と束縛と


- 第30話(1) -


 ファミリーレストランで、三田村と向かい合って朝食をとるというのも、なんだか妙な感じだった。
 パンを一口かじった和彦は、何げなく視線を上げてドキリとする。三田村が、フォークを持ったまま、じっとこちらを見つめていたからだ。
 優しい眼差しだった。柔らかな感情のすべてを傾けて、和彦を包み込もうとしているような、そんな眼差しだ。
 慌しい空気に満ちている店内にあって、自分たちがついているテーブルだけ、異質な空気が漂っているのではないかと、少し和彦は心配になってくる。
 いつもなら、周囲の様子に気を配るのは三田村の役目のような気がするが、今朝ばかりは様子が違う。
「……そんなに眺めるほど、ぼくは変わってないだろ。寝不足で、目の下に隈ができているぐらいだ」
 さすがに気恥ずかしくなってきて、ぼそぼそと和彦が洩らすと、三田村はわずかに目を丸くしたあと、口元に苦笑を湛えた。
「正直、先生が落ち込んでいるかもしれないと、ずっと心配していたんだ。しかも、クリニックも休まないと聞かされて、驚いた。先生のことだから、周囲の人間に迷惑をかけまいと、無理をしているんじゃないか」
「無理か……」
 パンを置いた和彦は、ふっと息を吐き出す。
 今朝は、早い時間に賢吾と一緒に総和会本部を出て、自宅マンションに寄ってもらった。ゆっくりする間もなく出勤の準備をする傍ら、三田村に連絡を取ったのだ。本当は、声を聞くだけで満足するつもりだったのだが、三田村のほうから、朝食を一緒にとらないかと誘ってくれ、今のこの状況だ。
「無理ならしている。肉体的にも精神的にも疲れているから、本当なら今日一日ぐらい、部屋でゆっくり過ごしてもよかったのかもしれない。だけど、そう思う以上に――ぼくの日常を取り戻したかったんだ。自分は、実家の事情に引きずられたりしないと強がりたい……、と言ってもいいのかな」
「先生は、タフだ」
 そう呟いた三田村の口調は、苦々しさに満ちていた。和彦の無理を窘めたい気持ちがある一方で、和彦の気持ちも汲み取っている、三田村の誠実さが滲み出ているようだ。
「……今はまだ、感情が麻痺しているんだろうな。苦行のようだった兄さんとの対面を終えて、だけど何も片付いてない自分の状況とか、ぼくだけの問題じゃない事情とか、複雑すぎて思考が追いつかない。隠れ家で一人で過ごしながら、あれこれ考えてはみたけど、現実味が伴わないというか、実感が湧かなくて……」
 さらに、長嶺の男二人のやり取りを見ていて、それぞれの事情がぶつかり合い、とてつもない嵐を巻き起こしたりはしないだろうかと、危惧も抱いている。
 ただ、和彦自身が処理できる問題など、ほんの些細なものだ。もしかすると、こちらの世界に身を置き、男たちに守られている限り、何もできないかもしれない。
 和彦は、テーブルの上に置かれた三田村の片手をぼんやりと見つめる。人目がなければ、すぐにでもその手を握り締めて、三田村のぬくもりを感じたかった。今朝まで賢吾の体温に包まれていながら、こう考えてしまう自分は、度し難いほど欲深いと和彦は思う。
「先生?」
 ハスキーな声で呼ばれて我に返る。和彦は反射的に三田村に笑いかけた。
「また、あんたに会えてよかった。ただ兄さんと会って話をするだけだとわかってはいても、もしかすると連れ去られていたかもしれないんだ。……本当に、よかった」
「それは俺の台詞だ、先生。無事だと報告は受けていたけど、先生から直接連絡をもらって、ようやく実感できた。戻ってきてくれたんだと」
 まるで砂が水を吸い込むように、三田村の優しさが心に染み込んでくる。もっと三田村と話していたいが、あまり時間はなかった。
 和彦は腕時計でちらりと時間を確認して、ため息を洩らす。そんな和彦に対して、三田村はこう提案してくれた。
「今朝は俺が、先生をクリニックまで送っていきたいんだが――、かまわないか?」
「若頭補佐の運転で出勤なんて、贅沢だな」
 和彦の冗談に、三田村は照れたようにちらりと笑みをこぼした。




「――うん、バタバタしていて、連絡が遅くなってごめん」
