と束縛と


- 第30話(3) -


 テレビの画面を漫然と眺めていた和彦に、部屋に戻ってきた賢吾がおもしろがるように話しかけてくる。
「先生はスポーツに興味がないタイプかと思ったが、野球が好きなのか?」
 数瞬、なんのことかと思った和彦だが、賢吾とテレビの画面を交互に見て、ああ、と声を洩らした。テレビでちょうど流れているのは、プロ野球の結果だ。視線はテレビに向けていながら、内容が一切頭に入っていなかった。
「そういうわけじゃ……」
 ちょっと考え事をしていたと言いかけて、口ごもる。賢吾が向かいの座椅子に座ったので、和彦はテレビを消した。
「どうした、先生?」
 短く息を吸い込んでから、和彦は思いきって用件を切り出した。
「――そろそろ、戻ろうと思っている。あっ……、あの、マンションの部屋のほうに」
 賢吾は表情を変えなかったが、両目にいくらか鋭い光が宿ったように見えたのは、気のせいではないだろう。
 賢吾の部屋で、二人で過ごすことに馴染み始めたところで、和彦がこんなことを言い出し、怒らせてしまったのだろうかと思ったが、次の賢吾の発言を聞き、そうではないと知る。
「鷹津にたっぷり慰めてもらったあとだと、俺と一緒に過ごすのが心苦しくなってきたか?」
 和彦は咄嗟に返事ができなかった。このとき胸を過ぎったのは、賢吾に対する後ろめたさと恐怖だ。
 目に見えて和彦の顔色が変わったのだろう。賢吾は軽く息を吐き出すと、自分の傍らを手で示す。その動作の意味を察し、和彦はのろのろと賢吾の隣へと移動した。
 賢吾の片手が伸ばされ、ビクリと身を竦める。もちろん、賢吾が暴力を振るうはずもなく、優しく髪を撫でられた和彦は、視線を伏せつつ問いかけた。
「怒ったのか?」
「先に質問したのは、俺だと思うが」
 賢吾の口調は柔らかだが、ちらりと視線を上げた和彦は、寒気を感じた。賢吾は、無表情だった。こういうときの賢吾は、和彦の心の奥底まで容赦なく浚い、本音を引き出そうとしてくる。
 和彦と男たちの奔放な関係に賢吾が寛容なのは、いざというとき、和彦の心の繊細な部分にすら切り込めると自信があるためかもしれない。そう思いながら、和彦は気持ちを吐露するしかなかった。この男には逆らえない。
「……鷹津は関係ない。もう半月以上も本宅で世話になって、さすがに甘えすぎだと思ったんだ。精神的には、とっくに落ち着いていたし……」
「落ち着いたといいながら、この二日ほど様子がおかしかっただろ。難しい顔で考え込んでいたかと思ったら、魂がどこかに飛んでいっちまったようにぼけっとしたり。そういうのは、落ち着いたとは言わねーんだ」
 大蛇の目は、よく見ている。おそらく、和彦が咄嗟についたウソも見抜いているだろう。
 髪に触れる賢吾の手を取り、おそるおそる押し返す。
「医者としての自分について、考えさせられていたんだ。これは、自分自身の気持ちの問題で、自分で整理をつけるしかないことだ。――大丈夫。組や総和会に迷惑はかけない」
「患者が死んだことは聞いている。処置を受ける前に、すでに手の施しようがない状態だったことも。おそらく、病院に運び込んだところで、結果は変わらなかっただろう。先生も、そのことは理解しているはずだ。だが、平然としていられるほど、経験は積んでいない。そのうえ今身を置いている環境は、先生の苦悩を汲み取って、フォローしてくれる人間はいないしな」
「……だから、あんたには愚痴すらこぼしていないだろ」
「それはそれで、困る」
 思いがけず賢吾に強い力で手首を掴まれ、和彦は目を見開く。
「何……」
「最悪のタイミングで、先生を鷹津に渡しちまったな。ただでさえ先生に骨抜きになっている奴が、精神的に弱った先生が懐に潜り込んできたら――どうなるだろうな?」
 和彦の脳裏を過ぎったのは、鷹津と〈愛し合った〉夜のことだった。あのとき確かに、和彦は鷹津に精神的に寄りかかり、鷹津は、そんな和彦に優しさを示してくれた。
「別に、どうもならない……。鷹津は鷹津で、相変わらずだった」
 和彦の言葉を、賢吾は端から信じていなかった。和彦の指をやけに優しい手つきで撫でながら、こんなことを言い始めたのだ。
