と束縛と


- 第29話(4) -


 日曜日の夕方まで、山の中にある隠れ家で過ごした和彦は、説明もないまま車に乗せられて移動する。総和会との関わりで、必要な情報を与えられないまま連れ回される情況に、さすがに慣れた――というより、諦めてしまった。
 だからといって、何も感じないわけではないのだ。
 車がどこに向かっているのか、さすがに察してしまうと、これだけは慣れない緊張感に襲われる。車が停まったのは、総和会本部だった。
 まだ、総和会の人間に囲まれる状況が続くのだろうかと、表現しようのない不安に心が揺れる。促されるまま車を降り、いつものようにエントランスホールを通って、一人でエレベーターに乗り込むと、四階に上がる。
 和彦が知る限り、守光の住居空間を守るための配慮なのか、四階には人気がないことが多いのだが、今日は違った。エレベーターの扉が開くと、正面のラウンジに数人の男たちがおり、真剣な――というより、緊迫した面持ちで話していた。一瞬、自分は上がってきてよかったのだろうかと困惑した和彦だが、男の一人がすぐにこちらに歩み寄ってきた。守光の身の回りの世話をしている男だ。
「お疲れ様です、佐伯先生。会長がお待ちです」
「は、い。……あの、何かあったんですか?」
 男は曖昧な笑みを浮かべ、守光の住居のほうを手で示す。
「行かれたら、おわかりになると思います。先生でしたら大丈夫でしょう」
 気になる物言いだが、男たちの様子は、あれこれと質問できる雰囲気ではない。ますます緊張を募らせて、廊下の突き当たりにあるドアの前に立つ。インターホンを鳴らすと、誰何されることなくドアが開き、着物姿の守光が姿を見せる。
「大変だったな、先生。さあ、入りなさい」
 温和な表情で守光に出迎えられ、和彦は戸惑う。さきほどの男たちの緊迫した様子と、すぐに結びつかなかったからだ。ぎこちなく玄関に足を踏み入れると、そこに、革靴が並んでいた。和彦は、意識しないまま小さく声を洩らす。
「さっきから、あんたの到着が遅いと言って、機嫌が悪い。早く顔を見せてやるといい」
 守光に促されてダイニングに向かうと、スーツ姿の賢吾がイスからゆっくりと立ち上がるところだった。
 賢吾の顔を見た途端、和彦は胸が詰まった。久しぶり、というわけでもないのに、ひどく懐かしい気がして、それだけではなく、込み上げてくる感情がある。安堵もあるが、もっと強い、狂おしい何かだ。
 一方の賢吾は、わずかに目を細めると、和彦に向けて片手を差し出してきた。吸い寄せられるように歩み寄った和彦は、あっさりと賢吾の腕の中に閉じ込められた。力強く温かな感触に、ここまで張り詰めていた糸が一気に切れる。和彦は半ば条件反射のように賢吾に身を預けようとしたが、ここがどこで、自分たち二人だけではないことを思い出す。
「あっ、どうしてここに……」
 今朝、ようやく本宅に連絡は入れたのだが、そのときの賢吾の態度はいつもと変わらず、特に和彦の心配をしていた様子でもなかったのだ。それだけに、こういう形で顔を合わせたことに戸惑うしかない。
「自分のオンナを迎えにきたら、おかしいか?」
 ふいに、前にも同じような状況があったことを思い出す。守光の自宅に、賢吾がこうして和彦を迎えにきたのだ。ここで、外にいた男たちの緊迫した様子の理由が、なんとなく理解できた。滅多に総和会本部に顔を出さないという賢吾が、おそらく連絡もなしにやってきたのだろう。
 和彦は、じっと賢吾の顔を見つめる。悠然とした物腰は普段と変わらないが、少しだけ両目に険しさが宿っている。賢吾が怒っていると感じ、和彦は本能的に怯えていた。隠れ家での出来事を、賢吾が把握していると思ったのだ。
 守光が何か話したのだろうかと、背後を振り返ろうとしたが、それを阻むように賢吾の手が頬にかかる。
「なんだ。俺によく顔を見せてくれないのか、先生?」
「そんな……。久しぶりというわけでもないのに」
「久しぶりどころか、二度と先生の顔が見られなくなっていたかもしれないんだ。先生の顔を見て、俺が感動に胸を詰まらせていると考えないのか」
 なんとも賢吾らしい物言いに、和彦はちらりと笑みをこぼす。この男のもとに帰ってこられたのだと実感していた。ここで賢吾に、左頬を丁寧に撫でられる。
「報告を受けた。顔を合わせた早々、兄貴に殴られたそうだな」
