と束縛と


- 第30話(4) -


 何日ぶりかに自宅マンションに戻った和彦は、バッグを運んできてくれた組員が帰るのを見届けてから、ゆっくりと肩から力を抜く。
 自分以外の気配がないことを確認して、やっと一人になれたのだと思った。
 和彦はジャケットを脱ぐと、とりあえずバッグをクローゼットに押し込む。着替えを仕舞うのは、何も今しなくてはならない仕事ではない。
 キッチンでオレンジジュースを飲んでから、携帯電話を片手に寝室へと向かう。夜景を眺める気力もなく、素早くカーテンを閉めると、和彦は身を投げ出すようにしてベッドに横になった。
 持て余すほど広いベッドで手足を伸ばしてから、ほっと息を吐き出す。さっさと入浴を済ませてしまおうと思いながらも、どうせ自分一人なのだから、どう時間を使おうが自由だとも思ってしまう。
「……本当に、静かだ……」
 本宅での、絶えず人の気配が感じられた空間を思い返して、和彦はぽつりと呟く。自覚もないまま、他人と同じ部屋で過ごすことに馴染んでいたらしく、こうして一人でいることに多少の違和感があった。
 もっともこの感覚は、すぐに消えてしまうのだろうが――。
 枕元に放り出した携帯電話が鳴る。どうやら、和彦を送り届けた組員が、本宅への報告を終えたようだ。
 和彦は、相手が誰かわかったうえで電話に出た。
「――ぼくが、すぐに部屋を抜け出すとでも思ったのか?」
 前置きもなしに淡々とした声で告げると、電話の相手が微かに笑った気配が伝わってきた。
『そう、ツンツンするな、先生。この何日か、先生とまともに会話を交わしていなかったから、こうして電話をかけたんだ。顔を合わせていなければ、多少は言いたいことが言えるだろう』
「別に……、言いたいことはない。こうしてマンションに戻ってきたし、あんたはそれを引き留めなかった。だから、何も……」
『話しかけるなと言わんばかりの、不機嫌そうな顔をしていたんだ。そんな先生に、本宅で生活を続けろなんて無体は言えねーな』
 怒っているのか、と賢吾に問われ、和彦はすぐには返事ができなかった。賢吾が何を言おうとしているのか、わかってはいるのだ。だからこそ、言葉に慎重にならざるをえない。
 大蛇の化身のような恐ろしい男の口から、和彦と鷹津の接近に嫉妬していると告げられたのは、驚きだった。あくまで賢吾の口調は冗談交じりではあったものの、だからこそそこに、本心を覆い隠そうとしている意図を感じ取ったのだ。
 そしてもう一つ、和彦が衝撃的だったのは、鷹津と距離を置くべきだとほのめかされ、自分がひどく動揺したことだった。賢吾は、そんな和彦の胸の内を見透かしている。
 電話越しに会話を交わしながらも、まるで試されているようだった。耐えきれなくなった和彦は、言葉を絞り出して言った。
「しばらく、ぼくを放っておいてくれっ……」
『それで、状況が変わるか?』
 賢吾の冷静な指摘に、一瞬にして感情的になった和彦は、乱暴に電話を切る。
 確かに、顔を合わせて話さなくて正解だっただろう。もし、目の前に賢吾がいたとしたら、問題を何一つ自分で解決できない苛立ちを、みっともなくぶつけていたはずだ。
 そんな和彦を、賢吾は余裕たっぷりに受け止めてくれるであろうが。




 日曜日の朝、目を覚ました和彦は、ぼうっと天井を見上げてから、緩慢な動作でヘッドボードへと手を伸ばす。時計を取り上げて時間を確認してみると、普段と変わらない起床時間だ。今日は何も予定がないからと、ゆっくりと寝るつもりで目覚ましをセットしていなかったが、意味はなかったようだ。
 目覚めは悪くなく、あっという間に眠気は霧散してしまい、これから仕事にでも出かけられそうなほど、頭の中は明瞭としている。
 まっさきに考えたのは、今日は何をして過ごそうかということだった。休日を一人で過ごすのは久しぶりな気がして、勝手がわからない。
 和彦はベッドから抜け出すと、カーテンを開ける。肌にまとわりつく空気の感覚から、薄々察してはいたが、外は雨が降っていた。
 朝食を食べて新聞を読み終え、特に興味もなくテレビのチャンネルをあちこち替えてしまうと、もうやることがなくなってしまう。いや、正確には、片付けるべき仕事はあるのだ。ただ、やる気がしない。
