診るたびに、肌の露出が多くなっていくのはどういうことなのだろうかと、そんな疑問を抱きながら和彦は、並んでソファに腰掛けた由香の瞼を検分する。
別に胸に聴診器を当てる必要も、腕に注射をする必要もないのだが、由香はなぜか、キャミソールにショートパンツという際どい格好をしていた。最初の頃は、長袖の野暮ったいパジャマ姿だったというのに。
和彦の医者としての腕に対して、最初は不信感を露わにしていた彼女だが、数回ほど通ううちに、すっかり態度が変わった。今では、整形手術について相談されるまでになっていた。
昭政組組長の難波の愛人であることを、明け透けに話してくれる様子は、手管に長けた女のものというより、無邪気な子供を思わせる。そのくせ、和彦が訪問の回数を重ねるごとに強調されていく由香の体のラインは、見事に成熟している。
薄いキャミソールの上から、はっきりとわかる形のいい胸を一瞥して、和彦はそっと息を吐き出す。
「傷は化膿していません。ぼくの注意をよく守ってくれていたみたいですね」
目を開けさせて和彦が笑いかけると、由香はパッと表情を輝かせる。すかさず和彦は由香の瞼を捲り上げ、充血を確認する。こちらも問題なかった。
「まだ赤みが残ってますから、ぼくがいいと言うまで、アイメイクは控えてください」
「ということは、まだ佐伯先生、ここに通ってきてくれるの?」
由香の物言いから、露出の高い格好の意味を察する。クリニックにいた頃、患者から特別な関心を持たれることは何度もあったのだ。
「もう消毒の必要はないから、あとは完治まで、週に一度通ってくる程度になりますね」
由香が唇を尖らせたが、その仕種がどこかの犬っころを連想させ、つい和彦は表情を綻ばせる。由香と、どこかの犬っころは、年齢が同じなのだ。
「つまんなーい。難波さんには、しばらく家から出るなって言われてるから、毎日先生が通ってきてくれるのが楽しみだったのに」
「どうしてそんなこと言われたんです?」
「この目の手術のことで怒ってるの。勝手なことした挙げ句に、長嶺――」
パッと口元を手で押さえた由香が、ある方向を見る。視線の先には、昭政組の組員二人が立っていた。和彦が自分の愛人に手を出すとでも思っているのか、診察のときには難波は、こうやって組員を立ち合わせているのだ。クリニックでは看護師がいることを思えば、男しかいないこの状況では仕方のない処置だろう。
由香は声を潜めて言葉を続けた。
「長嶺組に借りを作ったのが、気に食わないみたい。仲が悪いんでしょう?」
「さあ、そこまでは」
和彦が苦笑で返すと、組同士の関係に興味がないらしく、由香は身を乗り出して次の話題に切り替えた。
「そういえば佐伯先生、近いうちに、クリニックを開業するって聞いたんだけど、本当?」
「……誰に聞いたんですか」
由香がちらりと一瞥したのは、隣のダイニングのテーブルで優雅にコーヒーを飲んでいる中嶋だ。和彦を送り迎えする以外にも、ここに顔を出しているらしい。
「総和会から連絡したいことがあると、中嶋さんが来るの。奥さんがいる家より、こっちのほうが、難波さんが捕まりやすいんだと思う」
和彦の疑問を察したように教えてくれたが、その口調からは、愛人である自分の立場に対する引け目のようなものは一切感じ取れない。案外、仕事のようなものだと割り切っているのかもしれない。
「ねえ、佐伯先生、クリニックの話、本当?」
「あっ、まあ、クリニックを開くのは本当ですよ。今はまだ、準備中ですけど」
「だったら、開業したら、わたしのことも診てくれる?」
まだ二重瞼の手術を諦めていないのだろうかと思いながら、和彦は微笑んで頷く。