「……そう、手酷くやられたわけじゃない」
「場所を移動してからは? 人目を気にせず、先生を痛めつけてきたんじゃないか」
 和彦は曖昧な表情で返し、返事をはぐらかそうとする。するとそこに、守光の声が静かに割って入ってきた。
「あんたを、長嶺の本宅に直接送り届けなかったのには、それなりの理由がある。わしに――総和会会長に対して、報告の義務を果たしてほしかったからだ。あんたと佐伯家の人間を接触させることに、多少なりと危険を冒したつもりだ。わしも、賢吾も」
 長嶺の男は、甘くはない。
 和彦は、賢吾の表情をちらりとうかがう。守光の言葉に異を唱えなかったということは、賢吾も同じ意見なのだろう。ここが総和会の本部である以上、会長である守光を立てなければならないということもあるだろうが、賢吾もまた、長嶺組組長として組織を背負っている責任がある。
 和彦が頷くと、賢吾に促されてイスに腰掛ける。正面に、賢吾と守光が並んで座ったが、荒々しさを感じさせない顔立ちと物腰の二人から、圧倒されるほどの凄みを放たれ、和彦は息を呑みつつも、改めて実感していた。
 背負い、身の内に飼っている生き物は違えど、この二人は血が繋がった父子で、同じ世界に生きる極道なのだと。
 和彦の緊張を感じ取ったのだろう。賢吾がわずかに唇を緩めた。
「そう、硬くなるな、先生。いつも俺に世間話をしているように、自分の兄貴と何を話したか、教えてくれればいい。何を聞かされても、少なくとも今は、佐伯家にちょっかいを出す気はねーからな」
「……今は?」
「長嶺の男から、先生を取り上げようとするなら、こっちにも考えがあるということだ」
 本当に話していいのだろうかと、急に不安に駆られたが、男たちが何を考え、もしくは企んでいるのか、和彦に読みきることは不可能だ。口を噤んでいることも。
 英俊の怜悧な眼差しを思い浮かべ、覚悟を決めた。放っておいてほしいというこちらの気持ちを無視しようとするのなら、ささやかに牙を剥く権利を与えられても許されるだろうと、誰に対してかそう言い訳をしながら、和彦は口を開く。
 英俊から聞かされた内容そのものには、特に驚かされるものがあるわけではない。鷹津が得てきた情報が確かなものであったと裏づけが取れたようなものだ。重要なのは、佐伯家が和彦を必要としていると、英俊の口から告げられたことだ。
「ぼくの後ろに誰かがいると、感づいているようだった。だけど――……」
「それがヤクザだとまでは、さすがに気づいていない様子だったか?」
「少なくとも、兄さんは。父さんは……どうだろう」
 そう答えながら和彦は、守光に目を向ける。守光と、和彦の父親である俊哉は、昔とはいえ面識があると聞いている。長年官僚の世界で、野心的に、そして精力的に生きてきた者特有の勘と知識で、俊哉は何か嗅ぎ取っているかもしれない。
 守光と俊哉は、生きる世界は違うが、共通する鋭さを持っていた。その鋭さは、人が隠そうとするものすら見通してしまいそうなのだ。
 守光は、賢吾を一瞥してから、皮肉っぽく唇の端を動かした。
「お前が余計なことをしたせいで、先生を苦しい状況に追い込んだな」
 賢吾は心外だと言わんばかりに反論する。
「佐伯家の反応を知るために、必要だった。あの、お高くとまった家が、先生をいないものとして扱っているのなら、先生には悪いが、こちらとしては都合がよかった。むしろ予想外だったのは、どこかの〈大物〉の反応だ」
「さすがのお前でも、読み違えることはあるという、いい教訓だな」
 守光が薄い笑みを浮かべたのとは対照的に、賢吾が忌々しげに唇を歪める。和彦は、いつ険悪な雰囲気になるかと気が気でないのだが、当人たちは、寸前のやり取りなど忘れたように、何事もなかった顔で和彦を見つめてくる。
 和彦には馴染みがないが、父子とは、遠慮がない分、加減もわかっているからこそ、こういう会話も交わせるのだろうかと、少し不思議な気持ちになる。
 もちろん長嶺父子が、世間の一般的な父子の枠に当てはまるとは、まったく考えていないが。
「……自分の気持ちは伝えてはみたけど、当然のように兄さんは――、ぼくの実家は聞き入れる気はないと思う。いままで以上に、執拗にぼくと接触しようとしてくるかもしれない」
「それは怖いな」