 自分で淹れたコーヒーをさんざん堪能した和彦は、ふと思い立って立ち上がる。
 手早く後片付けを済ませると、部屋の鍵を持ってダイニングを出ようとしたが、後ろ髪を引かれて一旦立ち止まったあと、テーブルへと戻る。携帯電話で護衛の組員に連絡を取り、近所に散歩に出かけると告げておいた。
 傘を持ってマンションの外に出たものの、和彦にはあてがあるわけではない。こんな雨の中、歩いていける場所などたかが知れている。
 普段は車では通らない道をあえて選んで、ゆっくりと歩きながら、辺りを見回す。基本的に、和彦がマンションの周囲を歩くときは、せいぜいがコンビニに出かけるぐらいなのだ。そのため、ここで暮らし始めて一年ほどになるというのに、いまだに地理には疎い。
 詳しくなったところで、いつまでここにいられるかわからないが――。
 無意識に、そんな自虐的なことを考えた和彦は、小さく身震いする。この瞬間、ひどく不吉なものが自分の中を駆け抜けた気がしたのだ。
 わずかに歩調を速めて歩いていると、細い脇道に気づく。きれいにレンガが敷き詰められた道で、なんとなく興味を引かれた。まさか、こんなところで迷子になったりはしないだろうと思いながら、誘われるようにその道に入る。
 最初は、コンクリートの壁に左右を挟まれた、おもしろ味のない道だと感じていたが、数分も歩くと様子が変わった。
 和彦は、差していた傘をくるんと回す。青の色合いが鮮やかな紫陽花が、レンガ道の傍らを彩っていた。降り続ける雨を受け、風情が増している。
 人が通りかからないのをいいことに、和彦はしばらくその場に立ち尽くし、紫陽花に見入っていた。車のエンジン音すら届かない場所に、雨音と、雨粒が傘にぶつかる音だけが響き、それが耳に心地いい。錯覚なのかもしれないが、ここのところ胸の奥にこびりついている重苦しい感情が、少しだけ洗われていくようだ。
 ふと、感じるものがあった和彦は、わずかに傘を動かす。いつの間にか背後に、誰かが立っていた。スラックスを穿いた足元しか見えないが、それだけで和彦には十分だ。
 唇を引き結びはしたものの、黙ってはいられず、結局口を開いた。
「――……組長に、放っておいてくれって言っておいたのに……」
「そうなのか。俺は何も言われなかった」
 雨音に慣れた耳に、深みのあるハスキーな声がしっとりと馴染む。和彦は、隣にやってきた声の主をちらりと見た。三田村は、紫陽花になど興味ないとばかりに、まっすぐ和彦を見つめ返してきた。その眼差しを受けただけで、頬が熱を持つ。
「護衛の人間に頼んでおいたんだ。先生の行動で気になることがあったら、連絡してほしいと」
「気になるって……、散歩に行くとしか言わなかったぞ、ぼくは」
「だけど、気になったんだろうな」
「そんな連絡をもらって、若頭補佐は慌てて駆けつけたのか」
「今日はたまたま休みだった」
 それがウソか本当かは、和彦にはわからない。三田村がスーツ姿なのはいつものことなのだ。ただ、連絡を受けてから、和彦を見つけ出すまで、三田村がどれだけ苦労したかは、ずぶ濡れになっているスラックスや靴を見れば、容易に想像できる。
「……嫌なんだ。あんたは忙しいのに、ぼくのどうでもいいわがままで、駆けつけるなんて」
 足元に視線を落として和彦が洩らすと、三田村は笑いを含んだ声で応じる。
「先生にわがままを言われた記憶なんて、俺にはない。それに今日は、俺が勝手に追いかけてきたんだ。……本当は見つけても、黙って後ろから見守るつもりだったんだが、先生の後ろ姿を見ていたら、側にいたくてたまらなくなった」
「そんなに危うく見えたか?」
「そういうことじゃなく……、ただ、先生に触れたくなったんだ」
 視線を上げた和彦は、三田村の横顔を見つめる。誠実で優しい男は、和彦を裏の世界に留めておくための鎖だ。幾重もの事情で雁字搦めになっている和彦だが、堅固で太い鎖なのは、三田村だけなのだ。和彦を留めながら、守り、癒してくれる。
 こんな男が身近にいながら、鷹津という〈番犬〉と距離を置くよう仄めかされただけで動揺したことは、裏切りになるのだろうか――。
「思い詰めた顔をしている」