「どうやら俺が考えていた以上に、鷹津は優秀な番犬だったようだ。番犬とは言っても、もとは狂犬だ。敵味方かまわず、牙を見せて唸ってくれれば十分だと思っていた。だが、咥え込んだ男を骨抜きにする性質の悪いオンナは、そんな狂犬を手なずけて、忠実な番犬にしちまった」
「手なずけるなんて……」
「あいつは番犬どころか、今じゃ先生の騎士気取りかもな。自分が犬であることを忘れたんだ。それもこれも先生が、鷹津を甘やかすからだ。躾もせず、ちょっとしたお使い仕事をこなすだけで、美味い餌をたっぷり与えて……。甘やかすだけじゃ狂犬は、単なる駄犬になる」
 賢吾の口調が暗い凄みを帯びる。その迫力に圧された和彦は、知らず知らずのうちに体を後ろに引きそうになったが、賢吾に強く指を掴まれて、首を竦める。
「痛っ」
「――そろそろ鷹津を、適度に距離を置いて飼う時期になったのかもな。刑事であるあいつ自身にとっても、それがいいと思わないか?」
 底冷えするような冷徹な眼差しを向けられて、和彦は返事ができなかった。迂闊な返事をしてしまえば、賢吾が鷹津をどうにかしてしまいそうな、そんな危機感が芽生えていた。
 和彦が顔を強張らせると、賢吾は苦笑を浮かべて手の力を抜く。和彦は素早く指を抜き取ると、急いで立ち上がる。
「少し、中庭で風に当たってくる」
 賢吾の顔も見ないでそう言い置き、部屋を出ようとすると、冗談交じりの言葉を背後からかけられた。
「この歳で、色恋で嫉妬することになるとは、思いもしなかった。――嫉妬深い男は嫌いか、先生?」
 和彦は何も言わず、振り返りもせずに部屋を出る。自分でも戸惑うほど、賢吾の言葉に動揺していた。賢吾の目に、鷹津の存在がそんなふうに見えていたことにも驚いたが、鷹津の身を心底心配している自分自身に、気づいたからだ。
 鷹津の存在が自分の中で変わりつつある。足早に廊下を歩きながら、和彦は無意識のうちに胸に手をやろうとして、寸前のところで我に返る。
 今それを確認するのは、この家ではあまりに危険すぎた。
 ここは、物騒な大蛇の住処なのだ――。




 最後まで残っていたスタッフを見送った和彦は、いつもより時間をかけて日常業務を終え、パソコンの電源を落としてしまうと、所在なくクリニック内を歩いて回る。目についたところの掃除でも、と思ったが、ここで働いているスタッフたちは有能で、まじめだ。どこも手を抜いた様子がない。
 仕方なく診察室の自分のデスクに戻ると、椅子の背もたれに体を預けてなんとなくぼんやりとする。
 長嶺の本宅に帰りたくない心境だった。
 賢吾と、鷹津について話したあと、和彦に対して当たりがきつくなったということはない。自らを嫉妬深いと言う賢吾だが、胸の内はわからないものの、普段と変わらず和彦に接している。だからこそ、身構えてしまうのだ。
 本宅にいて、少し気が休まらなくなっているのは確かだ。だからといって、宣言したとおりにマンションに戻るのは、抱えた後ろめたさを証明するようだ。前までの和彦なら、相手がなんと思おうがさほど気にも留めなかったのだろうが、今は違う。関係を持つあらゆる男たちのことが気になる。打算や思惑があるにせよ、和彦を大事にしてくれる男たちだ。
 こう感じることも、賢吾の嫉妬心を刺激するのだろうかと、和彦がひっそりと苦笑いを洩らしたそのとき、デスクの上に置いた携帯電話が鳴った。
 いつまでも降りてこない自分を心配して、護衛の組員がかけてきたのだと思い、無防備に電話に出た和彦だったが、すぐに背筋を伸ばし、緊張することになる。
『――仕事は終わったかね?』
 太く艶のある声が耳に届くと同時に、電話越しに静謐な空気が伝わってくる。どこから電話をかけてきているのだろうかと、ちらりと頭の片隅で思いながら、和彦は硬い口調で応じた。
「ええ。まだクリニックにはいますが、仕事はもう……」
『ちょうどよかった。これから夕食を一緒にどうかね』
 守光からの誘いを断れるはずもなく、和彦は承諾する。行き先は、護衛の車に連絡すると告げられて電話が切れる。
 ぼんやりと座っている余裕はなくなり、慌てて帰り仕度を整えた和彦はクリニックを出る。車に乗り込むと、こちらから何か言うまでもなく、車はいつもとは違う道を走り始めた。
