と束縛と


- 第4話(1) -


 窓を開けると、川を渡ってくる風がすうっと室内に流れ込んでくる。まだ何もない部屋を風が駆け抜け、空気を入れ替える。もっとも、室温はそんなに変わらないだろう。
 梅雨明けはまだだというのに、盛夏のような暑さが連日続いており、外の陽射しは強い。たっぷりの熱気を孕んだ風は、ほんの一瞬の爽やかさのあと、ムッとする暑さを運んできた。
「……エアコンの取り付け工事を急がせましょうかね」
 背後から声をかけられ、髪を掻き上げて和彦は振り返る。クリニックの内装を任せている設計士だ。今日は工事の具体的な打ち合わせのため、施工業者とともにビルに集まっていた。
 ハンカチで忙しく汗を拭く設計士の姿に、苦笑を浮かべて和彦は頷く。
「そうですね。このフロアは空調の操作が面倒なことになってるらしくて。改装工事のときに、なんとかしてもらおうと思っていたんですよ」
「でしたら、どういうユニットにするか、今日決めてしまいましょう。カタログは持ってきているんで」
 お願いしますと言って和彦は、診察室となる部屋を見回す。この部屋と、隣の部屋を区切る壁は取り払うことになっている。
 これまで何度かの打ち合わせは行っており、すでにクリニックとしてのレイアウトは決まっている。現在は、設計図を元に具体的な工程表を作成してもらっている最中だ。今の調子なら、梅雨明けを待たずして工事に取り掛かれるだろう。
 工事に入れば入ったで、一応の施工主である和彦は、作業の確認のために頻繁にここを訪れなければならない。そのため、医療機器や備品の選定も急いだのだ。
 体が一つしかないのに、和彦が負わされた役目は多すぎて、毎日目が回るような忙しさだ。
 ストレス解消にジム通いを再開したいと考えていると、開けたままのドアをノックする音がした。ハッとしてそちらを見ると、いつからそこにいたのか、薄い笑みを浮かべた賢吾が立っていた。
「様子を見に来た。順調か?」
 賢吾の問いかけに、和彦ではなく、恐縮した様子で設計士が頭を下げて答える。この設計士を紹介してくれたのは、長嶺組なのだ。
 設計士から説明を聞いている賢吾を、和彦はその場に立ち尽くしたまま眺める。
 さすがに暑くなってくると、賢吾のワイシャツ姿を見かけることが多くなった。ただし、長袖で濃いグレーのワイシャツを好んで着ている。素肌にあるものを一切うかがわせたくないのだろう。
 覆うもののない陽射しの下にいるのが、ひどく不似合いな存在なのだ。明るい場所にいるほうが、禍々しさが増し、まとった陰がより濃く見える。
 ふいに賢吾が顔をしかめ、ネクタイを緩める。その拍子に和彦と目が合った。指先で呼ばれ、仕方なく側に行く。
「――暑いぞ」
 唐突な言葉に、思わず目を丸くした和彦だが、すぐに賢吾を軽く睨みつける。
「ぼくに言って涼しくなるのか」
「早く空調をどうにかしてもらえ。暑くて長居できない」
「しなくていいだろ」
 和彦が素っ気なく応じると、今度は賢吾が目を丸くする番だった。だが次の瞬間には、ニヤリと笑いかけてくる。
「そう、ツンケンするな」
 また指で呼ばれ、和彦は賢吾のあとについていく。工事後は待合室となるホールでは、施工業者の人間が集まって持ち込む機材について話し合っている。その様子を一瞥した賢吾は、奥の部屋へと向かう。
「……護衛の人間は?」
 ホールを見て、賢吾が一人でこのフロアにやってきたのは確認した。
「物騒なツラした人間を、一般の業者がいる場所に連れてくるわけにはいかないだろ。設計士は前からの馴染みだが、業者のほうはそうじゃないんだ。クリニックを始める前に、妙な噂は立てたくない」
