「わかった」
これだけの会話で意思疎通すると、次の瞬間には和彦の体は窓に押さえつけられ、背後から三田村に抱き締められた。和彦はその三田村の両手を取ると、自分の両足の中心と、ワイシャツがはだけたままの胸元へと導く。
「あっ」
三田村の手に、高ぶったままのものをいきなり強く掴まれる。和彦は痛みを感じるどころか、身震いするような興奮を覚え、熱っぽい吐息をこぼす。一方で、胸元もまさぐられ、和彦が促すままに突起を弄られる。
拉致されて辱められたとき、手袋越しに三田村に下肢をまさぐられ、快感を引き出された。今は直接触れられているのだと思うと、奇妙な感慨深さがあった。あのときは有無をいわさずの行為だったというのに、今は自ら求めているのだ。
三田村の手の上に自分の手を重ね、間接的に自分のものを愛撫する。三田村は、和彦が望む通りに手を動かしてくれる。
まさに、『先生の望み通りに』だ。
「はっ……、あっ、あぁ――」
本当はすぐにでも絶頂を迎えてしまいそうなのに、もっと三田村の手の感触を知りたかった。和彦は自らの快感を犠牲にして、三田村の指を取り、根元を締め付けてもらう。和彦の意図を察したのか、三田村はきつい縛めを和彦のものに施しながらも、胸の突起は甘やかすように撫で、優しく摘まみ上げる。
和彦が洩らす息遣いで、窓ガラスが白く曇る。
「……苦しそうだ。もう楽になるか?」
三田村の問いかけに、和彦は首を横に振る。まだ、この時間を終わらせたくないと思ったのだ。
「でも、すぐにでもイきそうだ、先生……」
「嫌、だ。もう少し、このまま――」
「なら、やめるか?」
この問いかけにも首を横に振ると、耳元で三田村が短く笑った。
「わがままだな、先生」
胸元を撫でる三田村の手を握り締めたのは、そのわがままを許してほしいと願う気持ちの表れだ。三田村は、和彦の手をきつく握り返してくれる。
「……本当に、苦しそうだ」
呟いた三田村に、限界まで高ぶっているものの先端を指の腹でくすぐられる。
「あうっ」
呻き声を洩らして和彦は喉元を反らし上げ、咄嗟に窓ガラスに片手を突いていた。そしてまた三田村の指に、高ぶりの根元を締め付けられる。喉の奥から絞り出すような声で鳴いていた。
「くうっ……ん、んっ、んぅっ」
耳朶に温かなものが触れた。それが三田村の息遣いだと気づいたときには、柔らかな感触がしっかりと押し当てられる。唇を押し当てられたのだ。
「それ、いい……」
この行為をやめられるのが怖くて、和彦は囁くような声で訴える。すると三田村の唇が、耳に二度、三度と押し当てられ、首筋へと移動した。身震いしたくなるような快感が和彦の背筋を駆け抜ける。
首筋に三田村の唇が滑り、ときおりそっと肌を吸われる。この頃には、和彦は欲望を制御できなくなっていた。
「あっ、うっ、うっ、もうっ――」
三田村の片腕に手をかける。自分でも、この状態から抜け出したいのか、まだ浸っていたのかわからず、惑乱する。
和彦の状態を素早く察したらしく、三田村の手が勝手に動き始め、和彦のものを再び扱き始めた。
「あっ、あぁっ、い、や……」
気持ちいいのに、それでも和彦は三田村の手を押し退けようとする。しかし、括れをきつく擦り上げられ、濡れた先端を撫でられると、抵抗は形だけのものとなっていた。
「はあっ、あっ、あうっ」
ビクビクと腰を震わせながら和彦は、三田村の手によって絶頂を迎え、精を迸らせる。
窓にすがりついて荒い呼吸を繰り返す和彦を、片腕でしっかり抱き締めながら三田村が支えてくれる。
和彦はずり落ちかけたスラックスのポケットから自分のハンカチを取り出すと、放った精で濡れた三田村の手を拭いてやる。
