と束縛と


- 第4話(2) -


 すっかり不精が身につき、最近の和彦はバスローブをパジャマ代わりにして寝ている。寝返りを打っているうちにはだけて、脱げてしまうことが大半だが、広いベッドで手足を思いきり伸ばせる心地よさに裸という解放感も加わり、到底パジャマを着る気にはなれない。
 もっとも、このベッドを選んだ相手は、和彦が一人寝で満足することにいい顔はしないだろう。
 熟睡というほどではなく、だが目を開けられるほど意識が覚醒しているわけではない、非常に曖昧で、だが、いつまでもこの状態でいたくなるようなまどろみに、和彦はどっぷりと浸っていた。
 そこに、さらに心地よさを与えるように髪に触れられた。まるで愛撫するように、髪の付け根から優しく、丁寧に。
 体にかけたブランケットが除けられ、エアコンの柔らかな風が控えめに体を撫でていく。
 ぼんやりとした意識ながら、さすがに和彦が異変を感じたとき、ベッドが微かに揺れて、和彦以外の誰かの重みも受け止めたことを知らせた。さらに、覆い被さられ、真上から覗き込まれている気配も感じる。
 飛び起きて身構えても不思議ではない状況だが、そんな危機感は和彦の中では湧き起こらない。なんといってもこの部屋にはまだ、賢吾の〈忠実な番犬〉が留まっているはずだ。帰っていいと和彦が言っても、その和彦が眠るまで、自分の務めを果たすような男なのだ。だから、今もまだ――。
 大きく温かな手に頬を撫でられ、指先で唇をくすぐられる。それから、半ば脱げかけたバスローブの前を完全に開かれていた。覆い被さっている〈誰か〉に、体のすべてを曝け出すことになる。
 ゆっくりと押し寄せてこようとする羞恥や戸惑いより先に、相手は和彦にさらなる心地よさを与え始める。腹部から胸元にかけて、慰撫するようにてのひらを這わせてきたのだ。
 違和感なく馴染む乾いた手の感触に、完全に警戒心を奪われる。それどころか和彦は、官能を刺激されていた。
「んっ……」
 期待に凝っていた胸の突起をてのひらで擦り上げられ、思わず息を吐き出す。一瞬、手は止まりかけたが、すぐに何事もなかったように動き、指で軽く摘まみ上げられる。それどころか、熱い感触が胸元にかかったかと思うと、指で弄られていた突起をさらに熱く湿った感触に包まれた。
 胸の突起を口腔に含まれたのだと察したときには、和彦は小さく喘ぎをこぼして顔を背ける。眠気で曖昧な意識に、与えられる感触は快美で、甘美だった。
 本当は目を覚ますべきなのに、和彦の本能は、完全に覚醒することを拒んでいた。はっきりと現状を認識することで、今与えられているものを失いたくないと思っているのだ。このままの状態なら、欲しいものは与えられるはずだ。
 和彦が目を開けないとわかったのか、相手の行為がひたむきさと熱を帯びる。
 左右の胸の突起を貪るように愛撫されながら、片足ずつ抱えられて左右に開かれる。当然のように大きな手は今度は、和彦の敏感なものを握り締めてきた。
「あっ、あっ……」
 はっきりと声を上げ、片手で手繰り寄せたシーツを握り締める。和彦のものは緩やかに上下に扱かれていた。性急でも、焦らすわけでもなく、淡々と快感を送り込んでくるのだ。
 最初は身を強張らせて耐えていた和彦だが、括れを強く擦り上げられる一方で、先端をくすぐるように撫でられる頃になると、腰が揺れるのを止められなくなっていた。
「くっ……う、い、ぃ――」
 これは淫らな夢だと思い込めと、頭のどこかで声がした。そうすれば、どれだけ恥知らずな反応をしても、〈誰か〉に対して羞恥しなくて済む。それどころか相手は、和彦が乱れることを望んでいるはずだと、自分勝手な想像までしてしまう。
 しかし、そう思わせるだけの真摯さが、与えられる愛撫にはあった。
 激しさとは無縁の、穏やかで心地いい愛撫を絶えず与えられ、和彦は目を閉じたまま、次第に乱れ始める。