 話しながら和彦は、座椅子の背もたれに体を預ける。電話の向こうに里見がいると思うと、気持ちがざわつく。後ろめたさと、電話越しでも伝わってくる空気の心地よさと、それらを容易に上回ってしまう緊張と。
 里見の隣で、英俊が耳を澄ませていないとは言えない。里見の穏やかな声はいつもと変わらず、何かを感じさせるものではないが、和彦としてはどうしても慎重になってしまう。
『簡潔にだけど、英俊くんから話は聞いたよ。激しいやり取りがあったのだろうとは思ったけど、君の緊張した口ぶりを聞いていると、やっぱり、といったところかな』
「あの家が、ぼくを必要としていると知ったところで、少しも嬉しくないんだ。きっともう、ぼくとあの家が歩み寄ることはできない。それが確認できただけでも、会ってよかったと思う。間に入った里見さんには、申し訳ないけど」
 座卓に置いた文庫本の表紙を、手慰みに撫でる。そうしながら和彦の脳裏に蘇るのは、英俊と会ったときの光景だ。
 思い返すたびに息苦しい感覚に襲われていたが、自分を駆り立てるように仕事をこなし、すっかり慣れ親しんだ男たちと顔を合わせていくうちに、その感覚も薄れつつある。だから、里見に連絡を取ることにしたのだ。今回は、悲壮な覚悟は必要としなかった。
「兄さんに、言いたいことは言えたと思う。そのことを、あの人たちは納得しないだろうけど、ぼくはこれ以上話をするつもりはない。また里見さんに何か頼んできたときは、そう伝えてもらえるかな。一生連絡を取らない――という決心まではしていないけど、当分、話をするつもりはない」
 電話の向こうから聞こえてきたのは、深いため息だった。一瞬、里見を失望させただろうかと身構えた和彦だが、次に耳に届いたのは、鼓膜をくすぐるような笑い声だった。
「……里見さん?」
『ごめん。最初の頃は、君は誰かに脅されていると思っていたんだ。だけど直接君に会って、英俊くんからも話を聞いて、今の君の言葉を聞いて、ようやく受け入れるしかないと思った。――君は、今いる場所で必要とされて、それ以上に大事にされているんだって』
 里見が想像しているのは、穏やかで優しくて、美しい環境なのだろうと思うと、現実とのギャップに和彦もつい声を洩らして笑ってしまう。だが、男たちの情や、複雑な事情に雁字搦めになりながらも、和彦にとってこの世界が心地いいのは間違いない。
「そう……、単純なものじゃないけどね」
 ほろ苦い気持ちを噛み締めながら和彦が呟いたとき、廊下を歩く足音が聞こえてくる。
「それじゃあ、もう切るね」
『和彦くんっ』
 携帯電話を耳元から離そうとしたとき、突然里見が大きな声を発する。
「何?」
『この電話を切ったあと、携帯の番号を変えたりしないでくれ。英俊くんに番号を知られて、君は嫌だろうけど、今の君とわたしを繋いでいるのは、この番号しかないんだ。だから――』
 和彦は外の様子をうかがいながら、早口で告げた。
「考えておくよ」
 電話を切ったのと、障子が開くのは同時だった。和彦は落ち着いて携帯電話を置くと、部屋に入ってきた人物に声をかける。
「――寝る準備は万端って感じだな」
 ハーフパンツにTシャツという、今すぐにでもベッドに飛び込めそうな格好をした千尋は、和彦の言葉を受けてニッと笑う。一方の和彦も、本宅で寛ぐときの定番となっている浴衣姿だ。里見との電話を終えたら、さっさと横になって文庫本の続きを読もうと思っていたのだ。
 今夜は、この部屋の主が外泊になるかもしれないということで、一人でゆっくりと過ごせると思っていたが――。
 障子を閉めた千尋が、いそいそと和彦の側にやってくる。人懐こい犬っころを思わせる行動に、思わず唇を緩めた和彦は、千尋の生乾きの髪を手荒く撫でてやる。
「どうしたんだ、ここまでやってきて」
 和彦の問いかけに、千尋が唇を尖らせる。最近ますます、長嶺組の跡目としての責任感に目覚めてきたのか、風格らしきものが漂い始めた千尋だが、和彦の前では相変わらずだ。年相応の青年――よりもさらに子供っぽい言動を取る。