「先生がそんなことをしなくていい」
「……抱き締めてもらうと、ぼくが汚れるんだ」
言い終わると同時に、背後から、両腕でしっかりと三田村に抱き締められた。
「まだ一人で立てないから、あんたに支えてもらっているだけだからな」
自分たち以外の人間が聞いているわけでもないのだが、こうしている建前を和彦は口にする。三田村も応じた。
「そうだ。俺が、こうして先生を支えている」
和彦はハンカチを足元に落とすと、前に回された三田村の腕に手をかける。このとき三田村の唇が耳朶を掠めた。ゾクリとするような強烈な疼きが背筋を駆け抜ける。
絶頂を迎えたばかりで脱力感に支配されているというのに、自分でもおかしいほど、まだ体が欲情していた。
三田村の腕をぎゅっと掴んだ和彦が振り返ると、間近にある三田村の目と見つめ合いながら、吐息を触れ合わせる。このまま唇を重ねそうになったが、それを恐れたように三田村の両腕に力が込められ、骨が軋むほどきつく抱き締められた。
苦しさに小さく喘いだ和彦だが、これで欲情が散らせるならと、しばらくの間、二人はその格好のまま動けなかった。
千尋は今日も元気だ――。
犬っころのように目を輝かせ、落ち着きなく食器売り場を行き来するため、いつか食器を割るのではないかと見ているこっちがハラハラする。
実家に戻ってから、明らかに身につけるものの質が上がった千尋が今穿いているのは、あるブランドもののジーンズだ。スタイルがいい千尋にはよく似合っており、足元のレザースニーカーの組み合わせも様になっている。ラフに着ているTシャツも、きっと数万円はするのだろう。
おかげで、一見して育ちのいい好青年ぶりに拍車がかかり、デパートを歩き回っていると、特に目につく女性客から注目を浴びる。しかし当の千尋に自覚はないらしく、何かあるたびに嬉しそうに目を輝かせ、和彦を手招きする。
「――……躾のなってない元気な犬っころを散歩させている気分だ……」
和彦がため息交じりにぼやくと、荷物持ちに徹している三田村が応じた。
「そのわりには、楽しそうだ」
和彦は振り返り、ニヤリと笑いかける。
「金を気にしなくていい買い物は好きだ」
なるほど、と言いたげに無表情で三田村は頷く。賢吾からカードを預かっている三田村は、和彦の買い物に関しての支払いをすべて担当している。和彦としては、ヤクザに物を買ってもらうことに抵抗がないわけではないのだが、さすがにクリニック用のテナントを用意してもらうと、その感覚が壊れ始めていくのを自覚していた。
それに今日の買い物は、千尋のわがままにつき合っているという大義名分があった。
ようやく和彦の新しい部屋にやってきた千尋は、さんざん寛いで一泊したあと、今日になって、食器を買いに行こうと言い出した。基本的に食事は外で済ませている和彦は、家に滅多に客を呼ばないこともあり、所有している食器は乏しい。それが、長居する気満々の千尋にとっては不満らしい。
『これからはたくさん客も来るんだから、コーヒーカップやグラスもいいの用意しないと』
十歳も年下の千尋にもっともらしい顔で説教までされてしまったので、必要ないとも言えない。それに、客がやってくるというのは本当だ。クリニック開業までに、打ち合わせのためにさまざまな人間が訪れる予定なのだ。
すでに主な食器は買ったのだが、千尋は茶碗や皿どころか、調理器具も揃えると張り切っている。おそらく和彦の部屋のキッチンは、千尋専用のものとなるだろう。
「先生っ、この皿可愛いよっ」
大きく手招きしながら、片手ではある皿を指さしながら、千尋が言う。辺りに響き渡るような声に、思わず和彦は大股で千尋に歩み寄り、頬を軽く抓り上げる。