 胸元や腹部、腿や膝に丁寧に唇が押し当てられ、熱い舌で舐め上げられる間に、和彦はすっかり、次にどの部分に愛撫が与えられるのか、待ちかねるようになっていた。
 反り返り、悦びの涙で濡れそぼったものを軽く扱かれてから、両足を抱え上げられて、大きく左右に開かれる。このとき危うく、目を開けて、〈ある人物〉の名を呼びそうになったが、その前に、熱く濡れた舌に和彦のものは舐め上げられていた。
「うああっ」
 抑えきれない声を上げて、和彦は仰け反る。歓喜に震えるものは、相手の口腔深くに含まれ、湿った粘膜に包まれながら吸引される。
「はっ……、あっ、あっ……」
 括れを唇で締め付けられながら、一層歓喜のしずくを溢れさせる先端を舌で攻め立てられると、満足に息もできないほど、気持ちよかった。
 何度となく賢吾と千尋と体を重ねているが、和彦は自分からこの愛撫を求めたことはない。感じすぎて乱れる自分を見られたくないからだ。裏を返せば、こうされるのが好きだということだ。
「く、うっ、あっ……ん、いっ――、あっ、やめ……」
 口腔深くに呑み込まれたかと思うと、ゆっくりと口腔から出され、また呑み込まれていく。ほんの数回、そうされただけで、絶頂に追い上げられていた。
「ふっ……」
 相手の口腔に精を迸らせると、当然のように受け止められ、嚥下される。脈打つ和彦のものは舌で丹念に舐め上げられ、また口腔深くまで呑み込まれる。再び和彦の欲情を促すように。
 すべての欲望を飲み干されてしまいそうな甘美な恐怖を覚え、小さく身震いする。だが、抗えなかった。
 どうせこれは、自分が見ている都合のいい夢だ。しかも、淫夢だ。だったら、どれだけよがり狂おうが、誰にも遠慮はいらないと和彦は思った。


 体を揺さぶられたとき、和彦の体を支配していたのは、心地いいけだるさだった。誰かにしっかりと包み込まれているようで、ひどく安心もできる。
 持て余し気味の広いベッドの上で、こんな感覚を味わえるなんて、と吐息を洩らしたとき、一際激しく体を揺さぶられた。
「――……んせ……、先生」
 和彦がやっと目を開けると、三田村が顔を覗き込んでいた。ぼんやりと見上げていたが、すぐに自分の痴態を思い出し、包まったブランケットの下で格好を確かめる。しっかりとバスローブを着込んでいた。まるで、たった今着せられたように。
 それどころか、千尋に煽られたせいで体に留まっていた厄介な情欲の熱も、今はもう、溶けてしまったかのようになくなっている。
 紐の結び目を指先でまさぐりながら、和彦はあくびを洩らす。
「なんだ……。まだ夜は明けてないだろ。というか、今何時だ」
「午前二時」
 正気かと、三田村を軽く睨みつけた和彦だが、少し混乱していた。前髪に指を差し込み、ベッドに入ってから自分の身に起きたことを整理して考える。一方で三田村は、深夜だというのに、昼間と変わらない様子で淡々と言った。
「総和会から、至急の仕事が入った。どうしても先生に頼みたいそうだ」
「……お宅の組長は、総和会からの仕事はセーブすると言っていたぞ。それが、夜中から呼び出されるハメになるのか」
「総和会を構成する十一の組の一つに、昭政組がある。俺たちの認識としては、武闘派で有名なところだ。そこの組長が、総和会に泣きついたらしい。すぐに、美容外科医を連れてきてくれと」
 和彦は息を吐き出すと、ブランケットを口元まで引き上げる。
「武闘派って、あれだろ。頭で考えるより先に、とりあえず暴れる人種……」
「本当のことだが、俺の前以外でそれは言わないでくれ。揉め事の火種になる。とにかく、そこの組長が騒いで大変らしい。総和会から、うちの組に連絡がいって、俺に回ってきた」
 夜中に美容外科医が必要な事態とはなんだろうかと、頭の半分で考えながら、残りの半分では、さきほどのベッドの上での淫らな行為は、やけにリアルな夢だったのだろうかと考えていた。
 そして、夢の中で和彦をよがり狂わせていたのは――。
「――先生、寝るな」
 三田村に肩を揺さぶられ、ハッと我に返る。三田村の声を聞きながら、いつの間にか寝入ろうとしていたらしい。
