寝起きの気分は最悪だった。全身に倦怠感が残り、終始眠りが浅かったせいか、頭が重い。
「暑……」
緩慢に寝返りを打った和彦は、思わず呟く。部屋の空気がいつもと違うと感じ、ここで、自分が今置かれている状況を思い出し、ひどく暗澹とした気持ちにもなる。
汗のべたつく感触が不快で、ようやく体を起こしたところで、腰の辺りに残る鈍く重い感覚に気づいた。和彦にとってはある意味、馴染み深いともいえる感覚だ。
なぜ、と思った次の瞬間に、体中の血が凍りつきそうになる。それは、強い羞恥と屈辱感によるせいだ。
動揺を抑えながら、慎重に室内を見回す。カーテンの隙間から差し込んでくる陽射しのおかげで、電気をつけなくても室内は十分明るい。そこに、不穏な影は見当たらない。
ぎこちなく緊張を解こうとした和彦だが、ある変化に気づき、顔を強張らせる。昨夜つけたままにしておいたテレビが、消えていた。リモコンは、ベッドから離れた場所に置かれたテーブルの上にある。
悪夢などではなかったのだと、和彦は嫌でも現実を受け入れるしかなかった。
ベッドに座り直して、自分の格好を見下ろす。昨夜ベッドに入ったときと同じ、Tシャツとスウェットパンツで、その上からガウンを着込んではいるのだが、違和感がある。わかりやすいのは、ガウンの紐の結び目だ。明らかに和彦が結んだものではない。
和彦は大きく息を吐き出すと、乱れた髪に指を差し込む。そうやって、南郷に体を自由に扱われたという事実を受け止める。そうするしかなかった。
昨日は兄の英俊と会って話したうえに、さらに衝撃的な出来事に見舞われて、和彦の頭は混乱していた。何から整理していけばいいのかすら、判断がつかない。ただ、猛然と腹が立ってきた。
怒りの矛先は、当然南郷に向いている。
何かに急かされるようにベッドから出た和彦は、ガウンを脱ぎ捨てると、部屋を出る。廊下には人気はなく、不気味なほど静まり返っていた。とりあえず、部屋の前で和彦を見張るという無粋なマネはしていなかったらしい。
和彦は慌しく一階に下りる。長嶺組と連絡を取り、とにかくすぐに迎えを寄越してもらおうと思ったのだ。だが、玄関まで来て戸惑うことになる。昨日中嶋は、玄関の横に電話があると言っており、実際電話台はあるのだが、肝心の電話が見当たらない。
「――電話機の調子が悪いから、外した」
前触れもなく背後から声をかけられ、ビクリと身を竦める。そんな自分の反応に忌々しさを感じながら和彦が振り返ると、ポロシャツ姿の南郷が立っていた。
「まあどうせ、電話のやり取りをする必要もないし、どうしても必要なら、車で少し山を下りれば携帯は繋がる。俺としては、ここでのんびり過ごしたいから、電話なんて繋がらないほうがありがたい」
「……帰って、なかったんですか」
思わず和彦が洩らすと、歯を剥き出すようにして南郷は笑った。
「あんたは、とっとと消え失せろと思っているだろうが、生憎、そういうわけにはいかない。俺の事情がある」
「あなたの、事情って……」
「俺はあんたに無礼を働き、頭を下げることで許してもらえた。一応。――この件は俺の失点で、俺はそれを取り戻すために、今回あんたの護衛を買って出た。総和会としても、あんたと俺の不和は困るというわけだ。なんといってもあんたは、長嶺組長と総和会の繋がりを緊密にしてくれる、大事な存在だからな」
勝手な、と思ったが、声に出すことはできなかった。南郷を睨みつけることもできず、ふいっと視線を逸らす。こんなことを言いながらこの男は、昨夜和彦の体を嬲り、さんざん好きに扱ったのだ。その生々しい光景が脳裏に蘇り、居たたまれない気持ちになる。
「簡単な朝メシだが、準備ができている。食ってくるといい」
「いえ、食欲がないんで――」
「散歩に出るから、しっかり腹に入れておいたほうがいいぞ」
えっ、と声を洩らした和彦に、本気とも冗談ともつかない口調でさらに南郷が言った。
「なんなら俺が、食わせてやろうか?」
和彦は返事をすることなく、足音も荒く食堂に向かった。
建物から一歩外に出た和彦は、蒸し暑さに顔をしかめる。夜中に降っていた雨のせいもあってか異常なほど湿度が高く、気温以上に暑く感じられる。