 言葉とは裏腹に、賢吾は笑っていた。しかも、穏やかに。自分の言葉が軽く受け止められたのだと思い、和彦はムキになってさらに続けた。
「余裕たっぷりに笑っているけど、ぼくの身はともかく、組が目をつけられたら、どうするんだっ。きっと面倒なことになる。それに、あんたや千尋、組員たちに迷惑をかけることにも――」
「心配してくれるんだな」
 さらりと賢吾に言われ、和彦は咄嗟に反応できなかった。自分の胸の内でどんな感情が湧き起こったのか把握しかねているうちに、顔が熱くなってくる。並んで座っている長嶺の男二人の顔が見られなくて、テーブルに視線を落としていた。
「そんな、つもりは……」
「面倒や迷惑っていうなら、それはこっちの台詞だ、先生。俺たちはとっくに、先生に面倒も迷惑もかけ通しだ。いや、そんな言葉じゃ足りない。先生の順風満帆な人生を奪ったんだからな。寝首を掻かれても、文句は言えない」
「……そんなこと、ぼくにできるはずがないと、思ってるんだろ」
 和彦がきつい視線を向けると、予想に反して賢吾は表情を引き締め、自分の首筋に片手をかけた。
「やりたいなら、やっていいぞ。組の跡目はもういるからな。こっちの古狐が睨みを効かせている間は、うちの組にちょっかいを出す輩もいないだろうし、千尋でもなんとかなるだろう」
 賢吾が本気で言っているわけではないとわかってはいるが、冗談にしても毒気が強すぎる。さきほどから黙っている守光が、さすがに苦笑を浮かべていた。
「自分の父親の前で、よくそんなことが言えるな」
「――さすがのあんたも困るか? 俺がいなくなると」
 こう言ったときの賢吾の声には冷たい刃が潜んでいるようで、聞いていた和彦が驚いてしまう。一体何事かと思い、父子を凝視する。守光は、穏やかな口調で応じた。
「困る、困らないという話ではないだろう。息子を失うということは。それにお前は、長嶺組の大黒柱だ。折れることはもちろん、亀裂一本、入ることは許されん。その点では、千尋は柱どころか、ただの若木だ。すんなり伸びて美しいし、しなやかではあるが、弱い。あれはこれからもっと、わしとお前とで鍛えてやる必要がある」
「長嶺組に大事があれば、それは、総和会に細い亀裂が一本入りかねない、ということか」
「亀裂一本とは、控えめな表現だな。巨体が傾ぎかねんと、わしは考える」
「巨体とは、何を指しているんだ。総和会か、それとも――」
 賢吾が意味ありげな視線を、守光に向ける。守光は堂々とその視線を受け、笑った。守光のこの余裕は一体どこからくるものなのだろうかと、和彦は考えていた。賢吾を育ててきた父親としてのものなのか、巨大な組織の頂点に立つ者としてのものか。
 無意識のうちに息を詰め、二人のやり取りを見つめていた和彦に気づいたのだろう。ふいに賢吾がこちらを見て、わずかに表情を和らげた。
「びっくりさせたな、先生。気にするな。俺とオヤジは、昔からこうだ。二人揃って理屈っぽいからな。こうやって言い合うせいで、総和会会長と長嶺組長は不仲なんて噂がたびたび流れるんだ。だから、外で控えていた連中も、ピリピリしていただろう? 先生のことで殴り合いでも始めるとでも思っているのかもな」
「ぼくのことって……」
「――もうしばらく佐伯家の動きを警戒して、あんたをうちで預かりたいという話を、電話で賢吾にしたんだ。すると、連絡もなくここに押しかけてきてな。そのときの賢吾の剣幕を見て、うちの者たちがいろいろと気を回していたようだ」
 また賢吾から引き離されるのかと、愕然とした和彦は、そう感じた自分自身に奇妙な気持ちを抱く。これまで、この世界で頼れるのは賢吾と長嶺組だという現実を受け入れてきたつもりではあったが、それは、そうせざるを得ない状況があってのことだとも考えていた。
 しかし今、咄嗟に感じた心細さは明らかに、信頼に裏打ちされた感情だ。
 うろたえる和彦に対して、賢吾が静かに問うてくる。
「どうする、先生? 不安だというなら、俺は無理強いはしない」
 一緒に帰るぞ、という言葉を望んでしまうのは、わがままなのだろうか――。
 和彦は、軽い失望感を表に出すことなく、懸命に自分の考えを口にした。
「……実家は、探偵を雇ってまで、ぼくを捜したと言っていた。だけど、前に住んでいたマンションを出てからの動きを追えなかったそうだ。長嶺組が上手く対処してくれたからだ。今回は、長嶺組だけじゃなく、総和会も動いてくれたから……、もう大丈夫だと思う。早く、落ち着きたい」