「開業準備ができたら、一番に案内状をお渡ししますよ」
「ありがとっ」
大げさなほど飛び上がった由香に、次の瞬間、抱きつかれた。弾力のある胸の感触は、男としては魅力を感じるべきなのだろうが、和彦が気にかけたのは、周囲の組員たちの反応だ。あとで難波に怒鳴り込まれてはたまらない。
さりげなく由香の体を押し戻してから、和彦は立ち上がる。
「それじゃあ、今日はこれで失礼します。何か異変があったら、いつでも中嶋さんを通して連絡をください」
その中嶋は、いつの間にか和彦の傍らに立っていた。促されるまま立ち去ろうとすると、名残惜しそうに由香に手を振られ、苦笑しながら和彦は会釈で返した。
「――先生、気に入られてますね」
エレベーターの中で二人きりになると、中嶋が口を開く。仕事以外のことで中嶋から声をかけてくるのは、もしかして初めてかもしれない。驚いて目を丸くする和彦に、中嶋はちらりと笑いかけてきた。
「雑談、邪魔ですか?」
「いや……、そうじゃなくて、総和会というのがいまいちよくわかってないから、組の人間に個人的なことは話しかけてこないのかと思っていた」
「そんなことありませんよ。ただ、先生はどういう人なのか、ずっとうかがっていただけです。気難しい人か、そうじゃないか――とか。だから、難波組長の件で助けてもらったときも、あえて長嶺組経由で礼を伝えたんです。反応を見たくて」
慎重だな、というのが和彦の率直な感想だった。所属する組織によって、人間関係どころか、言動にも気をつかわざるをえないらしい。
「ぼくにそんなに気をつかわなくていいよ。単なる医者だ」
「それは、正確じゃないですね」
中嶋の婉曲な言い方に、反射的に顔をしかめる。言いたいことはわかっている。この世界で和彦の存在を表すのに大事なものは二つだけだ。医者であることと、賢吾のオンナであることだ。ついでに、千尋のオンナでもある。
「……とにかく、会話に気をつかってもらうほどの存在じゃない。なんでもかんでも、長嶺組に報告する気もないしな」
駐車場に向かいながら和彦は、エレベーター内での中嶋の言葉の意味を尋ねる。
「それで、さっきの、気に入られてるっていうのは?」
「ああ……、難波さんの愛人のことですよ。先生のことをひどく気に入ってる。あの様子だと、先生のクリニックが開業したら、本当に押しかけてきますよ」
「顧客第一号だな」
和彦がぼそりと洩らすと、中嶋はニヤリと笑った。
なんとなくだが、外見から受ける印象より、中身はずっと砕けた男なのだと思った。そうはいっても、中嶋も立派なヤクザであることに変わりはない。
中嶋のほうも和彦に対して、職務を超えた好奇心めいたものを抱いてくれたらしく、帰りの車中でこんな誘いをくれた。
「先生、近いうちに一杯奢らせてください」
「さっき言っていた、難波組長の件なら――」
「いえ、個人的に、先生ともっと親しくなりたいんです。車の送り迎えだけじゃ、話す時間も限られるし、それに彼女の治療、週一回になったんでしょう? そうなったら、顔を合わせる機会が減りますよね」
どういうつもりかと、訝しむ眼差しを向ける和彦に対して、中嶋はバックミラーを通して澄ました表情で答えた。
「よからぬことは考えていませんよ。ただ、長嶺組お抱えの医者である先生と、個人的なツテを持っておくと、何かと役立つかもしれないという計算はしてますけど」
「……正直だな」
そう言って和彦は苦笑を洩らす。だが、こうもはっきり言われると、嫌な気持ちはしなかった。腹に何を抱えているのかと身構えるぐらいなら、相手の目的の一端でもわかっているほうが、つき合ううえで楽だ。
「奢られるのはいいが、ぼくも、君を利用させてもらう」