「眠くてたまらないだろうが、起きてくれ。先生を、総和会の迎えがいる場所まで連れて行かないといけない」
「……ついてきてくれないのか」
「先生のことは、総和会の人間が面倒を見てくれる。組同士のトラブルに発展させないためには、これが一番いい」
 そんなことはわかっている。ただ、言ってみただけだ。
 仕方なく体を起こした和彦はベッドから出ようとして、もう一つ三田村に尋ねた。
「三田村さん、あんたずっと、ここにいたのか?」
 先に寝室を出ようとした三田村が足を止め、肩越しに振り返る。その顔には、当然のように表情はない。
「いや……。さすがに俺も帰って寝ようとしていた。連絡があったから、ここに引き返してきたんだ」
「……仕事とはいえ、ご苦労なことだな」
 そう答えた和彦は、やっと床に下り立った。


 途中で三田村と別れ、総和会の迎えの車に乗り換えた和彦が連れて行かれたのは、繁華街近くにある高級マンションだった。
 さすがにこの時間ともなると、車の通りは乏しく、人の往来となると皆無に近い。車を降りた男たちの会話も、必然的に小声で交わされる。
「ここに、先生に診てもらいたい患者がいます。昭政組の組長である難波さんの、大事な知人です」
 総和会に絡む仕事のとき、和彦が乗る車の運転を毎回担当している中嶋の言葉に頷く。
「必要な道具は至急用意させます。大掛かりな手術じゃない限り、ここから動きたくないという要望があったものですから、多少の不便はご勘弁ください」
「ぼくが我慢して済むならいいが、特別な器具が必要なら、そうも言ってられないと思うが……」
「それは、先生が見立ててから判断しましょう」
 車中で会話を交わすことはほとんどないが、和彦を案内する総和会のこの男は、単なる運転手ではないようだった。和彦より少しだけ若く見え、物腰は丁寧ではあるが卑屈さはない。そして、若さに見合わない静かな迫力がありながら、粗野さはない。雰囲気としては、若いビジネスマンそのものだ。
 総和会には、二種類の人間がいると聞いた。厄介者として放り込まれた人間と、使える人間として送り込まれた人間。おそらく、中嶋は後者だ。
 昭政組の組員らしき男が玄関の前に出迎えとして立っており、スムーズにエントランスへと入ることができる。そこから部屋に上がるまで、会話はなかった。
 この空気は苦手だと思いながら、和彦は首筋を撫でる。緊張感というより殺気立っており、ピリピリと神経を刺激してくる。
 案内された部屋のリビングには、数人の男たちが待機していた。座っている男は一人だけで、全体に丸みを帯びた体を、寛いだ服で包んでいる。剣呑とした眼差しと、威嚇するような鋭い殺気を隠そうともしておらず、典型的な、和彦の嫌いなヤクザだ。
 総和会の仕事を請け負うとき、出向いた先にいる人間の態度は、大抵は落ち着いた物腰で、表面的なものであったとしても和彦に対して紳士的に振る舞う。和彦の身柄を預かっている長嶺組の力のおかげだと思っていたが、どうやらこの場所は、事情が少々違うらしい。
 座っている男は胡乱げに和彦を眺めてから、中嶋に尋ねた。
「こいつが、例の医者か?」
「長嶺組がお世話をしている佐伯先生です。総和会でも、すでに何度か仕事をお願いしています」
「……若いな。大丈夫なのか」
「美容外科医を呼べ、という依頼を受けてお連れしたのですが、何かご不満がおありですか」
 中嶋の口調は丁寧だが冷ややかで、そこにわずかな皮肉が込められている。物腰がどこか三田村に似ていると感じていたが、この瞬間、ちらりと中嶋の地金が出たようだった。覇気と強気、少しばかりの傲慢さ。それを持つことが許されるのは、総和会に身を置いているが故なのかもしれない。
 苦虫を噛み潰したような男の反応を気にもせず、中嶋は和彦に向き直った。
「佐伯先生、こちらが昭政組組長の難波さんです」
 和彦が軽く会釈すると、難波は隣の部屋を指さした。