額に手をかざしながら空を見上げる。不安定な天候を表すように、灰色の雲が流れてはいるが、青空も覗いている。またにわか雨でも降り出すのではないかと思っていると、南郷に呼ばれた。
「先生、置いていくぞ」
馴れ馴れしい――。心の中でそう呟いて和彦は、南郷に敵意を込めた視線を向ける。
「さっきから言ってますが、一人で行ってください。ぼくはシャワーを浴びたいんです」
「そう慌てるな。今、風呂を掃除しているところだ。散歩して汗をかいて帰ったぐらいで、ちょうどいい頃だ」
「……だったら、部屋で待ってます」
「なら、俺もつき合おう。なんなら、添い寝してやろうか?」
小馬鹿にしたような口調で南郷に言われ、和彦は唇を引き結ぶ。あからさまに昨夜の行為を匂わされると、ムキになって断ることすら、屈辱感に襲われる。引き返したところで、南郷なら本当に部屋に押しかけてきそうだと思い、仕方なく和彦は折れた。
この状況で南郷との力関係ははっきりしており、和彦ができるのは、南郷を怒らせない程度にささやかな抵抗を示すことだけなのだ。
痛い目には遭いたくないと、無意識のうちに和彦は、自分の左頬に触れていた。
昨日、英俊に撲たれた頬は、とっくに痛みは消えているが、受けた衝撃を蘇らせるのは容易い。憂うつな気持ちに、投げ遣りな心境も加わった。
和彦が沈黙したことを承諾と受け取ったらしく、南郷が歩き出す。向かったのは、昨日、ここを訪れたときに気づいた、建物の傍らにある石造りの階段だった。
「――ここを下りていくと、村があった場所に出る」
ゆったりとした足取りで階段を下りつつ南郷が言う。後ろからついて歩きながら、和彦は話を聞く。興味がないからと、耳を塞ぐのはあまりに大人げがなさすぎる。
「村があった?」
「ずいぶん前に廃村になった。山が寂れて、村を出ていく人間が増えて、残った人間も生活が不便になって、やむなく山を下りる。そんな場所の家を嬉々として買うのは、俺たちのような者というわけだ」
「……南郷さん、ここに来るのは初めてじゃないようですね」
南郷が、肩越しにちらりと振り返る。
「あの家を使うときは大抵、目が離せない人間を閉じ込めて、息が詰まるような時間を過ごすんだが、今回は、違う意味で緊張する。あんたに怪我でもさせたら、俺は指を落として謝罪しなきゃいけなくなるからな」
「謝罪って、誰に……」
「もちろん、長嶺の男たちに。それ以外にも、あんたのファンは多いからな。どれだけ恨まれるか」
ここで階段が終わり、なだらかな下り坂へと変わるが、道は舗装されておらず、昨夜の雨でぬかるみ、ところどころ水溜りもできている。和彦は立ち止まり、自分の足元に視線を落とす。こんな事態になるとは想定していなかったため、下駄箱に入っていたサンダルを借りて履いているのだ。
本気で引き返したくなったが、そんな和彦を煽るように、南郷がヌケヌケと提案してくる。
「歩きたくないなら、背負おうか?」
「けっこうですっ」
「だったら――」
肩に南郷の腕が回され、しっかりと抱き寄せられる。突然のことに数秒ほど動けなかった和彦だが、南郷に歩くよう促されたことで我に返る。
「何するんですかっ」
大きく身を捩って逃れようとしたが、その途端、強く肩を掴まれた。和彦は、自分でもどうかと思うほど、南郷が醸し出す凶暴性を恐れている。たとえ露骨に見せつけられなくても、気配を感じさせられただけで、身が竦む。
南郷は、そんな和彦の怯えをよくわかっている。そのうえで、とぼける。
「そんなに恥ずかしがらなくても、この辺りには誰もいない。もしかすると、熊やイノシシが飛び出してくるかもしれないがな。だからこそ、俺の側にいたほうがいい」
Tシャツを通して感じる南郷の手は、汗ばんでくるほど熱かった。その体温が、昨夜体中に這わされたことを思い出し、暑さのせいばかりではなく、体が熱くなってくる。
南郷は、落ち着かない和彦の反応を楽しんでいるのだろう。この男のことをよく知っているわけではないが、そういう性質の持ち主だと確信めいたものがある。