 車の微かな振動に身を任せているうちに、突然の守光からの電話による緊張がいくらか解けてくる。和彦はようやくシートにもたれかかると、まだ明るい外の景色に目を向ける。
 長嶺の本宅に帰りたくないと思っているところに、守光から食事に誘われるのは、何かしら運命めいたものが働いているのだろうかと、つい考えてしまう。
 車は、ある料亭の前で停まった。まったく知らない場所ではなく、和彦はかつて一度、ここを訪れたことがある。
 門の前で待機していた男が素早く車のドアを開ける手順も、料亭内の美しい日本庭園も、案内された座敷も、すべてが前回と同じだ。
 違っているのは、守光と体の関係を持ったということだろう。
 和彦を案内した男が声をかけ、スッと襖を開ける。座椅子についた守光と目が合い、穏やかに微笑みかけられた。和彦もぎこちなく微笑み返す。
「しっかり働いたあとだと、腹も減っただろう。すぐに料理を運ばせよう」
 和彦が向かいに座ると同時に、守光がそう切り出す。和彦は、お茶と一緒に運ばれてきたおしぼりで手を拭きながら、改めて守光を見つめる。今晩はすでに総和会会長としての仕事を終えているのか、ノーネクタイ姿だった。
 和彦の視線に気づいたのか、守光は自分の格好を見下ろしてから、こう言った。
「あんたが相手だと、体面を取り繕う必要もない。もしかすると普段から、大物ぶった格好をしているとか、年甲斐のない格好をしているとか思われているのかもしれんが」
「いえっ、そんなことっ……」
 わかっている、と言って、守光が笑う。
「今のような立場にいると、相手の目にどう映るのが効果的か、そういう賢しいことでも神経を使う。大なり小なり、この世界で生きている人間は、そういうものだ。己の存在を軽んじられるのは、何よりの侮辱だということだ」
 肩書きは医者である和彦にこういうことを説くのは、そういう人間になれというわけではなく、関わりを持つ男たちがどういう生き物なのか、理解しておけということだろう。その関わりを持つ男たちの中には当然、守光自身も含まれている。
 他愛ない会話を交わしている間に、料理が運ばれてきて目の前に並ぶ。ここで意外に感じたが、今晩は酒は用意されておらず、守光はお茶で口を湿らせた。和彦には、グラスワインが。あまり細かいことを指摘するのも不躾に思え、和彦は口当たりの軽いワインを一口飲む。
 和やかな雰囲気のまま食事は始まった。守光に呼ばれた理由を、最初はあれこれと推測していた和彦だが、料理の一品一品を満足げに味わう守光につられて、食事に集中する。確かに、働いたあとだけに空腹だったのだ。
「本宅では、しっかりと美味いものを食わせてもらっているかね?」
 揚げ物をすべて食べ終えた和彦に、守光がそう問いかけてくる。美味しいものを食べてすっかり気分が解れた和彦は、笑みをこぼして頷く。
「はい。すっかりぼくが好きな味を把握されたみたいで、毎日、美味しいものを食べさせてもらっています」
「なぜか昔から、本宅の台所は男が守っている。わしの父親が、台所に立つ女の姿を見て、気持ちが和らぐのを避けるためだと言っていたが、本当かどうかはわからん。昔は、血気に逸っていた時代もあったが、今は穏やかなものだ。それでも、伝統のようなものだと思えば、いまさら変える気にもならんだろう、賢吾も。千尋は、どうだろうな」
 千尋の名が出た瞬間、和彦の脳裏を過ったのは、賢吾から言われた意味ありげな言葉だ。
 千尋の次の跡目――。
 好奇心と自戒が入り混じり、それが顔に出そうになったが、なんとか抑えた。
「今の千尋の姿を見ていると、組を継いだときの姿が想像できないですね。ときどき、こちらがうろたえるほどの鋭さを見せるときはあるんですが」
「あんたにだけは甘えているからな。先日の賢吾とのやり取りを覚えているだろうが、あれは、まだまだこれからの若木だ。わしはそう長くは無理だろうが、賢吾がしっかりと鍛えてくれる。それに――あんたが見守ってくれる、と信じている」
 ここまで柔らかだった守光の声に、ドキリとするような力強さが加わる。和彦が目を丸くすると、守光は何事もなかった様子で鰻の押し寿司を口に運ぶ。