「自分は物騒なツラじゃない、と言いたいんだな」
 皮肉でもなんでもなく、思ったままを口にした和彦を、賢吾が肩越しに振り返る。澄ました顔で言われた。
「俺は、紳士だろ?」
 見た目だけ、と和彦は心の中で答えておく。
 さほど広くない奥の部屋に入ってドアを閉めた途端、賢吾に腕を掴まれて壁に押し付けられ、あごを掴み上げられた。
「……あまり強く掴まれると、跡がつく」
 和彦がこう言うと、あごから指は退けられたが、首筋に顔が埋められた。
「お前の汗の匂いだ」
 賢吾に低く囁かれてから、ベロリと首筋を舐め上げられ、咄嗟に唇を引き結ぶ。柔らかく肌を吸い上げられ、耳朶を唇で挟まれると、とっくに慣らされた体の奥から疼きが湧き起こる。
 大胆にTシャツをたくし上げられると、脇腹から胸元へと汗ばんだ肌を撫でられる。もう一方の手は両足の中心へと這わされ、ジーンズの上からゆっくりと押し上げてきた。
「んっ……」
「先生、少し痩せたな」
 指で擦られ、簡単に硬く凝った胸の突起を、身を屈めた賢吾が舌先でくすぐってくる。和彦は賢吾の肩に手を置き、微かに震えを帯びた吐息を吐き出す。
「俺は、あまり細いのは好みじゃない。男でも、女でも。――初めてお前を抱いたときの体が理想的だった。適度に筋肉がついて、多少無茶をしても壊れそうにないぐらいしなやかだった」
 賢吾の熱い口腔に突起を含まれ、和彦は小さく声を洩らす。こんなことをするために、わざわざやってきたのかと罵倒する気力も失せていた。悪いか、と一言で返されるのは目に見えている。
 執拗に片方の突起だけを愛撫する賢吾の頭を、とうとう和彦は片腕で抱き締める。鼻にかかった声を上げてしまいそうな危惧を覚え、必死に言葉を紡いだ。
「……時間ができたら、ジムに通いたい。前のクリニックに勤めているときは、行っていたんだ」
「トレーニングがしたいなら、お前の部屋に器具を運び込めばいいだろ。走りたいなら、どこでもできるだろうし」
 胸の中央を舐め上げてから、ようやく賢吾が顔を上げる。ヒヤリとするような目で間近から覗き込まれ、蒸れた部屋の暑さも一瞬和彦は感じなくなっていた。
「気分転換を……、したい。こうも暑いと泳ぎもしたいし」
「ヤクザに囲まれてると、息が詰まるか?」
 人を食う獰猛な笑みを浮かべた賢吾に、そっと唇を吸われる。
「誰も、そんなこと言ってないだろ……」
「ふん。まあいい。またお前の憂鬱そうな顔は見たくないからな。ただし――」
 賢吾の両腕が腰に回されてから、手の位置が下がる。痛いほど尻を揉まれていた。
「三田村に送り迎えをさせる」
「……忘れてるようだが、ぼくは運転ができる」
「だから? 行動の自由を制限する気はないが、行き先や、行き帰りの時間帯が特定されそうなときは、組の人間を運転手として使え。お前の身の安全は、できる限りうちの組で保証する。それが、お前をオンナにした俺たちが、負うべき責任ってやつだ」
 そしてまた唇を塞がれる。今の賢吾の発言は、大事にされていると取るべきか、本格的に束縛され始めていると取るべきか、微妙なところだ。ただ、賢吾の言葉で官能が刺激されたことだけは確かで、和彦は熱っぽい求めに応じる。
 舌先を触れ合わせながら尻を撫でられていたが、賢吾に貪られる前に、ドアがノックされた。
「佐伯先生、ちょっとご相談したいことがあるんですが、かまいませんか?」
 素早く頭を引いた和彦は、即座に答える。
「はいっ、今行きますっ」