「言い出したのは俺ですけど、怖いな」
言葉とは裏腹に、中嶋は短く声を洩らして笑う。和彦もちらりと笑みをこぼした。
「大したことじゃない。ただ、総和会の仕組みとか、どんな仕事をするのかといったことを、教えてもらいたいだけだ。こっちはいつも呼び出されるだけで、そちらの組織について、ロクな知識を持ってないんだ」
「あまり突っ込んだ内情までは明かせませんけど、それでいいなら、俺が知っている範囲で話しますよ」
「決まりだ。礼として、君の知り合いに怪我人がいたら、タダで診てやる。もっとも、ぼくの専門は美容外科だけどな」
信号待ちで車が停まると、すかさず中嶋が振り返る。顔は澄ましているが、目だけは強い好奇心に満ちていた。
「先生、おもしろい人ですね」
「男のくせして、組長のオンナなんてやってる奴は、病んでいるか、倦んでいるとでも思っていたか?」
「少しだけ」
笑おうとした和彦だが、失敗した。ふっと息を吐き出して前髪を掻き上げる。
「……いい加減、この世界で自分の足場を作らないといけないと思ったんだ。ヤクザなんかに、医者の腕より、男を咥え込むほうが上手いなんて言われたら、やっぱり悔しい。それを、長嶺組の組長に正直に話す自分の弱さも」
「立場は違うけど、俺も似たようなもんですよ。総和会では、俺はまだまだ、使い捨てにされる程度の存在だ。だからこそ、あの中でのし上がる手段を探さないといけない。いつか、自分がいた組に戻るかもしれないけど、そのときのためにも箔ってやつは大事なんですよ」
ヤクザの言葉は疑って聞くようにしている和彦は、中嶋の言うことすべてが真実だとは思っていない。ただ、一杯飲む相手としては、申し分がないことは確かだ。中嶋にしても、和彦を同じように思っているだろう。若くして総和会に身を置いているということは、中嶋は有能なヤクザなのだ。
二人は顔を見合わせて、同じように人悪い笑みを交わし合う。
「先生、これ」
中嶋から、ひょいっと携帯電話を投げて寄越された。和彦が目を丸くしたときには、すでに中嶋は前を向き、車を発進していた。
「飲みに行くなら、番号の交換をしておきましょう。長嶺組長にチェックされるというなら、俺の携帯にメルアドだけ登録してもらったのでかまいませんよ」
「いや……、交換しておこう。こっちの世界に足を踏み入れてから、ぼくの携帯のメモリーは減る一方だったんだ」
「なら、これからは増えますよ。俺が知っている人間……、バカなチンピラも多いですけどね、そいつらを紹介します。楽しく飲むなら、そういう連中も必要だ」
期待していると応じて、和彦はさっそく携帯電話を操作する。
待ち合わせ場所であるファミリーレストランの駐車場に車が入ると、すでにそこには三田村の姿があった。
和彦は礼を言って車を降りると、三田村の元に行く。すると、背後から呼びかけられた。
「――先生、楽しみにしてますよ」
振り返ると、下ろしたウィンドーから中嶋が顔を出していた。和彦は軽く手を上げて応じ、車が走り去るのを見送る。
「なんだ?」
隣に立った三田村に問われたので、和彦は自分の携帯電話を見せながら答える。
「友達になった」
すると三田村から、胡散臭そうな視線を向けられた。あまりにはっきりした反応に、思わず和彦は苦笑する。
「そんな反応するなよ。ただ、ちょっと飲みに行く約束をしただけだ」
「……頼むから、少しは警戒という言葉を覚えてくれ、先生」
「いかがわしい店には行かない」
「そういう意味で言ったんじゃなく――」
ここで駐車場に車が入ってきて、なんとなく会話を続けるタイミングを失った二人は、車に乗り込む。
「今日は予定が入ってないから、このままクリニックの備品を見に行きたい」