ぬかるんだ道を歩き続けているうちに、朽ちた家に行き当たった。窓ガラスは割れており、屋根は一部が落ちかけている。放置されてずいぶん経っているようで、家の周囲を塀で囲ってはあるものの、内と外の区別もつかないほど、背の高い雑草が生い茂っている。
さらに歩くと、似たような家がぽつぽつと建っており、いつの間にか集落に入っていたことに気づく。家だけではなく、かつては人が行き交っていたであろう道も畑も、何もかもが荒れてしまい、山の一部となりかけているのだ。
和彦は首筋を流れ落ちる汗を手の甲で拭う。蒸し暑いのは和彦だけではないようで、南郷のほうも、浅黒い肌が汗で濡れている。
「あんたは、いかにも都会育ちという感じだが、俺がガキの頃に住んでいたのは、こういうところだった。俺が生まれてすぐに母親が育児放棄ってやつをして、そんなロクでなしの母親を育てた連中――つまり、俺の祖父母が仕方なく俺を引き取ったんだ。物心ついたときには、もう厄介者扱いされていたな。俺としても、こいつら早く死なねーかなと思っていたから、お互い様というんだろうな。この世界じゃ、珍しくない話だ。ロクでもない環境で育って、ロクでもない人間が出来上がったというだけだ」
南郷の話を聞きながら和彦は、自分が育った環境は非常に恵まれていたのだろうなと思いはするものの、だからといって幸福であるとは限らないのだと、ささやかな毒を心の中に溜める。
すると、南郷に指摘された。
「優しげな色男のあんたは、ときどきゾクリとするような冷たい目をするときがある。人を殺しそうな目というわけじゃなく……、なんというんだろうな。自分と、それ以外の存在を切り離したような、孤高――っていうのか。俺は学がないから、上手い表現が思いつかない」
とぼけたような口調の南郷だが、和彦に向けてくる眼差しは、心の奥底までまさぐってくるかのように鋭い。
物騒な世界で生きる男たちは、共通した勘のよさを持っているのかもしれない。いつだったか、賢吾にも似たようなことを指摘されたことを思い出し、和彦は苦々しい気持ちになる。
「……あなたの生い立ちの話をしてたんじゃないですか?」
露骨に話題を逸らされたとわかったのだろう。南郷は微苦笑のようなものを唇に浮かべた。
「生い立ちなんて立派なものじゃない。まさに絵に描いたような、ありがちなヤクザの成り上がり話だ。俺はとっとと田舎を飛び出し、ささやかな伝手を頼って仕事にありつき、そこから実入りのいい仕事へと転々としていく中で、オヤジさんに出会った」
「長嶺会長ですか」
「俺が知り合ったときは、長嶺組長だった。……ヤクザらしくない見た目で、惚れ惚れするほど鋭くて、優しかった。が、怖くもあった。俺はまだ十代のガキだったが、声をかけられただけで舞い上がって、組に入れてほしいと、頭を下げて頼み込んだ。そこでまあ、いろいろとあって、俺は他の組へと預けられたが、それでも十分すぎるほどに目をかけてもらった。そして、今の立場だ」
南郷の話は簡潔にまとまっているが、だからこそ肝心な部分が省略されている。和彦に話して聞かせるほどではないと考えているのか、誰に対してもこうなのか。
隠し子ではないかという噂が流れるほど、守光は南郷を信頼し、側に置いているのだ。そこまでさせるほどの何かが、二人の間にはあるはずだが、今の南郷の話を聞く限りでは、見当がつかない。まるで、目の前に薄い幕を垂らされているような、もどかしさを感じる。
ふいに南郷に顔を覗き込まれる。
「――俺に興味を持ってくれたか、先生」
「そうだと言えば、なんでも教えてくれるんですか?」
「あんたに覚悟さえあるんなら、なんでも教えてやる」
そう答えた南郷の声は、怖い響きを帯びていた。これ以上踏み込んではいけないと、和彦の本能が訴える。
「別に、そこまでは……」
「遠慮することはないんだぜ。なんといっても、俺とあんたはもう、特別な仲だ――」
頬に獣の息遣いが触れる。和彦がハッとしたとき、南郷の顔が眼前に迫っていた。和彦は悲鳴に近い声を上げ、肩に回された逞しい腕を払いのけて逃れる。そんな和彦を見て、南郷は大仰に肩を竦めた。
「あんたには、とことん嫌われたもんだ」