「だって先生、クリニックから戻ってきても、メシ食って、風呂入ったら、さっさとオヤジの部屋にこもるだろ。今晩なんて、オヤジはいないのに、それでもこの部屋がいいんだ」
「それは……、お前の父親が、ここで寝泊まりしろって言い出したから……。ぼくが嫌だと言ったところで、聞き入れる男じゃないだろ」
「でも、嫌なんて言うつもりなかったんでしょ?」
 千尋から、恨みがましい目でじっと見つめられ、和彦は露骨な困り顔で返す。
 当分、和彦を一人にしておけないからと、本宅からクリニックに通うよう、賢吾から言われた。いつになく人恋しさを感じていた和彦は、それに素直に従ったのだが、賢吾の要求はそれだけでは済まなかった。
 いつものように客間を使うつもりだったが、和彦が案内されたのは、賢吾の部屋だったのだ。仕事を終えて本宅に戻ると、賢吾の部屋で食事を済ませ、寛ぎ、布団を並べて休む――という生活を、もう一週間近く送っている。
 賢吾なりに、和彦の精神状態を慮ってのことだろうと理解はしているが、当然のようにこの部屋で二人で過ごしていると、自分と賢吾の関係が変化したと強く実感できる。強要されているのではなく、自分は望んで、賢吾の側にいるのだと。
 この家で過ごしながら、生活パターンの違いから、何かとすれ違うことの多い千尋だが、やはり何かを感じ取っているらしい。
 千尋が軽くため息をつき、畳を片手で叩く。和彦は座椅子から下り、畳の上に座り直すと、待ちかねていたように千尋が胸元に抱きついてきた。本当に行動が犬だなと思いながら、苦笑しつつも和彦は、千尋の頭に手を置いた。
「……先生がここにいるって、すげー実感できる」
「大げさだな。食事時には、けっこう顔を合わせていただろ」
「でも、ゆっくり話せてないじゃん。……俺、先生に知ってもらいたいこと、いっぱいあったんだ。先生が、自分の兄貴に会いに行くって知ったときは、ものすごく切羽詰ってたこととか。先生がもう二度と、俺――俺たちのところに戻ってこないんじゃないかって、本気で心配してたことも」
 殊勝なことを言う千尋が、先日自分に何をしたのか思い出し、和彦は複雑な心境になる。
 まるで体に呪詛でも刻みつけるように、千尋は守光とともに、和彦の体を貪り、嬲ってきたのだ。賢吾の執着心の強さを知っている和彦だが、千尋もまた、強い。若くて純粋で無謀な分、怖いとさえいえる。
 ただ、守光については、執着心と表現していいのだろうかと、判断がつきかねていた。
「それに、仮に無事に戻ってきても、先生が……、精神的に参って、別人みたいになってたらってこととかさ。俺、先生の様子を、ちょっとだけ観察してた。――大丈夫、だよね?」
 強い輝きを放つ目に、うかがうように見つめられて、和彦の胸は締め付けられる。長嶺の男の本質にあるのは、間違いなく傲慢さだ。同時に、毒のように強烈な甘さも併せ持っている。だから和彦は、簡単に翻弄されるのだ。
 千尋の引き締まった頬を撫でながら、柔らかな声で応じる。
「生憎だがぼくは、お前が思っているよりずっと、ふてぶてしいみたいだ。というより、ぼくが落ち込むことを許さないように、周りの男たちがかまってくれるからな」
「……何、先生。俺のことは放ったらかしのくせに、もうそんなに、いろんな男たちとは会ってたわけ?」
「変なことを想像するなよ。気遣ってもらっているという意味だ」
 どうだか、と言った千尋の唇を軽く抓ってやる。それでも千尋は機嫌よさそうに笑い声を洩らし、ますます強く和彦にしがみついてくる。その勢いに圧され、和彦は畳に手を突いていた。
「おい、あまりじゃれつくな。ぼくはもう横になるつもりだったんだ。お前もさっさと部屋に戻れ」
「えー、寝るにはまだ早い時間じゃん」
「いいんだ」
「――オヤジがいないから、つまらない?」
 子供っぽい言動を早々にかなぐり捨てた千尋が、挑発的な眼差しで、挑発的な言葉を放つ。返事に詰まった和彦は、千尋を軽く睨みつけてから、乱暴に髪を掻き乱してやる。
「つまらないって、なんだ。ぼくは、お前の父親に遊んでもらわないといけない子供じゃないんだからな」
「俺は、先生に遊んでもらいたい。――子供じゃないけど」
