と束縛と


- 第29話(2) -


 まだ午後三時にもなっていないというのに、和彦が車から降りたとき、日暮れかと錯覚するほど辺りは薄暗かった。
 すかさず差しかけられた傘に雨が落ちる音がする。鬱陶しいほどの湿気は覚悟していたが、街中で生活していてはまず嗅ぐことのない、青草と土の匂いが立ちこめていた。
 移動の間中、後部座席はカーテンで覆われていたため、外の様子がよくわからなかったのだが、ようやく和彦は周囲をじっくりと見渡すことができる。山間の、木々に囲まれた場所だった。天気のせいだけではないだろう。なんとなく、鬱蒼とした景色だと思った。
 少なくとも、活気はない。なんといっても、和彦の目の前に建つ一軒家以外、辺りに人家が見当たらないのだ。当然のように、人も車もまったく通っていない。とにかく静かで、総和会の男たちがぼそぼそと交わす会話は、重苦しい静寂を打ち破るほどの威力はない。
 日常から切り離されたような――という表現が、ふと和彦の脳裏に浮かぶ。観光地として、あえて静かな環境を保っているという様子はなく、ここは普段、人が立ち入らないような場所なのだろう。
 だからこそ、身を隠すにはうってつけだ。
 和彦はそっと息を吐き出すと、傘を差しかけている男に短く問いかける。
「ここが?」
「はい。佐伯先生には日曜日まで、ここで過ごしてもらいます。不便でしょうが、我慢してください」
 和彦はもう一度息を吐き出して、車中で受けた説明を思い返す。
 デパートの地下駐車場で車に乗り込んだあと、一旦身を隠してもらうと言われたものの、どんなところに連れて行かれるのかと不安でたまらなかったのだが、いざ目的地に連れて来られると、不安が解消されるどころか、新たな不安が募る。
 長嶺組から、和彦の護衛を完全に引き継いだ総和会の目的は、理解したつもりだ。和彦と長嶺組の繋がりを、佐伯家に知られる事態は避けなければならない。
 そのため、英俊と別れた和彦に尾行がついていれば、長嶺組は一旦手を引き、和彦の身を総和会に委ねることにしたのだという。これは、総和会という仕組みに関係がある。
 総和会に名を連ねる十一の組の誰かが犯罪を犯して逮捕されたとき、組の名が表に出ることはほとんどない。公表されるのは、総和会という組織の名だ。総和会は十一の組の互助会として泥を被り、組の名を守るのだ。そして今回、総和会は、長嶺組への追跡の手が及ばぬよう、動いたのだという。
 守光と、和彦の父である俊哉はまったく知らぬ者同士ではなく、わずかでも組の存在を匂わせるのは危険だと判断したのかもしれない。説明を受けながら和彦は、そう考えてみたのだが、もちろん守光に連絡を取って確認したわけではない。
 総和会が決定を下し、長嶺組が従ったのなら、それがすべてだ。和彦に異を唱える権利はなかった。
 和彦が滞在することになるという〈隠れ家〉は、一見して古い木造の二階建てだ。ただ、通常の住宅というには全体の造りが大きく、民宿でも営んでいるのだろうかと思ったが、それにしては、場所が場所だ。
 促されるまま建物に歩み寄った和彦はここで初めて、建物の傍らに石造りの階段があり、下に伸びていることに気づいた。思わず覗き込むと、おもしろみのない口調で男が教えてくれた。
「昔、山をもっと上がったところで大きな工事をしていたことがあって、この家は飯場として使っていたんですよ。階段を下りた先に別棟があったようですけど、うちが買い取ったときにはもう潰した後でした。今じゃ、この辺りを通るのは、山奥から切り出した木を運ぶトラックぐらいで、寂れたところです」
 だから、人が身を潜めるにはちょうどいいということだ。
 和彦は心の中でひっそり呟いてから、玄関に入った。梅雨のせいなのか、あまり換気していないのか、微かなかび臭さが鼻につく。ただ全体の内装は、古い木造のわりにきれいにしており、荒れた様子はない。普段、どんな人間が、どんな目的で利用しているのかは知らないが、手入れはしているようだ。
 靴からスリッパに履き替え、男に家の中を簡単に案内してもらうことになったが、中の造り自体は非常にわかりやすい家だった。