 賢吾は何も言わない代わりに、どうだ、と言いたげな表情で守光を見遣った。
 守光は短く息を吐き出したあと、柔らかく笑んだ。
「ここは、落ち着かんかね」
 思いがけない一言に、和彦は激しく動揺し、救いを求めるように賢吾を見る。賢吾は忌々しげに唇を歪めた。
「自分のわがままが通らないからって、先生をからかうな、オヤジ。困ってるじゃねーか」
「お前は、先生の口から、自分の希望通りの答えが聞けて、満足そうだな」
「俺が言ったところで、聞きやしないだろ。あんまりわがままが過ぎると、若い者から嫌われるぞ」
 そう言いながら、賢吾の口元が緩む。和彦はようやく、自分が抱いた失望感が単なる勘違いだったことを知る。賢吾は、和彦が帰りたがると確信していたのだ。
「話はこれだけだ。さっさと先生を休ませてやりたいから、帰るぞ」
 賢吾が立ち上がろうとしたが、次の守光の発言で動きを止めた。もちろん、和彦も。
「――総和会会長の権限で、先生をここで預かりたいと考えている」
「権限、か」
 発せられた賢吾の声は、静かではあったが、ゾッとするほど冷たかった。守光もまた、同じような声で応じた。
「わしにとって、総和会も長嶺組も、同じぐらい大事だ。そのどちらも守るために最大限の努力と警戒をしなければならん」
「ここに置いて、先生の身が安全だと言い切れるのか?」
 賢吾の問いかけで、和彦の脳裏を過ぎったのは、南郷の顔だった。反射的に和彦は立ち上がり、長嶺の姓を持つ男二人は、わずかに目を丸くする。頭で考えるより先に、口が動いていた。
「……ぼくが、総和会と長嶺組から距離を置きます。この世界の組織とはそういうものだとわかってはいますが、父子間で『権限』なんて単語を使われると、側で聞いているぼくが、心苦しいです。組織同士で難しい事態になるというなら、原因となっているぼくが、長嶺の人間と無関係になってしまえば――」
「面倒くさい長嶺の男たちなんて、いらねーか?」
 軽い口調で賢吾に言われ、和彦はつい睨みつけてしまう。ムキになって言い返していた。
「そんなことは言ってないっ。ただ――……」
 さらに言い募ろうとしたところで、守光が片手をあげて制する。そして、子の成果を誇る親のような顔で、賢吾を見た。
「わしとお前が争う姿は見たくないそうだ。父子関係で個人的に思うことがあるのかもしれんが、わしがこの先生を気に入っているのは、この性質だ。この先生は、長嶺の男たちを繋ぎ、総和会と長嶺組を繋ぐ。それに、お前の執着心の結果として、さまざまな男たちを繋ぐ。使える男たちを」
「――……俺以外の男に言われると、けっこうムカつくもんだな」
「狭量な男は嫌われるぞ」
 賢吾が苦虫を噛み潰したような顔をする。和彦としては、二人が険悪な雰囲気にならなかったことに素直に安堵すべきなのか、戸惑わずにはいられない。所在なく立ち尽くしていると、守光に促され、ぎこちなくイスに座り直す。
「まあ、先生に悲壮な顔をさせるのは、本意ではない。少々厳しいことを言ってみたが、今のところ差し迫った危機はないだろう」
「意地の悪いジジイだ……」
 賢吾の洩らした言葉に、和彦のほうがハラハラするが、当の守光は穏やかに笑っている。この父子が保っている関係のバランスは、他人である和彦には本当に難解だ。
「では、ジジイのささやかなわがままとして、今夜は二人でここに泊まってくれ。お前としても、総和会会長と長嶺組長がケンカ別れしたと噂されるより、久しぶりに父子が一晩語り合ったようだと思われるほうが、煩わしくなくていいんじゃないか」
「……どうあっても、自分のわがままは通す気だな」
「お前とよく似ているだろう?」
 澄ました顔で応じた守光に、賢吾が何も言えなかったことで、一応の結論は出たようだ。賢吾が目配せしてきたので、和彦は小さく頷いた。


 守光と賢吾の晩酌は、非常に和やかなものだった。和彦も少しつき合ったのだが、二人が笑い合って話している姿が新鮮で、同時に、羨ましくもあった。
 組織という利害が絡むときは遠慮なく互いの意見をぶつけていながら、こうも簡単に空気を切り替えられるものかと感心すらしたが、やはり父子として、組織を背負う者として、積み重ねてきたものがあるからこそ可能なことなのかもしれない。