 やはり、食事のためだけに呼ばれたわけではないのだと、確信めいたものがやっと持てた。
 守光が本題を切り出したのは、器が片付けられ、食後のデザートであるイチゴのムースを、和彦がスプーンで掬ったときだった。
「あんたと佐伯家の件が一旦落ち着いたと判断して、今晩は来てもらった」
 反射的に姿勢を正した和彦は、スプーンを置く。ちらりと笑みを浮かべた守光に食べながらでかまわないと言われ、ぎこちなく従う。
 イチゴの程よい甘酸っぱさが舌の上で広がったが、それも一瞬だ。和彦は意識のすべてを守光との会話に傾けなくてはならなくなった。
「いろいろあって余裕がなかったかもしれんが、それでも十分に考える時間はあったと思っている。――そろそろ結論を出してほしい」
 守光のこの物言いで、なんのことを指しているのか、即座に和彦は理解した。
「……クリニックの開業のことですか」
 忘れたことはなかった。英俊と会うことに神経をすり減らしながらも、常に頭の片隅にあった件だ。このままなかったことにならないだろうかと、願わなかったといえばウソになるが、巨大な組織を背負う者に、そんな甘さがあるはずもない。和彦の状態が落ち着くのを待っていたということは、虎視淡々と機会をうかがっていたのだ。
「重責を背負わされるとは考えんでほしい。クリニックはあくまで、総和会における佐伯和彦という人物の地位を示すためのものだ。極道であれば、肩書きを与えて、組を持たせて、とやりようがあるが、あんたは違う。極道ではないからこそ、価値がある。いや、佐伯和彦であるからこそ、〈我々〉はあんたを大事にしたい」
「ぼくに、そこまでの価値は――」
「三世代の長嶺の男に想われているというだけで、十分価値はある。他の男たちにとっても。手間と金をかけて、あんたにクリニックを持たせるということは、要は檻だ。あんたを逃がさんためではなく、守るための」
 これは、長嶺の男特有の詭弁だ。だが、理性を揺さぶるだけの熱意も甘美さもあった。禍々しい狐を背負った男の言うことは、どこに真意があるのかまったく読めないが、すべてがウソというわけではないだろう。和彦を必要として、逃すまいとしている。この物騒な世界から、とっくに逃げられなくなっている和彦を。
 自分の存在に価値を見出してくれるのはありがたいが、反面、医者としての腕や経験が未熟であるという現実が、肩に重くのしかかってくる。
 堪らず、苦しい胸の内を気持ちを吐露していた。
「ぼくは、自分を知っているつもりです。医者として、何もかも不足しているんです。毎回、患者がいると連絡が入るたびに、自分の手に負えられる状態であってほしいと、祈っています。腕がいいからじゃない。使い勝手がいいから、必要とされていることは、よくわかっています。それでも……患者を助けられたときは、普通の医者のような喜びを味わえるんです。だから、仕事をこなせてきた」
 話しながら和彦は、前髪に指を差し込む。
「これ以上のプレッシャーを抱えると、きっとぼくの頭も気持ちも容量がいっぱいになります。前にしていただいたお話は覚えています。最低限の必要な手続きをして、ときどき業務に目を配って、あとは好きなようにしていいと……。でも、きっとそうはならないと思います。ぼくは、身の程知らずにも、患者に関わっていくはずです」
「――あんたの感情が乱れているのは、何日か前に、目の前で患者に死なれたからか」
 和彦はハッとして顔を上げる。賢吾とよく似た冷徹な眼差しで見据えられ、無意識のうちに息を呑んでいた。
「報告は受けている。手を施して死なせるのと、手の施しようがなくて死なせるのと、どちらがより医者には堪えるのか、わしには想像のしようがない。わしだけではなく、賢吾も同じだろう。だから白々しい慰めの言葉などかけなかったはずだ」
「ええ、そうです……」
 もとより和彦は、そんなものは求めてはいなかった。優しい言葉などかけられたら、情けなさで消え入りたくなっていたはずだ。
 ただ、賢吾は賢吾なりに気遣いを見せてくれた。そして、鷹津も――。
 和彦の心を揺れを感じ取ったのか、守光がふっと目元を和らげる。思いがけない反応に和彦は戸惑う。