 和彦はまず一階を見て回る。元飯場というだけあって広い厨房があるが、残念ながら使っている様子はなく、活躍しているのは冷蔵庫と電子レンジだけのようだ。テーブルの上には、スーパーで買い込んできたらしい、食材の入った袋が大量に置いてあった。
 別の部屋には、真新しい布団を数組積み上げてあり、一体何人が泊まり込むのかと思ったが、気疲れが増すのが嫌で黙っておいた。
 二階にもいくつかの部屋があったが、どれもドアを開けたままになっており、中はガランとしていた。一番奥が和彦のために用意された部屋だということで、おそるおそる覗いてみる。
 板張りの薄暗い部屋には、ベッドやテーブルセット、テレビにエアコンだけではなく、クローゼットまで揃っており、他の部屋とは明らかに様子が違う。
「特別なお客さんが使う部屋です。クローゼットの中に、サイズはバラバラですが、クリーニングした服がいろいろ揃っているので、自由に使ってください。それと――」
 家の中での行動は自由だが、外には出ないようにと、何度も念を押された。そもそも、動き回る気力もなく、ドアが閉まるのを待ってから、和彦はぐったりとベッドに腰掛ける。
 まだ一日が終わったわけではないが、今日は大変だったと、改めて実感していた。
 英俊と交わした会話を思い返そうとしたが、頭の動きは鈍く、記憶が上手く繋がらない。ここで和彦は、自分がまだジャケットも脱いでいないことを思い出した。
 億劫ながらも一旦立ち上がり、脱いだジャケットとネクタイをイスの背もたれにかける。ついでに窓の外に視線を向けてみたが、家の前の様子ぐらいしか見えなかった。
 ふらふらとベッドに戻り、そのまま横になる。その瞬間、自分が肉体的にも精神的にも、ひどく疲弊しているのだと思い知らされた。もう、起き上がるどころか、目を開けることもできない。
 賢吾に連絡しなければと思いながらも、抵抗する間もなく、和彦の意識はスウッと暗いところへと引きずり込まれていた。


 瞼越しに光が差し込んできて、和彦はビクリと体を震わせる。詰めた息をゆっくりと吐き出しながら目を開けると、なぜか、よく見知った顔が目の前にあった。電気の明かりがまぶしくて、数回瞬きを繰り返す。
「――……何、してるんだ……」
 ぼんやりとした意識のまま問いかけると、相手は、ヤクザらしくない優しい笑みを浮かべた。
「先生の寝顔を見ようとしていたんですよ」
「……つまらないぞ、見ても」
 和彦の返答に、中嶋が短く噴き出す。
「どんなときでも、先生は先生ですね。マイペースというか、危機感がないというか」
 危機感、と口中で反芻してから、自分が置かれた状況を思い出す。途端に、一気に気分が沈み込んだ。
 緩慢な動作で体を起こしたところで和彦は、ワイシャツがじっとりと湿っていることを知る。部屋が異常に高温というわけではないが、変な寝方をしていたせいか、寝汗をかいたようだ。
「しかし、ここには初めて来ましたけど、まだ夕方だというのに、天気のせいもあってか、道が真っ暗でしたね。そのうえカーブも多いから、運転しながらヒヤヒヤしましたよ」
 そう言って中嶋が、ボストンバッグを和彦に差し出してくる。反射的に受け取っていた。
「これは……」
「長嶺組の方から、これを先生に渡してほしいと頼まれました。着替えなどが入っているようです。それと、長嶺組長からは、これを」
 さらに中嶋が差し出したのは、白い紙袋だった。和彦は苦笑を洩らしつつ受け取る。いかにも、賢吾らしい気遣いだと思ったからだ。
「うちの先生は繊細で、いろいろ大変だろうから、というようなことを、長嶺組長がおっしゃってましたよ」
「どんな顔をして言ったか、なんとなく想像できるな。――これは安定剤だ。ときどき、どうしても精神的にダメなときは飲んでいるんだ。……あまり頼りたくはないけど」
 ため息をついた和彦は髪を掻き上げる。そして何げなく中嶋に尋ねた。
「君は、今夜はここに泊まるのか?」
 中嶋は申し訳なさそうな顔となって首を横に振る。
「できることならそうしたかったんですが、先生に荷物を渡せたので、これで帰ります。ここに宿泊するのは、目立つのを避けるためにも最小限の人数で、と言われているんです」