キッと南郷を睨みつけた和彦は、足早に歩き出す。来た道を引き返すのは簡単だが、あの家に戻りたくはなかったし、何よりもう、南郷の顔を見たくなかった。
「おい先生、一人で行くと危ないぞ」
背後から声をかけられたが、かまわず和彦は歩き続け、水溜りに足を突っ込もうが歩調を緩めなかった。それどころか、角を曲がって南郷の姿が見えなくなった途端、一気に駆け出す。
道の状態は最悪に近かった。かつてはそれなりに整備されていたのだろうが、長年放置されているせいで雑草が伸び、ところどころ陥没もしている。それでも進んでいれば、まともな道路に出るはずだった。
そこから山を下りれば、と考えたところで和彦は、舌打ちする。携帯電話を持ってこなかったことを思い出したのだ。当然、スウェットパンツのポケットに小銭も入っていない。
「あっ」
一瞬、足元への注意を怠った拍子に、何かにつまずいて体のバランスを崩す。倒れ込むというほどではなかったが、ぬかるんだ地面に両手と両膝を突いていた。動揺していたとはいえ、和彦は自分の失態にショックを受ける。すぐに立ち上がることもできなかった。
「だから言っただろ。危ないと」
背後から、揶揄するように声をかけられる。ビクリと身を竦めた和彦は振り返ることすらできなかったが、傍らに立たれると無視するわけにもいかない。ゆっくりと顔を上げると、目の前に大きな手が差し出された。
「怪我はしてないか、先生」
「……手が汚れてますから。一人で立てます」
和彦が立ち上がろうと身じろいだ瞬間、強い力で腕を掴まれ、無理やり引き立たされた。驚いた和彦は目を見開き、南郷の顔を真正面から見つめる。南郷が、ニヤリと笑った。
「ツンケンしたあんたが泥で汚れている姿は、実に加虐的なものを刺激される」
その発言に不穏なものを感じ、咄嗟に南郷の手を振り払おうとしたが、それ以上の力で引き寄せられる。後頭部に手がかかり、暴力性を秘めた南郷の目を間近で見てしまうと、それだけで和彦は息苦しくなる。
当然の権利のように南郷が唇を塞いできた。南郷の肩を押し退けようとして和彦は、自分の手が泥で汚れていることを思い出し、躊躇する。その一瞬の隙を、南郷は見逃さなかった。深い口づけで和彦を威圧してくる。
「んっ、うぅ……」
熱い舌が強引に口腔に押し込まれ、我がもの顔で蠢く。不快さに総毛立つが、口腔を隈なく舐め回された挙げ句に、舌を搦め捕られてきつく吸い上げられているうちに、身の内を這い回るある感覚に襲われる。
肉の疼きだった。
おかげで、昨夜南郷の手で感じさせられた事実を改めて直視することになり、それが耐え難い苦痛となる。
和彦は、不自然な形で止まっていた手をようやく動かし、南郷の肩を押し退ける。服を汚してしまうなどとためらっている場合ではなかった。
一度は南郷から体を離し、後退りながら周囲を見回す。道の真ん中でなんてことをと思ったのだが、和彦の恥じらいを南郷は嘲笑った。
「こんなところに、いまさら誰が来るっていうんだ。ぬかるんだ地面を見てわかっただろ。俺たち以外の新しい足跡がついてないことを。何をしようが、どんな声を上げようが、自由ってわけだ」
和彦は踵を返して駆け出そうとしたが、その動きを待っていたように南郷に背後から抱きかかえられ、引きずられる。そして、道の脇に建つ空き家の塀に押し付けられた。荒っぽい動作でTシャツをたくし上げられそうになり、和彦は南郷の手を拒もうとしたが、耳元で囁かれた言葉で動けなくなった。
「あんたは一度でも、こう考えなかったか? 長嶺組長は何もかも知ったうえで、あんたの身を総和会に――俺に預けたと」
和彦が顔を強張らせると、唇の端に笑みをちらりと浮かべた南郷が、言葉を続ける。
「長嶺組の男たちにとって、あんたは使い勝手のいい医者で、そのうえあんた自身の体は、具合がいい。だが、実家が難物だ。肉親の情ってものは厄介だが、あんたの実家はそういう類じゃなく、扱いが難しい。実社会での位置という意味で。これをヤクザは、天敵というんだ。なのに長嶺組長は、あんたを手元に置いている。手放し難い、大事で可愛いオンナということだ」
話しながらも南郷の手は動き続け、汗に濡れた肌を撫で回し、胸の突起を指先で弄ってくる。さらに、首筋をベロリと舐め上げられた。