 二人に倣って日本酒を口にしていた和彦だが、疲れと緊張のせいもあり、すぐに酔いが回ってくる。守光の勧めもあって、先に席を立つと、シャワーを浴びて汗を洗い流し、客間に入る。すでに床が延べてあった。
 布団の傍らに座り込んだ和彦は、ほっと息を吐き出す。この三日間、本当にいろいろあったと、改めて噛み締めていた。いろいろありすぎて、現実感が伴っていない部分もある。もしかすると、目を背けていたいという気持ちの現れかもしれない。
 隠れ家に南郷が来たことを、賢吾に黙っているわけにはいかない。何をされたかも。
 沈鬱な気分に陥りかけた和彦だが、だからこそ、ここで嫌なことに思い至った。もしかすると賢吾は、何もかも承知していたのではないか、ということだ。
『あんたを実家から守るため、さらには長嶺組の存在を知られないために、長嶺組長は総和会を利用することにした。あんたの身を、一時総和会に自由にさせることと引き換えに。――自由に、というのは、もちろんこういう行為も含めてだ』
 南郷から言われた言葉が、脳裏を過ぎる。なんとなくだが南郷から、言葉による毒を注ぎ込まれたようだった。南郷の前では否定して見せたが、今になってじわじわと効き始め、和彦の中に猜疑心を生み出そうとしている。
 守光に対する賢吾の言動を見ている限り、南郷が言ったようなことはありえないと思うのだが、賢吾ほどの男なら和彦を欺くのは容易だと、これまでの経験で骨身に染みてもいる。
 急に、賢吾と部屋で二人きりになることが怖くなり、和彦は慌てて布団に潜り込む。そのまま身を固くしていると、しばらく経ってから、引き戸がゆっくりと開く音がした。
「――先生、寝たのか?」
 低く囁くような声がかけられたが、体を横にして背を向けた格好となっている和彦は、顔が見えない位置なのをいいことに、返事をしなかった。賢吾はそれ以上声をかけてこず、隣で寝る準備をしている気配がする。
 それを背で感じていた和彦だが、このまま眠ることはできそうにないため、一度深呼吸をしてから口を開いた。
「……今回のことで、ぼくの存在を面倒だと思わなかったか?」
 背後で動く気配が止まり、和彦は反射的に身を竦める。数秒の間を置いて聞こえてきたのは、低く抑えた笑い声だった。
「先生は、優しすぎるな。もっと傲慢になったらどうだ。人生をめちゃくちゃにしたヤクザ共は、自分のために少しぐらい苦労したほうがいいと。そう思ったところで――いや、それでもまだまだ優しいし、甘いな」
 和彦は寝返りを打つと、隣の布団の上で胡坐をかいている浴衣姿の賢吾を見上げる。
「別れ際に兄さんから、父さんの伝言を聞かされた。顔を見せに帰ってこい、と……。この言葉を聞いたとき、ものすごく嫌な感覚がした。ぼくの父親は、何があっても、自分の思う通りに息子を従わせるつもりだと」
「まさか、父親とも会う必要があるなんて、言うんじゃねーだろうな」
 賢吾が大仰に片方の眉を動かして言った言葉に、和彦は目を丸くしたあと、苦笑を洩らす。
「少なくとも……、今は必要ない。兄さんと会って、よくわかった。ぼくの要望は、受け入れられない。あの人たちの野心のために自分の身を差し出せるほど、ぼくは優しくも甘くもない」
「先生の話を聞いていると、つくづく思う。世の中、いろんな家族の形があるもんだってな」
 賢吾が布団を軽く叩いたので、意味を察した和彦は起き上がる。片腕を掴まれて引き寄せられ、賢吾の胸元にもたれかかった。手荒く後ろ髪を撫でられて、和彦はおずおずと賢吾を見上げる。大蛇の化身のような男は、和彦が心の内に何を抱え込んでいるか、とっくに見抜いていたようだった。こう、問いかけてきた。
「――隠れ家で、怖い目に遭わなかったか? 熊なんかが出るらしいが、先生にとっては、そっちの獣より、人間のほうが怖かったんじゃねーか」
 誤魔化すこともできず、和彦は賢吾の肩に額を押し当て、呻くように答えた。
「怖かった……」
 南郷の腕の逞しさや、肌の熱さ、汗と精の匂いが蘇り、眩暈がする。ただ、怖かっただけではない。あの男は、和彦に快感も与えてきたのだ。
 大きな手に背をさすられ、それだけで微かな疼きを覚えた和彦は、賢吾にしがみつく。
「……手荒なことは、されなかった。ただ、ぼくが抵抗できなかっただけだ」