「だったら、ぼくも連れて帰ってくれ」
 和彦のわがままを、中嶋は笑って受け流す。もちろん和彦は、本気で言ったわけではない。ようやく自分の前に親しい人物が現れて、少し甘えてみただけだ。
「……ああ、そうだ。組長に連絡を入れないと……」
「電話は、玄関の横にありましたよ」
「いや、携帯が――」
 ふと和彦は、ここがどんな場所なのか思い出す。嫌な予感に眉をひそめつつ、中嶋に確認した。
「もしかしてここは、携帯が通じないのか?」
「と、俺は認識しています。そもそもここが重宝されているのは、容易に連絡が取れない環境だからです。身を潜めている人が、自分の家族や愛人にこっそり電話をかけて、そこから居場所が知られるなんて事態は、間が抜けてますからね。でも先生は、堂々と下の電話を使って話せばいいじゃないですか」
「人の耳を気にしながら、ぼくが兄の前で見せた醜態を、組長に話して聞かせるのは……、ちょっとな」
 それに、賢吾がこちらの状況をある程度把握している様子なので、急いで連絡する必要性はなさそうだ。しかも、何日も滞在するわけではないのだ。
 和彦はそう自分に言い聞かせ、気持ちを落ち着かせる。こうして中嶋を寄越してくれた効果は、絶大だというわけだ。
 ボストンバッグを足元に置いて、和彦は頭を下げる。
「こちらの事情に巻き込んで、面倒をかけてすまなかった。それと……ありがとう」
「俺としては下心たっぷりなので、先生に頭を下げられると、心苦しいんですが」
「それでもいいよ。ここにぼくがいることを、君だけじゃなく、組長も把握していると知って、安心した」
 中嶋がふいに腰を屈めて、顔を覗き込んでくる。何事かと和彦は目を丸くした。
「……なんだ?」
「いえ、明かりのせいかとも思ったんですが、先生、顔色が悪いですね」
「別に体調が悪いわけじゃないが、今日は疲れた……」
 だからといってすぐにまた横になる気にはなれない。昼間は雨に濡れ、うたた寝をしている最中には汗をかいた体は気持ち悪い。それに、今日は朝からほとんど何も食べていないので、さすがに胃に何か入れておきたかった。
 和彦が腹に手をやると、察したように中嶋が提案してくれた。
「来る途中で、弁当を買ってきたんですよ。どうせここだと、インスタントか、冷凍食品を温めるだけかと思ったんで。俺の分も買ったんで、ここで食べて帰っていいですか?」
 和彦が頷くと、持ってきますと言い置いて中嶋が部屋を出ていく。その後ろ姿を見送った和彦は改めて、中嶋を寄越してくれた賢吾の気遣いを、心憎く思っていた。中嶋特有の配慮は、今はとにかく心地よい。
 久しぶりに会った兄より、下心があると言い切るヤクザに対して安心感を覚えるとは――。
 皮肉っぽくそう考えた和彦は、口元に淡い苦笑を刻んだ。


 中嶋が帰ったあとの隠れ家は、まるで建物全体が息を潜めているかのように静かだった。和彦以外に二人の男が滞在しているのだが、そもそも建物自体が広いため、少数の人間が動いたところで物音も聞こえないのだ。
 かつては何人もの男たちが同時に入っていたであろう風呂も、一人で入るのが申し訳なくなるような広さで、なんだか不気味だ。
 タイル張りの湯船に肩まで浸かりながら和彦は、ゆっくりと目を閉じる。風が強いのか、すりガラスの向こうから木々のざわつく音が微かに聞こえてくる。あとは浴場の天井から、水滴が落ちてくる音だけだ。
 やはりここは、日常から切り離されたような場所だ。そう思った途端、急に心細さに襲われた和彦は、急いで風呂から上がった。
 Tシャツとスウェットパンツを着込んで脱衣所を出ると、火照った肌にひんやりとした空気が触れた。日が完全に落ちてしまうと、山の気温は急激に下がってきたようだ。
 和彦は部屋に戻り、ボストンバッグの中を探る。着替えを数着分入れてもらってはいるが、パーカーとワイシャツの替え以外に長袖はなく、仕方なくクローゼットを開ける。説明を受けた通り、クリーニング屋のタグをつけたままの服がずらりと並んでいた。
 トレーナーを見つけて手を伸ばそうとして、その隣に並んだものに気づく。和彦は思わず破顔した。