 紫陽花を見ていると思っていた三田村に、ふいに指摘される。和彦は自分の顔を軽く撫でてから、苦笑を洩らした。
「よく寝たつもりなんだが……」
「先生を悩ませていることについては、組長から聞いている。患者が目の前で死んだことと、新しいクリニックについて会長から返事を急かされたこと。そして――鷹津のこと」
 和彦は、ゆっくりと傘を回す。否定するつもりはなかったし、言い繕うつもりもなかった。自分との関係のために、命と面子をかけてくれている三田村に報いるのは、誠実さしかない。
「……組長は、気づいている。ぼくと鷹津が――……」
「情を交わした」
 自分と鷹津の間に起こったことを、どう表現すればいいのだろうかと思っていた和彦だが、三田村の表現は驚くほど違和感がなかった。長嶺の男たちだけではなく、三田村ともそうしているように、和彦は、鷹津と『情を交わした』のだ。
 目を丸くした和彦に、三田村は淡い笑みを向けてくる。
「そんな顔をしないでくれ。前に総和会の別荘で言った通り、先生が誰と寝ようが、情を交わそうが、俺は大丈夫だ。俺は別に、人がいいわけでも、物わかりがいいわけでもなく、先生をこの世界に繋ぎとめておく鎖でいるからこそ、堂々としていられるんだ。そういう事情がなきゃ、ただの狭量でつまらない男だ」
「ぼくの〈オトコ〉に、ひどい言いようだな」
 和彦がちらりと笑い返すと、三田村は目元を和らげる。ヤクザとは思えない表情だが、自分に対してだけなのだと思うと、現金なもので、誇らしい気持ちになる。
 来た道を引き返そうとすると、三田村がすぐ背後をついて歩く。狭い道なので、並んで歩くと傘がぶつかるのだ。
「組長に試されていると思うんだ。寛容な男を装って、実は嫉妬深い組長は、ぼくの反応をうかがっていた。……きっと、ぼくが動揺するとわかっていた」
 歩きながら和彦が話しても、背後から返事はない。三田村としては、賢吾の批判とも取れる内容に、迂闊に相槌も打てないだろう。和彦以外、聞いていないというのに。
「……鷹津のこと、組長に交渉しないといけないだろうな。ぼくはあの男と寝てはいるけど、情に溺れているからじゃない。実家のことを探ってもらうのに、組の人間は使いたくないんだ。ぼくが気兼ねなく使えるのは、あの男だけだから」
「先生は甘くて優しい人間だが、情だけじゃ絶対溶かせない、氷の部分を持っているようだ。それが嫌だというんじゃなく、むしろその部分が――男を惹きつける。先生みたいな人に手酷く扱われたいと、妙な考えを起こさせるんだ」
「ぼくは、自分が甘い人間だと思うことはあっても、優しい人間だと思ったことは、一度もない。そんなぼくを優しいと感じる男たちが、ぼくは怖い」
 だが、その男たちが、和彦を大事に守ってくれてもいる。離れようにも、もう離れられない存在なのだ。
 細いレンガ道を出た和彦は、三田村を振り返る。優しい声で話し続けていた三田村だが、表情は険しかった。鷹津の存在を危惧していたのか、和彦がこの物騒な世界から逃げ出したいと、頭の片隅でわずかでも考えたことを感じ取ったのか。
 和彦は、三田村がときおり見せる激しさや鋭さが、愛しかった。自分は執着されていると、強く実感できるからだ。
 賢吾のことは言えない。和彦もまた、三田村を試している。――大切に想っているからこそ。
 マンションまでの道を、ようやく並んで歩きながら、和彦は抑えた声で問いかけた。
「三田村、わがままを言っていいか?」
「俺に叶えられることなら」
「……これから、部屋に行きたい」
 部屋というのは、もちろんマンションの部屋ではない。三田村と二人きりで過ごせる部屋のことだ。
 三田村が困ったような表情を浮かべたので、和彦は一瞬ドキリとする。断られるのではないかと身構えたが、そうではなかった。
「それはわがままじゃないな。俺が、先生を部屋に連れて行きたいんだから」
 まじまじと三田村の横顔を見つめてから、笑みをこぼした和彦は、こう思わずにはいられなかった。
 若頭補佐は、いつでも自分に甘い、と。


 三田村の腕の中でじっとしていると、外から微かな雨音が聞こえてくる。快感の余韻に浸りながら和彦は、もうすぐ梅雨が終わる頃だなと、ぼんやりと考えていた。
