も弾んでいるからだろうか――と、ふと考え、そんな自分自身に驚き、和彦は頭の中で打ち消す。
 すると、唐突に鷹津が切り出した。
「さっきの話だが――」
「えっ?」
「お前は、結婚話が持ち上がるとすれば兄貴のほうだと思い込んでいるが、俺は違う。いままで、お前に無関心だった実家が、接触を持とうとしてくるんだろ。息子を心配する親心じゃないとしたら、あとは打算だ。大事な長男は手元に残して、次男のほうを婿として差し出すなんてことも、可能性としてあるんじゃないか」
 まるで、爆弾を放り投げられたようだった。呆気に取られた和彦を一瞥して、鷹津は意地の悪い笑みを浮かべる。
「薄情な家族と生活してきて、今は物騒な男たちに囲まれているくせに、変な部分でお前はスレてないな。それとも俺が、悪辣なだけなのか」
 少しの間、ぼうっとしていた和彦だが、その間も、鷹津が次々に皿に肉を放り込んでくるので、仕方なく食事を再開する。
「……あんた本当に、嫌な男だな」
 ぼそりと毒づいた和彦は、網の上で焦げかけた肉を摘み上げ、鷹津の皿に放り込む。一瞬動きを止めた鷹津だが、文句も言わずその肉を食べた。
「お前がひょこひょこと兄貴に会いに出かけて、あっさり連れ戻されても困るからな。こういう話を聞いておけば、多少は警戒心も芽生えるだろ」
「警戒はしているっ。……ただ本当に、いろいろと予想外で、頭が追いつかない……」
「だが、お前は受け入れる。これまでのとんでもない状況だって、結局受け入れているだろ。お前は自分が思っているより図太くて、したたかだ。俺程度の悪辣さなんて、可愛く思えるぐらいな」
 貶されているようで、それだけとも言い切れない。ある考えがふっと和彦の脳裏を過ぎったが、鷹津に限ってそれはないと打ち消した。
「――……あんたの口から、『可愛い』なんて単語を聞くとは思わなかった」
「意外な単語を聞けたうえに、メシまで奢ってもらえて、今夜は得したな」
「高くつきそうだ……」
 ため息交じりに和彦が洩らした言葉に、すかさず鷹津が応じた。
「当然だろ」


 フロントガラスをぽつぽつと雨粒が叩いたかと思うと、あっという間に降りが強くなる。
 助手席のシートに身を預けた和彦は、運動後に腹が満たされたうえに、雨音に鼓膜を刺激され、どんどん眠気が強くなっていくのを感じていた。
 そんな和彦の様子に気づいたらしく、信号待ちで車を停めた鷹津が口を開いた。
「ヤクザの組長のオンナが、よくまあ、刑事の車に乗って寛げるもんだな」
「どうせぼくは、図太いからな……」
「なんだ。俺が言ったことを気にしてるのか」
 鷹津が低く笑い声を洩らす。不思議なもので、車全体を包む雨音に重なると、その声すら心地よく聞こえる。
「まさか。――自分でも、そう思っているしな」
 鷹津からの返事はなく、静かに車を発進させる。
 自宅マンション近くまで来たところで、和彦は内心身構えていた。鷹津がいつ、〈餌〉を求めてくるかと思ったからだ。焼肉店では思わせぶりなことを口にしたが、それだけだ。今のところ、執拗に求めてくる素振りはない。
 何か企んでいるのだろうかと、鷹津という男のことを知っているだけに勘繰りたくもなるが、さすがに本人に問い詰めたりはしない。そこまですると、恥知らずな自惚れだ。
 マンション前で車が停まると、不自然な沈黙が流れる。ぎこちなくシートベルトを外したところで和彦は、鷹津が前方に鋭い眼差しを向けていることに気づいた。視線の先を辿ると、見覚えのある車が停まっていた。
「あれは……」
「――お前が言っていた、総和会の人間か?」
 和彦が頷くと、鷹津は軽く鼻を鳴らした。
「どいつもこいつも、オンナのケツを追いかけ回して、忙しいことだ」
 鷹津の皮肉にいちいち応じる気にもなれず、和彦がドアレバーに手をかけようとした瞬間、突然肩を掴まれ、強引に引き寄せられた。眼前に鷹津の顔が迫り、反射的に息を詰める。
 荒っぽい手つきで頬を撫でられたかと思うと、唇に熱い吐息がかかる。
「クソ忌々しいが、俺もその一人だな」
 間近でニッと笑いかけられ、和彦は無意識のうちに鷹津の肩を押しのけようとしたが、それを上回る力で押さえつけられた。唇に鷹津の荒々しい息遣いが触れ、痺れにも似た感覚が和彦の背筋を駆け抜ける。
 ゆっくりと唇を塞がれ、それだけで和彦は喉の奥から微かに声を洩らす。二度、三度と唇を塞いではすぐに離すということを繰り返していたが、何度目かに唇が重なっていたとき、二人が洩らした吐息も重なっていた。
 鷹津に一方的に唇を吸われ、柔らかく歯を立てられる。痛いと思ったのは錯覚で、すぐにそれが、身悶えしたくなるような心地よさだと気づく。鷹津の情欲に煽られるように、和彦も鷹津の唇を吸い返していた。
 唇を触れ合わせたまま、鷹津が言った。
「いつもなら、餌を食わせろと言いたいところだが、あいにく明日は朝から、仕事で忙しいからな。今度じっくりと味わわせてもらう。それに今は、別の肉で腹がいっぱいだ」
「……下品な言い方するな」
「ああ、お前はお上品だからな」
 鷹津を睨みつけた和彦だが、唇を舐めてきた舌を口腔に受け入れていた。熱い舌が無遠慮に動き、感じやすい粘膜を舐め回してくる。和彦は求められるまま、舌を絡め合い、唾液を交わす。
 離れた場所で待機している総和会の車が、車中での鷹津との行為を、誰に、どのように報告するかを頭の片隅で想像しながら。









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