「あんたを実家から守るため、さらには長嶺組の存在を知られないために、長嶺組長は総和会を利用することにした。あんたの身を、一時総和会に自由にさせることと引き換えに。――自由に、というのは、もちろんこういう行為も含めてだ」
ここで南郷に、顔を覗き込まれる。和彦は視線を逸らすことなく見つめ返した。自分でも意外なことだが、今南郷が言ったようなことを、和彦はまったく考えていなかった。そもそも、そんな余裕がなかったということもあるが、それ自体、ずいぶん間が抜けた話なのかもしれない。
この世界の男たちは、和彦を大事に扱ってくれはするものの、それぞれが狡猾さ悪辣さ、残酷さを持っている。賢吾に関しては、特にそんな気質を感じさせる。なのに――。
南郷は、嘲りなのか、感嘆なのか、短く息を吐き出した。
「……その顔だと、長嶺組長を信頼しているんだな。自分を、今のような生活に追い込んだ本人を」
硬く凝った胸の突起を強く抓られ、膝から崩れ込みそうになったが、南郷の体が密着してきて、思わず逞しい肩にすがりついていた。南郷のポロシャツは汗でぐっしょりと濡れており、体つきや体温がてのひらを通して生々しく伝わってくる。
「そういう……、綺麗な言葉じゃないんです。長嶺組長は、ぼくがこの世界から逃げ出さないために、他の男と関係を持たせた。情や利害でぼくを雁字搦めにして、繋ぎとめているんです。そこまでするあの人だけど――、あなたは違う」
「違う?」
「長嶺組長は、あなたは選ばない……はずです」
「あんたが俺を嫌っているからか」
返事の代わりに和彦は顔を背けたが、すぐに南郷にあごを掴まれて唇を塞がれる。痛いほど唇を吸われたあと、恫喝するように求められた。
「舌を出せ、先生。ケダモノみたいな、下品でいやらしいキスをしようぜ」
自分の今の発言が、南郷の中に変化をもたらしたことを和彦は感じ取っていた。それは、怒りや不快さというわかりやすいものではなく、もっと複雑で、ドロドロとした感情だ。
南郷の、力強くて粗野で無遠慮な眼差しは、和彦の中にある賢吾の存在を抉り出そうとしてくる。それが嫌で、和彦は南郷に従っていた。
おずおずと舌を差し出し、南郷に搦め捕られる。大胆に舌を絡め、唾液すらも交わし、啜り合う。余裕なく浅ましい口づけを交わしながら、南郷に手首を掴まれて促され、太い首に両腕を回していた。南郷の両手に胸や背を手荒く撫でられて、再び胸の突起を弄られる。指先で弾かれ、和彦が微かに喉の奥から声を洩らすと、武骨そうな指で摘み上げられて執拗に刺激される。
ようやく唇が離され、南郷の荒い息遣いが顔に触れたかと思うと、次の瞬間にはTシャツを大きくたくし上げられて、今度は胸に触れる。あっと思ったときには、胸の突起を口腔に含まれ、きつく強く吸い上げられていた。
「あっ、あっ……」
和彦は控えめに声を上げながら、南郷の肩を軽く押し退けようとする。しかし、大きな体を窮屈そうに屈めている南郷はまるで岩のようで、ビクともしない。舌先で突起を嬲りながら上目遣いで見つめてきたが、殺気を帯びているとも言える眼差しの鋭さに、和彦の抵抗は形だけのものとなっていた。
「あんたは、汗までいい匂いだな。むせ返るような雄の匂いがしないから、触れることに抵抗がない。だから、こんなこともできる――」
胸元を伝い落ちる汗を、南郷が舌でじっくりと舐め上げる。そのまま顔を上げ、二人はまた濃厚に舌を絡め合っていた。舌先を通して、自分の汗と、南郷の唾液が混じり合った味を知る。
吐き気のあとに襲いかかってきたのは、眩暈だった。逃げ出したい気持ちと、身震いがしそうな官能の高まりに、和彦の頭は混乱する。ただ、南郷は冷静だった。和彦の両足の間をまさぐり、無反応ではないと確認すると、ためらいもなくスウェットパンツと下着を引き下ろしたのだ。
形を変え始めている欲望を掴まれ、足元が乱れる。一体何をする気かと、眼前にある南郷の顔を凝視すると、物騒な笑みを向けられた。
「なかなか新鮮な経験だろ。道端で、浅ましい行為に耽るというのも。あんたの性質なら、興奮するんじゃないか?」