「診てもらいたい人間は、隣で横になっている」
 頷いた和彦は、洗面所で手を洗ってから、持参した消毒液で消毒してラテックス手袋をする。
 隣の部屋に入ると、両目を覆うようにして濡れタオルを顔にのせた女が、ベッドに横たわっていた。顔はよくわからないが、それでもまだ若い女だというのはわかる。難波が、一変したように猫なで声で女に話しかけるのを見て、和彦はなんとなく察するものがあった。
「構いませんか?」
 和彦は声をかけてからベッドの傍らに腰掛けると、女の顔から濡れタオルを除ける。一目見て、顔をしかめた。愛らしい顔立ちをした女の両瞼が腫れ上がり、満足に目も開けられないようだった。
「……こうなる原因に心当たりはありますか?」
「昨日まで、海外に行ってたんだ。行った先で、整形手術が安く簡単に受けられるといって、二重瞼の手術をしたそうだ。……バカが。そんなもの必要ないだろうに」
 難波が女の頬を撫でてやり、女のほうが甘えたような声を出す。思わず和彦は視線を逸らしていた。ベッドに横たわっている女の立場が、男の自分と大差ないことに気づいたからだ。
 組長に飼われた〈オンナ〉――。
 夜中に叩き起こされた挙げ句、こんな形で自分の立場を見せつけられないといけないのかと思いながら、和彦は両瞼を診察する。
「技術的に問題があるところで手術されたようですね。このままの状態で放置しておくと、眼球が傷ついて、視力をどんどん落としますよ」
「どういうことだ?」
「瞼を二重にするなんて、ちょっと糸で縫うだけの簡単な手術だと思うかもしれませんが、技術の差が如実に出るんです。上手い医者だと、手術後もほとんど腫れない。これは……腫れるどころじゃない。縫った糸が、瞼の裏を突き抜けて眼球に触れている」
 女が小さく悲鳴を上げ、難波の手にすがりつく。そんな女の華奢な肩を、難波は抱き寄せた。
 舌の上に広がる苦いものをぐっと呑み込んでから、和彦は立ち上がる。中嶋に小声で話しかけた。
「どこか、手術が出来る場所はないか?」
「やはりここじゃダメですか」
「無理だ。一度、マンションの部屋で手術させられたが、腹の穴を塞ぐより、感染症のほうが怖くてヒヤヒヤした。この間の歯科クリニックだった場所は使えないのか? あそこはきれいにしてあったはずだ」
「……聞いてみます」
 中嶋が部屋の隅に移動し、素早く携帯電話を取り出してどこかと連絡を取り始める。すぐに話は決まり、場所を移動して処置をすることになる。だが、難波の説得にはてこずった。
 どうしてこの部屋ではダメなのだと言い始めたのだ。女のほうも、難波の言い分に乗る形で、動きたくないと主張し始める。
「普段生活している場所だと、どんな雑菌がいるかわからないんです。その雑菌が傷に入ったら、大変なことになりますよ。それに処置するにしても、もっと明るい照明が必要です。瞼を少し切って、糸をすべて取り除くことになりますから」
「それで、お前が上手くできるという保証はあるのか? もしかすると、もっとひどいことになることもあるんだろう。場所を変える云々も、自分の腕に自信がないからだろう。だいたい、こんな若い医者の言うことが信用できるか」
 さてどうしたものかと、和彦は中嶋と顔を見合わせる。聞き分けの悪い患者の相手は慣れているが、クリニックの仕事とはわけが違う。組の事情などというものを背負わされているため、慎重にならざるをえない。何より、女の両瞼の状態は、このままにしておけない。本人もかなり痛いはずだ。
 和彦が説明を再開しようとすると、難波が蔑んだような眼差しを向け、こう言い放った。
「――お前、男のくせに、長嶺組の組長のオンナらしいな。手術の腕より、男のものを咥え込むほうが上手くて、そっちの経験ばかり積んでるんじゃないか。だいたい、総和会に入ったのも、長嶺のごり押しで、医者としての経験は関係ないんだろ。総和会も、こんな人間を寄越すなんて、何を考えてるんだ」