 ふと視線を上げると、眠っているとばかり思った三田村が、じっとこちらを見ていた。和彦も見つめ返しながら、三田村の頬を撫で、あごにうっすらと残る傷跡に指先を這わせる。
「まだ午前中だ。眠ったらどうだ、先生」
 三田村の言葉に、つい苦笑を洩らす。日曜日の朝から、淫らな行為に耽っていたのだと改めて実感したからだ。
「興奮して、眠れるわけがない。それに、時間がもったいない」
 日曜日の退屈を持て余していた和彦とは違い、三田村は夕方から事務所に顔を出さなければならないのだそうだ。
 本宅にいる間、人に囲まれての生活が心地よく思え、マンションに戻ってきてからは、一人でいるのは気楽だと思った。そして今、三田村と二人きりでいるのは、心が安らぐ。
 和彦から顔を寄せ、三田村の唇にそっと触れる。すぐに三田村も応えてくれ、戯れのように唇を啄み、舌先を触れ合わせる。和彦は、三田村の腰から背へとてのひらを這わせる。行為の最中、何度もまさぐり、爪を立てたが、まだ触れ足りない。
「――……目の色が変わった」
 和彦の目元に唇を押し当てた三田村が、ひそっと囁いてくる。触れた息遣いの熱さに官能を刺激され、和彦は小さく声を洩らす。
「これ、好きなんだ」
『これ』とはもちろん、三田村が背負っている虎の刺青のことだ。ここで和彦は、言葉が足りなかったことに気づき、まじめな顔で付け加える。
「もちろん、あんたの背中にあるから、だからな」
「……俺は先生に、よほど嫉妬深い男だと思われているのか」
 ぼやき気味に呟いた三田村がおかしくて、声を洩らして笑っていた和彦だが、その間も手は動かし続けていると、今度は三田村の目の色が変わり始める。
 三田村の変化を目の当たりにして、ゾクゾクするような興奮が和彦の中を駆け抜ける。ふと、外で三田村に言われたことを思い出した。
 和彦が突然体を起こしたため、何事かという顔で三田村も倣おうとする。すかさず、肩を押さえて止めた。
「どうした――」
「三田村、うつ伏せになってくれ」
 一瞬、物言いたげな様子を見せた三田村だが、和彦が何を求めているのか察したのだろう。素直に従ってくれる。
 和彦は、露わになった三田村の背の刺青をじっくりと眺め、てのひらを押し当てる。そして、顔を伏せた。
 繰り返し何度も背に唇を押し当てているうちに、最初はリラックスしていた三田村の体に変化が起こる。肌が再び熱を帯び、ときおり筋肉がぐっと強張るのだ。自分には穏やかな物腰で接してくれる男の、隠しきれない荒々しさが表れているようで、愛撫を加える和彦の体も熱くなってくる。
「くすぐったいな……」
「なら、ひどくしていいのか? 確かぼくに、手酷く扱われたいと言っていたな」
「いや、俺じゃなくて――」
 うろたえる三田村を無視して、肩先に噛みつく。甘噛みというものではなく、歯形がつくほどしっかりと。
「……痛そうだ」
 自分がつけた歯形を眉をひそめて見下ろした和彦は、悪ふざけが過ぎたと反省しながら、今度は舌を這わせる。虎の刺青を丹念に舐めているうちに、三田村の息遣いが次第に荒くなってくる。そんな三田村の背に覆い被さっていると、まるで自分が猛獣使いになったような、奇妙な錯覚が和彦を襲う。
 今にも鎖を引き千切りそうな虎を、無謀にも自分の体を使って抑えつけているのだ。太い首を一振りしただけで振り落とされ、やはり太い前足に押さえつけられる姿まで、容易に想像できる。ただし、和彦が想像の中で感じるのは痛みではなく、快美さだ。
 今の自分は欲望の箍が外れていると思いながら、和彦は自身の両足の間にそっと片手を這わせる。三田村の口腔と手によって精を放ったばかりだというのに、欲望が熱くなりつつあった。
「んっ」
 虎の刺青を愛撫しながら、自分のものを片手で慰めているうちに、堪えきれず声が洩れる。頭を動かした三田村は、和彦の行為に気づいたようだった。
「先生……」
「まだ動くな」
 三田村が体を起こそうとしたので、言葉で制する。ついでに、背に軽く歯を立てる。三田村の息遣いが乱れ、和彦の舌の動きに合わせて、身じろぐようになる。
 もっとも、和彦が三田村を自由にできたのは、ここまでだった。
