朝は清々しい晴天だったというのに、昼が近づくにつれて急速に雲が広がり、太陽を覆い隠してしまった。金曜日の午後から雨が降り出すと言っていた天気予報は、ありがたくないことに、どうやら当たりそうだ。
ベンチに腰掛けて空を見上げていた和彦は、なんとなく気分が落ち着かなくて、所在なく髪を掻き上げる。
この空模様は、今の自分の心境そのものではないかと自嘲気味に考えてもみたが、それはあまり意味がないことに思え、すぐに意識を他へと逸らす。たとえば今、遠く離れた場所から、自分を監視――見守っている男たちのことだ。
長嶺組だけではなく、総和会からも、〈協力〉という名目で人が来ているらしい。らしい、というのは、和彦は詳しい説明を受けていないからだ。前夜に、心配しなくていいと、賢吾から連絡をもらっただけだ。
今日はマンションを出てから、長嶺組の車は使わず、念のためタクシーを乗り継いで移動した。男たちはその背後を、つかず離れずの距離感を保ちつつ、ついてきたはずだ。
待ち合わせ場所である公園をざっと見回してみるが、見知った顔はない。素人ではないうえに、最大限の警戒心を持っている男たちは、和彦程度に見つかるような身の潜め方はしないだろう。そのことに安堵していいのだろうが、そう単純ではない。さきほどから和彦は、見知らぬ世界に一人で放り出されたような心細さを覚えていた。
日ごろ、街中で不意に襲われる感覚より、さらに強烈なものだった。堅気ではなくなった自分、というものを強く認識させられるのだ。今、目の前を歩いている人たちすべてが、後ろ暗さとは無縁の生活を送っているとは限らないのに。
こう思ってしまうのは、後ろ暗さとは無縁の生活を送っている人物が、もうすぐ目の前に現れるからだ。そしてきっと、自分を面罵する。
その光景が容易に想像できて、自覚もないまま和彦は眉をひそめる。覚悟はしているのだが、だからといって平気なわけではない。
地面に視線を落とし、ぎこちなく深呼吸を繰り返していた和彦の耳に、こちらに近づいてくる硬い靴音が届く。反射的に身を強張らせているうちに、靴音は正面で止まった。
「――元気そうだな」
なんの感慨もなさそうに、淡々とした口調で話しかけられる。冷たい手で心臓を締め上げられるような感覚に、和彦は息を詰める。同時に、体も強張っていた。そんな和彦に対して苛立つでもなく、変わらない口調で英俊が続ける。
「顔をよく見せろ」
身に染み付いた条件反射と言うのだろう。和彦は言われるままに顔を上げ、久しぶりに間近な距離で兄の顔を見る。次の瞬間、視界が大きく揺れた。
「っ……」
顔の左半分に衝撃が走り、痺れる。一体何が起こったのか理解したときには、火がついたように熱くなっていた。懐かしい――というのは語弊があるかもしれないが、和彦にとっては馴染んだ感覚だ。
左頬を押さえながら、唇を歪めて英俊を見据える。英俊は、自分が撲ったというのに、撲たれた和彦よりも不快そうな顔をしていた。いつも、こうだった。和彦に痛みを与えてきながら、嘲笑うでもなく、弟を虐げるという行為に走る自分自身に嫌悪を覚えるでもなく、ただ和彦が反応を示すことが不快であると、そう英俊は表情で物語っていた。
今はそこに、衆人から注目を浴びてしまったことへの不愉快さも加わっている。しかしそれは、当然のことだろう。
エリート然として、寸分の隙なくスーツを着込んだ男が突然、ベンチに座っている男に手を上げたのだ。しかも向き合っているのは、よく似た顔立ちの者同士だ。
英俊は何事もなかったように和彦の隣に腰掛け、一瞬の騒然とした空気は辺りに霧散する。沈黙しているほんの一分ほどの間に、並んで腰掛けた兄弟に注目を向ける人はいなくなった。
「お前に対しては言いたいことがありすぎて、何から言っていいのかわからない」