「大きな声を出すなっ。それに、男しか寄り付かないような家に、可愛い食器なんていらないだろっ」
「……俺専用で……」
「あー、クマちゃんだろうが、ウサギちゃんだろうが、好きな絵柄がついたのを買え」
途端に千尋が拗ねたように唇を尖らせたので、もう一度頬を抓り上げてやった。そんな二人のやり取りを、少し離れた場所で眺めている三田村の目元が、心なしか柔らかくなったような気がする。
千尋の相手をしながら和彦は、さりげなく視界の隅で三田村を捉えていた。
〈あのこと〉があってからも、三田村とは毎日顔を合わせて、言葉を交わしている。しかし、互いに何も匂わせない。まるで、最初から特別なことなどなかったように。だが空気でわかるのだ。そう装っているだけで、常に意識しているのだと。
ようやく千尋専用の食器や調理器具を買い込み、三田村の片手だけでは足りず、千尋が両手で荷物を持つことになる。三田村が右手を自由にしておきたい理由は――。
「拳銃を持ち歩いているのか?」
地下の食品売り場で、千尋が気に入っているというパンを選んでいるのを待つ間に、小声で和彦が尋ねると、三田村は微苦笑を浮かべる。
「俺を銃刀法違反で逮捕させたいのか」
「ということは、刃物もなしか」
「先生や千尋さんに何かあるときは、俺が体を張る。だからこうしてついているんだ」
「……千尋はともかく、ぼくに何かあるとも思えないが――」
ふいに三田村の手が肩にかかってドキリとする。さりげない動作で体の位置を移動させられ、数人のグループとぶつかりそうになるところを、寸前で躱せた。
驚いて目を丸くする和彦に、三田村は表情も変えずこう言った。
「こういうことでも役に立つつもりだ。先生の身に何かあったら大変だ」
スッと手が離れたが、和彦の肩には、三田村の手の感触がしっかりと残る。
「お待たせっ」
千尋が袋を手に駆け寄ってきたので、まだ何も持たせてもらっていない和彦は、パンが入った袋を取り上げる。どうせ他の荷物を持とうとしても、千尋と三田村に拒まれるのだ。
それから三人は駐車場に移動し、三田村が食器以外の荷物をトランクに詰め込む間に、和彦と千尋は後部座席に乗り込む。
「このあと、オヤジも合流して、三人で晩メシ食うことになってるんだよね?」
「そういう連絡が、三田村さんに入ったみたいだな」
「オヤジがいると、護衛が物々しいんだよなー」
「仕方ないだろ、お前も組長も、そういう立場なんだから」
ここで千尋が、唐突に意味深な笑みを浮かべた。
「……なんだ?」
「他人事みたいに言ってるけどさ、先生も、俺たちの側に来たどころか、もう仲間だよ」
あっ、と声を洩らした和彦は、顔をしかめてから髪を掻き上げる。
長嶺組の加入書に署名させられたのは、ほんの数日前のことだ。その翌日に、ホテルのラウンジで総和会の藤倉と会い、総和会の加入書にも署名した。このとき、和彦の隣には当然賢吾がおり、自分は長嶺組の世話になる覚悟がついていると宣言までさせられた。
こうして和彦は、長嶺組に面倒を見てもらいながら、依頼があれば総和会の仕事までこなす立場になったのだ。賢吾は、できる限り総和会の仕事はセーブするとは言っていたが、どこまで信用していいのか、よくわからない。
「――……なんかいろいろと、大変そうだ。しがらみとか、つき合いとか」
「先生は、そういうの考えないで、医者としての仕事をしてればいいよ。……一番大事なのは、俺とオヤジの、オンナとしての仕事だけど」
一見好青年のような外見で、さらりとこんなことを言えるのが、千尋だ。
和彦が見つめる先で千尋は、今自分が物騒なことを言ったという自覚もない様子で、パンの袋を開けて顔を突っ込んでいる。和彦はちらりと笑って千尋の頭を撫でてやった。