エンジンをかける三田村にそう言うと、あっさり拒否された。
「ダメだ」
「……どうして」
「今日はもう、先生の予定は決まっている。組長から連絡があって、これから事務所に行くことになった。そこで、組長と合流だ」
なんだろう、と和彦は呟く。その声は三田村に届いたはずだが、答えはなかった。
後部座席に乗り込んできた賢吾は、いきなり言葉もなく和彦の頭を引き寄せ、唇を塞いできた。痛いほど強く唇を吸われ、口腔に舌が捩じ込まれる。賢吾のこんな口づけに慣らされてしまった和彦は、抵抗もせずおとなしく受け入れた。
引き出された舌を吸われながら、賢吾の頬を両手で挟み込むと、それが合図のように両腕でしっかりと抱き締められる。濃厚な口づけを交わす間に、静かに車は走り出していた。
絡めていた舌を解き、和彦は大きく息を吐き出す。間近から賢吾を睨みつけた。
「なんなんだ、いきなり……」
「――この間から考えていた。お前の面子を守ってやるためには、どうするのがいいか」
本当にいきなりだ。和彦は一瞬、賢吾が何を言い出したのか、理解できなかったぐらいだ。
どうやら先日の、昭政組組長の難波が和彦に向けて言った言葉のことを言っているようだ。和彦としては、自分の中で感情と折り合いをつけることだと思っていたのだが、賢吾にとっては違うらしい。
「昭政組の組長とは、あれから顔を合わせてないから、もう気にしてない」
和彦がこう言うと、賢吾は目を眇める。凄みを帯びた表情とはまた違うが、こういう顔もまた、ひどくヤクザらしい。怖くはないが、ドキリとさせられる。
「違う。難波のほうには、とっくに釘を刺してある。俺の組の大事な医者を侮辱したら、次はないとな」
そんなことをしていたのかと、驚いて目を丸くする和彦に、賢吾はニヤリと笑いかけてくる。
「俺は、俺自身と、俺の大事なものがナメられるのが、死ぬほど嫌いなんだ」
そしてまた、唇を吸われる。小さく喘いでから、和彦も賢吾の唇を吸い返していた。戯れのようなキスの合間に賢吾が言葉を続ける。
「そっちはもうどうでもいい……。肝心なのは、俺のオンナであるという、お前の面子だ。俺はお前に、金や、俺の力で手に入るものなら、なんでも与えてやると言ったが、そんなことでお前の面子が保てるとは思ってない」
和彦の頬を撫でた賢吾の手が、喉元にかかる。わずかな圧迫感に、和彦は静かに息を呑む。そんなことをするはずがないと思いながらも、賢吾に首を絞められる光景が一瞬脳裏をちらついた。
「――俺のオンナだと言われるたびに、お前は、首に鎖をつけられて、汚い地べたに頭を押し付けられている気がするか?」
「それは……」
「そう感じるのは、正常だ。俺はお前に、異常なことを強いている。俺だけじゃないな。千尋も同じだ。先生が大事だからこそ、そうせざるをえない」
喉元からスッと手が退けられ、賢吾に頭を引き寄せられる。
「だから考える必要がある。俺たちの大事な先生の面子を守る方法を。俺たちは、オンナになったからと卑屈になる先生を見たくはないしな」
「……ぼくを拉致してあんなことしておいて、勝手な言い分だな……」
本気か演技か、いつにない賢吾の真摯さに半ば圧倒されながら、和彦は応じる。すると賢吾は、楽しそうに目を細めた。
「ヤクザだからな。自分勝手なのは、得意だ」
「便利な言葉だな、ヤクザってのは。なんでもかんでも、それで無理が通ると思ってるだろ」
「少なくとも先生相手には」
賢吾を睨みつけると、なぜかキスで返された。
賢吾の調教の成果が表れているのか、言葉の代わりのように与えられるキスが気持ちいい。唇を触れ合わせ、舌先を触れ合わせ、吐息を触れ合わせ――。