「ここでの生活を堪能してたのかな……」
 そんな独り言を洩らして、ハンガーにかかったガウンを手に取る。柔らかな肌触りに満足すると、これを着込んで眠ることにする。
 いつもより早い時間にベッドに入ることになるが、とにかく今夜は横になる以外、何もしたくなかった。何も考えたくないということもある。
 安定剤を飲んでから部屋の電気を消すと、あまりに真っ暗なのも嫌で、テレビをつけたまま音だけを消す。
 布団の中で身じろぎ、心地のいいポジションを見つけると、嵐のようだった一日から慌しく連れ去ろうとするかのように、眠気が和彦の意識を覆ってしまう。
 本当は安定剤を飲むまでもなく、今夜は容易に眠りにつけたのかもしれない。そんなことを頭の片隅でぼんやりと考えているうちに、一瞬だけ深い眠りに落ちた気がする。もしかすると数十分、数時間か。
 曖昧な感覚の心地よさに浸っていると、雑音に鼓膜を刺激される。テレビの音かと思った次の瞬間に和彦は、自分で音を消したことを思い出し、大半を眠気に搦め捕られた思考を緩慢に動かす。
 ようやく雨音だと気づき、疑問が解消したことで安堵感に包まれる。
 異変は唐突に訪れた――。
 横向きになって眠っていた和彦は、背後から、逞しい感触に抱き竦められる。なんの疑いもなく、自分は夢を見ているのだと思った。
 抱き締められる心地よさに、胸の奥が疼く。だから、体をまさぐられても、嬉々として受け入れていた。
 ガウンの紐を解かれ、Tシャツをたくし上げられて直に肌にてのひらが押し当てられる。胸元を荒々しく撫で回されたところでやっと和彦は、与えられる感触があまりに生々しいと感じる。その違和感のおかげで、目を開けられた。
 意識にへばりついたような眠気を強引に引き剥がしているうちに、視界に入る光景をようやく認識できるようになる。
 つけたままのテレビの明かりがぼんやりと壁を照らしていた。その壁に、大きな影が映っていた。
 声を上げるより先に、飛び起きようとしたが、背後からがっちり抑え込まれているため、身動きが取れない。咄嗟に首を動かそうとして、寸前のところで恐怖が勝った。自分が誰の腕の中に捕らえられているか、本能的に悟ってしまったからだ。
 和彦の怯えを堪能するかのように、背後からきつく抱き締められる。分厚いてのひらが動き回り、胸の突起を捏ねるように刺激される。そして、もう片方の手が下肢に伸び、両足の間をぐっと押さえつけてきた。
 このときには和彦は完全に眠りから覚め、全身から冷や汗が噴き出す。本能的な怯えから声も出せず、それでもベッドから抜け出そうとしたが、逞しい両腕に捕らえられた体は動かない。
 背後で気配が動き、耳元に獣の息遣いがかかる。ゾワッと鳥肌が立った。
「――別に、取って食いやしない」
 耳に直接唇を押し当てて注ぎ込まれた声に、やはり、と和彦は思った。自分は今、南郷の腕の中にいるのだ。
「ど、して……」
 和彦がようやく言葉を絞り出す間にも、南郷の手は油断なく動き続ける。さらには、唇も、舌も。
 刺激を与えられ、強引に反応を促されて胸の突起が凝ってくると、待っていたように南郷の太い指に摘み上げられる。同時に、耳朶を舌で舐られ、唇で挟まれていた。不快さに、たまらず首をすくめて声を洩らす。
 顔を見なくとも、和彦の反応の意味を察したのだろう。南郷が低く笑い声を洩らした。
「どんな男も咥え込んで甘やかす体のくせに、あんた自身は、俺が嫌いで堪らないんだな」
 当然だと言いたかったが、そう言い放った瞬間、自分が縊り殺されるような気がして、和彦は唇を引き結ぶ。しかし、心の中を読んだのか、胸元をまさぐっていた南郷の片手が、思わせぶりな動きで喉元へと移動する。
 喉にかかる分厚く硬い手の感触に、恐怖のため和彦は気が遠のきかける。圧倒的な力を持つ巨大な獣にのしかかられ、わけもわからないまま食われてしまう小動物の姿が脳裏に浮かぶ。
 せめて抵抗をと思うが、与えられる痛みを想像すると、指すら動かせない。そんな和彦の臆病さを、南郷は嘲笑った。