「まだ食べるなよ。肝心の晩メシが入らなくなるぞ」
「……先生、俺のお袋みたい」
千尋の言葉に、和彦は容赦なく千尋の頬を抓り上げてやった。
夕食のあと店を移動し、勧められるままアルコールを飲んだ和彦はしたたか酔ってしまい、歩く足取りがあまりに危ないからと、千尋に体を支えられる事態になっていた。
「悪酔いした……」
エレベーターに乗り込んだところでぼそりと和彦は洩らす。
「珍しいよね、先生がこんなに酔うなんて。けっこう飲んでも、平然としてたと思うんだけど」
「……いい酒を飲ませてもらったけど、面子が悪すぎた。そのせいだろうな」
和彦の言葉に、千尋はきょとんとした顔をする。すると、和彦の反対隣から低い笑い声が聞こえてきた。思わず鋭い視線を向けた先では、賢吾が上機嫌といった様子を見せている。和彦以上に飲んでいたくせに、一切酔いはうかがわせない。千尋の酒豪っぷりは、間違いなく父親譲りだ。
「まあ、俺と飲むなら、それは諦めるんだな」
そう言いながらさりげなく賢吾の手が腰に回され、さらに下がって尻を撫でられた。エレベーター内が、自分の身内と護衛しかいないせいで、やりたい放題だ。一般人も乗っていたのだが、扉が開いてこの顔ぶれを見た途端、顔を背けて逃げるように降りてしまった。
さきほどまで飲んでいたバーでも、一応、和彦とこの父子の三人で飲んでいたのだが、周囲のテーブルをがっちりと長嶺組の護衛が囲んでしまい、気楽にアルコールを楽しめる雰囲気ではなかった。
エレベーターを降り、さりげなく周囲をガードされながら駐車場へと向かう。夜とはいっても、この辺りはまだにぎやかだ。ホテルを出入りする人の姿も多く、油断はできないといったところだろう。
一人なら気楽なのにと思いながら、和彦はぽつりと洩らした。
「早く帰って横になりたい……」
「だったら、今日も先生のところに泊まって、俺がいろいろ世話するよ」
パッと顔を輝かせてそんなことを言った千尋に向かって、和彦は即答した。
「――いらない」
「振られたな、千尋ちゃん」
こう言ったのは賢吾だ。その呼び方が気に障ったらしく、千尋は目を吊り上げたが、気にかけた様子もなく、賢吾が和彦の肩を抱いてきた。
「俺がどうして、こいつに千尋って名前をつけたかわかるか? いろいろと大層な名前の候補はあったんだがな、俺の息子だから、どうせふてぶてしいツラしたヤクザ者になると思ったんだ。それでせめて、名前ぐらいは可愛くしてやろうっていう――親心だ」
表には出さないが、意外に賢吾も酔っているのかもしれない。
似合わないことを語るヤクザの組長と、思いきり顔をしかめているその息子を交互に見てから、たまらず和彦は噴き出す。肩を震わせて笑っていた。
「……本当に酔ってるな、先生。こんなに楽しそうに笑えるなんて、初めて知った」
賢吾がしみじみと洩らした言葉に対して、千尋が余計な茶々を入れた。
「俺なんて、先生と何回もバカ笑いし合ってるぜ。やっぱり先生の感性は、おっさんより、若者と一緒にいるほうが合ってるんだよ」
「はいはい、子守りしてもらってよかったな」
同じレベルでやり合っている父子は放って、和彦はふらつきながらも先を歩き、駐車場に停められた一台の車に近づく。有能な〈番犬〉は、和彦や長嶺父子の姿を認めてから車を降りるようなマネはしない。
ずっとそうしているかのように、三田村は車の傍らに静かに佇んでいた。三田村だけは、どの店にも同行せず、こうして車で待機していたのだ。車の周囲に、いつ、誰が潜むかもわからない、ということだが、和彦にしてみればなんとも寂しいことだと思う。