「弱ったあんたを支えたがる男は、いくらでもいるだろう。性質のよくない癖を持つ者なら、そんなあんたをさらに追い詰めたくなるかもしれんが。……さて、わしはどちらだろうな」
 もちろん守光は和彦に返事を求めているわけではなく、穏やかな口調のまま、こう続けた。
「総和会も長嶺組も、佐伯和彦に、完璧な医者であることは求めておらんよ。これがまっとうな社会での、まっとうな医者に対してであったなら、人道的な正しさを求めるのだろうが、あんたが今いるのは、耳当たりのいい理屈が存在しない社会だ。ときには命は、面子と秤にかけられて、軽く扱われてしまうものだ」
「……それは、常々感じていることです」
「いいや、感じてはいるが、理解はしていない。――あんたはいわば、組織が、個人に対して示せる〈誠意〉だ。医者としての腕はどうでもいい。総和会や長嶺組が大事にしている医者が、請われれば、若い衆だろうが、不義理を働いた者だろうが治療する。そのことに、忠義や恩義、心意気を感じる。組織は、支えてくれている者たちがいて成り立つが、その者たちを守るために、また組織がある。これは、非情である反面、きちんと血の通っている形式だ。その形式のために、特別な医者であるあんたが、必要なのだ」
 守光の言葉に潜む凄みに、和彦は静かに気圧されていた。言おうとしていることはわかるし、これまでこなしてきた仕事の中で、この世界特有の考え方は少しずつ和彦に染み込んできた。しかし守光は、さらに踏み込んでくる。
 今いる世界で和彦は、長嶺の男たちの〈オンナ〉であることが大きな比重を占めてきた。しかし守光の申し出を受けることで、その比重が変わる。
「知らず知らずのうちに、あんたには身についたはずだ。腹に呑み込む、ということが。組のために、男のために、何かしら呑み込んできただろう。これからは、医者として、あんたが呑み込むものは増えてくる。単なる医者ではなく、組織に必要とされる医者としてだ」
 あんたならできる、と賢吾によく似た声が力強く言い切る。
 強い拒否感と、逃げ出したい気持ちと、それすら凌駕する、見えない圧倒的な力に気持ちを押さえつけられる感覚に、和彦は眩暈に襲われる。
 たまらず目を閉じると、じわじわと体内に満ちていくものがあった。強い男に求められているという、奇妙な安堵感だった。




 すっかり様子が変わった店内を見回した和彦は、所在なくその場に立ち尽くし、少し戸惑う。
 男の自分が来ていい場所なのだろうかと、いまさらながら思ったのだ。
 気を利かせた従業員がすぐに動き、和彦をこの場に招いた当人を呼んでくる。開店準備のため、忙しく立ち働いている従業員――ホストたちの誰よりも、華やかな雰囲気と美貌を持つ男は、和彦を見るなり、艶やかな笑みを浮かべた。こんな笑みを向けられては女性客はたまらないだろうが、残念なことに、秦がホストとして接客することはない。特別な場合を除いて。
「いらっしゃいませ」
 秦からそう声をかけられ、和彦は苦笑で返す。
「別にぼくは、ホスト遊びがしたくて来たわけじゃないんだが」
「お望みなら、店の者をつけますよ」
「それでぼくがハマったら、君はいろいろ困るんじゃないか」
 和彦がそう返すと、秦は芝居がかった仕種であごに指を当て、何か思案するような顔をする。
「それもそうですね……。大事な先生に悪い遊びを教えるなと、いろんな方たちから睨まれそうだ」
「悪い遊びはともかく、夜遊びしたいと言ったのは、ぼくのほうだ。悪かったな。これから稼ぎ時だというのに、店のスペースを占領することになって」
「かまいませんよ。先生なら大歓迎です。それに、わたしの店で飲みたいと連絡が入ったということは、わたしは先生にとって、安全な遊び相手だと認められているということですよね」
「……ぼくの辛気臭い愚痴に、誰かにつき合ってほしかったんだ。長嶺の男は論外、組の人間も避けたかった」
 現在のところ、和彦にとって数少ない友人である中嶋も、今回は連絡しなかった。いわゆる『辛気臭い愚痴』の中には、中嶋が所属している組織の話題も含まれているせいだ。