「あんたは、慎重だ。常に、自分の言動が周囲の男たちに与える影響を考えている。だから、長嶺組長がどれだけの力を与えようが、その力を振るえない。自分で動くより、守ってくれる男たちに任せていたほうが、責任も痛みも負わなくて済むからな。――賢くて、狡いオンナだ。非力だが、弱くはない。優しげな見た目に反して、図太いほどに、したたかだ」
 話しながら南郷は、スウェットパンツの中に無遠慮に手を突っ込んでくる。さすがに和彦は制止しようとしたが、一瞬見せた隙を、南郷は見逃さなかった。喉元にかかった手があごに移動し、強く掴まれる。頭ごと抱え込まれるようにして、強引に振り向かされていた。
 眼前に迫ってきたのは、獰猛な両目だ。荒々しい本能だけを宿らせたような、力を振るうことに長けた男には似つかわしい目だと言える。和彦が何より恐ろしいと感じたのは、まるで凶器そのもののような南郷の目に、理知的な光がちらちらと見える点だ。
 この男は、自分を粗野で暴力的に見せる利点を知り抜いている。だからあえて、外見から与える印象通りの言動を取っているのだ。
 己を装える人間は、それだけ頭が切れるということだ。そして、本能のままに行動したりはしない。長嶺守光の側近とは、そういう男のはずだ。
 沈黙した途端、食われてしまう――。理屈抜きでそう感じた和彦は、動揺と恐怖のため頭の中が真っ白になりかけながらも、懸命に口を動かす。
「……どうして、あなたがここに……? 二度とぼくに近づかないよう、言ったはずです」
「俺は承諾しなかったはずだが」
 そう答えた南郷の手に、和彦の欲望は直に握り締められる。体が竦み上がったが、じっと見つめてくる南郷から目は離せなかった。和彦なりのささやかな抵抗に、南郷は唇の端に笑みらしきものをちらりと浮かべる。
「オヤジさんの大事なオンナに、何かあったら大変だ。俺なりに心配して、こうして護衛に加わったんだ。――あんたがここにいることは、ごく限られた人間しか知らない。そして、あんたに何かあったとき、独自に判断して対処できるのは、ここでは俺しかいないというわけだ」
 もっともらしいことを言っているが、これは恫喝だ。ここでは、南郷の行動を止められる人間はいないと仄めかしているのだ。
「普段、あんたを守っている男たちほど、俺は紳士でもないし、気も利かないだろう。だが、我慢してくれ。俺なりに、あんたを大事に思っているんだ。〈恋焦がれる〉と表現してもいいほどな」
 南郷の声は優しいが、だからこそ不気味だった。掴まれているあごが痛くて、和彦は大きな手を押しのけようとしたが、力が緩むことはない。それどころか――。
「あっ……」
 南郷の顔が間近に迫り、獣の息遣いが頬に触れる。まさか、と思ったときには、唇を塞がれていた。唇を覆う熱く湿った感触に、嫌悪感が湧き起こる。和彦は、大きな獣を威嚇するように呻き声を洩らすが、それすら南郷の唇に吸い取られる。
 必死に唇を引き結ぶと、南郷は焦れることなく、片手に掴んだ和彦の欲望を弄び始める。括れを強く指で擦り上げられ、敏感な先端を爪の先でくすぐられると、和彦は無反応でいられなかった。感じているわけではない。いつ、痛みを与えられるかと、気が気ではないのだ。
 下肢の愛撫に気を取られ、唇が緩む。待ち構えていたように、南郷の舌が悠々と口腔に押し込まれてきた。
 これで、和彦を自由にできるという確信が生まれたのだろう。南郷が布団を跳ね除けて、和彦の体の上に覆い被さってくる。和彦は両手で逞しい肩を押し退けようとしたが、スウェットパンツと下着を無造作に引き下ろされて、再び欲望を握り込まれると、できる抵抗など知れていた。
 南郷の舌に口腔を犯される。粘膜を舐め回されながら唾液を流し込まれ、逃げ惑う和彦の舌は簡単に搦め捕られて、強く吸われる。粗野で暴力的な外見そのままの、乱暴な口づけだった。
 考えてみれば、南郷と直接唇を重ねるのはこれが初めてだ。だが、まったく感触を知らないわけではない。長嶺組の組員たちから引き離され、総和会が身柄を預かっている男の治療のため、一人で仮眠室に泊まったとき、和彦は南郷に体に触れられた。そのとき、顔に薄い布をかけられて、南郷に唇を貪られたのだ。
 布一枚分の建前で、南郷は正体を隠すつもりはあったようだが、今夜は違う。自らの存在を明らかにし、誇示しながら、和彦に触れてくる。