 ヤクザの組長という肩書きに似つかわしくなく、賢吾が大仰に顔をしかめる。和彦はたくし上げられていたTシャツを下ろしてから、苦笑しながらも賢吾の腕の中から抜け出そうとしたが、反対にきつく抱き締められた。
 抗議の声を上げる前に、賢吾に耳元で囁かれる。
「――千尋が、先生が相手してくれないと拗ねてたぞ。あと、長嶺組の組長も」
「長嶺組の組長って、あんたのことじゃないか……」
「そうだ」
 唇の端にキスされ、そのまましっとりと唇を重ね、和彦は賢吾の口腔に舌を差し込む。舌を甘噛みされて小さく声を洩らすと、そのまま性急に絡め合っていた。
「どんどんヤクザの扱いが上手くなってきてるな、先生。今のキスなんて、俺の好みそのものだ」
「……そうなるよう、仕込んだのはあんただ」
 賢吾の太い指に、唾液で塗れた唇を拭われた。さりげなく片腕で腰を抱き寄せられそうになったが、また何をされるかわかったものではないので、和彦は露骨に逃げる。
「あんたが、自分のペースで物事を進めるから、おかげでこっちは忙しいんだ。少しぐらい時間が取れなくても、我慢してくれ――と、千尋に言っておいてくれ」
「俺の相手をして、すぐに千尋にバトンタッチしたら、そう時間も取らないだろ。何もベッドの上だけでできることでもないんだから」
 本気で言っているから、このヤクザは性質が悪い。和彦はキッと鋭い視線を向けた。
「この間みたいなことを二人続けてされたら、ぼくが壊れる」
「この間……。あれか、立ったまま、三田村に掴まって――」
「それ以上言うなっ」
 焦った和彦が声を荒らげると、おもしろがるような表情で賢吾があごに手をやる。睨まれているわけでもないのに凄みを感じさせる目に、心に隠したものをすべて暴かれそうで、和彦はスッと視線を逸らした。
「とにかく、こっちは忙しい。ぼくをどうこうしたかったら、そっちでスケジュールをどうにかしてくれ。どうせぼくは、あんたたちの所有物なんだから」
「そう憎まれ口を叩くな」
 ドアを開けて廊下に出ようとした和彦に、最後に賢吾がこう言った。
「――考慮しておいてやる、いろいろと」
 何事かと振り返った和彦に対して、賢吾は意味深な笑みを浮かべる。
 ヤクザがこんな笑い方をするときは、人を食らうときだ。これまでの短いつき合いで、そんなことを学習した和彦は、小さく肩を震わせてから逃げるように別の部屋へと向かった。




 夜からコーディネーターと打ち合わせをして、ファミレスで適当に食事を取ってから部屋に戻ってきたとき、和彦はもう、何もする気力が残っていなかった。ただ、汗をかいた不快さが我慢できず、三田村に頼んでバスタブに湯を溜めてもらう。
 こんな生活に入る前までなら、何があっても自分一人ですべてこなさなければならなかったのだから、そういう意味では、ずいぶん優雅になったものだ。
 ソファに転がって、夜のニュース番組を眺める。世間で起きていることに、すっかり興味が持てなくなっているが、それでもテレビをつけるのは習慣だ。
「――先生、湯が溜まった」
 三田村に声をかけられ、体を起こす。よほど億劫そうに見えたのか、三田村は無表情のまま、それでいて声には気遣いを滲ませながら言った。
「今夜はゆっくり休めばいい。明日は予定が何も入ってないから」
「本当に、予定通りになればいいけどな。犬っころが、目を輝かせて転がり込んできそうな気がする」
 三田村にもその可能性が否定できなかったらしく、黙り込まれてしまった。
 和彦はちらりと笑って立ち上がると、その場でTシャツを脱ぎ捨てる。上半身裸のまま三田村の横を通り過ぎるとき、互いに緊張したことを感じ取る。