 和彦は一切の感情を表に出さなかった。全身の血が凍りついたようになり、反応できなかったのだ。おかげで、無様に動揺する姿を晒さなくて済んだともいえる。
「難波さん、それぐらいにしておいてください。総和会は、どうしてもという難波さんの頼みがあったから、佐伯先生に無理を聞いていただいたんです。それなのに佐伯先生は嫌だとおっしゃるなら、長嶺組さんだけでなく――、総和会の面子に泥を塗る行為だと判断せざるをえませんよ」
 こういう場面で、まだ若い中嶋の冷ややかさと皮肉の混じった口調は痛烈だ。言葉によって、難波の顔をしたたか打ち据えたのだ。
 憎々しげに睨みつける難波と、それを涼しげな顔で受け止める中嶋との間に、和彦は割って入る。
「この場は、組長さんの感情の問題よりも、まずは彼女の痛みを和らげることを優先しましょう。若くてきれいなお嬢さんの顔に、取り返しのつかない傷は残したくありません。処置は早ければ早いほどいいし、より最善の環境を整えられるなら、そちらに移ったほうがいい。……彼女が大事なら、ここは収めてもらえませんか」
 和彦が切実な口調で訴えると、難波の服を握り締める女の指に力が入る。難波の説得などどうでもいい。ようは、女にどんな結論を出させるかだ。顔に傷が残るかもしれないと聞いて、平静でいられる女はいない。
 案の定、女が小声で難波に訴える。こうなると、あとは早かった。
 もちろん、女と難波が出した結論は、和彦が望んだ通りのものだ。




「――中嶋から、お前に対する礼を言付かった」
 和彦がカクテルに口をつけようとすると、突然思い出したように賢吾が言った。軽く眉をひそめた和彦は、ゆっくりと足を組み替える。
「礼?」
「難波を黙らせて、従わせたらしいな。中嶋は、若くして総和会に招き入れられたから、少しばかり他人を見下す傾向がある。それで口が過ぎることがあるんだが、お前が場を収めてくれたと言っていた……と、うちの若頭から報告を受けた」
 殊勝なところがあるのだなと、中嶋の顔を思い返しながら、和彦は素直に感心する。四日前、難波の女の両瞼を治療してから、和彦は毎日、傷の治療のため出向いているが、送り迎えをしている中嶋本人の口からは、何も聞いていない。
「お前は、猛獣使いの才能があるみたいだ。ヤクザっていう、性質の悪い猛獣の」
「……世の中で、こんなに言われて嬉しくない褒め言葉は、そうないかもな」
 うんざりしながら和彦が呟くと、賢吾が楽しそうに笑い声を洩らす。
 護衛が周囲についているとはいえ、こうして賢吾と二人でバーで飲んでいるのは、妙な感じだった。まるで、気心が知れている相手と飲んでいるような錯覚を覚える。実際のところは、和彦を食らい尽くしても不思議ではない、獰猛な猛獣と向き合っているというのに。
「お前とは関係ない原因で、お前の手を煩わせた。難波は昔、俺のオヤジ――うちの組の先代と、やり合ったことがあってな。長嶺と名がつくと、なんでも気に食わないんだ」
「総和会に加入している組同士で、いろいろあるんだな」
「人間同士ですら、十一人もいたら揉めるんだ。組同士となったら、もっといろいろある。お前はこの先、いろんな組の人間と関わることになるが……、まあ、上手くやれそうだな」
「――……患者を診るだけなら、な」
 そっとため息をついて、和彦は今度こそカクテルを飲み干す。一方の賢吾は、ブランデーを味わうようにゆっくりと飲んでから、逸らすことを許さないような強い眼差しを向けてきた。一見寛いでいるようで、この眼差しの威力はすごい。和彦はまばたきすらできなくなる。
「難波に何か言われただろう」
「……中嶋くん、だったか、彼から聞いたんじゃないのか。若頭を通じて」
「お前の口から聞きたい」
 これも賢吾なりの、倒錯した性的嗜好なのだろうかと思いながら、苦々しい思いで和彦は正直に告げた。
「あんたのオンナだと言われた。手術の腕より、男のものを咥え込むほうが上手くて、そっちの経験ばかり積んでるんだろうとも。あとは、総和会に入ったのは長嶺組のごり押しで、医者としての経験は関係ない、と言われた気もする」