「――お前を、俺たちにとって本当に特別なオンナにする」
キスの合間に熱っぽい口調で賢吾に囁かれる。
「どういう意味だ」
「今、向かっているのは、俺の家だ」
和彦は軽く眉をひそめてから、首を傾げる。
「家って、千尋がいる本宅のこと……」
「そう。たまに寝泊まりで使っているマンションのほうがありがたく感じるぐらい、にぎやかだ。常駐する若い衆がいるから、合宿所みたいな有り様になっている。だがそこが、俺や千尋の帰る家だ。そこにこれから、お前を連れて行く」
和彦はまだ一度も、長嶺父子の本宅というものに行ったことがない。また、行きたいと思ったこともない。
極端な言い方をするなら、体を繋ぐだけの場所はどこでもいいのだ。今なら、和彦に与えられたマンションの部屋があるため不便もない。だからこそ、本宅というものを特別視したことはなかった。少なくとも、和彦は。
戸惑う和彦に、賢吾は決定的な言葉をくれた。
「本宅には、俺のオンナを連れて行ったことはない。別れた嫁――千尋の母親も、数えるほどしか、寝泊りしたことがなかった。ヤクザの匂いがこびりついて嫌なんだそうだ」
「……そこまでヤクザを嫌ってるなら、なんで結婚したんだ。あんたの元奥さん」
「妬けるか?」
意地の悪い表情で賢吾に問われ、咄嗟に睨みつけた和彦だが、なぜか頬が熱くなってくる。和彦のそんな反応に気づいているのかいないのか、賢吾は機嫌よさそうに声を洩らして笑う。
三十分ほど走り続けた車が、古くからあるような建物が建ち並ぶ住宅街へと入る。ぼんやりと立派な家々を眺めていた和彦だが、長嶺の本宅と思われる建物には、すぐに気づいた。あまりに周囲の建物から、浮いていたからだ。
「これが、長嶺の本宅だ」
姿勢を正した和彦の肩を抱き、賢吾が耳打ちしてくる。
自らの存在を消すように、ずっと黙ってハンドルを握っていた三田村が車を停め、短くクラクションを鳴らす。すると、門扉が開いて三人の男たちが飛び出してきた。
後部座席のドアが開けられて賢吾が先に降り、当然のように手を差し出してくる。抵抗を覚えはしたものの、和彦はその手を取って車を降り、じっくりと建物を見上げる。
まるで、要塞だった。
建物そのものは、目を瞠る大きさではあるものの外観は普通の住宅となんら変わらない。しかしその建物の三方を、鉄製の高い塀が隙間なくびっしりと囲っている。正面の威圧的ですらある立派な門扉の上には、二台の監視カメラが取り付けられており、この家への安易な接近を拒んでいる。
「たまに、鉄砲玉を撃ち込まれたり、火炎瓶を投げつけられるからな。これぐらいの用心は当たり前だ」
圧倒されている和彦に、賢吾がそう声をかけてくる。答えようがなくて口ごもっていると、門扉の向こうから大きな声が上がった。
「先生っ」
勢いよく門扉が開き、犬っころが転がってくるように、千尋が駆け寄ってきた。相変わらず元気だなと思いながら、和彦は千尋の頭を撫でてやる。
賢吾と千尋と、威圧的な塀を順番に眺めてから、本当に長嶺の本宅に連れてこられたのだと、改めて和彦は実感していた。
「――ようこそ、我が家へ」
似合わないことを言いながら、賢吾に肩を抱かれる。続いて千尋に手を取られて引っ張られた。
「歓迎するよ、先生」
急に帰りたい心境に駆られた和彦は、助けを求めるように後ろを振り返ったが、三田村は車をガレージに入れている最中で、姿を見ることはできなかった。
大きな家の中を簡単に案内されてから、塀によって外の景色が見えないことを補うように、立派な造りとなっている中庭に下りる。いくら塀に囲まれていても、昼間なら惜しみなく陽射しは降り注ぎ、濃い木陰を作り出していた。