「あの男は、大事なオンナの扱い方を心得ている。大事な〈オヤジさん〉のオンナだからな」
 名を出さなくても、賢吾にはしっかりと伝わっている。賢吾の手が頬にかかり、顔を上げさせられそうになったが、和彦は小さく首を横に振って拒む。事態を把握した賢吾がどんな顔をしているか、冷静に見られそうになかった。すでに頭も心も、ここまで起こった出来事を受け止めるのに、ギリギリの状態だ。
 そんな和彦に、賢吾が冗談交じりで言った。
「ようやく二人きりになれたというのに、キスをさせてくれねーのか、先生」
 再び促され、仕方なく顔を上げる。賢吾が顔を寄せてきて、和彦は、大蛇が潜む両目を間近から覗き込むことになる。冷酷で容赦がないくせに、狂おしいほど和彦を求め、執着してくる生き物を、恐れながらも、どうしようもなく欲してしまう。
 この男から引き離されなくてよかったと、心の底から実感していた。
 賢吾に唇の端をそっと吸われ、声にならない声を洩らす。そんな自分に気づいた和彦はうろたえ、羞恥するが、もう一度唇の端を吸われると、自分から唇を寄せていた。
 しっとりと唇を重ね、柔らかく互いの唇を吸い合う。その間に、賢吾の手によって浴衣の帯を解かれ、前を開かれる。和彦も同じく、賢吾が着ている浴衣の帯を解いていた。湯上がりの名残を残している熱い肌を忙しくまさぐり、何より求めてやまない、背の大蛇に触れる。
「先生は本当に、〈こいつ〉が好きだな。俺が妬けるほどだ」
 舐めるか、と問われ、和彦は頷く。賢吾はすぐに浴衣を脱ぎ、和彦は背後に回り込んだ。
 見事な大蛇の刺青をまず目に焼きつけてから、広い背に丹念にてのひらを這わせ、衝動のまま唇を押し当てる。巨体の輪郭をなぞるように舌先を動かしていると、賢吾の背の筋肉がぐっと強張った。
 もし、英俊に無理やり連れ去られるような事態になっていたら、この大蛇に触れることは二度とできなかったのだ。そう思うと、情欲とはまた違う、強い感情に胸を揺さぶられる。多分これは、愛しいという感情だ。そしてこの感情は、この大蛇を背負う男に対して向けられている。
「――俺とオヤジは、嫌になるほど似ている」
 ふいに賢吾が話し始める。和彦は、背に唇を押し当てたまま耳を傾ける。
「優しくて愛情深くて、淫奔でしたたかな先生の性質を、俺は、この世界に繋ぎとめるために利用している。俺が許した男たちと関係を持たせて、先生を雁字搦めにしているんだ。こんなことをするのは、俺ぐらいのものだと思っていたが……、さすがは、俺のオヤジといったところだな」
 賢吾の胸元に手を回すと、いきなりその手を掴まれ、下腹部へと導かれる。触れた賢吾の欲望は、いつの間にか熱く高ぶっていた。吐息をこぼした和彦は、しっかりと握り込むと、緩やかに扱く。
「オヤジは、先生と南郷を繋ごうとしている。なんとなく、目的が見え始めてはいるが、まだはっきりとしたことは言えない。今問い詰めたところで、とぼけられるのがオチだろうな」
 賢吾が引き戸のほうに顔を向けたので、和彦もつい反応してしまう。同じ家の中に守光もいるのだと思うと、自分が今、とてつもなく恥知らずな行為に及んでいるのだと認識させられる。怖気づいたとも言えるかもしれない。
 和彦は慌てて体を離そうとしたが、賢吾がそれを許さなかった。腕を引っ張られて布団の上に転がされてうつ伏せになると、さらに浴衣を剥ぎ取られ、下着も強引に脱がされる。
「おいっ――」
「総和会という枠の中じゃ、俺がオヤジに対して取れる抵抗は高が知れてる。父子であることは強みだが、同時に弱みでもあるんだ。俺は組を守る責任があり、組員たちの生活も守ってやらなきゃいけない。だが、このオンナを手放すこともできない」
 背に、賢吾の熱い体がのしかかってきて、押し潰されそうな圧迫感に息が詰まる。和彦は逃れようと抗ったが、きつく抱き締められると、息苦しさすら心地よく思えた。これは、賢吾の執着心の強さの表れだと感じたのだ。
「いっそのことお前を、どこかに隠しちまおうかとも思うが、そうなると、お前に焦がれている男たちに、俺が恨まれかねないからな。――咥え込んだ男を片っ端から骨抜きにするんだから、お前は本当に性質が悪い。性質が悪いが、だからこそ、愛しい」
 いつになく切迫したバリトンの響きに、鼓膜が蕩ける。腰を抱えられ、賢吾の片手が両足の間に差し込まる。欲望を手荒く扱かれて、和彦は上擦った声を上げて身をくねらせていた。