もっとも、三田村が同行していたところで、影のように黙って付き従っているだけなのだろうが――。
言葉を交わさずとも、三田村がスマートな動作で後部座席のドアを開ける。和彦は父子を振り返ると、軽く手をあげた。
「今夜はご馳走さま。それじゃあ、ぼくはこれで」
そう言って車に乗り込み、ドアを閉めてもらう。和彦はほっと息を吐き出し、アルコールで熱くなった頬をてのひらで擦る。さきほどは悪酔いしたなどと言ったが、本当は気分はよかった。
何日か前まで、底が見えない憂鬱な気持ちに苛まれていたのがウソみたいだが、この気分のよさも一過性だろうなと和彦にはわかっている。日によって、どうしようもない自分の現状を痛感して打ちひしがれ、別の日には、それでも生きていくのだからと、妙に前向きな気持ちになるのだ。
したたかになるとは、この日々と上手く折り合いをつけていくことでもあるのかもしれない。
アルコール臭いため息をついて、和彦がシートに深くもたれかかろうとしたそのとき、急に後部座席の左右のドアが開き、同時に人が乗り込んできた。
「なっ……」
ついさきほど別れたはずの賢吾と千尋だった。その二人が、和彦を挟む形でシートに座ったのだ。
本来は二人乗りである高級車の後部座席のシートは、わざわざ特別仕様を施して三人乗りにしている。この仕様のおかげで、和彦は後部座席でさんざん賢吾に好き勝手されているのだが、とはいえ、さすがに大人の男が三人も乗り込むと窮屈だ。特に、中央に押し込まれた和彦が。
嫌な予感というより、危機感を覚えて、左右に座る男たちを交互に見る。
「……帰るんじゃないのか?」
「別れのキスをしていなかった」
賢吾の言葉にハッとして、千尋を見ると、にんまりと笑いかけられた。一方の三田村は、何事もないかのように運転席に乗り込み、いつものように前を見据えている。
「――……いらない」
和彦が身構えながら答えると、さきほどの仕返しとばかりに千尋が爆笑する。一方の賢吾も、怒った様子もなく苦笑を洩らした。
「まあ、そう言うな」
賢吾の大きな手が後頭部にかかり、引き寄せられる。間近からじっと目を覗き込まれ、さすがに和彦も息を呑んだ。
賢吾の目には、大蛇が潜んでいる。普段はじっと身を潜め、大抵のことには身じろぎもしないが、それが何かの拍子にぞろりと蠢き、巨体をしならせる。たったそれだけで、小さな生き物は簡単に吹っ飛び、もしくは押し潰される。和彦もそれは例外ではない。
「――今回は、よく耐えた」
ふいに言われた言葉に、眉をひそめる。
「何?」
「総和会のことだ。あと、うちの組とのことも。いざとなれば、お前の片手を掴んで、無理やりにでも加入書は書かせるつもりだったが、それは最後の手段だ。できることなら、暴力込みでのお前に対する無理強いは、拉致したときのあの一度きりにしたかったからな」
うなじを指で撫でられながら、賢吾に優しく唇を吸われる。すると千尋には片手を取られ、指に唇が押し当てられた。和彦が思わず千尋のほうを見ると、犬っころのように目を輝かせて無邪気に笑いかけてくるので、つい千尋の頬を撫でてやる。すると今度は、千尋が顔を寄せてきて、柔らかく二度、三度と唇を触れ合わせていた。
「……先生は本当に、うちのバカ息子には甘いな」
からかうようにそう言って、賢吾の顔が首筋に寄せられる。熱い舌で首筋を舐められて、背筋にゾクリとするような疼きが駆け抜けた。
和彦は、千尋と額を合わせながら言った。
「あんたみたいなヤクザに目をつけられたのは、千尋が原因だと思っている。当の千尋も、自分をヤクザだと言い出すし……。だけど、この状況から抜け出さないのは、自分が原因だ。いざとなれば警察に駆け込めばいいのに、ぼくはそうしていない。あんたたちに報復されるのが怖いというのもあるが――、結局、自分の問題だ」