姿勢を立て直そうとした和彦だが、反対に南郷に体を塀に押し付けられ、片足からスウェットパンツと下着を抜き取られていた。その拍子にサンダルも脱げたが、南郷は頓着しない。どこか楽しげな様子で、和彦の足元を眺めて呟いた。
「泥だらけだな、先生。これならもう、多少汚れたところで、気にする必要はないな」
和彦は必死に南郷を睨みつけるが、口づけを与えられながら欲望を扱かれると、その気力も続かない。
「性質の悪い体だな。男に撫で回されると、すぐに涎を垂らして反応する。長嶺組長は、この体が愛しくて仕方ないんだろうな。……もっとも、誰彼見境なく反応するのは、善し悪しだと思うが」
濡れた先端を指の腹で強く擦られ、声は押し殺した和彦だが、腰が砕けそうになる。南郷の肩にしがみつき、ガクガクと両足を震わせていると、突然、体の向きを変えさせられた。支えを欲して塀にすがりつくと、腰を引き寄せられる。
「あんたは今、無防備だ。あんたを守る男は俺以外におらず、陽の下で、弱みを全部晒している。俺は、そんなあんたを自由にできる。――ちょっとした、王者の愉しみというやつだな」
Tシャツを押し上げられ、背筋のラインに沿って生温かな感触が這い上がってくる。それが南郷の舌だとわかったとき、和彦は上擦った声を洩らして背をしならせていた。この瞬間、倒錯的な状況での南郷の愛撫に、感じていたのだ。
「ああ、一気に熱くなったな。これが気に入ったか、先生?」
そう言いながら南郷に再び背筋を舐め上げられ、欲望を扱かれる。堪らず和彦は声を上げていた。
「うっ、あっ、あぁっ――……」
南郷の膝で強引に足を広げさせられ、さらに腰を突き出す姿勢を取らされる。
南郷の言う通りだった。和彦は無防備な状態で、その和彦を、南郷は自由にできる。この男は、少なくとも今は和彦を痛めつけることはしないだろうが、その代わりに快感を与えてくる。屈辱感も一緒に。
ふいに、尻を撫でられて息が詰まった。次に、激しい羞恥から全身が熱くなる。
「や、め……」
南郷の指に内奥の入り口をまさぐられ、さすがに和彦が身じろごうとしたとき、尻の肉を鷲掴まれた。痛みを予期して体を強張らせると、容赦なく尻の肉を左右に割られた。南郷の視線がどこに向けられているか、振り返って確認するまでもない。
背後から南郷が、笑いを含んだ声で言った。
「昨夜、俺がたっぷり可愛がったせいか、まだ赤みが強いな。それに、柔らかい。こうすると――」
唾液で濡らされた指が内奥に挿入されてくる。
「ひっ……」
内奥で蠢く指が、まだ残っている昨夜の官能の余韻を掻き出し、再燃させる。悔しいが、下肢から蕩けていきそうだった。和彦は間欠的に声を上げ、南郷の愛撫に反応する。南郷も、興奮していた。
「本当に、忌々しいぐらい、いいオンナだ。あんたは……。このまま、後ろから犯してやりたくなる」
感じやすい粘膜と襞を指で擦り上げられ、歓喜する内奥全体がきつく収縮する。和彦はその場に崩れ込みたくて仕方なかったが、それを許さない南郷に片腕で腰を支えられる。
「ほら、先生、しっかりしろ。尻以外も可愛がってやれねーだろ」
腰を撫でられ、背を舐め上げられる。和彦が喉を鳴らすと、媚態を示した褒美だといわんばかりに、反り返って震える欲望を握り締められた。
「あっ、あうっ、くうっ……ん」
「出すか?」
南郷に短く問われ、何も考えられないまま和彦は頷く。南郷の手の動きが速くなり、あっという間に絶頂へと昇りつめる。和彦は熱い吐息をこぼして、精を迸らせていた。すると、余韻なく体の向きを変えられ、だらしない顔を南郷に間近から見つめられる。
現状を認識し、視線を逸らす間もなかった。
「俺に掴まってろ」
短く告げた南郷に唇を塞がれ、和彦はその口づけを拒めない。まだ息が整わないうちに口腔に舌を押し込まれると、受け入れるしかないのだ。互いに荒い呼吸を繰り返しながら、浅ましく舌を絡め、濡れた音を立てて唾液を交わす。
塀にもたれていても自分の力で立っていられない和彦は、南郷が言った通り肩に掴まる。