 意識して、緊張しながら、何事もなかったように装うのが、二人の間では当たり前のようになっていた。何を意識しているのか、本当は和彦はよくわかっていない。いや、わかっていないふりをしているのだ。
 現実から目を背けた、麻薬のように心地よく、何もかもを与えられる生活を送りながら、いまさらわからないものが一つ増えたところで、和彦は困りはしない。引きずり込まれた世界は、いまだに和彦にとってわからないことだらけなのだ。
 手早く体を洗って湯に浸かると、クリーム色の天井を見上げる。
 そのまま危うく眠りそうになっていた。目が覚めたのは、浴室の扉の向こうから呼びかけられたからだ。
「先生ー、プリン買ってきたから食べようよ。せ・ん・せ・い、聞いてるー?」
 パシャッと水音を立てて、和彦は湯の中に完全に沈みかけた体を起こす。もう少しで顔まで湯に浸けるところだった。
「あー、寝てた……」
 ぼんやりと呟いてから、顔を洗って、濡れた髪を掻き上げる。その間も、扉の向こうから呼びかけてくる声は続く。
「先生、早く顔出してよ。俺、下に車待たせてるから、あまり時間がないんだ」
 甘えるような声で言われ、大きくため息をついた和彦は勢いよく立ち上がり、扉を開ける。脱衣所の床の上に、千尋がぺたりと座り込んでいた。まるで、飼い主の指示を待つ犬っころのようだ。
 和彦の裸を見て、千尋は大げさに目を丸くするが、一方の和彦は素っ気なくバスタオルを取り上げて髪を拭く。
「……急いでいるなら、プリンだけ置いて帰ったらどうだ」
「プリンなんて単なる理由で、先生の顔を見たかったんだよ」
「だったら、こうして見られて安心しただろ」
 少しばかり意地悪を言ってみると、思った通り、千尋が唇を尖らせる。バスローブを羽織った和彦は、くしゃくしゃと千尋の頭を撫でた。
「実家に戻ってから、お前、子供っぽくなったんじゃないか」
「だったら、俺が本気出しても、先生平気?」
 前触れもなく立ち上がった千尋に、いきなり腕を掴まれて壁に体を押し付けられる。目の前に迫ってきたのは、しなやかな体躯を持った若々しい肉食獣だ。さきほどまで、あざといほど子供っぽさを前面に出していたくせに、今はもう、したたかな笑みを浮かべて舌なめずりしていた。
 発情している顔だと、和彦は思った。
 千尋は、まだ湿りを帯びた和彦の肌に触れてくる。バスローブの紐を結んでいないため、何もかも千尋の前に晒したままなのだ。しずくが伝う首筋をゆっくりと舐め上げながら千尋が言う。
「俺が家に戻った理由を、甘くみないでよ。いつでもこうして大きな顔して、先生に会うためだよ」
 和彦が息を呑むと、千尋がそっと唇を吸ってくる。片手で濡れた内腿を撫で上げられ、指先でくすぐられ、和彦は小さく抗議の声を上げた。
「プリンを食べさせてくれるんじゃないのか」
「プリンより先に、俺が先生を食べるってのは、どう?」
 こういう発言を聞くと、あの父親にして、この息子だなと痛感させられる。
 ため息をついた和彦は、千尋の頬を軽く撫でた。
「――……発情するサイクルが同じなのか、父子揃って」
「あのオヤジと同じってのは複雑だけど、先生が目の前にいて触らないのは勿体ない、と思ってるんだよ、俺は」
 ニッと笑った千尋が身を屈め、今度は胸元を伝い落ちるしずくを舐め上げる。
「あっ」
 数度胸元を舐めたあと、千尋の舌が突起をくすぐってくる。昼間、賢吾が愛撫してきたのとは反対側の突起だ。
 示し合わせているのか、本能で嗅ぎ分けているのだろうかと考えているうちに、凝った突起を柔らかく吸い上げられ、和彦はビクリと体を震わせる。