「そういう結論を出せるんだから、見た目より、さらに男前だよね、先生」
そう言って千尋が笑い、和彦の唇に掠めるようなキスをしてくる。
「今の生活に息が詰まって、頭がどうにかなりそうなこともあるが、千尋のおかげで気が紛れる。……躾のなってない犬っころに振り回されていると、考えるのがバカらしくなってくるんだ」
「それは、千尋をバカと言っているのと同じだな」
賢吾の言葉に思わず笑ってしまうが、当の千尋は機嫌はよさそうだ。
「いいよ、なんだって。先生が、こうして俺の側にいてくれるなら」
「〈俺〉じゃない、〈俺たち〉だ」
賢吾にあごを掴み寄せられ、また唇を吸われる。和彦は賢吾の頬をてのひらで撫でると、そっと唇を吸い返していた。満足そうに賢吾が目を細めて言った。
「――ヤクザの扱いに慣れてきたな、先生」
内心で和彦はドキリとする。したたかになると決めた和彦は、自分の立ち位置を探り始めていた。決してこの父子に媚びないが、決定的な反抗はしない。今の和彦の話は、ウソではないが、すべて本当とはいえなかった。
ヤクザにさまざまなものを与えられながら、従うことを求められている和彦の感情は、そう簡単なものではない。
千尋はともかく、賢吾はそんな和彦の内心を汲み取っているようだった。だが、完全な恭順までは求めてこない。その理由は――。
「根っからのヤクザじゃない先生に、俺たちの組織や考え方に心酔しろってのは無理な話だからな。だったら、損得の話で従わせるほうがいい。こちらが与え続ける限り、裏切られることも、離れることもない」
賢吾の指に頬をくすぐられ、求められるままにしっとりと唇を重ね、吸い合う。その合間に囁かれた。
「欲しいものがあったら、なんでも言え。金や、俺の力で手に入るものなら、なんでも与えてやる」
大蛇を潜ませた目は本気で言っていた。つまり、それ相応のものを和彦にも求めるということだ。
「……オヤジばかりズルイだろ。先生は、俺のものでもあるんだ」
そう言って千尋に頭を引き寄せられ、唇を貪られる。賢吾の息遣いをうなじに感じたときには、そっと唇が押し当てられ、喉元に手をかけられて撫で上げられる。縊り殺されそうだという危惧は、一方で甘美でもある。
千尋と舌を触れ合わせながら、賢吾にはうなじを柔らかく吸われていた。
「――ヤクザなりに、先生のことは大事にしてるんだぜ。ガサツな男が揃って、色男のお前の機嫌を取ろうとしてる。そう考えたら、滑稽だろ? だが、本当だ」
あごを掬い上げられて振り向かされると、すかさず賢吾の舌に唇を割り開かれ、和彦は熱い吐息を洩らして受け入れていた。首筋に、今度は千尋の唇と舌が這わされ、和彦は賢吾とゆったりと舌を絡め合いながら、片手で千尋の頬を撫でた。
本当はこう思ってはいけないのだろうが、この男たちは、自分を大事にしてくれているのかもしれない。もちろん、こう思わせるのがヤクザの手口なのだろうし、今この瞬間の単なる錯覚だとわかってはいるのだ。さりげない優しさを見せて甘い台詞を囁いて、こちらの心に入り込もうとするのは、〈悪い男〉がよく取る手段だ。
和彦自身がそうだから、わかっている。だが、それでも――。
粗末に扱われるぐらいなら、永遠に続くものではないとしても、やはり大事にされるほうがいい。
この考えが、いつか和彦自身を傷つけることになるとしても。
賢吾にきつく抱き締められ、千尋には甘えられるまま抱き締めてやり、長い別れの挨拶を終える。
どうせ明日には、どちらかとまた顔を合わせるのだが。