南郷は、燃えそうに熱くなったてのひらで和彦の体をまさぐりながら、もう片方の手で、自分のパンツの前を寛げ、欲望を引き出した。次に南郷が取った行動を、見ることはできなかったが、感じることはできた。和彦は、動揺を抑えながら、南郷を睨みつける。だが、口づけを止めることはできない。
何もかも倒錯して、異常だった。
野外で下肢を剥き出しにされ、屈辱的な姿勢を取らされながら、嫌いな男の手で絶頂を迎えさせられ、こうして獣じみた口づけを交わすと同時に、敵意を込めて睨みつけていることが。その男は、悠然と和彦の眼差しを受け止めながら、口づけを楽しみ、己の欲望を扱いていた。
「本当は、先生の手でイかせてもらいたいが、普段はきれいな手も、今は泥だらけだからな」
口づけの合間に囁かれ、熱い欲望を下腹部に押し当てられた。
いつの間にか、強い陽射しが照っていた。その暑さと、南郷の体の熱さに、和彦はのぼせてしまう。眩暈がして、肩にかけた手から力が抜け落ちそうになる。このまま意識を手放してしまいそうだと思ったとき、南郷が本物の獣のような唸り声を洩らした。
剥き出しの和彦の腿に生温かな液体がかかる。それは、南郷が放った精だった。
南郷の荒い息遣いが唇にかかり、この獣のような男にこのまま自分は食われるのではないかと、本能的な恐れを抱く。
もちろん、和彦を『守る』ためにここにいると言った男が、そんなことをするはずもなく、これは妄想に近い。
慎重に体を離した南郷は、ここまでの傲岸不遜な態度とは打って変わり、恭しく跪くように、その場に身を屈める。和彦の格好を整えるために。
「自分で――」
和彦は言葉を発しようとしたが、見上げてきた南郷の眼差しの迫力に、もう声が出せない。少しの間我慢してくれと言われて、ポロシャツの裾で二人分の精を簡単に拭われ、格好を整えられる。
このときには、恥ずかしいという気持ちすら、どこかに消えていた。和彦はひたすら、南郷が不気味で仕方なかったのだ。
陽射しを浴び過ぎたせいか、それとも興奮し過ぎたせいか、南郷との〈散歩〉から戻ってきた和彦はひどい頭痛に襲われ、シャワーを浴びて着替えたあと、昼食もとらずに横になった。
本当は、車を出してもらって、携帯電話の電波が入るところまで行きたかったのだが、体が言うことをきかない。ただ、心のどこかで、体調の変化に救われたとも思っていた。
この家に連れてこられたばかりのときは、賢吾と連絡を取りたかったのだが、正直今の気持ちは微妙だ。電話を通して、自分に起きた出来事を賢吾に悟られるのが嫌――というより、怖かった。
賢吾だけではない。千尋にも、三田村にも心配をかけてしまっている。
男たちの顔を思い浮かべたあと、和彦はつい苦笑する。賢吾の思惑通りなのか、自分は男たちへの情で雁字搦めになっていると、改めて痛感していた。そのうち自分は、男たちへの情で溺れ死んでしまうのではないかと、ありえない想像までする。
ここで和彦は、眉をひそめる。何かの拍子に脈打つように強い頭痛がして、吐き気まで伴い始める。そのため、ドアがノックされても、返事をする気にもなれなかった。何より、相手が容易に推測できた。
案の定、遠慮なくドアが開き、新しいポロシャツに着替えた南郷が姿を見せる。手には、ミネラルウォーターのボトルと、小さな箱を持っていた。
「食堂に置いてある救急箱に、鎮痛剤があった。飲むだろ、先生」
あんなことをしておきながら、何事もなかったように声をかけてくる南郷に対して、やはり不気味さを感じる。それと、戸惑いも。猛烈な怒りを抱くには、肉体的にも精神的にも疲れていた。当然、意地を張る気力もない。
和彦は頷くと、慎重に体を起こす。傍らに立った南郷から受け取ろうとしたが、当の南郷は、ボトルと鎮痛剤の箱を、枕元に放り出した。からかわれたと思った和彦は、南郷を軽く睨みつけてから、ボトルに手を伸ばそうとする。すると、ベッドに腰掛けた南郷にその手を掴まれた。
「頭が痛いと言っていたが、熱もあるんじゃないか。顔が赤い」
「……陽射しにあたって、火照っているだけです」
「陽射しだけか?」