 勢いよく三田村が寝返りを打った拍子に、バランスを崩した和彦は逞しい胸の上に倒れ込む。次の瞬間には強い力で抱き締められ、強引に唇を塞がれていた。
「んっ、んんっ――……」
 痛いほど強く唇を吸われ、口腔に舌が押し込まれる。和彦はすぐに三田村の口づけに応えて、舌を絡める。
 ベッドの上で激しく抱き合いながら、三田村の欲望がすでに力強く脈打っていることを知る。和彦は、促されるまま三田村の腰の上に跨り、やはり高ぶっている自分の欲望を擦りつける。三田村の片手に荒々しく尻の肉を掴まれてから、さきほど欲望を受け入れて綻び、潤っている内奥に、指を挿入される。内奥深くに残された三田村の精が溢れ出そうになり、和彦は息を詰まらせて背をしならせていた。
 三田村の求めはわかっている。和彦は急に強い羞恥を感じながらも上体を起こすと、三田村の胸に手を突き、自ら腰を浮かせる。自分に向けられる強い眼差しを意識しながら、すっかり逞しさを取り戻した三田村の欲望を片手で掴み、位置を確認して慎重に腰を下ろしていく。
「うぅっ、くっ……ん」
 内奥を押し広げる欲望の感触に、苦しさと同時に、鳥肌が立ちそうなほどの疼きが腰から這い上がってくる。和彦が荒い呼吸を繰り返しながら繋がりを深くしていると、ここまで黙って見つめていた三田村が両手を伸ばしてきた。
「あっ」
 反り返った欲望を握られ、緩く上下に扱かれる。内奥をきつく収縮させると、下から緩慢に突き上げられた。和彦は呻き声を洩らしながら、自ら腰を揺らし、三田村の欲望を根本まで受け入れる。
 大きく息を吐き出して三田村を見下ろすと、まっすぐ見つめ返してくる眼差しとぶつかった。
「……あまり、見るな。これでも、恥ずかしいことをしているって、自覚はあるんだ……」
「俺のために、してくれている」
「だから、そういうことを言われると、ますます恥ずかしく――」
 再び下から突き上げられ、和彦は顔を仰向かせる。寸前のところで嬌声は堪えたが、腰を掴まれて揺さぶられるようになると、簡単に理性は突き崩される。
「あっ、あっ、あんっ……、んっ、んあっ」
「先生、もっと恥ずかしいことをして見せてくれ。――俺しか見ていないから」
 ハスキーな声をさらに掠れさせて切望され、和彦は否とは言えなかった。むしろ悦びすら覚えながら、自分の欲望をてのひらに包み込み、ゆっくりと扱く。さらに、刺激を欲して凝っている胸の突起を指先で弄り、息を弾ませると、内奥で三田村の欲望が一際大きくなる。
「ずっと、今の先生を眺めていたい……、が、その余裕がもうなくなりそうだ」
「ぼくは、このままでもいいけど」
 そう強がってみた和彦だが、内奥深くで息づく三田村の欲望を強く感じてみたい衝動の前では、脆かった。すがるような眼差しを向けると、三田村に腕を引っ張られて抱き寄せられ、繋がったまま体の位置を入れ替えられる。
「あうっ、うっ……」
 覆い被さってきた三田村に力強く内奥を突き上げられ、和彦は大きく仰け反る。胸の突起を口腔に含まれただけで、身を貫くような快美さに襲われ、全身が小刻みに震えていた。
「あっ、あっ、い、いぃ――……。三田村、それ、いい」
「ああ、よくわかる。先生の中が、悦んでいる」
 思わず笑みをこぼした和彦は、三田村の頬に手をかけ、自分からそっと唇を重ねる。無心に互いの唇と舌を吸い合いながら、内奥は貪欲に三田村の欲望を締め付ける。
「……すごいな、先生……」
 感嘆したように三田村が率直に言葉を洩らし、意味を解した和彦は羞恥する。そんな和彦の顔中に、三田村は丁寧に唇を押し当ててきた。
「んっ、三田村――」
 肌に触れる熱い吐息すら心地よくて、切ない声で三田村を呼ぶ。三田村の唇が耳に押し当てられ、こう囁かれた。
「先生、さっきのように、もう一度自分でして見せてくれないか」
「……余裕ができたのか?」
 照れ隠しもあって、少し意地悪な問いかけをすると、三田村が困ったように笑う。その表情に胸の奥が疼き、和彦はおずおずと自分の下肢に手を伸ばす。上体を起こした三田村は、和彦の両足を抱え直して大きく左右に広げた。すべてを晒け出した自分の姿に、これ以上なく羞恥心を煽られながらも、和彦は三田村の要望に応える。
 反り返り、先端からはしたなく透明なしずくを垂らしている自身の欲望を、三田村の視線を意識しつつ、上下に擦る。