ようやく英俊が口を開く。和彦は、まだ痺れている左頬を軽く撫でてから応じる。
「兄さん、仕事を抜けてきたんだろう。だったら、あまり時間はないんじゃないか」
「お前が気にすることじゃない。仕事より、〈弟〉のほうが大事だからな」
和彦が冷めた視線を向けると、それ以上に冷めた眼差しで返される。これだけのやり取りの間に、和彦は心を凍りつかせる。電話越しのやり取りですら、ひどく精神力を削り取られたのだ。英俊の前で無様に動揺したくなかった。
「……あの家で、ぼくにまだ利用価値があるなんて、知らなかった」
「自分に価値があると知って、喜んだか?」
「ぼくはそんなに健気じゃない。このまま最低限の関わりだけで放っておいてくれたらいいと、そう思っていた。実際、医者になってからは、好きにさせてもらっていた」
「その挙げ句が、あのおぞましい画像か。ずいぶんいい趣味だな」
わずかに羞恥心を刺激されたが、懸命に押し殺す。左頬が熱を帯びてきているせいで、顔が熱くなったのかどうかすらわからなかった。
「ぼくは跡継ぎを期待されているわけでもないんだ。誰と寝ようが、かまわないはずだ。それに……大半の画像は回収したんじゃないのか? 圧力をかけるのは得意だろ、あの家は」
「皆、協力的だった。――しかし、画像は回収したとしても、大もとが手に入らないと、無駄なことだ。あれは、映像の一シーンを印刷したものだろ」
どこにある、と英俊の表情が問いかけてくる。
「映像のデータは……、もう存在しない」
本当は、存在していたところで無意味だ、と言うべきだろうが、説明が多くなるほど、英俊の追及は厳しくなり、また粗も出やすい。和彦は現在、複数の男と関係を持っており、いかがわしい映像など、撮ろうと思えばいくらでも撮れる状況にあるのだ。
弟が、男と関係を持つどころか、〈オンナ〉であると知ったとき、冷徹な兄はどんな顔するか――。
ささやかな嗜虐性が和彦の中で首をもたげようとしたが、そんな自分自身にゾクリとする。英俊に対してこんな感情を抱くのは初めてのことで、男たちの影響で自分が変化したような気になったのだ。あるいは、こちらが本性なのかもしれない。
「それを信用しろと?」
「できないなら、ぼくはそれでいい。それで、ぼくを遠ざけてくれるなら……」
英俊は眼鏡の中央を押し上げると、そっと目を細める。
「お前もしかして、それが目的で、あんなものをばら撒いて姿を隠したんじゃないだろうな」
「だとしたら?」
「――あてが外れて残念だったな」
和彦は露骨に不信感を表に出す。肉親に対して、情愛というような生ぬるい感情は最初から期待してはいなかったが、英俊の言葉から、やはり自分を捜していたのは、情以外の理由があると実感していた。
足を組んだ英俊は、怜悧な官僚そのものの横顔を見せながら、滔々と語る。
「破廉恥な不祥事を起こした直後に、お前はクリニックを電話一本で辞めて、完全に姿を消してしまった。こちらが事態に気づいて部屋を訪ねたときには、すでにもぬけの殻だった。実に見事な失踪だ。捜索願を出すのはこちらとしては不本意だから、一応探偵なんてものを雇ってはみたんだが、意外にあれは使えない。高い金を取ったくせに、お前が住んでいたマンションから出たあとを辿ることすらできなかった。反対に、意外なほど使えたのは――、お前の友人だ」
英俊が誰のことを指しているのか、すぐに察した。和彦はため息をつくと、低い声で応じる。
「澤村に、ずいぶん無理を言って迷惑をかけたらしいね」
「お前に繋がる唯一の人物だからな。もっとも途中からは、あからさまに嫌われた」
何がおかしかったのか、英俊は唇の端に笑みらしきものを浮かべる。優しさや親しみの欠片もない、人を突き放す残酷な表情だ。だが、よく似合う。