その木陰にテーブルが置かれ、和彦は冷たいお茶を飲みながらひとまず寛ぐ。
長嶺の本宅は、静かな場所とは言いがたかった。いかにも用事に追われている様子の組員が廊下を行き来し、中庭に面した部屋のどこからか絶えず人の話し声が聞こえてくる。賢吾が使った合宿所という表現は、決して大げさではなかったようだ。
ただ、いつでも一人で暮らしてきた和彦としては、この騒々しさや、人の気配に囲まれた環境は新鮮にも感じられる。
「――悪いね、先生。うちはうるさくってさ」
サンダルを引っ掛けた千尋がようやく中庭に姿を見せ、そう声をかけてくる。和彦は答えず、じっと千尋を見つめた。素直な犬っころのように、千尋が目を輝かせる。
「どうかした?」
「いや……。ここがお前の家かと思って。それに、ヤクザの組長の本宅で、こうしてのん気にお茶を飲んでいる自分が不思議だ」
「俺も、不思議。先生が、俺の家でお茶飲んでるなんて」
千尋がイスを引き寄せて、わざわざ和彦の隣に座る。顔をしかめて見せると、悪びれない笑顔を向けてきたので、息を吐き出した和彦は千尋の頭を手荒く撫でた。千尋に甘いというのは、もうとっくに自覚している事実だ。
「お前のオヤジは?」
「仕事してる。今日は、いつも事務所でしている仕事、全部こっちに持ってきたみたい。――先生とこっちで過ごすために」
こういうとき、どういう顔をすればいいのだろうかと考えた挙げ句、澄ました顔で頷いた。
「……なんだか、ぼくが知らないうちに、大事(おおごと)になっている気がして怖いんだが」
「大事だよ。なし崩しで、先生は俺とオヤジのオンナだ、ってしちゃったわけだから、今になって俺たちは、先生に誠意を見せようと必死なんだよ。一時の気の迷いじゃなく、俺たちは本当に、先生を大事に思っているってわかってもらわないと」
千尋の言葉に心がくすぐられる。そんな自分の気持ちを押し隠し、和彦は千尋を軽く睨みつけた。
「そうやって甘い台詞を吐くのも、ヤクザの手だろ」
「やだなー。先生、最近すっかり疑り深くなっちゃって」
「誰のせいだ」
こうやって和やかに過ごしながら、自分はどんどんヤクザの世界の深みにハマっているのだと思うと、和彦の背筋にヒヤリとした感覚が走ったりもするのだが、いまさら抜け出そうとして、どう足掻けばいいのかという気もする。
こう思うこと自体、今の生活に馴染むどころか、心地よく感じ始めている証だろう。
今の生活は、まるで麻薬だ。
欲しいものを与えられ、十歳も年下の魅力的な青年に甘えられ、求められ、その一方で、暴力の権化のようなヤクザの組長からは傲慢に、服従を強いられ、支配される。強く拒絶したい反面、どうしようもなく惹かれるものばかり与えられる毎日に、和彦の心は掻き乱される。
グラスの縁を指先で撫でながら、ぽつりと和彦は呟いた。
「――……ぼくは、どこに行こうとしているんだろうな……」
すると千尋が顔を覗き込んできて、強い光を放つ目で傲岸に言い放った。
「俺たちのいる世界の奥深くに。潜るときは怖いけど、潜ってしまえば、気持ちいいよ」
「……やっぱりお前は、あの組長の息子だ」
和彦が苦い口調で洩らすと、途端に千尋は子供っぽく唇を尖らせる。和彦はそんな千尋の頬を撫でてやるが、中庭に面した廊下を組員が通りかかり、反射的に手を引っ込めていた。
長嶺組の組員なら、和彦の存在の意味を知っているだろうが、だからといって際どい光景を見たいとは思わないだろう。
和彦なりに気をつかった故の行動だったが、千尋は不思議そうに首を傾げる。
「先生?」