「んうっ」
 不意打ちのように、内奥深くを緩く突き上げられた。和彦は顔を背けて、上体をしならせる。そこをさらに突き上げられて、頭の先から爪先まで快感が響き渡る。
「いっ、い……。三田村、気持ち、いっ――……」
「ああ。すごく中が、動いている。ずっとこうしていたい、ただ、先生を眺めて……」
 それはダメだと、すがるように三田村を見上げて、和彦は首を横に振る。三田村はもう笑ってはおらず、真剣な顔でこう言った。
「先生、もっと見たい」
 切迫した響きを帯びたハスキーな声は、和彦の耳には甘く聞こえる。こんな声と口調でせがまれて、拒めるはずがなかった。
 息を弾ませながら欲望を扱き、尽きることなく悦びのしずくを垂らしている先端を、指の腹で擦る。ヒクリと下腹部を緊張させると、また三田村に指摘される。
「今、中が締まった。――先生、もっと」
 優しい声で求められ、和彦は喘ぎながら片手を自分の胸元に這わせる。興奮のため硬く尖っている胸の突起を指先で弄り、吐息をこぼす。もう片方の突起を三田村に触れられると、堪えきれず嬌声を上げていた。
「んあっ……、はっ、あぅ……」
「もっと締まった。すごいな、先生。いくらでも感じてくれる」
 腰を軽く揺すった三田村に、和彦は甘えるように両腕を伸ばす。抱き締めてくれと言いたかったのだが、首を横に振って拒まれる。
「ダメだ。こうして先生を、もっと見ていたい」
「三田村っ……」
 和彦はもどかしく身を捩り、腰を揺らして、抱擁を求めるが、三田村は与えてくれない。
「――先生、自分でして見せてくれ。誰にも見せたことのないような、いやらしくて、艶やかな姿を」
 優しい男がちらりとうかがわせた独占欲に、どんな愛撫よりも和彦は感じる。淫らな蠕動を繰り返す内奥が、食い千切らんばかりに三田村を欲望を締め付け、包み込む。
 三田村が微かに眉をひそめた表情を見上げながら、和彦はできる限りの媚態を見せる。悩ましい手つきで自分の欲望を愛撫しながら、もう片方の手で汗に濡れた肌をまさぐり、充血した胸の突起をてのひらで転がす。ただ、三田村のために。
 欲望に触れていた手をさらに奥へと伸ばし、繋がっている部分に指を這わせて擦り上げる。三田村の欲望が内奥で力強く脈打ったのを感じた。
「あっ……」
 和彦が小さく声を洩らした次の瞬間、ぐうっと内奥深くを抉られて、和彦は短く悲鳴を上げる。絶頂を迎え、自らが放った精で下腹部を濡らしていた。しかし和彦の体は満足せず、三田村の欲望を必死に締め付ける。より深い快感を、まだこの男は与えてくれると知っているからだ。
「三田、村……、お、く……。もっと、奥まで、して――」
 逞しい腰にしっかりと両足を絡め、浅ましく腰を揺らす。和彦が見せる露骨な媚態に、三田村は狂ってくれる。半ばの無意識のうちに、虎が息づく背に触れようと両腕を伸ばしかける。すると三田村は、腰を打ち付けるように激しい律動を始めたかと思うと、和彦の両手首を掴んでベッドに押さえつけた。
 すぐには三田村の行動の意味がわからなかったが、顔を覗き込まれてようやく察する。自分だけに集中しろと、三田村は言いたいのだ。
 男の嫉妬が心地いいと、和彦は思った。執着されているという実感が体の隅々まで行き渡り、自分もまた、男に強く執着しているのだと実感できる。この実感のやり取りも、愛情と呼んでいいのかもしれない。
 もちろん、和彦が愛情を抱いているのは、三田村だけではなく――。
 和彦の意識が他へと向くことを許さないように、三田村の熱い精が内奥に注ぎ込まれる。目も眩むような愉悦に、ようやく手首を解放された和彦は必死に三田村にすがりつき、三田村もまた、和彦を掻き抱いた。




 梅雨明けが宣言された日、和彦は仕事帰りに長嶺の本宅を訪れた。
 実に予定外の訪問だと、自分でも思う。和彦としては、痺れを切らした千尋がマンションに押し掛けてくるか、賢吾から一方的な呼び出しの電話がかかってくるまで、自ら行動を起こす気はなかった。八つ当たりに近い怒りを賢吾にぶつけた身としては、そうするしかなかったのだ。
 しかし、クリニックを閉めようかという時間に、ある人物から電話があり、こうして本宅に駆けつけた。