「概ね正解じゃないか」
 ニヤニヤと笑いながら賢吾に言われ、和彦は睨みつける。そんなことは、自分でもわかっているのだ。
「……気分が悪い。帰る」
 そう言って和彦が立ち上がると、賢吾もぐいっとブランデーを飲み干して悠然と立ち上がる。
「送って行ってやる。今日は、三田村がついてないからな」
 三田村は、賢吾の命令で今日は別の仕事に就いているということで、和彦は若い組員が運転する車でこのバーにやってきた。
 必要ないと答える前に、周囲のテーブルにひっそりと陣取っていた賢吾の護衛たちも立ち上がる。嫌と言ったところで賢吾に聞き入れるはずもなく、仕方なく和彦は従う。
 当然のように、和彦が飲んだ分も賢吾が支払いを済ませた。
 賢吾は、ホテルのバーで飲むことを好む。長嶺組の縄張りで、組の息がかかった場所で飲むと、生臭い話ばかりになって寛げないらしい。だったら組とは関係ない店で、となるかというと、そうもいかない。万が一の事態に常に備えている護衛の人間が、賢吾の身の安全を咄嗟に確保できない場所を避けたがるのだ。
 こうして結局、建物内の移動が楽で、人通りと人目があるホテルが選ばれる。護衛が殺気立たない分、賢吾も気楽というわけだ。
 バーを出ると、行き交う人たちから、何事かと言いたげな視線を向けられる。端然とスーツを着込んでいながら、近寄りがたい独特の空気を発している男たち数人がまとまっているのだ。醸す威圧感は人目を惹く。
 悠然としているのは賢吾だけで、和彦は数歩ほど離れて他人のふりをしたい衝動に駆られる。和彦のそんな気持ちを十分知ったうえで、賢吾は必ず自分の隣に和彦を歩かせるのだ。
 エレベーターホールに息が詰まりそうな緊張感が漂う。さきほどまで談笑していた人たちが一斉に声を潜めてしまい、遠巻きにこちらを眺めている。できることなら同じエレベーターに乗り込みたくないと、誰もが願っているだろう。
 ここが三十階でなければ、和彦は喜んで階段を使っているところだ。
 顔を伏せがちにして、小さくため息をついて髪を掻き上げたとき、前触れもなく賢吾に肩を抱き寄せられた。
「えっ……」
 思わず声を洩らした和彦が隣の賢吾を見ると、すかさずあごを掴み上げられる。あとは有無を言わさず唇を塞がれた。思いがけない場所での、思いがけない賢吾の行動に、和彦の頭の中は真っ白になる。それをいいことに、まるで二人きりのときのように賢吾にたっぷりと唇を吸われ、ふてぶてしい舌を口腔に差し込まれた。
 ここまでされてようやく我に返った和彦は、必死に賢吾の肩を押し退けようとする。
「なっ……、何、考えてるんだっ……」
 ようやく唇が離されると、激しくうろたえながら和彦は抗議する。本当はこの場から逃げ出したいところだが、賢吾にがっちりと肩を押さえられているため、動けない。
 素早く視線を周囲に向ければ、賢吾の護衛は何事もなかったように立っているが、一般人のほうは、驚きや嫌悪を露わにしているか、関わりたくないとばかりにこちらに背を向けている。
「――他人は気にするな」
 恫喝するように低い声で囁かれ、あごにかかった手に力が込められる。和彦の眼前で賢吾が、人を食らう粗野な笑みを浮かべた。
「他人がどう思おうが、どう反応しようが、どうでもいい。お前が気にしないといけないのは、俺の反応だけだ。どうやって俺を悦ばせるか、朝起きて、夜寝るまで考えてろ。そうすれば、大抵のつまらないことはどうでもよくなる」
 そこでまた、噛み付くようなキスを与えられる。甘い眩暈に襲われながら和彦が感じたのは、自分は本当に、この男の腕の中に堕ちてしまったということだった。


 他人が見ている前でキスしたことが、賢吾の情欲に火をつけたらしい。
 帰りの車に乗り込んだ途端、和彦が羽織っていた麻のジャケットは脱がされ、肩を抱き寄せられると同時に深い口づけを与えられた。
 そこに、運転席と助手席に護衛の人間が乗り込んできたため、反射的に顔を背けようとしたが、頬に賢吾の手がかかり動けない。