 ようやく唇が離されて、和彦は大きく息を吸い込む。南郷は、余裕たっぷりの表情で、そんな和彦を見下ろしてくる。
「あんたは、本気の抵抗をしないんだな。嫌がる素振りは見せても、死に物狂いで俺の腕の中から抜け出そうとはしない。前に触れたときも思ったが……、本気で抵抗をして、相手が本気で押さえにかかってくるのを怖がってるようだ。あの長嶺組長は、あんたを惨い目に遭わせたりしないだろ。長嶺組長だけじゃなく、他の男たちも」
「……あなたに、関係ない」
 ふいっと顔を背けた和彦は、南郷の下から抜け出そうとしたが、あっさり肩を押さえつけられ、身動きが取れなくなった。
「俺としては、抵抗する相手に手を上げて言うことを聞かせるのは、少しばかり興奮する性質なんだが――、まあ、あんたにそんな無体はよしておこう」
 和彦は反射的に南郷を睨みつけるが、挑発されていると思うと、暴れることはできなかった。おそらく南郷は、和彦の頬を打つことにためらいはしないだろう。傷さえつけなければ、少々の暴力を振るったことなど、第三者にバレはしないのだ。
「ゾクゾクするな。極上の色男に、そんな目で睨みつけられると……」
 そう言って南郷が、和彦の唇を吸い上げる。同時に、膝の辺りで引っかかっていたスウェットパンツと下着を完全に脱がせてしまうと、強引に和彦の足を開かせて、腰を割り込ませてきた。和彦は呻き声を洩らし、体を強張らせて拒絶の意思を示すが、南郷の行動を止めるには至らない。
 一度上体を起こした南郷が、和彦を見下ろしてくる。下肢は剥き出しとなったうえに大きく足を開かされ、ガウンは半ば脱げかけ、Tシャツを胸元までたくし上げられた姿だ。相手によっては羞恥心を刺激されるのだろうが、和彦は屈辱しか感じない。ひたすら南郷を睨みつけるが、かえって加虐心を煽っただけのようだ。
 分厚く大きなてのひらを腹部から胸元に這わせながら、嘲笑うような口調で南郷は言った。
「どれだけ睨みつけられようが、俺は痛みを感じない。あんたもそれがわかっていながら、手を振り上げることすらできない。――オンナ、だからな」
 南郷が顔を伏せ、胸の中央をベロリと舐め上げてくる。不快さに息を詰まらせた和彦は、堪らず南郷の頭を押し退けようとしたが、動きを読んでいたように、あっさり手首を掴まれて押さえつけられた。その間、南郷は頭を上げる素振りすら見せない。それが、この男の余裕を物語っていた。
 指の腹で軽く押し潰されたあと、胸の突起を熱い口腔に含まれ、きつく吸い上げられる。和彦は小さく身じろいてから、結局顔を背けていた。
 反応すまいとする和彦の意思を突き崩すように、南郷の愛撫は執拗で、濃厚だった。さんざん胸の突起を舌と唇で弄んだかと思うと、指で摘み上げてくる。そして、無防備な脇腹に、突然歯を立ててきた。あくまで軽く、痛みはなかったが、歯の硬さ、強靭なあごの力を感じるには十分で、和彦が身を竦めると、今度は機嫌を取るように舌を這わせてくる。
 緊張と安堵を繰り返しているうちに、知らず知らずのうちに和彦の体は熱を持ち、肌が汗ばんでくる。もちろん、冷や汗ではなかった。
 胸の突起を吸い上げた南郷が顔を上げ、思い出したように和彦の唇を塞いでくる。口腔を舌で犯しながら、手荒く内腿をまさぐられ、欲望を握り締められた。ズキリと腰が疼き、そんな自分の反応に和彦はうろたえる。この瞬間、間近にある南郷の目が笑ったような気がして、ゾッとした。
 慌てて大きな体の下から逃れようとしたが、欲望を握る手にわずかに力を込められ、動けなくなる。あとは、南郷にされるがままだった。
 大きく足を開いた姿勢を取らされ、欲望を扱かれる。与えられる刺激に無反応ではいられない和彦は、南郷の視線に晒されながら、次第に呼吸を弾ませ、腰を揺らし、欲望を熱くしていく。南郷は、貪欲に和彦の反応を求めてきた。
「うっ」
 柔らかな膨らみをまさぐられ、上擦った声を洩らす。南郷は口づけを続けながら、無遠慮な手つきで柔らかな膨らみを揉みしだき、和彦はビクビクと腰を震わせる。