 慌しい足取りでダイニングに向かった和彦は、イスに腰掛けた男に目を留めるなり、こう声をかける。
「大丈夫なのかっ?」
 笠野(かさの)は、驚いたように目を丸くしたあと、申し訳なさそうに苦い笑みを浮かべた。強面からは想像もつかない人当たりのいい表情は、笠野の特徴ともいっていい。
「すみません、先生。仕事が終わったばかりなのに、こんな野暮用で来ていただいて」
「どこが野暮用だ。怪我したんだろう」
 和彦はテーブルにアタッシェケースを置くと、笠野の手元を覗き込む。左手を包んでいるタオルを外させると、てのひらが血で染まっていた。
「研いだばかりの包丁を仕舞っていて、うっかりと……。長く台所に立っていますがこんなことは初めてで、ちょっとショックを受けていますよ」
「この家で生活している人間たちは、笠野さんの料理が食べられなくて、ショックを受けるんじゃないか。ぼくもその一人だ」
 先日、守光が言っていたように、長嶺の本宅の台所は昔から男が守っており、今は、この笠野が守っている。かつては料理人を目指していたというだけあって腕は確かで、和彦も本宅に世話になっているときはおろか、マンションにもたびたび食事を運んでもらっている。一人暮らしを始めてから、手料理とは縁遠い生活を送ってきた和彦の舌は、すっかり笠野の味に馴染んでいた。
 笠野の下について台所仕事を手伝っている組員が、心配そうな顔でキッチンからこちらをうかがっている。和彦は手招きして呼び寄せると、水に濡らしたきれいな布と消毒液などを持ってこさせる。縫合に必要なものは、アタッシェケースに詰め込んできていた。
 手を洗ってイスに座り直した和彦は、まず局所麻酔の準備をする。
「血は止まっているな。それに、傷も深くないようだし」
「わざわざ先生の手を煩わせる傷じゃないと、わたしも言ったんですけどね……」
 笠野の物言いが気になり、注射器を手にした和彦はちらりと視線を上げる。しまった、という顔をした笠野の様子から、ある結論を導き出すのは簡単だった。
 はあっ、と聞こえよがしのため息をついてから、淡々と治療を始める。
「……ぼくを煩わせる云々は、気にしなくていいんだ。もともとぼくは、長嶺組に使われるために連れてこられたんだし。今はむしろ、大きい仕事を任されすぎというか……」
 ここまで話して和彦は、またため息をつく。この状況でも愚痴をこぼそうとしている自分に嫌気が差したのだ。そんな和彦の気持ちを知ってか知らずか、笠野が穏やかな口調で言う。
「先生は大変でしょうが、わたしらとしては心強いですよ。うちの組の中で、医者の手が必要だっていうときに、先生がすぐに来てくれるのは。しかも、組長や千尋さんが信頼している先生だ。わたしが守っているのは、ほとんどこの家の台所ぐらいのもので、偉そうなことは言えないですが、それでも、こうしてきれいに傷口を縫ってもらっているのを見ると、やっぱり先生は大した人なんだと思いますよ」
 笠野の言葉を聞いていると、自分は気負いすぎているのだろうかと、和彦は考えてしまう。任される仕事すべてを完璧に、相手の満足のいくようにこなすのは、ほぼ不可能なのだ。命に関わる仕事である以上、最善を尽くすのは当たり前だが、その先に、望む結果ばかりがあるとは限らない。
 非情にはなりたくないし、なれるとも思えない。しかし、理解はすべきなのだろう。状況によっては、自分ができること、できないことの境界線を引く必要があると。
 結果として患者を見捨て、自己嫌悪に苛まれることになっても、立ち直るしかない。そうしなければ、和彦自身がこの世界から見捨てられる。
 和彦は口元に苦い笑みを刻みながら、自嘲気味に呟いた。
「経験不足の若い医者を、こんなにありがたがってくれるなら、がんばらないとな……」
 笠野の傷口の縫合を済ませて、ガーゼを当てて包帯を巻く。
「わかっていると思うが、傷は深くないとはいえ、塞がるまで無茶はするなよ。スッパリ切れていたんだから」
「なんだか大ごとですね」
 笠野が、包帯を巻いた手を眺めて目を細める。つい和彦は表情を和らげていた。
「本宅の台所を仕切っている重要人物だからな。包帯も分厚めに巻いておいた」