兄とよく似た顔立ちをしている自分も、無意識のうちにこんな顔をしているのかもしれないと思うと、和彦はひどく暗澹とした気持ちになる。
「そもそも最初は、強引な頼み事をするつもりはなかったんだ。父さんが方針を変えたのは、お前のほうから接触してきたからだ」
「ぼくから接触なんてっ……」
「しただろ。ホテルの披露宴会場で、〈勉強会〉の参加者に会ったと聞いた。偶然なんてことはありえない。あの日、あの時間帯、あの場所に出向けば、お前の顔を知っている人物に会うと知っていたはずだ」
「ぼくは知らなかったっ」
「ぼくは、か。だったら、誰が知っていたんだ?」
和彦は唇を引き結び、返事を避ける。
英俊から指摘された件については、賢吾は何もかも調べ上げたうえで、和彦をあの場に向かわせたのだろう。佐伯家の中での和彦の存在がどんなものであるか、賢吾は知りたかったはずだ。だから、和彦という餌で佐伯家が食いつくか、あんな形で確認したのだ。
そして今は、佐伯家が和彦に対して抱く情を推し量っているのかもしれない。家族の一人として大事にしているのか、それとも利用価値のある駒として見ているのか――。
誰よりもそれを見極めようとしているのは、間違いなく和彦自身だろう。
自分は昔から、家族に対して甘い人間ではなかったはずだと、和彦は胸の内で呟く。家族の中で自分の存在は異物なのだと、子供の頃から自覚し続けていた結果だ。
「間違いなく、お前の失踪には協力者がいる。大胆だが警戒心が強く、世の中の仕組みがよくわかっている人物――。去年のクリスマス時期に、ツリーの前にいたお前は、男を伴っていた。そして、先日わたしが電話したとき、若い男の声がした。どっちがお前に手を貸している? それとも、両方か?」
このとき英俊の目に軽蔑の色が浮かんだことを、和彦は見逃さなかった。画像を見ている英俊は、和彦が男と関係を持っていることを当然把握している。どちらの男と関係を持っているのだろうかと、質問と同時に想像したのかもしれない。
英俊のペースになりかけていることに危機感を覚え、足元を搦め捕られそうな怖さを断ち切るために和彦は立ち上がる。英俊に背を向けて告げた。
「――ぼくは今日、現状を説明するためにここに来たわけじゃない。そちらの目的を聞くためだ」
「そちら、か。言うようになったな、お前も」
「いつまでも、兄さんに逆らわず、殴られ続ける人形でいるはずがないだろう」
「だが今でも、わたしが怖いだろう?」
背後から急に腕を掴まれ、和彦は飛び上がらんばかりに驚き、振り返る。本能的な反応から、目を見開いたまま顔が強張っていた。そんな和彦を見て、英俊はひどく楽しげに唇を緩めた。思った通りだ、と言わんばかりに。
大人になってどれだけ距離を置こうとも、物心ついた頃から体と心に刻み付けられていた〈痛み〉の記憶は、簡単には消え去らない。絶対に打ち明けられない後ろ暗さを抱えているためか、もしかすると子供の頃よりも和彦は、臆病になっているかもしれない。
この時点で、和彦がささやかに保っていた主導権は、英俊に移っていた。
「本題は、場所を移して話してやる」
「……ここからは動かない」
「そうは言っても、雨が降り出したぞ」
英俊の指摘を受けて、和彦は頭上を見上げる。確かに、ぽつぽつとではあるが雨が降っていた。空の様子からして、これから降りが強くなりそうだ。
和彦がきつい眼差しを向けると、鼻先で笑った英俊が軽くあごをしゃくる。
「そこの通りでタクシーを捕まえる。もう昼だから、ちょうどいい。少し行ったところに、仕事関係でよく使っているレストランがあって、多少無理がきく。ゆっくり話ができるよう、個室を使わせてもらおう」