揶揄するように言った南郷につい鋭い視線を向ける。和彦の反応をおもしろがるように唇を緩めた南郷は、鎮痛剤の箱を開け、シートを取り出した。大きなてのひらに錠剤を二つのせて、こちらに差し出してきたので、和彦は錠剤を受け取って口に入れる。さらに南郷はボトルを手に取り、和彦の見ている前で自分が口をつけた。
意味ありげな眼差しを寄越された和彦は、伸ばされた南郷の手を一度は押し退けたが、あっさりと肩を抱かれて引き寄せられる。
「んっ……」
南郷の唇が重なり、冷たい水をゆっくりと口移しで与えられる。少しだけ唇の端からこぼれ落ちたが、和彦は微かに喉を鳴らし、鎮痛剤と一緒に呑んだ。
和彦が抵抗しなかったことで気をよくしたのか、南郷は熱心に唇を吸い始める。最初は体を硬くしていた和彦だが、柔らかく南郷の唇を吸い返す。口づけが熱を帯びるのは早かった。
舌先を触れ合わせ、擦りつけ合ってから、緩やかに絡めていく。肩を抱く南郷の手に力が加わり、二人はより密着する。和彦は無意識のうちに、南郷の胸に手を突いていた。見えない距離が近くなった南郷との間に、境界線を引く行為に近い。しかし、南郷は易々と踏み越えてくる。
「素直になったな、先生」
唇を吸い合う合間に、そんなことを南郷が言う。和彦は弾んだ息を誤魔化すため、抑えた声で応じた。
「ぼくが暴れたところで、あなたは簡単に押さえ込めるでしょう。……ぼくは、痛い思いはしたくないんです。痛い目に遭うぐらいなら、多少の不快さは我慢できます」
「不快、か。あんたは、弱いんだか、強いんだか、わかんねーな。まあ、今はっきり言えるのは、俺はあんたとのキスを、かなり気に入ってるってことだ」
次の瞬間、南郷が覆い被さってきて、和彦はベッドに仰向けで倒れ込む。また、体に触れられるのかと身構えた和彦に対して、南郷が甘く恫喝してきた。
「セックスみたいなキスをしようぜ、先生。俺を満足させてくれ」
唇を吸われて呻き声を洩らした和彦だが、それ以上の抗議も抵抗もできなかった。南郷が大きな手で髪を撫でながら、下唇と上唇を交互に甘噛みしてくる。合間に歯列を舌先でくすぐられ、肉欲の疼きが体の内から湧き起こる。
昨夜からずっと、南郷によって官能を刺激され、鎮まりかけても巧みに煽られ続けていた。南郷は不気味な男だが、〈オンナ〉である和彦の扱いをよく心得ている。恐怖と屈辱と羞恥だけではなく、しっかりと快感を味わわせてくるのだ。
「――今、発情した顔になったな」
唇を離した南郷に指摘され、カッとした和彦は肩を押し退けようとする。おどけた仕種で南郷は体を揺らし、和彦のささやかな反抗を簡単に受け流した。ますます和彦がムキになろうとしたそのとき、部屋のドアがノックされた。
「南郷さん、そろそろ出発の時間です」
ドアの向こうからそう声がかけられ、おう、と短く応じた南郷があっさりと体を起こした。唇を拭う和彦を見て、気を悪くした様子もなく南郷が言った。
「先生ともっと遊びたかったが、俺の時間切れだ。これでも隊を率いていて、何かと忙しい身でな」
「……失点がどうとか言ってましたが、本当は、あなたがここに来るほど、切迫した理由はなかったんでしょう」
「切迫した理由はなかったが、来る必要はあった。怖い長嶺組長の目が届かない状況なんて、そうはないからな。先生とは、もっと打ち解けておきたいんだ」
「勝手なことを……」
和彦がぽつりと呟くと、南郷はニヤリと笑ってこう言い放った。
「あんたは慣れてるだろ。そういう勝手な言い分を。そのうえで、あんたは男たちを甘やかして、骨抜きにする」
言い返せなかった。和彦が唇を引き結ぶと、その反応に満足したのか、南郷はもう何も言わずに部屋を出ていった。
和彦は仰向けになったまま少しの間ぼんやりしていたが、外から人の話し声が聞こえてきて、体を起こす。鎮痛剤が効き始めているのか、頭痛がいくらか和らいでいた。
床に下り立ち、慎重に窓に近づく。カーテンの陰からそっと外の様子をうかがうと、家の前に停められた車に、南郷が乗り込んでいた。すぐに車は走り去り、それを見届けた和彦は、嵐が去ったあとのような安堵感を覚える。
もう一度唇を拭った和彦は、口をすすぐために洗面所に向かった。
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