 さりげなく秦の手が肩にかかり、促されるままに歩き出す。
 男である和彦にとってこのホストクラブは、馴染み深くはないのだが、ある意味、印象深い場所ではある。なんといっても、生まれて初めて、襲撃の瞬間を目の当たりにした場所だ。
 内装工事を終えたばかりの店内には、当然のように襲撃の痕跡は一切残っていない。壁紙や絨毯、ソファセットもすべて取り換えられたようだ。おかげで、生々しい記憶を呼び覚まされることもなく、ホールを通り抜けることができた。
 秦に連れて行かれたのは、ホールの奥にある仰々しい扉の前だった。その扉には、VIPのプレートがかかっていた。和彦は目を丸くして秦を見る。
「おい、別にこんな――」
「先生が人目につくところで飲んでいると、来店されたお客様方が新しいホストだと思って、指名が入りますよ。経営者としては、先生ほどの方に短時間でも店に出ていただけるなら、嬉しいですが。見た目は申し分ないですし、女性の扱いなんて、下手なホストより慣れているでしょう」
「……医者として食いっぱぐれる事態になったら、考える」
 ふふ、と笑った秦が扉を開け、和彦はVIPルームへと足を踏み入れる。
 どれだけ華美な装飾に彩られているのだろうかと思ったが、予想に反して室内は、落ち着いた内装だった。それでも調度品はいいものを揃えており、秦の趣味がよく出ている。
「VIPルームとはいっても、人目を気にせず楽しみたいお客様のために用意している部屋というだけで、とんでもない仕掛けがあるわけではないのですよ」
 テーブルの上にはすでにアルコールといくつかのつまみが並んでおり、準備万端といった様子だ。これが、羽振りのいい客をもてなすためのものではないのだから、いまさらながら和彦は申し訳なくなってくる。そんな和彦に、秦はこう言葉をかけてきた。
「先生は、王様のように振る舞ってください。なんといっても、わたしの友人でもあるし、命の恩人でもありますから。それにこの間は、わたしの事情で迷惑をかけてしまいましたしね」
 ソファに腰掛けた和彦は淡い笑みで返し、斜め向かいに座った秦に水割りを作ってもらう。
「――いろいろと大変だったようですね」
 和彦がグラスに口をつけるのを待ってから、秦がそう切り出してくる。一人だけ飲むのは気が引けるが、秦が新たなグラスに氷を入れるのを見て、和彦は安心して会話を始める。
「いろいろありすぎた。……一つ片付いたと思ったら、次が。そして、それが片付かないうちに、次、次――」
「先生はいつでも、波瀾万丈だ」
 自分の分の水割りを作った秦が、意味ありげな流し目を寄越してくる。
「……他人事のような顔をしているが、ぼくは君のせいで、大変な目に遭ったことがあるんだからな」
「それでも先生は、わたしとこうして会ってくれる。その寛容さが、先生の日常がにぎやかになる原因の一つだと思いますね」
 物は言いようだと、苦い顔をした和彦は、ナッツを口に放り込む。すると、すぐ隣に移動してきた秦に片手を取られた。ドキリとした和彦は咄嗟に手を引こうとしたが、予想外の力強さで阻まれる。それ以上の抵抗はできなかった。そんな和彦に対して、秦は満足げに頷く。
「寛容ではなく、甘い、ですね。先生の場合は」
「自覚はあるんだ。それにもう一つ、〈こっち〉の世界に引きずり込まれてから、他人を拒むことが怖くなった。周りは、腹の内が読めなくて、ぼくなんて簡単に押さえ込める怖い男ばかりだ。機嫌を損ねることを、無意識のうちに恐れているんだ」
「でも、先生に対して優しい男ばかりでしょう」
 わたしも含めて、とヌケヌケと言えてしまうのが、秦という男だろう。声を上げて笑っていた和彦だが、すぐに真顔に戻ると、ぽつりと洩らす。
「だからこそ、怖い。無条件の優しさなんてないとわかっているんだ。この世界でぼくは使い勝手のいい医者で、オンナだ。もし、男たちの期待を裏切ることになったら――」
 賢吾は気軽に、もっと傲慢になれと言うが、それは、物騒な世界で生まれ育ってきた者の理屈だ。和彦が抱えている恐れを本質的に理解することはできないはずだ。
「それは、ご自分を過小評価されていますね。先生ご自身が魅力的なのであって、肩書きはあくまで付随してくる価値なのだと、わたしは思っていますが」