昼食時に、いくら上得意とはそんなワガママが通るのだろうかと思った和彦だが、すぐに、あらかじめ英俊が予約を入れていたのだと気づく。待ち合わせ場所が決まってから、和彦が何を言おうが自分に有利なようにことを運ぶつもりだったのだ。
言い争いを始める前に、あっという間に雨の降りが強くなり、公園を通る人たちが小走りとなる。どこか雨宿りができるところをと思って見回してみても、それらしいスペースはない。
自分なりに熟考したうえでこの場所を選んだのだが、どうやら裏目に出たようだ。肝心なところで自分は間が悪いと、ちらりと自嘲の笑みを洩らした和彦は、次の瞬間には警戒心も露わに英俊に言った。
「まさか、その店に誰か待機させているなんてことは――」
「お前に暴れられても困るから、それはやめておいた」
澄ました顔で答えた英俊が歩き出し、和彦は向けられた背を睨みつける。本当は、足が竦んでいた。このままついて行っていいのだろうかと逡巡したが、そんな和彦の弱気を見透かしたように、肩越しに振り返った英俊に指先で呼ばれる。
和彦は短く息を吐き出すと、思いきって足を踏み出した。
あのまま公園に残っていれば、今頃ずぶ濡れになっていただろうなと、大きな窓ガラスを叩きつけるように降っている雨の勢いに、和彦はぼんやりそんなことを考えていた。
高級ホテル内にあるレストランの個室は、二人だけで使うにはもったいほどの広さだった。盛り上がる会話が交わされるわけでもなく、外の雨音が響くこともなく、胃が痛くなるような静寂がさきほどから続いている。
間がもたない和彦は、雨に包まれた街並みをただ眺めていた。普段であれば喜んで舌鼓を打っているであろう美味しそうなランチも、食欲がまったくないせいで手をつける気になれない。
「――久しぶりにお前と会って実感したが、本当にわたしとお前はよく似ている。目の前にいるお前は、六年前のわたしだな」
予想外の会話を振られて、和彦は少々困惑しながら、正面に視線を戻す。和彦ほどではないにしても、英俊もほとんど食事に手をつけることなく、どうやらさきほどから、外の景色を眺める和彦を観察していたようだ。
英俊と目が合い、露骨に顔を背けることもできない和彦は、じっと見つめ返す。眼鏡のレンズを通しても一向に損なわれることのない、怜悧で鋭い目は、不思議な魅力がある。怖いくせに、覗き込みたくなるのだ。
「ただ、ずいぶん雰囲気が優しくなった気がする。お前の友人から様子は聞いていたんだが、正直、荒んだ生活を送って、相応の見た目になっていると思っていたんだ。だが今のお前は――実家にいた頃より、満ち足りているようだ」
「ぼくがなんと答えたら、兄さんは満足なんだ」
「お前に関することで、わたしは一度でも満足したことはない。今までは」
英俊の言葉は容赦がないというより、和彦を傷つけるための鋭い刃を潜ませている、という表現が正しいだろう。ときおり自分の口から放たれる毒は、きっとこの兄に影響されてのものだと和彦は思っている。
「そんな不肖の弟に会いに来たんだ。早く本題に入ったら?」
英俊はグラスの水を軽く一口飲んでから、ようやく切り出した。
「お前も知っている通り、わたしは国政選挙に出馬することにした。問題が起きなければ、二年後に」
「ずいぶん先だ」
「わたしは、勝てない勝負に打って出る気はない。そのために今は、父さんと一緒に準備している最中だ。地盤を譲ってくれることになっている代議士も、最後の花道のために、いろいろ仕掛けているようだしな」
「――……楽しそうだ」
ぽつりと和彦が洩らすと、英俊はしたたかな笑みを浮かべて頷く。理性的で、和彦に手を上げる以外では感情の起伏が表に出ることが少ない英俊だが、こういう表情をすると、ドキリとするような艶やかさをまとう。