 ぐいっと千尋の顔が近づいてきて、唇に熱い息遣いが触れる。意図を察した和彦は視線をさまよわせ、千尋の顔を押し退けようとする。
「お前……、ここ、組長の部屋だぞ」
「いまさらだね、先生。先生と俺とオヤジの三人で、ここでセックスしたことあるだろ」
「それはっ……、主の組長がいたからだ。今は、お前とぼくの二人だ」
「先生って、変なところでお堅いなー。オヤジに気をつかってるんだ? でも将来、ここは俺の部屋になる。先生も、俺だけのものになる」
 千尋の声が怖い響きを帯びる。和彦を恫喝しようとしているのではなく、千尋自身の中にいる、物騒な〈生き物〉の蠢きを感じさせるものだ。和彦は千尋の目を覗き込む。
「……お前、何かあったのか?」
「先生、鋭い」
 甘えるように千尋が頬をすり寄せてくる。
「ふざけるな。一体――」
「教えてあげる。まだ、見せてあげることはできないけど」
 千尋の言葉にハッとする。和彦が目を見開くと、再び千尋が顔を寄せてきた。唇の端を軽く吸われ、和彦はこれ以上千尋を拒むことができなくなる。
「いいよね、先生……」
 甘えた声で千尋に囁かれ、和彦はこの言葉を絞り出すのが精一杯だった。
「隣の部屋に、布団を敷いてある」
 次の瞬間、いきなり立ち上がった千尋に腕を取られ、半ば引きずられるようにして隣の寝室に移動する。襖を開けると、二組の布団が敷いてあった。もちろん千尋のためではなく、いつ賢吾が帰宅してもいいようにと、組員が敷いたのだ。
 布団に押し倒された和彦の上に、千尋がのしかかってくる。この部屋で、いつも和彦に覆い被さってきて、顔を覗き込んでくるのは賢吾だが、こういう形で千尋を見上げるのは、違和感よりも後ろめたさを感じる。そして、抗い難い高揚感も。
 浴衣の帯を解かれて前を開かれる。二日ほど前に賢吾から与えられた愛撫の痕跡が、ようやく薄くなりかけていたところだが、まだ完全に消えてはいない。千尋は、和彦の体を見下ろしながら、それを確認しているようだった。
「こうして見ると、オヤジってやっぱり、先生のこと大事にしてるよね。優しく撫で回すんじゃなく、大蛇らしく、ギリギリと締め上げてる感じ。何かの拍子に先生を抱き殺しそう」
「……楽しそうな声で、不吉なことを言うな」
「でも、オヤジにそこまで想われるって、嬉しくない?」
 この場合、どう答えればいいのか、和彦には咄嗟に判断がつかなかった。顔を背けると、千尋の唇が耳に押し当てられる。
「俺も、先生のことを想ってる」
 熱い舌に耳朶を舐られたあと、チクリと痛みが走る。千尋が耳朶に噛みついたのだ。身震いしたくなるような疼きが背筋を駆け抜け、和彦はうろたえていた。
「――噛み付いて、先生の血も肉も味わいたいぐらい」
 首筋を舐め上げられて呻き声を洩らす。すでに興奮している千尋を煽るのは容易く、和彦の体の上で獣が猛る。
 浴衣と下着を剥ぎ取られ、肌に千尋が食らいついてくる。もちろん、血が出るほど噛み付いてくるわけではなく、強く肌を吸い上げ、自分の痕跡を残し始めたのだ。
「お前……、この部屋だから、興奮しているのか?」
 千尋の髪を撫でながら和彦が問いかけると、上目遣いに見上げてきた千尋が、恨みがましい口調で応じる。
「俺は必死なのに、先生は余裕たっぷり……」
「びっくりしてるんだ。お前が……必死だから」
 千尋は大きく息を吐き出すと、和彦の唇を軽く吸い上げてくる。
「俺はいつでも必死だよ。先生に触れるときは、頭がカアッとして、難しいことは考えられなくなる」
「……難しいことを考えるときがあるのか、お前……」
「まあ、たまーに」
 屈託なく言って退けた千尋が唇を重ねてきたので、和彦は口づけに応じる。唇を吸い合い、舌先を触れ合わせているうちに、焦れた千尋が強引に口腔に舌を押し込んでくる。
「んっ……」
 自分勝手に蠢く舌に口腔を舐め回されながら、唾液を流し込まれる。和彦が千尋の舌を吸ってやると、反対に舌を引き出され、強く吸われて甘噛みされる。口づけの間も、千尋に足を開かされ、腰が強く押し付けられてくる。千尋の無言の求めに応じ、和彦はハーフパンツの前に片手を這わせる。千尋の欲望は、すでに十分すぎるほど硬くなっていた。