「お前たちから、ぼくに触れてくるならともかく、ぼくから、お前に触れているのを見たら、やっぱりいい気持ちはしないんじゃないかと思ったんだ。組にとっては、組長や、その跡取りとなると特別な存在だろ。だから――」
千尋が急に、ぐいっと顔を寄せてくる。驚いて目を丸くする和彦に、千尋はにんまりと笑いかけてきた。
「いっぱい撫でてよ。俺、先生が何げなく頭とか撫でてくれるのが好きなんだ。俺が好きなんだから、誰にも何も言わせない。……俺たちにとって先生が特別ってことは、組にとっても先生は特別なんだ。医者だからというだけじゃなくてさ」
「千尋……」
怖いことを平気で言うかと思えば、心を甘くくすぐるようなこともさらりと口にする。天然なのか計算ずくなのかはわからないが、将来とんでもないタラシになることは間違いないだろう。すでにもう片鱗が覗いていて、それでこの威力だ。
末恐ろしいガキだと思いながら、和彦は両手でワシワシと千尋の頭を撫で回し、髪を掻き乱してやる。
「先生っ、それやりすぎっ」
そう言いながらも千尋は、楽しそうに笑い声を上げている。和彦もついムキになっていたが、ふと、廊下を歩いてくる三田村の姿に気づき、ドキリとして手を止める。三田村はすぐに事務所に戻るかと思っていたが、そうではないらしい。
「先生?」
我に返った和彦は、視線を千尋に戻す。その千尋が振り返ったとき、すでに三田村の姿は、ある部屋へと消えていた。
「どうかした?」
「いや……。本当に、合宿所みたいだと思って。絶えず誰かが行き来してる」
「お袋は、本当にここを毛嫌いしてたよ。だからオヤジと結婚しても、他にマンションを借りて生活してた。で、オヤジがそこに通うわけ。本妻のくせして、愛人みたいな生活を送ってたんだよ。俺が生まれてもその生活は変わらなかったけど、俺はよくここに泊まってた。ヒステリー気味のお袋の側にいるより、遊び相手に不自由しないここにいたほうが楽しかったし、おもちゃも持て余すぐらい買ってもらってたし」
「それって、お前をここに居つかせるための策略だろう。将来の跡継ぎにまで、ここを毛嫌いされたらたまらない、ってところか」
正解、と軽い口調で千尋が言う。
「オヤジが、組に肩入れしていたうえに、息子までそんな感じだから、ある日、お袋がブチ切れちゃったんだよ。組と自分と、どっちが大事なのって、オヤジに詰め寄って。先生なら、オヤジがなんて答えるか想像つくだろ?」
「……悲しいことにな」
組を大事にしている俺を受け入れろと、傲慢な態度で言い放つ賢吾の姿が、容易に想像できる。
「そのまま離婚。お袋は、俺を連れて行こうとしたけど、今度はうちのじいちゃんがブチ切れちゃって。さすがのお袋も怯んで、俺を置いていった。ガキの頃は、そんなお袋が可哀想だと思っていたけど、この歳になると、オヤジが根っからのヤクザだと知っていて結婚したんだから、自業自得かなという気もちょっとだけする」
離婚してこの家から離れた女性がいる一方で、こうして連れ込まれる男がいるのだから、世の中は皮肉だ。
和彦は自嘲の笑みを洩らそうとしたが、あることが気になって千尋に尋ねた。
「ところで、お前のその『じいちゃん』は、今、この家にいるのか? いままでのお前の話しぶりだと、そうじゃないみたいだが……」
「長嶺組をオヤジに任せたときに、この家を出たよ。今は、総和会が用意した家で暮らしてる。何、もしかして、挨拶するつもりだったの? 会いたいなら、セッティングするよ。そして、俺の大事な人ですと言って、先生をじいちゃんに紹介するわけ」
一人で盛り上がる千尋には申し訳ないが、和彦は一切聞こえないふりを貫かせてもらった。
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