「俺の大事で可愛いオンナに、かすり傷一本でも負わせようものなら、それを口実に南郷を遠ざけることもできるが、あの男は、そんな下手は打たないだろう。こうして見る限り、乱暴に扱われた様子はないからな。乱暴どころか、じっくり感じさせてくれたんじゃねーか?」
 肩甲骨の辺りに軽く噛みつかれ、和彦は小さく呻き声を洩らす。痛みはなく、ゾクゾクするような疼きが背筋を駆け抜けていた。
「俺は、南郷と直接揉めるつもりはない。それこそ、長嶺組や、オヤジの存在を快く思ってない連中を喜ばせるだけだからな。だが、オヤジを喜ばせるために、物わかりのいい息子でいるつもりもない」
 背に、何度も情熱的に唇が押し当てられ、その合間に賢吾は言葉を続ける。
「――お前がバタバタしている間に、総和会会長と第二遊撃隊隊長に対して、ささやかな嫌がらせを仕掛けた。俺は少しばかりムカついていると、わからせるためにな」
「嫌、がらせ……?」
「そのうち、お前に教えてやる。いや、紹介してやる、だな。今は、背負い込んだ気苦労を少しずつ下ろしていって、精神的に落ち着くのが先だ。余計なことはしなくていいし、考えなくていい。――たっぷり、俺が甘やかしてやる」
 話している間も動き続けた賢吾の手の中で、和彦の欲望は形を変え、熱くなっていた。指の腹で先端を撫でられ、喉を鳴らす。何もかも委ねられる男からの愛撫に、すでにもう和彦の理性は揺らぎ始めていた。
 賢吾が話す内容を、懸命に頭に留めておこうとするが、愛撫に何度も気を取られかけ、そんな和彦の様子に賢吾も気づいたようだった。本格的に和彦の理性を突き崩すことにしたのか、柔らかな膨らみを慣れた手つきで揉みしだいてくる。
「あうっ、うっ、うぅっ――」
 和彦は無意識のうちに強い刺激から逃れようとするが、賢吾の逞しい腕にしっかりと腰を抱え込まれ、もっと奔放に乱れてみせろと追い立てるように、荒々しい愛撫を与えられる。
「ひっ……、待、て……。賢吾さん、そこ、乱暴には……」
「違うだろ。そういう呼び方じゃなかったはずだ」
 賢吾の声が楽しげな響きを帯びる。弱みを指先で弄られて、和彦は半ば脅されるように声を上げていた。
「賢吾っ」
 この瞬間、気も遠くなるような法悦が和彦の中で生まれる。残酷なほど優しく丁寧な手つきで柔らかな膨らみを揉み込まれ、腰から下に力が入らなくなる。意識しないまま自ら足を大きく開き、賢吾の淫らな愛撫をねだっていた。
「あっ、あっ、んあっ、あっ――……」
「これ以上仕込んだら厄介だとわかっちゃいるんだが、気持ちよさそうに声を上げるお前の反応を見ると、可愛がってやらずには、いられねーんだ」
 痛みとは紙一重の、絶妙の力加減で柔らかな膨らみをまさぐられ、和彦は甲高い声を上げて身悶える。欲望の先端から透明なしずくが滴り落ち、和彦が味わっている愉悦を雄弁に賢吾に知らせる。
「ここ、いいか?」
 わずかに声を掠れさせて、賢吾が問いかけてくる。余裕たっぷりのバリトンとはまた違った色気に、和彦はヒクリと背をしならせる。声に、感じてしまったのだ。賢吾は当然、和彦の反応に気づいていた。
「……感じやすいオンナだ」
 さきほどの愛撫の礼だと言わんばかりに、今度は賢吾が、和彦の背に唇と舌を這わせてくる。尻の肉を鷲掴まれ、腰を突き出した姿勢を取らされていた。賢吾が何をしようとしているか、次の言葉で知ることになる。
「まだ触ってもないのに、もう赤く色づいて、ひくついてるな。南郷にたっぷり弄ってもらったんだろう。感じさせてくれるなら、誰でも甘やかすからな。お前のここは――」
 嫌でも意識させられた内奥の入り口に、柔らかく湿った感触がまとわりつく。それが賢吾の舌だとわかったとき、和彦は呻き声を洩らして、シーツに精を飛び散らしていた。しかし、賢吾は許してくれない。〈オンナ〉の不貞を、淫らな愛撫を与えることによって責め立ててくる。
「ひぃっ……ん、んっ、んんっ、くぅっ……」
 舌先で舐られ、和彦の内奥の入り口が簡単に綻ぶ。賢吾に手を取られ、自分の指先でその感触を確かめさせられたとき、さすがに和彦は激しい羞恥でうろたえるが、賢吾の指で内奥を犯されるようになると、その羞恥すら甘い媚薬となっていた。