「――……舐めてやろうか?」
 口づけの合間に和彦が囁くと、千尋が囁き返してくる。
「ダメ。今夜は、俺が先生を舐め回す。この部屋で先生を辱めて、いやらしい声で鳴かせたいんだ」
 甘ったるい千尋の囁きにゾクリとするが、それが怖さからくるものなのか、強烈な期待からくるものなのか、和彦には判断がつかなかった。
 首筋に千尋の唇が這わされ、心地よさに吐息を洩らす。千尋の熱い素肌に触れたくて、Tシャツの下に手を忍び込ませる。脇腹を撫で上げてやると、千尋は小さく身を震わせてから、和彦の耳元で囁いてきた。
「背中には触れないでね」
 千尋のその言葉に、やはり、と和彦は思う。意識しないまま、眉をひそめていた。
「お前、刺青を――」
「まだ下書き……筋彫りっていうのかな、それの途中。今、かさぶたになってて、うっかり掻かないよう気をつけてるんだ」
 言いたいことはあった和彦だが、千尋なりの覚悟があることは知っているため、ぐっと呑み込む。和彦が頭を抱き締めてやると、千尋もしがみついてくる。
「すげー痛かったんだよ。痛みに耐えるだけでも体力は消耗するし、終わったあとは、傷が化膿しないようにケアしないといけないし。こういうことが、しばらく続く」
「……でも、後悔はしてないんだろ」
「うん。してないし、これから先も、絶対しない」
 和彦は、Tシャツの上からそっと千尋の背を撫でる。ここに、どんな刺青を彫っているのか、知りたくて仕方ないのだが、千尋は今は話すつもりはないようだ。
「お前もとうとう、本当のヤクザになるんだな……」
 和彦の言いように、千尋が声を洩らして笑う。
「刺青を入れたから、本当のヤクザになるわけじゃないし、入れないから本当のヤクザじゃないってことでもないよ」
「わかってる。でもなんとなく、いままでのお前とは違うと感じる。これからどんどん、怖い男になっていくんだろうな」
「でも先生、怖い男こそ、甘やかしたくなる性質だろ?」
 すべてを見透かしたような千尋の目で見つめられ、和彦は露骨に顔をしかめる。
「そんな厄介な性質、ぼくは持ってない」
「えー、本当に?」
 返事を避ける和彦の顔を、おもしろがった千尋が覗き込んでくる。ムキになって顔を背けようとしたが、その前に千尋に唇を塞がれていた。
 油断すると、すぐに千尋の背に両腕を回しそうになる。我に返って自重しようとするが、口づけが熱を帯びると、つい腕が動いてしまう。それを二度、三度と繰り返したところで、千尋が悪戯っぽい表情で提案してきた。
「手、縛ってあげようか?」
「……聞くまでもなく、すでにやる気満々だろ」
 そう答えた次の瞬間には、和彦の体はひっくり返され、浴衣の帯で後ろ手に縛られる。すぐにまた仰向けにされると、いきなり両足を抱え上げられ、腰の下に枕を突っ込まれた。
「千尋っ……」
 制止する間もなく、両足を左右に大きく開かされ、千尋が顔を埋めてくる。内腿に熱い息遣いを感じ、和彦は身を竦めた。
 羞恥を感じる部分をじっくりと千尋に観察され、それだけで体が熱くなってくる。千尋は、和彦の反応を楽しむように、欲望にフッと息を吹きかけてきた。反射的に和彦は腰を震わせるが、しっかりと両膝を掴まれているため、足を閉じることもできない。当然、縛められている両手も動かせない。
 相手が千尋であるせいか、怖さはない。むしろ緩やかな拘束は、官能を高める刺激となっている。
「反応いいね、先生」
 そう言って千尋が、身を起こしかけている和彦の欲望に唇を這わせ始める。先端を舌先でくすぐるように舐められてから、括れを唇で締め付けられる。欲望の付け根から指の輪で扱き上げられながら、欲望を口腔深くまで呑み込まれていた。
「うっ、うっ……。あっ、い、ぃ――」
 浅ましく腰が揺れる。もっと興奮しろと言わんばかりに、千尋の片手が柔らかな膨らみにかかり、優しい手つきで揉みしだかれる。和彦は上体を仰け反らせて反応していたが、そんな和彦の反応に煽られたように、千尋の愛撫が激しさを増す。
「うあっ」