 三田村には見られ慣れているという状態もノーマルではないのだろうが、とにかく三田村以外の組員に、賢吾とのこんな場面を見られるのは抵抗があった。長嶺組の人間すべてが、和彦が長嶺父子の〈オンナ〉だと知っているとしても。
「んんっ」
 口腔を舌で犯され、ねっとりと舐め回される。息苦しさに小さく喘いだ和彦だが、このときにはすでに抵抗を諦めてしまい、差し込まれた舌を吸い始める。車が走り出す頃には、賢吾の首に両腕を回して忙しく舌を絡め合っていた。
 情欲に火がついたのは賢吾だけではないのかもしれない。傲慢な男の言葉に従わされることに、反発の一方で、和彦はたまらない愉悦も覚えつつあるのだ。
 激しい口づけを交わしながら、賢吾にTシャツをたくし上げられ、腰のラインを指先でくすぐられてから、背も丹念に撫でられる。胸元もさすられてから、賢吾が顔を埋めてきた。
「あっ……」
 いきなり胸の突起をきつく吸い上げられ、和彦は背をしならせる。熱い舌で突起を転がされてから、ゆっくりと歯を立てられると、痛み以上に、身震いしたくなるような疼きを覚え、思わず賢吾の頭を抱き締める。髪が乱れることを不快がるでもなく、上目遣いで笑いかけてきた賢吾と、誘われたように唇を吸い合っていた。
「イイ顔だな。俺が欲しい、っていう顔をしてるぞ、今」
 指で突起を弄りながら賢吾が言い、和彦は感じた羞恥を誤魔化すようにきつい眼差しを向けた。
「……自惚れるな。誰が、そんな恥知らずな顔……」
「恥ずかしがるな。なんといってもお前は、俺の大事なオンナだ。俺がお前を欲しがって、お前が俺を欲しがるのは、当然のことだ。――みんなに知らせてやれ。長嶺組組長の特別な存在だってことを。この世界では誇れることだ」
 指で弄っていたほうの胸の突起を、露骨に濡れた音を立てながら吸われる。和彦は、賢吾のワイシャツを握り締めて小さく呻き声を洩らしていたが、たまらず賢吾の髪を掻き乱す。顔を上げた賢吾と、息もかかるほど側で見つめ合った。
「つまらないことは気にするなとさっき言ったが、お前にはお前の面子がある。それに泥を塗ることは、俺が許さない。もちろん、長嶺組の人間すべてに対して、俺は同じことが言える。だからこそ連中は、俺や組の面子を守るために体を張るんだ。胡坐をかいているだけじゃ、組の切り盛りなんてできねーんだぜ」
 軽く唇を吸われて思わず吐息を洩らした和彦は、引き寄せられるまま賢吾の肩に顔を埋め、髪を撫でられる。武骨そうなくせに、賢吾の指は繊細に動くのだ。
「――今夜は、一際可愛いな、先生」
 耳に唇を押し当てて、笑いを含んだ声で囁かれる。和彦は唸るように応じる。
「うるさい」
「減らず口も可愛い。……可愛いついでに、もっと口を吸わせろ」
 後ろ髪を掴まれて顔を上げさせられ、唇を塞がれる。呼吸すらも奪い尽くされそうなほど激しく唇と舌を貪られながら、片手を取られ、賢吾の両足の中心へと導かれた。和彦はビクリと肩を震わせてうろたえる。賢吾の興奮ぶりを、触れているものが如実に表していた。
 言われたわけでもないのに和彦は、スラックスの上から賢吾の高ぶりを撫でていた。体の奥から狂おしい何かが込み上げてきて、喉が渇く。和彦の変化を読み取ったように、賢吾に聞かれた。
「欲しいか、先生?」
 何が、とは言わない。言葉にしなくても、和彦にはわかっていると思っているのだ。すべて見透かされているようで悔しいが、その悔しさすら、官能を刺激する厄介な媚薬になる。
 和彦は賢吾の下唇に軽く噛み付いてから答えた。
「……欲し、い……」
 ニッと賢吾が笑い、和彦の唇を指先で撫でる。
「今日は、こっちの口で相手してくれ」
 何を求められているのかわかり、性質の悪いヤクザを睨みつけた和彦は、黙って頭を下ろした。









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