「南郷の指を突っ込まれたときも、こうやって物欲しそうに締め付けたのか? 男の唾液で中を濡らして、いやらしい襞をざわつかせて、もっと擦ってくれと腰を振ってみせたか? 普段は取り澄ました顔をしているからこそ、お前の見せる媚態は強烈だ。俺ですら、頭がクラクラするぐらいだ」
 内奥を掻き回すように大胆に指が動かされる。肉を解され、襞と粘膜を擦り上げられると、異物感や鈍い痛みすら、強引に快感へと変えられてしまう。
 和彦は荒い呼吸を繰り返しながら、必死にシーツを握り締める。内奥から指が引き抜かれ、もう一度舌が這わされる。それから、熱く張り詰めた欲望を押し当てられた。
「うああっ――」
 内奥の入り口をこじ開けられ、太い部分を一息に呑み込まされる。繋がった部分を指先でなぞられると、それだけで上擦った声が出る。背後から緩く突き上げられて、腰から痺れが這い上がり、吐息を洩らす。さらにもう一度突き上げられて、悦びの声を上げていた。
 賢吾と深く繋がっていきながら、引き絞るように内奥を締める。欲しかった、と言葉ではなく、体で訴える。和彦の訴えを、賢吾は受け止めてくれた。
「……しっかりと、俺を欲しがっているな。本当に、可愛いオンナだ……」
 腰を掴まれて、ぐうっと奥深くまで欲望を捩じ込まれる。和彦は声も出せずに、ビクッ、ビクッと腰を震わせていた。賢吾が笑いを含んだ声で言った。
「尻で、イったな」
 巧みに官能を刺激されて、頭の芯まで快感に浸される。賢吾の欲望に内奥深くを突かれるたびに、堪えきれず嬌声を上げていたが、おそらくその声は、部屋の外にも響いているだろう。和彦の理性ではもう声を抑えることができず、賢吾にしても、あえて〈誰か〉に聞かせるように、和彦の快感を煽ってくる。
「あっ、い、ぃ――……。賢吾、奥、いい……」
「どこもかしこも、いいところだらけだな。――和彦」
 内奥深くを重々しく突き上げられ、一瞬息が詰まる。全身に快美さが響き渡り、小刻みに体が震える。賢吾は、和彦のそんな反応をいとおしむように、背後からきつく抱き締めてくれた。
「一度抜いていいか?」
 快感に恍惚としている和彦の耳に、賢吾の言葉が届く。和彦は子供のように必死に首を横に振っていた。
「嫌だっ。まだ……、このままがいい」
「俺もそうしたいが、それ以上に、お前のいい顔を見ながら、尻を可愛がってやりてーんだ」
 ズルリと内奥から熱い欲望が引き抜かれ、和彦は短い悲鳴を上げる。このとき、自分の体に何が起こったのかを、和彦の体を仰向けにした賢吾に指摘された。
「お前が、突っ込まれる瞬間に弱いのは知ってたが、抜かれる瞬間もよくなってきたか?」
 賢吾に、精を放ったばかりの欲望を掴まれ、緩く扱かれる。和彦は熱くなった体をさらに熱くして、顔を背けるが、意地の悪い男はそんなことを許してくれない。
「おい、しっかり俺を見ろ。お前をオンナにした、男の顔を」
 脅され、唆されて、和彦はおずおずと賢吾を見上げる。そして堪らず、逞しい体に両腕を回してしがみつく。片足を抱え上げられて、熱い欲望を再び内奥深くまで捩じ込まれていた。
「あっ、あぁっ――」
 賢吾の背の大蛇に爪を立て、和彦は、賢吾という男の〈肉〉を堪能する。力強く丹念に最奥を突かれ、そのたびに和彦は抑えきれない悦びの声を溢れさせる。
 深くしっかりと繋がったまま、荒い息遣いで互いの唇を求める。余裕なく吸い合い、差し出した舌を絡め合う。その合間に賢吾が、和彦のこめかみを伝い落ちる汗を舐め取り、和彦も、賢吾の首筋の汗を舐め上げる。そこに、二人の唾液が混じり合う。
 自分は、この男の唾液や汗だけではなく、精の味すら知っている――。そう思った途端、和彦は陶然とした感覚に陥っていた。心が満たされるだけではなく、妙な話だが、誰かに誇りたいような。
「――……ようやく、穏やかな顔になったな」
 ふいに賢吾に囁かれ、和彦は目を丸くする。すかさず目元に唇が押し当てられ、反射的に甘ったるい呻き声を洩らしてしまう。
「俺とのセックスだけに集中している、いい顔だ」
 ヌケヌケとよくこんなことが言えるなと思ったが、和彦は賢吾に微笑みかけると、熱い体にすがりつく。
 ようやく〈ここ〉に戻ってこられたのだと、強く実感しながら。









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