 柔らかな膨らみにも舌が這わされ、和彦は煩悶する。千尋は愛しげに、内奥の入り口まで舐めてきて、舌先を侵入させてこようとした。こういう愛され方は抵抗があり、申し訳なさすら感じるのだが、ここで賢吾と過ごしながら、時間をかけて慣らされてきたせいもあり、体は愛撫を拒めない。むしろ、悦びを感じる。
 和彦の呻き声に艶かしさが加わってきたことに気づいたのだろう。千尋は荒い息の下、こんなことを言った。
「先生、いい反応。……毎晩、オヤジに舐めてもらってる?」
 涙が滲んだ目で千尋を睨みつけると、顔を上げた千尋に苦笑で返される。
「うん、って言ってるのと同じだよ、その表情」
「……お前が、明け透けなことを言うからだ」
「これ以上なく、明け透けなことしてる最中なのに、恥ずかしがらなくてもいいじゃん」
「恥ずかしいものは仕方ないだろっ」
 和彦がムキになって言い返した途端、千尋の指が内奥に挿入されてくる。和彦は息を詰め、内奥をきつく収縮させる。千尋の指が慎重に内奥で蠢き、唾液を擦り込むように、発情した襞と粘膜を撫で回す。
 千尋は上目遣いで和彦を見上げてきながら、すっかり反り返った欲望に唇を寄せ、先端に浮いた透明なしずくを吸い取る。
 ただ、千尋が落ち着いた素振りを見せていたのは、ここまでだった。内奥から指を出し入れされ、和彦が放埓に声を上げるようになると、余裕ない動きでハーフパンツを下ろし、高ぶった欲望を引き出す。
 腰を引き寄せられ、ひくつく内奥の入り口に欲望の先端が押し当てられる。硬い感触をぐっと挿入された瞬間、和彦は千尋が見ている前で達し、下腹部から胸にかけて精を飛び散らせていた。
「くうっ……ん」
 体から力を抜けたときを見計らったように千尋が腰を進める。すでに体の一部となっている苦痛に襲われるが、肌を焼きそうな千尋の強い眼差しは、ある意味愛撫のようなものだ。見つめられていることに、和彦は感じる。
 内奥が淫らな蠕動を始め、千尋の熱い欲望をますます駆り立てる。
「先生の中、気持ちよすぎて、このまま溶けそう」
 バカ、と口中で応じた和彦は、すがるように千尋を見上げる。いつもならここで、年下の青年をたっぷり甘やかすように抱き締めてやるところだが、今はそれができない。もどかしさに身じろぐと、和彦の動きに誘われたように千尋が腰を突き上げる。
「うっ、あっ、あぁっ、ひっ……、ううっ」
 千尋の欲望を深々と呑み込んだ和彦は、下腹部に広がる重苦しさに息を喘がせる。一方の千尋は、内奥の収縮を堪能するかのように動きを止め、心地よさそうに目を細めていた。
「これ、いい……」
 そう呟いた千尋が上体を伏せ、和彦の胸元をペロリと舐め上げてくる。このとき微妙な角度で内奥を突き上げられ、痺れるような快感が一気に体の奥から湧き起こる。和彦が背を弓形に反らして反応すると、千尋が歓喜に目を輝かせた。
「いい? 中が、すげー締まった」
 擦りつけるようにして腰を動かしながら、千尋が胸の突起を口腔に含む。その刺激にも和彦は反応し、もどかしく体を揺する。千尋にしがみつきたくて仕方ないのに、両手首を縛められているため、それができない。
 穏やかな律動を繰り返されているうちに、和彦の欲望は再び身を起こし、千尋の引き締まった下腹部に擦り上げられるようになる。和彦は伸びやかな悦びの声を溢れさせていた。
「あっ、あっ、あっ……ん、ああっ――」
「気持ちいい?」
 汗を滴らせながら千尋が顔を覗き込んできて、軽く唇を吸い上げてくる。このとき内奥深くを抉るように突かれ、和彦の意識は舞い上がる。
「……気持ち、いい……」
「俺も。先生が悦んでくれると、もっと気持ちいい」
 和彦は思わず顔を背け、ぼそぼそと応じる。
「恥ずかしいことを、こういうときに言うな。反応に困るだろ」
「嬉しいなら、素直に喜んでくれれば――」
「だから、恥ずかしいんだっ」
「こんなことしてるのに?」
 千尋に両足を抱え直され、繋がっている部分がよく見えるよう腰の位置を高くされる。腰の下に枕を入れられているせいもあり、和彦の目にも、浅ましい部分がよく見える。ひくつきながら、必死に千尋のものを呑み込み、締め付けているのだ。さらに千尋は、和彦に見せ付けるように内奥からわずかに欲望を引き抜き、すぐにまた挿入してくる。