漠然とだが、しばらく会わない間に英俊は、人を惹きつける魅力を手に入れたように感じた。
「佐伯家の血だろうな。野心的な計画に対しては、際限なくのめり込む。母さんも、違う方面で協力してくれていて、やっぱり楽しそうだ」
ふいに和彦の胸の奥から、苛立ちにも似た感情が込み上げてきて、それを誤魔化すように乱暴に髪を掻き上げる。
「家族三人で上手くやっているなら、それでいいじゃないか。そもそも畑違いの仕事をしているぼくに、なんの手伝いが出来るっていうんだ」
「家族一丸となって、と薄ら寒い言葉があるだろう。あれだ。本来、候補者の隣に美人妻が立って――というのが理想なんだろうが、わたしは独身だ。だったら、見た目も職業も申し分ない弟を利用しない手はない」
電話で話していた通りだが、やはり和彦は、おぞましいものを感じ取ってしまう。言葉通りに受け止めてはいけないと、頭の中で警報が鳴り響くのだ。
「手伝ってもらうって電話で言っていたけど、その口ぶりだとやっぱり、兄さんの選挙活動のことなのか」
「簡単に言うとそうだが、……おかしいか?」
小首を傾げた英俊に、即答する。
「――おかしい」
この瞬間、英俊の周囲の空気が凍りついたようだった。和彦はようやく、ここまでは英俊なりにこちらを懐柔しようとしていたのだと気づく。本当であれば、頭ごなしに命令したいところを、英俊なりにコミュニケーションを取っていたつもりだったのだ。
英俊が、やはり和彦によく似た神経質そうな指で、トンッとテーブルを叩く。
「家のために役に立とうという気は?」
「ぼくが佐伯家の人間として振る舞うことに、家族の誰もいい顔はしない。……ずっとそうだった」
「少なくとも、父さんはそうじゃない。将来、何かのためにお前が〈使える〉かもしれないと考えていたから、高い金をかけて医大に通わせ、医者にした。名家の次男坊としては、お前はなかなか有能だ。男関係を除いて、だが」
「……その一点で、ぼくは家の役に立てないと思う」
「犯罪を犯しているわけじゃない性的スキャンダルなんて、可愛いものだ。もっとヤバイことを揉み消して、表舞台でヌケヌケと綺麗事を垂れ流している奴はいくらでもいる」
和彦は、冷めた目で英俊の顔を凝視する。何もかも完璧であるこの兄に、自分はとっくに犯罪に手を染めていると語ったら、どんな顔をするだろうかと想像していた。和彦が胸の奥に抱え持つ、冷たい闇の部分が、そんな考えを抱かせるのかもしれない。
スッと視線を逸らした和彦は、再び窓の外へと目を向ける。
「今の言葉、本心から言っているのか、兄さん」
「ああ」
「ぼく以外の人間――家族にも言える?」
和彦が言葉に潜ませた冷たい刃に、当然英俊は気づいていた。低く笑い声を洩らしてから、こう応じた。
「今とてつもなく、お前を打ちのめしてやりたい。昔からお前は、痛みには弱いくせに、したたかだった。〈強い〉んじゃなく、〈したたか〉だ。まるで――」
英俊が何を言おうとしているか素早く察し、和彦は勢いよく立ち上がる。テーブルに両手を突き、英俊の顔を真っ直ぐ見据える。
「――こうしてぼくと会った本当の目的を、まだ話していないんじゃないか?」
ほお、と芝居がかった口調で洩らした英俊の目に、狡知な色が浮かぶ。それと同時にゆっくりとイスから立ち上がった。
その光景が、和彦の記憶を刺激する。子供の頃の体験が生々しく蘇っていた。
本能的な危機感から、怯える小動物さながらの動きでテーブルを離れる。和彦が出入り口の扉に行かないよう牽制しつつ、英俊が近づいてくる。広い個室とはいえ、逃げ回れるほどのスペースがあるわけではなく、あっという間に和彦は窓際へと追い詰められていた。
英俊はあくまで優雅な仕種で、和彦の喉元に片手をかけてきた。力を込められたわけではないが、それだけで息苦しくなり、完全に動きを封じられる。