「ここを弄ったときの、あんたの反応は複雑だ。怖がって、戸惑って、だが、確かに感じてもいる。そのことを恥らってもいるし、媚びてもいる。〈あのとき〉は表情を見ることはできなかったが、声だけでも十分それが伝わってきた。こうして表情を見ると――また格別だな」
 弱みを強く指先で弄られ、和彦は悲鳴に近い声を上げる。強い刺激は、恐怖と同じだ。和彦の怯えを察したらしく、南郷は低く笑い声を洩らした。
「どうやら、怖がらせたようだな。……痛かったか?」
 囁きかけてきながら、南郷が唇を吸ってくる。しかし愛撫が止まることはなく、弱みを指先でまさぐられながら、半ば強制されるように和彦は、南郷の口づけに初めて応える。唇をぎこちなく吸い返し、舌先を擦りつけ合う。そして、ゆっくりと舌を絡め合っていた。
 南郷に対する嫌悪や恐怖という感情を一時麻痺させるように、胸の奥から狂おしいほどの官能が湧き起こる。もしかすると、防衛本能からの反応なのかもしれない。
 それともこれが、〈オンナ〉としての自分の本質なのか――。
 和彦が軽い混乱状態に陥っていると、南郷の指が内奥の入り口へと触れる。夢から覚めたように和彦が目を見開くと、南郷から揶揄するように指摘された。
「初心な乙女のような反応だな、先生」
 バカにされたと思った和彦は顔を背けるが、ここぞとばかりに南郷が耳に唇を押し当ててきた。
「ふっ……」
 耳を熱い舌で舐められて、全身が震えるような疼きが駆け抜ける。さらに、鼓膜に刻みつけるように囁かれた台詞に、気が遠くなりかけた。
「――耳の穴を舐められるだけじゃ、物足りないだろ」
 南郷が大きく身じろぎ、和彦は片足をしっかりと抱え上げられる。次に何が起こるかわかっていながら――わかっているからこそ、南郷を見上げることはできなかった。
 内奥の入り口に、たっぷりの唾液を擦りつけながら南郷が言う。
「こう部屋が薄暗いと、手元があまりよく見えないんだが、俺の目には、しっかりと焼きついている。前にあんたのここに触れたときの光景が。さんざん男に可愛がられているだけあって、反応がよかった。軽く擦っただけで、すぐに真っ赤に色づいて、妖しくひくつき始めた。誘い込まれるように指を突き込むと、中の肉は柔らかだったが、一気に締まった」
 太い指が、唾液の滑りを借りて内奥に挿入され、鈍い痛みが下腹部に走る。和彦の意思に関係なく、内奥は南郷の指をきつく締め付けていた。その感触を楽しむように指がゆっくりと出し入れされる。和彦は必死に唇を引き結んでいたが、それが気に食わないのか、南郷が覆い被さってきて、強引に唇を奪われる。
 口腔に押し込まれた舌に懸命に抗っている間にも、内奥で指が蠢き、熱を帯びていく襞と粘膜をねっとりと撫で回され、擦り上げられる。鈍い痛みは遠ざかり、和彦にとっては馴染み深い肉の疼きが押し寄せてくる。喉の奥から声を洩らすと、南郷は心得ているように、内奥の浅い部分をぐっと指で押し上げてきた。強い刺激に意識が舞い上がり、和彦は浅ましく腰を揺らす。
「うっ……、んっ、んふっ」
 同じ行為を繰り返され、腰から下に力が入らなくなっていた。南郷は悠々と和彦の両足を抱え、左右に大きく開くが、逆らえなかった。南郷はベッドの上で、完全に和彦の体を支配してしまったのだ。
 いつの間にか反り返って熱くなって震える欲望を、握り締められる。
「愛想のいい体だ。誰にでも、簡単に懐いて、甘える」
 まるで犬猫でも可愛がるような口ぶりに、ほとんど意地だけで南郷を睨みつけた和彦だが、次の瞬間、大きくうろたえていた。南郷が、スラックスの前を寛げ、欲望を外に引き出していたからだ。薄暗い中にあっても、南郷の欲望が高ぶった形をしていることは見て取れた。
 逃げるべきなのだろうが、動けなかった。牙を剥き出しにした凶暴な肉食獣を目の前にして、下手に動けば食われると、悟った感覚に近いかもしれない。
 和彦が怯えて動けないのをいいことに、南郷は傲慢に振る舞った。和彦の手を取り、前回のときのように、己の欲望を握らせ、扱かせ始めたのだ。そんな和彦に覆い被さり、南郷は顔を覗き込んでくる。