「千、尋っ……」
 いきなり強く吸い上げられ、快感めいたものが和彦の胸元に広がる。思わず顔を背けてから、ドキリとした。廊下に通じるドアが開いたままなのだ。さきほどまでの千尋とのやり取りが、三田村の耳にも届いているのかもしれない。だからどう、というわけではないのだが――。
「千尋、お前早く、下に降りないといけないんじゃ……」
「だったら先生、早く感じて見せて」
 顔を上げた千尋がそんなことを言い、容赦なく和彦の弱みを攻める。てのひらに、やはりまだ湿りを帯びた和彦のものを包み込み、性急に扱き始めたのだ。
「あっ……」
「オヤジが、今日先生を食い損ねたって言ってたんだ。だから、俺がありがたく、いただいちゃおうって――」
 耳をベロリと舐められて、せがまれるまま千尋のほうを見ると、すかさず唇を吸われる。和彦は壁にもたれかかったまま、千尋の背に両腕を回していた。
「先生、少し痩せた?」
「環境の変化のせいでな」
「その変化って、俺とオヤジの存在も込み?」
「込みだ、込み。むしろメインだ」
 首をすくめて笑った千尋に唇を舐められ、誘われるように舌を差し出した和彦は、探り合うように舌先を触れ合わせる。甘やかすように千尋の舌を吸ってやると、お礼とばかりに胸の突起を指の腹で押し潰され、次の瞬間には抓るように引っ張られる。
「……先生、もう濡れてきた」
 和彦のものを激しく扱き立てていた千尋が、ふいに手の動きを止めて先端を撫でてくる。ヌルリとした感覚は、半ば強引に与えられる快感を和彦が無視できないことを表している。
 身を起こした和彦のものの輪郭を、思わせぶりに指先でなぞった千尋が、ふいにイタズラっぽく目を輝かせる。咄嗟に身の危険を感じた和彦は、慌てて体を離そうとしたが、廊下まであと一歩というところで背後から抱きすくめられた。
「千尋っ……」
 千尋の片手が両足の間に差し込まれ、柔らかな膨らみをぐっと指で押さえつけられる。ガクッと足元から崩れ込みそうになり、開いたドアになんとかすがりついた。
「あっ、あぁっ」
「ここ、オヤジに仕込まれてるんだよね。弄られただけで、涎垂らしてよがり狂うようにって。確かに、反応いいよね。体がビクビク震えてる」
 片腕で腰を抱かれながら、千尋の指にまさぐられる。賢吾ほど慣れていない、力加減がめちゃくちゃの武骨な指に弄られてから、てのひらに包み込まれて、揉まれる。
「ひあっ、うっ、あうっ」
「少し力入れていい?」
 その言葉通り、千尋の手にわずかに力が入る。繊細な部分をやや手荒に揉みしだかれ、ドアにすがりついたまま和彦はブルブルと両足を震わせる。反り返ったものを戯れのように握って、耳元で千尋が笑った。
「もしかして、涎って、こっちの涎? すごいよ、先生。どんどん垂れてきてる、涎」
 千尋の唇を首筋に押し当てられたところで、和彦は弱音を吐きそうになる。もう、立っていられなかった。それに、思うさま、快感を貪りたくてたまらない。
「千、尋――」
 和彦が口を開こうとしたとき、突然、側で派手な音楽が鳴った。千尋の携帯電話の呼出し音だ。最初は無視しようとしていた千尋だが、すぐに耐え切れなくなったらしく、渋々といった様子で電話に出た。
「もしもしっ」
 荒っぽい口調で千尋が応じる間に、和彦は乱れた呼吸を整えながら、肩からずり落ちかけたバスローブを羽織り直し、しっかり紐を結ぶ。腰が疼いて、今にもその場に座り込んでしまいそうだ。
「あー、わかったよっ。すぐに降りる」
 電話を切った千尋が、ふて腐れた顔で唇を尖らせる。すっかり格好を整えた和彦を見て、さらに機嫌が悪くなったようだ。和彦は何事もなかった顔をして、千尋の頭を撫でた。