 和彦が唇を引き結び、強い視線を向けると、千尋は笑みをこぼした。
「いいな。先生にそういう顔されると、ゾクゾクする」
「お前、性質が悪い――……」
 千尋が再び欲望を引き抜く。今度は完全に引き抜かれ、閉じきれない内奥の入り口が物欲しげに蠢く。あまりに生々しい光景に、和彦は眩暈に襲われる。こんな光景を、和彦と関係を持った何人もの男たちは目にしているのだ。
「千尋、この姿、嫌だ……」
「俺は興奮する。いやらしくて、すげー、きれい。先生が俺をこんなに欲しがってるって、実感できるんだ」
 そんなことを言いながら、千尋が欲望を内奥にわずかに含ませてくる。意識しないまま和彦の腰は揺れるが、千尋はすぐに欲望を引き抜いてしまう。
「先生、欲しい?」
 和彦は顔を背けて返事を避けようとしたが、それを許さないかのように、千尋が内奥に指を挿入して、巧みに襞と粘膜を擦り上げてくる。和彦の内奥は淫らな蠕動を繰り返し、もっと逞しくて熱い感触を求める。
「千、尋っ……」
「俺のこと、欲しいって言って」
 甘えるような声で囁かれ、すでに脆くなっていた和彦の理性はもたなかった。すがるように千尋を見上げ、千尋が求める言葉を口にする。
「――欲しい。千尋、お前が欲しい……」
 指が引き抜かれ、内奥に千尋の欲望が押し込まれてくる。圧迫感が、心地よかった。和彦は呻き声を洩らし、ビクビクと体を震わせる。千尋のものも、興奮のため、力強く脈打っている。
 内奥深くを突き上げられる。反り返った和彦のものの先端から、透明なしずくが尽きることなく垂れ落ちていく。千尋が小さく笑みをこぼした。
「先生、可愛い。俺が少し動くだけで、反応しまくり」
 もう一度内奥深くを突き上げられたかと思うと、欲望が引き抜かれそうになる。和彦が目を見開くと、千尋がしたたかな男の顔で言った。
「いつ、とは言わないけど、将来、俺だけの先生になってよ。大事にするから」
 数瞬、和彦の思考は停止する。これまでも千尋から、似たようなことは言われてきたが、それでも、なぜか今は、戸惑った。
「返事は?」
「……お前、たった一つの返事しか、聞く気はないだろ」
「当然」
 そう応じると同時に、千尋の欲望が奥深くまで押し入ってくる。弱い部分を突かれ、抉られているうちに、和彦の欲望は精を噴き上げていた。
「ひっ……、うぅっ」
「返事をしないなら、このまま攻め続けるよ。――先生が気を失っても」
 千尋を怖いと思いながらも、ゾクゾクするような悦びが、身の内を駆け抜ける。和彦は、震える吐息をこぼして、頷いた。
「……ああ。将来、お前だけのものになる」
 千尋は、当然とばかりに唇の端に笑みを浮かべる。
 絶対に千尋本人には言えないが、成熟した大人の男のような表情に、つい和彦は見惚れてしまった。


 寝顔だけは無邪気すぎるほどなのだが、と心の中で嘆息した和彦は、隣で眠っている千尋の顔をまじまじと眺める。和彦を貪りつくして満足したのか、大きなあくびを二度、三度としたかと思うと、あっという間に寝息を立て始めたのだ。
 無防備な姿を見ていると、自分の部屋に戻れと叩き起こす気にもなれない。
 和彦は、千尋の茶色の髪をそっと撫でてから、Tシャツの上から肩に触れる。行為の最中も、千尋は決してTシャツを脱ぎ捨てることはなかったため、背に一体どんな刺青が彫られつつあるのか、片鱗をうかがい知ることすらできなかった。
 今の状態の千尋なら、Tシャツを少し捲ったところで気づかないかもしれないが、それはそれで千尋のプライドを傷つけそうでもあり、疼きそうになる好奇心は抑えておく。
 和彦は慎重に起き上がると、肌掛け布団を千尋の体にかけてやる。ドロドロに汚れた状態で眠るわけにもいかず、簡単にシャワーを浴びてこようと、浴衣を引き寄せて着込む。さすがに、枕元に丸まっていた帯を解いていたときは、顔が熱くなった。
 覚束ない足取りで寝室を出た和彦は、ギョッとして立ち竦む。
「――……帰って、いたのか……」
 ようやく和彦が声を発すると、悠然と座椅子に座っている賢吾が、ニヤリと笑いかけてくる。