「――さっきのやり取り、どう思った?」
対向車線を走る車の流れをぼんやりと眺めていた和彦だが、ふと思い立って三田村に問いかける。運転に集中しているのか、三田村はすぐには返事をせず、それを和彦は辛抱強く待つ。
「……さっきのやり取りって、組長と千尋さんとのことか?」
ようやく応じた三田村に、バックミラーを通して目を合わせ、頷く。
「どう答えてほしいんだ」
「ぼくがそれを言ったら、わざわざあんたに聞いた意味がないだろ」
ここで一分ほど沈黙が続き、やっと三田村はまた口を開いた。
「先生が、そういうことを俺に聞くのは初めてだ」
「やっぱり気になるだろ。あんたの大事な組長や、オマケのその息子が、男のぼくをちやほやしているんだ。内心で、男のくせにと罵倒しているのか、今だけのことだとバカにしているのか、それとも……まったくの無関心なのか。この先、長いのか短いのかわからないが、あんたには、ぼくの番犬も務めてもらわないといけない。相互理解は大事だ」
もっともらしいことを言っているが、これは和彦の好奇心だ。これまで三田村は、番犬であり観察者だった。それだけだったともいえる。賢吾や千尋とのどんな行為を目にしても、三田村は目を逸らさないし、感情を表にも出さなかった。
だがこの何日か、和彦と三田村の間には、なんらかの繋がりが芽生え始めていた。それに伴い、特別な感情も。
カラオケボックスで抱き締められたとき、三田村がただ見ているだけの無感情な男ではないと知り、自分たちの行為を賢吾に報告しなかったことで、通じ合うものを感じた。決定的だったのは、三田村が生身の手で、和彦の体に触れてきたことだ。
賢吾の忠実な番犬であるはずの男は、あのとき多分、主人の要望以上の行動を、自らの考えで行った。和彦が三田村に対する意識を変えたように、三田村もまた、和彦に対する意識を変えたのだ。
そのことを和彦は確かめたかった。
「――組長や千尋さんから大事にされる先生を見ているのは、好きだ」
思いがけない三田村の言葉に、さすがに和彦も何も言えなかった。目を丸くしてバックミラーを見つめるが、三田村は前を見据えている。
「先生は、自分の無力さや勇気のなさを知っている。受け入れることでしか、自分は何も保証されないということも。……先生を拉致したとき、ずっと押さえつけていたのは俺だ。先生は震えていたが、それでも辺りをうかがっていたのはわかっていた。あんたはずっと、取り乱さなかった。受け入れることで耐えていた」
「……なんだか、男としてはものの役に立たないと言われているようだ」
「そうじゃない。先生は、しなやかだ。精神的にも、……肉体的にも。――ああ、そうだ。今、気がついた。俺は先生のしなやかさが好きなんだ。突き進むか、折れるかしかない生き方をしてきた俺には、羨ましくもある」
三田村のハスキーな声には、いつもはないわずかな熱がこもっていた。その熱に誘われるように、和彦はわずかに身を乗り出す。
「だから、ぼくに触れてくれたのか?」
この瞬間、三田村の顔は能面のようになった。もともと無表情だったが、すべてが強張ったのだ。
和彦は深くは追及せず、こう付け加えた。
「ぼくが長嶺組に飼われている間、ずっと側にいてくれ。他の人間なら嫌だが、あんたならいい。変な話だけど、あんたになら、どんな光景を見られても受け止められる。恥ずかしさも惨めさも」
「――先生の望み通りに」
その答えに、和彦は満足した。
今度二人で飲もうと誘うと、やっと三田村はちらりと笑みを浮かべた。
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