「残念だったな、時間切れだ」
「……先生、なんか嬉しそう……」
「そりゃもう、お前がプリンをお土産にくれたからな」
 好き勝手された仕返しとばかりに、ニヤニヤと笑いかけてやると、千尋が珍しく情けない顔となる。
「そんなにイジメないでよ……」
「人聞きの悪いこと言うな。イジメられたのは、むしろこっちだ。お呼びだろ。さっさと帰れ」
 和彦は千尋の腕を取り、玄関まで引きずっていくと、ぽんっと押し出す。芝居がかったように肩を落とした千尋がやっと靴を履き、和彦はひらひらと手を振ってやる。
「気をつけて帰れよ」
「……本当に嬉しそうだよね、先生」
 そんな一言を残して千尋が玄関を出ていき、ドアが閉まるのを見届けた和彦は、ほっと熱を帯びた吐息を洩らしてから、慌てて鍵をかける。そのままドアが寄りかかり、自分の体を抱き締めるようにして身震いしていた。
 まだ、下肢を千尋の手にまさぐられているようで、妖しい感覚が這い上がってくる。
 ふと感じるものがあって振り返ると、三田村が廊下に立ってこちらを見ていた。和彦はちらりと笑いかけると、側に歩み寄る。
「今夜はもう、帰ってもらっていい。プリンが食べたいなら、お裾分けするが」
「――大丈夫か、先生」
 こちらの言葉など無視しての三田村の発言に、思わず睨みつけてしまう。やはり、脱衣所で和彦と千尋が何をしていたか、聞こえていたのだ。
 相変わらずの三田村の無表情を眺めて和彦は、意地の悪い気持ちと、挑発、それに――わずかな期待を込めて、こう言っていた。
「帰る前に、〈後始末〉を手伝ってくれ」
 三田村は表情を変えなかったが、即答もしなかった。和彦の真意を探るようにまっすぐな眼差しを向けてきて、知らず知らずのうちに和彦の頬は熱くなってくる。居たたまれなくなって、冗談だ、と言おうとしたが、三田村のほうが早かった。
「それが先生の望みなら」
 和彦は目を丸くして、三田村を見つめる。すると三田村が、こんなときに限ってふっと笑みを浮かべた。
「なんで、言い出した本人が驚いた顔をするんだ」
 試すつもりが、試された。そう感じた和彦は、三田村の横を通り過ぎて寝室に入ると、乱暴にドアを閉める。
 大きく息を吐き出してドアにもたれかかると、控えめにノックされた。
「先生、大丈夫か?」
「……大丈夫、じゃない……。バカ千尋、人の熱を煽るだけ煽って、帰りやがった」
「俺が見ていた限り、追い返したのは先生だった気がしたが……」
 うるさい、と口中で応じた和彦は唇を噛むと、わずかにためらってから、結局、バスローブの合わせ目に手を差し込んでいた。
 熱くなったままの自分の欲望を、自らの手で慰める。
「は、あぁ――」
 緩やかに手を動かしながら思い出すのは、巧みに和彦のものを扱き上げてくる賢吾の愛撫か、自分本位ながら、それがひどく和彦の感覚に合っている千尋の愛撫か、それとも、和彦の望むままに施された三田村の愛撫か――。
 自分でもうろたえるほどの強烈な羞恥に襲われ、和彦は慌てて手を引き、半ば逃げるようにベッドに潜り込む。
「先生?」
 ノックとともにまた三田村に呼びかけられ、和彦は動揺した声で応じた。
「もう寝るっ。帰ってくれっ」
 三田村は忠実だ。すぐに、ドアの向こうからの呼びかけもノックも、ぴたりと止まる。和彦はブランケットを頭から被り、責め苛むような淫らな衝動に耐えた。









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