 声を上げて笑った笠野が、キッチンへと視線を向ける。広いキッチンには男三人が立っており、それぞれ夕食の準備をしていた。
「先生、晩メシを食っていってください。下ごしらえはわたしが済ませてあったので、あとは若い者がやってくれています。こういうことがあると、日ごろから、他の者に仕事を手伝わせておいてよかったと思いますよ。何もかも、自分一人でこなすなんて無理ですから」
 テーブルの上を片付ける和彦の耳に、笠野の言葉が教訓めいて聞こえる。
「ああ、ありがとう」
「でしたら、組長の部屋に運びましょうか。まだ準備ができるまで時間がかかりますから、その間に風呂に入ってもらって――」
「いやっ、ここで食べるからっ」
「――なんだ。俺の面を見ながら、メシは食いたくないか、先生?」
 揶揄するような響きを帯びたバリトンが、前触れもなくダイニングに響く。キッチンで慌しく立ち働いていた組員たちが一斉に手を止めて挨拶をし、笠野も立ち上がって頭を下げる。
 和彦は動揺を押し隠しつつ、ニヤニヤと笑っている賢吾を睨みつけた。
「組長が立ち聞きか」
「仕事をしている先生の姿を拝みたくてな。そのついでに、会話も聞こえた」
 賢吾が軽くあごをしゃくり、和彦は仕方なく立ち上がる。ダイニングを出て、途中洗面所に立ち寄って手を洗うと、賢吾のあとをついて歩きながら、声音を抑えて詰った。
「笠野さんに、ぼくに来てほしいと連絡させたのは、あんただろ」
「連絡しろと命令はしていない。ただ、先生に手当てしてもらったらどうだと、提案はしてみた」
「……そんなこと言われたら、誰もあんたに逆らえないんじゃないか」
「まあ、そうかもな」
 悪びれもせず答えた賢吾の背を見つめていた和彦だが、ふっと笑みをこぼしていた。こうして会話を交わしていて、一体自分は何を身構えていたのだろうかと思えてきたのだ。
 肩越しに振り返った賢吾も、和彦の顔を見て唇の端に笑みを刻む。慌てて表情を取り繕おうとしたが、遅かった。
「機嫌は直ったようだな」
「別に……、最初から悪かったわけじゃない」
「そうか?」
 和彦は逡巡したあと、思いきって切り出した。
「――……食事のあと、相談したいことがある」
「鷹津のことか」
 ああ、と答えたが、賢吾から返事はなかった。
 怒らせてしまっただろうかと、和彦は内心怯えながら、賢吾の部屋に入る。
 障子を閉めて二人きりになった途端、賢吾がこちらに片手を伸ばしてくる。咄嗟に逃れようとしたが、有無を言わせない手つきで腕を掴まれると、もう抵抗ができない。引き寄せられ、賢吾の腕の中に閉じ込められた。
「久しぶりの先生の感触だ……」
 柔らかな声で耳元に囁かれ、和彦の体はカッと熱くなる。
「大げさだ。そう何日も経っていないだろ」
「俺はできることなら、毎日でも先生に触れていたいが」
「なっ……」
 言い返そうとしたが、それがどれだけ無駄であるか、これまでの経験で痛感している。和彦はおとなしく賢吾に身を任せた。
 不思議なもので、賢吾に対する苛立ちや恐れが、賢吾の腕の中にいることで、スウッと消えていくようだった。
 理屈を抜きにして、怖い大蛇の側は心地がいい。
「今夜は泊まっていけ、――和彦」
「……嫌とは言わせない気だろ」
「言う気なのか?」
 賢吾らしい切り返しに、もう笑うしかない。和彦が肩を震わせると、賢吾が顔を覗き込んでくる。そのまま唇を塞がれそうになったが、寸前で電話が鳴った。
 体を離した賢吾が子機を取り上げて話し始めた光景を、和彦はぼんやりと眺める。
 何か起こったのだと悟ったのは、賢吾が二言、三言話したあとだった。珍しく、賢吾の横顔に緊張らしきものが走り、次に動揺が、そしてあっという間に険しい表情へと変わる。
 一心に話を聞いている様子だったが、ふいに賢吾がこちらを見た。
「ああ……、先生ならちょうど、ここにいる。一緒に向かおう」
 そう告げて賢吾が電話を切る。このときすでに不穏なものを感じ取っていた和彦の心臓の鼓動は、痛いほど速くなっていた。
 和彦から問いかける前に、賢吾が口を開いた。
「――オヤジが、倒れたそうだ」









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