「俺の部屋だからな」
 これは当てこすりだなと、さすがに和彦でもわかる。しかも、かなりこちらの分は悪い。襖を開けたままにしていたため、すべての声も、衣擦れの音すら聞かれていただろう。
 賢吾がいつからいたのかは知らないが、布団に横になっていると、隣室の座卓はまったく視界に入らないため、気づかなかった。物音でも立ててくれたなら、和彦よりも鋭い千尋が反応していたはずだが、その様子がなかったということは、賢吾もあえて、気配を殺していたということだ。
 いろいろと言いたいことはあったが、ここで賢吾を責めては、完全に八つ当たりだ。
 よほど苦い顔をしていたらしく、賢吾が機嫌を取るように、和彦に向かって優しい仕種で手招きする。仕方なく和彦は歩み寄り、賢吾の傍らに座り込んだ。
「俺の部屋で、俺の息子と俺のオンナが睦み合っている声を聞くというのは、滅多にない経験だと思わないか?」
「そういう皮肉を言われるぐらいなら、怒り狂ってもらったほうが気が楽だ……」
「怒る道理はないだろ。先生は、千尋にとっても大事なオンナだ。それに先生に、この部屋で自由に過ごしていいと言ったのは、俺自身だ」
 自由にも限度があるだろうと思ったが、口には出さないでおく。
 賢吾の腕が肩に回され、ぐいっと引き寄せられる。浴衣越しに、賢吾のてのひらの感触を感じ、千尋との行為の余韻のせいか、体の疼きと後ろめたさが同時に湧き起こる。
「……まだ、体が熱いな」
 汗で湿った和彦の髪に顔を寄せ、賢吾が官能的なバリトンで囁く。和彦は小さく身震いをしていた。
「千尋は、先生を丹念に愛してやったようだ」
 和彦はおずおずと賢吾に体を預けると、千尋との行為の最中、ずっと頭の片隅にあったことを口にした。
「――……ぼくを慕ってくれる千尋を愛しいとは思うが、ときどき怖くなるときがある。十歳も年上の男と、あいつはずっと一緒にいるつもりでいる。少し前までなら、今だけの情熱で言っているんだと、落ち着いていられたが、刺青を入れ始めたと聞いて、なんだか……怖くなった」
「何が怖いんだ」
「千尋はもうガキじゃなく、自分で決断できる大人の男になったんだと、痛感させられた。そんな男が、将来、自分だけのものになってくれと言うんだ。もしかして、本気なんじゃないかと――」
「本気だと、都合が悪いか?」
 パッと顔を上げた和彦は、賢吾を睨みつける。
「あんたの息子だろ。将来を憂えるぐらい、したらどうだ」
「組を継ぐのが決まっている千尋の将来をか」
「だからこそだ。……若いんだから、この先いくらだって出会いはある。将来どころか、ほんの先のことだって、何があるかわからないんだ。ぼくの存在のせいで、千尋の選択の幅を狭めたくない」
「あいつはそれほど、バカじゃない。必要とあれば、必要なものを選択する。もちろん、先生をしっかり抱き締めたままな。長嶺の男の執着心と独占欲を舐めるなよ、先生」
 賢吾の息遣いが唇に触れる。あっと思ったときには、唇を吸われていた。話の途中だと抗議の声を上げようとした和彦だが、きつく唇を吸われ、熱い舌を口腔に押し込まれると、ほとんど条件反射のように賢吾の口づけに応えてしまう。
 賢吾の腕が腰に回され浴衣をたくし上げられた。下着を身につけていないため露わになった尻を揉まれ、さすがに和彦はその手を押し退けようとする。賢吾の気を逸らせようと、懸命に会話を続けることにした。
「……ぼくは、自分のせいで、千尋の次の跡継ぎが望めないなんて言われるのは、嫌だからなっ……」
「そこまで組のことを心配してくれているんだな」
「違っ……」
「――長嶺組にはすでに、千尋の次の跡目がいるとは考えないのか?」
 賢吾が言った言葉の意味を理解するのに、数十秒ほどかかった。
 絶句した和彦の顔を、賢吾はおもしろがるように覗き込んでくる。
 我に返った和彦は、今の発言の真意を何度も尋ねたが、賢吾は楽しげに声を上げて笑うだけで、冗談であるのかどうかすら、教えてはくれなかった。









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