「あまり、お前の顔を殴るのは好きじゃない。忌々しいぐらい、わたしに似ている顔だからな。だからといって、蹴るのは野蛮だ」
英俊に冷たい迫力に圧され、無意識に後退った和彦の背に窓ガラスが当たる。完全に逃げ場を失った和彦に対して、英俊が顔を寄せ、低く抑えた声で囁いてきた。
「里見さんが気になることをちらりと洩らしていたが、なるほど。こういうことか」
「何、が……」
「こちら側の動きを、お前がある程度把握しているということだ。確かに、お前の今の物言いは、何かを知っている感じだ。どこまで知っている? 誰から聞き出した? いつからこちらの動きを探っている?」
立て続けに質問をぶつけられながらも、和彦が気になるのは、喉元にかかった英俊の手にじわじわと力が込められていることだった。
体格はほぼ同じなので、英俊を押しのけることは不可能ではない。それどころか、顔を殴りつけることもできるはずなのだ。だが、和彦の手は動かない。頭ではわかっていても、兄に逆らうという行為に、体がついてこない。
「お前単独での動きじゃないはずだ。身を潜めながら日常生活を送り、そのうえでこちらの動きを探るなんて、一介の医者には無理だ。協力者なんて言い方はしない。――お前のバックには誰がいる?」
間近から目を覗き込まれ、和彦は唇を引き結び、瞬きもせず見つめ返す。かまわず英俊は話し続ける。
「わたしは正直、あの画像を見たとき、お前が性質の悪い奴に騙されたか、自ら進んで仲間になって、佐伯家を強請ってくると思った。父さんにも、その覚悟をしておくよう言ったんだ。どうしてすぐに行動を起こさないのかと、苛立ったこともあるが、今になって思う。お前は、最高のタイミングを計っている最中なんじゃないかと」
「……兄さんの、華々しい政界デビューに合わせて、ぼくが何かしでかすと思ったわけか」
「ちらりとでも考えなかったか?」
英俊は過剰な自信家というわけではないが、それでこの口ぶりということは、すでに当選することを自らの人生に織り込み済みなのだろう。言い換えるなら、失敗の許されない人生ということだ。
「ぼくは……、兄さんの邪魔をする気はない。もちろん、父さんや母さんの生活も」
「必要なときにお前がいないと、それは邪魔しているのと同じだ」
威嚇するように指先で頚動脈を押さえられる。この行為の危険性がよくわかっている和彦は、さすがに英俊の手を振り払い、肩を突き飛ばしていた。ほんの一瞬のことなのに、頭がふらつき、鼓動が乱れていた。
英俊は落ち着いた様子で眼鏡の中央を押し上げ、薄い笑みを浮かべた。
「本気でお前を絞め殺すと思ったか?」
「……失神させるぐらいは、簡単にできるだろ」
「そしてお前を、家まで連れて行くのか。――やってみようか?」
そう言って英俊が片手を伸ばそうとしたので、和彦は素早く窓から離れ、小走りでドアへと向かう。
「とにかくぼくは、なんの力にもなれない。今のこちらの生活に関わってほしくないし、兄さんたちに関わる気もない。……言いたいことはそれだけだ」
早口に告げてドアを開けようとしたとき、背後で英俊がゾッとするほど冷たい声を発した。
「顔を見せに帰ってこいと――、父さんから、そう伝言を言付かった」
この瞬間なぜか、英俊がどんな顔をしているのか見たくないと強く思った。和彦は背を向けたまま、そう、とだけ応じて部屋をあとにした。
歩くごとに、靴の裏から水が染み込んでくるかのように、足取りが重かった。さらに、ムッとするような湿気が体中にまとわりついてくる。とにかく、何もかもが不快だった。
急き立てられるように速足のせいか、さきほどのレストランでのやり取りのせいか、和彦の息遣いは荒く、心なしか頭が痛い。