「……こういう場所だからかもしれないが、君に口説かれているような、妙な気分になるんだが」
「なっていただいてかまいませんよ?」
 和彦は、秦を軽く睨みつけてから、取られた手を抜き取ってグラスに口をつける。
 扉の向こうから、従業員たちの挨拶の声が一斉に上がり始める。どうやら開店と同時に、客たちが訪れたようだ。女性たちの華やかな歓声が合図のように、店の空気が一気に盛り上がったように感じる。
 扉一枚を隔てて、真剣な顔で愚痴をこぼしている自分がふいにおかしくなり、和彦は無意識のうちに唇を緩めていた。
「実は自分の人生について考えるのは、苦手だ。医者になるまで、親に命じられるままの進路を選んできたせいで、心のどこかで、自分の人生は自分のものではないと思っていたのかもしれない。……今も、似たようなものなのかもな」
 気持ちが塞ぎ込んできている証か、そんな自虐的な言葉が口をついて出る。男たちの求めによって、自分の進むべき道は決められていくという危惧もあった。賢吾と関係を持った時点で、そんなことはわかりきっていたはずなのだが、守光から決断を迫られて、先の見えない道が新たに現れたような心境だ。
 和彦がふっとため息をついた瞬間、まるで甘い毒を吹き込むように秦が言った。
「――だったら、逃げ出してみますか。新しい人生へと」
 いつもよりアルコールの巡りがよくなっているのか、和彦の思考は少し緩慢になっていた。ゆっくりと瞬きを数回繰り返してから、秦をまじまじと見つめる。
「えっ?」
 ここまで穏やかに微笑んでいた艶やかな美貌の男が、表情を一変させる。鮮烈な鋭さが潜んだ眼差しで、じっと和彦の目を覗き込んできた。
「わたしと先生は、似ていますよ。権力のある家に生まれ、抗えないままに進む道を決められて、思いがけない事情によって一見順風満帆な人生が一変する。そして、したたかに生き抜く術を身につけた」
「……そんなふうに言われると、確かに」
「わたしと似ているから、わかるんです。先生はきっと――」
 秦の話に危うく引き込まれかけた和彦だが、ホストと客たちの一際盛り上がった声が聞こえてきて、我に返る。秦の眼差しがふっと和らぎ、和彦もソファに座り直してから、簡潔に答えた。
「逃げるなんて、ありえない。……というより、あの男たちから逃げられるとは、思えない」
「まあ、そうでしょうね」
 あっさりと秦に肯定され、失笑を洩らした和彦だが、きっと本気ではなかったのだろうと思いつつ、質問をぶつけてみた。
「ぼくを唆そうとしていたが、君は何か考えがあるのか?」
「おや、やっぱり興味がありますか」
 賢吾に報告するつもりなのではないかと警戒しながら、和彦はぼそりと答える。
「別に……」
「海外に行く気なら、ツテはありますよ。日本国籍を捨てることになりますが、偽造パスポートを作って――」
 秦からちらりと視線を向けられ、和彦は苦笑しつつ首を横に振る。
「そこまででいい。ぼくには、そこまで思い切った行動は取れそうにないから。……君は、何をやっても生きていけそうだな」
「なるべくなら、今の仕事で生きていきたいですけどね」
「どの仕事だ?」
 この瞬間、二人は視線を交わし合い、感じるものがあった和彦は、深く尋ねることはやめておいた。誰にでも探られたくないことはあり、秦は特にそれが多いだろう。和彦にですら、あるぐらいだ。
 秦が水割りを作り直し、グラスを手渡される。忙しい秦をあまりつき合わせても悪いと思い、和彦は勢いよく呷る。すでに自宅マンションに戻っているため、いくら酔ったところで、長嶺の男たちの目を気にしなくてもいいのだ。
「――……酔いが覚めたあと、事態がもう少し簡単になっていればいいのにな」
 我ながら子供じみた妄想を呟くと、秦は笑うでもなく、抑えた声でこう応じた。
「先生が本気で逃げ出したいというときは、相談に乗りますよ」
「ぼくが本気で言い出すはずがないと思っているだろ」
 さあ、と洩らして、秦は楽しげに笑った。









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