 最初は頑なに視線を逸らせていた和彦だが、南郷の眼差しは凶器だ。目が合わなくても、痛いほどの視線を感じ、無視することができない。あごを掴まれたわけでもないのに、見えない力に従わされるように、和彦は南郷を見上げる。
 その頃には、南郷の欲望はふてぶてしく脈打ち、燃えそうに熱くなっていた。
「あんたと同じだ」
 そう言って南郷が、和彦の両足の間に深く腰を密着させてくる。高ぶった二人の欲望が擦れ合い、もどかしい刺激に和彦は小さく声を洩らす。南郷に乱暴に腰を引き寄せられ、指で蕩けさせられた内奥の入り口に、欲望の先端を押し当てられる。
 和彦は顔を強張らせ、無意識のうちに南郷の腕に手をかけていた。
「――あんたのここに、入れていいか?」
 低い声で南郷に問われ、和彦は答えられなかった。どう答えても、行為に及ばれそうだと思ったからだ。本気か戯れかは関係ない。そうしたいと思えば、南郷は和彦を犯し始めるはずだ。この男に怖いものはないのだ。守光以外に。
「入れてーな。あんたの尻は、おそろしく具合がよさそうだ。何人もの怖い男たちを咥え込んで、骨抜きにしている場所だ。いまさら、俺一人増えたところで、かまわねーだろ」
 話しながら南郷が、内奥の入り口を欲望の先端で押し広げようとする。和彦は悲鳴に近い声を上げていた。
「やめろっ」
 このとき、南郷の目つきが変わった。鋭く、殺気を帯び、射竦めるように和彦を凝視してくる。南郷のこの変化は一体なんなのかと思ったが、それが狂おしい欲情だと理解した瞬間、和彦は上体を捩って逃げ出そうとしたが、南郷に体をうつ伏せにされて押さえつけられ、腰を抱え上げられる。
「うああっ――……」
 内奥をこじ開けられる。挿入されたのは、三本の指だった。
「今の俺に許されているのは、ここまでだ。――我慢してくれ、先生。腰が抜けるほど、感じさせてやるから」
 淫靡な湿った音を立てながら、南郷の指が内奥から出し入れされる。襞と粘膜を強く擦り上げられ、否応なく肉欲を引きずり出されてしまうと、和彦は脆かった。シーツを握り締め、腰を揺らして感じてしまう。
「あっ、あっ、んんっ……、んっ、くうっ」
 南郷に腰を抱き寄せられ、指で内奥を犯されながら、反り返ったままの欲望を手荒く扱かれる。すでに先端から透明なしずくを滴らせていたため、たったそれだけの愛撫でも愉悦で喉を鳴らす。すると、南郷が笑い声を洩らした。
「いいみたいだな、先生。尻が締まったまま、痙攣してる。ビクビクッ、ビクビクッてな。……だったら、ここを弄ってやると、もっといいんじゃないか?」
 柔らかな膨らみを揉みしだかれ、和彦は声も出せずに絶頂に達する。シーツに向けて、精を迸らせていた。
 南郷に乱暴に体を仰向けにされ、緩みきっただらしない顔を覗き込まれる。和彦は南郷の顔を押し退けようとしたが、簡単にいなされた挙げ句、ガウンの太い紐を使って、頭上で両手首を縛られた。そのうえで、南郷から濃厚な口づけを与えられる。縛められた両手を南郷の頭に振り下ろすことは可能だが、快感に浸った体に力が入らない。それはつまり、南郷に屈服したということかもしれない。
「……いい顔になってきたな、先生」
 南郷に囁かれ、再び内奥に指が挿入される。
「んうっ……ん」
 鼻にかかった甘い声が洩れ、誘われたように南郷に軽く唇を吸われる。付け根までしっかりと指が埋め込まれ、ゆっくりと大胆に内奥を掻き回されると、和彦の意思に関係なく腰が妖しく蠢く。
「あっ、いや……、まだ――」
「イッたばかりで、まだ中がひくついているか? いいじゃねーか。もっとイかせてやる。あんたの普段の澄まし顔を知っていると、快感でドロドロに溶かしたくなるんだ」
 南郷は本気で言っていると感じ取り、ゾクリとする。だがそれは、恐怖のためというより、肉の悦びを期待してのものだ。
「あんたは今日、いろいろあって気疲れしているだろ。何も考えられないようにして、ゆっくり眠らせてやる」
 空々しいことを言って南郷が、獣の唸り声のような笑い声を発する。そこに、外から聞こえる激しい雨音が重なり、和彦にはひどく不気味に聞こえた。









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