雨で濡れた髪を掻き上げた和彦は、左頬に触れる。すでに痛みはないが、少しだけ熱を帯びている。ここであることに気づき、自分の手を見る。微かに震えていた。正直、殴られることは想定していたが、喉元に手をかけられたことには衝撃を受けた。当然、英俊は本気ではなかっただろうが、脅しとしては効果的だ。
子供の頃、英俊からさんざん与えられた痛みの記憶が一気に噴き出してきて、気分が悪い。意識した途端、その場で嘔吐してしまいそうだ。
なのに和彦は、歩くのをやめられない。立ち止まった瞬間、英俊に背後から腕を捕まれそうな恐怖があった。もしかすると、本当に英俊が背後から尾行してきているのかもしれないが、振り返って確認することもできない。
傘を差して歩いている人たちの間を縫うようにして、ひたすら前を見据えて歩き続けるのが精一杯だ。
長嶺組の組員からは、英俊と別れたあと、タクシーを数回乗り換えてほしいと言われていた。佐伯家が尾行をつけていないか確認してからでないと、迂闊に和彦と接触できないのだ。
本当はホテルのエントランスからすぐにタクシーに乗り込みたかったが、天候のせいでタクシー待ちの客が並んでおり、悠長に列に加わる気にはなれなかった。歩き出してはみたものの、通りを走るタクシーはほとんど客を乗せている。
少し座って休みたいと思い、慎重に周囲を見回す。すると突然、ジャケットのポケットの中で携帯電話が鳴った。一瞬、英俊かと思って動揺しかけたが、すぐに思い直す。着信音は、組などとの連絡に使っている携帯電話のものだ。
「もしもし――」
『佐伯先生、尾行がついています。このまま真っ直ぐ行って、その先にあるデパートの地下二階の駐車場に降りてください。それと、後ろは振り返らないで』
聞き覚えのない声に、和彦の頭は混乱する。
「誰だ?」
『今日先生を護衛している総和会の者です。さきほどから先生の護衛を、長嶺組から完全に引き継ぎました』
本当なのかと問いかけたかったが、その前に電話は切られる。長嶺組と連絡を取って確認したかったが、尾行がついていると聞かされて、和彦は落ち着いてはいられなかった。歩きながら携帯電話を操作しようとしたが、指先が強張って上手く動かない。その間に何度も人とぶつかりそうになり、避けているうちにデパート前へと到着する。ここまでくると、躊躇している間はなかった。
デパートに入ると、女性洋品ばかりの一階の売り場を見るふりをしながらフロアを歩き回り、さりげなくエスカレーターで地下一階に移動する。こちらも同じように歩き回ってから、タイミングを見計らってエレベーターに駆け込み、指示された通り駐車場へと向かう。
頻繁に車が行き来している駐車場で、和彦は困惑する。この広いスペースの中、自分はどこに行けばいいのかと思ったのだ。エレベーターのすぐ側に立っていると、今にも扉が開いて英俊が姿を見せそうで、とりあえず歩き出す。
車が傍らを走りすぎるたびに緊張していたが、それも長くは続かない。とにかく和彦は、疲労感に苛まれていた。
大きくため息をついて、足を止める。すると、駐車場内のどこかで車が乱暴に発進した鋭い音が、辺りに反響する。嫌な予感に和彦が眉をひそめると同時に、シルバーのバンがやってきて、ぴったりと傍らに停まった。
後部座席のスライドドアが開き、総和会本部で見かけたことのある男が身を乗り出すようにして、和彦に手招きをした。
「乗ってください」
ためらいに、すぐには足が動かなかった。総和会と長嶺組の間にどんなやり取りがあったのかわからないまま、状況に流されていいのかと思ったのだ。
しかし、男に強い口調でもう一度呼ばれ、和彦は従うしかなかった。
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